いずれ全て塵

西島電報




これは架空の話なんだ、実生活じゃなくて。フィクションは現実の鏡の向きを変えるものである―ちょっとばかり。だから違ったものの見方ができるわけだろが。
ハーラン・エリスン「教訓を呪い、知識を讃える」

◆

 まあ何にせよ全て瀬川卓也が悪かった。奴が一人で世界を変えたのだ。
 
 おかげで俺には行き場がなかった。家にいられるんなら家にいたよ。ただ、俺は家の中だと上手く息ができなかった。窒息しそうだった。家の中で溺れそうだった。俺が来てから小母さんはいつも泣いてる。
 うちには俺と小山の小母さんと小母さんの旦那の幽霊がいる。仏壇が湿った空気をぶっ壊れた加湿器みたいにうちじゅうに吐いている。俺はアマノ養育園の出身で、同級には院に入ったやつがいれば気が狂って里親刺したやつもいる。大半はそれなりに気を使ってそれなりに消耗しながら幸せに暮らしてる。時々は殴られたりもするかもな。稼ぎ口に数えられたりもするかもな。アマノ出身っていうのは、そういうことだ。
 でも、こんなこと言ったら殴られてる奴らに呪われるだろうけど、俺はそういう暴力にさらされてる方が楽だった。小母さんの一番まずいところは小母さんが優しかったってことだった。

 俺が食う前にパンは全部水没する。ドロドロになったそれが、溶けかけてスープ皿に盛られて食卓の俺の前にごとりと置かれる。俺が食う前にあらゆるものは一度エビアンの水の中を潜ってくる。うちの仏壇がある一室には、仏壇以外にはエビアンのボトルが詰まった段ボール箱しかなくて、それで部屋が埋まってる。
 これで大丈夫だからねと小母さんはよく俺に言う。例えばパンを芋みたいに水に容赦なく浸しながら言い、エビアンの段ボールをよろよろ運んで玄関にどさっと下ろしながら言う。晴れやかな顔で微笑んでいる。俺はサンダルを履いて表に出て、残りの段ボールを薄黄色のタントから積み降ろすのを手伝う。

 瀬川卓也は俺が生まれる三十年前に生まれて十四年前に死んだ。死ぬ前の約四十五分でⅩ人を殺した。素手でそんな人数殺ったら化け物だし刃物つかってもそこそこ化け物だ。瀬川卓也は人間で、しかも十六のガキだったから小型拳銃を使った。そしてそれで殺された。小鳥みたいな美しい銃だった。それは、ハンドバックに入るくらい小ぶりな美しい銃で、誰が引き金を引いたのかは分かっていない。銃は美しいまま、真冬に凍った小鳥みたいに芝生に落ちていた。指紋は検出されなかった。誰もその銃を使ったりしていないかのようだった。

 現場には銃が二丁あった。
 ひとつは瀬川卓也のワルサーPPKで、もう一つは瀬川卓也を殺したワルサーPPKだ。現場にいた誰がその引き金を引いたのかは分かっていない。虫の息だった被害者の一人だと言うやつもいれば、神だというやつもいた。そのせいで宗教がごろごろ興ったし、遺族の人は多分大変だっただろう。家族が死んだうえ訳の分からん陰謀論に巻き込まれたら堪ったもんじゃない。

 現場は拓けた芝生の公園で、町を挙げての祭りの最中だった。何が起こったのか詳細は本当のところよく分からない。公園内に三しか無かった監視カメラはなぜか全部ノイズが酷くて何も見えず、その場から逃げ出した奴が撮ったビデオが何本か残ってはいたけど、そいつも逃げるのに必死だからぐるぐる回る芝生とかきれいな空とか撮影者のジャンパーの脇腹とかしか映っていない。

 ニュースでは、その映像は決まって無音で流れる。最初の報道で音声も普通に流したところ何万もの苦情の電話がまだ番組が流れてるうちに殺到したからだ。【地獄の唄】。ニュースでは流せないその音源は、動画サイトに行けば無数に複製されて、一週間前投稿百七万回再生のものから、amazing_gorenewsChannnel666とかいうチャンネルがアップした、中間に三分のフリー音源を挟んだものまで、いくらでも聴ける。

