冬、来たりなば
御堂鮎子

それは夢にも似ている。瞼を閉じた一瞬に、それは僕に襲いかかる。まず、輪郭が浮かび上がり、そこからすべては生み出されていく。どんどん完成していくそれは、見たこともないのに恐ろしく鮮明である。彼女は、僕のよく知っている男と腕を組み、街中を歩いている。その距離感は、ただの上司・部下のそれではない。もっと近くて、生々しい関係から生み出されているのだ。男に喋りかける彼女の唇からは絶えず白い息が漏れ、それはすぐに虚空に散る。その繰り返しの中で、それはすぐ僕に吐き気をもたらした。思わずうずくまった瞬間、喧騒が僕に再び訪れる。急に、水中から急に引き上げられた時のように、僕はその喧騒をすぐには受容できなかった。
「ねえ、大丈夫」
 形の良い唇が動く。そういえば、昨日はいつもより化粧が濃かったし、髪型も、いつもよりちゃんとしているように思えた。匂いだって、いつもと違ったかも知れない。こうなってくると、全てが疑いの種となった。そして種からは、怒りや、悲しみが次々と生まれてしまいそうだった。だから、その種がこれ以上疼くのを防ぐために、僕は彼女から目を逸した。
「ごめん。帰るよ。お疲れ様でした」
彼女の目を見ないまま、僕は逃げるように会社を出る。そこを出てすぐ、珈琲屋に寄ってブラックコーヒーを頼んだ。カプチーノだとか、フラペなんとか、だとか、おしゃれな名前のものがそこには沢山あったが、そのどれもが今の僕には甘く重かった。一番安いコーヒーに、ミルクも砂糖も入れない、とびきり苦いやつがいい。無駄なものを全て削りとったスマートなそれに、思い切りすがりつきたくなった。ランプの明かりが鈍く灯っている。その光に照らされ、店内の風景は角が取れ、まろやかに僕の視界に浮かぶ。この風景は現実のものであるはずなのに、先ほどの映像よりも、ずっと非現実のように思えた。
兆候はあった。彼女が、上司と寝ているという噂はうちの課全体に蔓延していたし、僕もずいぶん前にそれを聞いていた。しかし、僕は別にそれをどうとも思わなかった。というより、まず、信じていなかった。彼女がそんなことをするはずがない。半ば盲目的に、僕はその噂でなく、彼女そのものを信じた。彼女の第一印象はとても良かった。柔らかな笑顔や、気さくな態度。同期に女子が少なかったこともあり、僕は彼女に少しの好意を抱いていた。そして僕と彼女の関係は、決して悪いものではなかった。最近では、たまに二人で飲みに行くようにもなったのだ。だから、だからこそ、そんな彼女の噂を、僕は信じられなかった。
しかし、あれは、僕の中に湧いた「映像」は、あまりにも鮮明だった。愛とか、恋とかとは違う。ただ、欲望のみに任せた二人の重なる姿が、僕の脳裏には鮮明に映った。彼女の豊満な胸が、艷やかな肌が、まるで自分が見て撫で回したかのように、僕の中に鮮明に現れた。僕は先ほどの映像を反芻していた。あんなリアルなものは、久しぶりだった。思わず、溜息が漏れる。また、あんなものに振り回されるなど。僕の気持ちを投写したかのように、コーヒはいつまでも僕の口内に苦味を残した。

僕はいわゆる超能力者だ。とはいっても、手を使わずにものを動かせるとか。テレポートが使えるとか、そのような分かりやすい超能力ではない。「人に触れると、その人の約一日前の姿が見える」そんな、自分でもよく分からない、これが僕が物心ついた頃から持っている能力だった。「約一日前」というのは、経験上、きっちり二十四時間前、というわけでなく、「約一日前」で、その人が一番鮮明に覚えている出来事、ということみたいだ。この能力を自覚したのは、確か幼稚園の時だった。親や友達に触れた時、いつも僕はそれを見たし、逐一親にそのことを話していた。しかし成長するにつれて、それを言葉にすると気持ち悪がられるということが分かってきたので、誰かに触られて映像が頭の中に浮かんでも、僕は何も言わず黙っていた。そして、そもそも自分の能力が駄目なものであることを僕は実感していった。人には誰しも秘密がある。それは、別に悪いことではない。悪いことではないけれど、それが他人にとって、そして自分自身にとって害となるものならば、なんとしてでも隠し通さなければならない。僕は、一生この秘密と生きていかなければならない。小学生で、僕はそれを悟った。

高校生の時には、それをコントロールすることも出来るようになった。別に、何も誰かからノウハウを学んだわけでない。ひたすらに感覚を掴めるまで、練習を繰り返すだけで良かった。誰かに触れられた時、それが現れるのを、意識をそれの外に向けることで防ぐという方法だった。その鮮明な映像は、ドミノ倒しのようだった。まず、現実とは明らかに違う画像の輪郭が僕の中に現れ、それが少しずつ明確になり、僕に襲いかかる。一つ倒れ込んでしまえば、あとはどんどんと僕の中に押し寄せてくるのだった。輪郭が現れてしまったら、あとはもうどうしようもできなかった。しかし逆に言えば、その最初の一つさえ押さえ込んでしまえば、僕は実体のないその映像に苦しめられることはなかった。とにかく、その輪郭を押さえ込みさえすればよかったし、それを習得するにはあまり時間はかからなかった。僕は誰かに触れられている時も、その暖かさと質感のみに集中することができた。これで、この能力に苦しめられることはないのだ。そう思っていた矢先の出来事だった。今日は疲れていた。連日残業続きで、あまり寝ていない日々が続いていた。そんな時、いきなり彼女が肩に触れたのだ。いけない、そう思ったときにはもう遅かった。僕の中に、まず輪郭が生じた。そして、どんどん鮮明になっていった。映像は、僕の中に現れる。よってそれは、ただ視覚のみで捉えるそれよりも、ひどく鮮明なのだ。今日のものも、僕に吐き気をもたらすほどに生々しかった。

