夢見心地
早良心一
 彼は生きる心地のしない毎日を伊豆で過ごしていた。最早、何の為に自身が生きているのかと問う事すら忘れた程に。
 兵の道の努力は止めなかった。それが彼の父君であったし、彼の此処に居る理由だった。源氏を戻すのだ。
 平治の大晦日前に始まった戦は、新しい元号に変え、その元号の大晦日前で父君は死んだのだ。そして、麗らかな気候に際して、彼は伊豆に流された。
 平氏の武に負け、源氏は落ちた。
 池禅尼の慰めによって、生き延びた彼はただただ世を眺めるほか無く、息をする傀儡としてのみ生活を許されている――。
 しかし、彼は男であった。女を愛していた。
 だから、或る平家の娘を隠れて孕ませてしまったのだ。
そして、それを本家に知られることを恐れた、その娘の父は赤子を殺し、彼をも手に掛けようとしたのだ。だが彼は逃げた。他の平家を頼って。

「最近のあの方は妹君を好かれているようで……」
彼女は怪訝な顔でその井戸端話を聞く。それもそうだろうと、少しばかりは思うのである。妹も美しい。あの御曹司の事だ、もう少しすれば夜這いに来るや知れない。
しかし、彼女は想い馳せる。あの、雅で美しい御曹司にとって、最良の選択は私なのではないかと。内心の恋心を縁に添え、思いついた考え。でも、叶わない想いを馳せても、虚無感しか最後に残りはしない。朝の新涼を演じることにした。早かろうが遅かろうが、私を好きになるまいと、今後の世風を論じはじめた。
今の平氏の棟梁は悩み抜いているだろうと。院と清盛入道の間で。平氏の崩壊があるかもしれないと。
或る日、妹君が起きるや否や彼女に語りかけたのである。
「お姉さん、私は昨日綺麗な夢を見たのです」
 話を聞くと、このようであった。
高い峰に夕闇の中登る。頂上に着くと、それまでの険しき、急峻な道を想い、感動したそうだ。
小袖を靡かせ、両手を天に仰ぐと袂に太陽と月を入れた如き様に見えたのだと言う。そして頭に、三つに橘の実を付けた枝を髪に挿したと言うではないか。
彼女それは尊過ぎる大吉夢ではないかと恐怖した。月と太陽を手に入れる事は必ず素晴らしいではないか。もしかしたら、歴史に残る功労者の末座にいることが出来るかもしれない。そして彼と結ばれるかもしれない。
「ああ、それはとても酷い悪夢よ」
「お姉さん、そうでしょうか……。私も可笑しいと思ったのです」
「夢を見てから七日よりも前に人に言ってはいけないわ。よい夢であっても、三年経つまでは……」
「どうしましょう……」
「ええ、そうよ。私があなたの夢を買って禍を私に転じる事にしましょう」
 そう、この夢を買うという事は話として聞いている交換方法だ。
「良いのですか? お姉さまを不幸にしてしまって」
「構わないわ、私はあなたの姉ですもの」
 彼女の妹君はまだ幼かった。姉君である彼女の好意に逆らう訳もない。
 彼女は妹君の好きな物を代償にした。それは唐の鏡と唐綾の小袖であった。二つは、代々彼女の家に伝わるもので、長女である彼女の持ち物であった。
 妹は喜んだ。禍を転じてもらったばかりか、欲しいと願い続けた鏡をもらえたのだから。

それからというものは、夢通りに素晴らしい事が待っていたのだ。
彼女の父は元々、その彼女の妹を御曹司に嫁がせる予定であった。田舎の在庁官人にとって源氏の御曹司とは名高いもので血縁を結びたいと少しばかり思っていたからだ。なので、手紙でその妹の乳母へと、その意向を伝えようとしたのである。
その使者は、相手は罪人とはいえ源氏の嫡流であると考え、妹君では相手も納得いかないだろうと妹の乳母より彼女の乳母へと宛名を変え、その手紙を寄越したのであった。その使者は後々それが露顕し、打ち首となった。なぜなら、長女の契りを結ぶには適当ではないからだ。先例と同じようにならないとも限らない。
手紙を知った、彼女は思ったのである。夢のお蔭であると。
その手紙を見た、次の日であったろうか。彼女も夢を見た。
一羽の鳩が、金色の箱を運び飛び去った。その箱を開けると、彼からの手紙であった。
朝になり目を開くと、彼より手紙が届いていた。
逢いたいという。それは春の事であったが、彼女は暁を覚えたのである。

一方、彼は庇護してくれる北条の次女の美貌に浸っていたが、それが間違いと思うようになったのである。美し過ぎて何か違う方向に進むのだと思うようになったのだ。
ならば、長女であろう。賢明であるし、美しい。其れが結句最高の選択だと感じるのである。
彼は隠れて、北条の長女に逢った。会うたびに彼女の魅力に絆されて行くのである。

そして、北条が京での仕事に出掛けた時に結ばれたのである。父君に逆らおうとも二人は揺らぐことのない契りを持って、結ばれたのである。

彼こそが後の、鎌倉幕府初代征夷大将軍である源頼朝であり、北条の長女である彼女が北条政子なのだ。
 頼朝を失くすと悲愴に苛まれ、髪を下ろし尼となった政子は、子を暗殺され、父たる時政を他家との結びつきを理由に追放し、北条の万全な地位を築き、尚且つ、京より幼い藤原頼経を将軍として迎える事で、尼将軍と呼ばれるほどに実権を握ったのである。
これが月日を握ったという夢の事だろう。
鳩も、源氏の崇敬する八幡の神使であった。
政子はそのように、貪欲に上に登らんとする剛毅さと運命を持っていたのかもしれない。
                     終


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