 たしかなのは、誰かヒーローが瀬川卓也を撃ったってことだけだった。

 うちの近所には潰れかけたレンタルビデオ屋がある。営業しているようには見えなかった。自動ドアのガラスはセロハンテープみたいに黄ばんでいたし、駐車場にはなぜか赤いぼろぼろの三角コーンが毒キノコみたいに生えていた。
 その夜は台風が来ていた。俺はパジャマにスニーカーのまま、ずぶ濡れで、店の前に立っていた。濡れてるうちの半分は今も横様に吹き付ける雨のせいで、もう半分、腹から足までぐっしょり濡らしているのはぶっ掛けられたエビアンの天然水だ。
 十五のガキがとにかく雨風を凌げる場所っていうのは限られる。イオンもスーパーも二十二時には閉まってる。それでも家には居られない、家の方が濡れるからだ。ビデオ・パラダイスの明るい水色と死んだピンク色の電飾は点滅しながら灯っている。TAKI VIDEO。

 小母さんは毎月第二週にめちゃくちゃ調子を崩す。俺が引き取られる二年前、小父さんと小母さんとその娘が眠る家が大きな松明になって燃え上がったのが、十月十日午前三時のことだった。火元は、八歳の娘の部屋だった。窓は外から割られた痕跡があった。
 小母さんは消火しようとして、どうやってだか知らないけど多分その辺の花瓶の水かなんかを掛けようとしたんだろう、ベッドは燃えていた。ベッドと同じ炎の中に、小母さんの娘もいたらしい。誰かが小母さんを背後からもの凄い力で引き摺って部屋から出したらしい。小母さんは気づくと家の玄関の外にへたり込んでいたらしい。小父さんが小母さんの肩をがくがく揺すぶって、絶対ここにいろと怒鳴って玄関に駆け込んで行ったらしい。そのまま、周囲が騒がしくなって、遠くで幻聴みたいにサイレンが鳴って、家が焼け落ちるのを小母さんはずっと座り込んだまま眺めていたらしい。
 その日から小母さんはあらゆる火に水を掛けて消すようになったらしい。小母さんは今でも、線香は火を点けないまま香立てに立てる。

 自動ドアの前にダメ元で立つと、引き戸みたいな音を立てながらがらがら開いた。店の中はだだっ広く、天井近い高さの棚が何列にも奥へ続いている。薄暗いのは蛍光灯が一列飛ばしに落としてあるせいだった。カウンターには誰もいないと思ったら椅子の軋む音がして、倒されていた椅子の背ごと店員が跳ね起きた。肉付きがいい子役に髭とロン毛が生えたみたいな男だった。ずり落ちた眼鏡の向こうから上目遣いに俺を見る。店員のヘッドホンから台詞みたいな音が漏れている。俺は足元に水溜まりをつくりながら突っ立っている。

そこはあらゆる世界への入り口がずらりと並んだ王宮だった。俺には無数の可能性が与えられていた。誰も、俺に注意を払う人間はいなかった。手人は入り口のカウンターの古いテレビでずっと映画を見ている薄汚い店員一人で、客は通路三本に一人くらいしか見当たらなかった。どいつも孤独で、どいつもここではない他の世界に魂を半分売っていた。

小母さんは、我に返るともう退院していつの間にか旦那と娘の葬式も終わって親戚の家の畳の客間に一人へたり込んでいた。まず初めに小母さんは、音を手掛かりにゆっくりと現実に戻ってきて、音の出所に顔を向けてぼんやり立ち上がって、数歩歩いた。腰を屈めてテレビ台の上のテレビを掴んで体を起こし、ぶちぶちと抜けるコードに構わずそのまま持ち上げ、部屋を出て行った。
ここまで俺は「らしい」を使わず話すことができる。部屋の消臭剤には小型のカメラが仕込んであった。小母さんが我に返ったとき死ぬんじゃないかと思った親戚が仕込んでいた。その映像を俺は小母さんの兄貴に見せられた。「お前は、どういうひとの子になったんかよく知っとかんといけん」母さんの兄貴は俺の視界いっぱいに携帯の画面を近づけて言った。眼を逸らすことはできなかった。
俺の親となった、縒れた喪服の女はテレビを抱えて粗い画面の外に出て行った。一拍置いて、画面が軽く揺れる。死角になった部屋の西側の窓を開け、そこから小母さんは、抱えていたテレビを落としたらしい。
何度か部屋の中を往復して、小母さんの作業はテレビからラジカセ、自分の携帯電話、テーブルの上の新聞へと進んだ。もう捨てるものがなくなって、まだ夢遊病患者みたいに部屋の中央に立ち尽くす小母さんは、ふとこちらに顔を上げる。粗い画素のせいで五、六個のピクセルの集合二つに見える、小母さんの眼が画面のこちらの俺を見据える。

