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エイド ＃３ 原作 お茶会実行委員会 文 紅茶の人 絵 カカオの人 この物語はフィクションであり、実在の人物や団体には一切関係ありません。 少しずつ陽射しが盛りを見せる春の半ば、初摘みのダージリンが市場に並ぶ。入荷日を聞き出して、朝一で買いに行った。紅茶好きを自負する茅萱にとって、それは買わねばならないものだった。今年の紅茶の王様はどんな味がするのだろう。馴染みの店長はただただ笑って品物を手渡してくれた。敢えて無言を貫いたのは、長年の信頼関係ゆえだ。 行きつけの茶屋は繁華街の一画に小さな店を構えている。百貨店と百貨店の間に連なる商店街のうち、チェーン店ではないブティックや雑貨屋の並びの中に、その店はあった。 茅萱は茶屋の紙袋を片手に、アーケードの下を歩く。既に衣替えは済んでいた。袖が短めのシャツは通気性が抜群なうえ、吸湿性がいい。僅かに滲んだ汗を、すぐに服が吸い取ってくれる。髪も切った。首の周りが涼しい。これくらいの暑さがとても清々しい。 異国の冬と春を思う。このダージリンは、どんな環境から生まれたのだろう。胸が踊る。帰路を急ぐ。しかしふと、パステルカラーの四色が目に留まった。 洋菓子店のガラス戸に貼られたポスターは、マカロンを宣伝していた。 知っている。この店はマカロンとチーズケーキが美味しいことで有名だ。中でも、期間限定で売り出されるフレーバーマカロンははずれがないと言われている。もちろんスタンダードなマカロンも美味しいのだが、限定品は一日の販売数にも限りがあるため、客の関心はそちらに向きがちだった。 この時間帯なら、売り切れていることはないだろう。今日は平日だ。まだ開店して二時間も経っていない。 愛しいあの子が喜ぶ顔を見たい。 茅萱は自然に進路を逸らし、洋菓子店の入口をくぐった。 「これとこれ、一つずつ」 ショーケースを一瞥するなり、スタンダードなマカロンが八つ入った箱と、今週のフレーバーマカロンが八つ入った箱を指さす。そして店員の顔を見て、注文を述べた。言葉に笑みを添えると、若い女性はぴくりとした。畏まりました、と告げる声はどこか上擦っている。 かわいいあの子にはボロクソに言われてばかりだが、世間の女性は概ね茅萱にこのような反応をしてくれる。 もじもじと逸らされる視線。朱を刷く頬。少し口角を上げるだけで、女性が恥じらう。それは茅萱が生まれ持った、第一の能力だった。 第二の能力は――あの子が忌み嫌う感情。しかしそれは生理的に発生するものであると、主張する科学者もいる。 尤も、感情を具現化する仕組みは、科学では説明がつかないのだけれども。 会計を済まし、商品を受け取る。茅萱が店を出るまで若い女性店員はずっとぎこちなかった。気にすればきりがないので、気づかないふりに徹する。少しでも相手にしてしまったら、あの子を裏切ってしまうような気がするのだ。 彼女に出会って以来、他の子に少しも興味が湧かない。それを彼女は信じてくれないけれど、潔白な淑女ならば正しい判断と言えよう。彼女に出会う前の自分は、確かにいわゆる好色だった。前科持ちは警戒されても仕方あるまい。 信じてもらえるまで、罪は償うつもりだ。それがたいした冗談であることも、重々自覚している。 相反するものに惹かれるのは自然の摂理だ。彼女の徹底した清純に、茅萱は焦がれてやまない。そして自分に少しもなびかない女性が、興味深くてならなかった。 綺麗すぎる存在への庇護欲、そして異端への征服欲。いま自分に力を与えているのは、過去の行いではなく、きっとこの恋心だ。 嘗てなく強い感情が、大罪を引き寄せている。知りたい。欲しい。彼女を自分のものにしたい。そして思い悩む心を導く答に出会いたい。 これが茅萱の執着心である。 彼女がダージリンとマカロンに喜んでくれるのを想像しながら、少しずつ人目を避けていく。 繁華街をじぐざぐに歩き、奥へ奥へと迷い込む。遂にはネズミ、或いはハエの一匹さえ認められないような路地に、その美男子は入っていった。 あらゆる生命の気配がないことを確認すると、彼は右手で、ドアノブを探す。 掴み、開く。すると彼の姿は街から消え、代わりにどこでもない場所に現われる。 そこを、ある者はエデンの園と呼んだ。 楽園の名を冠すれど、機能は創世記のそれとは真逆だ。ここは茅萱のように、ヒトを追放された者が集う場所。選ばれた者のみが足を踏み入れることを許される、人智を越えた世界。 或いは、新しい世界。 手入れを放棄された庭園のような場所に、茅萱は下り立った。木洩れ日ができる場所が獣道になっている以外は、のびのびと植物が育っている。日陰の涼しさは路地の日ではない。この空間は向こうのように湿度が高くないのだ。 緑の匂いを肺に誘いながら、奥へと足を進めていく。開けた場所には、棘に覆われた煉瓦造りの建物が一つ、ぽつんと建っていた。そこが選ばれし者たち――エデンの住人たちの住処だ。 ここに茅萱と彼女は住んでいる。 橋のような、中央がくぐり抜けられる外観の建物の中へ入る。勝手知ったる我が家だ。茅萱は慣れた足取りで、階段を三階まで上る。彼女は好んでその階で過ごしていた。 ノックをしてから、ドアを開けた。 目の前には三人掛けのソファ。右端には、つややかな髪を生やした頭が一つ。思わず笑みがこぼれた。 「百合、入るよ」 愛しい名前を口にする。恋しさのあまり、茅萱は彼女の名前を必要以上に呼びかける癖がついていた。 吐息のように囁くと、僅かに首が回転する。彼女の視界に侵入できる。それだけで随分、嬉しくなれるものだ。 長らく忘れていた恋の歓びを、彼女は思い出させてくれる。 そばに歩み寄り、手土産を差し出す。白魚のような手が、おずおずと受け取ってくれた。今日も彼女の爪は、ラメの入ったオレンジ色に彩られている。 「はい、これお土産」 「何これ、カステラ？」 