らぎょう

廻る

 ゆっくりと目を開くと、そこは闇であった。ここはどこだろうか。男は自問する。
 堅い床に仰向けに寝転がっている。視界は真っ黒に塗りつぶされていて、この場所が広いのか狭いのかも定かではなかった。
 闇を見つめながら男はさらに自問する。自分はなにをしていたのだろうか、どうしてここにいるのだろうか。うんうんと唸って懸命に頭を働かせるが、記憶は定かでない。欲しい答えは、雨が降った次の日の朝に出る濃い霧のように、確かにそこにあるはずなのだがつかむことができない。もやもやとあたりを漂うだけでもどかしい思いばかりが募った。
 これでは考えても仕様がないと、男はいったん思い出すことをあきらめた。度忘れしてしまったことというものは、度忘れしたと気付いたときにはどんなにがんばっても思い出せないが、しばらく間を置けば思いがけずぽろっと出てきたりするものだ。
 じいっと目の前の黒い空間を見つめていると、なにやらふわふわと自分の体が浮かんでいるような、皮膚と空気の境目が曖昧になって解け合っているような、そんな落ち着かない感覚がやってきて男は小さく身じろぎをする。瞼をきつく閉じると目の中に光が散って、それで男は落ち着いた。
 自分がなにをしていたか、どうしてここにいるのか思い出せない。ならば、ここはいったいどこなのだろうか。男は手をついて起きあがった。その途端、頭にごつんと衝撃が来た。男はびっくりして上半身を丸め、ぶつかった部分に手を当てた。どうもこの場所の天井はとても低いらしい。たんこぶにならないか心配しながら頭を撫で撫で、男はそう判じる。腰を下ろしていても頭が天井についてしまう。首を曲げたままの格好が辛く、男は再び仰向けになった。
 右手を真横にのばしてみる。冷たい壁に手の平が触れた。左手も同じようにしてみると、やはり壁の感触が返ってくる。頭の上に片手を伸ばしてみる。壁だ。
 男は頭をぶつけないように慎重に起きあがり、腰を滑らせて前へ移動する。足を伸ばすとはだしの足の裏にひんやりとした壁を感じた。
 ずいぶんと狭い閉じられた場所に自分はいるらしい。そう思うと急に閉所特有の息苦しさが増し、男は自ら深く息を吸って吐いた。再び仰向けになり目を閉じる。
 自分はどうしてこんなところにいるのだろうという最初の疑問が再び頭に浮かんだ。じっとしていると、焦りで普段よりも浅く早くなっている呼吸の音が、四方の壁に跳ね返って耳のまわりで響いている。体が浮かんでいるような自分のありかが分からなくなる気味の悪い感覚をどうにかしようと、男は両脇の壁に手を伸ばした。ひやりとした固い感触にほっと息を吐いた。それとほとんど同時に男の頬に冷たい指先が触れた。男自身も不思議なことに、目を閉じていたにも関わらずそれが誰かの指なのだと分かった。 氷のような指が男の頬をつるりと撫でる。それきりなにも起こらないので、驚いて固まっていた男は恐る恐る瞼を開いた。
 男の脇に女がしゃがみ込んで男をのぞき込んでいるのだった。真っ直ぐな長い黒髪、前髪が長くそれが顔に影を落とし、表情はうかがえない。とっくりの黒い上着と長い黒いスカート。そこからのぞく手と足がほの白く闇の中に浮かび上がり、なにもない空間から手足が生えているようでなんとも薄気味が悪い。
 しばらく互いに無言で、女は男をじっと見、男は女をじっと見ていた。数分か数時間なのか男には判断が付かなかったが、いくらか時間がたった。音もなく女が立ち上がった。先ほどまで狭く壁に囲まれた場所にいたのにおかしいと男は思うが、さらにおかしなことにはずっと触っていたはずの左右の壁にふれることができないのだった。きょとりと眼球を動かしてあたりの様子を伺ってみるが、そこに闇が広がっていることには変わりがなかった。
 女は立ち上がって、先ほどと変わらず男を見下ろしていた。男も女を見上げた。その肌の白さは闇の深さと相まって益々目に焼き付くようである。女の胸に落ちた髪の一房がくるりとうち向きになっているのを見て、男はふと己の伴侶のことを思い出した。男の妻はいつも髪がうち向きにはねていたものだった。短く切ったときなど横の髪が頬のまろやかな線に沿って、頭がまん丸に見えた。
