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エイド #4 原作 お茶会実行委員会 文 コーヒーの人 絵 クッキーの人 この物語はフィクションであり、実在の人物や団体には一切関係ありません。 もう何度目になるかは覚えていない。あと何度繰り返すかもわからない。 松原はずっと、手元にあるデータを見返していた。救急車を停めていた場所が現場から少し遠かったため、波形が示すシグナルは弱めである。それでも目を凝らして、不審な記録を探す。同時に録画していた映像の一コマ一コマを解析して、謎のクライムについての情報を集めていた。 クライム化していた少年の検査はまだ終わっていないと聞く。 坊ちゃんが目覚めたという報告もない。 あれから一日が経っていた。松原はずっと情報処理室に籠もり、何かデータからわかることはないかと調べ続けていた。 半ば執念に突き動かされていた。なんとしてでもあのクライムの謎を解明したい。自分は誰よりもクライムのデータに接してきたのだ。僅かでも掴めることがあれば、仮説の足しになる。どんな些細なことでもいい。何かないのか――微弱なシグナルの無表情が冷たい。 手を止めると集中が切れる気がして、半ばムキになっていた。努力は空回ってなどいない。意味のないことにこだわってなどいない。強引に没頭した。視野は狭くてよかった。 固定撮影にもかかわらず、今回の戦闘映像は非常によく撮れていた。単体の再生回数に、種々の解析結果を重ねて観た数を合わせると、三桁はゆうに超えているだろう。何度も何種類も繰り返し観続けて、漠然とした何かを探す。気の遠くなる作業だったが、新しい発見があることを信じてひたすら目に焼きつけた。 あまりいい気分ではない。思うようなデータが得られない焦り、苛立ち。何度観ても変わらない結末。受け入れがたい事実が、嫌でも記憶に刻まれる。 救世主が為す術なく嬲られる様を、百数回も直視するのはつらい。 ループする事実。何度も負ける白き英雄。探求心で暗い感情を覆うにも限界があった。観れば観るほど生ずる感情の比重は重たい。胸に沈殿するそれらに、気づかないふりをする方が根気が要った。 エイドの敗北。それはクライムに対抗する手段の限界を意味する。その勝者の身柄を確保しているとはいえ、脅威の出現という危機に自分たちは瀕している。エイドが能力を強化することの調査も必要であるが、謎のクライムの圧倒的な力を明らかにする方が先のように思われた。 八種類目のクライム。八種類目の大罪の力。能力は分身。色は銀。変身していたのは少年。わかっているのはこれだけだ。能力名はわからない。そもそも該当する大罪がない。 何より、エイドも『怠惰』のクライムも両方攻撃した意図がわからない。戦闘を終える――目的を果たすなり力尽き倒れたことから推察するに、少年はまだ力を十分に扱い切れていないようだ。こんな強力な力を利用しようと考えるならば、もっと安定させてから戦場に送り込むだろう。このことから、第三勢力の可能性は否定できた。しかしながら、単独犯という筋は、否定も肯定もできかねた。 彼の身元は既に特定されていて、保護者や学校へは専門のスタッフが連絡済みである。おそらく、詳しい経歴や人となりについても、別の専門家たちが特定済みだろう。 クライム化した人物の個人情報は、データーベース化するために徹底的に調べられる。その権限も国は棗病院に与えていた。いや、棗病院には、国からその手の専門家が派遣されているのだ。 クライム化に至るまでの経緯を把握するために、細かな生い立ちが家庭環境から詳らかにされ、学歴や職歴に併せてそのときどきの生活環境や対外評価もが明らかにされる。すべては大罪の力に導かれてしまうほどの執着心の所在を明らかにするためだ。なお、情報の管理はもちろん徹底されている。 クライムの存在を秘匿するのにも、被害者の身内への対応はプロが行っている。今回は、駅前で発生した通り魔事件に巻き込まれたという説明がなされることになっていた。また、マスコミへの情報もそのように提供されている。 クライムの姿は、一般的なカメラでは撮影や録画をすることができない。そのためインターネット上で話題が拡散されたり、テレビ局に報道されることはない。けれど辻褄を合わせるために、架空の犯罪者をでっち上げて、クライム化した当人も巻き込まれた人物も、被害者と一括りにするのだ。 現在、クライム化してしまうことを咎めるべきではないという意見が多数派を占めている。また、クライムを裁くためには、その存在を公にせねばならない。それはなるべく回避したい。こういった事情のもと、危害を加えた側も受けた側も等しく守られるような態勢ができているのだ。 あの少年、水野昴のデータもすぐに揃うだろう。とはいえ、彼は本当に特殊だ。目覚めたあと事情聴取は必須である。彼が大罪の力に呑まれたきっかけは、正確に把握されなければならない。 そこで、いま持ちうるデータが示す客観的事実は何か。 苦々しい。何も出てこない。 「松原ちゃん、あなたの終業時間よ」 思考の淵から掬い上げられる。 耳障りのよい低音が背後から届く。こちらに近づく足音。松原は思考以外の身体感覚を取り戻す。 「桂先生……」 「うわぁ、杏ちゃんと同じ顔ね」 「桐生さんと、同じ顔?」 会話をしながら、薬剤部長は室内にある装置の電源を次々に落としていく。解析はとっくに終わっており、モニターと再生機器以外はただ電力を食い潰していた。 目がちかちかする。真っ黒になった画面に映った自分の顔を見ながら、松原は何度もまばたきした。眼球が潤される度に、疲労が身体に隈なく蓄積されていることを感じた。 確かにひどい顔をしている。 問いに、桂は肩を竦めながら答えた。 「杏ちゃん、坊ちゃんの意識がないことにすごく動揺してるのよ。あんまり顔色もよくなくて、元気がないの」 「そうですか……」 「彼女はともかく、あなたは休みなさい。一回家に帰って、ご飯を食べてぐっすり寝てくるのよ。そんな様子じゃ見つかるものも見つかりゃしないでしょ?」 「でも」 「あなただって生身の人間。それにね、家族を犠牲にしていい仕事なんてこの世にはないわ」 松原は解析をするために、急遽夜勤を決行し、事件から長針が二周したいまもなお職場に居続けている。緊急事態とはいえ、連続勤務時間が長すぎる。何度か桂はここに軽食を運び、松原はそれを口にしたけれど、すべて作業の片手間だった。まとまった休憩はもちろんのこと、睡眠など一瞬たりとも摂っていない。 現に、謎のクライム以外のことを考え始めると、途端に頭が回らなくなっている。いやでも疲労を自覚する。桂の言葉に反論の余地はなかった。 急な夜勤のことは家族に連絡してある。けれどただの夜勤なら、もうこの時間には家に帰っているはずなのだ。家族は松原が看護師以外の仕事をしていることを知らない。いい加減帰宅しないと、そろそろ怪しまれてしまうだろう。 今日は祝日、連休のまっただ中である。 職場で寝ていた、という言い訳は通用しない。既婚者で子供がいるとなれば、休日の夜勤のあとは直ちに帰宅するよう命じられるものだ。職場で休憩をして昼勤務にも従事するなど、独身であっても滅多にないスケジュールである。 いますぐ帰るべきなのは明白だ。 しかし自分は、まだ成果を出していない。 後ろめたさがある。何も成せぬまま時間を食い潰した負い目。浪費された時間もエネルギーも、疲労にしか代謝されなかった。データが悪い? 報われる手段を探す間にも、家族に吐かねばならなぬ嘘が積もり積もる。押し潰されそうになる。気が滅入る。少しも自分らしくない。 「それは、先生の経験談ですか」 どこからか湧いてきた自分もどきが、回らない頭を晒す。つるりと口が滑って、脈絡のない質問をした。 悪趣味だ。気づいた瞬間軽蔑する。言葉が洩れ出た部位を手で覆った。 振り向くと、桂は目を瞠いていた。いっそ彼にも、いまの自分が別人に映っていたらと願わずにはいられない。 「まさか! ただの一般論じゃない。なんで勘繰るの」 その通りである。先程の問いのひどさに、頭が痛くなる。なんて無礼なことを言ってしまったのだろう。溜め息を吐く代わりに、自分もどきを押しのける。 松原は最大限に感情を込めて、謝罪を口にした。 「……失礼しました」 「自分がどれだけ疲れてるかわかった?」 桂は終始、こちらを心配する態度を貫く。切り返しが痛み入る。胸がちくちくするのを感じながら、松原はこくりと頷いた。叱られているような気分だった。 これは早く寝た方がいい。一瞬で心残りに諦めをつける。桂の言うことは、全面的に正しい。 余裕が欲しい。だから彼の言うことに従おう。 「じゃ、すぐにここから出なさいな。これ以上やり続けるのは効率が悪いわ。しっかり休んでおいで」 「……休み次第、戻ってきていいですか」 「それは家族と相談して。棗もあなたががんばりすぎてることを気にしてるのよ。何かあったら連絡するから、休める間は休んでて」 棗という語が、神経を発火させる。耳の奥に蘇る、掠れた声。生で、そして録音で何度も聞いた、彼が坊ちゃんの意識を手繰り寄せようとする叫びを、思い出す。 彼は目の前であの忌まわしき結末を見せつけられたのだ。ショックは松原の比ではないだろう。いまはどうしているのか。半日の間、何も情報を得ていない。 これを知らねば帰れない。濁りかけの目に抗いながら、松原は問うた。 「院長先生は?」 「休み休みがんばってるわ。常に最新の情報を把握しとかないといけない立場だからね。いまは、国に報告することをまとめてたと思う」 「そうですか……」 いまのやりとりで、少しだけ自分らしさを取り戻せた気がした。先程よりはましになっただろう。家族に会う顔を、なんとかつくる。 「院長先生によろしくお伝えください。桂先生も、無理をなさらぬように」 「ありがと。それじゃあお疲れさま」 「お疲れさまでした」 松原が部屋を出ていく。桂はその後ろ姿を見送ると、独り情報処理室に残った。 「……さて、あとは肝心のどら息子が起きてくれるだけなんだけど」 欠伸を一つ。吐ききった最後の一息は、溜め息として散っていく。 ***** 「七つの大罪は時代と共に移り変わってきた」 よく響く低音。戸惑う百合と茅萱に問いかける王の声は、威厳に満ちていた。 「ヒトを動かす感情が、たった七つのわけがない。その七つは最も普遍的であると長い間考えられてきたものだ。クライムを生み出すことからも、納得いくだろう?」 何が言いたいのか。二人は黙って語らいに耳を傾ける。相槌は打たない。彼は話しきるまで反応が薄いことを好む。だから、未だ動揺を抜け出せず静寂を強いられることは、寧ろ好都合だった。 底知れぬ好奇心の疼きを秘めながら、王は続ける。 「しかしヒトは底知れぬ生き物だ。失われし、或いは、新たな、第八の罪にも、容易にとらわれうる」 ヒトの数だけ執着心がある。それをたった七つに分類するのは、少々無理がある。そうとでも言いたげな口ぶりだった。言葉は簡潔になるほど多くを含む。いや、無駄なく多くを伝えられるのが、王というものなのだろう。 歪められた口角は上を向いている。彼はこの緊急事態を心から楽しんでいる。茅萱はそのように思った。 百合はまだ、言葉の表面を拾うのに精一杯だった。 「あの子供は明らかに第八の力を操っていた。お前たちもそう思っただろう?」 問いかけられて、二人は漸く身体を動かす。おずおずと頷くと、シンはさらに嬉しそうに目を細めた。そのときの二人の表情は、強張り迷っていた。まるで咎められているかのような挙動だった。 もったいぶる。じれったさに、茅萱はむず痒さを覚えた。 「シンさまには、あの力が『何』かわかるんですか」 堪えきれず問う。茅萱の発言に、百合の目玉が動いた。彼女は視線を相方に這わす。そして再び王を見た。 ひときわ深く刻まれた笑みが、百合を迎えた。 「あくまで推測だが」 不意にシンは百合を見つめた。予期せぬ交わりに、百合は思わず竦む。 眼光に湛えられた知への『強欲』が、ぎらぎらと輝いていた。 「あの子供を苛みし罪は『狂信』だと私は考えている」 「狂、信……?」 百合の薄い唇から、復唱が洩れ出た。シンは深く頷く。 「そうだ。あれは善と強く信じるものを持っている。それを否定されることに抗い、己の思い込みが現実であると頑なに信じ込む。裏を返せば、意にそぐわぬ現実を否定せねば我を保てぬ。妄想に執着する、ヒトの哀れさよ」 声音が熱を持つ。 「そりゃ面白い」 ふいに茅萱が口を開いた。彼はすべてを理解したかのように、或いは、シンの興奮が感染したかのように言葉を継ぐ。 「狂信者は多く集まれば集まるほど強くなる。だから能力は、分裂」 「その通りだ茅萱。私の仮説は、正しいだろう?」 「はい」 茅萱が同調したことで、シンはいっそう笑みを深める。