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エイド ＃２ 原作 お茶会実行委員会 文 緑茶の人 絵 小豆の人 この物語はフィクションであり、実在の人物や団体には一切関係ありません。 グレー地に、水色と黄色の線が走る。今日はどこかお洒落なチェックシャツを着ている彼を見かけた。 専門病棟に勤務が始まって以来、彼とは口を利いていない。クライムが出現しても、現場に同行することはない。異動先に馴染むだけの毎日である。 それでも、何日かに一度の頻度で、彼の姿を院内で見かけていた。すると無意識に目が行ってしまうのだった。 彼を見ない日も、一日に二回は彼のことを考える。きっかけがあるからだ。通勤鞄を目にすると、彼を思い出さずにはいられない。 あのとき自分は朧気な視界に、彼と鞄を見た。けれど鮮明に覚えている。夢じゃない。もちろん、一度だけ見舞いに来てくれたときのことも。 これではまるで、自分が惚れっぽいみたいではないか。そんなんじゃない。自分はただ――ああ、考えてはいけない。いまは勤務中だ。首を振って思考を追いやる。まだ彼のことを全然知らない。その本名すら知らないのだ。そもそも自分と彼の関係に、知人以上に与えられる名称があるのだろうか。ない。仲間という実感さえ薄くて、それに落ち着いてしまう。 彼は何者なのか。考え出したらきりがない。だから考えない。いずれわかるはずだ。そう、白衣かパジャマを身につけた人ばかりの病棟を、私服で闊歩するその理由も。 彼について、彼が気になる理由でさえ、考えると泥沼にはまる。どうしても時間を潰さねばならないとき以外に、捕まると厄介な事柄。努めて抑えねば、好奇心に身体を乗っ取られそうだった。 仕事、仕事。専門病棟のスタッフは、一般病棟以上に洞察力を要する。くだらないことに気を取られて、大事なことを見逃したらいけない。だからせめて仕事着に身を包んでいる間は、彼のことは考えない。杏は自分にそのような制約を課していた。 ナースステーションに戻り、け持ちの患者の様子を記録する。書くべきことを思い出すのに頭を使って、相対的に彼を追い出した。これでいいのだ。このまま帰り支度をする時間まで、さようなら。 大切なのは、彼のことを考えないようにすることではない。仕事に集中しようと意識することだ。神経質なくらい業務に打ち込み、やるべきことをこなしていく。そうしていればあっという間に、就業時間はやってくる。 今日もきちんと働くことができた。同僚たちに断りを入れると、短く労われた。帰宅するべく、杏はナースステーションを出る。ロッカーロームに向かう足取りは、なんとなく軽い。 「あら、杏ちゃん今日はもう上がり？」 道中で声を掛けられる。今日も、よく通るバリトンに陽気な口調が乗っていた。声の主は親しみやすく頬を弛めて、こちらに微笑みかけてきた。 「桂先生、お疲れさまです。今日はお先に失礼します」 「そうなの？ 一日お疲れさま。いいわねー私(あたし)は今日これから夜勤なのよ。気をつけて帰ってちょうだい」 「ありがとうございます。夜勤、がんばってください」「ありがとー」 例の一件以来、彼――薬剤部長の桂とは、妙に仲良くなってしまった。まるで直属の先輩後輩のようである。彼は元々社交的な人なのだろう。しかし、公私のつき合いがあるかのような振る舞いは、いかがなものか。内心、杏は戸惑っていた。この病院ではこれが普通なのか？ そうだといいのだけれど、彼が自分以外の女性と親しげに話しているところを見たことがないため、判断できない。 看護部長あたりに相談してみようか。しかしあの人もなかなか忙しい。こんなくだらないことで時間を取らせるのは気が引けた。 どうしたもんだか。誰に相談すればいいかわからないから厄介である。いっそ、一つめの悩みは桂本人に打ち明けるのが手っ取り早いかも知れないが、彼は松原以上に忙しそうだし、本当に仲がいいわけではないので、やはり気が引けるのだった。 気の合う同僚にも話しにくい。特別病棟の仲間は、まだ私的な相談ができるほど親しくなかった。 女性用の更衣室に入るなり、溜め息が洩れる。誰もいなくてよかった。安堵にもう一つ。ほっと一息、というわけではないが、こうせずにはいられなかった。 自分にあてがわれたロッカーには、例のものが入っている。目にした途端、押さえ込んでいたあれやそれがまた動き始めた。気兼ねなく服を着替えながら、それらを持て余す。 一体何時間前のことだっただろう。ちらりと見ただけの彼の姿を、はっきりと覚えている。いまのいままで考えないようにしていたのに、彼はまるでこびりつくかのように、記憶にその姿を残していた。 どうしてこんなにも、彼は私に居座るのだろう。確かにあの一件は衝撃的で、少しでも彼の登場が遅れていれば、消えないトラウマになっていたかもしれない。彼は命の恩人である。彼のお陰で、いま自分は日常に回帰できている。 そうだ、まだちゃんとしたお礼をしていない。だからか。物的なお礼はおろか、感謝の言葉さえまともに述べていない。だからだ。きっとそうだ。彼を過剰に意識する、蟠りの正体はこれだ。 こういうことは早く済ませないといけない。だから彼を見かけるたびに、気持ちが急くのだ。彼のことを考えずにはいられないのは、そういう心理のせい。先延ばしにするたびにタイミングがなくなってしまうから、自分は焦っているのだ。 とはいえ、他の被害者が、逐一彼に礼をしているとは考えがたい。当事者に対しても、クライムの存在は伏せられていると聞く。彼は人知れず悪と戦っているに違いない。 だからこそ礼をしたい。彼に感謝をしている人がいることを、代表して伝えたい。恩人の何かしらの支えになりたいと思うのは傲慢だろうか。もしそうなら、あらゆる感情が卑しいものになってしまう。 そんなはずはないと思う。 もしそうなら、杏もクライムになってしまうだろう。 「お疲れさまです」 女性の声が、衣擦れに割って入る。 仕事を終えた誰か、或いはこれから仕事を始める誰かが、更衣室にやって来た。だらだらと拡大していた杏の思考は、急速に引き締まった。こういうことは、一人のときに耽りたい。うっかり表に出すのは憚られた。 「あっ、お疲れさまです」 決まり切った文句を返す。反射的に視線が入口の方に向いた。仕事着の若い女性。ぱっと名前が出てこないけれど、見たことのある顔だった。 彼女も仕事終わりか。これから帰る者同士、会話はなくとも和やかな雰囲気を作れたら嬉しい。 そう思った矢先に、彼女が口を開いた。 「ねえ桐生さん、ちょっといいかな」 名前を呼ばれて、杏はどきりとした。ただ声を掛けられただけだというのに、この緊張感。なぜだろう。自分が相手が誰かを認識いていないからだろうか。戻そうとしていた首を固定して、相手をまじまじと見た。 服装から判断する。彼女は栄養士だ。名前は……ネームプレートを掠め見る。湯津(ゆづ)。そんな人もいたような、いなかったような。実を言うと、栄養部の人の顔や名前は、あまり覚えていない。歳が近かろうと離れていようと、概して顔は見たことあるけれど、誰が誰だかは曖昧だ。だから彼女とも、話すのは初めてのような気がする。 それなのに、どうして彼女はこちらの名前を覚えていたのだろう。もしかして、例の一件のせいで、病院全体に自分の名前が知られているのだろうか。 そうだとしたら、とても恥ずかしい。名状しがたい羞恥心が頬のあたりを駆け巡った。 平然としながら、杏は問いかけに応じた。 「なんですか？」 「桐生さんって、桂先生とどういう関係なの？」 湯津は単刀直入に話を切り出した。しかし、まったく予期していなかった問いに、杏は一瞬思考が停止する。彼女の口から飛び出した単語を一つずつ理解しても、うまく意味が通らない。 咄嗟に聞き返すと、湯津の追及は厳しさを増した。 「はい？」 「なんで桂先生はあなたを名前で呼んでるの？ そういうの、よくないと思うんだけど」 彼女は何を言っているのか。断片をつなぎ合わせて、ようやく言葉の意味がわかる。しかしその意図、その目論見はこれっぽっちも拾えない。一秒の沈黙さえも咎めるように、目線や雰囲気で縫いつけてくる。 答えなければ。急かされると、正直なことしか言えなくなる。だが、それでいい。何も疚しいことなどないのだから。杏はしどろもどろになりながら、可能な限り正確な情報を口にした。 「いや、桂先生が勝手にああ呼び出して……」 かき消えるような語尾に、湯津は目くじらを立てようとする。杏はただただ動揺しているだけだというのに。次の言葉がこわくて、もう二、三言言い添える。そのどれもが、本心だった。 自分もなぜああ呼ばれているかわからないし、突然そんなことを尋ねられて驚いている。という旨を、言葉や表情でこれでもかと表現する。正しく伝わってくれたらいいのだが――先程のような調子で口を挟まれるのがいやで、間髪入れずに言葉を並べた。 「とにかく、先生と私は何もないです。寧ろ私が訊きたいぐらいですよ。こういう誤解を生んじゃいますし……」 眉間に皺を寄せる。別に、桂のことは嫌いではない。寧ろ好きだ。しかしその語には他意がない。そんな説明さえ誤解を招きそうで口にしづらい。では彼に抱く感情は、どう表現するのが適切だろう？ とても頼りにしている、気さくな職場の上司？ そういう、当たり障りのない言い回しで、やたらに厳しい湯津の態度を、和らげることはできるか？ 「桂先生はとてもいい人だと思いますが、素晴らしい方だと言うこと以外はよく知らないんです。もし訊きたいことがあるなら、本人に直接訊いてみてください。私は何も答えられないので」 言葉を切る。もうこれ以上は話せないと、言外に示す。杏は一度湯津から目を逸らした。拒絶ではないが、これ以上言えることがないことを、態度から醸し出した。 そして帰り支度終わらせる。 バッグを肩に掛けて、湯津に向き直った。彼女が来る前に服を着替え終わっていて、よかった。 「それじゃあ失礼します。お疲れさまでした」 ひどい対応だっただろうか。でも、こうするしかなかったのだ。自分に言い聞かせて、早足で病院の建物から出て行く。なんとなくであるが、彼女は何を言っても聞いてくれない気がしたのだ。だからだらだらと相手にしなかった。 今後、彼女はどう振る舞うか。それですべてがわかるだろう。