僕がモンスターになった日
のびみつ


「だって、自然に反してるやん」。そのひと言は凶器だった。

 今日も日が沈む。車がせわしなく行き交う。日中の暖かさがやや残り、けだるい気分だった。僕は大学が終わってから岡山駅東口の噴水前で友人の角田(すみだ)と待ち合わせた。桃太郎像には相変わらずハトが数匹とまって休んでいる。ハトはのんきでいいなとフッと笑った。
 どうしてもこの気持ちを誰かに打ち明けたかった。ひょっとしたら独りよがりかもしれない。けれどもそれ以前に自分自身の心がもたなかった。最近は大きな希望と一抹の不安をもって入学してきた新入生たちがキャンパスを闊歩している。まさに輝いている。在学生たちも新入生を必死にサークル勧誘しようとパワーがみなぎっている。そのテンションについていけなかった。
 いや、正確に言えば僕も日中は新入生を必死に勧誘する在学生の一人である。けれども、それが終わると年来の懸案が僕の目の前にふくれあがってくるのだ。そのギャップに耐えきれなかった。
 大平は完璧な人間だった。ゼミの後輩とはいえ文武両道の強者。年来の懸案というのは、僕が大平のせいでひどい劣等感にさいなまれていることである。嫉妬の気持ちもあった。僕はそんな自分が恥ずかしかった。今日はそのことを同じゼミの友人の角田に相談しようとしたのだった。
「やぁやぁこんばんはー。待った?」
 相変わらず眠そうな角田が来る。しかし、この角田になら言えると確信した。ゼミや学部のなかでも、僕は周りから「出来る人」と思われている。そんな僕が、後輩のすごさに怖じ気づき弱っているなんていうことをぺらぺら周りに言いふらすことなど、僕のプライドが許さなかった。しかし、一方で誰かに話したいという気持ちも事実だった。
「眠そうだね。さっき来たばかりだよ」
「俺が眠そうなのはいつもだよ。覇気がないからね」
 このけだるい日に、このけだるそうな角田はぴったりだった。頭上の新幹線ホームには、ひっきりなしに新幹線が入っては出ている。去年の夏にはあの新幹線に乗って、角田たちと九州に行ったっけ……。

 近くの飲食店に入り、夕食をとることにした。店内に入るとそれまでの喧噪が静まり、静かなBGMに落ち着いた。小ぎれいなイタリアンカフェである。
「はて、話とな」
「大平っているだろ」
「うん」
「大平、僕の脅威なんだ。完璧すぎて怖いんだ」
 あとには引けないなと思った。しかし、僕は恐ろしいほど落ち着いていた。
「またすごい妄想を。みんなは児玉のことをすごいと思ってるよ」
「たしかに大平からも僕のことを尊敬しているって言ってもらった。でも、僕はそうじゃないんだ。大平は恐ろしく天才で努力家だ。ゼミで教授が一番ほめていたのが大平だ。テニスでも強豪だ。明るいし完璧なんだ。すごい後輩をもって僕は幸せだけれど、なんか悔しいんだ。悔しいだけじゃない。憧れでもあり妬んでもいる」
 すべてをはき出せないところで、角田が割り込んだ。
「大平ってそんなにすごいんじゃね。でも児玉もすごいよ」
 また始まった、と思ってしまった。僕を認めてくれるのはありがたい。でも、今の僕にとって、それは逆効果かもしれないのだ。
「うーん。そうじゃなくて、大平のせいで僕は劣等感まみれなんだ。自分なんていなくなってしまえと思うこともある。おかしいんだよ。大平が入ってからさ」
 僕は本音を吐いた。角田の顔が深刻になった。
「児玉……お前そんなに思いつめてるのか……」
 自分はおかしかった。自分のプライドを自分で極限まで崩してもなお大平に傾倒するのをやめなかった。それどころか、ますます大平に憧れ、そして同時に劣等感にまみれて自分の首を絞め続けた。
「俺は児玉がすごい奴だと思っている。でも、児玉は児玉で目標を持ち続けているのはすごいと思うな。まぁ、思いつめずに……」
 はて、目標なのだろうか。目標とは達成するために設定するものなのではないのか。だとしたら、これは僕にとっては目標ではない。大平は到底達成できそうもない雲の上の存在である。僕は体が弱い。夏に運動すると熱中症になり、冬に運動すると温熱じんましんが出る僕にとって、運動できる人というのはそもそも憧れの対象である。そのうえ、大平は切れ者だった。とんでもないことを平然と成し遂げては周りを驚かせる超人だった。僕の現状は、到底手の届きそうもないところに対する憧れと手が届かないことによる自己嫌悪、さらには憧れている自分そのものへの自己陶酔といったところが適切な表現といえるのか。
 ――精神的に向上心のない者はばかだ。この言葉がぐるぐると僕の頭のなかをまわる。僕はしばしば僕と大平を「先生」(「私」)と「K」に重ねあわせる。ただ、僕には大平と共通に好意を寄せる「お嬢さん」もいないし、大平はKのように内向的ではない。しかし、僕は心のうちで常に大平を畏敬していた。そして、嫉妬していた。無意識のうちに僕は初めてあの作品を読んだ高校時代の衝撃を思い出した。僕には当時も大平のような存在がいて、その存在と自分がやはりKと「私」に重なったのだった。果たして、僕の自己嫌悪をともなう憧れは精神的な向上心にあたるのか? それは今も分からない。おそらく、これから先もずっと分からない。客観的な正解も不正解もないのだろう。
 角田は相変わらずのほほんとした表情をしながらも、心配そうな視線をこちらに向けている。角田以外にはこのことを誰にも打ち明けていない。聞いてくれるだけでも本当にありがたいと思った。角田なら信頼できる。そう思ったとき、角田が思わぬことを口にした。
「ひょっとしたらさ、児玉って……あれなのか?」
「あれって何」
「同性愛。お前、同性愛じゃないのか?」
 ドウセイアイ。時間が止まった。静寂が訪れた。自分の中の何かが吼えた。
「ま、まさか。僕は女の子にも告白したことがあるんだぜ? フラれたけれど。第一、恋だとしても、そこまで神格視のようなことをするか? そこまで劣等感まみれになるのかよ?」
 僕は全力で反論した。僕がかなりきつい口調だったのか、角田は目を丸くして驚いている。こんな角田の表情を見たのは初めてかもしれない。
 