彼の目が、頬が、口許が、嘗てない興奮にぎらぎらと燃えていた。あくまで茅萱が飄々としているぶん、シンの熱は大きく感ぜられた。 「面白いことになってきたな……」 その呟きを最後に、感情は堰を切った。 「『憤怒』を通り越した『狂信』! クライムの可能性は無限大だ! 面白い、面白いぞ!」 口から迸る哄笑に、百合は身を震わせた。 シンがこんなにも素直に感情を表現するのは初めてだった。その豪快さに気圧された。そして恐怖した。彼が少年に見出した可能性は、あまりにも重すぎる。これまで、百合たちはエイドを超えうるクライムの存在を期待して、幾人もの執着心に火を点けてきた。それを見事に叶えてくれたのは、どこからともなくやって来た、見知らぬ力を持ったクライム。少しも予測できなかった展開を、すぐに受け入れられるわけがない。七つ以上の大罪の存在さえ知らなかった百合は、ただただ理解を追いつかせるのに必死だった。 黙っているが、瞳に深い色を湛えて笑っている茅萱の顔もこわい。愉しそうな男二人に、完全な置いてけぼりをくらう。 「……シンさま、エイドが負けちゃったのに……」 エイドに肩入れをするつもりはないが、不安だった。エイドを超えうるクライムが出現したら、どうなるのか。いままで考えなかったわけではない。ただ、真剣に向き合えていなかったのだ。どんなクライムもエイドがなんとかしてくれると、心のどこかで思っていた。だからこそ、いまこれほど動揺している。 この先もシンは誰かの執着心に働きかけ、クライムをつくるのだろうか。エイドが機能しなければ、クライムは野放しだ。あの銀のクライムがエイドに替わって人々を守るとは思えない。 シンは社会を混乱させたいのだろうか。まさかそんな小さな野望を胸に、王を自称してはいるまい。シンが備える威厳は、もっと高尚で高貴なものだ。彼が大罪の力に寄せる期待は、純粋な興味だと百合は思っている。それゆえ、彼の望みが読めなかった。 様々な思いが交錯する。それをシンはぼやきから汲んだ。彼は百合を宥めるように言葉を返す。依然として表情は溢れる感情に支配されていた。 「百合よ、エイドは死んだわけではなかろう。たった一度の敗北で折れるはずがない。あれは何度でも立ち上がり戦い続ける。……そして『狂信』に打ち勝つだろう」 希望ばかりを含む発言にはっとする。 新しい力を賛美することは、エイドを見限るということではない。それどころか、彼はエイドを高く高く評価している。こんなにも感情を動かした『狂信』よりも、エイドが上だと言う。百合は驚いた。また飲み込めない事案が増える。 エイドが如何に特別かは百合もよくよく知っている。それでも、あの圧倒的な『狂信』の力を前にエイドがどう動くか想像できない。なぜならエイドはまだ『怠惰』と『傲慢』の二つしか自在に操れないのだ。残り五つの力に目覚めれば『狂信』に対抗しうるのか。シンの言葉はどこまでも簡潔で、逆にわかることが少ない。 月並みな反応しかできないのが口惜しい。茅萱はどこまでシンの意図を理解しているのだろう。クールな振る舞いの裏で、おろおろしてばかりの百合を面白がっていたらいやだ。 エイドが敗北したことへの動揺は静まりつつある。その代わり、シンが感情を剥き出しにしたことと、彼が予想する未来の幅に、落ち着けない。 「エイドが……?」 「ああ。エイドは特別なクライムだからな。エイド自身が『狂信』の力を手に入れることだって十分に考えられる」 「彼が何かを狂信するなんて、考えにくいですけど」 「それとこれとは別だ。あいつは特別なんだ。七つの力すべてを、高精度で操れる逸材。何色にも染まることのできる白、何色にも染まらない白! あれほど人間らしさに満ちたクライムは他にいない」 シンは深くエイドに陶酔している。彼はエイドの可能性を評価するあまり、力を試す刺客を送り込んでいるのだから。彼にとっては増殖する銀色さえ、取るに足りない存在らしい。 百合もエイドが抱える未知数を信じている。けれど真に同調する根拠はいま揺らいでいる。この場を切り抜けるには、曖昧なことを言うしかなかった。 「シンさまって、本当にエイドが好きなんですね」 図らずしも、百合の口調には呆れが混じった。しかしシンにとって、それは賞賛と同義だった。 「ああ。なぜならあれは私の――」 いままでで一番嬉しそうな顔をする。百合はそこで限界を感じた。一つ一つ時間をかけて理解しないと、自分には追いつけない。諦めるようにシンから視線を逸らす。 茅萱は相変わらず微笑んでいた。 ぼんやりしていた。 寝室には下がらず、ソファに座ってうとうとする。手近なクッションを膝に乗せて抱き、気の赴くまま意識を混濁させた。 あのあとシンは早急に部屋を出ていったし、茅萱もどこかへ行ってしまった。一人取り残された百合は、誰にも気兼ねすることなく自分の世界に浸っていた。 二度ほど夢と現を行き来しただろうか。波打っていた感情はすっかり沈静化し、事実は概ね受け入れられてきた。男二人が立てた仮説にも納得がいったし、気がかりなのはエイドの現在のコンディションくらいである。 棗病院の様子は、見ようと思えば見ることができた。百合は大罪の能力者であり、力を持つ者の様子を遠隔地から観察することができる。茅萱とシンの行方だって、掴もうと思えば掴める。エイドの関係者たちも然り。あの少年も然り。けれど、誰の現在地にも関心がなかった。まだ眠い。うっかり足を滑らせれば、また夢の淵に抱かれるだろう。 クッションは抱き心地がよくない。抱いて寝るにはぬいぐるみが一番だ。薄目を開けて、何かいないか探す。いない。やはり寝室に行ってしまおうかと思いながら、部屋を見渡した。 そこである変化に気づく。 テーブルの上に何もない。 いつの間にカップは片づけられたのだろう。 普段どおりにクライムの動きを観察しながら、茅萱の用意してくれた紅茶を飲んでいた。飲み終わったカップは放置していた。クライム化が解けたあとに片づけるつもりだったのだ。しかし想定外の結末を迎え、シンがこの部屋にやってくる事態になった。解散後、自分は物思いに耽りながら眠ってしまい、現在に至る。 一度茅萱が戻ってきて回収したのだろう。 うたた寝中の光景を思い描いて絶句する。いやでも目が覚めた。ここで寝るなんて、とんでもない失態である。 茅萱に寝顔を見られてしまった。確信した。もう一眠りするなら、絶対にここを離れた方がいい。彼に隙を見せたら、何をされるかわからない。 思わず腕に力が入る。ぎゅうとクッションにしがみついた。ふいに過去の記憶が蘇る。十年以上の歳月を経ても、百合の足に枷として絡みつく出来事。未だに克服できぬ過去。 そのせいで犯した過ちが導く現在。 苦しい。 誰も好きになりたくないし、誰にも好かれたくない。 愛なんてなくても生きていける。 「百合、あ、まだいたんだ」 物音に靄が晴れる。突然世界が輪郭を取り戻し、百合は思わず肩を張った。 音がした方を向くと、閉まっていたドアが開き、茅萱が半身を覗かせていた。視線がかち合うなり、彼は入室を完了させる。天敵に睨まれた獲物のように、百合は硬直した。 いやでも目が覚める。 茅萱が微笑む。逃げられない。情けないくらい動けなかった。 「起きた?」 「……うん」 「何か飲む?」 「……うん」 「紅茶でいい?」 「うん」 「今年のダージリンはどうだった?」 「……美味しかった」 矢継ぎ早な質問と回答で、茅萱の次の行動が決まる。彼は人のよさそうな笑顔で、入って来たばかりだというのに来た道を引き返す。なんだか申し訳ない。 「そう、それはよかった」 百合でなければ惚れていただろう。邪気のない笑顔と美味しい紅茶は、いとも簡単に女心を攫っていく。 上質な紅茶を愛でる風雅な男。『色欲』の能力者でさえなければ、人畜無害だ。紅茶の話をする彼を見ているとそう思う。 あの出来事に見舞われなかった自分が、何かの間違いで彼に出会っていたら、惚れていただろうか。 彼が能力者でなければ、別のつき合い方ができただろうか。 考えても仕方がないのに、たらればが話しかけてくる。一つ一つ丁寧に潰して回っていると、茅萱が戻ってきた。 しっかりぬくもったカップと、確かな質量を携えたポトが乗る盆。ミルクサーバーはない。ダージリンはストレートで飲むものだからだ。去年の今頃、彼がミルクを持ってこないことに文句を言った気がする。彼と知り合ってから、少しだけ紅茶に詳しくなった。 「どうぞ」 「……ありがと」 高い位置からカップに液体が注がれる。つややかな飴色はとても澄んでいた。仄かに甘い香りが辺りに漂う。手渡されたカップを受け取る。両手で持つとじんわり熱い。 控えめな味わいはしかし、深い後味を残した。 一口飲んで、前回とまったく同じ味だと気づいた。 彼は几帳面な男だ。分量も抽出時間も、常に正確である。それらは味を茶葉から一番美味しく引き出す。同じ茶葉を使っても、百合がこの味を再現するのは無理だろう。 茅萱は自分のカップにも紅茶を注ぐと、断りもなく百合の隣に腰掛けた。クライムを観察するときの定位置である。シンがここで二人と何かをすることは殆どない。 無言で茶をすする。なんとなく気まずくて、百合は口を開いた。 「何か進展はあった?」 問いに、茅萱の喉仏がこくんと動く。口に含んでいたぶんを飲み干すと、彼はカップを口から遠ざけた。 「エイドは意識が戻ったみたいだけど、『狂信』の彼はまだ寝てるってさ」 「……そっか」 「ほっとした?」 茅萱は意地悪だ。百合がエイドを気にかける度に追究してくる。エイドの戦闘記録以外は、茅萱と話をしたくない。ことあるごとに掘り下げらると、余計な感情が混じってしまう。 努めて冷淡に返した。 「別に」 「そうなんだ」 「私はシンさまを信じるから」 「本人を信じてあげないんだ?」 笑いを噛み殺したような声音に弾かれる。彼と話していたらいつもこうだ。百合は段々と苛立ちを募らせる。そして余計な会話を誘発するのだ。 どうせ彼の真意など彼のみぞ知るのに、訊いてしまう。ここでばっさりと話を切り上げて、別の話題を持ち出せばいいのに、引き出しが少ないというか学習しないというか。苛立ちは茅萱にも自分にも向けられていた。 「……あんた、私にどうしてほしいの?」 「どうって何?」 「私に、……あの人のことを想っててほしいの? それとも、自分のこと見て欲しいの?」 「両方」 「えっ?」 知ることができても理解することはできない。わかっている。茅萱はそういう男だ。彼の感覚には共感さえできない。それは経験値量のせいではないのだと、思いたい。 恋の数は多くても少なくても批判される。けれど、適量は誰にもわからない。 彼はこの先、何人の女性に同じ言葉をかけるのだろう。 「障害が多い方が恋は燃えるからね」 「……訊くんじゃなかった」 「もっと訊いてよ、僕のこと。それで、百合のことも訊かせて」 「やだ。私は生涯独身貫くもん。ねこちゃんをもふもふしながらおばあちゃんになるの」 「そんなの寂しくない? ねえ、僕の子供産んでよ」 「そんなこと言っちゃって、何人隠し子いるの?」 「いないよ! 断じていない! 僕そこまでクズじゃないよ!?」 「うっそだー」 うまく切り返せたかも。狼狽する茅萱を横目に見て、百合は少し気分がよくなった。暫くはこのネタが使える。残る紅茶をすべて飲み干す。後味がとてもいい。 このまま話題を変えてしまおう。百合はカップを盆に戻すと、クッションを抱き直した。 「そういえば、シンさまはあれからどうしてるの? また引きこもってる?」 居心地の悪さを紅茶で流す。茅萱はしっかりと舌とのどの奥で紅茶を味わって、気分を潤した。 話題が一転したら、直前の気分は引き摺らない。紳士たる者、女性の問いかけには常に誠実であるべきである。これは特に自分しか答えられない質問だ。気を取り直して、意中の女と会話を続ける。 冗談や軽口を言い合える程度に、百合とは仲よくなったつもりだ。 「百合が寝てる間、僕はずっとシンさまと話してた」 「うん」 「話の半分は『狂信』の彼の分析と今後の展望で、もう半分はエイドのベタ褒めだったよ。なんかもう相槌打つしかできなかった」 「どんだけマシンガントークだったの、シンさま」 「シンさまの分析ってさ、もう確定形なんだよ。まあ当たるんだけど、なんていうか、全部わかってるのに知らないふりをしてるように聞こえて、口を挟んじゃ駄目な気がした」 正直な感想だった。こんなこと、百合にしか言えない。百合しかわかってくれる人はいない。交友関係は広いけれど、百合は特別である。唯一対等なエデンの住人ということもあり、彼女へ向ける想いは強い。 たとえそうでなくても、彼女は茅萱の運命の人だが。 シンは王だ。楽園の理ですらある。茅萱は楽園の案内人、百合は住人候補を見る目。たった三人の世界でも、二人と一人の間にある距離は大きい。