詐病ではなく
     早良心一
 ああ、僕は醜い。それは、普通でいうと悲しいことなのでしょう。僕はそうは思うことなく、醜さが過去の自分を慰めて、未来を保障している様に思われるのです。これも、普通でいうと悲しいことなのでしょう。

 木陰を抜けて春の麗らかな風に体を浸し、背伸びをしました。僕は内心から快く有るべきだなと思ったのです。無感情な僕は、人生すべてが分かっているような口調でしか内心は話すことが出来ず、明らかにすると大分嫌われてしまうと思っています。事実、嫌われた事もあり、今はテレビで研究し尽くした、バラエティーの演技ばかりで過ごしているのです。僕は全く面白くありません、周囲は面白いのでしょうが。
 中学時代に僕は誰の家に遊びに行くことすら極端に嫌っておりました。つまり学校における立場さえ確立できる能力を、持ちさえすれば良かったのです。
 今でもそうです。高校入学も遂げた今そのような感情を持つのは些か訳の分からぬものではありますが……。

 入学から3か月後……。図書館に入り、暇な時間は勉強をするようになりました。高1の段階で志望校を既に決めていたからです。いえ、それだけでは無いのです。友人が一人すら居なかった。みんなが馬鹿に見えて仕方がなかったのです。学年一位を取った者が笑かそう等とするのは相手にとっても小馬鹿にしている様に聞こえるのでしょう。その場は笑うのです。しかし、一向に続かない。僕の技量が足らないとは思えないのです。これまでの僕は全てに於いて優位だったのですから。他の皆に吐き気がし出したのです。圧倒的な差で叩き潰してやろうと思ったのです。
「勉強熱心だね」
 そう、一月経つと司書の先生にも言われ出しました。僕は休み時間にも此処に来るような依存度を見せ始めたからでしょう。
 しかし、夕方よく見る人が司書の先生以外にもいるのです。一人の女の子です。彼女は相当文学作品が好きな人らしいです。良いね、女性で。男で顔の醜い僕が本好きとか言うとどんな風に見られるか。メガネと不細工で、人が笑うぞ。いや、関係無いですね。話したことも無いのですから。まあ、僕も同じようにしたかったのです。そして出来たから、今の見た目なのです。最下層を這いずるような見た目なのです。しようとせずとも、精神と環境の歪みが目の大きさを狭めていくのです。

 八ヵ月後の修学旅行に行くか、どうか。それの普通は部活の日付が被っているかどうかによって決まるものです。僕は部活に入ってない、だから行くとそう相場が決まっているのでしょう。だけど、行かない。興味が無く、媚びる相手が誰も居ないのだから、金など払う必要が無いのです。
「今年は珍しいな……」
「何が、ですか」
「二人もいるんだよ、個人的な理由で行かない人がな」
「それって、言って良いものなのでしょうか……」
 教師が当惑に果て、よもや完全にこの数秒は教師生徒の関係を超え、僕が上に立ったように思われたのです。しかしその愉悦、軽蔑を超えた感受は一つ。もう一人行かないという理由……。僕の価値観はずっと前から異常でした。不幸に揺られて煽られていました。不幸以外に何の感情の動きもありはしませんでした。僕は不幸を愛しており、他の幸福に無関心です。他の感情はいくら誇張しようとも演技に過ぎないと自覚するまでになっていました。この教師に軽蔑の念を抱くと共に感謝の念を抱くほどです。この教師など結局、俺より頭の悪い努力足らずなのだからと、心底の嘲笑いが左口角を引き上げようとしました。されど、何とか右も上げて普通の微笑みに外観は見えた事でしょう。いえ、この台詞の後の微笑みも同様と目を見開き、口を閉じました。僕は馬鹿だ。
「一生徒が申し訳ありません……」

 僕は二年生に上りました。正の喜びの感情はまたもやないのです。この高校が一年終わった喜びだけでした。一年前より負感情は強く、桜が散り緑と化した風景に凄まじい過去を想起し嫌悪しただけです。
 掲示板に張り出された、組表によると2年3組……。一々廊下が遠いなと僕の軽い不幸。伊川祥子さんが同じクラスか……確か成績良いのだよなと、頭の片隅に有った情報を思い出しました。だが、会ったこともないですし、先生の話にも出てこないので、俺に比べたら高が知れているのでしょう。それを言ったら、みんなが知れているね。担任の先生もまた、結構な人で、僕の信頼している先生の一人です。その先生は熱心で、僕に積極的に教えて下さる方です。僕も子供ですから、特別扱いは好きです。僕に「君は東大が一番合っている」と言って下さった現代文の先生。ええ、暗に進学コースですね。県立だから言えないのでしょう、多分。
 今年の春は寒い。靴箱に白と灰の靴を入れ、サンダルを落としたのです。いつもの僕ならない倦怠を伴う行動です。春の僕だけの無音、それを掻き消したいのです。同級生の皆が五月蠅い。いや、春は皆五月蠅い。一生冬に過ごしておけばよいのですが。
 僕はもう面倒を嫌う傾向に。今思えば、真の友達が一人もいないのです……。それは、途中からは人嫌いの雰囲気を醸し出していたからではないでしょうか。僕が面白くなくとも、学友と言うものは居るものです。自然発生的に。
 そう、思いながら廊下と階段を無表情で歩きました。この表情こそが人嫌いの雰囲気で、人から拒絶されるのだと分ってはいました。今、ふと見られて考えを強化されるより、と思いつつ悩みが勝り……。
 教室に入り、席に着き此処で強化されてはと、普通の顔に戻しました。しかし、思考はさっきまでと同じことが占有し続けたのです。始業式が終わり、ホームルールが始まりました。
「……、堂嶋君! 自己紹介、お願いするわ」
「あ、はい……」
 時計の針を見ると、短針は10を超えていました。ここで面白いことを、言えば友達は出来るのです。それは確実です。しかし、それで良いのか……。
「堂嶋寛孝です。よろしくお願いいたします」
 出来なかった……。僕にそのような性格はもう似合いそうもないのです。純文学に唐突にハイフンが出てきたような、そのような違和を周囲は感じるのではないでしょうか。疑心暗鬼を自らに向け、考え始めると早々に答えは出る訳なかったのです。
「伊川祥子です。よろしくお願いいたします」
 その子は、あまりにも無感情な声。しかし、聞いたことのある声です。髪の長さですぐに分かりました。図書室のあの子です。顔は見えなかったのです。しかし、もう分かりました。そのあとの同級生を聞いていると、この自己紹介は自分の趣味も言うものと最初にルールが決められているようです。それを、破ったのは僕と彼女だけ。僕は聞いていなかった、だけど彼女は……。
 不幸なのではないですか。彼女は僕と同じくらいの不幸具合なのではないのでしょうかと、思い始めたのです。つまり、恋に落ちたのです。
 僕は歪んでいますね。歪んでいる。歪んでいますね。歪んでいる。