そういうわけでうちにテレビもラジオもエアコンも無い。コンロはあの三脚みたいな部品が取り外されて、元栓は硬く閉まっている。だから俺はいつも通路の間を渡り歩いてはパッケージの裏の説明文を渉猟して回った。俺は、無数に並んだ可能性の世界のドアを眺めているだけでそれなりに満足だった。たとえその向こう側には決して行けないとしても。

「お前映画好きなの」
 ある日俺がしゃがみ込んで一番下の段のキャシャーンのあらすじを読んでいると、上から声が降ってきた。振り仰ぐと小汚い店員が「あ俺店長だけど」ただでさえ薄暗い店の照明を遮って立っている。俺が黙っていると向こうも黙ったまま手を動かし始める。
「見たこと無い」
「なにお前、喋れんのかい」
 店長は店の外の方に顎をしゃくる。外はいま台風が接近してるだか何だかで、凄まじい雨だ。「じゃあちょっとこっち来い」
 俺はキャシャーンのDVDをケースごと持ってレジ兼入り口の方に付いて行った。金は無いから借りろとか弁償しろとか言われても不可能だし、今追い出されれば、この雨だと、流されるか風邪こじらせて死ぬかどっちかだろう。しょうもない人生だった。
「いいか、まずその丸い同心円みたいなボタン押せ」
 カウンター裏の狭いスペースに肩身狭そうに鎮座したテレビの下には、四角い筐体が収まっている。数秒ためらった後赤いボタンを押すと、前面の一部に線が入り、薄いトレーを吐き出す。ディスクを嵌めて押し込むと、内部できゅるきゅる何かが回転し始める。

 汚れた座布団の貼り付いたキャスター付き椅子は店長の玉座だった。俺は二段の脚立を通路から引っ張ってきて、店長の後ろから画面を見た。夜の間中そこにいて、三本から四本映画をぶっ続けで観ることもあった。それは全く俺の想像を超えていた。俺がドアを眺めてその向こうに想像していたものを超えていた。
 俺がドアの向こうに想定していたのは世界だった。つまりここじゃないどこかの空間だった。実際はそうじゃない、そこにあるのは物語だ。俺のものではない誰かの筋だった。

 店長はホークアイになりたかったらしい。古いヒーロー映画に出てくる、なぜか半袖防弾チョッキみたいなものを着たヒーローで、特に何の能力も持たないが弓矢をうつ。
「ヒーローには憧れるだろ」最近減量したのか少し痩せた店長は言う。「一回くらい、自分の人生が映画みたいな体験ばっかになること期待して、それで裏切られたりするだろ?」
「大いなる力には大いなる責任が伴う」スパイダーマン冒頭で、ネタばらしするなら銃で撃たれて死ぬベン叔父さんは言う。
「大いなる力が無ければ責任は伴わないのか?」キックアスの主人公の、あー名前忘れた癖毛は言う。
 俺は責任から逃れられない、と最近よく思う。映画は全て俺とは全く関係ない別の世界の話なのに、ふとしたセリフの一言が、ふとしたシーンの小道具の一つが俺のどっかを突き刺す。息を止める。
 例えばシャイニングの双子。水色の揃いのドレスを着て、手をつないで廊下の先に立っている。カムトゥープレイウィズアス、ダニー。

「そんで結局お前映画好きなの」
「多分」
「なんで?」画面では、高層階のガラス張りから眺めるビル群が、真ん中にオレンジの閃光が走って次々連鎖するように爆破されていく。カタルシスとは崩壊と同義だ。「面白いから」それ以上に何か説明が要るのか?
「なるほど」本気で納得するような声を出されるから拍子抜けする。
「逆に店長はなんで、映画好きなんですか」
「もう好きかどうかもよく分からんけど何でだろうな。映画って、二時間で二日を映すこともあれば二時間で二十年過ぎることもあるだろ。だから寿命が得な気がしてんじゃねえのかな。余命を稼いでるんだよ」
 屁理屈だと思った。テレビ画面は暗くなって、エンドロールに突入している。下から上に白い文字で無数の名前が流れていく。俺の知らない無数の人生が流れていく。俺は、俺の物語を探しているのかもしれない、とふと思う。どうじに「あのさあ」店長がいつもの気の抜けた声で言う。
「うちマッド経営マックス不振のデスロードなんだよね。多分この店半年先まで持たねえな」