「開けてご覧。今日はね、紅茶を買ってきたんだ。淹れてくるから、ちょっと待っててね」 細長い箱は、確かにカステラを想像させる。彼女の感性を愛しく想いながら、必要なことだけを告げて部屋を出た。菓子だけを放る男は二流である。早く茶を用意しよう。それも、美味しい菓子にあった美味しい茶を。 元来た道を戻って二階に下りた。二階には茅萱の私室と厨房設備がある。その小さな台所は、専ら彼のテリトリーだった。 まず湯を沸かし、ティーカップとポットを温める。十分に陶器がぬくもったのを確認して、ポットの湯を捨てた。新たな熱湯と茶葉を入れ、抽出開始。砂時計をひっくり返し、待つこと三分。カップの湯も捨て、準備完了。盆にポットと二つのカップ、角砂糖を入れた瓶、ステンレスの茶漉しを乗せて、再び三階に戻った。 「お待たせ」 百合はテーブルに、マカロンの箱を広げていた。部屋に入るなり、目がとらえる。茅萱はソファを右側から回り込むと、空いている場所にティーセットを並べた。 盆は天板下の収納に仕舞う。飴色の液体を二つのカップに注ぎ終えるなり、折っていた腰を伸ばし、自分もソファに座ろうとする。振り返った瞬間、茅萱は思わず瞠目した。 既に座席は満員だった。というのは、大小様々な大きさぬいぐるみたちが、百合の隣に並んでいたのである。座面は勿論、背もたれも埋め尽くすように、布の塊は敷き詰められ、さながらオブジェのようだ。 これだけの量を、一体どこから運んできたのだろう。しかもあんな短時間で、こんなにぎちぎちに詰め込めるなんて――つい感心してしまう。しかし手放しで彼女を褒めるわけにはいかなかった。 「ねえ百合、僕の座る場所がないんだけど……」 「地べたがあるじゃない」 「えー……」 きつすぎるジョークに、茅萱の笑みは思わず引き攣る。 いやいや、こんな軽口を叩いてくれるようになったのだ。出会った頃に比べて、随分に打ち解けたように思う。悠長な思考。内心で苦笑する。 左端を占拠する、大きなパンダをひょいと抱き上げる。当然、百合の口からは抗議が飛んだ。 「ちょっと」 「この子、百合の膝の上がいいって」 「うそ！」 「ほら、遠慮しないで」 パンダを百合に押しつけ、空いたスペースに腰掛ける。ぬいぐるみに座らせるには勿体ない座り心地が尻を迎えた。 渋りつつも、パンダを抱きしめる百合。微笑ましい。腕からは愛情が注がれているように見えた。それも、特別に深い。まるで恋人にするような抱擁だと、茅萱には映った。 思わず問うてしまう。それは羨望、或いは嫉妬ゆえか。無生物に余裕を奪われるなんて情けない。だがそれほどまでに、自分は百合に焦がれているのだ。 「百合はその子が一番のお気に入り？」 こんな恋は初めてだ。 「え？ 違うけど」 「じゃあどの子が一番好きなの」 「……あの、ちっちゃいねこちゃん」 百合と茅萱の間を埋めるぬいぐるみたちに目を這わす。猫らしき形状のものは、積み上げられたタワーの一番上に、ちょこんと乗っていた。手のひらサイズの丸っこい二頭身。それ以外に猫らしいものはない。色は黒。青い眼の刺繍。首輪代わりの赤いリボン。とても愛らしい見た目だ。手に取ると、ソフトボアのやわらかな毛並みを感じた。そわり。思わず撫でたくなる。なるほど、小さいながらも一番のお気に入りになる理由がわかる。 「これ？」 「うん、それ」 肯定されるやいなや、茅萱は猫を百合の顔へ押しつけた。百合の唇と、猫の鼻の下が合わさる。 「ちゅ」 三秒も経たないうちに離してやる。突然のことに、百合は言葉を失う。困惑した目が猫と茅萱の顔を往復した。その間にも茅萱は、腕を曲げ猫を自分に近づけると、同じ長さだけ口づけを交わした。 「やったね、百合と間接キスだ」 その一言に百合の頬は、怒りと羞恥で真っ赤に染まった。 「ば、ばか！」 「いいじゃん。ほんとは直接したいけど、これが精一杯の妥協」 罵られても構わない。言葉以外の愛情表現は、こんなことしかできないのだから。 彼女は誰かと肌を重ねるのを、極端に嫌う。ものを渡す際に、少し指と指が触れ合うのさえ駄目なのだ。心身が連動して接触を拒絶する。いわゆる潔癖症なのかはわからないが、とにかく、彼女は人に触れないし、触ろうとしない。 そうなってしまった時期も理由も、茅萱は知らない。少なくとも、二人が出会ったときには既に、拒絶を起こすようになっていた。 忘れやしない。茅萱は百合と知り会って間もない頃、何気なく彼女の肩を抱き寄せたことがある。すると彼女は過呼吸を起こした。そのときはただただ驚いて、申し訳なさを感じた。寂しさや苛立ちは一切生じず、どちらかというと哀れみを覚えたのはここだけの話だ。 その一件以来、茅萱は余程のことがない限り百合に触れないよう心掛けている。本当はたくさん触れたいけれど、彼女の平穏のためである。この程度の我慢は、彼女の苦しみに比べればたいしたことはない。 それにしても、過去にいたという恋人とは、どう折り合いをつけていたのだろう。心を通わせるだけで満足できる愛などありえない。接触を抜きにして恋人という関係性が維持できるわけないのだ。下世話なことは重々承知だが、破局した理由の一端を、これが担っていることは疑いようがない。 件の彼女はぷいとそっぽを向き、強くパンダを抱きしめていた。少し腕を弛めたかと思うと、先程茅萱が用意したカップの一つを手に取った。 紅茶の匂いで気持ちを落ち着けているのだろうか。或いは飲みやすい温度に冷ましているのか。わからないけれど、彼女の一挙一動がかわいらしくて目で追ってしまう。 十分に香りを堪能してから口をつける。のどが小さく動いた。カップが唇から離れる。感想はない。細い指がマカロンを一つつまんだ。 桜色の欠片が、百合の唇に留まる。 「茅萱のばか。お花畑」 確かに、少し春の陽気に中てられていたかも知れない。 「お花畑か。うん、確かに。春だね、百合。」 ピンクのマカロンが噛み砕かれる音が聞こえる。無心に食べる姿もかわいらしい。 