徒花は咲いて 白い黒猫 兄さんは辞書のように分厚い本を机に置き、熱心に思考を巡らせていた。それに応え、私も考えを整理する。 「セバスはついさっき給湯室に行くと言っていた。これは事実だ」 「ならばやはり、紅茶を淹れるんだろう。ちょうどいい時間だし」 兄さんの言っていることは、一見すると真実のように思える。が、一手足りないかもしれない。 「セバスは『お待ちください』と言っていた」 「だから、いつものようにお茶会の用意でもしているんじゃないかな。少し時間がかかるから待つよう言った。どこか変かい」 変ではない。ないが、やはり「セバスが」というところが鍵になる。 「セバスなら準備は手慣れたものだろう。普通の茶会ならそれほど準備に時間はかからないはず。現に今、セバスがいつもより遅いから『知恵比べ』しているわけだ」 「それもそうだね。なら、どう思う」 「......給湯室に行くと言ったのは、嘘なんじゃないか」 「ほう?」 「行き先が給湯室だった場合、この部屋と近すぎる。何が目的であれ、ここまで時間がかかることはないだろう」 「うん、確かに」 「それに、普段なら言わない『お待ちください』の言葉。何かを期待させる狙いもあるんじゃないか」 「その何かとは?」 「兄さんの言う通り、これから茶会の時間になるのは事実。そして、給湯室やその周辺の調理場以外と考えると」 ここで一呼吸入れる。自分の考えが間違っていないか、穴がないか精査し、ゆっくりと口を開いた。 「離れの別館、そこの使用人部屋」 「......ああ!」 兄さんも気づいたようだ。 「セバスは昨日、珍しく遠出している。大方、そこで仕入れて取っておいたんだろう」 「いくつになっても遊び心を忘れない、か。セバスらしいね」 直後、丁寧なノックとともに柑橘系の香りが部屋に漂ってくる。 「お茶をお持ちしました。先日仕入れた柚子を用いております」 兄さんは静かに目を瞑り、天を仰ぐ。口元にはいつもの優しい微笑みを浮かべながらも、どこか悔しさの滲む声で言った。 「僕の負けだ」 これで、今週の『知恵比べ』も私の全勝になる。 「兄さんは正直に受け止めすぎるきらいがある。たまには疑ってみないと」 「いやあ、なかなか難しいよ」 会話の最中、手際よくトレーからセットを並べるセバスの顔は、まるで悪戯好きの子供のように生き生きとしていた。兄さんは本を丁寧にケースに仕舞い、隣の机に移している。 「どうぞお召し上がりください」 「ありがとう、セバス。いただこう」 使い慣れた、白磁のティーカップ。七割ほどが黄金色で満たされており、柑橘類特有の香りと、ほのかに甘い香りが鼻腔をくすぐる。 「お、これは蜂蜜かな」 「左様でございます。東からの輸入品が入りましたので」 この手のことになると、兄さんには到底かなわない。優雅な手さばきでティーカップを傾ける姿からは、気品の高さがにじみ出ている。 「しかし、あらためて良い時間だ」 「何を突然」 「こんな平穏な生活のありがたみを知ることがないとも限らないだろう? だから今のうちにありがたがっておこうと思ってね」 「でしたら、こちらはいかがでしょう」 そう言うセバスは、下げたはずのトレーをいつの間にか手にしている。上にかけられた布巾を外すと、色とりどりのクッキーが顔を出した。 「おお!」 自慢げなセバスと、子供のように目を輝かせる兄さん。私も柄にもなく気分が高揚してきた。 「色ごとに違うお味が楽しめます。よろしければどうぞ」 口元に微笑を纏うセバスの目が、わずかに泳いだ。 「セバスもどうだ」 「いえ、私は」 「いいから。毒見だ、毒見」 「......では、ご相伴に預からせていただきます」 遠慮する風にはしていたが、やはり食べたかったらしい。真っ先に緑のものに手を伸ばす様子を見て、それが自信作だと当たりをつける。 「「あ」」 兄さんも同じことを考えたようだ。すぐに手を引き、茶色に替える。 「いいのかい? そこまでこだわりはないけど」 「こっちのセリフ。適当に手を伸ばしただけだから兄さんが食べな」 そうこう言っている間に、セバスがとても居心地が悪そうな顔をしているのを私は見逃さなかった。 「ふっ」 「ん? どうしたの」 「いや、なんでもない」 これは確かに、ありがたがるのも悪くない。そう思った。 それが最後だった。 王国との間にあった休戦協定が破棄され、今まで通りの生活と呼べるものは失われていった。やがて戦火は帝都にまで及び、名ばかりの皇子である兄さんは民たちの批判の的になっていた。日々憔悴する兄さんを見るのは、耐えがたい苦痛だった。 「アル、よく聞いて」 分厚い本のページを捲るのをやめた兄さんは、そう投げかけた。優しい、いつもの兄さんの声。兄さんが私を名前で呼ぶときは、決まって嫌な予感がする。 「僕たちはこれから、赤の他人だ」 「......なにを、言って」 思考が、止まる。ふいに、ごく最近までの平穏な生活が脳裏をよぎる。喉元の圧迫感が、たまらなく煩わしかった。 「だから、そうだね。