少々心許ないが、杏はやれることをやった。 何かが起こったら、そのときに動こう。 何もないといいのだけれど。思わぬところで悩み事が一つ増えてしまった。気分が重い。鮮やかな鞄の色が憎たらしい。 夜風の冷たさを切る。まだまだ春は遠い。二月は終わりに近いけれど、やってくる三月は、三寒四温の日々だろうか。白く濁る息の湿りを、マフラーの繊維に纏わりつかせる。そうして取った暖を頼りに、杏は寮を目指した。 ＊＊＊＊＊ 久しぶりの休日は買い出しで潰れる。 特に今日はあるものを購入しなければならなかったので、桂は昼過ぎに駅前のデパートを訪れていた。こんなところに来るのは一年に一度、ちょうどこの時期くらいしかない。その気になれば別の場所でも手に入るけれども、きちんとした店できちんとしたものを揃えるのが、彼なりの礼儀だった。 荷物持ちを頼んだ相手とは現地集合を約束している。 一階から入店するなり、桂は下りのエスカレーターに乗り込んだ。地下一階はスイーツや総菜を売る店が、所狭しと営業している。隅の方には飲食スペースを構える店もあった。そこに、知人とおぼしき人物を見つけた。 たこ焼きを頬張っているようだ。手を振ったけれど気づいてくれない。近寄っていくと、ソースの匂いが鼻に届いた。 たっぷりかかった鰹節が食欲をそそる。うっかり自分も同じものを食べたくなってしまった。つい先程ありきたりなカフェで、パニーニを食べてきたというのに。 「坊ちゃん」 「あ、桂」 名前を呼ぶと、彼は顔を上げた。むしゃむしゃと口を動かしながら、こちらに視線を向けてくる。美味しそうだ。彼の食べっぷりが欲求に拍車を掛ける。ついつい話題に持ち出してしまう。 「美味しそうね」 「味は普通。でも、他の店よりちょっとでかい」 「そうなの？」 「でも、蛸は小さい」 「ふうん」 坊ちゃんは話しながら、残っていたたこ焼きを平らげた。確かに、たこ焼き自体は大きめである。焼きたてだと、頬張るのが大変そうだ。店の方を一瞥すると、一般的な価格表示が目に入った。この大きさであの値段なら得に思える。しかし、大きなたこ焼きの中身が小さな蛸では興醒めだ。とはいえ、このサイズに見合った蛸を提供していたら、この価格は維持できないのかも知れない。そのようなサービスはデパ地下ではなく、ショッピングモールのフードコートに求めた方がいい。 桂はそっと、たこ焼きを焼いている店員の方に目を向けた。坊ちゃんが片づけている間の時間を潰す。焼き型に注がれた生地が、手早く回されていく。きつね色に色づいた底部が上部と入れ替わる。店員のタコピンを繰る手つきはとてもなめらかだった。 「よし、行こうか」 坊ちゃんが声を掛ける。それを受けて、視線をはずす。彼に向き直る。彼はマフラーを巻き直しながら椅子から立ち上がった。 ジーンズのズボンに長財布とスマートフォンを突っ込んだだけで、彼は手ぶらだった。ダウンコートのポケットは少しも膨らんでいない。恐るべき軽装であるが、荷物持ちという役割にはぴったりだった。 いや、常にそんな格好で出歩くから、荷物持ちを任せやすいのだ。まず休日に気軽に呼べるのが彼しかいないというのもあるが、とにかく彼は都合が良かった。 二人は同じフロアの、製菓企業の小売店に足を向けた。洋菓子店はどこも、ホワイトデーフェアで賑わっている。つい最近までひな祭りフェアを開催していた和菓子店は、大人しく息をしていた。 桂はここに、ホワイトデーに配るチョコレートを買いに来たのである。 「坊ちゃんはいくつもらったの？」 「ゼーロー」 話し好きの薬剤部長は、少しの移動距離でも雑談をやめない。別に気を利かせているわけではないのだろうけれど、坊ちゃんは少なからず救われていた。いきなりえげつないことを訊かれたけれど、二人の仲だからこそできる会話である。 坊ちゃんは至ってぶっきらぼうに返す。残念な数字であるが、彼のライフスタイル的には妥当だった。そもそも、ほしくないので気にしていない。そして桂は、それがわかっているうえで訊いてきているのだ。 桂は調子を崩さずに感想を述べた。 「ホワイトデーが楽で羨ましいわ」 「だろ」 二月十四日はプレゼントを持ち帰るための鞄を余分に持っていかないといけない彼にとって、坊ちゃんへの返しは本心からのものだった。 もらった菓子を食べるのは苦でないし、お返しをするのも億劫ではない。この歳になっても若い人や既婚者から気に掛けてもらえて嬉しい。しかし如何せん、輸送が大変なのである。からかってくる棗をあしらうのも面倒くさい。 何より、こんな自分を女性たちが気に掛けてくるのが申し訳ないのだ。 だから、できる限り喜んでもらえそうなお返しをしたい。財布の紐はしっかりと緩めてきた。 桂の足は、最も高級な海外ブランドの店に向いていた。 「……」 「さて、どれにしようかしら」 坊ちゃんは思わず瞠目した。甘味にまったく興味のない彼でも、その店の商品が如何に高価かは知っている。他店にはない繊細なデザインの商品が、ショーケースの中で澄ましている。それらの手の込みように値段がつくのはわかるけれど、坊ちゃんにはそれ以上がわからない。 生チョコのような口当たり、こだわり抜いたフレーバー、いつまでも舌に残る濃厚なカカオ。一粒一粒に込められた美味の追及は、世界中のファンを魅了する。加えて、魅力的な外見は、食のロマンスの案内人だ。箱や包み紙に至ってもエレガントなデザインで高級感を煽る。こういうイベントがなければ、値段のハードルがなかなか越えられない。そんな、贅沢が尽くされたチョコレートを、桂が買い求めようとしている。 坊ちゃんが呆然としている間に、桂は店員に話しかけ、あれをいくつこれをいくつと注文していた。まるで店員と顔見知りのようである。きっと違うのだろうけれど、そうとしか見えない。 桂ならあり得るかも知れない。恒常的にこの種の菓子を家に用意していてもおかしくない。しかし、彼は甘党ではないし、頻繁に客人をもてなす用事もない。だからただの想像、偏見だ。坊ちゃんは数度まばたきをして、妄想を追い払う。 それでも、彼はこの店に馴染んでいた。他の、ワンランク下の店で買い物をするより、彼はそこにいるのが似合っていた。 キャッシャーの前に移動して、財布を取り出す。紙幣を店員に渡したのち、小銭を受け取る。坊ちゃんが我に返ったのは、店員がチョコの箱を紙袋に詰め始めたときだった。 男が持つには派手な色とデザインの紙袋だけれど、桂が持つと違和感がない。彼の見た目は至って普通の壮年男性である。丈が短い焦げ茶のダッフルコートにカーキのノータックパンツ、鞄は革製のボディバッグ。中肉中背、髪型もありがちなショートカット。彼の個性など、口を開かなければ際立たない。 あれか、オーラって奴か――ぷかぷか考えていると、桂が紙袋を差し出してきた。反射的に受け取ると、ずっしりとした重さに驚く。思っていたよりも重量があり、袋も大きい。 「一体いくつ買ったんだ？」 「女子につまませるのを部署ぶんと、野郎に恵んでやるのを適宜、あとは個人的な付き合いのを何個か」 先月くれたわけでない同性ぶんまで？ 坊ちゃんは耳を疑うが、案外豪快な桂の性格を知っていると、納得するしかなかった。 唇の端が震える。最適な返しが思いつかない。 「よっモテ男」 「違うわよー。金があるだけが取り柄のしがない病院薬剤師ですー」 「男に財力は必要だと思うぞ」 「うん、あんたが言うとすごい説得力ある」 「そりゃどうも」 精一杯褒めたのに、ひどい言われようだ。否定はしないが、このタイミングで言うあたり、気心が知れている。力加減は絶妙だ。舌打ち一つで澄む程度の皮肉。どこまでも食えない奴だ。坊ちゃんはつま先に目を遣る。 自分が持つには、この紙袋は派手すぎた。 「桂には職も地位もあるだろ」 「そりゃあ、たかられるために生きてるからね」 「……もうちょいましな言い方しろよ」 絶妙な自虐で話を打ち切る。会話はどこまでも彼のペースだった。 含みのある言い方が引っかかるけれど、口を出していい事柄ではない。桂のそこには触れてはいけないと、坊ちゃんは暗黙のうちに理解していた。 桂の横顔が語る心境など知らない。知ったところでどうにもならない。坊ちゃんには関係のない話なのだ。 だから深入りはしない。慰めも同情も役に立たないとわかっているから、それ以上のことは言わなかった。言う必要も感じなかった。 桂が話したいなら聞くけれど、こちらから尋ねはしないし、ましてや聞きたいと思わない。 他人との距離は、近すぎず遠すぎずが一番だ。桂は放っておいてもちょうどいいところにいてくれるからつき合いやすい。彼がみんなから好かれる理由を、坊ちゃんはよくわかっているつもりだった。 「ん？ まだなんか買うのか？」 桂について歩くと、坊ちゃんの足はエスカレーターに乗った。それは地上に出る上りのものではなく、さらに地下に降りる下りのものだった。 「せっかく荷物持ちがいるんだから、買わないと損でしょ？」 「何を買うんだ？」 「珍しいチーズがほしいのよ。今度棗とチーズフォンデュ飲みするんだけど坊ちゃんも来る？ あ、あと紅茶も買わないと」 地下二階は食料品売り場である。国産の生鮮食品から、輸入の嗜好品まで、質の良いものが揃っている。坊ちゃんにとっては、桂と来なければ絶対に近づかないような空間である。社会見学と思って同行する。普通のスーパーよりも品物の並び方が丁寧。そんな気がした。 買い物を楽しむ桂からは、先程の翳りは僅かにも感じない。それでいい。いつもの桂が、あれやこれを籠に放り込む。坊ちゃんはほっとして、与えられた任務をまっとうした。 地下から出てきたときには、すっかり陽が傾いていた。バスで二十分ほど行ったところにある桂の自宅まで荷物を運ぶ。車を持っているのに敢えて出さなかったのは、自分をこき使うためだろう。ちなみに、桂の家から坊ちゃんは独りで帰らねばならない。まるで奴隷のような扱いである。 それでも彼の頼みを聞いたのは――予定がなかったから。彼の言葉を借りれば、自分はどうせ暇なのだ。 とあるマンションの中くらいの階の中くらいの位置にある部屋が、桂の自宅である。そこの玄関まで両手一杯の食べ物を運んで、坊ちゃんの今日の任務は終わった。 玄関先で桂はにやりと笑った。床に下ろされた荷物の中から、あるものを取り出して坊ちゃんに差し出す。 