紅茶を流し込んで、百合は息を吐いた。 「……怠惰の季節ね」 声音には、大罪の香りが潜んでいた。 ＊＊＊＊＊ 出席確認のタイムカードを通す。空いている席に着き、鞄からテキストを取り出した。まだ話し声はまばらで、多くの生徒が口を噤んで講師が来るのを待っている。同じ高校出身の者以外とは、話すきっかけが見つからない。まだ大半の生徒の胸には、ここにいるのは不本意という意識があった。それゆえに心の壁は厚く高い。 教室内は、一足早い梅雨のように、どんよりとしている。新しい友達ができない新学期。生活リズムには少し慣れてきたけれど、この特殊な環境に適応するには、まだまだ時間がかかりそうだ。 高校四年生、或いは大学零年生。つまるところ、昴(すばる)は浪人生だった。先月、すべての大学受験失敗し、一年間の予備校生活を余儀なくされたのである。そんな忌まわしい事実は、もういやというほど認識した。だから半ば開き直るように、始まった新生活を受け入れる努力をしている。 たった一年で、高校三年間の内容を復讐して、入試演習をこなす。要求される勉強量は高校三年生の比ではない。それでも、夢のためならがんばれるはずだ。そう自分に言い聞かせて、今日も授業に出ている。 できるだけ前の方に座るように、入塾オリエンテーションで忠告された。予備校という世界では、後ろに座った者から脱落していくらしい。代償の大きい自由は、夢に対する覚悟を問う。 黒板が見えやすい前から三列目から五列目は激戦区であるが、競争に負けないよう、昴は素早い教室移動を心掛けていた。 小教室に集まった生徒の大半は女子である。次の時間は生物。昴が最も苦手とし、且つ第一志望校の二次試験で尤も配点の高い科目だ。一瞬たりとも気を抜くことはできない。 やがて、中年男性が入室し、授業を始めた。この予備校は一コマが九〇分である。それは大学と同じ区切り方だ。大学でも通用する集中力を養うためらしいが、ある意味で敗者の惨めさを刷り込みもする。 同じ長さの時間の中で、扱うことが違いすぎる。大学生は新たな知識を得たり、更なる見聞を広めたりするのだろう。けれど浪人生は、既知の情報を再びさらって確認するだけ。問題演習をするときは少しましに思うけれど、延々と基礎をなぞっている間は、どうにも気持ちが沈む。 強い意志がなければ、受験を制することはできない。 どんなに些細なことも、蔑ろにした瞬間堕落する。今日のテーマは神経細胞の伝導・伝達だ。ナトリウムとカリウムの動きは、すぐにあやふやになる。確実に潰さねばならない弱点である。苦しさはバネだ。辛い気持ちに負けてしまって、何に勝てるというのだろう。 それに、生物は大学入学後も学び続けなければならない分野だ。入試が終わっても手放せない知識である。一言一句聞き漏らさぬよう、自分を奮い立たせた。 九〇分の間ずっと気を張るのは難しい。授業が終わったとき、昴はひどい疲れを感じた。 幸いにも今日の授業はこれで終わりだ。夕飯を食べよう。英気を養ってから自習室に籠もれば、もう少しだけがんばれる。 朝食以外は外で済ませている。予備校が開いている日は常に、開館から閉館まで自習室で勉強をしている。その代わり家では何もしない。家は入浴と着替えと睡眠と荷物の入れ替えをする場所だ。家族との会話は殆どない。浪人生の扱いに困っている両親に、昴から距離を取ったのである。 予備校が開いていない日は、一日中眠っている。不合格通知を受け取って以来、それまで娯楽や気分転換にしていた行為への興味が、一切合切薄れたからだ。 一日の大半を勉強に捧げる生活。一ヶ月は続いた。あと十ヶ月、このサイクルを回し続けられるのだろうか。いや、回すのだ。この一年を灰色に塗りつぶしてしまっても、次の年が薔薇色になるならそれでいい。 きっと合格通知がもらえたら、以前のように他のことへの興味も復活するだろう。 意地は一番の動力になり得る。ある種の執念を胸に、家と予備校の往復を繰り返す。 浪人生に連休はない。いわゆるゴールデンウィークも通常どおり授業がある。世間の人の中には四月の最終週の連休と五月頭の連休を合体させて、一週間以上休暇をとる人もいる。しかしながら既卒の受験生のパラダイムに、そんなものはない。春の大型連休は、最初の鬼門とさえ呼ばれている。周りに流されぬよう、気を引き締めて登塾する。 その日は朝一と夕方に授業があり、日中はずっと自習時間だった。昴は昼前に予備校を抜け出した。混む前に昼食を取ろうと思ったのだ。暫くコンビニ食が続いていたので、今日は最寄り駅のパン屋に行こう。飲み物は駅地下のスーパーで買おう。頭の中で計画を立てながら、いわゆる駅前通りを歩いて行く。 陽射しが強い。日陰を通っても、暑さはあまり和らがない。春の終わりは夏の始まり。もうすっかり冷え込むこともなくなった。雨の時期を挟むにしても、夏は確実に近づいてきている。体調管理には気をつけよう。健康は何にも替えられない。 駅ビル構内に入る。パン屋は改札のすぐ傍だ。辿り着くと店内に客は一人もいなかった。しかし、商品は棚にずらりと並んでいて、数も種類も豊富だった。その中から菓子パンと総菜パンを二つずつトレーに乗せる。 会計を済まし、商品を受け取った。パン屋で売っている飲み物も気になったが、舌が求める味とは違うと判断して買わなかった。昴は店を出ると、階段で一つ下の階に下りた。広がるスーパーの飲み物売り場に足を運ぶ。そこでハーフサイズのパックに入ったコーヒー牛乳を手にとってレジに向かった。 これらは予備校の空き教室で食べる。自習室以外の場所は、昼時は食事を摂る生徒で溢れる。外で済ませる生徒は少数だ。多くが、持参した弁当や買ってきた食品を校舎の中で食べるのである。 午後の授業に使用されない教室を選んで、夕方までそこにいよう。考えながら予備校に戻る道を進む。できる限り地下を通って、陽射しを避けた。 通路の半ばで見知った後ろ姿に気づく。 