 それからの僕は、図書室で、教室で、廊下で、様々な所で彼女を見る度に全ての価値を持って行かれたのです。こういうと被害者臭い……違うのです、興味が他を圧倒して。他がどうでもよくなって……。しかし僕には好きな女の子に対する積極性など皆無だったのです。五月に入る頃には、段々と僕の歪みは取れ、僕は彼女が自分に似ているから好きなのだという純粋さをも見出すほどになった。純粋になればなるほど、彼女に近づきたくなったのです。席は常に横です。僕も彼女も勉強に必死でしたし、視力の悪い人間ですので、一番前の席に確定となっていました。でも、どちらも話しかけるのは、小テストの採点の時のような事務のみ……。彼女の趣味が分かりません。話しようがない。
 僕は失礼な事とは分かってはいるのですが、勝負を賭けてみようと思いました。
「あ、あの……伊川さん、現国の教科書忘れたので見せて貰えませんか」
 故意的に忘れたのではなく、忘れたうえで……。これで断られでもしたら。いえ……それは後回しです。彼女が嫌悪しなければいいのですが。
「わ、忘れたのでしょうか……周りみんな女子ですもんね。い、良いですよ……」
 丁寧、そして、優しい。僕なんかに優しい。
「あ、あ……ありがとうございます……」
 ああ、この人を好きになって良かったと思ったのです。余りにも早すぎる判断だとは僕でも分かりました。他の人だったら絶対にしない判断でしょう。でも、一生揺らがないと確信した一瞬でもありました。
 嫌われない様に感情を圧しこめ、席を端に寄せて距離を取り、一時間を過ごしたのです。内容は全然入って来ませんでした。いつも当てられる、難題には答えましたが。この文章から戦時中と浮かぶのは僕だけでしょう。しかし、この状態で答えるのは正しかったのか。
「ありがとうございました、伊川さん」
「いえ、そんな……」
 此処で会話が終わってしまう、そう思ったのです。僕は続かなければ思いました。
「あ、あ、あの! 伊川さんが忘れたときは、貸すから! なんでも絶対貸すから」
 伊川さんは、少し笑いました。
「私は忘れないよ。でも、忘れたときは頼みますね」
 うん、といつもの僕ならしない返事にまた彼女は微笑みました。普通の僕に、やっと近づいて行っているのですと、心の僕は天を翔るほど嬉しくなったのです。

 図書室で会った時も、話しかけられるまでの関係性に達し、僕としてはもう満足していました。僕は醜いですし、好かれる筈が無いからです。
「堂嶋君、凄かったね」
「いや、別に凄くはないよ。世界史なのに、英訳しろとか言いだす先生が凄い」
「それは、貴方が出来るから。まさか、『生存競争』の英訳ってね」
「ああ、驚いたよ。多分、横の職員質の横の席が英語の先生だからかもね」
 会話が続くと現実が分からなくなるのです。でも、一人の帰宅中、在宅中には自覚するのです。夕日が沈む、電気を消すと、愛されないと。
 梅雨時期には、いつも頻繁に現れない人たちも図書室に現れるものです。梅雨の気候、人が多くなった事による僕の憂鬱、好かれる可能性の零さ加減。全てが重なって、凄まじい鬱になったのです。
 現実を知れば知るほど、鬱になるのです。僕は馬鹿にも程があるのです。醜くならねば良かったのではないか。いや、それでは僕は如何様に通しても自殺せねばならなかったのです。一回死のうとした、されど、死ねず、以降は怖がりました。それが真実。
 醜くならねば、しょうがなかったのです。
「落ち込んでらっしゃるようですが、どうかなさいましたか」
「いえ、そんな……」
 もう、伊川さんの優しさが死ぬほどの優しさだと分かっていたのです。僕如きが釣り合わない事も。
「悩んでいる事が有りましたら、言ってくださいね……」
「……。伊川さんと友達になりたい」
「もう、友達ですよ。私たちは」
「本当ですか、嬉しいです。伊川さんが友達だと思ってくれていたのは」
 ああ、このままでいい。ずっとこのままでいいと思いました。頼りっぱなしです、僕は本当に情けない。
 僕は続きの話題が浮かびませんでした。対面の席に彼女が座り、僕は勉強し始めました。僕は勉強をしていたのですが、目の端で彼女をずっと見ていまいた。彼女はいつも通りの宮部みゆきの小説読んでいました。そして、いつも通り栞を挟み、勉強を始めたのです。僕は脳内で赤チャートの問題を解いていく。xyzのどれを潰すのか。正射影の問題は簡単な筈です。そして、正射影の問題は好きです、綺麗だから。早くベクトル系もやりたいものです。
「ここを教えてくれませんか」
「いいよ。ここは、ラ行四段の未然接続だね。あつらえ望むの終助詞だね。散ってくれよ、だね。まあ、散りなむだと連用接続だし、完了と推量の『な』と『む』の絡まったものだ。『な』は未然形だよ。でも、上一段は気を付けてね。未然と連用が同じ活用だから」
 度々、僕と彼女には緩和が会話の中に生まれて行きます。自然体で完全に話せはまだしません。でも、そういう風にしたいと唯一思った相手なのです。
「日本史と世界史取ってるんだね。珍しいね」
「僕が行きたいのは東大文一だからね。センターと二次の関係からいうとその二つが良いんだよ」
「そっか。やっぱり頭いいね。私は地元の国立かな」
 すこし悲しくなったのです。僕は東大を目指す自分が悲しいという訳の……訳の分からない感覚に囚われました。とはいえ、です。これは仕方のないことです。
「受かると良いね。どちらも。というか、頑張ろうね」
 彼女はにこやかで、そして頷きました。彼女が段々と綺麗に可愛らしく見え始めたのです。僕は彼女の見た目すら、美化しようとしていたのです。しかし、僕に常識は残っているので、彼女は他の人たちからすると美人ではなく、可愛い人でもないのは分かっています。もう、彼女の全てを受け入れられる感覚が芽生え始めたのです。こんなことを始めたら、僕は誰も彼女以外を好きになれないのは分かってはいるのですが……。
 好かれもしないのに、愚かです、馬鹿です、塵だ、本当に。