「今日はありがとね。はい、これお駄賃」 「……これって」 「可哀想な野郎に恵んでやるやつよ」 あんた、甘いもの嫌いじゃないでしょ？ 桂が寄越したのは、例の店のチョコレートだった。これと同じ箱をもう一つか二つ買っていたような気がする。一人で一箱食べていいのか。目で問うても、彼はただ笑うだけ。 ご丁寧に、箱は手提げ袋に入れてもらった。それを持たされ、送り出される。いや、閉め出された。エントランスまで送ってくれるような真似は、野郎にはしてくれないようだ。 少し呆然としたが、悪い気はしなかった。 ただこの派手な紙袋を持ち帰るのは気恥ずかしい。坊ちゃんは少し早足で、自分のねぐらを目指した。 「はい女子、これみんなで食べなさい。先月はありがとね。男子はこっち。謹んで受け取りなさい」 三月十四日、平日。桂は出勤するなり、紙袋を片手に病院中を回った。行く先々で、女性職員の黄色い声が絶えない。男性職員は喜びを頬全体で表現して、桂からのプレゼントを受け取った。 男性陣の反応から、棗病院での桂の人気が窺える。男女関係なく好かれている薬剤部長。それが彼の社会的な顔である。 初めて棗病院で冬を越す杏は、ただただ彼の大盤振る舞いに驚く。大量の高級チョコレートをばらまく豪快さには、流石としか言いようがなかった。 同僚たちがチョコに群がるのを眺めていると、いつの間にか隣に立っていた松原がくすりと笑う。 「驚いた？」 「……はい」 「早くしないとなくなっちゃうから、頂いて来なさい」 「いいんですか？」 「遠慮した者負けよ」 松原に背を押され、杏も輪に入る。控えめに、最初に目についた一粒をそっとつまんで口に入れた。ぎゅっと濃縮されたストロベリーに舌が喜んだ。 薬剤部を出発して院内を一周した桂は、最後の部署に辿り着いた。栄養部である。薬剤師は栄養士との連携が欠かせない。日頃の感謝の意も込めて、お返しのチョコレートを振る舞った。 そうでなくても、桂は栄養部には訪れなければならなかった。普通、バレンタインデーはそれぞれが用意した菓子を、個々人が好きに食べられるようにしておくのが棗病院の伝統だった。しかし、今年は一人の栄養士から、桂は個人的にプレゼントをもらっているのだった。 彼女だけには個人的なお返しを用意している。職場全体が全体に向けて菓子を振る舞い返すというやり方をするからこそ、個別のものには個別に対応するように心がけていた。 彼女以外にも個人的に渡してくれた女性はちらほらいたので、全員分個別のプレゼントを用意している。もう既に半数は渡していた。あとは彼女と、今日は遅番の人に渡せば、紙袋はめでたく空になる。幸いなことに、会わないといけない相手は全員、今日は出勤日だった。 「あれっ、桂先生？」 栄養部に入るなり声が飛ぶ。その主こそ、先月桂に熱い想いをぶつけてきた女性だった。 「こんにちは湯津ちゃん。先月はありがとね。おいしかった」 まずは彼女のぶんを袋から取り出す。彼女がはっと息を呑む。ぎこちない両手が箱を受け取るのを見届けて、桂は自分の手を袋に戻した。 「それとこれ、みんなで食べてちょうだい。いつもありがとう、って伝えてね」 湯津は自分用の包みを右手に持つと、左手でもう一つ差し出された箱を受け取った。感情が雪崩れて掴めない。自分の中で加速度を増す強い情動が、意識を乗っ取りかける。言葉が出ない。舞い上がるという比喩が的確すぎる。まさに天にも昇るような気持ちだった。 しかし、衝動に支配されていてはだめだ。きちんとした対応をせねば失礼に当たる。強く脈打つ心臓に邪魔されながらも、湯津は謝意を述べた。 「ありがとうございます」 「いえこちらこそ。それじゃ、今日も一日がんばりましょ」 桂は短く返したのち、踵を返して去っていく。その颯爽たる振る舞いは彼の人柄を的確に表わしていた。背中にさえ見惚れる。揺れる白衣が見えなくなっても、湯津は暫しぼんやりとしていた。右手で掴む箱の重さが、生々しく感ぜられた。 仕事を終え、自販機に硬貨を入れる。人差し指でボタンを押すと、ごとんという音と共に飲み物の缶が取り出し口に出てきた。ありきたりなホットのミルクティー。スチール缶に纏わりついた熱を手のひらに感じる。 ここで飲みきって、ゴミを捨てたら帰ろう。ぼーっと、どこを見るでもなく気を抜く。一日分の散漫が、紅茶の甘みとともに頭を駆け巡る。 あっ。 ふと、目の焦点が合う。こんなに脱力しているというのに、なんとまあ。思わず苦笑いをしてしまう。彼の視線を縫いとめるのは、一人の女性の姿だった。 どんなに遠くからでもわかってしまう。 すっかり骨抜きにされてしまったものだ。感慨深くなりながら、彼は彼女に話しかける。 「湯津さん」 わざとらしいだろうか。いいや自然だ。顔見知りなのだから、ここで無視をするのは感じが悪い。そう自分に言い聞かせて、自分の前を通過しようとする女性を呼び止めた。 彼女――湯津は足を止める。仕事中は結っていた髪を下ろしているから、ふわふわと毛先が待っていた。それらが落ち着く。彼女はこちらを一瞥すると、すっと口許を歪めた。 なんだか今日はいつも以上に表情が明るい。そんな気がした。 「お疲れさまです。立花(たちばな)先生も上がりですか」 「はい。……何かいいことでもあったんですか？」 話題などない。だから率直に立花は思っていたことを尋ねた。少しでも湯津と話していたい。少年のような要求を嘲笑う。これは社会人がする恋愛ではない。苦々しいくらい自覚していた。けれど、こうする以外に彼女と近づく方法を立花は思いつかなかったのである。 久しぶりに心から惹かれる女性、それが湯津だった。 彼女のことならなんだって知りたい。まだ連絡先さえ知らない、仕事の話くらいしかすることのない仲である。他愛のない世間話で、じわじわと距離を詰めるしかないのだ。 食事に誘うにはまだ早い。 立花の内心の葛藤など知らないのだろう。湯津は訊かれたことさえ嬉しいのか、上機嫌の理由を口にした。 「桂先生が、ホワイトデーのお返しを個人的にくれたんです」 彼女の幸福は残酷なまでに立花を駆り立てる。 彼の恋の一番の障害は、彼女に想い人がいることだった。それは立花の上司であり、職場全体の人気者である桂。 知っている。彼女が熱狂的な桂のファンであることも、それ以上の感情を持っていることもわかっている。彼女が桂に向ける視線の熱と潤みを、見逃すはずがなかった。 「それは……よかったですね……」 桂は非の打ち所がない上司である。直属の部下である立花は、彼の美点を十二分に把握していた。一般病棟の薬剤師で、まだまだ若手の自分にも、たびたび声を掛けてくれる。世話になっているからこそ、薬剤師としても人としても、尊敬できる人物だと心から思っていた。 そんな人が恋敵だなんて、勝てるわけない。 唯一の強みは年齢だった。立花と湯津は同期である。年齢だけなら、桂よりもずっと自分の方が彼女にお似合いだ。彼の正確な年齢はわからないけれど、少なくとも一回りは年上である。絶対、年の近い自分の方が、彼女を楽しませられるのに。長く幸せにできるのに。 どうして彼女の気持ちは、ただの憧れに留まらないのだろう。 「湯津さんは、桂先生のどんなところが好きなんですか」 せめて、努力するポイントがわかったら。痛む胸を引き摺りながら、立花は質問を投げかけた。何を伸ばせば、どこを改善すれば、自分は彼に並ぶことができる？ 彼女の視線を、絡め取ることができる？ 事実を口にして、高揚感が再来する。有頂天に昇りつめる湯津は、火がついたように熱くなる。 話題の中心が別の人だったら、まだ気が楽だったのに。 「やっぱり、気さくなところですかね。基本的に和やか〜な感じだけど、締めるところは締める、その切り替えが素敵だと思います。それと、桂先生の声って素敵ですよね。あの声がたまらないんです。そうだ、立花先生は桂先生が公の場でしゃべるところを見たことがありますか？ 私、この前先生が出る学会発表をつい聞きに行っちゃったんですよ。敬語で話す桂先生、すっごーーーくかっこよかったです！ 難しいことを発表してるのに、私もう真っ赤になっちゃって！ ああ〜いいなあ立花先生、毎日桂先生の声を近くで聞けるんでしょう？ 私も薬剤師になればよかった〜」 ぺらぺらと捲し立てる様はまさに機関銃である。言葉の弾丸はすべて正確に立花を打ち抜き、穴だらけにしてくれる。心が折れる、なんて比喩など足元にも及ばない。速度が生んだ熱で立花の心は燃え尽きていた。穴を開けるというけれど、もはや立花がいた位置には、何も残っていない。ただただ虚空と消し炭が残る。 そう喩えずにはいられない痛みが、虚無感が、耳から全身を満たしていく。右から左に、或いは左から右に抜けてくれたら、どんなによかっただろう。心はきれいに貫通したのに、すべての言葉は耳の奥に溜まり、身体中に充満していく。致死量が多めの毒のように、少しずつ立花を蝕むのだ。 立花は二度殺される。さっくりと、じわじわと、二重の苦しみを与えられながら。 息ができない。のどが塞ぐような辛さは、鼻へせり上がる。 言葉は。平然を装うための言葉は、出てきてはくれないか。 「そんな、栄養士さんがいないと僕たち大変ですから」 「桂先生もそうおっしゃってたんです！ 私、そう言われたときは栄養士になってよかったって思いました！」 さっきと言っていることが違う。絞り出した言葉は、追い打ちをかけさせるだけだった。不快感よりも惨めで、劣等感よりも腹立たしい、どろどろと濁り混ざった情念は、立花の精神を磨り減らす。 それから彼女と別れるまで、どんな話をしたかは覚えていない。ただただ耐えた。悲しい気持ちも悔しい気持ちも感じなかった。強すぎる負荷に心が麻痺して、ぴりぴりと痺れる。 ばかみたいだ。 独り、自販機の横に取り残されて、溜め息を吐く。 缶の底に残っていたミルクティーはすっかり冷え切っていた。甘ったるくて飲み干せない。舌に触れた瞬間、拒絶反応が起こった。 苛立ちを煽るような液体は、缶ごとゴミ箱に突っ込んだ。顔を上げど、もう彼女の後ろ姿はない。 如何に彼女が遠い人かを思い知ったようで、立花はぎゅっと目を瞑った。 ＊＊＊＊＊ 「百合(ゆり)ってさあ、例の彼のこと、まだ引きずってるよね」 買い置きのインスタントコーヒーに舌が慣れている。いつもどおりの味が提供される安心感は、無感動と紙一重だ。