太陽



              夕城  颯




 人に紛れようと思った。
 とりあえずはそれ、だ。この体が、ちゃんと毎日に飲まれるために。この心が、独立したものでなくなるために。きっとこの街に来れば、それは簡単なはずだった。何ということもない人の波に、淡々と身を任せていれば良いのだ。
そうすればきっと、楽になる。生き易くなる。そして、いつか消えてくれる。こんな性懲りもない、心の痛みも。
 今日も俺はぼんやりと信号を渡っていた。こんなにも虚ろに無気力に歩いているというのに、人々は俺にぶつからないのだ。腹立たしく思えるほど、彼らは見事に避けてくれる。もしかしたら俺の身体は実体を伴っていないから、ぶつかってもすり抜けているだけなのではないかなどと一瞬思った。まさか。まさか、今の自分は、亡霊?何を、亡霊になったのはあの人じゃないか。俺は違う。俺の心臓はちゃんと動いている。肺には規則的な空気の出入り。大丈夫だ、俺は生きているのだ。
 右足を前に出し、次は左足を前に出し、という極めて単純な作業を繰り返していた俺は、冷たい何かが先程から肌に触れていることに気付く。周囲から布を乱暴に広げたような音が聞こえ始めた。求めなくとも目に入るのは、人々の頭上を彩る、カラフルなそれ。
どこかでため息が落ちる音がした。

傘は持っていなかった。天気予報を確認するのは惰性のようなもので、さして意味は伴わない。印象的な青色のマークを見た記憶はあるが、わざわざ傘を持って行こうとは思わなかった。
 小さかったはずの雨粒はいつの間にか肥大して、責めるように皮膚を叩いていた。歩き疲れたなと、俺は思った。
少し先に、小さな薄汚れた看板が見えた。【喫茶 太陽】自ら傘を置いてきたくせ、これ以上濡れたくはなくて、俺は早足でそちらへ歩を進めた。辿り着いた扉を躊躇いなく開ける。頭上でカランと、ベルが鳴る音がした。その音色は思ったより重く脳味噌に響いた。
 目に入ったのはダークブラウンのカウンターと、その向こうに立つ店主らしき初老の男性だった。彼の背後には壁と一体化した棚がいくつも並んでいて、それはまるでバーのような雰囲気である。照明も控えめで、喫茶店らしさというものが感じられない。呆気にとられて入り口に棒立ち状態だった俺に、彼はいらっしゃいませ、と笑った。どうやら他に客はいないらしい。お好きな席にどうぞと促されるので、適当にカウンター端の席に座った。
 メニューを手渡しながら、店主は俺の濡れた肩口を見た。
「雨、降り始めましたか」
「はい」と、俺は短く答えた。残念ながら、簡素な質問から会話を膨らませるなどという技術は持ち合わせていない。そのまま言葉を足さずにいると、妙な間が空いてしまった。それを埋めるように、「ホットコーヒーを」と伝えると、店主はかしこまりましたと笑った。カウンターの向こうで、何やら慌しく準備をしている様子を見るに、そこらのチェーン店とは違い、一杯ずつドリップしてくれる本格派らしい。初めて目にする手動のコーヒーミルを前に、これは時間がかかるなと思った。
「学生さん?」
 カチャカチャと小さく手元で音を奏でながら、店主が尋ねてきた。
「そうです」
 俺はまた短く答える。
「音大生?」
再び俺に疑問を投げかけた店主の視線の先には、大抵俺の手荷物に加わる、黒いバイオリンケースがあった。「ええ、まあ」それは音楽と生きようとする人間にとっては一種のアイデンティティであるはずなのに、今自分の隣にあることには、微かに違和が生じていた。「一応」
「やっぱり」
 店主はどこか得意気だ。
「雰囲気がね、それらしいよ、お客さんは」
「そうですか?」
「なんとなく、ね。専攻はバイオリンですか」
「はい」
「あ、そのマークは武藤音楽大学ですね」
ケースに印字されたロゴマークを見て、彼は感心したように声を上げた。
「すごく上手なんだろうなあ」
その言葉にどう反応すべきかと、俺は考えを巡らせた。今の自分が素直にそれを受け取るのは違う気がした。俺の作り上げた僅かな沈黙を破ったのは、思いがけない店主の一言だった。
「良ければ一曲聴かせて貰えませんか」
え、と声が漏れた。心臓が小さく跳ねる。
「ちょうど今、スピーカーが壊れていて、曲がかけられないんですよ。お願いできませんか」
 店主はカウンター上の小さなステレオを指し示した。
「お礼に何かお付けします、何が――」
俺は話が進む前に事を止めなければと思った。
「すみません…今は」
少ない単語で彼の言葉を遮る。今の自分の口から発せられるのは、随分と暗い音色だ。
「そうですか…。無理を言って悪かったね」
店主の申し訳なさそうな声色に、どこか心がざわついて、落ち着かなくなった。違うんだ本当は、こんなはずじゃ、なかったのに、
「弾けないんです、全然」
 言い訳を探すうち、情けない言葉が口を衝いて出た。自分でも何故それを言ってしまったのかわからない。余計なことをしたと思った。それが事実と自覚があるだけに、息が詰まった。店主は恐らく続く言葉を待っているだろう。
「…すみません」
結局俺はその一言で切り上げようとした。その向こうに渦巻く感情に、この人はどうせ気付いていたはずだ。
「いや、こちらが勝手に言ったことだ」
彼はもう一度、悪かったね、と謝罪した。