携帯には、彼女から何回か電話が入っていた。きっと、様子がおかしかった僕を心配してのことだろう。彼女の、僕を心配しているような様子を思い出し、僕は幾分かの罪悪感を抱いた。もう、僕の中に湧いて出た「映像」に振り回されるのは沢山だった。それは、どうしたって現実にはなれない。どんなにリアルでも、実際には質感はない。勘違いしてはいけない。裏を見た気になっても、それは、それこそがただ、平面だ。薄っぺらく、それが現実であるという確証はどこにもない。しかし、すぐにそれをかけ直すことができなかった。しばらくの逡巡の後、ようやく彼女に向けて電話をかけた。二回の呼び出し音の後、彼女はすぐに愛想のいい声でそれに応えた。
「もしもし、全然電話出てくれないから心配したよー」
彼女の口調は、明るかった。一点の曇りもなく、真っ直ぐに僕の中へと落ちていく。はずだった。しかし、僕には彼女が発するものの全てが嘘に聞こえた。映像の中で、妖艶に歪んでいたあの形のいい唇は、嘘を簡単に紡ぎ出してしまう気がした。
「ああ、ごめん。帰ってすぐ、疲れて寝てたんだ」
「そっかそっか……なんか、相当疲れてた様子だったもんね」
 そうだね。返答をしたあと、しばらく他愛も無い会話が続いた。そんな中で、ふと、彼女は少し口調を変えて、それを口にした。
「……ねえ、こないだは楽しかったね」
 彼女の声で紡ぎ出されるその言葉。その言葉は、「仕事仲間」のそれではなく、一人の「女」としてのものとして僕の耳に届いた。思わず、電話を切りそうになる。衝動をぐっとこらえて、僕は次を続けた。
「うん。ちょうど、俺も酒飲みたかったし」
「私も。なんか、仕事のストレスとか……ああして飲んだらスッキリするもんだね」
 こないだ、二人で飲みに行った時の話だった。あの時の僕は、彼女と二人になれたことで浮かれていた。あんなに彼女に対し熱を抱いていた自分が、あれだけでこんなに冷めてしまうなんて。
「そうだね」
「だから、ねえ……また、私と飲みに行ってくれる?」
 彼女の言葉に対する返答は、なかなか僕の中から出てこなかった。それでも、不自然な沈黙を僕は作らなかった。少しも本心でない言葉で、電話を切って彼女の「女」としての声から逃げたいという衝動を打破した。
「もちろん、俺は構わないよ」
 嬉しい。ありがとう。電話の向こう、彼女が喜んでいるのが聞こえる。その言葉を聞いたあと、じゃあ、そろそろ風呂に入るから。切るね。そんなお決まりの言葉で、彼女との通話を終わらせた。

 電話を切って、僕はやっと一息つく。もちろん俺は構わないよ。その言葉は本心から湧いて出たものではなかったけど、彼女の、僕と一緒に飲みにいきたいという言葉だって、きっと本心からのものではないのだ。あんな映像を見る前の僕なら、きっと手放しに喜んでいたのだろう。しかし、今の僕にとって彼女の言葉は、苦痛をもたらす以外の何物でもなかった。彼女に関する噂は広まりすぎた。最初、彼女は笑って済ませていたのだろう。これぐらい、どうってことはない。きっと、自分に嫉妬している女達の戯言、として、みんな悪質な嘘と捉えるだろう。そう思っていたのかもしれない。しかし、その噂は収縮することなく、むしろ指数関数的なスピードで彼女の周囲に広まっていった。彼女はきっと、味方が欲しかった。それで、僕は選ばれた。好意でもなんでもない。ただ、自分の味方でいてくれる、都合のいい存在が欲しかっただけだ。あの映像は、僕にそれを気づかせた。気づいてしまった瞬間、彼女への熱は冷め、抱いた好意は、ぼろぼろと崩れていってしまった。

そして、僕は彼女からの着信の前にもう一つ、着信が入っていたことに気づいた。ゼロハチゼロから始まる番号。誰かの携帯からだった。登録されていない番号であり、留守電も入っていなかったが、一応、かけ直すことにした。すぐに電話に出た彼女に比べて、その電話の主は五回のコールでもまだそれも出なかった。かと言って、留守電にも切り替わらない。痺れを切らした僕は、手元にあったシャーペンで、メモ帳にぐちゃぐちゃと意味のない絵を書いた。それがどんどん複雑なものになっても、一向に電話の主がそれに出る気配はない。ついに一度切ってしまった瞬間、向こうから電話がかけ直された。
「もしもし」
「……もしもし。鈴木?」
 聞こえてきた声は男のものだった。しかし、その声に聞き覚えはない。しばらく、僕はその声について考えた。しかし、僕が結論を出す前に、その声の主は口を開いた。
「ああ、いきなり電話して悪かった。俺だよ。高三の時同じクラスだった、日高だよ。覚えてねえかな」
「日高……ああ!」
「お、覚えててくれたか。お前、メールの返信来ないんだもんよ。電話したほうが早いかなって。前の、同窓会の開催と参加についてのメールは、隅田にアドレス聞いて、それでお前に送ってただろ? その時、一応電話番号も聞いてたんだよ。いきなりで、あとさっきは出れなくて悪かったな。風呂入ってて、慌てて出たんだけど俺がケータイ手に取った瞬間切れちゃった」
「メール……ああ、同窓会のか。確認したら返信くれ、ってやつ。ごめん。返信は忘れてたけど、メールは読んだよ」
 十月に開催される、高三のクラスでの同窓会。それの場所と時間に関するメールに対し、僕は返信をしていなかった。日高――久しぶりに聞くクラスメイトの声に、先程までの緊張感が嘘のように僕は安心していた。
「そういえば、あれって他に誰が来るんだ?」
「結構来るぜー。いまんところ、二十人くらいかな。まあ、残念ながら断られたやつも何人かいるけど。そうだな。テジとか、ナギとか……」
 ナギ――その名前に、一瞬心臓が締め付けられる。忘れていた緊張感が、再度僕の元に訪れていた。彼の顔が一瞬脳裏に浮かび、思わず僕は先ほどと同じようにシャーペンでぐちゃぐちゃと乱雑な線を書いた。
その後、しばらくの他愛も無い会話の後、電話を切る。先程まで電話を当てていた右耳が、じわりと熱かった。その熱をうっとおしく思うくらいに、僕はとても疲れていた。すぐに、ベッドに沈み込む。瞬間、一日分の疲労とそれが読んだ睡魔が僕に襲い掛かり、僕はあっけなくそれに屈した。

