一縷の煙 自憐間 手元にある軽いタバコの火だけがこの世界にある唯一の寄る辺のように見えてしまった。 大学から家に帰ると荷物を降ろし椅子に腰かける。疲労感の溜まった体は鉛のように重く、自分から起き上がるなどできなかった。幸い学校からの課題はもう済ませてしまった。提出におびえる必要はないが、かといって予定なんてものを考えるほどの気力はもう微塵も残っていない。時間潰しとしてゲームや小説という手もあるが、そちらも到底やる気が起きない。それは今日に限った話ではなかった。大学では気を張って、講義や課題、わずかばかりに繋いだ友人関係の継続に取り組むことはできる。しかし、家となるとそうもいかない。家では何をするにしても気力が湧かなかった。家事などは最低限で暇な時間はただ動画で無為に時間をつぶす。それすらできないときは、椅子に腰を掛けただ天井を見つめ、ぼ~とすることで時間をつぶしていた。現役女子大生の生活としてはあまりにも無味乾燥と自覚しているが、だからと言って改善するつもりもなかった。 今日も同じく、いつものように他にやることもないからと、椅子に腰かけ、何所へと向けるわけでもなく視線を漂わせる。忘我に浸る思考の中で眠気だけが確かな刺激となり、ゆっくりと瞼を閉じた。 何も映らない視界の中でふと、今日の講義の1シーンが浮かび上がった。それに起因するように、今日もあの教授の講義は詰まらなかった、後ろの奴らがうるさかったなんて下らない考えが取り留めのない浮かんでは消える、そんなことが繰り返された。それらは揺蕩う眠気を押しのけ、次第に私の思考は無気力と諦観の渦に引きずり込まれていった。 大学での生活というのは期待していたよりも変化していなかった。高校の時と同じように家と学校の往復を繰り返し、らしくもない自分を演じたままだった。周りと同じように部活やサークル、友人作りに励んだ、違和感がないように元気さを取り繕った。そのおかげか、大学においていくつかのコミュニティに入り込むことができた。けれど、予想していたよりも大きな規模だったからだろうか、自分の仮面はその厚さを増していった。上から粘土を何度も張り付けるように、ありもしない自分だけが大きくなっていた。 友人関係においても、明るい女子を振舞っていたからだろう、大勢と関わることができた。下半身に支配された男性の中には特定の悍ましい理由のみで近づいてくる奴もいたが、何とか身をかわしていると、だんだんと消えていった。私の友人の一人に綾香という名前の娘がいる。彼女は一見、元気溌剌で何をするにしても明るいが、電話や人気のない所で私と話す時はその明るさに影を差して、誰が気に食わなかった、何が不満だったかをこと細やかに私に打ち明けてくる。それが信頼なのか、それともこちらをどうでもいいと思っているからなのか、わからないが、その愚痴に合わせて私は彼女の機嫌を損ねてしまわないように優しく彼女が望むであろう言葉をかけて共感しているふりをした。 その時の彼女は決して私を見ていないと感じて仕方がないのである。 私は、きっと何か変わると思っていた。大学ではもっと自分らしさなんてものを掴めると高校の頃の私は無邪気に思っていた。毎日を楽しく、笑って過ごせているだろうと、そんな時間を過ごしているだろうと。しかし、期待しすぎていたのだろうか。悲しいほどに変化なんてものはなかった。変わらず、人の顔色を窺い、それに合わせるように張り付けた笑顔を振りまくだけだった。 ただ、決して時間が無いわけではなかった。普通の人が意識して変わろうとするには十分と言えるほどに、高校の時よりもはるかに、一日中ゲームをしても問題がないくらいに時間があり、比較的都会のほうなので遊び場所もたくさんあった、ゲームセンターや本屋、映画館に、雰囲気の良いカフェなど遊ぶ場所も遊ぶ内容もたくさんあった。しかし、そもそもの問題として、私は自分が何を楽しめるのか、それがわからなくなってしまっていた。ゲームセンターも本屋もカフェにだって、過去の興奮を求めて行ったはずだった。きっとまたあの頃の様に、周りの目など気にせず無邪気に楽しんでいたあの頃のように、自分が心地よく過ごせる、そう思っていた。だけれども、なぜかわからないが楽しむことなどできなかった。