漂白剤と君の昼
わどり

一、夏休み八日目
 あつい。熱くて、熱くて、えきれずに体がけだす。どろどろになった僕の意識だけが、いつまでも残ってもがき続ける。そんな夢だった。
「あ……」
 吸った息が感覚を呼び戻していく。の間だ。の声と畳の香り。こげ茶色の天井から庭の方に顔を傾けると、に揺れると、それを見下ろす空の青があった。こわばった体を伸ばし伸ばし体を起こすと、そこはなんかではなく、慣れ親しんだ祖母の家だった。
 寝汗がTシャツを重くしていた。足元では、祖母がけてくれたのであろうタオルケットがぐしゃぐしゃに丸くなっている。細く長く深呼吸をすると、体は軽く、すっと楽になった。

もうすぐ産まれてくる妹のために、僕はこの夏、祖母の家に預けられている。電車を終点で降りて、家から小学校へ行くのと同じくらい歩いたところに祖母の家はあった。むかしは良い土をたくさんりだしてわっていたそうだが、今は何のお店もない静かなだ。
ここでは、流れる時間も都会とは違う。朝は好きな時に起きればいいし、おやつは十時に一度、お昼ご飯を挟んで三時にもう一度ある。祖母は基本的には優しいのだけれど、僕には面倒な決まりごともあった。それは、『お昼寝の時間』だ。三時のおやつを食べたら、僕は床の間でしばらく眠らないといけない。育ちざかりなんだから、と祖母は言うが、さんさんと日の降る畑や山を横目に昼寝だなんて、遊びたくって体がうずうずしている僕からするとゴウモンなのだった。しかも、『お昼寝の時間』の後には『お勉強の時間』が待っている。好きに遊べる『何でもない時間』はずっとずっと先なのだった。良い子のふりでタオルケットに丸まっても、祖母が皿を洗う音を一枚二枚と数えても、眠れない時は眠れない。
そんな時は、するように置かれたプラスチックの小さな時計を持って、こっそり庭から外に出る。最初こそ気づかれはしないかとえていたけど、そのドキドキも合わせて、すぐにこの時間が僕の一番の楽しみになった。

一度畑まで出てしまえば、生い茂る草や木のおかげでいくらでも人目を避けることができた。人手が少なくなったからだろう、山のふもとに広がる畑の半分くらいはされたもので、それらは他とはまた別に色づいている。セイタカアワダチソウの黄色、散り散りになった敷きの薄茶色、そこかしこで揺れるネコジャラシの薄緑。気持ちよさそうに風になびく草たちに誘われて、たまにそういう畑の中に入ってみるのだけれど、すぐに足や腕やそこかしこがくなってしまって、次の畑に逃げることになる。
ある畑には背の低い桃の木がたくさん植えてあった。果実にはそれぞれピンク色の紙袋が被せられていて、桃の木ならぬ紙袋の木という感じだ。紙袋とはいっても、正確には桃に上から被せられたカバーなので、下はぽっかりと開いている。下からまだ小さくて硬い実をのぞき見ることは、まるで女の子のスカートの中をのぞくみたいで、誰ともなく気まずくなるのだった。今日も桃の木の下はきがちで通り過ぎる。僕にとって、桃の木は紙袋の木で充分なんだ、まだ。