 僕は教室で昼飯を食べたことは高校に入ってから最初の二か月くらいしか一年生の頃はありませんでした。何故なら、惨たらしい光景ではないですか。一人で集団の中に紛れて食うなんて……。
 でも、二年生になって僕はずっと教室で食べていたのです。彼女がいましたから。辱めなんてどうでもいいと思っていました。
 されど、今となっては逆の嬉しい意味でそうはいきません。僕と彼女は弁当を一緒に食べ始めようとしたからです。僕と彼女は、どちらも恥ずかしい。僕が不細工だから恥をかかせているのです……。だから、僕と彼女は誰も同級生が居ない場所で食べていました。進路指導などを行う、文書類赤本が並んだ場所で。そして、隠れる位置に。
「伊川さんの弁当っておいしそうだ」
「嬉しい……。私が作ったの」
「料理出来るんだ、凄いね。美味しそうだよ」
 本当に思いました。正直、彼女が作っているなんて思いもしない程の綺麗さだからです。美的センスがあるとしか言いようがないほどに。料理を綺麗に作れないヤツは……。こだわりが無いというか、妥協ばかりというか。
「凄くはないよ。美味しくないから、あんまり……」
 少し頬を朱に染めました。会話を閉じようと、卵焼きを彼女は食べました。
「食べても良いかな。こんなに綺麗なんだから、絶対に美味しいよ」
「えっ……。そんな……美味しくなかったら……」
 彼女は困っていました。多分、彼女は本気で言っていたのです。謙遜なら自己顕示で直ぐに、「はい」と言う筈なのですから。違う。彼女はそんな女性ではないのです。やっぱり、僕の理想通りなのですね。
「良いよ。堂嶋くんにだったら」
「本当ですか」
 とっても嬉しくなりました。箸を伊川さんの弁当に伸ばしました。人のものを食べるのは初めてでした。したいとすら思わなかったのですから、当然といえばそうですが。
「美味しいよ」
 口に含んで、味蕾に味が届く前に言いました。味は関係ない。ただ、褒めて好かれたかっただけなのです。それに、普通の感覚でいう不味い料理を彼女が作っても僕は不味く感じる訳が無い。いや、これ多少話を盛っているかも知れません。それは、不味かったら不味い。だけど、寛容にはなると思います、絶対に。
「反応が早すぎるよ」
 彼女は大笑いしました。僕は、舌を動かし味を確認しました。
「美味しいよ、本当に」
 彼女は顔を下げ、笑い顔が恥じる顔に変わるのを僕にひたすらに見せない様にしました。「ありがとう」と小さな声で言いながら。見えないのが一層、彼女の魅力を掻き立てました。更に言いました。
「私の料理を褒めてくれたのは堂嶋君が初めてだよ」
 これはどういう事ですか。わざわざ、娘に弁当作らせといて褒めない親って……。僕は不幸を愛してはいませんでした……。
「美味しかった。本当に美味しかったよ。とっても……」
 彼女は泣き出しました。僕は悪いことをしたのです。最低かも知れない。もう分からない。彼女を知るという欲求の為に彼女を傷つけたのです。知るという僕の欲求は彼女を傷つける事だったのです……。
「僕の食べて。僕も自分で作ってるから」
 僕も泣きはじめた。不幸を愛しているなんて、僕はもう考える事は無いだろう……。彼女の不幸は、僕にとって最悪だともう分かりました。僕は人の感情が分からず、理解する気もなく、下に見すぎていた。それだけなのです。何が、醜い。何が、馬鹿。自己の指標が多すぎて他者の介在が一切無く、完了していた。もうそうじゃない、違う。変えたいと心底思いました。人の不幸を愛しているのでは無くて、不幸を幸せにする事を望んでいるのだ。
「似ているよ、伊川さんと僕は。食べて」
「美味しい」
「伊川さんも、早いよ」
 二人で笑った。涙が頸にまで落ちていた彼女は微塵のも屈託が無かった。窓から射した一条の光にまつ毛が合い、綺麗でした。ああ、僕は口に出したかったのです。綺麗ですと。でも、僕はそれを望んで生きている訳じゃない。彼女の横に居ることが出来ればそれで良いのです。


***
「ただいま」
「……」
 家には今日も、誰も居なかった。期待もしてないけど。自分だけ、インスタント食ってる。死ねばいいのに。
 高校無償化で助かったとはいえ、地獄。高校の時から奨学金借りて、食費に回されるってね。それが嫌なら
 私の所で働けってね。本当にクソ婆死ね。死ね。死ね。死ね。母子家庭なんだから、手当も出るのに……。
 私と彼は本当に似ている。私の人嫌い気性を一部的に変える程に……。
***