百合と茅萱は玉座の傍に控えるだけの存在だ。 「確かに、シンさまって未来から来た人みたいに思えること、あるよね」 「それか、全部シンさまが思うように物事が進んでるのかも」 「なら、私たちの結末もシンさまが用意してるのかな。そんなのやだ」 自分の運命は自分で決める。自分で選びたい。茅萱もエイドの彼も、将来傍にはいなくていい。百合は独りのまま楽園で朽ちていきたい。漠然とした展望がある。けれどそれは自然とそうなるのがいいのであって、どちらかが、或いは両方がいなくなり、独り残されたいのではない。 二人とも相応しい誰かと幸せになればいい。そして百合は独りで幸せになる。王といえども、シンには百合の幸せまで決定する権限はない。 なぜなら百合は楽園の姫ではなく、目なのだから。 「シンさま的には、僕と百合がくっつくのってどうなんだろうね」 「あの人、私たちに関心あるのかな?」 「少なくとも百合のことはいたく気に入ってると思うけど」 「そうかなあ……」 もしシンが百合に関心があるならば、未来は自力で選ばせてくれるだろうか。立場の違いは重々理解しているけれど、そう思わずにはいられない。 茅萱もカップを戻した。ポットの中はきっかり二人分しか用意されていなかったようだ。もう少し残っているなら、彼は二杯目を注いでいただろう。それをしないことで、ポットが空であることを示す。 直接彼の顔を見ないように、百合は視線を身体の向きに合わせる。目の前には大きな鏡が掛けられていた。鏡に映る茅萱を見て話す。茅萱は百合本人と鏡を交互に眺めていた。 「そうだ、シンさまはこれから実験をするって。もう一度彼がクライム化しないか確かめるらしい」 「どうやって?」 「あの子は『怠惰』のクライムが出現してから自分もクライム化したんだって。だから、別のクライムを出して、彼がどんな反応をするか確かめるんだってさ」 「エイドより先に変身したの?」 「らしいよ。シンさまは『怠惰』の子と同時並行で『狂信』の彼も観察してたみたい」 シンはいつも、最上階の自室にいる。様々な人間を観察して、クライム化しそうに燻る執着心を複数追いかけているのだ。あたかも神のように、彼は世界を見つめている。 百合はエデンの目であるけれど、完全にクライム化した者しか追跡できない。王であるシンには大きく劣る。それでも、複数のクライムを同時に観察するのが不可能とは言い切れない。まだ前例がないだけで――二体以上のクライムを生み出したことがないだけで、やろうと思えばできるのかも知れない。 「二画面表示、私にもできるかな……って、やっぱりシンさまはあの子の変身を予測してたんじゃない!」 しかし、それとこれとは話が別である。 銀色のクライムの出現を受けて、駅で一同が会するまでをそれぞれ追っていたのならばわかる。けれど、クライム化の瞬間まで見届けているのであれば、それはもう、立派な後出しだ。 彼は少しも驚かなかったのだろう。エイドが敗北する未来さえ知っていたに違いない。絶句する百合と茅萱にかけた言葉も、最初から用意した台詞だったのだ。だからあんなに落ち着いていたのだ。 思わず語調が強くなる百合に、茅萱は努めて穏やかに返す。 「僕たちはわからなかったけど、シンさまにはあの子が微弱に発するオーラに気づいてたんだって」 「ずっとあの子にも目をつけてたってこと?」 「いや、『怠惰』の子と話してたときに気づいたみたい。いままでは特に何もなかったって」 「何それ。もう全部予定調和みたい」 「まあまあ。で、お願いなんだけど、百合は『狂信』の彼を見てて。僕はこれからクライム化する人を見るから」 百合の勢いを削ぐように、彼はわからないことを言った。なめらかに飲み込めない。思わず聞き返すと、彼は思わせぶりに笑った。 楽しそうだ。まるで、シンみたいに。 二人はクライムに対する関心の持ち方がよく似ている。だから百合はしょっちゅう着いていけなくなる。実のところ、百合はあまりクライムに関心がないのだ。 安全に暮らすことができるから、ここにいるだけなのである。 「え?」 「たまには生で観戦したいなあって思って。僕、ちょっと出かけてくるよ」 「ちょ、ちょっと待って!」 独りは寂しくない。置いてけぼりにされても、自分は自分。周りに合わせる虚無感の方が嫌いだ。 いつだって百合は、自分の意志で動いてきた。 もうあちらでは暮らせない。暮らすのはこわい。けれどそれは、あちらにいられなくなったということではない。 「私も行く」 今度は百合の番だ。茅萱の余裕を崩す。それがしたくてした発言ではないが、これでおあいこだ。 「……え?」 「シンさまはどうせ、自分の見たいことは全部見ちゃうんでしょ。私、実験でつくられるクライムなんか興味ない。それより、この目で確かめたいの」 いつになく冷静な、しかし強い口調に、茅萱も真剣に聞き返す。 「何を?」 「エイドがあのクライムに打ち勝つところを」 どうせシンが言うとおりになるのだ。遅かれ早かれエイドはあの浪人生を執着心から解き放つ。けれど、そのときまでここでじっとしているなんて、つまらない。 それが今回の戦いでなくても、再び対峙するであろう二人の様子を見てみたかった。 百合自身、このような想いに駆られるのは意外だった。今日はなんとなく、運命にすべてを委ねるのがいやになっただけなのかもしれない。理由はこの際なんだっていい。行くことに意味がある。 帰り道に、ちょっと贅沢なおやつを買って帰ることは忘れずに。 「嫉妬しちゃうなあ、百合にこんなに想ってもらえるなんて」 茅萱は肩を竦めた。大袈裟な仕草はいつもの彼のそれだ。 「一緒に行こう。僕がいないと君はここから出られないんだから」 「……仕方ないわね」 「デートするの、久しぶりじゃない?」 「デートじゃない」 百合は自力でここを出ることはできない。彼女は目でしかなく、ここと向こうの行き来は、シンか渡し人である茅萱の助けを借りる必要がある。 クライム化する人物の情報以外は殆ど遮断されている。百合が出かけることは、余程気が向かない限りはない。いや、気が向いても、茅萱に声をかけ同行してもらう煩わしさが、たいていの興味に勝っていた。 ちなみに、シンはここに来てから一度も外に出たことはないらしい。 百合は立ち上がり、クッションを座面に戻した。 「支度するから、ちょっと待ってて」 「傘を忘れないでね」 「今日は雨なの?」 「いや、僕雨男だから。本命とのデートの日は、絶対雨が降るんだ」 自室のドアノブに手を掛けると同時に、そんな答が返ってきた。 何も返さずに、ドアの向こうへ身を移す。後ろ手に閉めるなり、百合はぽつりと呟いた。 「晴れてたら面白いのに」 聞かれていたら、またつまらない応酬に時間を割いてしまう。最小限の荷物を鞄に詰めて、忘れずに折りたたみ傘も持って、服と化粧をよそ行きのそれに替える。 間違っても相合い傘なんてしないんだから。 何度も傘が鞄に入っているのを確かめてから、百合は部屋を出た。 ***** 忍び込む。杏はこっそりと坊ちゃんの病室を訪れていた。息と足音を殺して、闇に溶け込むように近づく。寝息さえ聞こえない、静まりかえった部屋に、自分はひどく場違いな存在だった。 点滴だけが動くのを許されている。機器が示す数値は安定していた。どんなに攻撃を受けても、硬い装甲のお陰で目立った外傷はない。坊ちゃんはただ深い眠りの中に閉じこもっている。 昨日は慌ただしかった。傷ついた坊ちゃんが帰ってきて動揺するも、杏は退勤時間になり、何にも携われぬまま家に帰らされた。何かあったら連絡すると言われたけれど、結局何も来なかった。いまかいまかと待っているうちに夜が明け、出勤時刻が迫った。その間、ミネラルウォーターを何口か飲んだ程度で、食べ物は口にしていない。身体が何も受けつけなかったのだ。 動きを止めた内臓を抱えて職場に戻れど、まだ坊ちゃんは目覚めていない。そして坊ちゃんの担当看護師は、ベテランの先輩に割り振られていた。杏は昨日と同じように、他の患者を看ねばならない。担当の病室はどれも、坊ちゃんが眠っている部屋から遠く、何かの意図を勘繰りさえした。 昼休みになっても食欲が回復しない。何をするにも手持ち無沙汰になり、思い切って杏は坊ちゃんに会いに行った。 杏に与えられた休み時間いっぱい、坊ちゃんのもとに誰かが訪れることはないらしい。唯一の幸運だった。いや、十分すぎる幸運である。 寝顔を覗きこむ。顔色までは判別できない。電気を落とした病室では、窓から漏れ込む外の光だけが頼りだった。 彼はいま、どんな夢を見ているのだろう。 肉体の内に籠もる精神は何を見ているのか。心の目は何を映しているのか。宛てのない夢想に耽ってしまうくらい、静かだった。 時間を忘れる前に出て行こう。一目、無事が確認できただけでいい。これ以上を望むと、誰かに見つかってしまう。 杏が一歩ベッドから離れたときだった。 ゆっくりと、坊ちゃんの目蓋が持ち上がった。 「杏……?」 薄目は確かに、杏の姿をとらえた。 掠れた声が名前を紡ぐ。杏は動揺して、思わず肩を跳ね上げた。 「ぼ、坊ちゃん!? 気が、ついたの!?」 声が上擦る。何も疚しいことはない。自然な驚愕に見えることを願った。 寝起きで薄ぼんやりとした目は、細部まで見取ることはできないだろう。しかしあくまで巡回してきたのを装う。自意識過剰だ。いや、気にしすぎなくらいがちょうどいい。 坊ちゃんは手の甲で目許を拭った。ごしごしと擦って、粘着質な分泌物を取り除く。その間に杏は心を落ち着けて、あたかも担当の看護師のような振る舞いを始めた。 二の句はなんだろう。身構えていると、ぼそぼそと唇が動いた。 「俺、何時間寝てた……?」 まだまだ眠そうな声である。欠伸の混じるそれを聞きながら、杏は腕時計に目を這わせた。 「ぎりぎり一日いかないくらいかな」 「そっか……クライムは? 外はどうなってる?」 「全員病院に搬送して、それぞれまだ眠ってる」 「あの、変な奴も?」 杏は頷いた。松原や桂が専ら分析中とのことだが、坊ちゃんを倒したというクライムの詳細は、何も伝え聞いていない。この一日でわかったことといえば、その正体が僅か十九歳の少年だったということくらいだ。 そうか、と呟くと、それきり坊ちゃんは口を閉じた。視線が読めなくなる。何かを考えているらしい。杏はそれを見守っていた。 「ごめん、私はあまり詳しいこと聞いてないんだ。院長先生や桂先生の方が、きっとよく知ってる」 なんとなくいたたまれなくなって、杏はぼそぼそと口を動かした。不確かな情報を伝えてはいけない。これ以上の質問は答えられないから、先に無知を伝えておく。 「棗を呼んできてくれ」 すると坊ちゃんは一言囁いた。懸命である。それが一番いい。杏は安心してここを立ち去れる。 とりあえず、坊ちゃんが無事ならばそれでいい。忽ちの脅威も、この病院に拘束している。この先、あのような変種が出現しない限り、街の平和は守られ続けるだろう。 いま棗は、誰が誰の担当になっているかなどには手が回っていないはずだ。自分が坊ちゃんの様子を伝えても、咎められることはないだろう。杏は二つ返事で承諾すると、改めて踵を返した。 そのときだった。勢いよく病室の戸が開き、誰かが中に入ってきた。続いて電気がつけられ、二人は思わず目を手で覆った。 まだ慣れぬ視界のまま、入口の方に顔を向けると、見知った白衣が一人。 噂をすればなんとやら。その人物は棗だった。 「坊ちゃん、戦えますか」 冷静な口調。引き締まった表情。少し顔に疲れがこびりついているけれど、彼はいつもの彼だった。憔悴はどこにも窺えない。 坊ちゃんを戦場に連れて行くときの顔である。 彼が空気を引き締める。坊ちゃんは顔を顰めながら、上体を起こした。 「クライムが出ました。そして、あの子――銀色のクライムになっていた少年も、病院を脱走しました」 「だ、脱走!?」 「まじかよ」 思いも寄らぬ言葉を、杏は思わず復唱する。そんな大事件が起こっていたのに、どうしてあんなに静かだったのか。簡単である。坊ちゃんに与えられた部屋は、壁が完全な防音仕様だからだ。室内の会話が外に洩れないようにするためであるが、代わりに外の物音がまったく聞こえない。まさに一長一短だった。 それはともかく、職員が少なくなっている時間帯にクライムが現われ、重要参考人も脱走した。状況は限りなく悪い。肌でそれを感じ取る。 棗は苦々しさを、奥に湛えているのだろう。それでも淡々と話すのは、総指揮官のプライドか。 「松原さんは帰宅中なので、私が運転します。桐生さん、お手伝いをお願いできますか」 つくづく自分はクライムに縁がある。それはこれからも、坊ちゃんに携われるということ。 断るわけがない。 「行きます」 「ありがとうございます」 「おい、俺の返事も聞けよ」 ゆっくりとベッドから抜け出しながら、坊ちゃんが口を挟んだ。