那木八尋は、高三の時のクラスメイトだった。本当にこれといった特徴はない。成績も、容姿も、特別良くもないし、悪くもない。中肉中背で、成績も平均。生きてくのに、特別優れてもなければ、特別不便でもない。ただただ、「普通」という言葉が似合う男だった。僕と彼は、放課後によく一緒に勉強をしていた。主に、僕が彼に数学を教え、彼が僕に英語を教える。僕は入学当初から帰宅部だったし、彼はもともと水泳部に所属していたが、一年生の時に退部してそのときは僕と同じように放課後の予定は特になかったので、週に二・三回はその勉強会が開かれていた。元々、なぜそんな勉強会が開かれるようになったのかを、僕は明確には覚えていない。確か、彼からの提案だったと思うが、どのように誘われたのかは定かではない。僕と彼は、勉強の合間にいろいろな話をした。部活のこと、将来のこと、漫画やゲームのこと、クラスメイトのこと……僕と彼は、元々そこまで仲が良いわけではなかったが、そういった雑談を重ねるにつれて親しくなっていった。
ある日――もう、季節がいつだったのかも分からない。僕と那木はいつもどおり放課後話をしていた。どんな話題だったかは覚えていないが、とにかく、何も変わったことはない。普段通りの、放課後だった。今となっては、どんな流れで、そうなったのかは分からない。ただその時、彼は僕に触った。瞬間、僕の中に輪郭が生まれた。そして、怒涛の様にそれは流れ込んできた。
映像。流れ込んでくるそれは、確かに視界のみから僕の中に流入した。しかし、それはすぐに僕の五感に襲いかかった。殴られた時の感触で、蹴られた時の痛みで、噛み締めた血の味で、泥臭い路地の臭いで、汚い言葉を浴びせられた時の、耳に残る残響だった。僕の中の彼は、那木八尋は、複数の男達に殴られ、苦痛に顔を歪めていた。
その映像を最初見たとき、僕は彼に何が起こっているのか、彼がどんな立場にあるのかを、理解できなかった。そして僕は恐る恐る、半ば怖いもの見たさで毎日彼の体に触れた。ずっと行ってきた、能力のコントロール。それを解き放って、ひたすらに彼の一日前を追い続けた。そして僕は、彼が、長期に渡って理不尽な暴力に耐えていることを知った。彼がほぼ毎日、放課後、僕と別れた後の僕の知らない世界で、地獄を見ていることを知った。彼は、ごく普通の男だった。クラスでは、虐められている様子も少しもなく、いつもクラスメイトと談笑していた。現在もそうだったし、そんな過去があるようにも少しも思えなかった。しかし、彼は虐げられていた。それはジグソーパズルのピースのように、彼の生活に埋め込まれているのだろう。でも、絶対に正しいものではない。ひどく歪んでいて、本当なら、絶対に受け入れてはいけないし、受け入れられるものではない。ただ、彼はそれを受け入れてしまっている。そのピースを迎合するように、きっと彼自身が歪んでしまったのだと、高三の僕はそう思っていた。
僕はそれを、受け入れたくなかった。しかしどんなに彼が笑ってみせても、その裏側には彼の悲痛な表情が見えた。分別がつかない人間というにはどこにでもいるものなのだ。傷つくことを知ってか、知らずにか、そんなことはどちらでも良い。どちらにせよ、彼らは酷い言葉と、時には暴力で、他人の心を体を抉りとる。そして、その暴力を受け入れる人物も同時に存在する。そして、僕は、その双方が恐ろしかった。彼は被害者なのだと、頭では分かっている。でも頭では分かっていても、それを迎合できるわけではない。結局、植えつけられた恐怖、それにはどんな思考も意志も叶わなかった。百聞は一見に如かず。そして、僕の中に流れ込むその映像は、ただ視覚のみに訴えるそれよりも何倍も凶暴で、害悪だった。僕はただ、彼が怖かった。彼に地獄を見せている存在よりも、彼の、決して僕には見せない悲痛の方が、僕には怖くて仕方なかった。そして、僕は彼から逃げた。いとも簡単に、彼を裏切った。まず、僕は放課後の彼からの誘いを断った。家の用事で、中学の時の友達と約束してるから……様々な理由をつけて、僕は彼を拒んだ。そのうち、彼は放課後僕に声をかけることはなくなった。幸い、すぐに卒業を迎えたので、彼とそれ以上接することはなくなった。
彼がどうなったのか、僕は知らない。きっと、どこかで元気に暮らしているのだろう。そう思いたかった。就職しているか、大学は僕と同様工学部に進んだはずだから、大学院まで進んでいるのかもしれない。でも、現在の彼がどんな生活を送っているにせよ、きっとその彼に僕が会うことはない。図らずも、僕は彼を突き放した。一言でも、僕が何か声をかけていれば、彼は救われたのかもしれない。しかし、僕はそれをしなかった。「できなかった」のほうが正しいのかもしれない。どちらにしろ、脳裏に浮かんだ映像という、ひとつも論理的ではないそれだけの理由で僕は彼を見捨てた。分かっていた。僕の問題であり、決して彼を巻き込んでいいものではなかった。誰かに理解されるものではない。それを分かっていたからこそ、僕は、幼かった僕は、それを隠し通すことで周りに打ち解けようとした。ならば、それを貫かなくてはいけないのではないか。誰にも、迷惑をかけるべきではないのではないか。葛藤した。しかし、その葛藤さえも打ち砕くほど、その映像は僕の精神を摩耗した。一つも根拠のない映像。あの映像が僕の中に生まれたとき、僕はいつも、まるで自分が被虐されているような錯覚に囚われた。それが事実であるという確証がない限り、それは、言ってしまえば僕の「妄想」だった。けど、それが僕に悪影響を及ぼしたのは、妄想でもなんでもない事実だった。でも事実であっても、やっぱりそれは理由にはなり得なかった。だからこそ、僕は何も言わず彼から逃げるしかなかった。そんな風に逃げてしまった僕は、彼に会う資格も、彼ともう一度相対する勇気も、会う理由も、何一つとして持っていなかった。だから、彼が同窓会に来ないと知った時、ものすごく安堵したのだ。
そのまま僕は、彼と過ごした日々について邂逅する。
命題と論証、彼にそれを教えたことがあった。命題に対し、その命題がもし正なら、その対偶も正。その話を彼にした時、彼はある例を持ち出してきた。冬の寒さを経ざれば春の暖かさを知らず。俺の好きな言葉なんだ。じゃあ、これを命題とすれば、その対偶を取れば、春の暖かさを知ったなら、既に冬の寒さを経ている、ということになるのかな。つまり、例えば幸せな人間は、須らく皆苦しみを知っているのだそうか……
 僕はそれに、どう返していいのかわからなかった。その格言に、その論理学を当てはめて考えるのは果たして正しいのか。あるいは、彼にとってそれが正しいか正しくないかに全く意味はないのか、ただ、それについて話していたときの彼の表情はとても切なそうだった。
冬の寒さを経ざれば、春の暖かさを知らず。
しかし、彼の苦痛は、果たして暖かい春に通じていたのだろうか。ただ、寒さに凍らされ、砕かれてしまうだけではないか。彼は、いつも暴力から身を守るように体を縮こませていた。彼は、自分が冬眠する虫や蛙のように感じていたのだろうか。その言葉を、呪文のように頭の中で唱え続けただろうか。同時に、彼が言っていた対偶の話を思い出した。春の暖かさを知っているなら、冬の寒さを経ている。自分を虐げている連中は、幸せの絶頂にいるように見える連中は、はたして厳冬を乗り越えこの場所にいるのだろうか。そんなことを、彼は信じたくないはずだった。しかし、対偶が偽なら命題も偽だ。そうなると、自分は春を迎えられない……彼は、そんなことまで思っていたのだろうか。春を迎えたいと、切実に願ったのだろうか。時々、彼が僕の方を見ていることがあった。僕の方にじっと視線を向け、しかし目が合うとすぐに逸らす。彼は、助けてほしいと思ったに違いない。そして僕は、彼を助けるべきだったのだ。何度、心の中で彼に謝罪をしたかわからない。気が遠くなるほど、僕は彼に謝った。しかし、それは所詮形にならない、どれだけ謝罪を重ねても、それは彼には届かない。僕と彼とを繋ぐ架け橋には成り得ない。僕の罪は許されない。許されてはいけなかった。