ジワジワと蝉の声だけが夏を支配している。畑の作業小屋のイスにもたれて目を閉じていた僕は、なんだがこのまま蝉になってしまいそうだった。
ふと、耳にらかな声が聞こえた気がした。一度聞こえると、蝉の声に埋もれながらもしっかりと判別することができる。このあたりはほとんどが開けた畑なので、ここらに人影が見えないということは山の方だろうか。ポケットから時計を出して確認すると、まだ時間に余裕はある。僕はゆるやかに続く山への道に向かった。
声は、歌っているようだった。声の高さからして女の子だろうか。高い声なのだけれど歌の調子は平坦で、どことなく寂しい感じがした。足に任せて歩いていると、山道はさっと開けて、木が切り払われた、なだらかな草原の広がる場所に出た。
まであるネコジャラシやら草やらがうっそうと生えているそのただ中に、黒いおかっぱ頭の女の子が座りこんでいる。どうやらあの子が歌っているらしい。上向いた横顔はどこを見ているのか、遠くのにでも歌いかけているみたいだった。僕はしばらくその姿に見とれてしまって、草むらに突っ立ったまま彼女の黒い髪を見ていた。滑らかな歌はどこまでも続くかに思えたけれど、しばらくするともなく終わった。
 ぽけっとしていた僕の方を向いて、彼女は何かを言って僕を手招きした。もしかしてかな、と思ったけれど、僕はそれほど怖くはなかった。草を払いのけて女の子のまで寄ってみると、彼女には一応足はあったし、服装も着物ではなかった。黒くて厚いおかっぱ頭に白いブラウスが眩しく、深い紺のスカートは大人しい印象を与える。特別色白というわけではないが、おかっぱに刈られた髪からのぞく細い首の、そのうなじが僕の目をいた。っていてはきまりが悪いので、僕はなんだか慌てて「歌が聞こえたから」と言った。
 女の子はきもせずに僕をじっと見ている。僕には数百秒とも数千秒ともとれる時間の後、女の子はそのらかそうな唇を動かした。
「この歌は、あなたのために歌ったの」
女の子の髪と、白いブラウスのが風に揺れている。
「僕の……?」
 女の子はいた。僕とそう歳が違わないようなのに、起伏のない声のせいか彼女は大人びて見える。僕はすっかり彼女に目をわれてしまって、正直、彼女の言葉も、それに対する自分の返答もよく頭に入ってこない。
 僕を正気に戻したのは、時計のアラームの安っぽい電子音だった。あらかじめアラームの設定時間をずらしておいたので、この音は『お昼寝』の終わる十分前を知らせるアラームだ。
「ごめん、今日はもう帰らないと」
 女の子はまたひとつ頷いた。草原を抜けて山道に入る時、僕は振り返って「明日も来るから!」と叫んだ。返事は聞こえなかったけど、きっと明日も彼女はあそこに座っているのだという気がしていた。
 庭からこっそり床の間に戻っても僕のはなかなか収まらなかった。それは山から走って帰ってきたからというよりも、草原のあの女の子の存在が僕の胸をらせているようだった。アラームをかけ直し、タオルケットで汗を拭って僕はつかのま目を閉じた。


二、夏休み九日目
 一晩経っても、昨日出会った不思議な女の子は僕の頭から離れなかった。どうしてあんなところにいるのだろう。ずっと座って何をしているのだろう。あの女の子のことを思い返すと鼓動がどくどくと速くなって、いじわるな時計の針はなかなか動かなくなるのだった。
二度目の『おやつの時間』のあと床の間で丸まった僕は、祖母のたてる音に耳をそば立てた。テレビを消す音、台所の段差を下りる重い音――蛇口をひねって、勢いよく流れ出す水。ようやく鳴り始めたかちゃかちゃと皿を洗う音に僕は集中の糸が切れかける。力みすぎたのか足がじんじんした。見つかったらおしまいだ。慌てずに、ゆっくりと。
祖母に見とがめられることなく庭を出て、畑のあぜ道まで来ると僕はもう我慢できなかった。息を切らして山道を走りながら、頭の中ではあの女の子が僕を振り返る様子が繰り返し再生された。もしかして、これがいわゆるれなのだろうか? 風船のようにふくれたあの子への興味は、どうしても彼女に会わなければいけないのだという義務感さえもともなっていた。
山道が開ける。昨日と同じあたりに女の子が座っているのを見つけて、僕はほっと息を吐いた。
「よかった、今日も君がいて……」
女の子は僕の方をちらと見たけれど、あさっての方向へ向き直ってしまった。機嫌が悪いのだったらどうしようと思いながらも、彼女と仲良くなりたい一心でとにかく僕は色々な話をした。