ベッドの下から院内用のスリッパを取り出す。さすが着替える暇はなかった。 棗は寧ろ冷淡に返す。 「今更でしょう。桐生さん、点滴をはずしてください。他は私が」 「俺の扱い雑だな!」 文句を言いつつ、坊ちゃんは立ち上がった。彼にとって戦うことは義務だ。休息は十分に取った、と言っていいのは本人だけであるが、これだけ元気ならば戦えるだろう。 それを見越しての皮肉であると、気づけないほど子供ではない。 棗が運転する救急車に、杏と坊ちゃんが乗り込む。その後ろを、別のスタッフが乗り込んだ救急車がついていく。 一台は黄色く特別な、もう一台は白くありふれた救急車が、二台連なり街を駆け抜ける。目的地はオフィス街。出現したクライムは『憤怒』。レーダーは赤い点滅を示していた。 ちょうど昼間で人が多い時間帯と場所である。被害が小さく収まることを願いながらハンドルを切った。 「棗、聞こえる?」 運転席の横に備えつけられたモニターはいま、カーナビとして機能している。道の混み具合と地図を交互に見ながら運転していると、桂の声がスピーカーから届いた。 桂は病院の機器を使って、銀色のクライムの行方を追跡している。残念ながら救急車に搭載されている検知器では、あのクライムの情報を取得できないのである。 「はい」 「あの子、全然違うところに向かってるわ」 「どういうことです?」 「クライムに向かって行ってるんじゃないの。レーダーが反応してない、なんにもないところを目指してる」 「……えっ?」 報告はひどく指通りが悪い。それどころか、絡まりを助長させる。 ますます行動パターンが読めない。たった二回目で規則性が掴める方が稀ではあるけれど、現時点の情報量では、クライムの出現場所以外の目的地が思いつかなかった。 いったいあの少年は何者なのだ。そして何がしたいのか。素性は極めて平凡な少年だったが、どんな闇を内に秘めているのだろう。 能力は判明しているが、彼の心に巣くう罪の名もまだわかっていない。なんとか正気に戻らせて――クライム化を解いて、話ができればいいのだが。 「とりあえず、位置情報を口頭で教えてください」 「オッケー。リアルタイムで観測できないの、不便ねぇ」 ぼやきながら、桂は進行中のルートを告げる。棗が復唱したそれを、杏がメモする。どうやら『憤怒』のクライムが出現したオフィス街よりも、ずっと遠くを目指しているようだ。三人は逡巡する。 「いったいこれはどういう……?」 「俺たちの進路はまずクライムのところだ。あいつは独りじゃ暴れない。独りで暴れる奴を倒すのが先だ」 「でも、彼の力の方がずっと強いのに」 「レーダーから逃げられる前に追いつけばいいんだよ」 棗の記憶が正しければ、水野昴の進行方向の先には、マンションが建ち並んでいる。 そこであの力を振りかざされれば、被害はオフィス街を放置したときよりも大きくなるかも知れない。 優先すべきはどちらか。対抗しうるヒーローは一人しかいない。ハンドルを握る手に、迷いが生まれそうになる。 坊ちゃんはそれを断ち切るように言い切った。 「それに、俺が変身すれば戻ってくるかも知れない」 あくまで可能性の話なのに、そうであるかのように思えた。 棗はハンドルを握り直す。大丈夫だ。前回の戦闘で、エイドは新しい力を手に入れている。力を何倍も引き上げる『傲慢』の紫を纏えば、以前より早くクライムを片づけられるかも知れない。 進路はこのままでいい。 「現場の声、最優先ですね」 「わかってるじゃねえか。ちょっとは丸くなったか?」 「……桂がないことないことしゃべってましたか?」 「ん? 心当たりでもあるのか?」 棗の沈黙は無言の肯定か、ただの無視か。坊ちゃんの皮肉は、先程の仕返しか。 杏はたまに、棗と桂と坊ちゃんの関係性に当てはまる名前が気になる。棗と桂が友人関係にあるのは明らかであるが、そこに割り込む坊ちゃんは、どういう立場なのだろう。友人と呼ぶには若すぎるし、仲間にしては親しすぎる。女同士だと、あのような関係を結ぶことはほぼない。けれど、男同士ならばあり得るのか。直接訊いてみるなど、踏み込む勇気はなかった。 救急車が通りを爆走する。二台のサイレンは微妙にずれていた。 反対方向へ向かって走る人の波が見える。近い。棗はモニターをタップした。地図が拡大され、より精密な地図とクライムの位置関係がわかる。駐車場所を決めた。少しずつ減速して、距離を縮める。 反比例するように、坊ちゃんが放つ緊張感は強くなった。 杏は車内の計測機器に目を這わせる。すべて電源は入っており、いくつかのものは既に微弱な信号をキャッチしていた。どれが何を計測しているかはよくわからないけれど、クライムがすぐ近くにいることは確かだ。 そのとき、窓の外に、赤黒い何かが見えた。 車体が完全に停止する。それと同時に坊ちゃんは後ろ扉を開けた。 弾けるように躍り出る。目の前にはクライム。ぴんと張った三角耳に、長くて太い尻尾。口からは鋭い牙が覗いている。狼の姿をした怪物が、道路の真ん中に立っていた。 その存在を視界に入れるなり、坊ちゃんは口角をつり上げた。 「そこまでだ、�牾覆琉磴い魘気┐討笋覘瓩茵�」 そして変身する。かけ声と共に、坊ちゃんは紫色の光に包まれた。 激しい発光の仲から出てきた姿は、白い装甲、水色の手袋、黒いマント、そして紫のブーツを纏っている。つい昨日戦ったときと同じ装いで、エイドは登場した。 「いきなり二色……病み上がりとは思えませんね」 送れて、カメラを片手に運転席から降りてきた棗が呟く。 「元気そうで何よりです」 周囲の怪我人の救助は、後続する救急車に乗り込んでいたスタッフたちの仕事だ。彼らは二組に分かれると、片方は窓ガラスが割れたビルに入っていき、もう片方は現場周辺を捜索し始めた。そのビルにクライムが出現し、窓を割って外に出てきたのは明白だった。 被害が最小限に収まっていることを願いながら、棗は撮影に、杏は計測に集中する。そして坊ちゃんは手元に氷の剣をつくった。 『憤怒』は瞬発力を高めることが、これまでのクライム観察でわかっている。相手は狼だ。少しでも距離を読み違えればやられてしまうだろう。飛び道具は当てにならない。接近戦に持ち込んで、確実に叩く。 狼は敵の登場に、目を血走らせた。唸りながら、四つん這いになる。ファイティングポーズだった。そして雄叫びを上げる。 響きに、ガラスが軋んだ。殺気が漂う。棗は肌がぴりぴりと痛むのを感じた。 威嚇する余裕があるなら、相手に不足はない。 剣が完全な形になるなり、エイドは地面を蹴った。狼も後ろ足でアスファルトを蹴り上げ、勢いを身に纏いながら上体を起こす。クラウチングスタートを決め込んで、人型のクライムに突進する。 大きめにつくった剣を構えて接近する。『傲慢』の力は全身に力をみなぎらせる。いつもより大きな剣を、いつもより強い力で扱えば、その威力は何倍になるだろう。なんだかんだで『傲慢』を纏って戦うのは今回が初めてである。前回は美味しいところを持って行かれてしまって、非常に消化不良だった。 前回のぶんまで――熊のクライムのぶんまで、とどめを刺す。 咆哮を上げながら、エイドも突撃した。そして剣の先端で、狼の胸を一突きする。 驚くほどあっけなく、剣先は身体を貫通した。赤子の手を捻るように、装甲を串刺しにする。思っていた以上に『傲慢』の力は強い。坊ちゃんは物理的にそれを確信した。 氷柱が刺さった部位から、瞬く間に全身が凍りつく。全身が氷づけになるなり、ガラスのように砕け散る。赤い光が散り、執着心が解き放たれた。 いまのいままで狼が立っていたところに、よく肥えた中年男性が頽れる。 「……あ、れ……」 あまりにも呆気なく解けたクライム化に、その場にいた誰もが言葉を失った。 『傲慢』の力が強すぎるのか、このクライムが弱すぎるのか。いや、完全な自滅だった。帰って詳細なデータを比較するのも手間に思える、史上最短の戦闘時間だった。 気が抜けるあまり、エイドの変身も解ける。病院の寝間着にスリッパの、だらしない格好をした青年が車道に立ち尽くす。 彼はクライム化していた男性を見下ろすと、ぶんぶん首を横に振った。 「脳も骨もねーのかよ、手応えなさすぎだろ……よし、次行くぞ次!」 切り替えが早い。あくまでこの戦いは余興にすぎないことを、彼が一番自覚していた。 「え、ええ」 棗も我に返ると、小走りに救急車に戻った。 杏は二人を手短に労う。ありきたりな言葉しか見つからず、戦闘の感想を口にするのも憚られた。車内には微妙な沈黙が流れた。エンジン音さえ事務的に響く。 二台目の救急車に乗っていたスタッフたちが、手早く狼化していた男性を引き取っていく。とりあえず、こちらの現場は収束した。次はあの浪人生のクライム化を解き、病院に連れ戻すのだ。この出動の重きは、そちらに置かれている。 救急車が走行を開始すると、スピーカーから桂の声が流れてきた。 「お疲れ。それじゃこれからあの子のもとまでナビするから」 相変わらず運転席のモニターは救急車の現在位置しか示さない。本部からのデータを転送することができないため、煩わしくも情報は口伝えになってしまう。 桂は明朗な声で通信を続行する。 「と、言いたいところなんだけど、ちょっとねえ、あの子、さっきから全然動いてないのよ」 車内に緊張が走った。桂の語尾がのんびりしているようにすら聞こえる。棗は細く声を吐き出し、意味を反芻した。 「移動を、止めている……?」 「そうなの。そっちがそこに到着してちょっとしてからかしら、全然動かなくなっちゃって」 桂が位置情報を告げる。やはり、あのまま直進して、住宅街の入口付近にいるらしい。ここからそう遠くない場所だが、少々道が狭く、対向車が多ければ減速を強いられるかも知れない。 あの少年の素性はだいたいが洗えている。けれど、件の住宅地には縁もゆかりもないように棗は記憶していた。 いったい何故、あそこを目指したのか。 「まだ通報とかは入ってないみたいよ」 「何をしているんでしょう……急いで行って確かめねば」 桂の話を聞きながら、杏はモニターをタップし、目的地までの地図を表示した。彼女に礼を言って、棗は交差点を曲がった。 ハンドルを握る手に力がこもる。アクセルを踏む足に、少し体重を乗せた。 法定速度を軽く超えて、救急車は走っていく。スピードメーターまでは本部に把握されないが、移動速度はレーダーでわかってしまう。 桂は釘を刺すように返した。 「うん、安全運転でよろしく。あ、そうだ、関係ないことかもしれないけど、レーダーが反応してるところで、すごく局地的なゲリラ豪雨が報告されてるわ。氷を扱うのには絶好の湿度かも。ただ、足許には注意してね」 何もかもが不可解だ。何が偶然で、何が必然なのかわからない。 坊ちゃんはあからさまに顔を顰めて呟く。 「なんだそれ、手加減のつもりか? まさか雨宿りなわけはないし」 「ただの偶然か何か意味があるのか、確かめに行きましょう。ところで坊ちゃん、一日に二回も変身するのは、大丈夫そうですか」 思えば、前代未聞の事態が重なっている。クライムが二匹同時に出現したのも、坊ちゃんが一日のうちに二度変身するのも、今回が初めてである。いや、いままでは、クライムの出現頻度が多くても週に一回程度だったため、どれくらいの頻度でエイドの変身が可能か不明だった。 いつも、戦闘のあとは坊ちゃんも被害者と同様の精密検査を受ける。初めて変身したときから、彼は大罪の力を完璧に制御していた。しかし、それが恒常的に行える保証はどこにもない。そのため常に検査をして、コンディションの維持をしてきたのだ。 先程の戦闘は『怠惰』と『傲慢』を同時に扱った。短時間でも、いつもより消耗が激しいかもしれない。次の戦闘を、万全の態勢で行えるとは言い切れないのだ。 肉体への懸念は尽きない。しかし精神面は、極めて良好らしい。 坊ちゃんは口許をつり上げた。 「余裕。まさかこんなにさっさと片づくなんて思ってなかったから、力は有り余ってるぜ」 「それはよかった。『傲慢』の力で、今回こそは」 「ああ。借りはきっちり返す」 いま坊ちゃんを信じるのみだ。 何かあったときはそのときだ。尻込みしている暇はない。赤信号をつっきり、対向車線を通って最短ルートを駆け抜ける。棗は息を吸う度に、不安を飲み下した。 ***** 「あそこって美味しいのかな」 真新しい装いの店を百合が指さす。ファンシーな内装が外からよく見える。入口の横には小さな黒板が立て掛けてあり、今日誕生日を迎える人の名前がいくつか書かれていた。 一目で洋菓子屋とわかるそこは建物の一階に位置していた。二階以降はマンションなのだろう。ここから先の住宅街に帰る人が、ふと寄りたくなる絶妙な位置だ。 茅萱はエデンと現世のつなぎ目を、完全に人気のないところにつくる。適した場所を探した結果、今日は留守の家の庭先を選んだ。