 角田と別れてから、僕は歩いて自宅に向かった。清心町の歩道橋から国道五十三号線の跨線橋をぼんやり眺めた。すっかり夜になっているために寒さが肌にしみる。多くの車が跨線橋を渡ってこちら側に向かってきている。無数の白いライトの動きをぼんやり見ていると、先ほど衝撃的な言葉を言われたことが夢なのかうつつなのか混乱してくる。
 僕は先ほど強い口調で否定した。しかし、否定して忘れるのではなく、むしろ言われたことが自分の中で忘れずに強く意識され続けていたのだった。
 僕には恋愛がよくわからぬ。今までもよくわからなかった。けれども、お嫁さんに恵まれ、憎たらしいけれどかわいい息子や娘に恵まれ、幸せな家庭生活を自動的に送ることができるものだと思っていた。僕は平凡だ。特段良くもないけれど、悪くもない。だから、多分にもれず平凡な会社に就職して、平凡な家庭生活ができるだろうという予期は自分の中では自然なものだった。平凡なみんなにとって自然なのだから、僕にとっても自然だと。


 ――僕は、同性愛者かもしれない。一瞬頭の中でもう一人の僕がささやいた。いいや、違う。僕は数年前、それはそれはかわいい女の子に告白したんだ。当時はドキドキしたんだ。
 でも、それは単なるかわいいで終わった。周りのみんなが盛り上がるような低俗なものには全く興味がない。プラトニックといえばプラトニックだった。しかし、僕は決定的なものを見落としていた。それに気づいたとき、何かが崩れ去った。なにもかも、思い描いていた現実がすべて幻となった。
 ――僕は、同性愛者だ。もう一人の僕がまたささやく。いいや、一時的な気の迷いだろう。いつかきっと、女性を恋愛対象として好きになれるだろう。僕の弁明が明らかに苦しんでいた。否定したいのだ。でも、否定できる確固たる証拠がないのだ。一時的な気の迷いだと思い込みたいのに、気の迷いでないときが思い浮かばない。
 冗談じゃない。僕が同性愛者だったら今後の人生計画が大きく狂ってしまうではないか。僕は単なる平凡な人間じゃなかったのか。苦労もあまりせずに、目立たずにひっそりと生きていきたいよ。
 大平。この名前が一気に浮かんできた。いいや、違う。そんな簡単な言葉で片付けられるものではない。僕の大平に対する思いは、とてつもない憧憬と一種の神格化、自己嫌悪・劣等感と、それらに陥る自分に対する陶酔であり、とても「恋」のひと言で片付けられる簡単な問題ではないのだ。この謎は一生かかっても答えが出せない。これは僕が一生をかけて答えを見つけていくべきものだった。そんな簡単に答えが出てたまるか。

「そのときずっと解けずにいた謎の答えが分かった」。どこかで聞いたことのある言葉が脳の中に響いた。決定的であった。
 自分で自分に気持ちが悪かった。死にたかった。大平に対してこれほど崇高な手の届かぬ目標を設定し、自分で自分を苦しめながら、でも日々邁進していた。それなのに、一気に単純な、そして周りからは差別・偏見の対象となるような事実が僕自身にべっとりとまとわりついているのだ。自分自身、「そっちの人」をかわいそうだと思っていた。今や自分が「そっちの人」なのだ。「そっち」じゃない。もう「こっち」だ。
 まさか自分が。信じられなかった。自分は生まれたときは日本人だ。それが実はアメリカ人だったことが今分かった。……そんなショックだった。「自分に限って、それはない」。今となっては空疎な言葉である。
 