 明け方、音を殺して家に帰ってドアを開けると、玄関の一段上がったところに人影が正座している。小母さんが、あのビデオの時ぐらい画素の粗い瞳で俺を見上げている。
「どこ行ってたの、こんな時間まで」ヒステリックさが極限まで抑え込まれたせいで最大限ヒステリックに静かな声は響く。
「ごめん」
「ごめんじゃなくてっ」怒鳴られた。「どこ行ってたのか訊いてるの。どれだけお母さん心配したか分かってんの、未代ちゃん」
 未代ちゃんは仏壇の写真の中で、レンズの方に泥団子を持ち上げて笑っている。俺はただ、立ち尽くしている。

 俺の名前は誰も呼ばないから、時々本気で忘れる。

 ここから一旦回想だから、それっぽい感じに画面が白く霞むと良い。
 いつかの夜、店長は俺に言った。「でもまあ自分の人生を全く知らない人間は、物語のカタルシスを理解できんだろうな」どういう話の流れでこの言葉が飛び出したのかは分からない。
 またいつかの夜、店長は言った。「お前の人生もこんな風に面白いことになる可能性がまだあるんだよ。俺のはもう終わりかけてるけどな」店が閉店すると同時にマチェーテを持ったヤバいやつらが店長の家を急襲して、借金のかたに臓器やら何やら剥いでいく予定らしい。「まあガキはあんま心配すんな」心配どころか信じてないけど、でも、最近店長の眼の隈は一週間全く寝ていない人間みたいに濃い。見ている映画の拷問シーンが始まるとトイレに立って、微かにげえげえ吐くような音が聞こえる。
 カメラに映ってないから知らないだろうけど、店長はいまウィレムデフォ―みたいにがりがりに痩せている。服の襟と袖が全部ぶかぶかになって、ピンやらクリップやらで留めている。
 瀬川卓也の事件によって銃規制緩和特別措置法が試用されてから、広島県の治安はメキシコじみて悪化した。
もし店長がへらへら吐く嘘が本当だったとして、俺に出来ることは何もない。ただ毎晩映画を見るだけだ。

「返事くらいしなさい未代ちゃんっ」
 というわけで回想は終わり、場面は現在、自宅の玄関に戻り、小母さんがまた「っ」の付いた響きで未代ちゃんを怒鳴る。店長はかつて何て言ったんだったか俺は思い出そうとする。
「自分の人生を演じることができない奴にフィクションの感情移入はできない」だったか、何か違う気もするけど、もういいか。俺は軽く目を伏せて「ごめんなさいお母さん」言う。
 俺は小母さんを小母さんとしか呼んだことはないけれど、未代ちゃんはきっとこの人をお母さんと呼んだだろう。

 ぱきっと音がする。店長がペットボトルのキャップを捻った音だ。「お前はどれでも映画の中の誰かになれるなら、どの映画がいい」最近店長はいつかどこかの話ばかりする。店の奥のR18暖簾の奥から何も持たず客が出てきて、フードの下から俺だか店長だかを一瞬睨んで店を出て行く。
 最近店長は水ばかりがぶがぶ飲む。うちからエビアンをリュックに入るだけ持ってきたら本気で喜んだ。
「分からないけど、なんかSFのやつとか」
「SFなら何でも?」
「マルチ何とかみたいな、平行世界がいっぱいあるみたいなやつ以外なら何でもいい。店長は?」
「なんだろうな」目ヤニが酷い目を細める。「何か、犬とかさ、犬とか馬とか親友とか電気ケトルとか愛とかが出てくる映画だな」
 今テレビに映っている映画はクラウド・アトラスで、俺はまた、何となく既視感を覚えている。初めて見る映画で、初めて見る映像で、なのになぜか俺はこの話を知っていると思う。いつかずっと昔、ここではないどこかで観たような気がする。最近、そういうのが多い。

 初めてスターウォーズを見た時、俺の頭にデススターが墜ちた。双子の/生き別れの/兄弟。これだと分かった。俺の人生は全てレンタルDVDコーナーにすでに陳列されている。まだ展開していない状態で、パッケージの中に眠っている。
 どこかに俺の物語がある。俺の人生がある。俺は呆然と画面を見つめている。