女の子は、大抵は無言で、それでもたまに「うん」とか「そう」とかをくれた。僕の質問には全然答えてくれないので、僕は自分のことばかり話している。女の子の相槌の有り無しに一喜一憂しながら、なんとかして彼女自身のことを引き出そうとしているのだけど、あまりうまくいかない。
「それでね、ばあちゃんってばさ、魚にクギ刺してさばくんだよ。クギで動けないようにして、ウロコをむくんだ……」
 女の子の相槌は無し。生々しい話は駄目かぁ、と心の中でバツ印をつけて落ち込んでいると、女の子が僕の肩をとんと叩いた。
「あれ、見て」
女の子が僕の肩ごしに指差しているのは空だった。遠くの峰の向こうの方から、小さな雲がたくさん広がって流れてきている。
「うろこ雲……」
女の子を振り返ると、「うん」と頷いた。僕はまた雲に目を戻す。うろこ雲、たったそれだけだけど、女の子の方から返事がもらえた。空を見上げながら、自然と僕の手は女の子が叩いた肩に触れていた。


三、夏休み十六日目
 僕の夏休みは、すっかりあの女の子にされてしまっている。『お昼寝の時間』は『女の子に会う時間』へととっくに変わっていた。出会ったときに聞いたあの歌は、頼めば歌ってくれたり歌ってくれなかったり、僕が草原を訪れると丁度歌っている途中だったりした。
「君の名前はなんと言うの?」
 もう何度もねたことだったけど、女の子は決まって首を横に振った。肩口より少し上で切り揃えられた髪がさらさらと揺れる。それきりむっつり黙りこんでしまったので、今日は歌ってくれる気もないらしい。なんで名前を言ってくれないのだろう。遠くに向けられた瞳がどことなく寂しそうで、僕は必死に話の糸口を探す。な彼女の声を聞くことが僕の喜びになっていた。
「そうだ、好きなものって何? 僕、蝶とかなら捕まえてみせるよ」
 ちぎれていく雲を見つめていた女の子の目が、つと下に流れた。
「……花かな」
「花、だね」
 僕は内心ほっとした。ここで宝石だとか恰好良い男の子だとか言われたら、どうしようかと思っていたのだ。夏の盛りの山には、花といってもな美しさを備えたものは咲いていない。特にここらは草ばかりだ。
「僕のばあちゃんは活け花をするから、僕んちにはな花がいっぱいあるんだ。花が好きならね……、よかったらさ、うちにおいでよ」
 女の子は静かに首を横に振った。その反応は半ば予想がついていたけど、もう半分で彼女が頷くことを期待していた僕はがっくりと肩を落とした。理由はよく教えてくれないのだけど、女の子は決してこの草原を離れようとしないのだ。
「そっか……」
 こうして僕が振られるのもいつものことだ。今まで女の子は振られた僕に何も言葉をかけてくれなかったのだけど、今日は違った。少しは情が湧いたのかもしれない。
「私はね、ここで待たなきゃいけないの」
「誰を?」
 草原を風がなぶっていく。一瞬それに目を細めて、乱れた髪を指でかしながら女の子は言った。
「あなたをよ」
 またこの感じだ。何を言われているのか分からない、ヘンな感じ。女の子はけして笑っていない。むしろ無表情で、きっと大まじめなのだ。この女の子にはやっぱりヘンなところがあって、でも、そのに僕は惹かれているような気がする。
「僕はここにいるよ」
「……まだだめ」
珍しく言葉をかけてくれたと思ったのに、女の子はもうだんまりモードだ。今日はもう会話は無し、ということか。
女の子と会ってから一週間と少し、毎日少しずつ言葉を交わして、いくらか仲良くなることができたと思っていたのに、どうやらそれは僕の思い込みだったらしい。
 一週間か、と僕は同じような一日の連続を思った。夏休みに入ってからはどうも日付感覚が鈍くなってしまっている。それでもなんとなく日数の経過が分かるのは、ひとえに祖母による『お勉強の時間』のおかげだった。
な祖母は、一週間ごとに『お勉強の時間』で作文を出題することにしているらしい。祖母の家に来てから二週間余り、最初に出されたテーマは『今までで一番嬉しかったこと』で、次は『今までで一番悲しかったこと』だった。
 今度の作文はどんなのだろう、と考えながら女の子のに座っていたのだけれど、長いような短いような時間のあと時計のアラームが鳴った。僕は立ち上がって、「また明日」と女の子の背中にした。おかっぱ頭の髪が風に揺れている。明日は、とびきり綺麗な花を持って来て、振り向いてもらうんだ。