最後の『知恵比べ』かな」 最後の? 一週間、たったの一週間で変わってしまった。理解が追い付かない。追い付くわけがない。積み重なった幸福は、崩れるときは一瞬なんだと、そんなことばかり考えていた。他人事であるかのように、ずっと。逃げることで精いっぱいだった。それだけだった。 「その時が来れば、きっとわかるよ」 「兄さん」 待って、兄さん。待ってくれ。 「本当は、知らないでいいと言いたいところなんだけどね。アルは賢いからきっと大丈夫」 「兄さん!」 乾いて、しぼんで、枯れ切った笑顔。光を映さないその瞳は、先が見えないほどにどこまでも暗い。 「一度だけでいい、僕にも勝たせてくれないかな」 触れれば壊れそうな脆さだった。 なら、私が触れればよかった。私が壊して、そうすれば、 きっと、楽に終われたはずだから。 * 遠目に見える紅蓮は、何かを裁いているのだろうか。何を裁くのだろうか。終ぞわからないまま、王国の領土に差し掛かる。何の感情も宿っていない王国の兵たちの瞳が、たまらなく悍ましかった。 私は、帝国の日雇い庭師として乱雑に牢に放り込まれるだけで終わった。でたらめな名前の、有益な情報はおろか主人の名すら知らない、ただの庭師。何の尋問も、大した監視もない。兄さんの言葉を思い出して、思い出すたびに、胸が締め付けられる。兄さんは、少しでも私が苦しめられないように「赤の他人」にしたんだと、今になって、わかった。 「......お人よし」 度が、すぎている。ああ、まった、く、ほんとう、に 「............ばか」 瞳を覆う熱さは、まるで兄さんのように、優しかった。 * 何日、何週間、何か月。もう覚えていない。 私は、死んだのだと思う。生きているのなら、それはただ死んでいないだけだ。空っぽの器はひび割れ、いつかの暖かさも、とうに忘れてしまった。注ぎ込んでくれるひとは、もう。 「」 もう、聞こえない。もう、見えない。 「■いて」 もう、同じものを得られない。片方は永遠に止まったまま。 「聞いて」 機能しなくなった時計は、捨てなければならない。そうだ。そのはずだ。きっと、 「聞け!」 「あなたの所有権は、今からわたしのものになる。ついてきて」 かちゃり、弱々しい音を立てて鍵が外される。 「顔を上げて、早く」 もう、どうでもよかった。 「......わたしなら、あなたを楽にしてあげられる」 ──ああ、そうだ。それはいい。 「やっと立った。......アルフォンス」 「......え」 「早く。止まらないで」 黒い女。あの時の兄さんのような、眼をしていた。 * 連れられた部屋の内装は、洒落気はないがよく整えられている。状態を見るに、相当な地位の人物らしい。牢を出てから、女は自分から何も言葉を発そうとしない。部屋に入ってからも、ただ突っ立っている。 「自殺志願者を連れ出して何がしたい」 「......何も」 漸く口を開く。またあの眼だ。あの、あふれるほどの闇を湛えた眼。 「あなたは、よく似ていたから」 「俺が、お前と?」 笑う気も起きない。勝者と敗者、そこには絶対的な違いがある。俺たちは負け、すべてを失った。この女は手に入れた。すべてを奪った。何もかもが違う。 「そうかもね」 まだ、怒れるだけの自分が残っていることに遅れて気づく。そして、それしか残っていないことにも、気づく。 「あなたにさせたいことは一つだけ」 未だに、この女からは何の感情も読み取れない。だが、どうでもいい。俺を殺してくれるなら、どうでも。 「わたしを殺して」 ──は? 「方法は何でもいい。あなたならできるはず」 「......お前が生きようが死のうが、知ったことじゃない」 それに。 「俺を殺すんじゃなかったのか」 何も見えない眼、何一つ変わらない表情。訳が分からない。 「楽に、してあげる」 どうやって。死んだら、殺せない。 「あなたは、まだ死ねない。まだ、空っぽになりきれていない」 何を言っている。こいつは、何を言っている? 勝者が、略奪者が、人殺しが、俺を語るな! 「お前に何がわかる!」 拳に力を込める。爪が食い込み、皮膚が破れ、生を通告する。 「そうね」 とん、女は俺の胸を人差し指で小突く。 「あなたはまだ、持っている」 「......何?」 「あなたはまだ、誰かのために怒っている。違う?」 本当に死にたいらしい。よくわかった。とてもよく。 「自分のためだ、それ以外ない! いい加減黙れ!」 「アルフォンス。あなたは、お兄さんのために怒っている」 振り上げたままの拳から滴る鮮血が、部屋に彩りを与えた。 「......なんで」 なんでこいつが兄さんを知っている。俺は、ただの庭師のはずだ。──そもそもなんで、俺の名前を? 「簡単なこと」 女は表情を少しも変えず、部屋の奥の机に歩み寄る。机上の何かを手に取り── 「それ、は」 辞書のように分厚い本。見覚えがあるそれと、瓜二つだった。 「この部屋は、私が死ねないようにされてる。病者同然ね」 女は、どこか遠くを見つめ、言った。 