 ひとつめを思い出すと、ふたつめを思い出した。娘がいるのだった。自分の娘ながら色白の器量の良い子で、男は蝶よ花よと育てたのだった。ふたつめを思い出すとみっつめを思い出した。母親に似て体の弱い娘は病気がちで、結婚してからも入退院を繰り返していた。その間、仕事で多忙な義理の息子のかわりに孫の面倒をみていたのは男だった。目に入れても痛くないほどに可愛がっている娘と孫のことを思い出した男は、無性にこの暗闇から出たいと願った。
 でたいのでしょう、と聞こえた。男ははじめ自分の幻聴だと思った。その声があまりにも自分の考えを読んだようであったからだ。その上とてもか細い声であったからだ。
「出たいのでしょう」
 か細い声ではあったが、先ほどよりは張った声だった。影が落ちる女の顔の、薄い唇がゆっくりと動く。男は仰向けのままうなずいた。
「これから私があなたを案内しますが、いまから言うふたつのことは決して違えてはいけません」
 男はうなずく。
「まずひとつ、私がよいと言うまでは私の手を離してはいけません。そしてふたつ、私の手を離したら振り返らずに行かねばなりません」
 男は頭の中でその言葉を復唱して深くうなずいた。
「それではどうぞ、立ってください」
 男はうなずいて立ち上がった。低い天井に頭をぶつけたのが嘘のように、あっけなく立つことができた。どこまでも果てがなく感じられる闇をぐるりと見回す。本当にここから出られるのかと不安になったが、女が案内してくれると言うのだから出られるのだろう。
 女が差し出した白い手を、男は握った。女の手の冷たさがきんと男の手に染み込んでくるようだった。先に歩きだした女の少し後ろを男は付いて行く。丸い黒い頭が男の顎のあたりの高さにある。女の黒い髪と服とは闇に埋もれてしまっている。男は自分が握っている女の白い手だけを一心に見て、女の後を付いて行った。
 どれほど歩いただろうか。本当に女は自分を導いてくれるのかと男が疑心を抱き始めた頃に、遠くの方に小さな光が見えた。見えた、と思うと女が立ち止まった。男は女の隣に並んで足を止めた。
「私が言ったことを覚えていますか」
 女がそう言うので、男はうなずいて答えた。ひとつに女がよいと言うまで女の手を離してはならない。ふたつに手を離したら振り返らずに行かねばならない。
 女は黒く丸い頭をかすかに上下させ、一歩後ろにさがった。
「私が案内できるのはここまでです」
 ありがとうと男は礼を言った。女はなんでもないと言うふうにいいえと返した。
「それでは、よろしいですよ」
 男はもう一度ありがとうと言い、握っていた手の力を緩めた。手と手が離れてしまう直前に、女の冷たい手に力が込められ、一瞬だけ男の手を握った。ひんやりとした冷たい肌に男の手が包まれたのはほんの少しの間であった。男はよっつめを思い出した。若くして死んだ男の妻は、手をつなぐ時、自分からは握らないくせに男が手を離そうとすると、離れがたいと言わんばかりに手を握り返すという癖を持っていた。男はその癖を可愛らしいと思っていた。
 男は妻の名を呼びながら振り返った。そこに女の姿はなくただどこまでも落ちて行くような闇が広がっているだけであった。刹那、ごうと真っ赤な炎が燃え上がり、熱が男の体をなめる。男はとっさに目をつむって腕で顔を覆い隠した。視界が再び闇に覆われ、振り返ってはならないと言われたのを思い出したのはそのときだった。男の意識は遠く遠くに落ちて行った。

 ゆっくりと目を開くと、そこは闇であった。ここはどこだろうか。男は自問する。
 堅い床に仰向けに寝転がっている。視界は真っ黒に塗りつぶされていて、この場所が広いのか狭いのかも定かではなかった。





 いとこの宗景祐司が亡くなったと連絡があったのは数日前のことである。庭の池に落ちて溺死したのだという。宗景本家の庭にある池は、確かに鯉が泳ぐ立派なものだが、成人を目の前にした男性が落ちてもせいぜい腰のあたりを濡らす程度だ。しかし、いささか病弱の気のあった祐司のことであるから、三月を前にした庭の冷えきった水をたたえる池に落ちて心臓発作かなにかを起こしたのかもしれない。不審死ということでしばらく警察に引き取られていたため、通夜が執り行われたのは昨夜のことだ。
 訃報を父から聞いたとき、彩子は心穏やかではなかった。いとこが亡くなったからというのもあるが、それは要因としては薄い。というのも、彩子と祐司との親交は、互いが小学校に入学する前に途切れてしまっているからである。彩子には、祐司の姉である三枝というもうひとりのいとこがいたのだが、彼女も庭の池に落ちて亡くなっているのだ。当時、彩子と祐司は五歳、三枝は八歳であった。
