コスモスが咲いている
                 鐘海

 その日、姉は見知らぬ帽子を持って帰ってきた。
 自室のベッドの上にあぐらをかいてゲームをしていた俺は、思わず「なんで?」と間抜けな声を出してしまった。
 何の変哲もない、秋の夕方だった。秋の夕方というとどことなく寂しげで、切なくなるような風情あるものだというイメージを持つ人もいるかもしれないが、そんな素敵なものでは決してなかった。授業が終わるなりさっさと教室を抜け出して家に帰ってきたあと、即行で部屋の電気をつけて携帯ゲーム機の電源を入れた俺にはそういったものは一切無縁だった。
 一時間遅れて学校から帰っていた姉は軽そうなスクールバッグを肩にかけたいつものスタイルだったが、そう、ドアを開けた右手の反対の手に白い帽子を持っていた。いや、白い、というより白かったのだろう。泥や砂ぼこりで薄汚れているそれを姉はつまんで、俺の方に差し出していた。
「落ちてたの! 通学路にね、あったから拾って帰ってきちゃった!」
 いつもの調子で少し興奮気味に喋る姉に、俺は思わずため息をつきながらゲーム機の蓋を閉じた。
「いや、だからなんでそこで拾って帰ってくるんだよ」
「この帽子、見覚えない?」
 姉はずんずん部屋に入り込んできて泥のついたその帽子を俺の目の前に突き出す。ぱらっ、と砂がベッドに落ちたから思わず「あー!」と声を出した。
「何やってんだよ、砂くらい外で落としてこいよ」
「後で洗濯するからさ」
「とりあえず窓開けてそこではたいて」
 ギギシと音を立てながらベットから下りて、姉に背を向け窓のほうに歩いていく。途中、姉は「見覚えないんですかー」とふざけた風に俺に言ったので振り返ると、姉はつまんだ帽子をひらひらと振っていた。窓の前まで来た俺は姉を無視して窓の鍵をバチンと鳴らして勢いよく開ける。と、涼しい風がびゅうと部屋の中に入ってきた。その風にさらわれた帽子の砂ぼこりは俺の鼻に入って、思わず小さいくしゃみが出た。
「この帽子の落とし主、私知ってるよ」
 姉は窓の外で帽子をぱたぱたさせながら思いついたようにそう言った。
「誰の?」
「さあ。知ってるっていうか、いっつもあの子、これかぶってるなーって思っててね、学校行く時だけどさ。今日の朝見た時かぶってなかったからたぶんそうだと思うんだけど、どう思う?」
 どう思う、と聞かれましても。姉の話し方はいつもめちゃくちゃで何が何だかわからない。俺は鼻を手の甲でこすりながら答えた。
「よくわからんがたぶんその子のなんじゃねーの」
「だよねー」
 名前とか書いてないの、と言ったが姉が見たところどうやらそのようなものはなかったらしい。見終わってから、再度窓の外で姉は帽子を振った。
窓から入ってくる秋風が心地よかった。空には雲が全くなくて、どこまでも青く透き通った空が向こうの方まで続いていた。心なしか見えている木々の色はくすんできているように見える。
姉は気の済むまでずっと帽子をぱたぱたしていたが、豪快に「えっきし!」とくしゃみをすると、
「もういいや」
と言って窓を閉めた。
「やっぱそれ、落とし主に渡すの」
「そりゃそうよ! この帽子はあの子のチャームポイントでありあの子の体の一部なの。私がずっとあの子の命を預かっとくわけにはいかないじゃん」
「命って」
「そのくらいいつもかぶってたの」
 姉は「これ洗うね」と言って部屋を出ていった。俺は何となく、その背中を追いかけた。薄暗い階段を下りていく姉はどこか不安定だけど、体をゆらゆらと揺らしながらも順調に一階まで進んでいく。