 俺の話を全部聞いてから、それはよかったと店長は言った。
 最初馬鹿にされてるのかと思った。まともな人間なら信じないだろう。俺の人生はどっかのディスクに収まっているなんて、言われたって理解不能だろう。ちょっと違うんだけど、俺が言ってるのは、俺はベンアフレックの生まれ変わりだっていうのと同じようなものだった。自分でもイカれてんじゃないかと思う。
「でもそうなんだろ。お前は、映画に人生のデジャブを感じる。で、どういう映画にだ」
 俺はちょっと考えて、頭の中で単語を挙げていく。双子、これがまず来る。広場、祭り、花火、銃声、ピアノ、言葉に詰まる。思い浮かばなくなったからじゃなくてその逆だった。俺が経験したことがない俺の記憶が決壊して濁流になって俺を押し流す。
 流れが大波になって俺を飲み込んで流れて引いていって、ずぶ濡れの状態で後に残されて、俺は「SF」それだけが言葉になる。

 俺の人生には物語があるのか。薄暗い、レンタルビデオ店の通路を歩いている。店長は明け方に三時間くらい寝る。俺の両側には物語の壁が聳えている。これらの中に俺の物語もあるんだろうか。あったとして、それは俺の物語なのか。
 なぜか小母さんのことを思い出す。仏壇の前で、電気も付けないまま、早朝の青っぽい暗さの中に独りで居る。

「全部終わったら、ここの在庫は好きなの持って行け」
 店長は言う。もう長いこと、喋っていても目が合ったことが無い。汚い眼鏡の奥の店長の眼は、常に四角い画面の光を映している。
「逃げた方がいいですよ」
「知ってるよ」
 何が知ってるよだよと思う。ここのR18暖簾の奥にあるのはAVだけじゃない。「スナッフフィルム」いつも暖簾をくぐるパーカー男が用語を説明してくれたことがある。「本物の犯罪、殺人とかそういうのを撮ったビデオが手順踏めば借りれる場所として、ここはそこそこ有名だ」フードの下から誰かに似た目で俺を見る。「そういうのに興味あるのか」

 パッケージは案外おどろおどろしくなかった。画素の粗いワンカットをそのまま背景にしたような感じで、明るい住宅街の通りを横切る男が、カメラの方に首をねじって振り返っている。画素が粗いから目は五、六粒のピクセルの集合にしか見えない。なんてことはない、ただ被写体と目が合うだけの盗撮画像みたいに見える。
 男は後ろ手に膨れた黒いゴミ袋のようなものを掴んでいる。
 パーカー男に頼んで取ってきてもらったビデオのパッケージを、俺は暖簾の外側のSFの棚に紛れ込ませて隠してる。裏面に書かれたコピーは暗記した。
「どんなフィクションもこいつの前では歯が立たない!圧倒的リアル!あなたはこの現実から目を逸らさずにいられるか?」
 監督兼演出兼カメラマンの名前も暗記した。瀧英雄。
 ビデオの背には店名が書かれた細長いシールが貼ってあって、持ち出そうとすれば多分ゲートでブザーが鳴って引っ掛かる。俺はそのシールを爪で引っ掻いて剥がそうとするけどやたら粘着が強くて駄目だった。店名が少し削れた。TAKI VIDEO。