 眠たい。昨日は勉強をしすぎのようです。
「隈が出来てますよ、堂嶋くん」
「昨日は、数学で解けない問題があったからね」
 中線定理の証明だ。東大に出た問題……。簡単な筈だけれど、難しい。盲進的に勉強しているのは、それ以外にも理由があります。修学旅行です。後、三週間後。梅雨を超えて数日。
「伊川さんは、東京と北海道どっちに行くの、修学旅行」
「……。行かない」

 僕ともう一人の生徒が行かないと聞いていた修学旅行。彼女は部活には入っていません……。
「僕も行かないよ、修学旅行は」
 彼女は眉を顰めました。疑っていたのです。しかし。
「私と同じだね」
 何の救いもない返答です。どちらも「行かない」と言いました。だけれど、彼女は「行かない」じゃなくて、「行けない」なのです。弁当の一件で彼女の家庭は貧乏だと想像は付きました。親が料理しないなら、学食を使えば良い。しかしながら、使わないなら貧乏です。それとも、親が屑。いや、どちらにせよ屑。
「伊川さん。二人で、勉強しよう」
「うん」
 僕が彼女を幸せにしたい、もう思っていました。自分に力があるなんて思っていません。最悪、保険金掛けて僕が死ねば今みたいな不幸にはならないと思っていて、それだけの存在だと僕自身思っています。でも、彼女の周りにいるだれよりも僕の方が愛しているし、幸せするために尽くすのは自信がありました。
 少しも楽しくなりそうになかった、修学旅行の日。それを楽しくしなければという課題ができました。その日が彼女を喜ばせるのなら、僕は嬉しいから。

 修学旅行の日というのは、可笑しいものです。何故、残った人間に勉強課題が出されるのでしょうか。修学旅行に行った人間も、飛行機とか新幹線では勉強しているのでしょうか。僕には行っていないので分かりませんね。
「まさか、課題出されるとは思わなかったね」
「ああ、可笑しいよね。提出とは言ってないけど、僕らにとっては暗黙だよ」
 先生も暇ではなく、修学旅行で抜けているのでしょう。回ってくる時間が決まっており、先生がいない時間には、部活の人たちが騒ぎ出す。
「伊川さん、トイレ行こうか」
「えっ。まあ、うん、いいけど……」
 廊下に二人で出ました。音のしない廊下は珍しいです。昼間なのに、平日なのに。二人だけという事がより意識されて、幸せで。
「今さっき、聞いたんだけどさ。土日も来なきゃダメなんだって」
「土日も……本当?」
「うん。休もうか。……それと、暇だったら、遊びに行かないか、どっかに」
 高校の修学旅行とは本当に可笑しい。部活組は金曜には居なくなる訳で、暗に土日に僕と彼女を学校に来いと言っているようなものです。
「……。うん、行くよ。どこにするの?」
「うーん、じゃあ昼時に決めようか。あと、5分で先生帰ってくるし、あと35分で昼休みだよ」
「そうだね、って、トイレ行かないの?」
「行くよ……」
 何でトイレを理由にするように昨日決めたのだろう、恥ずかしい……。

 土曜日
 八時五十三分。
「待ったかな」
「待ってないよ、五分前に来ただけだよ」
 初めての嘘です。僕は彼女を傷つけない為の嘘は許されるものだと思っています。自分の為に吐く嘘は嫌いですし、吐かないようにしたいです。彼女に対しては絶対に。五十六分待っています。待たせる事なんかできる訳が無い。彼女は大切ですし、なんか困ったことが起きたら、洒落にならない。大切という価値観は祖母と彼女にしか向けた事はない。
「嘘でしょ、顔が五分待ってるような感じじゃなかった」
「顔って、また変なフューチャーの仕方だな」
「まあ、これは嘘。顔どう考えても5分だったよ。答えは横に置いてる、缶コーヒー」
「うん?」
「湯気出てないもの。自転車だから運ぶのはおかしいもの。だから、そこで買った。そして5分以上待ってる」
 反論は出来ました。「5分でも冷めるだろ」とか「正確に5分ではない」とか。でも、それが彼女の望んでいる方向じゃない。
「ああ、待ったよ。ごめん、嘘吐いた」
 彼女は目元を緩めました。
「嘘は、ダメ。本当の事を言ってよ、何でも。堂嶋君が約束の5分前に来るような人間じゃないのは分かってるんだから」
 何でもお見通しか。まあ、嬉しいけどさ。
「ああ、言うとおりにするよ。僕の伊川さんに対して悪い事なんかする訳ないからね。さあ、行こうか」
 なるべく、お金の掛からない所に。彼女には前もって金は要らないと言っています。ただの店巡り。奢ることもできるのです。だけど、それが彼女の幸せでは無い可能性もある。僕の金がバイト代とかならまだしも、殆ど祖母の金だったら、僕の彼女への尽くしにはならない。使った所で、これは流用で偽りの愛情に過ぎないと僕は思うのです。だから、短期のバイトをしてきたのですけれど。ああ、高校の罰則に反するし、気を遣わせない意味でも彼女には言えません。まあ、そういう意味では僕自身の自己満足に過ぎない程度です。
「じゃあ、最初は本屋でも行こうか」
「うん」
 好きな女の子と自分の好きな本屋を巡るのは、なんて素晴らしい事なのでしょう。結局、昼ご飯時に何も決める事の出来なかった僕は、集合時間と場所だけ決めておいたのです。好きな人と最初に行くのは此処と決めて。
 少し前に、言っていました。「私、本買った事ないんだよね……」
 全て図書館、図書室で借りて……の知識。僕は悲しい。何か欲しい本があるけど、でも彼女は耐えていたのではないでしょうか。彼女ほどの文学好きなら絶対にそうです。
 買ってあげたかったのです。僕が、最初に優しくしたかったのです。僕はモノを買う位しか分かり易い恋愛の指標が分からない。薄っぺらいのかもしれません。でも、祖母の愛しか分からない、僕にはそれぐらいしかできないのです。だから、本屋を選んだのです。
「あっ、宮部みゆきの新作だ!」
「英雄の書か、面白そうだね。まだ、図書室には来てなかったよね」
 たしか、半年ぐらい前に出た作品。まだ、僕も見ていないのです。
 その後も色々見ました。漫画を見たり、参考書を見たり。彼女が持っていない参考書を僕が持っていたのが、今更分かったので、渡す約束もしました。腕時計を見ると、もう二時間経っています。早い、時間が早すぎる。今日だけ二十四時間で無ければと思うほどに。
「もうそろそろ、出ましょう」
「うん。でも、トイレ」
 何でも、僕は理由付けにトイレを使う主義なのかもしれない。どんな、恥知らずだって話ですが。
 彼女もトイレのようで、僕は速攻で終わらせて、宮部みゆきコーナーに行きました。「英雄の書」を二冊会計へと運ぶために。急いで走りました。レジへも、トイレへも。彼女が待っているのは確実だから。
「どこに行ってたの? 何か買ったの?」
「英雄の書。伊川さんの一冊も」
「えっ、良いよ……悪いし。払うよ」
「全然悪くない。二冊買ったんだよ、伊川さんに貰ってほしい為に。貰ってくれた方が嬉しいよ」
「……うん、ありがとう。嬉しいよ。私読むよ。大事にするよ」
「僕も嬉しい。伊川さんが貰ってくれて」
 ちょろりと当惑を招いた感はあります。会話が少し遅れているし、慣れていないのかもしれません。僕も彼女も。
 店を出ると、次の行先が決まっていない事に二人ともが気付きました。どうしようか。僕としてはこれで任務終了なのですけれど、少しは長く居たい。この雰囲気は、不思議なものです。離れたいという圧する感も有るけれど、それ以上にこの距離を離れたくないという不変を求める感もあって。
「伊川さん、行きたいところとかあるかな」
「特には無いかな……」
「僕もそうだ。とりあえず、駅前に行こうか」
「うん、でも先に弁当食べよ。駅前じゃ食べられそうなトコないよ」
 僕らは弁当を持ってきていました。飯も奢ることは出来ました。だけど、それは本以上に露骨だから避けました。まあ、それはさておき、それを食べられるような公園的な環境は中々、駅前には存在しない。時間も十二時近いし、彼女の方が正しいです。
「ああ。そうしよう。公園って、十分ぐらい漕げばあるかな」