自分のすぐ前を歩いている人物に、見覚えがあった。少し足を速めて追いつき、顔を伺う。確信を得る。髪型と色が変わっても、顔までは変わらない。昴はためらいなく、その人に声をかけた。 「音切(おときり)先輩」 ぴくりと背が波打つ。彼は振り返ると、昴の姿をまじまじと見た。数秒おいて、あっと口を開く。 「……水野(みずの)？」 「やっぱり！ お久しぶりです、先輩」 覚えていてもらえた。嬉しさに昴は思わず笑顔になる。 音切は高校の部活の先輩だった。地元の大学の医学科に現役で降格した、文武両道な先輩である。目指している大学は違うけれど、昴にとって音切は憧れの先輩だった。 「先輩は今日はお休みなんですか」 「ああ、自主休校」 「自主、休校……？」 「自主的な休みってこと」 「え、じゃあ……」 「やってれねーよ、かったりい」 ぴしゃりと打つように言われ、昴は思わず閉口する。先輩の言わんとすることがわかる。でも、わかりたくない。わかってしまったら、何かが崩れてしまう気がして、言葉を失った。 「お前こそ、今日は休みか」 「い、いや、ぼくは授業で」 「まじかよ。そういや、いまどうしてんの？」 気軽な問いであるが、それは昴がいま最も訊かれたくないことだった。 答えたくない。 音切とは在学中から仲が良かったし、こうやって二年振りに会っても変わらず接してもらえている。だが、この問いにだけは答えたくない。後ろめたい気持ちが胸に広がる。 彼は自分の失敗を笑いはしないだろう。彼の友人――昴の先輩の多くも、医学科を目指して浪人したと聞く。別段珍しいことではない。音切の学年は、ここ数年で最も医学科合格者が少なかったため、夢破れた同級生の姿を多く見ているはずだ。 自分が出した結果を、過剰に恥じている自覚はしている。それはきっと相対的な惨めさのせいだ。昴の友人は全員、どこかに進学を決めている。第一志望を諦めてでも浪人を回避する者も少なくなかった。 いまの昴には、苦楽をともにする仲間がいない。独りぼっちの寂しさが、劣等感にすり替わっているのだ。 夢があるなら、浪人はなんら恥ずかしいことではない。何人もの講師がそう言っていたではないか。諦めない自分を誇れ。弱気な自分を叱咤して、唇を持ち上げる。 「浪人、してます」 「……あっ、そうなんだ」 ワンテンポ遅れた反応は予想どおりだった。 わかっていた。帰納法的に予測できていた。しかし他の人に比べて、ずっとずっと音切のリアクションは薄い。進学と浪人の二択に、重みの差はないと言うような様子だった。昴にはそれが救いに思えた。 「予備校どこ？」 「河西塾です」 「あー、俺の友達もたくさんそこ行ってたわ。でも、行った奴は全員、行きたいとこ言ってたから、大丈夫だろ」 「そうなんですか？ がんばります」 「おう、がんばれよ。ちなみにどこ志望？」 「医学科です」 音切の表情が曇った。 「あー……、お前、変わらねえな」 「そりゃ、浪人するんですから変えられませんよ」 「いや、いいけどよ、正直医学科はお勧めしない」 「どうしてですか？」 眉がぎゅっと顰められた。 「忙しくて遊べねーもん。朝から晩まで講義・講義・講義で、おかしくなっちまいそうだ。課題の量も半端ねえからバイトもできねえ。サークルも殆ど顔出せなくて幽霊になっちまったし……お前の行きたいところもそうかはわからねえけど、まじ医学科はやめとけ」 昴が恐れていたことが現実になる。 何かが、少しずつ形を失っていく。砂の城のように、ゆっくりと潰れる。それは音切への信頼か、或いは昴の夢か。どちらにせよ、意地以外の心の支えが、機能しなくなっていく。 音を立てずに崩壊は進行する。静寂は冷たさとなって胸を刺した。 蓋を開けたら想像と違った、なんてことはよくある話だろうけれど、音切の言い方はまるで、はじめから想像をしていなかったように聞こえたのだ。 「……でも、先輩は、医者になりたくて医学科に行ったんでしょう？」 昴の声は震えていた。音切の顔は更なる皺を刻む。 「まさか。親や先生が行けって言うから選んだだけだよ。特にやりたいこともなかったし、入れるなら入っとけ、みたいな？ 外聞もよかったし。でもちょっと後悔してるよ。もっと考えて進路を決めればよかった。適当にやって留年ってのはやだから、なんとか進級できる程度にはがんばってるけどさ、医学科は辛い。大学生になったら遊べるなんて大嘘だ」 聞きたくない。 昴には目の前の人物が、音切ではないように思えた。信じたくない。自分の知っている音切は、こんな発言はしない。こんな無神経なことは言わない。 昔の彼は、目の前の課題に全力で取り組む人だった。愚痴を一つもこぼさない、前向きな人だったはずだ。 それがいまや、不満を垂れ流し、逃げることを選んでいる。 変わり果ててしまった嘗ての憧れは、よかれと思って昴の心をずたずたに引き裂く。 絶望は怒りにすり替わる。昴は言いたいことが雪崩れそうになり、敢えて沈黙を選んだ。 顔を見ることもできない。視線は自然と足許に向いた。地下街の証明は色つきライトでも使っているのだろうか、先輩の影は薄い水色を帯びている。 「その点、お前はちゃんと考えてるんだよな。目的を持って大学に行けよ。俺みたいには、なるな」 分かれ道で、じゃあな、と小さく囁いて、音切は去っていく。ここを右に曲がると、予備校街に出る階段がある。直進は歓楽街方面。音切の足は迷うことなくまっすぐ進んでいく。 取り残された昴は暫し、呆然と立ち竦んでいた。こんな気分で、今日一日を乗り切れるわけがない。気が遠くなった。先輩の背中は、どんどん小さくなっていく。 昴の影が、銀を帯びた。 ＊＊＊＊＊ 「クライムの反応を確認、駅前です」 「駅前？ こんな時間に？ 人目につきそうだな」 棗病院の院長室には、クライムの出現に反応する装置がある。それが突如シグナルを発した。棗はすぐに坊ちゃん、桂、松原を呼び出し、彼らが来る間に出現場所を特定した。 「現場周辺は混雑が予想されます。