月下潜水(げっかせんすい)



              わどり




 「家庭用ダイビング機器」というものが最近開発されたらしい。なんでも、海の奥深くへと潜っていく感覚が座りながらにして味わえるとか。月の平原以外の海は映像でしか知らない私にとって、そもそもダイビングというスポーツ自体が未知のものだった。子や孫がいればせがまれていたのだろうかと想像しつつ、私は「家庭用ダイビング機器」を注文した。
 物騒な時勢である。災害を機に政府の統制が乱れ、暴動が相次いでいた。近頃は不審死が相次いでいるので、いざという時のため、護身用にこっそり皮膚吸収型の毒薬もポケットに忍ばせている。過剰なまでの自衛をしても募るのは安心ではなく不安ばかりで、そのストレスをダイビングで癒そうというわけだ。
 眼前のモニターに「配送完了」の文字が表示されるのと共に、画面横のチューブから圧縮された小箱が送り出されてきた。解凍すると、ヘッドセット一式とガイドのデータが展開した。
 ヘッドセットを接続し、音声ガイドに従って目を閉じる。聴覚が研(と)ぎ澄まされ、意識が少しずつ収束していく。
 初めは外の喧騒ばかりが聞こえていたが、人工風に気付いてからは、それらが揺らす細かな葉擦れが次第に大きくなり、それすらも遠退いた後に残ったのは私の心音だけだった。ゆっくりと繰り返される鼓動は私の意識を優しくゆすり、私は母の腹の中にいた頃の安らぎに包まれた。静かに目を開くと、そこはコロニーの白い部屋ではなく、青暗い海の底だった。
 海の中は、宇宙空間に似ていたが、月の荒野よりも少し体が重かった。白い部屋に慣れていたせいか、目をこらしても海はどこまでも深く暗く、せっかくの海だというのに自分の体のすぐ近くまでしか見透(とお)すことができない。戸惑う私の耳に、音声ガイドの通知が届いた。「もう十ルナで透明度を上げることができますが、いかが致しますか」。暗い視界に現れた小窓に同意のサインをすると、フォーカスを絞るように海は鮮明に現れ、上方からは光が差し込んできた。光を反射して気泡の粒がきらきらと輝いている。腹の白い小魚の群れ、花のようなイソギンチャク、見上げた水面の光……。私は気泡を身に纏って、憧れの海にぎこちなく踏み出した。
 重くなった自分の体にも慣れた頃、私はある遊びを思いついた。小魚の群れを追いかけて、彼らが光に踊る時は私もそれを追い、イソギンチャクに休む時は私も共に休むのだ。小魚を水先案内人として海を探検するというのはとても魅力的な考えに思われた。
 しかし、その思いつきを実践しようとして、ある問題につき当たった。鈍(のろ)いのだ。どうしても宇宙遊泳の感覚が抜けず、小魚たちのようにスイスイと進むことができない自分が腹立たしい。何度目かの失敗に辟易(へきえき)し始めた頃、再び例の音声ガイドのアナウンスが流れた。「もう三十ルナで重力抵抗を軽減することができますが、いかが致しますか」。表示された小窓にサインすると、体がふわりと軽くなった。少し金にがめついが、実に気が利いた商品である。
 魚になった気分で私は海を泳ぎ続けた。映像でしか見たことのない様々なものが海にはあったが、残念なことにそれらは仮想の映像のようで、そのいずれにも触れることができなかった。童心に返ってはしゃいでいた私は、この事実に気付くと一気に口惜しく、物足りない気持ちに駆られた。
 すると、いつもの如(ごと)く音声ガイドが「もう五〇ルナで疑似質量をインストールして頂けます」と愛想良くアナウンスを入れた。小窓が開いたので、私は喜んでそれに同意のサインをした。「インストールが完了しました」と表示された小窓を目にしたのを最後に、私は……。


   ◇ ◇ ◇
 監視モニターには、白い部屋の中央で泡を噴いて溺死している政府の高官の姿が映し出されている。
「……うまくいったわね」
 妻がモニターから目を離して、ため息まじりに呟いた。災害による食糧難のせいで、妻にもこんな汚れ仕事の片棒を担がせてしまっている。やせこけた頬が目に痛い。
「ああ、これで奴が私有していた食糧が手に入る。俺たちも多少食いつなぐことができるだろう」
 彼には悪いが、死ぬ前に海で泳げて幸せだったことだろう。ロックの外れた部屋の中へ入ると、クロークには予想していたほどの量の食糧は備えられていなかった。地球からの救助まで、あと何日しのげば良いのだろう。
 不意に、高官の懐をあさっていた妻が声をあげた。
「あなた、今日はもう疲れたでしょう。よく効くオイルを見つけたから、これでマッサージをしてあげるわね……」
 妻の優しい声音が身に染みた。今夜はよく眠れそうだ。


(月下潜水/おわり)
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