四、夏休み十八日目
 祖母の好みがそうなのか、家に飾られた花はどれも匂いのないものばかりだった。花といえば野の草以外ではバラとユリしか知らない僕には、匂いくらいしか選びしろがなくて、ちょっと困ってしまう。
 草原に座り込むあの女の子のことを考えると、まっさきに思い浮かぶのは白いうなじをもった横顔だった。誰かに似ている気がするのだけれど、いまいちピンとこない。いろいろと思いを巡らせてはみたけれど、とりあえず彼女に似合いそうな花を選ぶことにした。
黄色かピンクか迷って、結局赤みがかった紫に流れた。まとめて活けてあった盆から一輪だけそっと引き抜く。祖母の目をかいくぐって床の間まで移動して、僕はタオルケットの下に壊れもののように花を寝かせた。かりそめのお昼寝のポーズをとって、目をつむる。祖母をやり過ごすまでにれないといいのだけれど……。

夢を見た。おかっぱ頭の女の子と僕が手を繋いで山をけている。そう、虹の根元を見に行くのだ。雨上がりの土の匂い。ぽつぽつと蝉が鳴き始めた。早く、早く、もっと上に。虹が消えてしまう前に――。

虹を目指して走る、次の一歩を踏み出そうとして目が覚めた。時計の針は半周ほど進んでいて、行き返りの時間を考えると女の子と会える時間はあと少ししかない。握りしめていた紫の花は意外としゃんとしていて、ほっとする。注意深く家を抜け出して、つっかけをいて山へ走った。先程の夢を思い出す。同じように山を駆ける夢だった。違うのは、夢では二人だったこと。手を握っていたあの子、あれは草原の女の子だろうか。あの子よりも少し小柄だった気もするけど……。はずむ息と汗ばんだ肌はよく覚えているのに、顔ばかりが思い出せない。
 風にさらされた草原には、いつものように女の子がいた。草に埋もれるようにして正座を崩したようなで座り込んでいる。草を踏みしめて声をかけると、ちょっとだけ振り向いた。
「遅れてごめん。えっと……」
「いい花ね」
「え?」
 どうにも目が合わない。女の子は僕なんかを見てはいなくて、僕が手に握った花だけをじっと見つめているらしい。
「その花ちょうだい」
「うん……」
 僕が赤紫の花を差し出すと、女の子は花を両手で受け取って、それをそっと右の耳に寄せた。なんだろう、自分でった花なんだけれど、そっちに夢中になって僕に見向きもしてくれないというのはモヤモヤする。
 僕のじっとりした目線を涼しげにして、しばらくして彼女は胸に花を抱くようにして例の歌を歌い始めた。一度歌い始めるとひとしきり終わるまで彼女は止まらない。これもいつものことで、僕は残り少ない『お昼寝の時間』に彼女と会話するのを諦めた。
 彼女の歌は低く甘く、かなのにどことなく優しい。歌詞はよく聞き取れないが、僕はこの歌を聞くのが好きだった。目を閉じると、なんとなく光を感じるのだ。
 時計のアラームが別れの時間を告げても、彼女の歌はまだ終わっていなかった。
「もう帰らないと。また明日来るよ」
 歌う彼女は答えない。しさを感じながらも僕は山道を早歩きで帰った。家が近くなっても、心の中ではあの歌の続きがこだましている気がした。


五、夏休み十九日目
 山の木が倒れていく。みしみし、みしみしと音を立てて、こらえきれなくなった幹は重い頭を垂れてひざまずく。木々から少し離れて、子どもがたくさん泣いていた。僕はつま先でぐいっと立って、傍らで俯く少し背の高いおかっぱ頭を撫でている。小学校に入ってからぐんぐんと伸びたその背には、僕はまだ追いつけていない。下からのぞきこんだ彼女の顔には、綺麗に切り揃えられた前髪では決して隠すことが出来ない二筋の涙が伝っていた。幾度となく振り下ろされる重機の爪は僕らの心に深い傷をつけた。いくら涙を吸ったとしても、木々が芽吹くことはもうないのだ。