私と坊ちゃんはバイクで行きましょう。松原さんは救急車で出て、近場で待機していてください」 「わかりました」 棗の指示に松原がすぐに動く。坊ちゃんも彼女を追って、専用車両の駐車場に向かった。 「それじゃ私(あたし)は残って情報の整理と各方面への連絡をするから」 「よろしくお願いします」 桂と拳をつき合わせると、棗も駆け出した。独り院長室に遺された桂は、入口付近の壁に掛けられた鍵を手に取り、部屋を出る。 院長室に施錠をして、情報処理室に移動する。二月の一件以来、桂はクライムが出現しても現場に赴くのを控えていた。その代わり病院に残り、現場からの連絡を医療スタッフに伝える役目を担っている。これまでは現場から直接指示していたが、病院の状況を把握せず一方的ではないかという指摘があったため、現場との中継役を置くことにしたのだ。 普段松原が特殊車両で観測している戦闘データはすべて、リアルタイムで病院にも転送される。現場からの指示が適切かどうかのチェックも、新しい体勢の狙いだった。 また、各機関への協力要請も桂が行うことになった。そうすることで、松原をデータ分析に専念させるのだ。ちなみに、これまで桂が現場でやっていた仕事は、棗と坊ちゃんが分担して片づけている。 情報処理室は最上階にある。最上階は他に、被害者用とエイド用の検査室がそれぞれあり、対クライム部隊所属の職員以外は立入が禁止されている。 桂の足は階段を目指した。この時間帯は地下にある栄養部が食事を運ぶのに業務用エレベータを使うし、一般用エレベータは用がない階での乗り降りで時間を食う可能性がある。だから階段が一番早く、一番確実なのだ。 「桂先生」 こういう風に呼び止められることがなければ。 聞き覚えのある声に、桂は足を止めざるを得ない。まったく、緊急事態に彼女に遭遇しないことがない。声の主は、看護師の桐生杏だった。 「クライムが出たんですか」 勘のいい質問である。松原たちが走って移動しているのを目撃したのだろうか。とはいえ、彼女には何も隠す必要はない。桂は頷いた。 「うん。棗と坊ちゃんと松原ちゃんが出動中よ。私(あたし)もこれからお仕事。杏ちゃんも忙しくなるから、心しといて」 「あの、私に何かできることはありませんか？」 彼女は一般病棟に転属が決まって以来、何かと縁がある。桂が負傷した事件以降も、不思議な縁が巡り合わせ、何度か現場に同行してもらった。そして被害者の応急処置を手伝ってもらったのだ。 お陰すっかり、杏も現場組の一員として認められつつある。松原も密かに、杏の仕事を緊急時に対応できるように調節していた。しかしながら今回は既に黄色い救急車は出動してしまっているので、彼女の活動範囲は限られる。 杏の仕事ぶりは桂も高く評価している。けれど、自分がこれから行うことは、一人で十分こなせる量だ。 そもそも、彼女の第一の仕事は、クライム被害者たちのケアである。桂よりもずっと深く、日常的に事件に関わっているではないか。そんな深刻そうな目をしなくても、彼女はとても組織に貢献している。 「うん、ありがとう。今日は大丈夫よ。これから忙しくなるんだから、いまはしっかり休んでてちょうだい」 「……そうですか……わかりました……」 「昼休みを潰してまで働くのは感心しないわよ？」 「あ、ばれてました？」 杏は照れくさそうに苦笑する。すっかり桂との距離の取り方を学習したらしい。桂もいたずらっぽい笑みを返すと、短く別れを告げて再び足を動かした。 予想どおり、駅付近の道路は渋滞を極めていた。 二車線あるうちの駅側の車線はまったく動いていない。この様子では駅前にバスやタクシーがごった返して団子になっているだろう。早い段階で、棗は最短ルートを進むのをやめ、メインストリートから一本外れた細い道に入った。 サイドカーつきのバイクは走行面積が広い。事故を避けるためにも、人通りの少ない裏道を通る必要があった。棗は細心の注意を払いながら、ハンドルを切る。坊ちゃんは無言で進行方向を見つめていた。 法定速度を軽く超えた走行。駅を目指す。喧噪へと近づく。クライムが近い。さらにアクセルを握り混む。 「なあ棗」 坊ちゃんの呼びかけは、かろうじてエンジン音にかき消されなかった。頬の周りに視線を感じるが、棗の視界はぶれない。声だけで応える。 「なんですか」 「……寒くないか」 「どういうことです？」 「冷蔵庫を開けたときみたいな感じがする」 「はて」 「スピードを出しすぎるなよ」 「わかりました」 この道はそろそろおしまいだ。カーブを曲がってメインストリートに合流する。車の大渋滞が目に入った。バスやタクシーがそれぞれ駅に侵入する経路を塞いでいる。連なる車両が交通を妨げているのだ。 棗は歩道をバイクで駆け抜ける。ぎょっとした通行人が避けてくれるお陰でジグザグ運転は回避できた。それでも、坊ちゃんの忠告を胸に、慎重に駅舎との距離を詰める。 棗は坊ちゃんが指摘した異変を、視覚的に理解した。 駅前の広場には噴水がある。水は絶え間なく噴き出しているはずであるが、今日はそれが見受けられない。 いや、水が凍っているのである。 噴水は氷のオブジェと化していた。それだけではない。駅の周りに植えてある花にしなやかさがない。ぴんと張った花びらはすなわち、凍っていた。 バス乗り場を示す電柱や、地図などにも霜が降りている。鮮やかな地面の舗装も白っぽい。そういうことか。徐々に減速する。 「いた！」 坊ちゃんが声を上げた。彼が指さす方向に目を遣ると、大柄な異形がずんずんと広場を闊歩していた。 熊のクライム。能力は氷。 「『怠惰』……」 「氷対氷か、�爐瓩鵑匹�せえな�瓠�」 敵と同じ大罪の力を纏いながら、坊ちゃんは立ち上がった。そして跳躍する。サイドカーから飛び出す。ヒトならざる脚力で、クライムの目の前に下り立った。 一人になった棗は駅構内にバイクで侵入すると、駐車し積んでいた観測装置を広げた。