 風呂場から洗面器をつかみとって洗面台の上に置くと、勢いよく蛇口をひねり、ついでに持っていた帽子をその中に投げ込んだ。
「昔、上靴とか洗ってたやつでいいかな」
 適当な粉状の洗剤をわっと振りかけて、蛇口を止めるとごしごしともみ洗いを始める。泥が出てきて一瞬のうちに水が真っ黒になる。躊躇なく姉はその水をざばっと捨てるともう一度蛇口をひねり、洗剤を振りかけた。
「非効率ー……」
「文句があるならあんたがやったら」
「ないです」
 姉は結構強い力でごしごしと帽子を洗っていた。こすったり、引っ張ったり、とにかく強い力で俺は感心していた。でもその感心の奥に何か引っかかるものがあるのを感じた。そしてそれは、今このめちゃくちゃにしごかれている帽子が見ず知らずの女の子のものだからだ、ということに気がついて、その途端に謎の後ろめたさが俺の心に押し寄せてきた。
「そんなに乱暴にしていいのかよ」
 思わずそう言ってしまうと、それを聞いた姉はわははと言って笑った。
「全然問題なーいです」
「でもそれ他人のじゃんか」
「しっかり洗うのが大事なの、夏の間に染みた汗とか出しきらないと」
「汗ぇ?」
 姉は、「可愛い女の子も汗はかくのよ〜」と、適当なメロディをつけて歌った。姉の力はどんどん強くなるばかりだ。俺は薄く濁った洗面器の中の水がばしゃんばしゃんと跳ねるのを見る。この濁りはやっぱり汗なんだろうか、と思うとなんだか微妙な気持ちだ。まあ、洗剤の濁りもあるのだろうけどそれでも姉の言葉が気になっていた。女子も汗をかくのか。そう思うと、うまく言い表せないけど、ぞわぞわとした。瞬間、姉は洗面器をひっくり返してざばんと水を排水溝に流した。流しの白がその水の黒さを際立たせる。
 姉は何度も水を洗面器に入れては捨て、気が済むまで帽子をもみまくった。水が透明になってきたころ、姉は「よし!」と言って全ての水を捨てた。
「あとはこれを干すだけだね」
 姉は力強く帽子を絞ったあと、軽くそれを振りながら洗面所を出ようとした。その背中を見てふと思い出すことがあったから、思わず「待て」と言って呼び止めた。
「一旦脱水しよう」
 俺は姉の手から濡れている帽子を奪うと後ろにあった洗濯機にそっと置いて脱水ボタンを押した。
「あ、そうだった」
「母さんがまた怒るよ」
 前、姉が中学生だった時、姉が自分で水着を洗ったとき、洗って絞ってそのまま壁に吊るして乾かそうとしたことがある。手で絞っただけでは完全に脱水できてなかったようで壁と床をびちゃびちゃになってしまい、それを見つけた母が散々俺たちを叱ったのを覚えている。その時俺は何もしてないのに母にこっぴどく怒られた。母が俺らを叱る時はいつも一緒だ。片方の失敗はもう片方の失敗を引き起こさないためにあるから。
「あしたまでに乾くといいね」
 姉は洗面所に寄りかかってそう言った。制服が濡れるぞ、と言ったら「もう濡れてる」と言って、姉は動かなかった。
「いつ持って行くつもりなの」
「明日の朝。通学路だし放課後じゃたぶん会えないから」
「それまでに乾くか?」
「困ったらドライヤーでドライする」
「頭痛が痛い」
「馬から落馬する」
「後で後悔する!」
 うわぁ、と言いながら俺たちはけらけら笑い、ただそこに突っ立って洗濯機の中でぐるぐる回る小さな白い帽子を眺める。
「手がふやけちゃった」
 しわしわになった指先を俺の目の前に突き出しながら姉はそう言った。「ばあさん」と言うと、姉は「はー!」と変な雄叫びをあげた。そのまま俺のかけている眼鏡をひったくろうとしたが、耳と頭に引っかかってものすごく痛かった。完全に顔の一部になっていた俺の眼鏡は姉の手に渡ったあとしばらく弄ばれていたが、すぐに俺のもとに返ってきた。