僕は、大学では機械工学を専攻した。金属の質感などは、人肌の柔らかさ、暖かさ、それとは程遠い。数式も、シャーペンで次々とそれを紡ぎ出す瞬間など、最高に心地よかった。微分積分、複素解析、線形代数学……どこか現実離れした学問たちは、難しかったが関わっていると楽だった。どんなに触れて撫で回しても、そこからは何なだれ込んでこない。それが、僕に安息をもたらした。しかし、それでも時々、数式の羅列など見ていると、彼と過ごした日々を思い出すことがあった。彼の尖った字や、問題の答えを考えている時の真剣な表情。それを思い出すたび、ただ僕は謝った。それはまるで、死者を成仏させるためのお経のようだった。ただ、唱えれば唱えるほど、虚しくなるだけでそれによって救われるモノなど何もないという点で、それは経と違い、どこまでも無価値だった。
 
 日高の言ったとおり、クラス会に、彼は来なかった。
僕がいたクラスは理数科だったため、八割方が男だ。それでも大学の工学部に比べれば可愛いものだ。何人か、結婚しているクラスメイトもいた。あの頃、毎日制服で顔を突き合わせていた僕らが、今、こうやって再会している。なんだか、感慨深いものがあった。
「鈴木、久しぶりー」
 幹事の日高から声をかけられる。メールや電話ではやり取りしたものの、実際に会うのは六年ぶりだった。当然のことだろうが、あの時よりも顔つきが大人っぽくなっている。
「久しぶり。なんか、やっぱみんな変わってるよなー。結婚してる奴も結構いるみたいだし」
「だよなー。鈴木は? 彼女とかいんの?」
「いや……会社は入ったばっかだし、大学も工学部で、しかも機械だったから、学科に女子もいないかったな」
「まじかよ。寂しーなあ」
「まあ、しょうがないんじゃないかな」
「同期とか、女いないの? さすがに技術職以外でならいるだろ」
 同期とか、その言葉に、僕は彼女のことを思い出した。
「今んところ、そういう相手にしたい人はいないな。なんか、いい子いたら紹介してくれ」
 そんな奴いたら、むしろ俺がつきあいたいっつーの。なんだよ、寂しい奴とか言っといて、おまえも独り身かよ。しばらく、こんなくだらない会話が続いていた。その途中、日高はふと周りを見渡す。
「そういえば今日、テジは結局来たのにナギは来てないな」
「え、手島は結局来れたんだ」
「ああ。なんか、気が変わったらしい。勝手だよなーあいつも。三日前に、やっぱ行く、って連絡が来てさ。急すぎるっつーの」
 手島孝介。クラスメイトで、那木八尋の友人だった。面倒見がいいタイプで、同性、異性問わず友人も多かった。とりわけ、一年の時に同じ部活に属していた那木とは仲が特に良く、クラスでもよく一緒にいた。僕とは、特に仲が良かったわけでも、だからといって仲が悪かったわけでもない。クラスメイト、と称するに相応しい距離が、僕と彼との間には常にあった。その距離からすれば、この同窓会において、僕が彼に話しかけないのも、彼が僕に話しかけないのも、ある意味当然のことだった。僕は、手島にもあまり関わりたくなかった。彼と話せば、那木の話題がきっと出るだろう。それに、僕は怯えた。だから今日、なるべく手島がいるグループとは違うところで過ごすことに徹した。こんな虚しい努力をするぐらいなら、そもそもこの同窓会に来ない方が良かったのではないかと、何度も自嘲の溜息が漏れた。