「お待たせしました、お客さん」
数分経っただろうか。目の前にソーサーに乗った、白いカップが差し出された。こちらに向かってくる香りは、少し甘くて、それでもやはり苦い。
「ミルクと砂糖はいかがですか」
「要りません」
 ありがとうございます、と自然と出た言葉は、コーヒーの提供に対する感謝なのか、話を終わらせて貰えたことに対する感謝なのか、自分でもわからなかった。冷めるのは待たずにカップに口をつける。
ああ、苦いな、
「うちのコーヒーはオリジナルブレンドで、一週間ごとに変わるんですよ。入荷してる豆が十五種くらいはあるので、色々試しながらブレンドしていて」
 店主が喫茶店らしい話を始めた。こういった専門分野の話を聞いて貰いたがるのは、どこの店も変わらないのかも知れない。俺は相槌を打ちつつ、ぼんやりと目前のカウンターに残されたソーサーを見ていた。
「今週のブレンドは爽やかさを重視したんです、南アメリカの――…」
 そこで彼は言葉を止めた。
「お客さんは、」
店主が再び何か言い掛けた時、店主の背後の掛け時計から軽快な音楽が流れ始めた。「六時ですね」振り返った店主につられてそちらに目を遣ると、その隣の大きな戸棚に様々なものが並んでいることに気付いた。目を凝らせば、ガラスの向こうには駄菓子屋で買えるような玩具から、鑑定に出せばそこそこの値が付きそうな時計まで揃っているのが見えた。それらにはまるで一貫性がない。
「あの」遠慮より興味が勝った。「何なんですか、そこにあるのって」
俺の視線の先にあるものに気付いて店主はああ、と声を上げた。
「これは副業でしてね」
「副業?」
 質屋か何かだろうか。だが喫茶店が質屋を兼ねているなど、聞いたことがない。俺の考えを見透かしたように、店主は笑った。
「質ではないよ、これは金には替えられない」
「え…」
「側に置いておきたくはないのに、捨てられない物ってあるでしょう」
彼は真っ直ぐな瞳でそんなことを言う。
「それは形のあるものかも知れないし、ないものかも知れない。まあどちらにしろ、私はここで預かることにしてるんですよ」
ぼんやりと意味を反芻する俺に、彼は戸棚から何かを取り出し、それをこちらに見せながら説明を加えた。
「例えば、震災が起きた時間で止まったままの時計…ほらこれだ、持ち主は手元に置いておくのは辛いと言っていましたよ。でも捨てられないんでしょうね、それも無理に忘れようとしているようで、結局悲しいから」
汚れた時計を眺めながら、何となくわかるような気がしていた。ただその感情をはっきり示せと言われても、それは多分無理だ。
「お客さんも、何かありますか」
気が付けば、静かな瞳がこちらを見ていた。心の奥が、静かに騒いだ。
「…俺は、」
側にあれば、厄介なだけなのに、捨ててしまうには惜しい。捨ててしまうのは怖い。それは喉元まで来ていた。今まで誰かに話そうとしたことがなかったけれど、今言葉にしてみたならば、少しくらい世界は動くだろうか。
「何かあれば預かりましょう」