「わたしは、あなたのお兄さんを殺した」 「そうするよう、お兄さんから頼まれた」 兄さんが? ──ありえない。 「あなたは聞く義務がある」 そう言って、女は語り始めた。 「わたしは、死に場所を探して帝都に行った。兵士に紛れれば簡単」 侵攻先までは問題なく行けた。ただあまり人目に付くわけにもいかなかったから、離れの方に忍び込むことにした。いずれ火を放つって兵たちが言っていたから。なんとなく廊下を歩いていたら、一部屋だけドアが開いていた。 その人は、窓際でずっと外を眺めていた。絶えず響いてくる怒号や悲鳴は、その人には聞こえていないみたいだった。それくらい静かで、落ち着いていた。 「お迎えが来たかな」 「いいえ、わたしはただ死にたいだけ」 「そうかい」 不思議な人。最初に思ったのはそれだった。まるで全部わかってるみたいに、少しも動じず窓の外を見ていた。 「憎しみの連鎖を止めるには、どうすればいいと思う」 こちらの意見を聞いているようにも、ひとりごとのようにも聞こえた。 「ずっと考えてるんだ。でも、わからない」 憎しみの、連鎖。 「わたしなら止められる」 そう言ったとき、その人は初めてこちらを向いた。憂いと諦観が混ざったような、きれいな顔だった。 「どうやって?」 「わたしには、何もないから。何も奪われない。誰も、悲しまない。わたしを憎む誰かにわたしが殺されれば、そこでおしまい」 その人は、また窓の外に目を向けた。 「君は、どうして死にたいんだい」 「もう、生きていないから」 少しの沈黙の後、その人は口を開いた。 「なら、一つ頼みごとをされてくれないかな」 「頼みごと?」 「僕は、弟とよく勝負をしていたんだ。そして、最後に初めてズルをした」 その人が言い終わると、机上の本がひとりでに開き、ぱらぱらとページを捲っていく。やがて、最後から一つ前のページで止まった。 「お嬢さんが来るのはわかってた。だから、ここで今頼むことも計算に入れて弟に勝負を持ちかけたんだ。僕の弟は......賢くはあるんだけどね。動揺すると頭が回らなくきらいがある」 「何を頼む気」 「ああ、ごめんね。つい脱線しすぎた」 そう言うとその人は再びこちらを向き、じっと眼を見つめてくる。どこかで見たことがあるような眼だった。 「頼みは、そうだね。うん」 「僕を殺してくれないかな」 抜け殻に、断る理由もない。 「......わかった。でも、なんで」 「そもそも、僕は逃げる先なんてない。処刑が少し早くなるだけだよ」 「なんで、わたしに」 「お嬢さんを憎んでもらわないといけない」 「......馬鹿な人」 そうだね。その人が答えると、後ろから大きな破裂音が聞こえるようになる。ここももう、長くはない。 「ああ、一つと言ったけど、まだ二つもあった。悪いね」 全く悪びれていない様子で、その人は続けた。 「そうそう。一番右のタンス、そこから外に出られるから。全く......遊び心なんてレベルじゃない」 幸せそうに、その人は笑みを浮かべた。 「ひとつ。僕の弟──アルフォンスと言うんだ。きっと今頃王国に捕らわれてる。僕にそっくりだ、すぐわかるよ。彼に、思い出させてほしい」 「思い出させるって、何を」 「僕たちの『知恵比べ』は、まだ終わっていないことを」 燃え盛る炎の音はどんどんと近づいてきている。なのにどうして、この人はそんなに満ち足りた顔をしているんだろう。 「それで、あとひとつは?」 「......そうだね。反則までしといて不本意だけど」 「弟はいつも、僕が考えつかないようなところまでたどり着けるんだ」 ふふ、とその人は柔らかく笑った。 * 全部、わかった。 「兄さん、は」 膝が床に向けてうなだれる。暖かい何かに包まれて、視界が捻じ曲がる。ひどく、心地よかった。 「正直に、受け止めすぎるんだ」 思い出す。鮮明に思い浮かぶ。 「君の言っていることには、一つ、足りないことがある」 「......なに」 女は初めて、何かを期待するかのような表情をあらわにした。 「俺......私が」 兄さんはずっと、私が苦しまないように。全部わかったうえで。 「私が君を手にかける必要はない」 お人よし。昔から、何も変わっていない。 「全部抱えて、生きればいい」 兄さん、ごめん。 「兄さんがくれたもの、全部抱えて」 「苦しみながら、死に損ないのまま生きればいい」 また、私の勝ちだ。 * 見えない風に揺らされるように。ひとりでに、本はページを開く。最後のページ、最後の一文。 「もし僕が負けたら、弟のこと、よろしく」 姫は猫のような眼を部屋に向け、やがてため息をつく。この部屋には花瓶すらない。 「とりあえず、花瓶と適当な花。早く」 「......死にたいんじゃなかったのか」 あいにく、誰かさんのせいで。 「やることができたから」 わたしまで死に損ないになるなんて。
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