三脚を立ててカメラを乗せ、エイドたちが退治している方向にレンズを向ける。録画ボタンと転送ボタンを同時押しした。これで映像は、松原と桂のもとに届く。 本当はより至近距離から撮影がしたいけれど、いまはそれよりもやるべきことがある。 棗の仕事は、負傷者の確認と救護の要請である。それらを完了してやっと、撮影に専念できるのだ。 建物から出て辺りを見回す。戦闘の場から離れたところに、倒れている人らしき姿が見えた。そちらに駆け寄る。足音を立てないよう、爪先立ちで走った。 「大丈夫ですか!?」 倒れているのはスーツを着た男性だった。彼も例外なく霜を被っていた。棗は呼びかけながら、脈や呼吸を確認する。生きてはいる。しかし、低体温症が懸念された。呼びかけに反応はない。とりあえず彼を抱き起こすと、バイクを停めた辺りまで移動させた。 彼以外にも二人、同じように霜に埋もれる人を棗は助け出した。うち一人は老人だったため、事態は急を要する。棗は無線機を手に取った。 「こちら松原、南口前の交通は完全に麻痺していて近づけません。現在北口側のロータリーに待機しています」 サイレンを鳴らしても、駅前の渋滞列には割り込めそうになかった。松原はすぐに諦めると、進路を変更した。 クライムが出現した広場は、改札から出て南側だ。こちらには飲食店や塾、コンビニ、病院などの施設がいくつも建ち並び、人通りはとても多い。棗病院に行く場合も、こちら側の出口を利用する。それに対して、改札の北側にはビジネスホテルが多く建っていて、比較的人は少ない。 怪人の出現で、祝日の昼間だというのに駅には殆ど人がいなかった。事件が起きてもダイヤが乱れることはないため、駅員はかろうじて残っているようだけれど、不気味なくらい人気がない。おそらく、北口方面へ逃げる人波を目撃した人々が、近寄らないように努めているのだろう。 ホテルの辺りから遠巻きに様子を窺っている人はちらほらいた。きっと黄色い救急車が珍しいのだろう。明らかに視線は、こちらに集まっている。 それを気にかけている時間はない。観測機器のスイッチを入れ、受信感度を調整する。準備が整うなり、本部の桂に連絡を入れた。 「北口の方は混んでないの？」 「はい。深夜のような人の少なさです」 「それじゃあ、救急その他は北口に行って、南口まで患者さんを迎えに行くように連絡しとくわね」 「お願いします」 得体の知れない怪物が出現すれば、必ず警察や消防へ連絡を入れる人はいるだろう。負傷者がいれば、救急車も出動を要請される。しかし、クライムの被害にあった人のケアは、数多くある病院はあれど、棗病院にしかできないのだ。 いち早く、出現場所付近からの通報を受けた場合は、棗病院にすぐ搬送するように消防隊に連絡をせねばならない。桂の仕事は消防隊や近隣施設との連携だった。 今回は、鉄道会社に該当駅での停車を見合わせる連絡をしなければならない。一方的に無理を言う形にはなるが、更なる被害を防ぐためにはやむを得なかった。 棗病院は、表向きはただの個人病院である。しかしその実体は、国の援助を受けたクライム対策本部の直轄施設だ。資金や機材はすべて、国から支給されている。ちなみに被害者の医療費に当てる金銭は、他の医療費とは別に立てた予算の中から捻出されているそうだ。 クライムの存在は極秘であるため、情報統制は国家規模で行われている。また、他の医療機関の混乱を避けるためにも、棗病院からの要請には何があっても従うように、国に存在を届け出ている団体には、様々な方法で通達してあるらしい。 迅速な対応をするために、あらゆる権限は院長の棗が持っており、国への報告は事後のみでいい。だから電車のダイヤを乱す要請も、余計な文言は一切必要ないのである。けれど、相手はわけがわからなくても従わねばならないのだから、申し訳なさを抱かずにはいられない。 まず消防署に連絡を入れる。続いて、後ろめたい気持ちで鉄道会社本部に電話をかけた。これまで、この作業を顔色一つ変えずにこなしていた松原の肝っ玉は、尊敬に値する。通話を終えるなり、桂は重い溜め息を吐いた。 休む暇はない。息を吐ききるなり、モニターに映像が映し出された。エイドが交戦を開始している。視界が固定されているため、棗が傷病者を見つけたことが推測できた。 ありがたいことに、坊ちゃんはカメラで映せる範囲内で戦ってくれている。すっかり暖かくなってきたけれど、大罪の力は簡単には融けない氷をつくり出す。白みがかった背景は、大罪の強力さを物語っていた。 暫くすると、棗から無線連絡が入った。それは松原も聞こえる、全範囲向けのものだった。 「負傷者が三名、全員意識がありません。目立った外傷はなし、一人はお年寄りです」 「了解、すぐに救急車を向かわせるわ。ねえ、南口は全体的に凍ってるの？」 「外は少し滑りますが、駅舎内に入れば普通に歩けます」 「わかった。じゃあ、北口から救急隊が来るから、応急処置は任せたわ」 「ありがとうございます」 桂は棗からの連絡を、そのまま消防署員に伝えた。駅から消防署までは車で二分、棗病院までは約十分かかる。救急車の中からの連絡は、救命医に直接行く。桂が内線で言うべきことは、これから三人の急患を受け入れることだ。 棗の動きに注意しながら、坊ちゃんはクライムを引きつける。なるべく辺りにものがないところへ誘導するのだ。今回は道路に大量のギャラリーがいるため、そちらに被害が及ばないことを最優先に考えて、広場の隅に熊を誘った。 見たところ、力の暴走を制御し切れていない。この凍らせ方は、出鱈目に力を放っているだけだ。経験がものを言う。こういうクライムは、戦略にはめれば攻略は容易い。 とはいえ、力のごり押しに油断は禁物だ。直撃を食らわないように、相手の癖を見極めようと目を懲らす。 熊は直情的な動きを見せる。雄叫びは上げても人語は発さない。完全に力に飲まれている。いや、『怠惰』への執着心が薄いのかも知れない。 