 夜の九時ごろ、会はお開きになった。僕は比較的飲んでいない方だったが。それでも、幾分か気分が良くなっている程度には酔っ払っていた。終電の時間もあり、二次会にはもともと出る気がなかったので、僕は電車に乗るため駅に向かっていた。その途中で、彼に声をかけられたのだ。この後、サシで飲みに行かないか。手島は、僕にむかってそう言った。断りづらかったのと、酔って正常な判断が出来なくなっていたことで、あれだけ手島と関わらないように徹していたのに、僕はいとも簡単にその誘いを承諾してしまった。

「最近、どうだ」
 飲み屋に着き、定型文のようなそのセリフから、僕たちの会話は始まった。人付き合いが上手い手島が、そんな不自然なセリフからでしか会話を始められないことで、僕は彼が何か目的があって僕を誘ったのだということを悟った。
「仕事に追われてる、としか言えないな」
「大変なんだな。なんか、そういう働いてる同期の話聞いてたら焦るんだよな。俺、まだ学生やってるから」
「でも手島、薬学部だったろ? すげえじゃん」
「そんなすごくねえよ。学科じゃ成績も下の方だ」
「でも、将来は薬剤師だろ。やっぱ、資格持ってるのって強いと思うぜ」
「うーん……そういえば、俺は六年生の学部だからまだ学生だけど、院に行ってる奴も、一応まだ学生、ってことになるんだよな」
「ああ、俺の同期でも……むしろ、研究室の同期とかは、院に行った奴の方が多かったな」
「ああ、やっぱり工学部ってそうなのか」
「そうだな」
「工学部……そういえばさ、鈴木、ナギ……覚えてるだろ」
 来た、そう思った。飲みに誘われた時点で、それに関する話題が出ることは分かっていた。そもそも手島は、同窓会の時点で、僕の方をちらちらと見てきていたのだ。何かあるということは、すぐに分かってしまった。
「覚えてるよ。那木八尋だろ」
「ああ、あいつも工学部でさ。でも、お前と学科は違う。あいつは化学系だっけか」
 那木は、数学よりも理科、特に化学の方が得意だった。妥当な選択だ、と思う。
「それで、あいつも院に進んだんだよ」
「そうだったんか」
「あいつ、大学から勉強一筋になってさ。サークルにも入らず、ひたすら勉強ばっかして、たまにバイトして、成績、学部一位とかになったらしいぜ」
「すごいじゃねえか」
「まあ、俺としては若干寂しかったけどな。鈴木、俺と那木が同じ部活だったのは覚えてるよな」
「知ってる、水泳部」
 水の中ってさあ、気持ちいーよ。最初は、それこそ全身、刺されたみたいに冷たいけど、だんだん慣れてくるんだ。いつか、彼はこんなことを言っていた。今になってその言葉を思い返すと、なんだか別の意味に聞こえる。
「といっても、部員俺らしかいなかったみたいだけどな。俺らが卒業した次の年には。廃部になったらしい。しかも、ナギだって、一年の終わりには退部したしな。訳わかんねえよあいつ。何も理由を言わず、急にやめる、ってさあ」
「へえー……」
 那木は、執拗に暴行を受けていた。きっと、体には多くの痣があるのだろう。それと、水泳部の退部とは関係あるのだろうか。
「まあ、廃部の件は仕方ないけどな。でも六年も経ったのに、未だに復活してないらしくて、それはちょっとさみしいけど」
 六年も、その言葉に、僕は自分が歩んできた月日が相当に長いものであったことを改めて実感した。
「まあ、それはいいや。なんか、俺は大学でも水泳続けて、ちょっとは、ナギも大学から水泳を再開してくれるのを期待してたんだけど、そんなこともなくて、若干寂しかったなあ」
 終電の時間が、近づいていた。きっと手島は、こんなことだけをだらだらと語りたいわけではないだろう。そして僕だって、こうして呼び出されたなら手島の本当の目的を知りたかった。酔いは相変わらず残っている。しかも、飲み直したことによりそれは色濃くなり、頭は先程よりずっとぼんやりとして、思考はフィルターをかけているかのようにおぼつかなかった。そしてそのせいで、今の僕は正常な判断ができなくなっている上、少し気が大きく、なおかつ強くなっていた。普段の僕なら、決して手島の意図を探ることはせず、他愛もない会話で時間を稼ぎ、彼が目的に手を伸ばそうとしたら、終電がとか適当な理由をつけて彼から離れようとしただろう。しかし、今の僕はそれをしなかった。那木に何をした。そんな風に責められても、それでもいい。手島の目的を、僕は知りたかった。そして、手島の方を真っ直ぐに見据え、次の言葉を放った。
「なあ手島、なんで、ここに俺を誘ったんだよ」
「え?」
「いや、何か、相談したいことがあるとか、大事な、言わないといけないことがあるとかかと思って」
「ああ、そうだな、えっと……」
 しばらく、手島は言葉を選ぶような素振りを見せていた。しかししばらく考えたあと、吹っ切れたような表情になって、僕の方に向き直った。
「鈴木、ナギに会わないか」
 考えた末、彼は一番シンプルな言葉を使うことにしたようだった。そして彼は、おそらく僕を呼んだ目的であるそれを口にした。
「ナギとは、今でもたまに一緒に飲むんだ。それで前に飲んだ時、ナギに聞いたんだよ。お前は同窓会行くかって。ナギ、最初は行くって言ってたんだよ。でも、誰が来るのかって聞かれて、日高から聞いてた参加メンバーのことを言ったら。急に黙りこくって。それで、次の日メールで、やっぱり行かない、って言われたんだ。それでその時、俺が告げたメンバーで、ナギと接点あったのってお前だけだったから……俺、実は高三の時もお前とナギのことがちょっと気にかかってたんだよな。お前ら、放課後よく勉強会開いてたじゃん。でも、急にそれが無くなって、それで、その後ナギが元気なくなってたから、なんかあったのかなあ、って」
 心が、ひどく痛んだ。やはり、那木は自分のせいで傷ついていたのだ。
「おせっかいかもしれないけど、もし喧嘩したとかなら、もう六年経ったんだし、これを機に仲直りするのもよくねえかなあ、って。」
 これは、チャンスなのかもしれなかった。僕は謝るべきだったし、実際、謝りたいとずっと思っていた。しかし、実際にそれを目の前に突きつけられると、どうしようもなく怖くなった。会いたくない。僕の深いところが、そう叫んでいる。自分が傷つけた彼に、会いたくない。思い出したくない。彼の悲痛を、そしてそれを捨てた僕自身を、思い出したくない。正常な判断ができなくなっている今の僕でも、まだそれを捨てる勇気までは持てなかった。
「ごめん。会いたくないわけじゃないんだけど、今、仕事が忙しいから……」
 結局、僕はそれを受け入れなかった。手島も、おせっかいで申し訳なかった、その謝罪だけを僕に向け、それ以上は何も言わなかった。手島の連絡先だけをもらい、僕らは別れた。手島の後ろ姿を見送った後、僕はどうしようもないやるせなさに襲われた。結局、自分は逃げ続ける。手島が与えてくれた折角の機会を、僕は無下にしてしまった。ごめん。手島に向けてなのか、那木に向けてなのかは分からない。僕はまた、意味のない謝罪を重ねていた。