 祖母の家をそれとなく見回ってみても、紫がかった花はもう置いていないようだった。その代り一番鮮やかに咲いている青い花を一本こっそり引き抜いて、僕は今日のプレゼントを手に入れた。
 いつもの道を歩いて行きながら、昨夜みた夢を思い出した。木が切られていたのは丁度この山道のあたりだった気がする。おかっぱ頭の女の子もいたな。夢の中ではじっと見つめていたはずなのに、どんな顔だったのか、今はがかかったように思い出すことができない。おかっぱ頭といえばあの草原の女の子しか心当たりがないし、やっぱりあの子なのだろうか……。夢の中では泣いていた気がするけれど、いつも無表情な彼女が涙を流すというのは、いまいち想像ができないという気もした。

 女の子は青い花も気に入ってくれたらしい。また花に耳を寄せる仕草をした後、例の歌を歌い始めた。今日は時間に余裕もあることだし、僕は隣に座って目を閉じる。甘い歌声と頬を撫でる風。こうしていると眠ってしまいそうだ。そうしたら、また夢には女の子が出てくるだろうか。夢の中の女の子は、今度は笑ってくれるだろうか――。


六、夏休み二十八日目
 今日は週末だったらしく、女の子と会った後、僕は作文をやらされた。テーマは『うそをつくのは悪いことですか』。
 うそをつくのは、それは悪いことだと思う。でも、悪いことだとは思いながらも、僕は今までに何度もうそをついている。お昼寝だってそうだ。それは僕が悪い人間だからなのか、それともうそが必要なものだからなのか……。結局僕は「うそをつくのは悪いことです。それでも正直でいられないときには罪悪感を失くしてはいけません。ずっと正直ではいられないとしても、ずっと正直であろうとする気持ちが大事だと思います」と書いて、それきり原稿用紙の四角いマスを埋められなかった。えんぴつの芯はとんがったままだし、消しゴムの頭も白い。
 祖母は作文を指導したりはしないし、感想も言わない。作文はもう四回目だと思うのだけれど、毎回これで勉強になるのかと不思議で仕方ない。計算ドリルとか漢字の書き取り練習だとかの方がずっと勉強らしいと思う。


七、夏休み二十九日目
「ねぇ、うそをつくのって悪いことだと思う?」
 昨日の作文でモヤモヤしていたので、女の子に作文のテーマをそのまま尋ねた。彼女は、今日の僕からのプレゼント、白いユリの花の香りをぎながら、目だけで僕の方を見た。
「反則」
「え」
「自分で考えないと反則」
 それだけ言ってまたユリの花に集中してしまった。訳が分からない。僕のを察したのか、珍しく彼女は言葉を付け足した。言葉少なな彼女だが、最近は少しだけ僕を気遣ってくれている、ような気がする。
「……それ、試験の問題だったんでしょう。あと二回なんだから、反則はやめた方がいい」
 ……さっぱり分からない。試験とかあと二回だとか、彼女は何か勘違いをしているんじゃないのだろうか?
「君は何を言っているの……」
「自分で気付かなければいけないの。そんなに忘れられないのなら」
 僕は動けない。女の子の、白いユリをえたその姿を、僕はずいぶん前から知っている気がした。


八、夏休み四十二日目
 黒い。皆似たような黒い服を着て俯いている。白黒のが渡された床の間には、沢山の座布団と同じ数の黒服が座っていた。わらわらと黒服が群れるその中心には白っぽい木でできたがあり、傍らにはグレーの布地のセーラー服を着た少女が佇んでいるが、その伏せられた顔は黒い髪で隠れている。少し伸びた毛先は左右にに流れて、彼女の後ろ首をわにしていた。の娘である彼女と他人の僕の間には越えがたい黒服の壁があり、僕から見えるのは静かに悲しみに耐えるその後ろ姿だけだった。彼女の細い指が滑らかに動いて、白いユリの花を一輪、棺に添えた。