落ち着いて飲めるようになったと言い換えれば聞こえがいい。自分がどちらかには興味がなかった。 習慣的にカップを口許に運ぶ作業に、彼の言葉は感情の揺れを与える。それが良いか悪いかわからない。百合は直感的な返事しか返さない。 「そう見える？」 「まあそれなりに」 「確かに好きだったわ。昔は。いまはもうわからない」 「だから別れたんだよね」 「後悔してないからいいの。グズグズ迷い続ける方がいやだったから」 彼は自分で淹れた紅茶の香りを楽しんでいる。彼は味よりも匂いを重んじるので、飲み干すのは一瞬だ。少々冷めても気にしない。 今日は甘めのアールグレイ。ベルガモットがふわりと香っている。 「彼はそれに納得してるのかな？」 彼は含みのある問いを寄越した。 意図が読めない。自分はどこに誘導されるのだろう。興味がなかった。彼がどこを目指そうと、自分は流れていく方向にしかつきあえない。淡泊とでも、薄情とでも言えばいい。 百合にはそういう概念が理解できないのである。 「さあ？ 別れてからどうしてるか知らないもの」 「知らない、って。白々しいね」 悪戯っぽく笑う彼に、若干の苛立ちを覚える。わかっているくせに。異性の気持ちを汲み取るのは、特技じゃなかったのか。地獄耳なうえに驚異的な記憶力を誇っているのではなかったのか。 百合はいやな予感に駆られながら、言葉を補った。 「別れてから、私のことをどう思ってるかを知らないの。……知ったところで興味はないけど」 「百合は男女の機微に疎いもんね」 なぜだろう。事実なのに、彼に指摘されるととても腹が立つ。気障ったらしい口調のせいだろうか。いや、彼という男の奔放さを知っているから、その皮肉がより強く聞こえるのかも知れない。 白々しいのはどっちだ。 百合はなんとなく、自分の心のやわらかいところを泥まみれの靴で踏まれたような気がした。気分が悪い。 「もっとシンプルならいいのに」 百合の願いは、きっと一生かかっても、彼には理解されないだろう。独りごちてしまうくらい強い願いであるが、彼には可笑しくすらあるかもしれない。 それでも、百合は思わずにはいられない。 言葉が薄っぺらければいいのに。あれこれ混じった複雑な感情も、堅固に厚みを成した考えも、その言葉に乗らなければいい。そういうものには無縁な、簡潔で短い言葉でいてくれたら、こんなに悩みはしなかった。 百合に言わせれば、たった二文字で壮大な概念を伝えようとするのが間違いなのだ。短いからと手軽に利用するから、面倒なことになっているのだ。 それに、その言葉を交わし合う二人は、すぐに身体を重ねたがる。 だからどんな気持ちも、重くもなく軽くもなく、ただの隠れ蓑としか思えない。 「私には結局こう見えるわ」 オレンジのマニキュアが塗られた爪で、百合は壁に掛けられた姿見を指さす。すると鏡面が思念に反応して、映すものを変えた。 まるでモニターのように、鏡は遠隔地の出来事を二人に見せる。どういう原理かはわからないが、ある男と女を一人ずつ、縦長の面を上下に割って、動向を観察することができる。 なぜ誰に注目いているかわかるのか。それは、それぞれの映像のうち、その場にいる一人だけが輪郭を青く縁取られているからだ。特別な処理が施された男女。百合は二人に、冷めた視線を向けた。 昔の恋人に対する�犢イ��瓩蓮△海瞭鷽佑�抱いているようなものではなかった。ただ彼のことが好きなだけで、それ以上もそれ以下もなかった。幸福を希求することがなければ、ドラマの真似事に興じたいとも思わず、ただ彼を想うだけで満足だった。 しかしそれでは駄目だった。そういう気持ちでは、彼とすれ違うばかりだった。 私は幼いのだろうか？ 好きな気持ちだけでは恋人になれない。残酷な現実を知った。すると、彼のことが好きなのかわからなくなった。いや、好きという概念自体がわからなくなった。 だから彼と別れた。百合が切り出すと、彼は渋った。百合は彼の元から逃げた。それからいろいろ考えた結果、いまこの場所にるのだが、思わぬ形で彼に再会し、動揺した。 彼とは特別な縁がある。 その意味を考える機会は、なくていい。 「青、か」 「緑の方がよかった？」 珍しく口を噤んでいる同僚に話を振る。すると彼はすぐに回答を寄越した。会話の間を保つのは上手いのか。発言内容も、そうやって気をつければいいのに。 尤も、百合以外の女性には、きれいな言葉ばかりを紡ぐのだろうけれど。 「いや、青だよ」 「なんで？」 「だって、いまどきそんな高尚なおつきあいは、ありえないだろ」 ああ。百合の悲しみを、彼はピンポイントで抉る。 どうして百合の前では、隠さないのか。寧ろひけらかすように振る舞うなんて、本当にこいつはろくでもない。 停滞していた不快感が再び蠢きだす。百合はめいっぱいの汚い口調を努めて、反撃を試みた。 「あんたに騙された女がみんな『色欲』のクライムになれば面白いのに」 「うーん、そういう女性は好みじゃないな」 爛れた恋にしか縁のない男は、飄々と笑った。 攻撃はこれっぽっちも利いていない。いや、彼は攻撃されたことに気づいてすらいないのだろう。面白くない。百合は口の端が引き攣るのを感じた。 不意に彼が真剣な顔をする。そうやってこちらの視線を引きつけるのだ。百合が気づいたときに、彼はもう話し始めていた。 声の調子を抑えて、諭すような言い方をする。 「あんまり深く考えない方が楽しいよ。身体の言うことを聞いて、それこそ直感的に動くのが醍醐味だと僕は思ってる」 「そう」 「若しくはね、百合、心変わりを恐れないことだ。なんとなく気持ちが冷めることだってあるよ。それは自然の摂理だと思うし、一度好きになったらずっと好きじゃなきゃいけないなんて道理はない」 「……いろんな人を好きになれる自分が素敵だと思い上がってるでしょ」 「だから僕に惹かれる女性もいるんだけどな？」 呆れた。百合は目を閉じて、彼を感覚から閉め出す。無視しよう。気を紛らわせるためにも、開いた画面に集中する。 鏡だった面に映る男女の現在位置は、段々と近づいているようだった。似たような風景が異なる角度から映し出される。 ああ、これから二人は接触するな。何か進展があるだろうか。今日も今日とて男が落胆するだけだろうか。二人の並々ならぬ執着心は、空回るほどに強くなる。二人を縁取る青色は、太さを増すばかりだ。 恋は失われるから美しい、と、隣の駄目男は嘯く。百合にはさっぱりわからない美学だが、失われるときの強いエネルギーには興味があった。 この二人がうまくいったら、正直面白くない。 感情自体はとても下品だ。この男と同じところまで堕ちそうなくらい、品性を欠いている。自分の汚い一面に気づいて、百合は驚く。なんだ私も人間らしい。源泉は人でなしのそれかもしれないけれど。 コーヒーを一口。粉末をお湯に溶かしただけのそれは、仄かに水っぽさを漂わす。 「茅萱(ちがや)」 「うん？」 「この二人、どうなると思う？」 無視しようと思っていたのに、話しかけてしまった。沈黙は二分も保たなかっただろう。私のお人好し。百合は息をつくように見せかけて、溜め息を細く吐き出した。 百合から話を切り出されて、茅萱はどこか嬉しそうだった。苦手だ。彼が女好きでなければ、もう少し好意的になれただろうか。そんな気はしない。百合は生理的に茅萱が理解できなかった。 たまに彼が幻影のように思えることがある。例えば、そう、こんなとき。 「別に、よくある恋の一つだろ？ なるようになるんだよ。そもそも恋なんて、結局はどんな過程を踏むかの違いで、行き着く場所はどれも同じだ」 不意に真面目な調子で語られる。危ない。慣れていなかったら、動じるところだった。内容は相変わらずなのに、響き一つで雰囲気ががらりと変わる。彼は儚そうに、虚空を見つめる。逸らされる瞳の軌道さえ切なげだ。 この技能を以てして女を落としているのだろう。だが、百合には効かない。百合は至って落ち着いて、冷たく切り返す。 「あんた、ほんとクズよね」 「うん、ありがとう」 色恋沙汰に夢を求めるのが愚かなのは承知だ。二人が相容れないのは、土台が精神論と肉体論で異なるから。根本的な考え方が異なっているのだ。お互いの意見を認めることはできても、納得して折れることは、なかなかできない。 だからなるべくこういう話はしたくないのに、どうして振ってくるのだろう。他の女にはしないくせに。他の女とできないから自分とするのか？ だとしたら本当に腹が立つ。 茅萱は百合のことが好きだと言うわりに、百合に好かれるような行動はしない。好色を拗らせて、女性への挨拶が�犢イ��瓩砲覆辰討靴泙辰燭世韻覆里世隼廚い燭ぁＫ榲�に茅萱からの扱いは心外なものばかりだった。 嫌という気持ちをあの手この手で伝えているけれど、少しも聞いてくれない。だから百合は容赦なく、彼を罵倒するようになった。 彼以外には、こんなことは絶対にしない。そもそも、面と向かってクズ呼ばわりできる知人は彼しかいなかった。 「でも、こういうのを楽しめるうちが華なんじゃない？」 「……楽しんでるかな？」 「あとからいい思い出になるのさ」 そんなことが言えるのは、過去の恋愛を乗り越えて美化できるからか。それとも、刹那的な恋しかできないがゆえの憧れか。百合にはわからない。 百合の過去の恋には、味がない。 確かに好きだったけれど、甘くも苦くも酸っぱくもなかった。何も感じなかった。口当たりも匂いもない。プラスチックを舐めるような、透明な、空疎な出来事。 百合が好きだったと断言しなければ、事実さえ残らないような、短い期間の感情の遷移。 茅萱から見れば、百合の過去もよくある話に分類されるのだろうか？ 知りたくない。知ったところで、いやな気持ちになるだけだ。彼に救ってもらえるわけがないのだ。百合でなくとも、彼には誰も救えない。 茅萱は握った手を、優しく放すだけの男だ。 「ほほえましいね」 彼はモニター越しに、青く染まった湯津と立花に笑いかけた。 ＊＊＊＊＊ もっと早く考えがまとまっていれば。ホワイトデー商品の在庫に反比例して、杏の後悔は増しているのだった。 バレンタインデーを利用して、坊ちゃんに感謝を伝えればよかった。イベントに便乗せねば動けないというのも情けないけれど、時間が経った事柄を持ち出すには、そうするのが一番楽だった。 