彼女の目が、雫で濡れているのが見えた。机の上に乗せられた手。左手の上に右手が添えられ、右手の指は左手の甲のあたりをぎゅっと握っている。僕は、彼女の白い皮膚に爪が食い込むのを見ていた。それを見ながら、彼女の言葉を待った。彼女の重苦しい告白が、始まろうとしていた。
「私、小野課長と寝たの」
 彼女に呼び出されたのは、仕事が終わって帰ろうとした時だった。相談があるの。この後、一緒に夕飯食べに行こう。有無を言わさぬ彼女の口調に、僕は断ることができなかった。店に入り、席に着いてから、彼女はずっと黙りこくっていた。そして、決意の表情の後、それを静かに語り始めたのだ。
「課長との関係、辞めたいの。でも、私が彼を拒んで、会社にいられなくなったらどうしよう、って。それで、どうすることもできないの」
彼女は涙ぐんでいた。しかしその表情には、どこか媚びるような色が含まれていた。僕はそれに苛立ちを覚える。きっと、彼女は確信を持っているのだ、僕が――自分の目の前にいる同期の男が、確実に自分の味方をすると考えている。涙の裏に、そんな狡猾な打算が含まれている。かつて好意を抱いた彼女に、僕はもう嫌悪の感情しか持てなかった。何より、僕の中に湧いて出たそれが、僕の妄想でもなんでもなく、現実だと判明したことがひどく僕を困憊させた。疑いが確証に変わる。中学の時、少し気になっていた女子から、その子がほかの男子と手をつないで歩いている映像を見てしまって、後でその子と男子が本当に付き合っているということを知った時など、何度か、これまでにも同じような経験があった。でも何度経験しても、その時に抱くやるせなさは変わらない。そして今回もまた、それは変わらなかった。そして、同時に僕は思う。あの映像を見ずに、彼女から事実だけを伝えられていれば……また変わっていたのだろう。僕はそれを、もっとすんなりと受け入れられたかもしれないし、彼女にもっと優しくすることができたかもしれない。でも、僕にはそれはできなかった。そして、さらに僕は思う。こんな風に、高校生の時のあの出来事に関しても、彼が言葉で伝えてくれれば、どんなに楽だっただろう。どんなに彼が雄弁に自分の痛みや苦痛を語ったとしても、僕はその痛みを彼のものとして捉えることが出来ただろうし、僕は彼のその痛みに翻弄されなかっただろう。あの感覚に襲われると、もう駄目なんだ。あの輪郭が僕と相手を囲い込んで、お互いの境界を曖昧にしてしまう。全ての苦痛は、自分にのしかかってしまう。
「鈴木くん、私でも……こんな私でも、これからも仲良くしてくれる?」
 僕はふと、命題と論証のことを思い出した。命題は、「あの映像――『それ』がなければ、僕は許せる」その裏を取るなら、「『それ』があれば、僕は許せない」どちらも真だ、と思った。そして、僕はもう、彼女に関する「それ」を見てしまっている。僕は、彼女を許すことができなかった。しかし、彼女は僕に許しを請う。僕に、仲良くしてほしいと願う。僕はそんな彼女に、冷たく言い放った。
「……俺は、見なかったことにする。別に、原田さんが課長と……なんてことを、誰かにばらすつもりはない。でも、悪いけど、やっぱり不倫は常識的にどうかとは思ってしまう。それに、不倫の件はあれだけど……小野課長は良い人だから、別に別れを切り出したからってどうこう、ってことはないと思う。だから、別に原田さんが、そんなに辛い思いをすることもきっとない。だから、俺は見なかったことにするよ。何もしないけど……助けるってのも、俺にはできないと思う」
「そんな……」
 彼女が、震えた声でそう呟く。耳を塞いでしまいたいと思った。しかしそれは出来ず、その代わりに彼女から目を逸らした。しばらく、沈黙が続いた。そして彼女は、自分が食べた分の金額をテーブルに置き、何も言わずに席を立った。ごめんなさい。小さく謝って、僕の横を通り去っていく。残された僕は、やっと顔を上げ、彼女が去ったあとの空席をぼんやりと見つめていた。彼女の悲痛な声が離れない。彼女がいなくなったことで、僕はやっと耳を塞いだ。しかしすぐに、彼女が去った今、それは意味のない愚行であったことに気づき。辞める。ひたすらに空席を眺めていると、ふと懐かしい感覚に囚われる。自分を頼る人物を裏切る、そんな既視感。以前にも、こんなことがあった。そしてしばらくの逡巡のあと、僕は思いだしてしまった。なぜ、僕があの時彼に触れたのかを。
 