 宗景家の祖は、江戸時代に興った商家である。それなりに成功していたようで、それは現在の宗景本家の広い敷地にあらわれている。ぐるりと敷地の周りを囲む塀、大きな門、その門をくぐると純和風の日本家屋と鯉の泳ぐ池のある日本庭園。今の家長は彩子にとって大おばにあたる真樹子という人である。彩子がそれなりに成長し物を考えられるようになった時に父親に聞いたのだが、宗景家は基本的には代々長子相続で、生前贈与の形で家を含む遺産を継ぐことによって代替わりしてきたらしい。例外として、長子に家を継ぐ器がなかった場合には、家長が他の親族を指名することもあったそうだ。商家ではそう珍しいことでもないらしい。
 真樹子は優しく聡明そうな女性だが、その真樹子が次期家長に指名しようと考えていたのが三枝なのだという。このことも彩子がある程度成長してから知ったことだ。当時の彩子はそんなことはこれっぽっちも知らなかったし、例え教えられたとしても理解できる頭がなかっただろう。当時の彩子が分かっていたことと言えば、宗景本家に行けば大好きな三枝おねえちゃんと広いお庭で遊べるということだけだ。真樹子には子供が居ないため、自身の子供に跡を継がせることはできないのだが、なぜ甥姪を飛び越して大姪に遺そうとしたのかということについては、これは彩子の考えだが、彩子の父も三枝祐司の母ものほほんとしていて家や遺産の管理には向いていないし興味もない様子だからだろう。
 親同士が男女の違いこそあれよく似ていたせいか、彩子と三枝は似ていると言われることが多かった。特に、二人ともまっすぐな黒髪を背中まで伸ばした同じような髪型をしていたので、後ろ姿がそっくりだと周りの大人からは言われた。三枝がよく着ていた白いワンピースを二人して着ると、実の親ですら間違うくらいだった。三枝は小学三年生にしては身長が低く、彩子とそうかわらなかったのが大きいだろう。優しく物知りな三枝に似ていると言われるのは、彩子にとって嬉しく誇らしいことだった。本家へ行くと彩子は決まって三枝にべったりになった。三枝も姉として慕われるのは悪い気はしなかったらしく、よく彩子の相手をしてくれた。本家には同い年の祐司もいたが、お転婆な彩子にとって病弱な祐司は遊び相手には物足りなかった。また子供ながらに、病弱な祐司の持つ鬱々とした空気が苦手だったということもある。
 今になって考えてみれば、彩子がやってくると優しい姉を奪われてしまうので、祐司は彩子の訪問を憎らしく思っていたかもしれない。訊いてみたことはないので本当のところはもう分からない。
 その日のことは今になってもはっきりと覚えている。三枝が学校の宿題をしている横で、ひらがなの練習をした後、旅行に行っていた祖父母からおみやげにもらったのだという髪留めを見せてもらった。ガラスでできた小花のついた髪留めを付けてみたいと言った彩子に、三枝は嫌な顔ひとつせず自らの手で彩子の髪に付けてくれた。それから祐司を交えた三人でおやつを食べ、食べ終わった彩子と三枝は庭に出た。庭に生えている笹の葉をちぎって笹舟を作り、その上に南天の実や花を乗せて池に浮かべて遊んだ。餌をもらえるのだと勘違いした鯉が水面にのぼってきた。鮮やかな色の鯉たちが身を翻すと波が起きて笹舟を揺らした。小石を乗せていた舟は転覆してしまい、その舟の作り手であった彩子はがっくり肩を落とした。そんな彩子に、三枝は庭の西側に熊笹があるということを教えてくれた。彩子は喜び勇んで熊笹を取りに行き、一回り大きな舟を作ると、三枝と相談しながら色とりどりの花を綺麗に飾り、池に浮かべた。
 その舟の行方を視線で追いながら話をしている内に日が暮れはじめ、彩子は帰る時間になった。宗景本家は彩子の自宅から自動車で一時間程度の距離があるため、あまり遅くまでは居られないのだ。彩子の父親と三枝の母親が、お別れの時間だと二人を呼びに庭にやってきた。飛び石の上を歩きながら別れの挨拶をし、門まで行ったところで、彩子は髪留めを借りていたことを思い出し、頭に手をやった。ところがそこにあるはずの髪留めはなく、どこかで落としてしまったのだと気づいた彩子はあわてた。父に探しに行くから帰るのはもう少し待ってくれと頼むと、横で聞いていたおばがまた髪留めなら買ってあげるから、と三枝に言った。三枝は頷いて、別にいいよと言った。彩子は何度も謝って、それからまた遊ぶ約束をして宗景本家の屋敷を後にした。