今日も仕事を終えた杏は、例の鞄を片手に思考していた。今晩は一段と冷える。帰ったらまず、インスタントのスープを飲もう。心地良いことを考えて、自己嫌悪を紛らわす。 「あっ」 耳は勝手に音を拾う。聞こえてきた声に、意識が勝手に注意を払う。そしてそちらを向く。ほぼ無意識的に身体が動いた。単純。身体は正直だ。なんだかんだ思考して、それらしく固められた気持ちなどそっちのけで、志向するものを正確に捉える。 連れだって歩く男が三人。私服を着ていても、誰が誰かすぐにわかる。横一列に並んだ真ん中に彼はいた。 いつもと同じ、偶然の遭遇。いっそ、会えたらすぐに伝えてしまった方が楽である。しかし、他の誰かと連れ立っているときに決行する度胸はない。それが事情を知る者なら尚更である。 また先延ばしか、私の馬鹿め。胸に溜まる苦さが重い。 彼が通り過ぎるのを見ているだけ。いつもどおり、一方的な思慕を嵩ませて終わる。それは次回への重圧となり、焦りの密度を増やす。口惜しい。意気地なしを呪う。なにもそんな、大それたことをしようとしているわけではないのに。 眉根を寄せたときだった。杏から一番遠いところを歩く人が、こちらに気づいた。手を振る。その挙動に、他の二人もこちらを向いた。 どうしよう。考えたときにはやはり身体が動いていた。杏は三人に歩み寄る。手を振っていた人が口を開いた。 「こんばんは杏ちゃん」 「こんばんは桂先生に院長先生、……坊ちゃん」 「よう」 「こんばんは桐生さん」 三人が揃っているのを見るのは、実にあの日ぶりだった。クライムはちょくちょく出現し、そのたびに坊ちゃんが退治したという報告は聞いている。けれど、言わば下っ端の杏が現場に赴くことはまずないため、行動を共にする三人を目にする機会はなかった。 なんだか懐かしい。あの日のことが想起される。同時に、そのような思い入れがあることを自覚した。事情が事情であるが、自分は他の職員たちと違う。私的に彼らと繋がりがある。それは杏が気にしているだけで、三人からすればなんでもないものかも知れないが、杏は気になるのだ。 例えば、桂からの呼ばれ方だとか。 「ねえ、今晩暇？」 「はい？」 「これから三人でチーズフォンデュ飲みするんだけど、よかったら来ない？ 野郎三人でとかむさいから」 呼ばれ方だけなら、気にしなければ済む。 けれどそれ以上に、親密そうな振る舞いはやはり気になる。桂は至って自然に、そして気軽に誘ってきた。大事にしてもらえるのはとても嬉しい。しかし、その対象の選択について、疑問を持たずにはいられない。 先日の、更衣室での出来事を思い出す。桂の真意はわからないけれど、湯津に言われたように、こういうのはあまりよくないのではないか。招きかねない誤解は様々である。ただでさえ中途採用で同期と呼べる人がおらず、突然の入院や異動をしていて名前が知られているのだ。これ以上、誰かの話題にされることは避けたかった。 自分の過失が話題になるのはまだ仕方がない。だが、そうでない場合――多くは第三者の行為の対象として目立つのはごめんだ。しかしそれを、どう伝えればいいのだろう。それも目上の人に。困った。坊ちゃんのことばかり悩んでいる場合じゃない。 他の人はどう思っているのだろう。ちらりと棗や坊ちゃんの顔を窺う。二人は意に介さない、寧ろまんざらでもなさそうな様子だった。そりゃあ飲み会は人数が多い方が楽しいし、男女比の偏りも刺激的だろう。だが、行くのが私でいいのか？ 単純に若いから喜ばれているのか？ 或いは二人は、桂の振る舞いに慣れきっていて、何も思わないのだろうか。 断ち切らねば。動けるのは自分しかいない。幸いにも断る正当な理由がある。行きたくないのではないけれど、行かないのが正解だ。 杏は申し訳なさそうな表情をつくり、抑えた声を出した。 「行きたいのはやまやまですが、明日は朝から仕事なので、すみません。また誘ってください」 「あら、それは残念ね」 よかった、食い下がられなかった。今日のところはこのまま、別々の方向に帰るのが無難だろう。彼らと話しているところでさえ、誰かに見られたくない。ここは職場の真ん前だ。誰が見ているかわからない。 杏から別れの言葉を述べようとしたときだった。四人の耳を劈く、絶叫。 「桐生さん、あなたやっぱり！」 背中に冷たいものが奔る。 強すぎる発光が、背後で起こっている。直視すれば目を焼かれてしまうような、青。それだけのエネルギーが発せられれば熱も生まれるだろうに、ただただ悪寒がした。名前を呼ばれたからだろうか。杏の意識下で、重たい記憶の蓋がずれ始める。 意を決して光に顔を向けた坊ちゃんの顔が曇る。目を見開くやいなや、唇がはじけた。 「クライム!?」 単語に反応する。その場にいた誰もが、坊ちゃんの視線を辿った。吹きすさぶ北風。凍えるのは現実。四人は左手から、こちらに走り来る怪物を見た。 咆吼。禍々しい叫びが近づく。青い光を纏っているが、それを脱するように駆けてくる。頭には左右に反った太い角があり、ぴんと張った耳もまた鋭い。身体は白く、がっちりしているが、手足の先は蹄となっていた。 二本足で立つ異形――この前見たものはグリフォン、伝説の獣に姿を似せていたけれど、今回のものは何かわかる。ヤギだ。杏は一目でそのクライムの特徴をとらえる。しかし、驚愕と恐怖で身体が動かない。脳と心を繋ぐ回路がショートしたかのように、なんの行動も取れない。 蘇る。紫色の光から現われたクライムに殺されかけたことが、生々しく思い起こされる。あのとき感じたものが繰り返される。呼吸が浅くなる。記憶にとらわれて、何もできない。 その間にも奴は迫ってくる。硬さが地を打ち鳴らす。大きな音が接近を示した。しかし杏は呆然とするしかできない。 いち早く脱したのは坊ちゃんだった。彼はやはり怒鳴った。正確に、クライムの動きを把握して。 「桂、逃げろ！」 「はっ、私(あたし)!?」 「早く！ 走れ！」 肩を押す。弾かれたように桂は走り出す。するとヤギは減速せぬまま、桂により近づける直線距離へ進路を変更した。桂は駐車場がある方向を目指していた。駐車場ならなかなか人目につかないし、広い。これから戦闘をすることを考えると、妥当な判断だった。 棗病院の敷地は広い。外来患者はもちろん、入院患者を見舞う人のために、駐車スペースはたくさん用意されている。通りから少し離れた位置にあるため、この時間帯であれば人気がない。ちなみに、職員用の駐車場は別に用意してあるため、クライムの存在を知らない者の目に触れる心配もなかった。 坊ちゃんがクライムを追って走り出す。棗もあとに続こうとしたが、青い顔をする杏に気づき身体の向きを直す。 「大丈夫ですか桐生さん」 問われど、答えられない。杏は漏れ出す悪夢に震えた。わけがわからない。竦む身体に覚える違和感も困惑を助長する。 確かに自分はクライムによって傷つけられた。しかしその怪我はたいしたことなく、すぐによくなった。あっという間に社会復帰ができた。だから自分は大丈夫だと思っていた。しかし、心の傷は確実にできていたようだ。寄生虫のように息を潜め、外に出る機会を窺っていた。 トラウマ。そんな名前の呪いを、グリフォンは確かに杏に遺していた。 棗は事態を察し、苦々しく思う。彼女のケアを怠っていた。気丈な振る舞いを過信して、怪我の回復しか看なかった。クライム化していないからと、心の診察は等閑だった。 少し考えれば、彼女の心こそいたわるべきだったとわかる。あんな目にあって、何も遺らないはずがないのだ。なのにどうして見落とした？ いままで、クライムが人に危害を加える前に倒していたから？ どんな言い訳も許されない。彼女はクライム化した患者よりも明確な被害者だったというのに！ 考えれば考えるほど自責の念に駆られる。しかしいますべきは反省ではない。もっと即時的に、彼女を救わねばならない。棗は思考を切り替えると、杏の顔を覗きこんだ。 「桐生さん、私の声が聞こえますか！」 「……ぃ……」 悪寒が全身に伝播する。軋むような声を洩らしてしまった。棗が宥めようとしてくれているが、それどころではない。杏は唾を飲み込む振動さえ恐れた。何かが自分の底から這い出そうと、蠢いている。気持ち悪い。ナメクジのようにぬるぬると、杏の内部を移動する。 「深呼吸をしましょう、さあ息を吸って」 蓋、蓋はどこに行った。まだ間に合う。奴がこれ以上出てこないようにしないと。どうすればいい？ 迷っているところに、棗の声が届く。 先生の言うことを聞けば、なんとなかなるだろうか。 なんでもいい。何かやってみよう。杏は口を開けようとする。自力で自分の身体を動かすのが、こんなに辛いだなんて。しかし負けない。負けたらこの身体を手放してしまうような気がして、なんとか持ち直す。 口を開けると、勝手に空気が入ってくる。横隔膜が下がる。冷たい空気がのどを乾かし、吐きそうになった。すかさず唾が分泌される。息を吐ききるなり飲み込んで、潤すのを試みる。それを何度か繰り返すと、腕の感触が戻ってきた。続いて胸、腰、足と、徐々に感覚が肉体と再統合された。 どれだけ時間をかけてしまったかわからない。桂は、坊ちゃんは――自分以外のことを考えられるなら、もう、大丈夫。 「……落ち着きましたか？」 棗が尋ねる。杏は唾液を飲み干すと、頷いた。まだ少し動かしにくいけれど、十分な自由が利いている。 あとは声が出れば、復活だ。 「……大丈夫です」 「すみません、あなたの心のケアが不十分でした。本当に申し訳ない」 「私は大丈夫です。それより、桂先生たちを追いましょう」 「桐生さん……！」 棗は驚いた。深呼吸をしただけで、こんなに持ち直せるなんて。彼女の精神の強さ、意志の強さは並のものではない。だが、だからといってケアが必要ないわけではない。 しかしいまは、彼女の言うとおりである。これ以上誰かの心に傷を残さないためにも、動かねば。指揮官たる自分には、一瞬たりとも猶予はない。 「……松原さんを呼んでいる暇はありませんね。申し訳ありませんが、坊ちゃんをサポートしていただけますか」 「私でよければ」 「ありがとうございます。では、行きましょう」 二人は駆け出す。桂と坊ちゃんを助けるために、めいっぱい地を蹴った。 桂は無我夢中だった。人目を避けられる広い場所を求めて、駐車場を目指した判断は正しかったと思う。