世間は大型連休も半ば、家で過ごす家庭は少数派だ。家族旅行に繰り出している家の庭先に下り立ち、何事もなかったかのように通りに出る。昼ご飯どきのため、歩行者は見当たらなかった。 何食わぬ顔で太い道を目指し、住宅から遠ざかる。 一軒家が減り、マンションやアパートが増えてきた辺りで、百合が声を上げた。 尋ねられて、茅萱もその店に目を遣った。見覚えのある店だ。入った覚えが僅かにある。 その記憶を手繰り寄せるのに、一刹那。 「あそこはこの前チョコムースを買って帰ったところだよ」 「チョコムース……?」 「生クリームかと思ったらホワイトチョコがホイップしてあったやつ」 「あっ、思い出した。あれ美味しかった」 「今日も買って帰る?」 「うーん、どうしよっかな」 外に出かけたら、茅萱は必ず百合に土産を買って帰る。その殆どが目についた店で売っている菓子だ。和菓子のこともあるが、大半は洋菓子である。百合は甘いものが好きだ。そして紅茶好きの茅萱は、ちょうどいいお茶請けがほしい。二人がクライムを観察するとき以外に時間を共有する口実として、菓子は大きく機能している。 シンは甘いものにも美味しい紅茶にも興味がない。だから、気を遣って彼のまで買うことはない。 これまで、茅萱の買ってくるものが口に合わなかったことはない。それが偶然であっても、彼は美味しいものを引き寄せる才能がある。百合は密かに、そう信頼していた。 どの菓子もまた食べたいと思うものばかりで幸せだ。一言言えば、期間限定品でない限り、茅萱は同じものを買ってきてくれるだろう。けれど、そういう甘え方をするのは好きではなかった。どこか癪で言い出せない。いや、それよりも、その店をそのケーキの店として決めつけるのが憚られた。 どうせなら別のものが食べたいし、自分の目で選びたい。それで失敗するのもまた一興だ。 世の中には美味しいケーキがありすぎる。すべてのものを口にすることは叶わないかもしれないが、より多くを食したいと思う。 『暴食』の力はそのまま、食欲に直結している。 自分が大罪の能力者に選ばれたときに、消去法が用いられたのではないか。そう百合は密かに疑っている。自分には食べることを楽しむくらいしか、幸せになる方法はない。それに縋りついているつもりはないが、そう判断されても文句は言えない。 なんだっていい。『暴食』の力があれば、ここではないどこかに逃げることができる。 そこで静かに朽ち果てたい。構いたがりな渡し人と、掴みどころのない王がいるけれど、こちらで生活するのに比べたら、彼らと暮らしている方がずっとましだった。 「どうせなら茅萱が行ったことないところに行きたい」 百合が楽しそうだと茅萱は思った。いまの発言は、あたかも二人が恋人同士であるような錯覚を抱かせる。たまに、彼女はとても心をくすぐることを言う。 珍しく彼女が外出したいと言いだしたのだ。できる限り願いは叶えてやりたい。彼女にとって自分は都合のいい男でいい。それでも大きな進歩である。 小さな店なら、茅萱の知らない店もあるかも知れない。ただ、味は保証できない。百合の楽しみには何にも替えられないけれど。 「あったら、ね」 「ないの?」 「さあ。帰り道次第だよ。クライム騒ぎで急遽閉店されないなんて保証はないもの」 「シンさま、どこにクライムつくるんだろうね」 言いながら、百合は鞄に片手を入れた。引き出したのは、化粧用の鏡だった。折りたたまれた部分を開き、鏡面を露出される。自分の顔が映る前に、百合は人差し指を突きつけた。鏡に、遠くの出来事を映し出す指示である。 クライムの気配を探る。 「あっ」 反射される世界が歪んだ。 それはクライムが出現していることを意味する。二人は思わず鏡を覗きこんだ。 屋内。狭いオフィスの中に、赤い閃光が奔る。その場にいた人は皆目を覆った。光の中から、二足歩行の狼が現われる。 すぐさま室内は阿鼻叫喚に陥った。人々は逃げ惑い、我先にと部屋を出ていく。一方で、狼は彼らに感心がないらしく、進行を邪魔する机や書類の束を、容赦なくなぎ倒していく。そして窓硝子を割った。外へ飛び降りる。伝染する悲鳴。昼下がりの大通りは、一瞬で混乱に飲まれた。 平和を乱すのは、こんなにも簡単だ。しみじみとそんな感想を抱く百合の横で、茅萱はやけに真面目に背景を観察していた。 記憶の中の景色に重なるものを探す。 一瞬過ぎった店の看板が、かちりと嵌った。 「あー、ここかー……」 「どこ? ここから近い?」 「いや、百合が一番気に入ってるチーズケーキの店の近くだから、何事もないといいなって思って」 先程見えた、蛍光ピンクの看板の筋を入って少し行ったところに、その店はあったと思う。 彼の口から出てきた回答に、百合は関心と呆れが半々に入り交じった感想を洩らした。 「よく覚えてるのね」 「そりゃあ好きな子のことなら、なんだって覚えとくよ」 「そうじゃなくて、道とか風景とか。もしかして地元の人?」 「いや、僕はもっと田舎出身だよ。……興味ある?」 「ない」 「いい町だよ。いつか百合も連れて行きたい」 「美味しいお菓子買ってきて」 「景色も見てよー」 現実が茅萱の気分を引き戻す。まだ二人はエデンの住人同士でしかない。隣人が家族になるには、厚い壁を越えねばならない。その道のりは、まだまだ長い。 軽口はここまで。百合はきっぱりと話題を戻す。 「徒歩で行けそう?」 茅萱は首を横に振った。 「わかんない。ちょっと待って、地図調べるから」 茅萱はポケットからスマートフォンを取り出す。何度か画面をタップしたのち、フリック。小さな端末が情報を受信するのを無言で待つ。それを二回繰り返す。二つのケーキ屋の場所をそれぞれ表示して、位置関係を掴んでいるようだ。 茅萱が何かを言うまで、百合は鏡を見つめて待った。両手でフレームを支える。まるでワンセグだと、茅萱のスマートフォンに対して思った。 好き勝手暴れる狼はしかし、迫力に欠ける。まだ力を発揮していないからだ。まるで、エイド或いは狂信者との戦闘のみを目的としているようで、面白くない。 クライムらしくない。 本来クライムは執着心の結晶。その矛先が向くものに対して、力を振るう怪物だ。『憤怒』を抱くということは、誰かに恨みがあるのだろう。溜め込んだ負の感情を対象に直接ぶつけないでいては、クライム化した意味がない。 それとも、未成熟な感情を無理に増幅させた、目的意識に欠けるクライムなのか。 別に、誰かが傷つけられるのが観たいわけではない。百合はただクライムが観たいのだ。執着心に正直になった成れの果てが、どう動くかを知りたいのだ。 煮え切らない。力を持て余す、緩慢な動きには苛立ちさえ覚える。百合は無意識に、唇を尖らせていた。 そのとき、静電気のような痛みが指先を掠めた。 弾かれたように、百合は片手を鏡から遠ざける。落とさないように、何もなかった方の手に力を込める。鏡面への直視は保つ。 大きな変化が起こった。 それまで見ていた映像が下方向に縮小される。そして開いた上部分に、別の映像が映し出された。 銀を纏った人型の異形が、風を切って駆けている。 音と競うような速さを、景色の流れから感じた。 「あの子が、クライム化した!」 百合が声を上げると、茅萱は反射的に顔を上げた。スマートフォンから目を離して、百合の持つ鏡を覗きこむ。生じた変化を見て取り、次に事実を確認する。 ぽつりと呟く。 「シンさまの実験は成功か」 予想が当たったのか、それとも。 考えていても仕方がない。結果しか重要ではないのだ。 鏡もあの少年も。 「百合にもできたね、二画面表示」 本気か冗談かわかりかねたが、彼女が呟いていたことを思い出す。呆れられるだろうか。そもそも彼女は、自分の発言を覚えているか――つい先程のやりとりではあるが。 反応を窺うべく、茅萱は視線をずらす。百合の顔を見ると、彼女は困惑を露わにしていた。 「解除できない……」 「え?」 タブレットを扱うように、百合は鏡面に指を走らせる。しかし、何も変わらない。当たり前だ。鏡にはセンサーなどないのだから。 いや、自分の力を制御できないことを、彼女はもどかしく思っているのだ。しかしその行動動機が、茅萱にはわからない。問うと、ぽつりと返ってきた。 「上画面、要らない」 「なんで?」 「だって、どうせ下と合流するんでしょ? この子がどこをどう行ってるかなんて、どうでもいいのよ。それより、ちゃんとクライムの動きを観たいの」 苛々するだけでも。 早く合流して、鏡に一つの景色しか映さないようにしたい。そして、本気の姿を見たい。 俊敏な動きで、複数からの攻撃を躱して、熊のクライムよりも骨のある戦いを見せて欲しい。 クライム同士の戦いはなかなか観られるものではない。理性から解き放たれ、本能のままにぶつかり合う姿が観たい。 クライムの可能性はヒトの可能性だ。どこまで強くなれるか教えて欲しい。 それが幸せに結びつかなくても。 「僕らがさっさと現場に行く方が得策かもね」 スマートフォンの操作に戻った茅萱が、声だけを百合に向ける。せっかくこちらに来ているのだ、鏡に頼らず、肉眼で戦いを観るのが得策だろう。そのために、なるべく早く現場に向かいたい。 「行けるの?」 「んー、ちょっと遠いかもしれない。徒歩だと間に合わないかも」 「一応、お休みの日だもんね」 もっと現場に近い場所に出られたらよかったのだが、今日は世間では休みの日である。加えて時間は真っ昼間だ。繁華街は人で溢れていて、どこであっても誰かの目が気になる。守り人がいない住宅地しか自然に溶け込める場所がないとはいえ、ここは少し遠すぎた。 茅萱は交通機関を調べているらしい。百合は小さい下画面を凝視しながら、現場へと思いを馳せる。 こんな日に会社で働いていて、クライムに遭遇した人たちは気の毒だ。 上画面は視界から弾き出す。見たところで、彼がいまどこにいて、どこを目指しているかなどわからない。エイドがやってくるまでは、彼は好きなようにやっていればいいと思う。百合が観たいのは、エイドと彼の決戦なのだから。 そのとき、アスファルトを打つ重たい音がした。 何かが二人の背後に落ちてきた。二本の足が地に着くときの音はしかし、あまりにも重量を備えている。そして、生身では着地の難しい高さから落ちてきたことを二人に教える。 音に、思わず二人はびくりと身を震わす。反射的に振り返ると、思いも寄らぬものが目に映った。 狂信者が立っている。 百合と茅萱の姿が、鏡の上半分に映り込んだ。 「な、んで……!?」 銀を纏う人型の異形が、二人の前に現われた。戦いの構えの彼に、茅萱は思わず身構える。さっと左腕を水平に上げ、百合を下がらせた。茅萱が一瞬で殺気立ったのを、百合は感じた。 わけがわからない。彼はクライムだけでなく、能力者の位置すらわかるというのか。戦慄する。まるで近隣の住民に、不審者と声を上げられてしまったかのような動揺。そして、棗病院の面々に、エデンの存在を知られてしまう危機。 何もかも想定外で、身の振り方がわからない。 「この結果を、シンさまはどう思ってるのやら」 固まる百合を余所に、茅萱は口の端で呟く。そののち、明朗に忠告を開始した。 「悪いけど、僕らは君の相手はしないよ」 声音の厳しさは冬の雨のようだ。彼がこんな話し方をするなんて、普段からは想像ができない。百合は狂信者に睨まれた恐怖と、茅萱のギャップに身を固くする。 茅萱は飄々と、しかし厳かに少年を説得する。 「君が戦うべきは僕たちじゃない。あの狼と、エイドだ」 陽が陰る。いまのいままでいい天気だったのに、分厚い雲が太陽を覆っていく。寒くはない。ただ、じわじわと肌を這うものがある。 それは緊張による熱だろうか。内にも外にも熱を感じ不快だ。百合は息を殺しながら、異変に煽られた。 茅萱は努めて穏やかに、しかし冷たく突き放すように続ける。 彼の声は、少年に届いているのだろうか。 黙っているということは、耳を傾けているということ。そういうことにしておきたい。彼の微動に注意を払いながら、茅萱は確実な距離を取る。 「僕たちはただの観察者さ。エデンに足を踏み入れてしまい、クライムになることができなくなった。だからもう、ヒトじゃない。確かに大罪の力は扱えるけど、君と僕らじゃフェアじゃない」 見た目も身体機能も、人間のそれと変わりない。けれど、明らかに人間にはできないことができる。エデンの住人は大罪に選ばれ、力を授けられた存在だ。クライムにならずとも、その力を扱うことができる。また、エデンとこちら側を繋ぐ役割も果たす。 それでも、クライムの前ではただのヒトに同じ。なぜなら生身は柔らかな肉でしかない。クライムの攻撃を受ければ、血が出るし骨も折れる。エデンの住人は、強大な力を脆弱な器に持つ、極めて不安定な存在なのだ。 だからこその観察者である。 茅萱の話はすべて事実だ。