 梅雨の湿り気は一週経てば無くなるもので、僕の毛嫌いしていた公園の苔じみた香りを引き立てる湿気は無くなっていました。出来れば、僕は公園には来たくありませんでした。僕は公園で遊んだことはもう記憶から除外しようとする程でしたので。とはいえ、演技と彼女への愛情で乗り切れると、そう思い込んで。
「あ、今日も一段と伊川さんの弁当おいしそうだね」
「本当? 何でも食べていいよ」
 三つあった唐揚げを一つ貰いました。美味しかった。彼女がいるなら、トラウマなんて全て忘れ去られるのではないかという期待を抱く程に。
「美味しいよ、とっても美味しい。最高だよ。良い奥さんになりそうだね。ずっと食べて居たいよ」
 うん……、沈黙が続く。なんか可笑しなことを言ったかは分からない。彼女は無言が辛かったのでしょう、ゆかりで紫に綺麗に染まった、おにぎりを食べました
「何か悪い事、言ったかな」
「……。今日は天気が良いよね、堂嶋君……」
「何言ってるの……曇りじゃないか」
「堂嶋君には、これが曇りに見えるの?」
「気象学的に言うとだけどさ」
「やっぱりね。これは、だから晴れっていうのよ」
 訳が分かりません。全部ではないけれど、雲が九割近い。確実に曇りですと、僕は……。ああ、そうか。僕は光景をもネガティブに見てしまうのだ。
「晴れだね、君が正しい」
「……好き。堂嶋君のことが好き」
 好かれていたのか……。僕なんかを好きにならない方が幸せだと思うのですけれど……。そのような事な綺麗事を思っても嬉しくて仕方ない、体が火照りました。
「僕も好きだよ、前から」
 歯止めなんて利き様がありません。好きな子に好きと言われ、何も言わないなんてありえない。僕としては、一番且つ、唯一の友達として彼女を支えていくという、都合の良すぎる設定を抱いていましたけど。
「……。言わないんだね、両想いだったら……」
「ああ、付き合って欲しい。一生大事にするよ。君しか好きにならない。絶対に。」
 浮気は僕が最大に嫌っている行為。彼女という存在が出来て余計に。
 彼女はボロボロと泣き出しました。声は一つも出さず、要は嗚咽出さず……。彼女の涙には一つの異成分も含まれていない真水の様に、何の障害も無く流れて行ったのです。
「ごめん、なんか悪い事を言ったみたいだね」
「違うよ……。貴方を好きになって良かったと思ったの」
 僕と彼女は似ている。似ている女性が好きなんて、僕はナルシストなのかな。元来はそうかもしれない。でも、今はそうではないのです。自分を嫌い嫌い生きて行くのです。
 僕は幸せに浸っていました。僕はもうトラウマの事を完全に忘れ去っていました。この公園ではありませんが、公園の木陰での惨劇を。
 弁当を食べ終わり、全て綺麗に。彼女も僕の作ったポテトサラダを食べてくれて。
「どこに行こうか」
「映画とか? 私2千円なら持ってるし」
「何か、やってるの知ってるの?」
「えっ……知らない」
「まあ、観に行けば分かるよね。でも、上映開始時間は分からないよ」
 妙な雰囲気です。付き合い始め。更に僕は映画に誰かと見に行ったことは無いのです。僕は他人が五月蠅ければ集中できず、良作であればあるほど、心底で憤怒する気性を持っていました。でも、彼女とならばそれは無いでしょう。ドラえもんとか懐かしいね。夏にはしてないけれど。