ごくたまに、こういう未熟なクライムが出現することがある。クライム化機構は依然として不明であるが、それに拍車をかけているのは、こういう強すぎない執着心の暴走だった。 殆どのクライム被害者は、あらゆることを犠牲にしても叶えたい欲求を持っている。その気持ちを大罪は喰らい、エネルギーにする。クライムの攻撃力や防力、素早さや身軽さといったものは、基本的にそれに比例する。 大罪の力は元々強力で、人間が太刀打ちできるものではない。執着心が弱い場合、力だけがずば抜けた個体が生まれる。概ねそういった怪人は、鈍足で守りも弱いが、一撃一撃に全力を込めてくるのだ。 おそらくこの熊もそういう戦い方をするのだろう。それも、エイドと同じ氷の力を用いて。 「先輩が手本を見せてやるよ」 口から放たれるブリザードを避けながら、坊ちゃんは独りごちた。 水色の手袋から、同じ強度の氷のつぶてを放つ。熊の足許を狙う。大きな足は容易く地面に貼りつけられた。 咆哮が上がる。膝から下を暴れさせて、結晶を砕こうと奮闘する。大きな隙ができた。こちらに注意を払わぬ熊と距離を詰めて、その横っ面を殴り飛ばす。 足が氷から抜け出すのと、顔に力が加わるのは同時だった。熊は勢いよく飛んだ。地面に背面を強打する。エイドは容赦しない。鋭く尖った氷柱をその上に降らせ、更なるダメージを与えた。 既にクライムが空気中の水分を多く消費しているため、なかなか大技が使えない。『怠惰』のクライムを相手にするときはいつも、水分の取り合いだった。 救急車が控えているときは、積んでいる水を辺りに撒いて水分を補給し、かつ辺りの氷を融かすことができる。今日はそれができないため、肉弾戦に持ち込むのが得策である。 この熊はどこまで読めているやら。 反撃するが如く、熊は凍てつく吐息を吹きつけてくる。まともに食らえば一瞬で全身が凍りつくだろう。しかし、避けるのは難しくない。大罪によって強化された脚力で、適切に回避する。 まるで馬鹿の一つ覚えである。それ以外に攻撃する方法を思いつかないのか。敵の動きを観察しながら、坊ちゃんは思った。あまり逃げ回ってばかりでは、地面が凍って動きにくくなる。向こうは学習する様子もないので、そろそろ畳みかけるべきだろう。 「�牾覆琉磴い魘気┐討笋覘瓩次� 呟いた瞬間、エイドが足許から光に包まれた。紫の閃光が熊の目を灼く。遠くにいる棗も思わず頭を伏せるくらい、強いエネルギーが発せられた。 光が収まったとき、ブーツは紫に染まっていた。 白い装甲、水色の手袋、黒いマント、紫のブーツ。エイドが纏う色彩が増える。 「紫……『傲慢』の、力……!?」 棗は呼吸を忘れた。エイドが新たに大罪の力を獲得した。それも、既存のものと両立させて。突然のパワーアップは、初めての出来事だった。 紫のクライムは『傲慢』の能力を持つ。『傲慢』は宿主の破壊力を強化する。氷を自由自在に扱えるようにする『怠惰』とは属性が違う能力であることが、これまでのクライムの観測でわかっている。 エイドは存在が確認されて以来『傲慢』以外の能力を使ったことがない。しかし、他の六つの力も、なんらかのきっかけがあれば扱えるようになるのではないかと、坊ちゃん自身を含む関係者は常々考えていた。 その根拠として、エイドとそれ以外のクライムの違いが挙げられた。どのクライムも身体の色は大罪ごとの色に黒を足したような色をしている。しかしエイドの身体は白く、手と足とマントしか色づかない。そのため複数の異なる属性の力――最大で三つ――を扱えるだろうと予測されていた。 その仮説は正しかったようだ。 問題は何がきっかけになったのか。 それはこの戦闘が終わってからじっくり議論しよう。エイドの肉体の様子は検査機器を通せばわかるけれど、精神状態までは覗けない。本人にその当時のことを訊くのが一番有力な手がかりになることだろう。 熊が立ち上がったのを見届けて、エイドは声を上げた。 「行くぞ」 地を蹴る。 硬く握られた拳が、再び熊を襲った。接触の瞬間、手袋が煌めく。より温度を失った弾丸が飛来する。まるで圧縮した冷気の塊をそのままぶつけるような殴打を受け、熊の巨体は呆気なく吹っ飛んだ。 噴水だったオブジェに背中を受け止められる。 衝突により凍っていた噴水の水にひびが入り、ガラスのように砕け散る。 「これが……『傲慢』の力……」 圧倒的に強くなったエイドに、棗は呆然とした。それはモニター越しに戦いを眺める松原と桂も同じだった。 大罪の力は合成によって、さらに人知を越える。 これにもう一つ力が加わったら、エイドはどれほど強くなるのだろう。畏怖にも似た感情を、抱かずにはいられない。 白き英雄はどこか楽しそうに、熊の怪物を追い詰める。 「さあ、終業時間だ」 とどめの号令がまろび出る。 被害は大きかったけれど、エイドが新たな力を得ることができた。この戦いには大きな意味があった。クライム化が解けるまでの数秒間に、ある種の感慨が芽生える。 熊の最期を見届ける。 エイドは駆け出し、跳躍した。足から怪物へつっこむ。紫のブーツの足裏には、先程同様に冷気が集められていた。 軌跡は直線。 斜め四十五度から、エイドの足が熊を貫く――ように思われた。 「ッ!?」 エイドは何かにはじき飛ばされ、地に落ちた。 それまで纏っていたのよりも高いエネルギーを持った何かと衝突した。地面に打ちつけた箇所より、何かがぶつかった箇所の方が強く痛む。距離や力の方向からして、熊の反撃ではない。かといって、こんなものが偶然飛来するとは考えにくい。 考えられるのは、第三者の乱入。それもおそらく、敵の援軍。味方の可能性はまずない。 「あ……？」 顔を上げる。噴水を背景に、立ちふさがる影。 銀色の異形。 「なんだ、お前……!?」 銀色の装甲を纏った人型の怪物が立っている。 クライムだ。直感的に判断する。しかし確信できない。謎の乱入者の登場に混乱する。瞬時に浮かぶ疑問の数に、処理が追いつかない。 