しかしながら、自分の足の限界を感じていた。身体能力が恐ろしく強化されたクライムに、生身の自分が勝てるわけないのだ。逃げ切れるなんて思っていない。坊ちゃんが敵の足を凍らせるなどしてくれなければ、あと五分もしないうちに捕まってしまう。向こうが追いかけてくるだけで、攻撃を仕掛けてこないのだけが救いだった。 そんな考えは、駐車場に入るなり蒸発する。桂を待ち構えていたのは、二本足で立つ黒褐色の怪物だった。 「なッ!?」 思わず声を洩らす。駐車場の入口を塞ぐように立つそれは、両手が鋏の形をしている。胴体にはいくつもの節があり、腰周りには脚とおぼしき突起が四対ついている。そして、尻からは地面に垂れる太い尻尾が生えていた。 サソリだ。 いや、それが何かはどうでもいい。飲み込んだ状況に血の気が引く。 挟まれた！ 坊ちゃん、早く！ 「許サナイ、許サナイ、許サナイ」 サソリの口から、低くおどろおどろしい呪詛が流れ出る。そして身体も動き出す。こちらも桂めがけて走り出した。 駐車場は広い。だから縦横無尽に逃げることができる。しかし前と後ろから終われているのだ。逃げる方向は横しかない。 桂は身体を捻り、進行方向を変える。疲労感が疾走の邪魔をした。乳酸が溜まり、筋肉が重い。きちんと収縮せずにつかえるような感じがして走りにくい。だが、止まったら一巻の終わりだ。気力を振り絞り身体に鞭打つ。坊ちゃんはまだか。棗はどうした！ 「クライムが二匹!?」 坊ちゃんは駐車場に辿り着いても、サソリの存在を認めるのが遅れた。暗いために、その姿が闇に紛れやすかったのである。 まずいことになった。いままで二匹を一度に相手にしたことがない。そのうえ二匹とも桂を狙っているのだ。まずは注意をこちらに逸らすのが先だ。桂の安全を確保せねば！ 「�爐瓩鵑匹�せえな�瓠�」 坊ちゃんが吐き捨てる。すると言葉に呼応して、水色の光が彼を包んだ。辺りに光をばらまいて、白の戦士が躍り出る。七つの大罪の力は彼の筋力を解き放ち、一気に目前のクライムとの距離を縮めた。 「食らえ！」 エイドは跳躍する。そしてヤギの背に跳び蹴りをお見舞いした。黒のマントがはためく。足の裏には、確かな感触。押し込む。たちまち怪物はバランスを崩して地面に転倒した。 それで満足しては駄目だ。坊ちゃんはヤギを蹴飛ばした瞬間、意識を手に集中した。水色のグローブは『怠惰』、氷を操る力を授けてくれる。空気中の水分子の振動を抑制するように働きかけた。 着地と同時に、サソリの足許を凍らす。地面に縫いとめて時間を稼ぐのだ。その間に桂を逃がそう。そんな考えがあった。 「効カン！」 しかし僅かに、クライムが早かった。サソリは尻尾を自在に動かすことができる。速度が生む勢いとともに尾部を前に出すと、先端にある針から電撃を放った。 電気エネルギーが熱となり、冷却を阻止する。常套手段が失敗した。桂が危ない。 まだ針はバチバチと音を立てている。その音に桂は動揺する。速度がまた落ちる。生命の危機が迫る。 「雷……そういや青だったな、両方『色欲』のクライムか！ くっそめんどくせえ」 遠隔攻撃は不利だ。見たところ、あの尻尾しか発電はしていない。だから尻尾の攻撃を躱しながら、本体を攻撃するしかなさそうだ。坊ちゃんはとび出した。転んだヤギの頭を踏み台にして。 超人的な距離を一歩で移動する。サソリの頭上にひとっとび。落下に合わせて、もう一発蹴りを背中に当ててやる。そのつもりだった。 サソリが尻尾をしならす。重力に任せて接近する坊ちゃんは、呆気なく打ち落とされてしまった。 受け身を取れど、地面に叩きつけられるのは免れない。大雑把なつくりのアスファルトに転がる。身体を襲う衝撃が声になる。 「ぐあッ!?」 「坊ちゃん!? ……う、ぐッ」 呻きに思わず振り向いた桂に、サソリが体当たりする。硬い。まるで金属のような硬さが、勢いよくぶつかってきた。桂は為す術なく地面に転がる。戦闘には縁のない一般人は、咄嗟に受け身など取れない。思い切り身体を打撲し、潰れるような声が漏れた。 何が起こったかわからない。一度頭が真っ白になる。次の痛み。腹部に焼けるような打撃が加えられた。うつぶせに倒れたのを、横から蹴られて仰向けにさせられる。三半規管で状況をとらえる。視界は覚束ない。 えずいた。せり上がってくるものなのか、下り落ちようとしているものなのかわからない。とにかくのどを塞ごうとする何かを吐き出す。 舌がゆっくりとその正体を解明する。鉄の味。血を、アスファルトに吐き散らかす。 私(あたし)、ヤバいんじゃない？ のどを横から締めようとする感触がある。サソリの鋏が、桂の頸部を挟んでいた。 大きな鋏だ。漸く靄が晴れ始める。桂はまじまじとサソリ怪人を見た。大きい。元の人間のサイズがどうであれ、圧倒的に大きい。パーツがそれぞれ大きくて、身長と幅が飛躍的に増しているのだ。ごつごつした身体はそのまま筋肉のようで屈強だ。生身では絶対に敵わない筋力と耐久性。ヤバい、私(あたし)死ぬわ。 急に冷静になる。桂はにへら、と笑った。口角が持ち上がる。まるで発狂したかのように。 「誰？ 私(あたし)、どんな恨みを買っちゃったのかしら」 どんなに顔を覗きこんでも、誰がクライム化しているかなどわからない。怪物の頭部は、モデルになった動物のそれだ。サソリとヒトでは、形態からして違う。凶暴な口と、無機質な光沢しか窺えない。 問いにはなんの考えもなかった。放っておいたら出てきた。こんなときまで話し好きだなんて、我ながら呆れる。無駄口が命取りだなんて承知だ。 怪物は答えない。その代わりに呪詛を紡ぎ続ける。 「許サナイ、許サナイ」 「死んで悔い改めるから教えてくれない？」 まるで挑発。桂の話し方は、こういうときには煽っているように聞こえてしまう。怪物に言葉が届いているかはわからないが、音自体が寿命を縮める。 死の直前まで自分らしくあろうとするのは結構だが、その結果死を早めてどうするのだ。そういう時間稼ぎは、話が通じる相手にしかできない。 誰の恨みを買っているのか、納得したら死んでもいいのか。そう訊かれると、答はノーである。桂はまだ死ねないのだ。少なくともあと一年は、たかられる約束なのだから。 一人、確実に恨みを買っている人物は思い当たる。しかしきちんと和解はした。もう二十年近く前に。いまさら蒸し返すなんて、気が触れたとしか思えない。 気が触れたからクライム化したのか？ 『色欲』を理由に？ そうだ、『色欲』だから身に覚えがないのだ。色恋沙汰にはもう久しく首を突っ込んでいない。クライムが愉快犯化することは極稀であるし、だとしたら許さないなどとは言われないだろう。桂よりも、女性である杏や細身の棗の方が狙いやすい。だから桂が襲われる理由は、私怨を疑うしかなかった。 ヤギはともかく、サソリの正体は誰だ。命を削られながら、桂は訝しんだ。 桂が危ない。立ち上がったエイドは足音を聞いた。同じく体勢を立て直したヤギが、こちらに向かって走ってくる。バチバチと音を立てながら。 二本の角の間で、火花が散っている。走るスタンガン。そんな渾名がぴったりである。 悠長なことを考えている場合ではない。桂を助けなければ。怪物退治は二の次だ。さて、どうする。 サソリの方へ走る。ヤギはエイドのあとをぴたりとついてくる。 なぜだ。こいつは桂を襲いたいのではなかったのか。いや、もう何も考えられないのかも知れない。クライム化にあたって増幅された執着心は、理性を押し潰す。七つの大罪の力を扱えるならば、もう手遅れだろう。奴らの行動動機は衝動だ。思いつくままに破壊の限りを尽くす。凶悪な力を手にしたぶん、思考は衰えるのだ。 しかしその習性は、いまは好都合だ。閃く。危害を加えてきたエイドを標的に据えたヤギは、状況を打破する鍵になる。 坊ちゃんはサソリに近づく道筋をを変えた。段々と移動速度を落とし、ヤギにわざと追いつかせる。足と地面が接触する時間をギリギリまで削り、半ば跳躍をするように動いた。 サソリは桂に夢中だった。その耳には、ヤギの足音しか届いていないだろう。エイドに迫られていることなどと考えられるだろうか。無理だ。坊ちゃんは巧妙にサソリに近づく。 タッチの差で追いつかれそうな距離までヤギに近づかれたとき、サソリとの距離は五メートルもなかった。 サソリに近づく最後の跳躍は、着地点を右にずらした。 エイドはサソリにぶつかることなく、うまく逸れる。しかし、猛スピードで前進していたヤギは、咄嗟に止まることも曲がることもできない。勢いはそのまま、ヤギにタックルをかます。ヤギがサソリを押し倒す形で、二体は転倒した。 成功だ。 坊ちゃんは素早く身体を捻ると、力なく横たわったままの桂の身体を、両腕で掬い上げた。成人男性を横抱きに抱え、脱兎の如く駐車場の隅まで走る。電気を溜めた角に突かれたサソリは、どれほどのダメージを受けただろう。クライムは身体が重たいので、概して機敏な動きを不得手とする。奴らが再び立ち上がる前に桂を安全なところに移し、なおかつ別の場所に自分は移動して、二匹ぶんの注意を一身に受けねばならなかった。 弱々しい声に呼ばれる。視線を落とすと、虚ろな黒目がこちらを見ていた。血で汚れた口角は上を向いている。 「ありがと」 「悪い、来るのが遅れた」 「大丈夫、……まだ生きてるから」 桂は咳き込みながら礼を言う。なんだ、全然元気そうじゃねえか。坊ちゃんは抱いた印象を信じる。すぐさま入口に近い隅に着いたので、そっと桂を下ろす。この場合、どう寝かせればいいのだろう。とりあえず内臓が痛まないよう、仰向けにしておいた。文句が飛んで来ないため、これでいいということにしておく。 「棗が来るまで粘れよ」 「ここにいて、轢かれないといいんだけど」 軽口も叩けるのか。大丈夫、これなら死なないだろう。坊ちゃんは頷くと、また走り出した。対角線上の隅に移動する。桂からできる限り遠ざかる。クライムが縺れ合っている方に目を遣ると、二体は起き上がり、きょろきょろと標的を探していた。 桂を救助して、戦場から逃がすのにかかった時間は、僅か四十秒程度である。クライムのことだ、多少の小競り合いもしていたのだろう。いっそそのまま相打ちになってくれたらいいのに。 「色恋沙汰は、ろくなことがねえ」 こんな立場でなければ、関わるのさえいやだ。男女の諍いほど面倒なことはない。惚れた腫れたの話題は嫌いだ。