 映画を観終わった。感動しました。涙が出はしませんが、僕と彼女の未来を助けるような内容だったからです。題名はブライト・スター。主人公は隣の子を好きになる。貧乏で、もっと言うと結核だから簡単に気持ちを伝えることができなくて……かたやお手伝いに妊娠させるような屑が居た……。本当にいい作品を選びました。こうはさせたくないという意味で、いい作品でした。
「良い作品だったね」
「……」
 彼女は泣いていた。買っていたポップコーンが異常に減らないと思ってはいたけれど。そこで僕は腰を少し上げ、彼女の涙を手で拭った。
「ありがとう……」
「僕はずっと君の横に居るからね。君の望む限りは」
「私も、貴方に愛想尽かされない限りはね……」
「じゃあ、一生だね……。僕は貧乏にならないし、君にさせない。君に愛想を尽かすなんて一番無いよ」
「うん。私は信じるよ。ああ、もう人が居ないね……。そろそろ、出ようか」
「ああ。そういや、リアル鬼ごっこ見なくてよかったの?」
「一言多いよ! 堂嶋君!」
 二人は歩きながら、笑っていました。僕の恥ずかしさからの冗談と彼女は分かっていたのでしょうね。これが永遠に続けばどんなに幸せに生きていけるのだろうか。

 彼女と付き合い始めて、三ヵ月。何か前進しましたかと、問われると……。ですが、それが僕にとっての最高です。手は握りました。それで良いではないですか。彼女もそれ以上望みませんよ。
「今日、私の家に来ませんか?」
「親御さんに、挨拶しろって事かな?」
「親は今日居ない。だから来てって言ってるのよ」
 なんとなく展開は読めていますが、やっぱり親は碌な人間ではない……。彼女にとっての恥でしかないのでしょうね。
「ああ、行くよ。初めてだし、行きたいね」
 学校終わりに買い物をして、家に行くというね……。高校時代の好きな女の子の家に行く感じではないです……。
「今日は、何食べたい?」
「伊川さんが、好きな食べもので良いよ」
「それは、一番困るよ。じゃあ、親子丼にしようかな」
 彼女の住むアパートは古くなかった。いやむしろ、綺麗で新しかった。家賃は幾らだ……。
「はい、入って」
「お邪魔します……」
 中も綺麗だった。彼女の気性を表している部屋です。だけど、一部的に汚い。コスメ。彼女の使う訳のない、化粧品類が乱雑に化粧台に置かれている……。その対照がキッチンです。あからさまに、調味料が綺麗に並んでいる。同一人物ではない……。そして、男がいない……。
「じゃあ、座ってて」
「手伝うよ。僕も料理出来るんだから」
「うーん。じゃあ、卵割って」
「舐めてるよね、僕の力量舐めてるよ!」
 彼女はいつもの、綺麗な笑顔になった。僕だけに見せるであろう、その笑顔に。
「そうじゃないよ。堂嶋君にそれ以上、させられないの」
「ありがと……」
 無性にキスがしたくなった。これまでもしたくなかった訳では無くて……。僕なんかがしていいのかっていう、彼女の被害を考えると出来なかった……。いや、今日も出来ない。これを考え付いた瞬間出来ない事は確定していた。僕は卵を割ると、リビングに戻った。
 深いため息も吐く事は出来ません。彼女が横にいますから。ですから、前に出された意味深長な問題について考える事にしました。世界史の授業なのに「生存競争」が単語として出てきて、僕に英訳しろと仰いました。僕は知っていましたが。単語は、英語の教科書で習っていましたし、余裕ですね。
 The struggle for existence
「もうすぐできるよ、堂嶋君」
 彼女の料理する姿なんて初めてでした。だから、普通ならじっと見ようとするでしょう。だけど、それは不幸な彼女の過去を眺めているようで。ずっと、電源の入ってないテレビを眺めて呆然自失に考え事をしていたのです。
「出来たよ!」
「頂きます」と二人で言い合うと、まるでもう結婚しているようで。幸せで。思わず、頭を傾けて彼女を見つめて、箸を取るのを忘れてしまいました。食事を祖母以外に作ってもらうのは初めてです。
「今日も美味しいよ、伊川さん」
 彼女は流した目で、頷いていた。ああ、清楚な彼女とは真逆な母親像しか僕には浮かばない。雰囲気を壊すのは承知でした。でも訊かなければ、何も知らない気がして。
「親は仕事何やってるの?」
「……。クラブのママ……」
 よくよく、見れば化粧品は若い人が使うものではない気がする。Rich and smoothly……アイライナーか? 分からない。アルビオンエクサージュ? それと、プリマヴィスタ……。ミラコレ? ドライヤーもナノケア……。
 僕の事は話すべきじゃないかな……。でも、この時しか話す機会はなさそうで。
「僕もお祖母ちゃんだけでさ……」
「やっぱりおんなじような感じだったんだね」
「愛してるよ、僕は伊川さんだけを愛してる」
 彼女は瞳を涙で光らせて、優しく見つめ、間合いを詰めて。
「ごちそうさま」
 僕は手を合わせた。食事の途中にするべきじゃないと思ったからです。彼女を柔らかく抱きしめた。
 キスをしました。彼女は僕が近づくと目を閉じた。僕は目を閉じるべきなのか、開けて見つめるべきか。よく分からない……。でも、僕は彼女を見ていたかった。だから開けたままで……。

「僕なんかで良かったの?」
「よくなかったら、好きとは言わない……」
「キスの時の顔、とっても可愛かった……」
「えっ! 目を開けてたの?」
「うん」
 おなかを殴られました。
「卑怯だよ……」
「怒ってる? 次からは目を閉じるよ」
「そういうんじゃない」
 可愛らしいなって僕は思いました。もう一回キスしたいなって。だから、みんなキスをするのでしょうね。僕はこれまで理解にずっと苦しんでいましたけれど。
「もう一回していい?」