 この時間はどこか現実味に欠けていると思った。店主は穏やかに続ける。
「取りに来るのも自由、捨ててくれと言うのも自由…お客さんが決めることだ」
人の目というものは、不思議な力がある。この人の心が、そのまま瞳に反映されているのだとすれば、恐らく自分はそれに惹かれたのだろう。
「追いかけてた夢が、あったんです」
 存外、言葉は、滞ることなく姿を現した。
「ずっと師事してる先生がいて、俺はその人のようになるのが夢で」
「夢、か。お客さんはこの預かりものの代表例みたいな人だ」
「先生のこと、尊敬していたんです、すごく。…でも、あの人とは、嫌な別れ方を。……あの人は」
続けようとして、それを拒む自分に気付く。全てを口に出そうとは思えなかった。行き詰まった天才がよく取る手段だと聞いたことがあった。もし天才と呼ばれても、あんな終わりを迎えるのなら、それはあまりにも残酷だ。
「俺は、あの人に似てるって言われて得意に思ってました。代わりが務まるとすれば俺だと、周囲の人間はそう言って…だからもちろんうれしくはあるんですけど」
 演奏も、作曲も、音に対する姿勢も、先生と俺は十分重ねられる存在らしかった。あの人の後を担うべきなのは俺だと、それは確かに期待されているという意味では良いことだったのかも知れない。ただ、もうひとつ湧いた感情は純粋な喜びよりよっぽど濃くて、どうしても拭い去れなかった。
いつか自分も、あの人のように?
心底恐ろしいと思った。音が崩れ落ちていく気がした。
「怖いんです。尊敬はしているけど、あの人みたいにはなりたくない。…それから、段々自然に弾けなくなって」
 俺の言葉が止まったのを確認して、店主は静かに口を開いた。
「早ければ良いわけじゃない。どうしても時間が必要なことは、ありますよね」
誰かに答えを求めていたわけではなく、話を聞いて貰おうと思っていたわけでもなく、けれどそんな言葉を貰えることが、純粋に有難いと思った。
「どうすれば良いかわからないんです、まだ」
「すぐに捨てられなくても良い、拾いに来たって良い。受け入れられない時は」
 緩やかな笑顔を向けられる。
「ゆっくり進めば良いんですよ、ちゃんと預かっておきますから」
両手をそっと握り締めた。気付いた時、肌を叩いているのは雨ではなかった。
「なら、お願いしても良いですか」
 夢を預けるなど、もの凄く気障な行為だと思った。それなのに少しも悪い気がしなかったのは、どうしてなのだろう。
「はい」
 店主の向ける笑みは変わらない。

 小銭を置いて、席を立ち、扉へ向かう。
ほんの少し、勇気を持ったなら。
一歩を踏み出せば。
何か、変わるだろうか。
引いた扉の頭上からは、カラン、とベルの音がした。今度は重くなかった。雨の音は、もう止んでいた。空を見上げれば、太陽が顔を出していて、そっと目を細めた。

ただほんの少し、この光が眩し過ぎるだけだ。
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