耳に入れるのさえおぞましい。だから『色欲』或いは『嫉妬』のクライムが出る度、内心で辟易していた。 能力的にも不利だ。氷はどちらの能力にも弱点を突かれやすい。恋愛をきっかけに生まれたクライムは常に厄介で、処理に困っていた。 それに、今日のクライムは二匹とも、これまで闘った怪人よりも力がある。頭も回る。足を凍らせようとしたのを邪魔されるのは初めてだった。 いつもと違う。クライムも学習するのだろうか。或いは改良されたのか。誰に？ わからないが、気づいたことはなんでも、棗に報告した方が良さそうだ。 まだ来ないのだろうか。黄色い救急車の走行音は聞こえてこない。 まあいい。いまは戦いに集中しよう。パワーアップしたのを二体も相手にしないといけないのだ。一瞬たりとも気は抜けない。坊ちゃんは策を巡らせた。 棗のあとを追いかけた杏は、病院の建物に戻っていた。院長室から地下に通じる階段を下りる。あの黄色い救急車は、地下に隠してあるようだ。 地上に置いておいて、万が一のことがあってはいけない。あれは特別な塗装をしているだけでなく、中の設備も対クライム用に通常よりも充実しているのだ。特に、エイドのコンディションを観察する機器は、特殊なためスペアがない。専用車両は厳重に、かつ極秘に収納してあると、道中で棗が説明した。 棗病院の一階裏手の外壁は、シャッターが降りている。地下にある車両はリフトで一階に搬送されたのち、シャッターを開けて出発するのだ。 棗が運転席に座り、操縦を開始する。リフトやシャッターは、車内からの遠隔操作で動かすことができるようだ。杏に指示を飛ばしながら、車を外に出す手順を踏む。杏は言われたとおりに機器類のスイッチを入れていた。 用途は違えど、備えつけてある機械は概ね、見た目も使い方も病院で使っている何かしらの医療機器にそっくりだった。少々機械に疎い杏でも扱える。必要なものが稼働し始めるのを確認すると、松原に連絡を入れた。事情を話し、外来用駐車場で落ち合うことにする。通信を切ると、ある機器のアラームが作動した。 それはエイドやクライムから出ている、七つの大罪が放つ禍々しい波動を感知する装置である。すぐさまモニターが連動し、近隣の地図を表示した。青いポイントが二つ、水色のポイントが一つ、合計三つの点滅が、棗病院の敷地内に現われた。水色のポイントは青い二つに比べて、直径が大きい。 ここから駐車場までは、建物の周りをぐるりと回らねばならなかった。とはいえ、時間は一分もかからない。黄色い救急車はサイレンを鳴らさない。その代わり、駐車場に侵入するなり、ライトを最大強度で点けた。広い駐車場が一目で見渡せる。交戦中の怪物二体と、エイドの位置も把握した。 「桂！」 棗は視界の端に、横たわる人影を見つけた。そちらにハンドルを切る。桂が地面に、仰向けに倒れている。何があったのだろう。とにかく、救助せねば。桂のすぐ傍で救急車は停止し、すぐさま後ろ扉が開いた。ストレッチャーを下ろす。それを押して、桂の元へ急ぐ。 坊ちゃんに運ばれるなり、気が抜けて意識が朦朧としていた桂は、物音に引き戻された。助けが来たのか。安心感が増す。しかし自分には、坊ちゃんに代わって状況を説明する義務があった。まだまだ眠れない。あと少し、気を保たねば。 自力で呼吸ができる。もう血はせり上がってこない。大丈夫、命の鼓動は力強い。 がらがらと、アスファルトとキャスターが擦れる音が近づいてくる。そして聞き慣れた、腐れ縁の声。 「桂、大丈夫ですか!?」 「……棗……？」 なんて顔してんの。そう言いたくなる。棗は深刻な顔で、桂を覗きこんだ。 無理もない。口から血を流し、服を派手に汚しているのだ。彼が戦闘に巻き込まれていたことなど一目瞭然である。桂の様子を目にして、杏はあのときの自分もこんな風に憔悴していたのだろうと想像を巡らせた。桂の目は濁っている。疲労、激痛、動揺。彼の精神はこれでもかというくらいに掻き乱されていた。 弱々しい声が、棗の問いに答える。こんなときですら、軽口は減らない。 「大丈夫。なんとか坊ちゃんが助けてくれたから」 「……よかった。すぐに手当てします。じっとしていてください」 「自力で立てるわよ」 「どの面下げてそんなこと言うんです」 棗は杏と二人で、桂をストレッチャーに乗せた。そしてすぐさま救急車に収納し、応急手当を始めた。 そのとき松原も合流し、棗は看護師二人に治療を任せることにした。彼はエイドの観測に回る。カメラを内蔵した小型ロボットを外に放ち、戦闘の様子を車内から見えるようにした。 桂の状態を確認し終わる前に、車内のモニターに異形たちの攻防が映し出される。坊ちゃんは数に苦戦しながら、なんとか立ち回っていた。 「ねえ棗、あのクライム」 「少し黙っていてください」 「ちょっと、怪我人を無碍に扱うなんて何様？」 「院長様です。怪我人の自覚があるなら、しかるべき態度を取ってください」 「喋る元気はあるのよ」 「じゃあその元気は回復するのに使ってください」 「桂先生、いったいどうしてこんなことに？」 二人の応酬に松原が割って入る。できる女は違うなと、杏は感心した。彼女の上手い計らいによって、桂は必要なことを話し始める。世間話のような口調が痛々しさを軽減したが、内容が凄惨であることは変わりない。サソリのクライムと化した人は、余程桂に恨みがあったのだろう。 話に区切りがついたところで、杏が口を開いた。ヤギのクライムについて知りうることを三人に話したのだ。自分の感情は含めず、事実だけを並べる。先日の更衣室での出来事と、クライム化の直前に叫んだ内容。それを結びつけての推測を述べた。話を聞いて桂が顔を顰めたのは言うまでもない。 追いかけっこで体力を削る、という戦法はクライムに通用しない。 二匹とも圧倒的な攻撃力を持っていることを、坊ちゃんは痛感していた。ヤギの鋭い角に挟まれ電撃を浴びせられたら消し炭になってしまうだろう。電気を纏ったサソリの尻尾に殴られたらひとたまりもない。ただでさえ壮絶な威力を持っているのだ。生身で直撃を受けた桂は大丈夫だろうか。傷が深刻でなければいいのだが。 氷の力を借りて二匹を退治するのは限界である。この時期は特に乾燥していて空気中の水分が少ないのだ。気温を下げるのは簡単だが、出現させられる氷雪の両は限られている。 地形を利用しようにも、平坦なのでこれといった特徴がない。せめて縁石があれば、もう少し相手を翻弄できただろう。残念ながら棗病院は消防車を所有していないため、放水という援護も望めない。 八方塞がり。 いや、あくまで劣勢だというだけであって、策は尽きていない。まだ戦える。 さっさと倒して手を引こう。色恋沙汰に巻き込まれてとばっちりを食らうなんて最悪だ。早く暖かい家に帰って、チーズフォンデュを楽しみたい……主催者の桂が負傷しているから、今日はお預けか。まったくついていない。 これだから他人の恋愛に関わるのはごめんなのだ！ 片をつけよう。一発できめる。でもどうやって？ 火力最大限で、攻めるのだ。 坊ちゃんは手のひらを向かい合わす。その間の空間に、意識を集めた。 立ち止まり、水に働きかける。しかし敵から見れば、観念したかのよう。二匹はここぞとばかりに突進する。執着心から生まれた屈強な身体と高圧電流で、エイドを追い詰める。 水色の手のひらが、二匹に向けられた。 力を放つ。その瞬間、一時的に辺りの湿度がゼロパーセントになった。 ありったけの水分を集めて、できる限り大きな氷柱を出現させる。氷の壁を立ち上げて、敵の接近を阻んだ。 だがそれにひるむヤギとサソリではない。氷の強度などたかが知れている。二匹は実力行使で突破しようと、さらにスピードを上げ、また電流を多く流した。 読みが当たる。 奴らは少し考えればわかることがわからない。 坊ちゃんは後ろへ跳び、被害を受けないように遠ざかる。それと同時だった。二匹が氷柱に体当たりをかましてくれたのは。 ヤギの角から発生する電流が、氷を削る。しかしサソリの頭も、同時に氷を砕こうと接触していた。常温常圧下では、氷は昇華しない。一瞬、水になってから気化する。その一瞬、サソリとヤギは感電した。 電気を発生させることができる器官以外は、絶縁性を欠いている――一か八かの賭けだった。読みが当たらなかったら、また追いかけっこに精を出さねばならなかった。 二匹が感電している間にも、氷はどんどん溶けていく。大気に戻り、湿度を回復させる。しかしもう少し協力してもらおう。坊ちゃんは駆け出しながら、利き手に氷の剣をつくりだす。敵に接近するほどに、武器は協力に進化する。 隙ばかりだ。痺れて身動きが取れないクライムに、エイドは刃を振りかざした。サソリの尻尾とヤギの角を切り落とした。実に呆気なく、雷を操るのに要となる器官は、本体と分離する。 角を切り落とした際に、剣は蒸発してしまった。しかし、それを構成する分子が消失したわけではない。 「さあ、終業時間だ」 これでとどめだ。 空中に、先程の壁と同じサイズの氷柱を生み出す。再び湿度がゼロになり、拡散している水はその場にすべて集まった。二股に分かれた根本の、有無を言わさぬ尖りが月光にきらめいた。 重力は絶対的である。氷塊は従順に、その切っ先を二体の頭上に落とした。為す術なく力を失った怪物は、その台座となってしまった。 触れた部分から、身体が凍っていく。外側から内側から、クライムの動きを封じる。完全に体表面が氷に覆われると、クライムは刺さった氷塊とともに砕けた。 破片は大気に還り、忙しなく湿度を戻していく。 アスファルトのうえに転げたクライムの被害者は、やはり男と女である。溜め息を吐いた坊ちゃんを、紫の光が包む。変身を解くなり、彼もその場に頽れた。 ＊＊＊＊＊ 「負けちゃったけど、がんばったね、あの二人」 「いままでのに比べて、びっくりするくらい強かったわ」 「うん、それに、男の方は、普通より少ない執着心でクライム化したよ」 「あとはもう少し頭が回るようになったら完璧ね」 「今回はただのバーサーカーだったのが敗因かなあ」 湯津と立花のクライム化が解けるなり、百合は姿見を指さした。鏡面は遠隔地の状況を映すのをやめ、ただ光を跳ね返すだけの物体に戻る。それまで無言で戦闘を観察していた二人は、終わるなり口々に感想を述べ合った。 用意していた飲み物は、すっかり空になっている。