 彩子と父は約一時間かけて自宅に戻り、夕飯を食べて寝る準備をしていた頃に電話が鳴った。そばにいた父が電話に出て、二言三言話した後、さあっと顔が青ざめた。三枝が池に落ちて亡くなったという知らせだった。
 宗景本家には、三枝の葬式以来行っていなかったので、訪れるのは十五年ぶりになる。三枝の葬式で彩子の方をじっと恨めしそうに見ていた祐司は、今日は祭壇の上の写真の中で控えめにほほえんでいた。葬儀が終わり、告別式が始まるまでの間、彩子は少し休憩しようと靴を履いて庭に出た。
 子供の頃とてつもなく大きくて広いと感じていた屋敷や庭は、身体が成長しきった今になって来てみると、広いとも大きいとも感じるが圧倒されるほどではない。目線の高さが随分と変わってしまっているのだから当たり前か、とひとりつぶやく。飛び石の上を歩くたびに靴の踵がぶつかってコツコツと堅い音をたてる。肩までの長さに切った髪の毛が、風に吹かれて頬にかかった。その髪の毛を耳にかけて、彩子は足下に落としていた視線を前へと向けた。
 己の記憶に間違いはなかったようだ。目の前には色鮮やかな鯉が泳ぐ庭があった。ゆっくりとした足取りで池の縁までやってきた彩子は、水面から伸びているそれに目を留めて首を傾げた。
 はじめは、大きな白百合が池から花の部分だけのぞかせるように生えているのかと思った。しかしそれはよくよく見てみると色白な人間の手だった。手首から水面に生えたその手は、大きめの卵をやんわりと握ったような形からぴくりとも動かない。彩子は、その現実味のない光景に目を疑った。しかし、目をこすってみてもその手は消えることはない。この池はつい先日祐司が溺れ死んだ場所なのだということを思い出して彩子はぞっとしたが、しかしその手指は白魚のように細く美しく、爪は桜色に彩られている。華奢でありながら柔らかそうなその手は、明らかに女性のものだった。
 彩子はその手を一番近くで見ることができそうなところまで歩いていき、その場に膝を付いた。頑張って手を伸ばせば触ることができそうな位置にその手は生えている。彩子は今まで幽霊を見たことはないが、この手はその類の物ではなさそうだと思った。なぜなら、質感があまりにも生々しかったからだ。すべらかな肌の感じ、つやのある爪の表面、手のひらのくぼみに落ちる影、皺。池から手が生えているという光景は奇妙なものだったが、その手自体には触ることができるだろうと確信を持てるだけの現実感があった。赤みがなく青白いその手は、血が通っているようには見えず、きっと触れればひやりと冷たいのだろうと彩子は思った。
 彩子は池をのぞきこんだ。しかし、手がどこから生えているのかはよく分からない。池の水はすこし緑色に濁ってはいるものの、冷たい池の底でじっとしている鯉が見えるくらいには澄んでいる。しかしその手は、まるで水面でぷっつり途切れているようで、池の中に続いているはずの腕は見あたらない。またおかしなことには、池の上に身を乗り出した彩子のスーツ姿は水面に映っているのに、その手はどの角度から見ても水面に影すら落としていないのだった。
 触ったらどうなるのだろう、と彩子はふと思った。身を乗り出して手を伸ばせば何とか届く距離だ。先ほどから凍り付いているかのように固まったまま動かない手を、彩子はじっと見た。薄気味は悪いがしかし、好奇心は抑えられなかった。彩子は左手を地面に付き、おそるおそる右手をその手に向かって伸ばした。中指の先が触れるかと思った瞬間、その手が彩子の手首を掴み、驚くほどの力で彩子を引っ張った。彩子はその手のあまりの冷たさに、あっと声を上げた。元々身を乗り出して不安定だった彩子の身体は、ぐらりと傾いた。一度体勢を崩した以上、池に吸い込まれるように落ちていく自分を、彩子にはどうすることもできなかった。
 冷たい池の水に身体が飲み込まれる直前に、綾子は水面に映った長い髪の白いワンピース姿の自分を見た。きっと三枝が成長していたらこんな風だったろうと彩子は思った。


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