 家には、祖母が待っている。それにこれ以上の滞在は怖い。普通なら居たいと思うものでしょう。だけど、僕は違う。彼女と夜は過ごしたくない気持ちもかなりありまして。
「帰るよ」
「……。分かった。今日はありがとう」
「こっちこそ、ありがとう。美味しかったよ。何回言いてんだって話だけど。僕のファーストキスを君と出来て良かった」
 満面の笑みで言いました。彼女も、満面の笑みで。
 僕はドアを閉じた。階段を無気力に降りました。誰も理解は出来ないでしょう。この気持ちは。僕もキスをした時はとっても嬉しかった。二回目をしたいと思うほどに……。しかし、時間が経つと……そうはいかなかった。
 自転車を漕ぐと自責しか無くて。辺鄙な町で良かったと思いました。自責の罵声を大声で出しても、迷惑にならならないので……。
 僕は彼女に自分を守るための嘘を吐きました。僕はファーストキスという素晴らしいモノではない。『君とファーストキスが出来ればよかった』なのです。それは絶対に……。僕は残暑を感じない程に体温が下がっていました。言えるのが、僕に恋人が居たことも、売春婦を買ったことも無いという事です……。醜いのだから居る訳もないけれど。こんなに涙が出たのは六歳以降無いかも知れない。喉が雨で濡れたように一面が冷めて、もみあげが涙で浸って……。僕に勇気があったら、車に飛び込むのに……。でも、それは出来ません。夏の綺麗な星月夜を見て、心を騙して生きていきます。

 大学というのは怖いものですね。
 僕は結局、望みの大学に受かり、彼女は、横浜国立に受かって、僕に付いて同居する様になったのです。
 彼女にも友達が出来たようで。いえ、僕の時間が削られて悲しい訳ではなく、交流から生まれる知識というのがあるのでしょうね。
「何で、寛孝くんは最後しないの……?」
 彼女はずっと、可笑しいとは思っていたのでしょう。同じベッドで寝て、キスを毎晩して……しない。可笑しいよね。同じベッドでの生活が半年続けば気付くか……。
「危険だから……子供が出来たら、まだ育てていける経済力は無いし」
 これは、正論ではないですか。経済力も十分でない今、妊娠させることは出来ない。経済力もなく、結婚する気もなく性行為をしている人間は屑だと僕は思っています。親御さんに挨拶をして、結婚の意志を確認するのが僕の中での普通です。僕は性欲で彼女と付き合う塵ではない。彼女への愛情で付き合っていると信じている。少なくとも年収五百万は無いと彼女を十分な幸せには出来ない。だから――。
「避妊すればいいじゃない、出来ても……」
「でも、ゼロではないでしょ? 中絶は論外だよ。君を傷つけたくはないよ」
「したくないの?」
 正論が出てしまった。僕はしたくなかった。幾ら理論武装したところで、そこに辿り着かれては終わりです。多分に彼女を傷つけたくないという理由も含まれている。しかし、ならば完璧な避妊で十分な訳で……。僕に性欲は無い。かつて中学生の時にAV女優の名前を知っていると、僕は持て囃されたこともあった。しかし、それはただの記憶力の問題で、作品なんて見たことも無い。興味すらないのに時間を使う馬鹿がどこにいる。今の時代、ネットで調べれば、どんな演技力か……どんな金に目の眩んだ売春婦か、とかは分かるものです。見ただけで吐き気がするだろうものを誰が見るか。真逆を演じるのは辛かった。
「……。君はしたいの?」
 僕は出来る事なら、このままで流れて欲しかった。
「……したいよ」
 僕と彼女の初めての決定的な違いだった。それは違って当然な訳で。これが同じだったら、子孫は生まれません。心の中で一笑しました。
 どう返答するのが一番でしょう。本当を語るのが一番ですか。いえ、彼女に不幸を背負わすのは選択肢に無かったのです。先延ばしにしたかった。ずっと、ずっと。
「しようか。したかったよ、ずっと前から」
 でも、こうでもしなければ、もう駄目な気がして。そして、また嘘を吐いてしまった。
「僕は結婚の意志が有るよ。祥子ちゃんは……」
「あるよ……」
 これは嘘じゃない。

 何をすれば「それ」なのか分からない。単語は知っているが、動画は見た事は無いし……。だけど、完全に知らない訳では無い。全ての記憶がなくなる程の良心的な脳の構造はしていないから。やられたことも忘れていれば、幸せだったのに。いや、でもトラウマはあるのかな……。
「服脱がせるよ……」
 少し気持ちが悪い。結局同じことを僕はやっているじゃないか……。彼女は頬を赤らめた。「したい」って言ったのは本当だと確認して、もう止めたくても止める事は出来ません。逃げたい。
 キスを繰り返して。それで出来る事ならば止めたかった。耳元を舐めて、喉を舐めて。吐息が何処に向かっているか、理解する事も放棄して。心を正常に。いつものように、接して。
「……寛孝くんは服脱がないの?」
「あっあぁ、そっそ……そうだね……」
 服をゆっくりと脱いだ。それは恥ずかしさか。いえ、違います。面倒だと思って彼女に途中止めにして欲しかったのです。それが最善という事が分かり始めました。
「全然だね……私って魅力無いかな……」
 萎えていた。性欲が無いのだから当然だ。演技ではどうしようもない……。
「ごめん……祥子ちゃんの所為じゃないよ。君が好きなんだ。それは信じてよ。僕がダメすぎるんだ……」
「私の事、気を遣わなくていいよ」
「違う。僕の所為だ。本当にごめん」
 彼女に服を着せて、僕は服を着て布団を被せた。こんな人生を宿命づけられるって、僕は前世で何をしたのでしょうか。彼女は傷ついたでしょう。こんなんだったら、塵人間の方が……。直ぐにsexしたがる人間の方が魅力的に見えるのかな……。ああ、死にたい。自分の事ばっかり考えて、相手の事を考えない屑の方が彼女は幸せなのでは……。下らない考えが頭を過りました。何故このように生まれてきたのか、そして何故あの公園で遊んでいたのか、最後に、何故僕は襲われたのでしょう……。
 タラレバで世界が廻ればどんなに良かったのでしょうか。僕が全て悪いのです。僕は、女の子に生まれていれば良かったのです。祖母はそう願っていたようでした。ですから、僕は女の子の様に育てられ、服も女の子モノでした。まつ毛も長く、後ろ髪も長く、目も大きく、言葉遣いも丁寧で、女性らしかったのです。人から「女の子」と間違われるほどに。はははっ、下らないね。今更言い始めて誰が信じるというのか。彼女も信じやしないさ。言いたくもない。別れた方が彼女の為だよね……。でも、一つ問題が有って。彼女の家賃です。お金だけ出したい。僕に出来るのはそれだけだから。僕は彼女の口座番号を知っているから、振り込めば使ってくれるよね。ああ、まだ嘔吐しなくて良かった……。