ひとしきり喋るとのどが渇いた。カップの底も乾いていく。しかし、新しいものを注ぎ足しに動くタイミングがなかなかない。 「クライムの力が『嫉妬』だったら、勝ってたかも」 「確かに、両方『色欲』だったのはまずかった。今回、二人同時にクライム化することに成功したから、これからは違う種類のクライムを同時に出現させることもできるかも知れないね」 茅萱は熱心だった。彼はクライムの話をするときだけまともに見える。きりりと引き締まった表情になるのだ。普段のばかみたいに甘ったるい態度より、こっちの方が絶対にモテるのに。彼も世の女性も、わかってないなあ。 きっとまっとうな感性を持っていれば、誰だってそう思うんじゃないか。百合はいつも、そう感じている。 熱弁が続く。彼の言っていることはどれも納得がいった。語彙の多さはこういうときに役に立つ。百合も気づいていたけれど、言葉にできなかったことを、彼は的確に指摘してくれるのだ。 観察眼は女性を口説くために磨いたのだろうか。そうでなければ見直すのに。 「でもね、百合、恋愛における妬みや嫉みは、実はたいしたことがないんだよ。『嫉妬』のクライムはもっと救いようのない人を見つけて作った方がいい。……パワーアップした『嫉妬』のクライムは、いまのエイドには倒せないだろうね。ふふ、可哀想な人が見つかるのが楽しみだ」 茅萱はクライムの話になると、途端にサディストになる。茶々を入れるのをためらうってしまうくらい、彼はえげつない。百合はしっかり言葉を選びながら会話に参加する。 どうしてこうも極端なのか。これも百合が茅萱を苦手とする一因だった。 「七つの大罪はお互いを強め合う。やっぱり、七つが揃うとクライムも強くなるんだなぁ」 「文献の正しさが証明されたわね。でも、タイムラグがあったわ。どうして最後の『傲慢』が見つかってからすぐにクライムが強くならなかったのかしら？ 七つの大罪がお互いを強め合うのは、数ヶ月単位の時間が必要ってこと？」 「そうかも知れない。すぐに強め合うとはどこにも書いてなかった。ゆっくりと強め合ったって、なんらおかしくないよ。それに」 「それに？」 妙なところで言葉を切る。歯切れの悪さに、思わず百合は続きを促す。それでも彼はもったいぶる。のどでくつくつと笑う。らしくない。 いやな予感がする。人が変わったように言葉を舌で転がし続ける彼の顔を、百合は覗きこんだ。 茅萱は不気味な含み笑いを、百合に向けた。 「そっちのほうが人間らしい」 ＊＊＊＊＊ 「チーズフォンデュは桂の退院祝いに延期だな」 坊ちゃん、杏、棗、松原の四人は、桂の病室に集合していた。南向きの窓がある個室。検査の結果、桂は一ヶ月の入院生活を余儀なくされ、棗病院の最上階の一室で横になっていた。首まわりには包帯が巻かれている。衣服で隠れているけれど、腹部も包帯で覆われている。よく喋るし顔色もいいので元気そうに見えるけれど、桂の怪我はわりと深刻だった。 ほぼ毎日、坊ちゃんが話し相手として見舞いに訪れている。今日は彼が来るのに合わせて棗たちも病室を訪れ、今回の事件のまとめをしていた。 「チーズフォンデュ？」 「あの日はね、坊ちゃんと棗と三人でチーズフォンデュ飲みをするつもりだったのよ。うん、だから最悪のタイミングでクライムに出くわしたわけ」 唯一あの場にいなかった松原が、坊ちゃんの言葉に反応する。それに桂が説明を加えた。 松原はなるほど、以上のことを言わない。彼女は仲間のプライベートなことには一言も口出しをしないようだ。できる女は公私をきっちり分ける。杏はそのように学んだ。 まとめは大詰めを迎えていた。話を締める切り出しをすべく、棗は一つ咳払いをした。 「今回の事件の原因は湯津さんと立花さん、二人の若さゆえの暴走ということでいいですね？」 「まあ、そうよね」 「とはいえ桂、あなたの振る舞いにも問題はあったと思いますよ」 「えー……でも、まさか自分が三角関係に巻き込まれてるなんて知る由なかったわよ。確かに湯津ちゃんからはたくさんアプローチ受けてたけど、まさか本気でバツイチのおっさんのこと好きになってるなんて思わないでしょ、普通。にしても、立花についてはほんとに意外だった。あの堅物が湯津ちゃんみたいなのが好みだったのは驚いたけど、それよりね、うん。気に掛けてた部下に、殺されかけるくらい嫌われてたってかなり傷ついたわ。……彼、すごく真面目で有望だったのよ。私(あたし)は結構好きだったのに」 一息で話す中で、感情の起伏がとても大きい。忙しい人だ。そんなに忙しなく話して、疲れないのだろうか。とりあえず、身体に障らないといい。のどの傷は小さかったけれど、痛むようなら何事も控えた方がいい。 棗と松原はそんなことを考えていた。坊ちゃんは彼のマシンガントークにもうずっとつき合っているので、なんとも思っていないらしい。 杏は一人、ぽろっと出た単語に驚愕していた。 「……桂先生、バツイチなんですか？」 尋ねずにいられなかった。話の腰を折ってしまうことは承知している。それでも訊かずにはいられない。どうして誰も驚いていないのだろう。 周知のことなのだろうか。本人も隠さずに話しているのだから、訊いても失礼にはならないだろう。そんな甘えのもとに、杏は口を挟んだ。まとめはもう少し長引きそうだ。 桂は訊かれるがままに答える。やはりその経歴は、公言しているらしい。 「うん。ちょうど二十年前に、元嫁のマタニティブルーが原因で離婚した」 「じゃあ、お子さんがいらっしゃるんですか」 「一応ね」 「一応？」 「顔、見たことないの。名前はおろか、男か女かもわかんない。いるってことだけ知ってる」 矢継ぎ早に予想外の情報が並べられ、杏は困惑した。桂は年の功とは違う深みを持っている人だと、常々思っていた。不思議なオーラは、特徴的な話し方のみが発生源ではない。人当たりがよくて部下思い。しかし常に快晴ではなく、一掴みの厚い雲が青い空に浮かんでいる。そのようなイメージを、桂には抱いていた。 まさか過去に、そんな辛酸を舐めていたとは。彼の影の部分は、離別経験という傷。それも聞く限りでは理不尽で、彼が折れるしかなかったようなもの。 桂は続ける。 「嫁は私(あたし)と別れたあと、子供産んでさっさと再婚しちゃったのよ。でも私(あたし)は養育費を子供が成人するまで払わなくちゃいけなくて、まあ別にお金のかかる趣味とかないから気前よく払い続けてるけど、如何せん子供の顔を見せてもらえないからね。本当にちゃんと育ってるんだか」 彼には、父親の顔が感ぜられない。実際に育ててないからだろう。子供を案じる発言をしても、どこか実がないように聞こえる。 その虚しさを自覚しているのだろう。だから影となり、静かに闇をつくる。 「別れるときに、元嫁にボロッカスにディスられたのよ。でも、間違ったことは言われなかった。結局再婚したとはいえ、私(あたし)はあの子の経歴に傷をつけちゃったわけだから」 それは桂が悪いと言い切れることなのだろうか。杏は一人の女性として考えてみるけれど、桂が一人で背負い込みすぎなように思う。 そうまでして許すのは、前妻を愛していたから？ 或いは、いまも愛しているから？ そこまでは踏み込めない。踏み込んだところで、杏が何かを感じたところで、もう遅いのだ。 桂の中で、その出来事はもう終わったことなのだから。 「まあ、そういうことがあって私(あたし)はスレたのよ。もう男とか女とかめんどくさくなった。で、ニュートラルな感じで生きることにしてあれこれやってみてるんだけど、元々こういう性格だから、なんかうまく行かないよね」 誰に対しても分け隔てないのは、そういう心がけのせいなのか。そうでなくても桂はとてもいい人である。離婚経験があろうと、年齢を重ねていようと、関係なく人に好かれる要素を持っている。 その上で、今回のようなことが起こってしまうのは悲しいことだ。湯津の好意があるところから育たなければ、立花が暴走することもなかっただろう。桂が人との関わりを立たない限り、完全な断ち切りはできないように杏は思う。 或いは桂も再婚すれば、すべてが丸く収まるのか？ 「今回の件もそうね。……ごめんね杏ちゃん、また巻き込んじゃって。あなたが怪我しなくてほんとよかった」 「そんな、先生が代わりに怪我してしまったら、元も子もないです」 「いいのいいの。私(あたし)は丈夫だから。うん、痛い目見たし、今度こそ気をつけるわ。もうこれ以上、私(あたし)のせいでトラブルが起こるのはごめんよ」 そこで棗がまた咳払いをした。これ以上話が逸れるのはまずい。杏も桂も、それ以上その話題は持ち出さない。 仕切り直す。棗は提案した。 「それじゃあ、来年からはバレンタインデーとホワイトデーの、院内における個人的なやりとりは禁止ということにしましょう」 「全面禁止にしないのか？」 「事情をすべて説明できませんから。それに、個人的な贈り物のやりとりが、直接的にではなくとも湯津さんの執着心を増幅させてしまったわけですから、妥当でしょう」 ストイックだ。杏は坊ちゃんの問いに、そのような印象を抱いた。棗の回答には納得したけれど、今後に向けて厳しい提案をする坊ちゃんに、人知れず闘うヒロイズムを感じた。 彼を労いたい。できればクライムを倒すたびに。彼への尊敬と感謝がいっそう強まる。二度も戦闘に携われたのも、何かの縁だろう。杏が彼に抱く感情は、より具体的で鮮明なものになっていく。 実のところ、彼は浮かれた話題が嫌いなので、そういったイベントも好ましく思っていないだけなのだが。 杏に過大評価されているとは露も知らず、坊ちゃんは桂に軽口を叩く。 「モテる男は大変だな」 「坊ちゃん、暇なんだし代わってちょうだいよ」 「やだ。俺は面倒事に巻き込まれたくない」 杏はまだ、坊ちゃんの言葉が意味するところを知らない。彼は白き英雄。この等式だけが成り立っている。 ところで、彼はやけに桂と仲がよい。直接あれやこれやとサポートしてくれる棗よりも、桂の方がほどよい距離でつき合えるからだろうか。 自分はエイドのために何ができるだろう。杏の新たな悩みが増える。しかしそれはとても、自分のためになるような気がした。 To be continued. 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