「僕さ、やっぱり……同性愛者だった」
 数日後、小雨が降る日の夕方、僕は角田に打ち明けた。
「そうなん。マジなのか」
「うん」
「俺を襲うのはやめてくれよ」
 血の気が引いた。それを最初に言うのかと思った。第一、僕が深刻そうな表情と口調をしているのは誰から見てもわかるのに、それを言うのかよ。僕は誰にでもかみつくケモノではない。
「俺、そんな趣味ないから」
 僕はしばらく何も返事できなかった。角田が豹変したと感じた。これは本当に角田なのか? 角田の顔をした化け物にしか見えなかった。「こっち」の世界というのは、趣味でなれるものではない。僕は問い質した。
「どうしてそんなに変わるのさ。角田だって疑っていたじゃないか」
「あれはほんの冗談のつもりだった。けれど、児玉が本気にとるから……」
 僕は冗談に翻弄されたのか。いや、冗談が真を突いている。角田があの冗談を言わなければ、僕が同性愛者だと気づくのは遠く先のことだっただろう。
 角田はしかめ面をしながらさらに言う。
「悪いけれど、児玉、もうお前とは一緒にはいられない。ホモは消えてくれ」
 これほど角田を悪魔だと思ったことはない。
「どうしてさ。たしかに驚かせたかもしれないけれど、僕は僕なんだ。ゲイだからといって、別人になったというわけじゃない。第一、角田なんかは対象じゃない。角田だって、女なら誰でも例外なく全員好きになるのかよ? 違うだろ。同じことだよ」
「ふーん、たとえ児玉が俺を襲わなくても、俺は児玉をおかしいと思うぜ」
「なんで」
「だって、自然に反してるやん」
 そのひと言は凶器だった。大切だと思っていた友人を、失った。

 
 自然に反してる――。僕は自然ではないのか。こんなに平凡な生き方をしてきて、自然ではないのか。自然とは何なのか。
 男と女、オスとメスのまったく異なる生き物が必ずもう一方の性を好きになるのが絶対なのだろうか。自然に「絶対」なんていう言葉はあるのか、疑問だ。
 男と女だけ? 僕が入っているこの大学の病院で日本、世界をリードする先進的な研究が行われている性同一性障害をどう説明するのだろう。からだの性とか自分が思っている性とか、好きになる性って境界があるものではないと思う。自然に境界など存在しない……それは人間にとってもあてはまるのではないのかな。
 雨がやんできて、雲の隙間から沈みかけの夕焼けが少しだけ顔を覗かせた。大学デビューに疲れた新入生たちが集団で自転車に乗って南北道路に向かっていった。夜からおそらく新歓イベントがあるのだろう。……ふと思った。昼と夕方と夜の境界っていつだろう。今の状態を夕方と言っていいのか夜と言っていいのか曖昧だ。
 自然は曖昧でいいと思う。なぜならば、曖昧なのが自然だから。自然に絶対は存在しないもの。
 たしかに僕は少数者だ。でも、多数者だから正しくて、少数者だから間違っているのだろうか。正しいとか間違っているの世界ではないと感じざるをえない。

 角田という一人の大切な友人を失い、僕は打ち明けにくくなった。
 マンガの世界では僕らのような同性愛を描いたものが一定数売れているらしい。僕の知り合いにも、そのようなマンガの収集に情熱を燃やしている人を何人か知っている。ネタとして笑えるような顔文字で作られたキャラクターもできているらしい。でも、果たしてそういう人たちに、僕のような苦しみを真剣に考えてくれる人がどれくらいいるのかわからない。そのようなマンガを垣間見たこともあるが、耽美にしか描いていなかった。ひょっとしたら、そのような知り合いに僕のことを打ち明けても、案外角田のような反応しか返してくれないのかもしれない。

 世の中には当たり前とされていることがたくさんあるけれど、その当たり前の実態はもろい。当たり前の陰にものすごく大きなものが潜んでいることもたくさんあるのだろうね。
 角田と僕の縁はすっかり切れてしまった。しょせん、その程度の仲だったと思うことにした。辛いこともあるけれど、僕はこれからもマイノリティなりに泥臭く生きていこうと思う。いわゆる当たり前が通用しなくても、通用しない人ならではの考えや価値もあると思うから。
 でも、僕は自分が同性愛者であることを他の人に言うことはまずないだろう。言って得することなどほとんどないから。僕はそうしてひっそりと生きていく。「好きな女性のタイプ」をムリヤリ設定して飲み会での女性に関するトークをうまくかわしながら。みんなが「当たり前」と信じて疑わない常識を疑いながら。


 自覚後、初めて大平に会って話したとき、僕には大平がますます輝いて見えた。どうすることもできないミスマッチを飲み込み、もはや大平を神格化するしかなかった。大平が真っ白な歯を出して無邪気に笑ったとき、僕はこれまでの大平をめぐる複雑な感情やKと重ねた必死の分析と、角田の思わぬ指摘、そしてその後困惑しながら考えたことが、頭の中で重なり合って一筋の光になったのを感じたのだった。


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