放課後、僕と那木はいつも通りに他愛も無い話をしていた。季節は確か初夏で、大会前の野球部が、いつにも増して張り切って練習している声が、開け放たれた窓から聞こえていた。蝉の声、バットがボールを打つ音、吹奏楽部の演奏……外では様々な音が飛び交っていたが、教室の中にある音は僕らの声だけだった。
「俺、あんま友達がいないんだよなあ」
 ふと、ぽつりと那木が漏らす。ただでさえ気が緩めば陰鬱になるその空間に、那木の言葉はあまりにも暗かった。だから、僕はあえて軽い調子で、那木に言葉を返した。
「そうか? いろんな奴と話してんじゃん」
「そう、なのかなあ」
「手島とか、特に仲いいだろ」
「テジは同じ部活だったからな」
 だらだらと続く、いつもの意味のない会話のはずだった。それは、那木が次に放った言葉によって、一気に哲学的な話題へと変化した。
「友達の定義って、なんなんだろうな」
 単純な疑問から湧いて出た言葉だと、当時の僕はその時気にも止めなかった。しかし今思えば、それは幾分かの寂しさと、悲痛を孕んでいたに違いなかった。
「いきなり、難しいこと言うな」
「……ちょっと気になっただけだけどな」
「同じクラスだから友達、ってわけでもないしなあ」
「よく話したら、とか? なんか違う気がするよな」
「メアドを知ってたら? それも違うよな」
「遊ぶことが多かったら、とか」
「……てか普通に、友達だと思ったら、じゃねえのかな」
 僕のその言葉に、那木が視線をこちらに向ける。その後、言葉を真っ直ぐに放った。
「でも、それで友達だと思ってるのが一方だけだとしたら?」
 その指摘に、思わず僕は彼から視線を逸らした。だから僕はその時、真っ直ぐ僕に向けられた彼の視線も、言葉の裏側にあった彼の思いも知らなかった。それで、彼の目を見ずに、ただ茶化すような言葉で答えたのだ。
「そんな、悲しいこと言うなよ。なんか辛くなるじゃねえか」
「悪い。でも、言い出しといてなんだけど、こんなことの定義を決めるのって出来ないよな」
「そりゃそうだろうな。結局、話し合っても答えは出ない……ってわけでこの話題はやめ! 勉強再開だ」
 そう言って、僕が手元の教科書に視線を落としても、那木はずっと考え込んだ様子でいた。そして、戸惑いを含んだ口調で、しかし視線だけは相変わらず僕の方にまっすぐと向けて、次の言葉を放った。
「なあ、俺と鈴木は……友達、ってことでいいのか」
 きっと彼にとっては、ひどく重い確認の言葉だった。しかし、当時の僕はその言葉も、軽く受け止めた。再び僕は視線を彼の方に向けず、言葉だけで彼に答えた。
「そうなんじゃねえの? てか、いきなりそういう恥ずかしい確認するのやめようぜ」
「そうか……良かったよ」
 彼は、安心したかのような口調でそういった後、手元のテキストへと視線を落とした。再び、僕らのもとには沈黙が訪れていた。野球部の声、蝉の声、吹奏楽部の演奏、外からの音が、僕らに沈み込んでくる。ふと、那木が視線を上げた。それにつられて僕も視線をそちらに移すと、那木と目が合った。
「なあ鈴木、これからも仲良くしてくれ」
 そして、彼は僕の方に手を伸ばした。僕はその時、照れ臭くもあったけど、それ以上になんだか嬉しかったのだ。だから、ついそれを忘れていた。そして、彼の手と僕の手が触れる。その瞬間、衝撃が走る。友情、それを引き裂く忌々しいそれが、僕の中に生まれ出たのだ。そして彼が僕から手を離し、僕の中から映像が消えたとき、僕は彼に怯えた。もう彼の方をまともに見ることができず、真っ直ぐに僕を見る彼の視線から、逃げるように必死で目を逸らした。

 忘れていた、記憶だった。僕は彼に関する記憶、特にその映像に関することのほとんどを、あの映像の衝撃で忘れてしまっていた。しかし、彼女とのやり取りの中で、それを思いだしてしまった。彼は、僕に近づこうとしていた。そして、僕もそれに応えた。しかしその後すぐに……きっと最悪なタイミングで、僕は彼を裏切った。僕がこのことを忘れていたのは、の映像のせいだけではきっとない。これが、自分にとって、ひどく都合の悪い記憶だったからだ。きっと、僕は彼を絶望させた。友達だと思っていた僕に、裏切られた。だから。僕はその記憶を忘れていた。僕の逃避癖は、僕の本能までを染め上げていたのだ。叫んで暴れまわりたくなるほど、僕は後悔した。僕は、彼の春を彼から奪った。厳冬に、彼を閉じ込めようとした。記憶は、僕に大きすぎる後悔をもたらせた。しかし、同時に、僕に決意ももたらせた。彼に会いたい。六年という月日を経て、初めて僕はそう思った。