 僕は女の子に会いに草原を訪れるのをやめた。『お昼寝の時間』は正しく『お昼寝の時間』となり、あの子の言動を幾度も幾度も反復するうちに僕は眠ってしまうのだった。
 僕は何に気づかなければならないのだろう。僕の中に何がわだかまっているのだろう。
 女の子に会いにいかないうちに、一週間が過ぎて、二週間目もまた過ぎようとしている。『うそをつくのは悪いことですか』の質問をした時、試験はあと二回だと女の子は言っていた。試験というのが作文のことだとするなら、今週の作文は最後の『試験』ということになる。
 そして、その試験日は今日だ。今日は週末、作文の日。意味が分からないなりに身構えていた僕に課されたテーマは『お金は欲しいですか』だった。
お金……。僕には駄菓子を買うくらいしかお小遣いの使いみちがない。本を読むのは好きだけど、本は自分で買わなくても読めるし。ご飯も服も自分で買わない僕にとっては、お金はあまりピンとこない存在だった。「お金は特別欲しくありません」と僕はえんぴつを走らせた。ともすればこの一行で作文が終わってしまいそうな感じがしたのだけれど、頭の中で試験という言葉が点滅して、僕はもう少し内容を広げることにした。
「大人になったら」

めまいがした。

「大人になったら」
 彼女の黒い瞳が僕を見上げた。高校に入学した今では、さすがに僕の方が背が高い。
「大人になったら……、僕が、守ってあげるから」
 恥ずかしげもなくこんなことは言えない。だから、僕は相応の勇気をふりしぼってこの台詞を言ったのに、彼女は思いっきりむせて、声をもらして笑った。
「ふふ、ゴメンね笑っちゃって。びっくりしちゃって。でもね、それじゃあ今は守ってくれないのかな?」
「そ、そういう意味じゃなくて! だから……その、け」
「け?」
「……。け、結婚……」
 それきり言葉が続かなくなった僕の手を、柔らかい彼女の手のひらが包んだ。
「……ありがとう」
 おかっぱの髪が揺れる。
「大人になったら、続きを教えてね」


九、夏休み四十七日目
 目を覚ました僕の両目からは幾筋もの涙が伝っていた。原稿用紙に突っ伏してしまったらしく、マス目の中の「大人になったら」は滲んでぼやけてしまっている。祖母が毎朝ちぎり取っている日めくりカレンダーは、作文を書いた日から五日もの日にちの経過を示していた。飾ってある花も違うものに変わっている。五日間が経過したというのに、僕はちっともお腹がすいていない。それどころか、僕はこの夏休みの間、この家で何も食べた覚えがなかった。
 音もなく、カレンダーの日付けが一日進んだ。普通じゃないんだ。この夏休みも、あの女の子も、祖母も……僕も。僕は大切なものを見失っている。もう一度、あの女の子に会わなければいけない。
『お昼寝の時間』はもう必要なかった。

「やっと来てくれた」
 草原を訪ねると、女の子は初めて自分から僕に話しかけてくれた。もう黙っている必要もなくなったのかもしれない。僕が気付き始めたから。
「遅くなってごめん」
 鮮やかな黄色の花を差し出すと、女の子は素直に受け取って、「ありがとう」と言った。
「僕、最近よく夢を見るんだ」
 女の子は花に耳を寄せている。その、おかっぱに切り揃えた髪、白いうなじ、細い指。
「君によく似た女の子が出てくる夢……いや、君が似せてるんだろ」
 声が震える。僕の目じりがじんじんとむ。
「君は……彼女じゃない」
 女の子の表情は動かない。口数は増えても、無表情なのは変わらないらしい。
 夢の中の、いや、僕の大切な彼女は、よく笑いよく泣く女性だった。プロポーズをした時も、娘が生まれた時も、娘の入学式、卒業式、結婚式……そして初孫。長い、長い間れってきた。色とりどりの思い出が体を突き抜けていくのに、ただ一つのことが思い出せない。
「そこまで分かっているのに、まだ見つけられないのね。『私』の名前が」
 どうしても目の前にいる『彼女』と記憶の中の女の子の姿を重ねてしまって、僕はもう涙を堪えることができなかった。
「もう時間がない」
 そう言って、女の子の形をした『彼女』は僕に黄色い花を手渡した。
「聞いて」
 僕は何度も目にした仕草のマネをして、右耳に花を近づける。『彼女』は例の歌を歌い始めた。低く、甘く、静かに厳かに。右耳に寄せた花からは、少しずつ、『彼女』の歌にする声が聞こえ始める。
 僕が目をらしていただけで、それは、聞きなれた念仏だった。