リズムゲームに興じているときも、本の背表紙を目で追い内容を夢想しても、珈琲の香りが鼻をくすぐろうと、そこには過去程の興奮など感じられず、時間の無駄という冷酷な思考が頭に巣くっていた。 笑うしかなかった。自分でも気づかない間に私は自分らしさを確かめるための手段すらも失ってしまっていたことに気付いた。この時の気持ちをどう表せばいいのだろうか。後悔だろうか、憎しみだろうか、まるで迷子の子供の様に訳も分からず、狼狽えるしかなかった。誰か誰かと縋る他者を求め、気付いたその気持ちを自制することを繰り返していた。 しかし、世界とは残酷で、そうやって戸惑っていようとも時間が止まってくれるわけでもなく、かといって止まることが許されるわけではないため、喪失感を抱えながら前に進むしかなかった。当然、取り戻そうとした、カラオケや高校の頃取り組んでいた運動、新しく趣味も始めてみた。しかし、どれも心から楽しむなんてできなかった。結果残ったのは、時間と金の無駄という惨めさだけだった。 そうやって失った何かを取り戻そうとするままに、無情にも時間は過ぎていき、もうすぐ二年が経つ頃になってしまった。我武者羅に走っていたあの時とは違い、動く気力すら尽きてしまった私は変わらない日々を惰性で過ごすようになっていた。 眠気なんて消え去り、どうしようもないことばかりが頭を廻るようになってしまった。考えても仕方がない、そんな気持ちとは裏腹に淀んだ気持ちが止まることはなかった。いつもこうだ、沈む気持ちを慰めるための作業もなく、ただ手持ちぶさたに過ごしていると、すぐにこの気持ちに捕らわれる。こうなってしまっては自分一人ではどうにかできるわけではなく、むしろより深く傷を抉ることにしかならない。こんな鬱屈とした気持ちをどうにか解消するための案を私は一つだけ知っていた。寿命をいたずらに削るものであるが、それは一時の確かな安らぎを与えてくれるものだった。 沈み込んだ気分に合わせるように部屋の明かりを消す。暗闇に包まれ、エアコンやたこ足配線の点滅光、電子機器の稼働音がその空間で特異な存在感を放っている。微かな明かりを頼りにカーテンを開けるとそこには、街灯や赤々と光る信号機、車のヘッドライトが部屋に差し込み、部屋の輪郭が暗影とともに映し出された。人の通りはほとんどなく、いつの間にか夜が更けており空は暗い藍色に染まっていた。 ベランダに出るため椅子に掛けてあった上着と煙草の箱、ライターを手に取る。箱の中身を確認するとまだ十本ほど煙草が残っていた。時間を潰すには心もとない本数であるが、気晴らしで使う分には十分だった。ふと、この十本で一体どれくらいの命が消費されるのかを考えて、...止めた。短くとも長くとも私はきっと変われないだろう。死ぬまで惰性で生きているんだろう。だから、こんな考えに少しの意味もなかった。 扉を開けた途端に肌を刺すような寒さが感じられた。予想よりも寒くなっており、あまり長居はできないなと考えながら、上着にそでを通し、ベランダに出た。スリッパを履き目の前にある柵にもたれかかる。金属製の策は、ギシリと嫌な音を立てながら、それでも女一人の重さを受けることは容易く、私をしっかりと支えていた。箱からタバコを一本取り出し口で挟む、ライターで火をつけようとするが、ただホイールが回るだけで火は付かなかった、四回目になってようやく火が付いたそれは、よく見ると罅だらけでガスも残り少なく今にも使えなくなる、そんな代物だった。今すぐ買い替えればいいと分かってはいるが、私はこれに自分の姿を幻視して何とも言えない愛着が湧いていた。外側が無事でも中身のなくなった不良品。まさにピッタリではないか。そんな自傷めいた思いからだった。 フィルターを通して息を吸うと煙草の先は明るさを増し、煙は口から喉を通りは肺へと溜まっていく。酸欠による若干の苦痛とニコチンによる幸福感が混ざり合って思考がおぼつかなくなる。肺に煙が纏わりつき、呼吸がし難くなる。......私はこの感覚が好きだった。考えていた一切が他愛のないものになり、まるで悩みがなくなったように感じることができる。一本、二本と吸い殻が溜まっていく。ただ無益に時間と健康を損なっていく。けれどこのすべてが無駄に思える時間が私は全く嫌いではなかった。むしろ心地よいとさえ感じていた。