そして約束の日、僕は予定よりも三十分も早くそこについてしまった。約束したレストランで、僕はただ彼、那木八尋を待った。そして、時間通りに現れた彼は、少しも六年前と変わっていなかった。少し気の弱そうな表情も、人当たりの良さそうな態度も、僕の記憶の中にある那木八尋そのものだった。だからこそ、胸は痛み、再び僕に警告音を鳴らした。
「鈴木、久しぶりだな」
「……久しぶり」
 あの後、僕は手島に連絡を取り、那木に会いたい。その意思を告げた。そして、手島を仲介して連絡を取り合い、今日の約束を取り付けた。そうして六年ぶりに会った那木八尋は、あの時と全く同じ表情を、僕へと向けた。
「あのさ、テジから、どんなこと聞いた?」
「えっと……なんか、那木と喧嘩してたのか、とか聞かれた」
「そうだったのか。なんか、テジにも鈴木にも、迷惑かけちゃったなあ」
 彼が弱く笑う。切なさそうな表情も、あの時と全く同じものだった。それは懐かしさというより、歯がゆさと苛立ちを僕に与えた。自分は、彼を裏切った、少しも悪くない彼を、身勝手な理由で見捨てた。そんな事実を、改めて認識させられるような、そんな、罪悪感を投げつけてくる表情だった。
手島と同じく、那木はすぐには核心に触れる話題を出さなかった。僕も、それを持ちかける勇気はなかった。しばらく、意味のない会話は続いた。しかし話題は、今現在の僕らのことから、高三の時の僕らのことへと移り変わっていった。核心に触れていくなら今だ。僕はそう思った。しかし、僕が口を開くより先に、彼は僕の方をまっすぐと見据え、ついに、それについての話題を口にした。
「……勉強会、やったよな。夏休みの前には終わったから、一ヶ月だけとかだったけど、あれで俺、数学がそれまでダメダメだったのに、ちょっと出来るようになったんだよ」
 なぜ、終わらせたのか、なぜ、俺を避けたのか――それを聞きたいに決まっていた。しかし、那木はいつまで経ってもそれを切り出さず、あの勉強会についての他愛もない話を続けていった。おそらく、そういう僕を責めるような言葉を使って、六年前のことを話す気もないのだろう。彼の優しさが、僕に罪悪感をどんどん積もらせていった。いっそ、責め立ててくれた方がまだ楽だったかもしれなかった。
「……俺、放課後に鈴木と勉強してるあの時、幸せだったんだ。鈴木と友達になれて嬉しかったんだ」
そして、彼は言い放った。一点の曇りもない、「クラスメイト」としてではない、「那木八尋」の言葉として、それは僕の心に響いた。故にその言葉は、僕にとって罪悪感を爆発させるにふさわしい威力を持っていた。思わず、僕は拳を握り締める。それに当然気づくことなく、彼は、続けた。
「俺、実はあの時、いじめられてたんだ。クラスでとかじゃなくて、同じ中学の奴に……でも、鈴木と一緒にいると、そんなことも忘れられるくらいに楽しかったんだ。」
 彼の口調に、少しも僕を責めてはいなかった。でも、僕はひどくその言葉に怯えていた。僕が彼を突き放した当時において、僕は彼の心の支えとなっていたのだ。しかし、僕は彼を、理不尽で、身勝手で、根拠のない理由だけで避けていた。それを考えると、僕は、僕が思った以上に彼のことを裏切っていたのだ。
「あの時、殴られても、蹴られても、抵抗できなかった。苦痛で仕方なかったのに、それに抗えなかった。毎日、辛くて苦しくて、どうしようもなかった」
 その言葉に、僕は自分がもう一つ過ちを犯していたことを知った。映像が、その人物の心までは読めないことに起因する誤解だ。僕は彼がずっと、抵抗を諦めて、それで反抗していないのだと思っていた。しかしそれは間違っていた。考えれば、当たり前すぎることだった。なのに僕は、彼は歪んだ理不尽に適応するべく、自らを歪ませてしまったのだと勘違いしていた。あの時、彼の内側にあったものは歪みでもなんでもない、ただ「恐怖」そんな当たり前の感情だった。いくら鮮明で、五感に訴えかけてくるものであっても、所詮僕は傍観者であった。あの映像が、本当のことか、本当のことでないか。そればかりにとらわれて、大切なことが見えていなかった。どんなに辛い思いを僕がしても、あの苦しみは僕のものではない。「傍観者」としての僕は、どうしたって彼らにはなりえない。僕は、地獄のような苦痛に耐えた那木八尋にもなれないし、涙声で僕に助けを求めたあの同期の彼女にもなれない……僕は、彼女のことも同時に思い出していた。
「でも、今は幸せなんだ。もうあの時のことは忘れてる。研究生活は楽しいし、ためになることも多い。友達だっているし、彼女もできた。だから、大丈夫だ。それで……俺、鈴木に謝りたかったんだ。俺は鈴木と一緒に居れて楽しかったけど、鈴木からすれば、自分の勉強の時間を奪われて、迷惑だったんじゃないかって……それで、ずっと謝りたかったんだ。でも、なんか照れくさいというか、自分の被害妄想な気がして、それができなかった。なんとなく、同窓会も行きづらくて、欠席してしまった」
「……那木」
 僕は、全てをあの映像のせいにした。それで、那木や彼女を見放し続けた。しかし、責任は僕にあったのだ。ただ謝罪をするだけでは駄目で、僕はそれを分からなくてはいけなかったのだ。
「ごめん……本当にごめん」
そして、僕は初めて彼にまともに向き合って謝った。何百回もの謝罪の上に、やっと形のあるそれを乗せる。その謝罪さえ、意味のないものなのかもしれなかった。しかし、ただ、本当の意味で自分の罪を認めたうえで、謝りたかった。自己満足でも、この際構わなかった。彼の実態を見なかった自分の愚かさを、とにかく謝りたかった。あの能力のこと、それに対する自分の苦悩や考え方を説明したところで、理解は得られない。だからただ、一見根拠のない懺悔を続けることしか出来ない。それ以上も、それ以下も僕にはどうせ出来ないのだ。
 なんで、鈴木が謝るんだよ。鈴木が謝ることじゃないよ。俺が勝手に、そっちを巻き込もうとしたんだ。彼の言葉は、僕を責めるものとは程遠い。僕は、クラスメイトとしての彼を裏切ったと思っていた。でも彼は、クラスメイト、友人――それ以上の存在に、裏切られた。彼は何も聞かない。なぜ、僕が急に彼を避けたのかを。きっと、彼の中で僕は、迷惑をかけられて、だから自分を避けた人物ということになっているのだろう。誤解だった。でも、その誤解を僕は解くことはできない。いつかの僕が那木を誤解し続けていたのと同じように、那木も僕を誤解し続けるしかない。本当の理由を、僕は彼に説明できない。しかし、彼は自分の力で春を迎えた。冬の寒さを経ざれば、春の暖かさを知らず。冬来たりなば、春遠からじ。彼は、今幸せなはずだ。でもそれでも、六年前救えなかった彼の悲痛な姿が、僕にははっきりと見えていた。僕は、亡霊のようなそれを、何とかして取り払いたかった。しかしそれは、どうしたって僕から離れてくれなかった。僕は現在の彼と、六年前の彼に、意味のない謝罪をひたすらに繰り返すしかなかった。後悔しても、もう遅い。この件については、もう終わってしまったのだ。意味のない、でも心からの謝罪。それしか、今の僕には術はなかった。
しかし、彼女は――僕が裏切ったもうひとりの人物である、彼女は違う。まだ、遅くはないのだ。那木と別れてすぐ、僕は携帯を手にとった。彼女は、救う事ができる。彼女の悲痛を、僕は受け止めることができる。連絡帳からその名前を探す。見つけ出し、震える指で、そっとそれに触れた。コール音が響く、一回、二回……僕はひたすらに、彼女を呼ぶその音を数えていた。


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