十、四十九日法要
 一ヶ月半ぶりに会ったおばあちゃんは、前にお葬式で会った時よりも小さくなってしまっていた。黒い着物を着ているから体のラインは見えないけれど、裾から覗く足首が細い。座布団が沢山並べられた床の間にはを着た親戚が勢ぞろいしている。その中で私だけが学校指定の白っぽいセーラー服なので、どこにいても浮いている感じがして居心地が悪い。
 おばあちゃんが控える正面には長いが設けてある。というのだそうだ。一番上の段には白木の箱と、黒いリボンが結ばれたおじいちゃんの写真が飾られている。他の段は沢山のお供え物や花で埋め尽くされていた。赤みがかった紫色の花や、鮮やかな深い青の花などの派手な花があるかと思えば、白百合や菊などの落ち付いた色合いの花まで様々なものが並べられている。こんなに花が集まっていても、立ち込めているのはおの香りばかりだ。お坊さんのお経をあげる声とあいまって、自然と背筋がのびた。
 写真の中で微笑むおじいちゃんは優しく、頭を垂れてお経を唱えるおばあちゃんの丸い背中が寂しい。短く整えられた白髪が夏なのに寒々しい印象だった。
ショートヘアはおばあちゃんのトレードマークだ。以前おばあちゃんに髪を短くしている理由を聞いたことを思い出した。「若い頃、おじいちゃんに褒めてもらったのよ」とおばあちゃんは優しく笑っていたな。孫の前で愛をくなんてことはなかったけど、若い頃からずっと仲の良い夫婦だったのだろう。
お経はみなく続く。独特の歌うようなリズムに合わせるのは結構難しくて、私はやっと自分にお焼香の番が回ってきたのでほっとした。おじいちゃんには悪いけど、お焼香の間だけはお休みだ。
つまんだを炭にかけて、手を合わせる。
おじいちゃん、聞こえていますか。


「どう?」
涙が止まらなかった。僕が耳に寄せていたのは黄色い菊で、菊を介して見えたのは法事の様子だ。僕の、四十九日法要。
「……」
 僕の……ただ一人の女性。彼女の父親が若くして他界してからというもの、僕は彼女を守ることばかりを願って、就職して、結婚して……。それなのに、僕は文子を残して死んでしまったのだ。
「もう分ったでしょう、あなたの未練が」
「僕の……」
「げられた供養に報いるために、許します。さあ、菊を」
 促されるまま、僕は手にした菊を再び顔に近づけた。そしてその花弁を、かじった。


 。唱えながら、あの人のことを想う。あの人は今までの長い間、私を守り続けてくれた。でも、やっぱりあの人は私に先立って逝ってしまった。お酒が大好きだったものね。あなたの足が不自由になってからは特に、私があなたを守るって尽くしたつもりだけれど、うまくいかなかったのかもしれないわ。ごめんなさい。
 お経を唱えながら、もう何度も遺影を見ている。元気だったころの写真を選んだから、あの人の表情は穏やかだ。あれは金婚式の時の写真で、私とあの人を並ばせて娘が撮ってくれたものだ。
 娘ができて、孫ができて、その度にあの人の呼び方も変わった。お父さんとかお爺さんとか、二人きりの時もあなたとばかり呼んで、互いに名前で呼びあうことはなくなってしまった。それが少し、心残り。
『文子』
 そう、そんな優しい声色で……。
『文子』
いや、これは幻聴ではないの? 目を閉じて今までの日々を振り返っていた私の耳には、確かにあの人の声が聞こえた。数珠を組んで合わせていた手が誰かに引っ張られる。
目を開くと、そこは床の間ではなかった。懐かしい、故郷の山だ。青々と茂る草と木、とっくの昔に失われてしまったはずの原風景。そして、私の目の前には――。