しかし少年に、信じる様子はない。当たり前か。彼にとって、茅萱たちはクライムを生み出す悪い奴でしかないのだろう。仮にも彼はクライムを駆逐していたのだから。人間の味方であるエイドも倒してしまっていたが、ともかく、正義に駆られている。 正しいことに対して病的な真っ直ぐさを示す狂信者。 それは若さゆえなのか、彼自身の性質か。 きっと両方だ。 「……どうしても僕たちと戦うの?」 警戒を解かない少年に問えど、返事はない。沈黙は肯定だ。男同士は殺気で語る。 茅萱はスマートフォンをポケットに仕舞った。奔る緊張感に、百合は頬がぴりぴりした。 さらに雲行きが怪しくなった。洗濯物を憂う主婦が、ベランダに出てきたら目撃されてしまう。そんな危惧はともかく、茅萱の二の句が飛び出る瞬間が、戦闘開始の合図だ。 茅萱の手がポケットから出てくる。彼は虚空を掴んだ。 エデンに繋がるドアが出現する。ドアノブが彼の手のひらに収まっていた。 「悪いけどお断りだよ。帰ろう、百合」 百合を守っていた左手が下ろされ、白い手を掴んだ。ぞわりと鳥肌が立ったけれど、強い力で引かれ、拒絶する間がない。 ドアが開くなり、茅萱は半身を滑り込ませ、百合を引き寄せる。慣れ親しんだエデンに戻る。ここなら絶対的な安全と、観察に最適な環境がある。いや、茅萱のことだ。すぐに別のドアをつくって、あちらに戻るのだろう。 きっと狼が暴れている近くに出て、強制的に狂信者を憤怒の前に晒す。そしてエイドと戦わせることで、こちらへの関心を逸らす。高見の見物にうってつけの場所を勝ち取るのだ。 全身を泡立たせる嫌悪感に耐えながら、百合はエデンに滑り込む、ように思えた。 激しい破壊音とともに、ドアの奥に見えていた景色が崩落する。そして蹴飛ばされるように住宅街の中に放り出された。 狂信者がドアを破壊したのだ。 いったいどうやって。茅萱とともに地面に身体を打ちつけた百合は、慌てて起き上がり辺りを見回す。するとすぐにトリックがわかった。 狂信者が二人立っている。 一人は先程と変わらぬ位置に。もう一人は、ドアが生じた場所の裏側に。 瞬時に分裂して、観察者たちの逃亡を阻止したのだ。 すぐ近くにいる分身が、百合に歩み寄る。 そのとき、場違いな感触が手の甲を濡らした。 雨が降り出した。 最大になった湿度が、纏わりついているかのようだ。身体が動かない。為す術なく百合は狂信者の手にかかる。 「百合!」 茅萱の声が聞こえた。そして残響をかき消すように、轟音が聴覚を奪う。閃光に目が潰れる。 雨粒が落ちた部分に、静電気のような痛みを感じた。そして靴音。狂信者が百合から離れる。視界を取り戻しながら、何が起こったかを悟る。 自分と狂信者の間に雷が落ちたのだ。 落としたのは茅萱だ。彼の持つ『色欲』の力が、雨雲と雷鳴を呼び出した。 自然ならばありえない場所に雷が落ち、地面は黒く焦げていた。 至近距離で空気の震えと電流の発生を感知し、身体がうまく動かない。百合はまだ地面に下半身をくっつけていた。 どんどん強くなる雨が、服を濡らし染みをつくる。湿度から肌を解放するように、雨が身体を冷やしていく。 反射的な鳥肌が立った。 百合が呆けている間も、男達は殺気の火花を散らしている。 「百合に手を出したね? 許さない」 茅萱はいつの間にか傘をさして、身体が濡れるのを防いでいた。 百合に襲いかかった狂信者の分身は、雷にはじき飛ばされ腰を抜かしていた。しかしすぐに立ち上がり、茅萱の方を向く。 剥き出しの敵意に応えるが如く駆け出す。仕留め損った百合よりも、邪魔な茅萱を先に片づけようと判断したようだ。 しかしそうはいかない。感情に任せて喧嘩を売るほど茅萱は馬鹿でははない。 ドアから投げ出されるなり、それが目についた。百合を二つの危険に晒してしまったけれど、それを利用すれば簡単にあれを倒せると思ったのだ。 分身がマンホールを踏む。その瞬間、金属の蓋から電気が生じ、雨も手伝い激しく怪人の身体を流れた。地面から天を目指す電流の柱が、マンホールの上に形成される。 それに飲まれた分身は、あっという間に黒こげになり、灰になった。 雨が残骸をマンホールの上に縫いとめる。 茅萱の読みどおり、分身は息絶えた。完全に灰燼となるのは見届けず、彼はすべては静観していた本体に向き直った。 「次はお前だ」 地獄に引きずり込むような憎悪が、声音に満ちていた。 百合は心から茅萱に恐怖を覚えた。大罪の力ではなく、茅萱自身が恐ろしかった。 挑発を受け、狂信者は戦闘態勢になる。身構えた瞬間、横一列にずらりと彼の分身が、同じポーズで生じる。 前回よりも美しい増え方をするようになった――そんな感想を抱きながら、襲い来る敵を茅萱は迎え撃つ。どんなに入り乱れても、本体からは目を逸らさない。 雨は火花を鎮火させど、雨は電気をよく通す。 矛盾が成立する戦場で、茅萱はあの手この手で分身を消し去っていく。すぐに新たな個体が生じて数は減らないが、どれも茅萱だけに襲いかかるのが都合がいい。 茅萱は攻撃を躱しながら移動をして、狂信者の群れを百合から遠ざける。 百合はただ、へたり込んだままその様を眺めていた。何度も雷が地面に落ちて、大きな音がした。視界がチカチカした。しかし戦闘を見つめずにはいられなかった。 転んだ際に、モニター代わりにしていた鏡は割れてしまった。オフィス街の方がどうなっているかを観る術はない。あちらも雨が降っているのだろうか。そんなことを思った。 しっぽりと濡れてしまったスカートのせいで、足が冷えている。 瞬く間に感覚がなくなり、立ち上がるに立ち上がれない。髪もカーディガンもびしょ濡れだ。きっと化粧も崩れている。このあと、再び茅萱と顔を合わせるのは憚られる。もぞもぞと足を動かしてみながら、百合は茅萱の攻防を見守った。庇のある場所を探す余裕はなかった。 茅萱は巧みだった。分身達はマンホールを避けるが、水たまりは避けられない。水たまりを踏んだら最後、電流の渦に飲まれ、最初の分身の二の舞である。そのエネルギーですべての水が蒸発すれど、すぐに元の水たまりができるくらい、雨脚は強い。 水たまり以外のトラップも豊富だ。雷を直撃させたり、電柱と電柱の間に電流の柵を作ったりと、地形を利用して分身を消していく。接近戦に持ち込まれても、自分を中心に同心円状のバリアを生み出し、触れたものを感電させる。自分には被害が及ばないよう、絶妙に力は制御されていた。 エイドが『憤怒』の狼を倒してこちらに来るまで、なんとか持ち堪えたい。黄色い救急車はまず百合を回収してくれるだろう。自分は適当にエデンに逃げて、百合が病院で温かい湯を浴びたあとにでも迎えに行けばいい。 やはり生身では、クライムの本体を倒すことはできない。 本体は罠にかかる寸前のところで回避して、電流から逃げ切ってしまう。やはり、真祖と量産型の間には埋めがたい差がある。レプリカの作りは雑なのだ。すべてにおいて能力は真祖に劣る。 茅萱は攻撃と防御を同時にしているため、真祖からは逃げなければならない。一つのことに気をとられたら最後、分身たちにやられてしまう。本体の動きに注意しながら、仕留められそうな分身を破壊し、安全を確保する。所詮は時間稼ぎだ。そして百合から奴らを遠ざける。 それに、茅萱が彼に打ち勝っては、百合の願いが叶わない。 ――僕は無意識に、手加減をしている? 本気を出せば、分裂しか脳のないクライムなど倒せてしまうのだろうか。相手は人海戦術でしか襲ってこないのだ。一網打尽にしてしまえば勝てる。そうする方法が思いつけば勝てる。 業が深い。傘を持ち直しながら、茅萱はほくそ笑んだ。 ヒトでなくなってしまっても、まだ自分の可能性を感じることができる。なんと素晴らしいことだろう。エデンの住人も悪くない。食事も睡眠も性交も娯楽に成り下がる身体だけれど、宿る精神はヒトと同じ。 お伽噺の天界人と、自分たちを重ねる。 雑魚を散らして移動する。足を止め、同心円状のバリアを仕込もうとしたときだった。 ごくごく一瞬のことだった。茅萱の背に貼りついて、分身が生じる。気づいたときには遅かった。腕を掴まれ、関節が可動しない方向に捻られる。 思わず声にならない悲鳴を上げる。すると分身はその一体を残して消え、本体が茅萱に襲いかかった。 「茅萱、危ない!」 百合が叫ぶ。しかし為す術がない。突進する本体の攻撃をまともにくらい、茅萱の身体は吹っ飛んだ。いつから背後の分身が消えていたか、わからない。 地面に身体を打ちつける。衝撃とともに腕の感覚が消えた。次いで襲い来る内臓への圧迫感と、口の中に広がる血の味。思わず吐き出すと、錆びた臭いが鼻を突く。 水たまりに顔から突っ込んだらしい。血の生温かさを頬に感じる。息ができない。口の中だけでなく、肺までやられたか。 「ち、がやぁ……」 涙の混じる、脱力した百合の声。なんてことだ。彼女の前でこんな失態を犯すなんて。彼女にあんな声を出させてしまうなんて。彼女を危険に晒してしまうなんて。 エイドはまだか。 或いは、百合だけでも逃げ切れないか。 「ゅ、り……にげ、……ぐぁっ」 思うように声が出せない。たまらず咳き込むと、さらに血が出た。濡れて顔に貼りつく髪が鬱陶しいが、拭うことができない。腕の感覚がないのだ。あまりの痛みに神経がやられたのか、本当になくなってしまったのかわからない。懸命に目を開けても、前方のことしかわからない。 狂信者の後ろ姿と、怯える小さな百合。 「……こないで……」 震える嗚咽が零れるが、狂信に憑かれた少年の耳には届かない。 百合はぎゅっと目を瞑った。 そのとき、雨音を掻き分ける何かが耳に届いた。 こちらに近づいてくるサイレンと、エンジンの音がする。水しぶきを散らしながら、救急車がやってきた。 まさか。タイミングがよすぎる。 でもそのまさかなのだろう。エイドを乗せた黄色い救急車が、狂信者を連れ戻しにやって来た! 茅萱も処置してもらえるだろう。まだ安全が保障されたわけではないけれど、安堵に目蓋が軽くなる。百合は音のする方と迫り来る狂信者を交互に見た。 狂信者の関心はすっかり乱入者に奪われていた。それもそのはずである。エイドは救急車の屋根にのぼって、こちらを見据えていたのだから。 雨風と慣性に白いマントがはためく。 運転手は倒れている茅萱を発見したのか、そちら側にハンドルを切った。ちょうど茅萱のすぐ傍に救急車を停めることのできるスペースがあったからだ。車体が曲がった瞬間、エイドは屋根から飛び降り、銀のクライムに蹴りを入れた。 さっと身体を引いて避けようとしたけれど、エイドの蹴りはただ足を使ったものではなかった。エイドの膝から下は先端が尖った氷の塊を纏っている。それを紫色のブーツで思い切り押し込んで、逃げたつもりの狂信者にぶち当てたのだ。『傲慢』と『怠惰』の合わせ技に、銀のクライムが大きく吹っ飛ぶ。 「もう大丈夫だ」 百合から奴を引き離す。エイドは百合を一瞥する。二人の視線が交じり合う。 「!」 彼は何かを感じた。言葉にできないものが、心の奥に湧き上がってくる。 しかしいまは、それに構っている暇はない。思考を追いやると、氷柱をまともにくらった敵に向き直る。 なんとか膝を折らずに体勢を保っているのは、褒めてもいいと思った。 「昨日はどうも」 皮肉たっぷりに声をかけると、応えるように相手が増える。戦闘態勢は万全だった。 一方、救急車が駐車するなり、杏はストレッチャーを押して外に飛び出した。思っていた以上に雨が強かったが、気にしている場合ではない。真っ赤に染まった血だまりの中に倒れ伏す男性のもとに急ぐ。 棗も運転席から飛び出した。目に入る色彩以上に、あらぬ方向に曲げられた腕が凄惨である。慎重に彼をストレッチャーに乗せるのに、思いのほか時間がかかった。 意識はない。けれど、息はしている。いま一番にすべきことは応急処置だ。次に、本部への連絡。作業工程を頭の中で組み立てながら、棗は指示を飛ばす。 「桐生さん、あちらの女性を連れてきてください」 本当は男である自分が行った方がいいのだろうけれど、自分は彼の手当をしなければいけない。視界は悪かったけれど、女性は彼ほど傷を負っていないように見えた。エイドがうまく彼女から銀のクライムを離してくれているので、難しい距離ではない。 わかりました、と杏は言うと、倒れている女性の方へ駆けていった。既に彼女の衣服はしっかりと水を吸っている。救急車に積んでいるありったけのタオルを出さねばならない。何枚くらいあっただろうか。記憶の引き出しを開けながら、棗はストレッチャーを格納した。 「大丈夫ですか!」 杏は膝を折り、女性を肉眼でつぶさに観察した。雨が少しずつ体温を奪い、皮膚や爪の色を変えている。見たところ目立った外傷はないが、心まではわからない。 呼びかけに、百合は伏せていた目をゆっくりと開いた。弱々しい光が杏に向けられる。