 僕は目を閉じても、昨日は寝ることが出来なかった。僕は昔から不眠症気味ではあったけど……。彼女もいつもとは違い、眼光が光っていた。
「昨日は、祥子ちゃん寝れなかったのか?」
「寛孝くんもね……」
 僕が普通の男だったら有りえない彼女の悩みなのでしょう。浮気の悩みとか、別れた悩みとか、中絶の悩みに比べれば……なんて、思う事は僕には出来なくて。
「僕は君には相応しくないよ。出来ない身体なんだよ、僕って。振ってよ、お前なんか大嫌いってさ……」
「…………。そんなこと出来ないよ……。訳を話してくれる? 嫌だったらしゃべらなくても構わないから……」
「喋ったら、祥子ちゃんが気分悪くなるだけだよ……」
 僕は意志が異常な程に弱かった。別れてしまえば、彼女は傷つかなかったのに。別れようと言い出す事も出来なかったのです。本質的には別れたくなかったのが一因ですけれど、僕は卑怯です。彼女に重荷ばかり背負わせてしまって。
 僕は話してしまった。公園でレイプを受けた事を。

「精神科に行こう、寛孝くん……きっと、良くなるよ! そう信じて、頑張ってみよう」
 彼女は本当に優しかった。誰よりも。これまで、誰にも言えなかったことを初めて言えた彼女。他の人だったら、こんな事言ってくれるのかな。言ってくれないよね。彼女で良かった……。
「うん、行くよ」

「……僕は、六歳の頃にレイプされて、そういうのが怖くて……」
「私も。私は、登校中にレイプされて……狸寝入るしかなかったけどね……。へえーでも男の子が珍しいね! お医者さんも経験無いんじゃないの」
「はい、診察受けた先生は無いって仰ってました」
 頷く人もいれば、悲しむ人もいて。
「じゃあ、次の人は」
「私は、社内いじめの時にセクハラとして受けてしまったかな……」
「えげつないこと、やるな! ぶっ殺してやろうか。そのいじめの主犯教えてくれたら殺してあげる」
「ストップ……」
 殺してあげると言った人は本気の気がするのだけど気のせいか。感情的な言葉、だけど、哀しくて。
 これは、レイプ被害者の人を集めた話し合いです。所謂、僕の病気はPTSDという精神病だったらしく、これの治療法は、同様の人との接触が一番と言われました。
「でも、堂嶋さんは男性だからね……」
 精神科の医師に言われ、悩みました。
 男が女性ばかりのレイプ被害者の人と関わって大丈夫なのか。僕に効用はあるのか。でも、男のレイプ被害者って日本でそんなに居るのかな。
 ああ、治したい。彼女を幸せにしたいですから。
「あなた、治ると良いね」
「はい! 頑張ります!」


 八年後
「祥子、頑張れよ」
「……うん!」
「はい、息吸って下さい! ひっひっふー」
 彼女は真面目にラマーズ法をやっている。彼女らしい。彼女は立ち会わなくても良いとか言ってくれたけど、僕は立ち会いたい。血が出ようが関係ないさ。立ち会うとその後、夜の生活に支障が出るとか言いますけど、僕には関係ない。彼女の痛みは分かつことは出来なくて、僕は支えるしかできないのだから。
「頑張れ、祥子」
 彼女は痛そうでした。心が痛む。痛みを半分僕に分けることが出来ればと思うくらいに。
「祥子、頭出てきたぞ!」
 こんなにも出産って感動するのですか。まだ、頭しか見えていません。しかし、もう見えているのです。僕は彼女の頭を撫でた。
「頑張っているよ。祥子とっても頑張っているよ」
「うん……はぁはぁはぁあ」
 助産婦の人が横で彼女をケアする。彼女は凄まじい量の汗を掻いていて、それでも熱は逃せなさそうで……。女性って尊敬するよ、本当に。僕はなんて流暢な事を考えている。後から、謝らなきゃ。
 赤ちゃんの頭が見えてからは、彼女は少し楽になったようです。お医者さんの頭が一番辛いっていうのは正しかったようです。
「あと少しですよ、堂嶋さん」
 彼女の吐息が安定に向かって行って、もう肩も出てきている。もう、顔も見えている。可愛い……。
 幸せだ。幸せだ。幸せだ。

「祥子、生まれたぞ」
「堂嶋さん、おめでとうございます」
「はい……」
 彼女は泣いた。僕も泣いていた。彼女は綺麗な涙です。堂嶋祥子は可愛いよ、世界で一番。性格も顔も全部。
「ありがとう祥子。愛しているよ」
「うん、わたしも……」
 時間は掛かったけれど、不可能なんて無くて――。


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