「さん」
 ああ懐かしい。その声。
「文子……」
 文子は黒い着物を着て、白髪を短くして……僕が最期に見た姿よりもやつれてしまったように見える。
「将司さん……どうして、その姿」
 僕は小学生の頃の姿のままなのだ。涙でぐしゃぐしゃになった僕に変わって、『彼女』が答える。
「この人はあなたに未練があるの。だから、までることができずにいる」
 僕は『彼女』に何を言われても今までさっぱり分からなかったのに、文子はそれだけで何かを察したらしい。
 次の瞬間、僕の頬は弱い平手を受けた。文子だ。小学生の体の僕に合わせて身をめた文子は、そのまま僕の両頬を手のひらで包んだ。
「……馬鹿な人。せっかく皆で供養しているんですから、死んだ後くらい自分のことだけ考えればいいのに」
「文子、君を残して逝ってすまない」
丸まった文子の背中が震えていた。僕はもう何度も彼女を泣かせてしまったのだろう。
「もう、いいのよ……」
 僕は、泣き崩れて座り込んでしまった文子の、着物の襟からのぞく首筋を見た。柔かそうで……くたびれた肌だ。
「苦労をかけてごめんよ。僕はずっと、君に謝りたかったんだ……」
文子を抱きしめてやりたかったけれど、そんなことをすれば離れられなくなりそうだった。
「文子。今まで、ありがとう」
 文子と僕を柔かい風がでた。ネコジャラシがさわさわと揺れた後には、文子の姿は消えていた。現実に帰った彼女は今の会話を忘れてしまうのだろうか。たとえ覚えていたとしても、日常の中ではつかの間の夢のように薄れていってしまうのだろう。それでもいいんだ。文子と会いたかったのは僕なのだから。
 僕の体はゆるゆると縮み始めていた。全てを忘れるために思い出したのだから、未練がほどけた今となっては、もう僕が僕でいられる理由もない。
「あなたの行先が決まった」
『彼女』が『夏休み』の終わりを告げる。
「文子に会わせてくれてありがとう」
 後のことに不安はなかった。文子が手厚くってくれることだろう。まどろみのような優しくぼやけた意識が広がっていく途中で、僕は最後に一つの質問を見つけた。
「君の名前はなんと言うの?」
てっきりまた教えてくれないものだと思っていたのだが、『彼女』は最後の最後で何か難しい言葉を僕に返してくれた。残念なことによくは聞き取れなかったのだけど、僕はもう満足だった。
さようなら。
おやすみなさい。


十一、
「おやすみなさい」
 生者は現実へと戻され、死者は未練を清算した。草原にはただひとり、生者の姿をした私だけが残されている。私は小さく真っ白になった彼の魂を手のひらに包み込んだ。タイムリミットまでに未練を落としえた魂は、彼みたいに綺麗に白くなることができる。
私はその手伝いをする。いままでも、これからも。幾度となく四十九日を繰り返す。罪をい続ければ、いつか報われるのだと信じて。
の田舎は静かに消え去ろうとしていた。私は日の光が降りてくる方へ、そっと手の中の魂を離した。小さな白い光は日の中に溶けて、一切の風景はゆっくりとブラックアウトする。
もはや私もおかっぱ頭の女の子ではなかった。立っていられなくなって座り込むと、鼻のあたりがヒクヒクしてくすぐったくなってきた。
次の四十九日間がもう始まるらしい。暗い世界にはとても低い天井が生まれ、私の首にはきゅっと輪がった。
「あれ……シロ?」
狭い空間をのぞく人影が現れる。ためしに声を出してみたら、ワンと犬の鳴き声がした。
さあ、クリーニングの始まりだ。

(漂白剤と君の昼/終わり)

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