あの日のバースデー・ケーキ 御堂鮎子 体の芯まで熱い。じりじりと溶かされるような熱に耐えるために、私はぎゅっと目をつぶった。まぶたの裏では、深い闇がぐるぐると渦を巻いている。昨日三十七度五分だった熱は、あっという間に三十八度七分まで上がった。全身の関節が怠く痛い。熱に冒された頭は、沈み込んでいくように重たく、その熱に抗うためにおでこに貼った冷却シートも、すでに生温かくなってしまっている。世間では、インフルエンザが流行っているらしい。おそらくそれだろう、と思った。だが、病院に行く元気はない。行かなくてはいけないのは分かっているが、鉛のように重い体は少し動かしただけで多大な疲労感を私に投げつけた。外出なんてしたら、アパートの駐輪場あたりで私は倒れてしまうかもしれない。上がった体温と、全身を支配する痛みは精神を磨耗する。八方塞がりな状況に、なんだか無性に泣きたくなった。ただ、冷蔵庫まで飲み物を取りに行くのもだるく、水分をほとんど取っていないために渇ききった体からは涙どころか汗さえ出てこなかった。 少しでも気を紛らせたい。そう思って、携帯に手をのばす。そのままSNSのアプリを開いた。学部の仲良しグループで作ったトークボード。そこに、今の自分の状況を報告しようと思った。もしかしたら、これを見た誰かがお見舞いに来てくれるかもしれない。それに、きっとみんな心配してくれるだろう。そんなかすかな期待を込めて、私はアプリの起動を待つ。開かれたそこには、未読メッセージが二十件も溜まっていた。普段はここまでメッセージが溜まることなんてないのに、どうしたんだろう、そう思いながら一番初めの未読メッセージまで遡る。「足骨折して入院した(泣)」グループのひとりの子が、そんなメッセージを投下していて、このメッセージをきっかけにやりとりは進んでいた。 「大丈夫?」「お見舞い行くよー」「大変そう……」そんな言葉に対して、その子が答える。「怪我した以外はなんともないから大丈夫だよー」「寂しいから来てよー。学校の近くの病院だよ」「一人暮らしなのに、退院しても家事とかどうするんだろー」そして、さらにみんながそれに答える。「でもめっちゃ不便よね」「わかったーみんなで行くよ! ってわけでみんないつがいいー?」「何かあったら手伝いに行くよ!」今も増え続けるやりとりは、その子へのいたわりに溢れている。でも私は、そんな言葉をどうしても作り出せなかった。メッセージたちをしばらくぼんやり眺めたあと、私は携帯を伏せる。ただひたすらに、頭が痛い。無様な自分を嘲笑う様に、身体はどんどんしんどさを増しているように思える。寝たら楽になるかもしれない。そう希望を持ってみるものの、昨日からずっと睡眠を貪っていたため、既に眠りの蜜は尽きてしまっていた。眠りに手を伸ばして、だがそれは自分ものにならないままふわふわと離れていく。何も考えていなかった。いや、考えてはいるが、それはどれも意味のなくくだらないものだった。今日の授業課題出たのかな、とか、夕方から雪が降るかもって天気予報にあったな、とか、そんなことばっかりだ。ただ、逡巡する思考の中で、ひとつの感情がじわじわと滲み出してきた。「熱が出て辛い」そんなメッセージを投げかけることができなかった。彼女へのいたわり、それに満ち溢れた言葉の波の中に、そんな言葉を投げ出す勇気が私にはなかった。でも、だからといってみんなのように、彼女に対して言葉をかけることもしなかった。自分が見てもらえないことへの焦りと苛立ち、疎外感。輪に入れずその外にいながら、ついつい中を気にしてしまうそれは、人見知りだった昔、一人だけみんなが遊んでいる中に入れなかった時に感じた心細さにも似ていた。そしてその心細さは、私の中で彼女に対する嫉妬心へと転化する。熱を持った体は、あっという間に滲み出た嫉妬心を肥大させた。私だってしんどいのに、そんな気持ちが頭と体を支配する。肉体的な辛さと、精神的な辛さ。内と外から削り取られることへの苛立ちの中で、私はふと自分が小学生の時の出来事を思い出していた。 私の誕生日は十二月の末だから、いつもお祝いはクリスマスと一緒くたにされていた。誕生日ケーキには毎年、「お誕生日おめでとう」のプレートの代わりにサンタさんの砂糖菓子がのっていた。子供心にそれはすごく理不尽なことで、私は一度親に不満をぶつけたことがあった。なんで、私の誕生日をクリスマスと一緒にするの。弟は七月生まれだからって、ちゃんと祝ってもらってずるい。私の抗議に、母は諭すように私にこう返した。「クリスマスのついでに、あんたの誕生日を祝ってるんじゃないのよ。もちろん、あんたの誕生日の方が大事なの。それにその代わりに、誕生日プレゼントをお姉ちゃんには弟より良いものをあげるようにしてるのよ」母の言葉を聞いても、なんとなく私は腑に落ちなかった。もやもやと、不満はまだ私の頭に充填されていた。でも幼い私の頭では、自分が腑に落ちない理由や抱いている感情のことを事細かに説明することができず、ただ押し黙った。 