 
 次の日、俺たちは早起きをして仕度を済ませ、二人で家を出た。二人で同時に「行ってきます」と言ったのは小学校以来だった。
 いつもの通学路だったか、姉が隣にいると落ち着かなかった。少し歩調を緩めると「遅いよ」と言って俺を待ち、先に行けよ、と言うと「ええ、やだあ」と言った。
 俺たちは結局並んで歩いて、姉が「たぶんここ」と言った地点で止まった。
 郵便局の前だった。ポストの隣に俺らは立って、並んで歩く小学生や自転車をこぐ高校生を見送った。たまに姉に気付く高校生がいて通り際に「おはよー」と声をかけていた。「おはよー!」と姉はその度に友達に向かって手を振ると、視界から外れるや否やぐるりと向きを変え、まっすぐな通りの先を見つめた。
 帽子をかぶっていない子の方が多かった。たまにかぶっている子がいたが、秋が近づいてきてるからかもしれないが本当にその数は少なかった。
「本当にわかるのか?」
と聞くと、
「わかる! 水色のランドセルの女の子」
と言って、姉は遥か向こうまでぐいっと見渡した。すると、突然「あっ!」と声を上げた。
「いた!」
「えっ!」
「あそこ! 歩道橋を降りてきてる!」
 姉はそう言い終わらないうちに走り始めた。
「おい!」
 危ないって! と叫んでも、姉は振り返らなかった。いてもたってもいられなくなった俺は「くそ!」と言って姉のあとを追いかけた。
 制服姿で走っている高校生男女二人を道行く人は訝しげに見ていた。俺たちはその人の波に逆らって走る。スクールバッグを揺らしながら前を走る姉の背中は俺が思っていたのよりずっとほそっこくて、なんだか怖くなった。思わず本気で走る。風が冷たい。歯を食いしばって走る。どんどん姉の背中が近くなって、手が届くか、と思った時、姉は突然、
「キミ!」
と大きな声を出した。俺はびっくりしてしまって思わず足を止めた。姉は構わず走り続けたので俺は走るのをやめてそろそろと二人に近づく。
「キミ! 水色のランドセルのキミだよ!」
 姉はそう言って少しずつスピードを落とすと、一人の女の子の前で止まってしゃがんだ。
 水色のランドセルを背負ったその女の子は、俺が思っていたよりも背が高かった。小学五年生くらいだろうか。しっかりとした顔立ちで、頬もふっくらしてるというより締まった感じだった。ハーフパンツから伸びる二本の脚はひょろりと長細く、うっすらと日焼けしていた肌に白色のハイソックスが映えていた。
 突然自分を呼びとめた高校生の登場に彼女はびっくりしたらしく、目を大きくして固まっていた。姉は少し息を切らせつつ、しゃがんだままスクールバッグの中をごそごそとすると、すぐにそれを見つけたようで、勢いよく、バッグから外に引っ張り出した。
 いつそんなことをしていたんだろう。透明でつるつるのビニールにその帽子は包まれていて、ピンク色のリボンが金色のシールでぺたんと貼られていた。さながらプレゼントのようになった帽子の小包を差し出しながら、
「キミのじゃない? いつもかぶっていなかった?」
と姉は言った。
 彼女はまた目を大きくして、
「あ、あ、そう」
と、たどたどしく言うと、もじもじし始めた。姉は彼女に「はい! よかったね」と言って小包を手渡すと立ち上がり、彼女の頭を一回撫でて、「もう落とさないでね」と声をかけて手を振る。俺はその様子をじっと見ていた。「行こう」と言って俺の隣に並んだ姉越しに例の少女を見ると、彼女は既にビニールを剥いで白い帽子をかぶっていた。右手にビニールを持った彼女は姉の背中をじっと見つめており、その胸にはビニールについていたあの、ピンクのリボンが秋風に揺れていた。

 
「案外すぐ見つかっちゃったね」
「お前はよく走ったな」
 彼女に手を振って、俺たちは学校への道を歩いていた。
「や、つい走りだしちゃったっていうかね」
「俺たち超不審者だったな」
 朝の風はつやつやとしていて冷たく、露出している頬の肌に当たっては流れていった。もう蝉の鳴き声も聞こえない。木の葉がカサカサと言う音が目立つようになって、小学生らの笑い声に混じって聞こえた。
「喜んでたな」
「私の芸術センスが光ってたね」
「そうだな」
「否定しないんだ」
 姉は軽く笑った。
「久しぶりだね」
 そう言って姉は背筋をしっかり伸ばした。確かにそうだ。二人で並んで登校するなんて久しぶりだった。「背中曲がってる」と言われ俺は背筋をまっすぐにのばす。ずっと遠くまで見える気がした。隣の姉を見るとつむじしか見えなかった。と、突然姉はこちらを向いた。
「ありがとね!」
 姉はそう言って俺の脇腹に肘を打ちこんできたので俺は思わずよろめいた。
「何が……」
「付いてきてくれたからそのお礼!」
「肘打ちがか……」
 俺が小声で恥ずかしいなら言わなきゃいいのにとつぶやくと姉は聞こえないふりをしてスキップを始める。
「おいやめろ恥ずかしい」
「あ、ビービー弾発見!」
「おいってば」
 姉は地面に落ちているオレンジ色のビービー団を拾うと指でこすって汚れを落とし始めた。
「集めてたねぇ」
 姉がいつもの声でそう言った。二人で集めていた。汚いからって母に言われていつからか集めるのもやめたけど、そう、二人で集めたビービー弾が、押し入れの中とかを探したら見つかるかもしれない。
「ちゃーん」
 後ろから聞き覚えのある声が聞こえる。姉は「ぁ!」と言って、持っていたビービー弾を俺の手に握らせると右手を大きく振りながら走って行った。
 俺はそのビービー弾をポケットの中に入れて歩き始めた。後ろの方で姉たちが話している声が聞こえて、俺は振り返りそうになったけどやめた。代わりにビービー弾を握った俺は、ゆっくり、ゆっくりと姉と距離を離しながら、学校への道を歩いていった。

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