それはきっと心の底から一人であると安心できるからで、誰の為でもなく、自分の為だけに、この瞬間だけはそうやって生きることができた。そうしても、やはりというべきか、私の中で存在感を強めた喪失感が消えることはなかった。快感に漬け、単純な思考すら解けていく脳みそでも、この感情だけは消えてはくれなかった。悩んでも苦しいだけだ、辛いだけだ。もう嫌だ、何も考えたくない。もう......。そんな願望は叶えられることなく、私は底のない泥沼に捕らわれたままだった。 きっと私は演技をしすぎてしまったのだろう。家族の前でも友人の前でもついに仮面が外れることはなく、本当の私など覆い隠してしまった。何しろ幼少期でさえも私は、演じざるを得なかったのだから。子供の頃に聞いた私を生んだ女の泣き声も、私を作った男の怒鳴り声も、まるでサルみたいに歪んだあの表情も、子供に選択を迫る屑どもの姿も全て記憶に焼き付いてしまっていた。愚かなことに幼少の私はすべてが自分のせいだと思っていた。だから、必死になって親に媚を売り、機嫌を取り、自分を殺してまで奉公したのだった。心をすり減らしながらすごす、そんなことが数年続いた。幸いというべきか彼らの紛争は表面上解決を示した。仲良さげな両親の姿に、普通は祝福を上げるべきだが、私は元の生活に戻るなんて出来なかった。 人の癖というのはなかなか抜けないもので、親への感情が嫌悪へと変わろうとも、演技は続いていった。何より、その演技は役に立った。同級生も大人もそれぞれに好意的に振舞うと、私に損がもたらされるようなことは決してなかった。 私は人と関わる方法をこれしか知らなかった。いや、今も知らないといった方が良いだろう。現にこうして大学でも変わらず、演技し続けているんだから。学校でも、家でも、本当の自分を表す時間なんてほとんどなかった。そうしていってきっと仮面が私になってしまったのだろう。底の開いたバケツの水がいつの間にか枯れ切って幻想の水がまるで存在するかのようにバケツの中に映っている。『空っぽ』。それが自分を表現するのにふさわしい言葉で、二十年余りの私の人生における集大成であった。 今の私は偽りだらけだ、誰かにとって都合のいい自分、その継ぎ接ぎでしかない。その過程で自分すらなくして、楽しさなんてものも失ってしまった、もはや手元にある軽いタバコだけが確かな快楽を与えてくれるものとなっていた。手元の煙草を吸い尽くし、箱を見ると次が最後の一本となってしまっていた。早死にしてしまうなと考えると何だか楽になり、それも悪くないか、なんてつぶやいた。最後の一本に火をつけ目一杯息を吸う。味なんて楽しむ余裕もなく激しく咳づいて、苦しみだけが残っていた。 すぐそばを流れる川のせせらぎが暗闇の中に響いて、まるで自分だけがこの世界から取り残されているかのように感じさせている。タバコの先端から煙がまるで蜘蛛の糸のように延びていた。煙草を持つ手とは反対の手でまるで縋るかのように掴もうとするとそれは手の隙間から、するりと通り抜け、真っ暗な空間に溶けて消えていく。まるで私に救いはないと言わんばかりだ。天から延びる蜘蛛の糸は容易く千切れてしまった。目の奥から熱い何かが溢れてしまいそうになった。ただこの場から離れたかった。 ベランダの隅に移動し、水が混ざり汚くなった灰皿にタバコを押し付け火を消す。二センチほど白く残っている部分が見えなくなるようにぼろぼろになるまで押し付けた。煙が経っていないことを確認すると冷えた体を抱きながら部屋の中に入った。床を這う配線を踏まないようにと移動し、息をつくように布団に潜り込んだ。体に染みついた煙草の匂いが真っ暗な視界の中で漂っていた。残留する思考に無視を決め込み、冷え切った体を抱えるように丸まった。「きっと明日も楽しくなるさ」と何でもない風に言った。 それがまるで子供の様だと自嘲した。 【単語】 慢性的な希死観念 タバコ ベランダ いつも雲がかかっている心 他者と関わりたくないのに他者がいないと孤独に感じるという矛盾を解消するために日ごろから希死観念を抱いている 刹那的な快楽によって生かされている 「理性的」「死」「幻想」 変わらないという心情を入れて諦めを表現
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