七月の初旬。その日は弟の誕生日だった。母にお使いを頼まれ、私は近所のケーキ屋まで誕生日ケーキを取りにいった。ケーキは、大事そうに白い箱に入れられ、私の手に渡った。崩れないように、しっかりと自転車のカゴに入れる。家に帰るため、ゆっくりと私は自転車を漕いでいた。 風は、夏にふさわしい青臭さをはらんでいる。私の頬を撫でていくそれの、生暖かさが憎かった。しっかりカゴに収まっているから、自転車を漕いでもケーキの箱は少しも動くことなくそこにふんぞり返っている。「おれはおまえのものじゃないんだぞ」そう言いたそうにカゴのど真ん中に居座るそれを、投げとばしたくなる衝動にかられた。いつもより豪華な料理が食べられる。ケーキだって食べられる。弟は、「おたんじょうびおめでとう」のプレートを半分くれる。でも、私は毎年それをこれっぽっちも嬉しいと思っていなかった。砂糖菓子でなくて、「おたんじょうびおめでとう」のプレートが乗っている。プレートには名前も入っていて、このケーキが弟のものに作られたものであることを主張している。それが、私には羨ましくて仕方なかった。 そんなことを考えながら自転車を漕ぎ、角を曲がった瞬間だった。視界いっぱいに、シルバーの自動車が映った。ひかれる。そう思って私は両目を固く瞑った。そんなことをしたって意味がない。本当は、よけなくてはいけなかった。目の前が真っ暗になると同時に、体の左半分に衝撃が走った。その後、一拍遅れて痛みが体を貫いた。痛くて起きることができない。車の運転手が、真っ青な顔で私に何かを聞き続けている。大丈夫かとか、救急車を読んだほうがいいかとか、しかし、私はそれに応えることもできなかった。視界の隅に、カゴから投げ出されて道路に叩きつけられたためぐちゃぐちゃになっているケーキが見える。そのあとは、詳しく覚えていない。気がついたら救急車が横に来ていて、私は担架に乗せられてその中に運ばれた。けたたましいサイレンの音を響かせながら、救急車は動き出す。痛みの中で、救急車って中はこんなふうになっているんだ、とか、ケーキどうしよう、とか、そんな呑気なことを考えていた。 結局、私は軽い捻挫をしただけだった。しかし、その日はずっと、家族が私のことを一番心配してくれた。弟の誕生日なのに、話の中心にはずっと私がいた。父も、母も、本来の主人公であるはずの弟でさえ私にいろんなことを聞いた。ぶつかったとき痛かったかとか、明日学校には行けそうかとか、それに応えていると、なんだか自分が今日の主役であるかのような気がした。食卓には、私が台無しにしてしまったケーキの代わりに、スーパーで急遽買ったプレートのないケーキがある。それを見ていると、なんだかいけないことをしたような気持ちになった。背徳感、その頃の私はそんな言葉を知らなかったが、確かにその感情が私に張りついていた。しかしその背徳感の裏で、微かな喜びを私が持っているのも事実だった。何年も自分の中でくすぶり続けて、凝り固まってしまった自分の不満が少しほぐれるのを私は感じていた。 あの頃から、少しも変わっていないのかもしれない。結局、私は自己顕示欲の塊のような人間なのかもしれない。いつの間にか、誕生日が近づいても憂鬱にならなくなった。ただ、一つ歳をとる日、と、客観的に受け入れられるようになった。でも、だからといって私の精神は大人になったわけでない。憂鬱な誕生日を何回迎えても、私の根底は変わらない。ただ、他人が羨ましくて、でも自分のことを少しでもちゃんと見てくれさえすれば満足するんだ。だからきっと「熱が出て辛い」その言葉を空気を読まず投下して、それに対してみんなが心配してくれさえすれば私のモヤモヤは消えるんだ。でも、そんなことはしたくなかった。結局、携帯は手に取っただけで、アプリの起動さえしないまま伏せた。 あの日、潰れたまま放置されたケーキはどうなったのだろうか。「おたんじょうびおめでとう」チョコレートのプレートに、チョコペンで書かれたその言葉は、プレートもろともドロドロに溶けてしまったのだろうか。今も、彼女らのやりとりは続いているんだろうか。弟は、実家で元気にしているだろうか。センター試験が近いが、勉強は進んでいるのだろうか。そういえば、もうすぐ私の誕生日だ。思考は、脈略無くいろいろな方面に伸び続ける。眠ってしまおう、と思った。眠って、すべての思考を一旦遮断してしまおう。もう空っぽになってしまった壷から、眠りの蜜を無理やりかき集めて飲み込もう。そして、眠りから覚めたら、体に鞭を打ってでも病院に行こう。そして、嫉妬心の種となった、体を蝕む熱を倒してしまおう。そうすれば、私は表面的には大人になれる。あの子に、いたわりの言葉だってきっとかけられる。ケーキがぐちゃぐちゃになったあの日から何も変わっていなくても、きっと変わったフリぐらいはできる。そう信じて私は目を閉じる。瞼の裏には、相変わらずの深い闇が一面に広がっていた。 完 さわらび96巻へ戻る さわらびへ戻る 戻る |