それがクライムであると認めるには、人ならざる外見的特徴以外に根拠が足りなかった。まず、七つの大罪を現す色の中に、銀は含まれない。既に七種類のクライムはすべて確認されているため、断言できる。緑、青、水色、赤、橙、黄、紫の七色が、それぞれの大罪を現すのだ。銀はもちろん、灰色さえ執着心からは生じない。 また、クライムは何かしらの動物の姿をしている。人型なのはエイドだけだ。この異形は、どう見ても人型である。サルの仲間ならば、もっと体毛が認められるはず。筋肉のような装甲しか纏わぬ姿を、ヒト以外の何と見間違えよう。 そもそも、観測機はクライム反応を一つしか示さなかった。こいつはどこからやってきたのか。新たな反応が戦闘中に見つかったなら、棗が教えてくれるはずだ。 柱の影で棗も同じことを考えていた。クライムのように見えるけれどクライムの特徴を満たさない異分子が、頭を悩ませる。 注目を浴びていることを、銀の者は気にもしていないようだった。彼は熊に用があるらしい。圧倒的な力で吹き飛ばしたエイドには、一瞥をくれただけだった。早々に身体の向きを変え、噴水にめり込む熊を睨めつける。 熊は怯えた。 銀のクライムが二人に増える。 一瞬だった。彼が動いた瞬間、中心線より反対側の半身が出現する。二人に分かれた乱入者が、それぞれ熊に襲いかかる。 一撃を加えるごとに分裂は繰り返され、あっという間に銀の影は十六倍に増えた。指数関数的な増殖は、ものの数回で三二の分身を生み出した。 そのすべての個体から暴行を加えられた熊は事切れる――クライム化を解かれる。強制的に、ひどく暴力的に。 エイドにしかできない行為を平然とやってのける、謎の乱入者。エイドはその背に視線を注ぐことしかできなかった。 ようやく幼さに決別できたくらいの年齢の男性に、熊は姿を変える。 それを見届けると、おもむろに三二の銀は踵を返した。 六四の瞳がエイドを射る。 気づいたときには手遅れだった。一斉に襲いかかる銀の粒。 「坊ちゃん！」 棗の声が、遠くで聞こえた。 ＊＊＊＊＊ 「な、に……あれ……!?」 百合が目を瞠く。動揺に僅かな身体の震えさえ見て取れた。茅萱もあんぐりと口を開け、姿見に映される一連の戦闘を観察していた。 揃いも揃って美男美女が台無しである。特に百合は、青ざめる手前まで顔色が蝕まれていた。 得体の知れない乱入者に、エイドが倒された。七つの大罪すべてを扱いうると仮定される存在が、呆気なく変身を解かれた。数の暴力だったことを差し引いても、力の差を認めざるを得ない。 エイドが負けた。 その事実を受け入れられず、ただただ動揺する。 「うそ、だ」 うわごとのように口から洩れる言葉が、百合の心情のすべてだった。 二人をさらに驚愕させたのは、その後の展開である。エイドの変身が解け、生身が晒されるなり、謎のクライムは棗が隠れていた方を向いた。目が合い、ただの人間は息を呑む。きっと死を覚悟しただろう。彼の顔から血の気が引いたのは、視覚的にも明らかだった。 しかし、彼が危害を加えられることはなかった。三一の銀は、一つのもとに集まっていったのである。元の数――一人に再統合するなり、銀の装甲は粒子となって空気中に霧散する。 現われたのは少年だった。上目蓋と下目蓋は既に合わさり、あらゆる感覚が意識に入り込めない。あたかもクライム化を解かれた被害者のような状態で、彼は元の姿を取り戻した。そしてそのまま地面に倒れた。 百合と茅萱が衝撃を受けたのは、その少年に見覚えがあったからだ。 二人はずっと、ある男子大学生の『怠惰』が熊の鎧を生むのを観察していた。男子大学生はクライム化する直前に、少年と接触していたのである。 少年からは一切、大罪の気配はしなかった。 少年は何を纏っていたのか。彼は明らかにクライム化していた。しかし、どの罪でもない色と能力を持っていた。クライムを熟知した二人であるが、例外を目にするのは初めてだった。 最強のクライムであり、クライムの最大の敵でもあるエイドさえ打ち破る、突如現われ闖入した第三の勢力。 変身していたのは少年。 「エイドより強いなんて……」 茅萱には狼狽と動揺に暮れる百合を宥める余裕がない。かける言葉が見つからない。寧ろ、彼女が気持ちを代弁してくれるから、口を開く必要がなかった。 しかしながら、一番動揺していたのは、間違いなく棗だっただろう。 彼は松原に連絡を入れるのも忘れ、あられもなく地面に伏す仲間の元へ走り寄った。彼を抱き起こすなり声の限り名前を呼んで、意識の所在を探る。しかし坊ちゃんは深い眠りの底に沈んでいるらしく、何の反応も示さない。 棗の声が一帯に響いた。 彼の声が枯れた頃に、ストレッチャーを押した松原がやって来た。中継で一連の出来事を見ていた彼女であるが、なんとか我に返って、自分がするべきことをしたのだ。 三人の意識不明者を乗せて、黄色い救急車は棗病院に帰っていく。棗同様に呆然としていた桂の代わり、連絡はすべて松原が行った。坊ちゃんが気絶した状態で帰還するのは、今回が初めてだった。 百合が命令しないから、鏡はいつまでも音切(ターゲット)が置かれている状況を映し続ける。 「これは面白いことになったな」 百合と茅萱を混乱から掬い上げたのは、背後からした声だった。二人は同時に振り返る。 そこに立っていたのは、普段はこの建物に滅多に入ってこないもう一人のエデンの住人だった。 それも、自らを王と称する、エデンの開拓者だ。 「シンさま……」 「この街には大罪の能力者が集っているうえに、こんな者までいたとは……いやはや、実に愉快ではないか。久しぶりに、純度の高い執着心を見た」 「シンさま、いったいどういうことなんです？」 まるですべてを理解したように、その初老の男はただただ口許を歪めた。茅萱の問いにも答えず、興奮に潤んだ双眼で鏡を凝視する。 彼の熱い視線は、始終昴に絡みついた。 To be continued. さわらび96巻へ戻る さわらびへ戻る |