意識があることに、杏はほっとする。 「もう大丈夫ですよ。病院に行きましょう。立てますか?」 「……はい」 「どこか痛むところは?」 「……大丈夫。転んだだけ、だから……」 掠れた声が質問に答える。百合は杏の肩を借りて上体を起こすと、緩慢な動きで立ち上がった。 足取りが覚束ない。初夏も近いというのに、大罪が降らせる雨はとても冷たい。エイドが冷気を扱っているせいで、なおのこと体感温度は低かった。 顔に髪が貼りつく。前髪から滴る水が、視界の邪魔になる。 たいした怪我も運動もしていないのに、息が上がっていた。 風邪でも引いたのだろうか。百合を支える杏の手が、やたらに熱く感じられる。 救急車に乗り込むと、一足先に救助された茅萱が手当てされていた。ひと思いに折られた腕を直視することはできず、百合の視線はずっと足許をうろついた。 「ご苦労さまです。これをどうぞ」 棗が杏と百合にバスタオルを差し出す。杏はてきぱきと雫を拭うが、百合は頭からそれを被って視界を狭める。座れる場所に腰を下ろして、身体を丸めた。 感じることが多すぎて、処理が追いつかない。 まずエイドだ。遂に彼と目を合わせてしまった。ずっと遠くから見ていた彼を、すぐ傍で見ることができた。そしてこちらの存在を認められた。 彼は百合を一瞥したときに、確かに動揺した。ごく一瞬だったけれど、見間違えようがない。顔の半分近くが髪で隠れていたけれど、彼は百合を百合と見抜いた。 これは後ほど、厄介なことになりそうだ。 「大丈夫ですか?」 内側では止めどない思考が洪水を起こしているが、外から見れば丸まって震えているだけである。心配そうな口調が向けられる。女のやわらかい声。桐生杏。彼女もまた、ずっと遠巻きに眺めていた人物の一人。 百合は尤もらしい言葉を繕う。 「……寒い……」 「タオル、もう一枚要りますか?」 「……ください」 返事をすると、杏は百合にもう一枚バスタオルをかぶせた。確かな厚みにくるまれど、寒さはあまり緩和されない。おそらく、服が吸った水のせいだ。 「先生、何か、温かくするものは他には」 気を利かせた杏が棗に尋ねるが、棗は首を横に振った。「申し訳ありませんがタオルしかないです。これから応援を呼びますので、持ってこさせます」 「ありがとうございます。お願いします」 やりとりのあと、棗は二、三のことをしてから運転席の方に戻った。屋根を打つ雨音と、茅萱の生命力を示す電子音が車内に響く。 棗は通信回線を開き、本部に連絡を取る。 「現場にて二名の負傷者を保護しました。一人は成人男性、腕を派手に脱臼していて重傷です。もう一人は成人女性で、こちらは軽傷のようです。すみませんが、もう一台車を寄越してください。あと、薬とタオル、防寒具を少々持って来てください」 間髪入れずに桂が返事をする。 「了解。輸血は足りてるかしら?」 「いまのところ、命に別状はありません。ですが急いでくれると助かります」 「わかった。撮影用の傘はある?」 「そちらは大丈夫です。では、待っています」 会話を終えると、棗は小型カメラを手に取った。右手にカメラ、左手に折りたたみ傘を携え、車内後部を振り返る。 エイドを観測する機器類は、モニター以外が強いシグナルを受信していた。 「私は映像取得に出ます。桐生さん、二人をよろしくお願いします」 「お気をつけて」 棗が車を出て行くと、杏は立ち上がり、モニターに近づいた。すぐに黒かった画面に外の様子が映し出され、戦闘が手に取るようにわかる。 幸いにも百合の座る位置からモニターはよく見えた。杏の背中で遮られることなく、全体が視界に入った。撮影の腕もよく、普段と変わらぬ観戦ができた。 よかった、ちゃんと顛末を見届けられる。 僅かに顔を上げて、百合はモニターを眺めた。ストレッチャーの上に眠る茅萱は、意図的に視界に入れなかった。 まさかエイドの本拠地に、不本意ながらも乗り込むことになるなんて。エイドだけでなく、杏や棗といった、普段観察している人物と顔を合わせるのには緊張した。 棗病院には集まるべき人が集まっている。尤も、彼らの能力はすっかり息を潜めているが、それでも、百合や茅萱と同じ匂いが確かにするのだ。 できればこの緊張が、無駄に終わるように去れたらいいのだが。厄介なのはあの浪人生だ。彼がクライムではなくこちらを狙って動いたことは、必ず調査対象になる。面倒なことになる前に、行方を眩ませたい。 しかしながら、今後の動きは茅萱の回復次第だ。こんな傷、一歩エデンに踏み入れれば瞬く間に治ってしまうだろう。けれど、あの様子では身体を起こすのも難しそうだ。だからどうか、早く回復して欲しい。こればかりは、祈るしかなかった。 シンが迎えに来てくれたら、万事解決なのに。 あの人は決して楽園から出ようとしない。こちらが嫌いなのだろうか。百合以上に、暮らしにくい理由があるのか。彼は自室からもほぼ出ずに、熱心に人間を観察している。 或いは、全員が出払うことを恐れているのか。 何も想像の域を出ない。仕方がない、彼が何も語らないのだから。 いまは、エイドの再戦を見守ろう。棗と接触することがなかったので、百合は随分楽にできた。タオルの端を握りながら、エイドの勝利を願う。 あれこれ関心が散って忙しい。 坊ちゃんは確かな衝動が沸き上がるのを感じていた。 「いったい全体どういうことか、後できっちり説明してもらうからな」 なぜ、どうして、こんなに昂ぶっているかわからない。言葉にする集中力がない。彼の意識は、目の前のクライムと、この感情を増幅させることに向いていた。 「俺はお前が�犁�せない�瓠� うわごとのように口から洩れる言葉が、光を放つ。 雨雲に覆われ、実際の時間よりもずっと暗い屋外に、場違いなほどの強い閃光。エイドを包む赤い輝きは燃え盛る炎にも見えた。 棗は思わず目を覆う。光の観測はビデオカメラに任せた。腕を顔の上半分を押しつけても、光は網膜に迫ってくる。点滅する目蓋の裏。目を閉じ、歯を食いしばって耐えた。 光のエネルギーが熱に変わる。まさに、焼かれているような感覚。熱風が光と共に放たれている。雨音が場違いに聞こえた。冷たく強い雨が、感じられない。 少しずつ光が収まっても、皮膚感覚の回復は遅れた。徐々に取り戻される棗の視界に、エイドはいた。 エイドの白いマントが、色彩を閉じ込める。 赤光が弱くなっていった理由そのように思える。光源の中心部で、鮮紅に染まったマントがたなびいていた。 新しい力を身に纏う。 それも、先程倒したばかりの『憤怒』だ。 「『怠惰』『傲慢』に加えて『憤怒』……!? 坊ちゃん、あなたはまた……」 水色の手袋、紫のブーツ、そして赤いマント。着々と白い装甲に色彩を纏っていくエイド。 「一気に行くぜ!」 棗が確認できたのは残像だけだった。 いや、銀のクライムもそうだったらしい。誰もエイドが動いた瞬間を視認できなかった。対応が遅れる。再びクライムが吹っ飛ぶ! 突き出された拳がクライムの頬を張った。勢いに身体がよろける。エイドは追撃に向けて、肘を真っ直ぐに伸ばした。降り注ぐ雨を冷気で凍らせ、相手に向かって飛ばす。吹き出したブリザードが、さらに身体を押した。 均衡を失う瞬間、咄嗟にクライムは分身を生み出した。エイドの背後に三人のレプリカが出現する。羽交い締めにする気だ。しかしエイドの方が早い。 「すっこんでろ!」 『憤怒』の力は瞬発力を高める。エイドが身体を後ろに向けるやいなや、雨に濡れた地面が凍りついた。水の張る層よりもだいぶ厚い氷が、レプリカたちの足を巻き込んで形成される。足首より下を凍らせた分身たちは、つけかけの助走が生む慣性に耐えきれず転倒する。 エイドは地を蹴り跳躍すると、狂信者本体の頭上を通過し反対側に移動する。 振り向いた奴と目が合う。 忌々しく、こちらを睨みつける眼孔は、新たな分身を生成しようとしていた。 「何匹つくっても無駄だ」 分身がエイドを取り囲む。しかし、完全な形を持った瞬間、地面もろとも氷づけにされた。間髪入れぬ対応に、狂信者はひるむ。 降り注ぐ雨は、いつだって氷のつぶてになる。 氷の力の独壇場に、彼は追い詰められた。 「俺はお前を克服した」 奥深くから確かな太さで声が響く。 「大人しく連れ戻されろ!」 威勢よく告げた瞬間、狂信者は起き上がった。 『憤怒』の力を纏ったエイドに引けを取らぬ瞬発力で殴りかかる。エイドは紙一重で躱して距離を取った。すかさず追撃が斜め上からも来る。銀色の分身が三体、空中に出現した。 空からなら、足を取られることもない。 横飛びで避けると、あえなく彼らは地面に落ちる。アスファルトを覆うつるりとした氷は、やさしく迎え入れてはくれない。全員が全員足を滑らして、為す術なく身体を打ちつける。 動きにムラができるなり、分身は消失する。その代わりに新しいのが生まれ、同じことを繰り返す。無駄な攻防のように思えたが、エイドを本体から遠ざけるのには成功した。 気がつけば辺り一面が凍りついていた。敵を退けるために、自らの退路を断っている。背水の陣だ。迂闊に動くことはできない。数を撃って隙を突く。そのような戦法をとらざるを得なかった。 「それで牽制のつもりか?」 焦りを見抜く問いかけは、嘲笑にも聞こえた。 もう誰も、エイドを止められない。 「さあ、終業時間だ」 高らかに宣告される文言が、精神を追い詰める。 エイドは駆け出した。まるで彼の通るところだけ凍っていないかのような、なめらかな動きだった。 その場にある水分を凍らせることはできても、溶かすことは『怠惰』の力には含まれていない。『傲慢』の力によって高められた脚力で、一歩ずつ氷を砕いているのだろうか。それとも、一連のパワーアップの中で『怠惰』の力も向上して、氷を溶かすことができるようになったのか。 そのどちらでもなかった。 「足の裏に、……氷のスパイク!」 肉眼では見えなかったが、実際より僅かにスピードが落ちるレンズ越しに、棗はからくりを発見した。 ブーツの足裏に、氷でできた突起が見えたのだ。 「坊ちゃん、考えましたね。流石です」 とっておきの溶けない氷を、ここぞというときにつくったのだ。 鋲で警戒に足許の氷を砕いて、思うままに走っていく。 『憤怒』が瞬発力を高め、『傲慢』が攻撃力を高めることで、筋力は最高のパフォーマンスを見せた。スパイクの助けも借りて、みるみるうちに銀のクライムとの距離が縮まる。踏み出すのをためらって、狂信者は動かない。迷った方が負けだ。 振り上げられた拳が、頬を打つ。 身体が、大きく飛んだ。 分身をつくって受け止めさせるか、奇襲を仕掛けるか――考える間もなく、とどめが刺される。 クライムが飛んでいく方向、ちょうど彼の背中側に、三メートルはゆうにある氷の壁が出現した。壁面には地面と平行に太い氷柱がいくつも生えている。クライムは背中から、それに刺さった。 全身が貫かれ、氷づけになる。 銀の装甲がすべて氷に覆われると、壁とともに砕け散った。残骸は雨に濡れて溶けていく。 不自然に大きな水たまりの中に、横たわる少年が一人。 すべてを見届け、変身を解いた青年は大きく息を吐いた。彼が大罪の力を脱ぎ捨てるなり、辺りの氷が溶けていく。室内用のスリッパはあっという間に浸水してびしょ濡れになってしまった。依然として強い雨脚は、パジャマを肌に貼りつけていく。 「坊ちゃん!」 録画を終えた棗が、傘を片手に駆け寄る。自分が濡れてしまうのも厭わずに、坊ちゃんの頭上に傘を掲げた。 「お疲れさまでした」 「ああ。……寒いな」 「先にカメラを持って戻ってください。私は彼を回収します」 「おう、サンキュ」 棗から傘とカメラを受け取る。遠慮のない動きだった。棗は白衣を着ているが、耐水性はない。手が離れるなり小走りに少年の元に赴く。坊ちゃんもカメラを胸に抱くと、踵を返した。救急車を視界に入れる。 彼の顔に、一筋の緊張が奔った。 救急車の中には彼女がいる。 杏や怪我人も乗せているのだ、下手な接触は避けた方がいい。しかし抑えられるだろうか。同じ空間の中で、衝動を殺せる自身がない。 まだ戦いの高揚が全身に残っている。ひどく昂ぶった神経を抱えて、修羅場に赴ける精神力は、自分にはない。 足が動かない。すっかり浸水して足の裏はもちろんのこと、ズボンの裾まで濡れている。甲にも跳ね返った水がかかっていて、じわじわと不快感が増す。 坊ちゃんが不自然に立ち竦んでしまったとき、ばしゃばしゃと断続的に雨水を跳ねる音が聞こえた。 エンジン音を伴って、段々とこちらに近づいてくる。音がする方を向くと、派手な色の車がこちらに向かって奔っていた。 見慣れたカラーリングは、棗病院所有するの証である。 黄色く塗装されたドクターカーがやって来て、坊ちゃんと棗のいるちょうど中間地点で停車した。 エンジンが止まるなり、運転席のドアが開く。 「お疲れ、遅くなってごめんね」 「桂!?」 顔を出したのは、情報処理室にいるはずの薬剤部長だった。 棗と坊ちゃんは声を揃えて彼の名前を口にする。桂は澄ました顔で、傘をさし運転席のドアを閉めた。 「やっぱり松原ちゃんいないと駄目ねー。ちょっと人手が足りなかったから私(あたし)が来たわ」 「あなたの現場入りは禁止したはずですが」 「もう戦いは終わってるからいいでしょ? 結局杏ちゃんは連れて来てるんだし」 「うっ」 棗の小言を慣れた様子で躱し、ついでに痛いところを突いておく。陽気で口が達者な彼は、助手席の方へ回り込んでドアを開けた。積んである荷物――救援物資を取り出すと、坊ちゃんの方に向き直る。 「さあさ、坊ちゃんはこっちに乗ってちょうだい。あっちはもう定員オーバーでしょ? 棗も、あの子はこっちの後ろに乗せて。私(あたし)は持ってきたものを向こうに持っていくわ」 タイミングも提案も絶妙だった。桂の要求は坊ちゃんが回避したいことすべてを叶える。間がよすぎた。願ってもみない状況では、言われたことをすぐにすべて理解できない。飲み込むのに時間がかかった。 少し疲れも出てきているのかもしれない。思考の一部はぼんやりとしていた。いや、それは安堵によるものだろう。大きなことを終わらせた達成感が、複雑な回路を麻痺させる。ようやく神経を休めることができるのだ。 しかしながらそんな内心を、桂が知る由もない。動こうとしないパジャマ姿に、顔を顰めずにはいられなかった。 「早く。余計な検査が増えたら嫌でしょ?」 あくまで坊ちゃんの身体を心配する小言である。桂は助手席のドアを開けっ放していた。早く坊ちゃんが乗らなければ、中が濡れてしまう。 巧妙な気遣いである。坊ちゃんが思っている以上に、桂は何気なくしているのだろうけれど。 足を上げると、土踏まずの下を水が動いた。ズボンの裾も随分上まで濡れてしまった。さっさと屋根のある場所に行こう。坊ちゃんは吸い込まれるように助手席に座ると、傘をたたみドアを閉じた。 座席にはご丁寧に、背もたれにも座面にもタオルが巻きつけられていた。 棗は抱き上げた少年を抱えてドクターカーに赴く。後部座席のドアを開けると、こちらもやはりタオルで座席一体が覆われていた。足許には余分なタオルと湯たんぽが積まれていた。少年を座面に寝かせ、身体を簡単に拭いてやり、湯たんぽを持たせた。 余ったタオルで自分の髪や顔を拭い、肩にかける。車に戻ったら白衣を脱ごう。幸い、下の服にはあまり浸水していない。 「俺にもタオル」 「ええ、どうぞ」 助手席から飛んできた声に応じ、さらのタオルを渡してやる。すると、タオルの下からもう一つ湯たんぽが出てきた。 まったく準備がよすぎる。 これだから彼を憎むことができないのだ。腐れ縁の仲間には、頭が上がらない。 「こちらも」 「……え?」 感情を押し殺して、努めて事務的に手渡す。そして棗は逃げるように退いてドアを閉め、救急車へと駆けていった。 取り残された坊ちゃんは、とりあえず湯たんぽを抱いていた。雫を拭った素足を投げ出し、ズボンの裾を捲り、楽に体勢を崩す。雨音は随分やさしくなったように思う。もうじきやむだろう。ピーク時が嘘のように、穏やかな降り方をしていた。 背後から、小さな寝息が聞こえてくる。凶悪なクライムに変身していた少年は、あどけない寝顔を晒していた。若い。行きの救急車の中で、棗から素性は簡単に聞かされたが、まだ高校生と言われても差し支えのない幼さを感じた。 なんとなく振り返って彼を観察していると、運転席のドアが開いた。傘だけを片手に、桂が乗り込んでくる。 彼は座席にどっかりと腰かけると、しゅるしゅるとシートベルトを装着し、エンジンをかけた。 「よーしじゃあ帰るわよー。ちゃんとシートベルト締めてねー」 ただ座っているだけの坊ちゃんを、やんわりと注意する。言われて、坊ちゃんは思い出したようにシートベルトに手を掛けた。 のろのろ動いていると、救急車がサイレンを鳴らし始めた。そして颯爽と発進する。桂もアクセルを踏み込み、後ろに続いた。こちらの車にはカーナビがないので、救急車のあとについて病院まで戻るようだ。 住宅街に続く道は狭く、向きを変えるのが困難だった。だから適当な道を通って、病院方向に伸びる道に合流するらしい。 ドクターカーもサイレンを鳴らす。二台はびゅんびゅんと一般道を駆け抜けていく。 車内は沈黙していた。時折少年の呼吸が聞こえるが、大人二人はじっと口を噤んでいる。 それが疲れのせいではないことを、二人はなんとなく感じ取っていた。 「寝てていいのよ?」 おもむろに桂が口を開く。 ちらりと横を見たとき、坊ちゃんはしっかりと目を開けていた。ただその目つきが、どこでもない一点を見つめていて、思わず声をかけてしまったのだ。 あまりにもぶれない目蓋は、何か難しいことを抱えているように見える。せっかく事件を解決したのに、顔が暗すぎるのだ。お節介な桂が、見過ごせるわけがなかった。 「なあ桂」 「どうしたの」 「……ありがとな」 どこか上の空の声音が返される。やはり彼は何か考えているらしい。しかしそれ以上に、桂は発言の内容が気になった。 「熱でもある?」 もしや彼は、頭痛や発熱に苛まれて、虚空を見つめているのではないか。そんな心配には、露骨な舌打ちが返される。 こってりと眉間に皺を寄せて、坊ちゃんは桂を睨む。 「ねえよ。なんだよお前まで失礼だな」 「このタイミングでデレるとか熱があるとしか思えないわよ。帰ったらお薬出してあげるから、寝ときなさい」 世話焼きな薬剤部長は、たまに棗のような冗談を言いたがる。大袈裟な口ぶりはからかっているように聞こえて、つい荒っぽく思わず言い返してしまった。 けれど、重たい空気の払拭にはちょうどよかった。後ろで寝ている子供のために、少し声が抑えてあるのも助かる。二人きりだと、そのままひどい言い合いになっていたかも知れない。 棗は誰よりも傍で綿密に戦いをサポートしてくれる。けれど、戦いに直接関係のないことは、なんとなく話しづらい。クライムのことか、どうでもいいこと。二人で話すときの話題は両極端だった。 しかし、桂には、棗に言いにくいことでも言うことができる。それはひとえに彼の人柄のためだ。棗病院に身を置くなかで、彼は貴重な話し相手だった。 もしあの看護師が同性だったら、桂と同じくらい話せる仲になっていたかもしれない。というのは、まだ意識下にはない。ちなみに松原は棗以上に雑談を切り出しにくい。それは坊ちゃんに限った話ではないのかも知れないが。 「ねえっつーの。あのさあ、……俺いま超修羅場」 ぽつりと呟く。残響はなく、けたたましいサイレンがすべてを攫っていく。 桂は進行方向を見て、両手でハンドルを握っていた。フロントガラスの底面で、ワイパーはじっとしている。あの区域が出るなり、空は綺麗に晴れていて、雨の気配を感じさせなかった。いやな天気である。あの辺りの住民は気の毒なことだ。 「……奇遇ね、私(あたし)もかなり修羅場ってる」 サイレンの切れ目を見つけて、桂も呟いた。 ぱちりと坊ちゃんは瞠目する。常に余裕を崩さない桂が修羅場に陥るなんて、いったいどういう状況なのか。想像がつかない。意識が一気に引き寄せられる。 彼は絶対に、同調するような嘘は吐かない。その代わりに、しっかりと話を聞いてくれる。だから、彼もいまは複雑な腹を抱えているのだ。傍目にはわからないが、経験上、そう判断できた。 少しだけ空気の重さが緩和される。抑えた声で、秘密を打ち明け合う。 「桂が?」 「独りで焦ってるだけよ。どうすれば松原ちゃんみたいにスマートになれるかしら。……でも、こういうときはなんでもないふりを貫くしかないかなって思うの」 あくまで自身に言い聞かせる、独り言の体である。しかし確かに、坊ちゃんを宥めようとする意図が滲んでいた。いまは休んでいい。悩むなと咎めるのではなく、張りすぎた気をほぐそうとしてくれている。 こんなときまで気遣いをして、疲れないのだろうか。性分をどうこう言っても仕方ないけれど、本音を吐き出すときまで世話を焼いて、いつ自分を労るのだろう。桂の優しさの底が、坊ちゃんは気がかりだった。 「できそう?」 この質問は失敗だ。坊ちゃんは言った傍から後悔に駆られる。 話し好きの薬剤部長は放っていても喋る。相槌も適当でいい。けれど、いまの問いかけは失言だ。坊ちゃんの立場でしていい発言ではない。 助手席が狼狽に満たされど、桂は態度を崩さない。淡々とハンドルを切りながら、会話を続行させた。 「まあ、大人だからね。どんなに考えても、表に出さなきゃ考えてないのと一緒。よくも悪くも」 この対応からして大人である。 意味深につけ加えられた言葉を、戒めと共に心に刻んだ。平静を装うのが大人の挙動であり義務である。しかし、見過ごすことはどうしてもできない。抑えがたい欲求と体裁の間で、心は揺れ動く。 赤信号を無視して、濡れた二台の車が走っていく。桂の足は常にアクセルの上にあった。 「何に修羅場ってるか訊いてもいいか」 疲れているのを免罪符に、もう一つ空気の読めない発言をした。波長の似た沈黙の中身を探る。桂はいつも、進んで自分のことを話したがる。けれど今日はそうしない。口数の少なさが気になる。だから敢えて、こちらから触れる。 坊ちゃんが誰かの内心を知りたがるなんて滅多にないことである。そこそこ濃いつき合いをしているけれど、こんな直球で尋ねられたのは初めてかも知れない。 けれどそれより、思うことがあった。 ずっと前を向いていた桂はふと、視線を動かした。軌跡はバックミラーを掠めて、元の位置に戻っていく。 鏡越しに、深い眠りに就く少年を一瞥した。 注意深く観察しなければ到底わからなかった。まるで『憤怒』の力でも纏ったかのような素早さ――という冗談はさておき、少年を見遣るなり、どこか桂の双眸は翳った。険しさのようなものさえ感ぜられる。 不自然に長い沈黙が下りた。 「この子が、何の関係もない一般人を襲った理由。……とでも答えとくわ」 濁った語尾が鼻につく。 決して嘘は吐いていない。彼の懸念事が一つ口にされた。ただし、最も彼を悩ませているものではない。そして、これ以上立ち入ることを、やんわりと拒否する。彼の回答は、そのようなことを含んでいた。 聡い彼のことだ、既にある程度の仮説は立てているのだろう。少ないデータではあるが、ヒトの形をした、未知の能力を操るクライムのことは、昨日よりもずっとわかっているに違いない。 追々、おそらく検査結果が出揃った頃には、具体的にわかるだろう。より精度の高い形になって、彼の口から出てくると信じたい。 いまでなくても、いつかきっと、全体で問題視することになる事項だ。そのときまでは、泣いても笑っても桂の口腔に蟠り続けるのだろう。物事には順序がある。飛び出す番になるまで、舌先で転がされて、角をとっていくのだ。 そうでなくとも、いまの坊ちゃんに桂の不安を受け入れる容量は残されていなかった。 だから、隠されていていい。 「ああ、俺もそんな感じ」 わざとらしくない言い方を努める。 間違ったことは言っていない。坊ちゃんの訝しみは殆ど桂の言ったことである。何故彼女が襲われたのか。何故彼女がいまになって、自分の前に現われたのか。一つめはなんとしてでも知りたい。二つめは偶然かどうかがわかればいい。 その他、思うことがいくつもあった。ありすぎて順番がつけられない。彼女のこと、クライムのこと、負傷した男、不自然な天気。考えれば考えるほど頭が重くなる。最短でも、今日の戦闘データが解析され、関係者の事情聴取が済むまでは、何一つしてはっきりしないだろう。もどかしい。けれど、すぐにすべての答が揃っても、正しく受け入れられる自信もなかった。 苛む二律背反。まず坊ちゃんの心に余裕をつくる時間もまた必要だった。 ただ確かなのは、あの女性が自分のよく知る人物であるということ。一瞬しか観察できなかったが間違いない。彼女は確かに、坊ちゃんと過去に時間を共有したことがある。 向こうはこちらを認識していない。わけのわからない鎧の登場にただ驚いていたため、どう接触するのが正しいかわからない。しかしそれを桂に相談するのは野暮だ。 彼女は暫く病院に、少年や負傷した男とともに滞在することになるだろう。その素性も洗われる。まともに会話ができるまで回復するには時間がかかるだろうから、ゆっくり考えていけばいい。 ただの偶然であって欲しい。 そう思うのは本心か建前か。 坊ちゃんの言葉を最後に、会話は途切れた。少年の寝息が無邪気に聞こえるほど、二人はそれぞれ思索に耽る。互いに思い悩んでいることがわかっている、緩やかな沈黙だった。 すべてを晒さない大人の距離感。それは運転席と助手席の距離である。 病院に到着しシートベルトをはずすまで、二人は口を噤んでいた。 To be continued. さわらび97巻へ戻る さわらびへ戻る 戻る |