 その日は、ガラス扉の向こうの店内が暗い。入り口のカウンターの上だけ電灯が付いていて、いつも通り店長がテレビで映画を見ている。店長は上裸で、どこかの部族の刺青みたいな切り取り線が薄い体に走っている。地面にはブルーシートが敷かれている。ちょうど客が立つ辺りに、三脚カメラが立って丸い無機質なレンズで店長を見つめている。
 その日が来たのか、と俺は思う。予期はしていた。
「逃げてください」
 店長は昏い目をあげて久々に俺を見て、ちょっと、理性の一線を跨ぎつつある感じに小さく笑う。「この話は、そういう筋になってない」
 あほかこいつはと思う。どんだけ拗らせてんだと思う。俺は右手にライターを持っていて、店長に見えるように右手の親指を掛けていて、足元のエビアンのボトルを蹴る。「これエタノールです」
「お前にはそんなことはできない」
 試さないと分かんねえだろうがよ。「やるよ」
「いいから、お前はお前の謎を解けよ、全部用意してやっただろ」店長はカウンターに手を付いて身を起こし、積み上がっていたビデオケースの塔が一つ崩壊する。「ここの全部をやったろお前に。自分の物語を見つけろ、世界はお前のものだ」
「どこが?」親指に力を籠める。抵抗がふっと抜けて三角形の炎が灯る。震えてる。「自分は自分の人生の主人公とか、そういう話なら、あんたもあんたで主人公ってことになる」
 俺は火を脅しみたいに翳したまま、そこらに落ちていたチラシを硬く丸めて、がくがく揺れる火に浸した。光って溶けるみたいに燃え始めたそれを、通路の向こうの方に放る。転がって見えなくなる。見えないところで焼失までのカウントダウンが始まる。「逃げますよ」
骸骨が笑う。「俺は、俺のクソみたいな人生の主人公だったしもう退場した」笑ってることが分かるから、まだぎりミイラか。「もう退場した。もう俺は死んでる。お前は何か訳が分からんことに巻き込まれてるんだろう、だったら主人公なんだよ。で、この世界の主人公がお前なら、お前が幸福でさえあればハッピーエンドってことになる」
「でも俺」火が揺らぐ。「マルチなんだかとか平行世界とか、そういうのは嫌だったんですよ」
「へえじゃあ、ここはそういう世界なわけか?」語れと店長の眼が言っている。映画で全編を見ているだけの時間はもう無い。パッケージ裏のあらすじを読むくらいの時間しかもう無い。こいつは最後の最後までスクリーンの前に居座り続ける気だ。映画館が焼け落ちるまで、座席に沈み込んで映画を観ているつもりだ。
「分からないけど、俺は、ここじゃないどこかにいた時のことを覚えてる。俺じゃない俺だった時のことを覚えてる」自分のものじゃない自分の記憶が自分の中にいくつもある。双子、生き別れの兄弟、祭り、花火、銃声。俺には兄が居たことを思い出す。いや、いないんだけど、でも居た。
 ここじゃないどこかの世界で、俺は二等兵の少女だったり、間諜だったり、犬のブリーダーだったり、紛争地帯の教会のピアノだったりした。
 それはもうどうでも良くて、とにかくこれだけは覚えてないといけないのは、俺には兄がいたってことと、兄と何か約束をしたってことだ。どういう約束かというと、思い出す。どこにいようが絶対に見つけると、兄は俺に約束した。
 思い出す。俺のではない俺の記憶の一つを思い出す。あの日は俺と兄の誕生日で、うちの市が行っていた祭の日で、広場に屋台が出てたんだった。昼間なのに花火があがって、空はピンクや黄色のくすんだ煙で汚れていた。
 はじめは、花火とか射的とか有線のスピーカーから流れるオアシスの曲とか子供の喚き声とかに紛れて聞こえなかった。聞こえるようになったころには狂騒の渦に呑みこまれていた。俺は兄の手を引いた。走るのは俺の方が速かった。
 俺は「兄」なんか死んでも呼ばなかった。だってたった十六分の差しか無い。そのくせあれは事あるごとに俺と比較して大人びてるとか褒められて、気に食わなかった。
 俺はあいつの手を引いて走った。走るというより掻き分けている感じに近かった。どこへどう行こうとかは考えていなかった。ただ、絶叫が響く方から遠ざかろうとしているだけだった。
 で、よく覚えてないけど多分俺達は約束をして、それから死んだんだろう。
「でお前の目的は何なの」店長の声色は、多分状況にそぐわないくらい明るい。純粋な物語の展開へ好奇心に突き動かされている。「お前はこれからどうする」自分は見ることが叶わないものとして、未来を先に覗いてしまおうとしている。俺はこれからどうする。
 俯く、視界の端にオレンジの明るさがちらついている。小さい爆発が繰り返すような音も聞こえる。ビデオケースが溶け、中のディスクが熱でよじれ、弾けていくのが見える気がする。無数の物語が焼け落ちていくのが見える気がする。
「あれを探さないと」俺の双子の片割れを探さないと。なぜならあの日、あの祭りと銃撃の日、何があろうとどこにいようと必ず見つけると約束してしまった。
「ぎりぎりだ」店の奥で声がする。顔を上げるとR18暖簾を片手で持ち上げ誰かが奥から出てくるのが見える。
 あいつだ。
 あいつは、あの祭りの日には真矢という名前で、そのあと無数の世界で無数の役回りになって、無数の名前が付いた俺の双子の片方は、今この世界ではそこにいる。今回はパーカー男の役としてそこにいる。
「遅すぎて、もう思い出さないかと思った」仏頂面で言って通路の奥に目を遣る。「よく燃えてるな」
「は」訊かなければならないことは多すぎて、何も無い。「どういうこと」
「さっき君が思い出した通り、僕と君は双子の兄弟だ」見るからに俺より年上の男は平然と言う。「オリジナルは、と言った方がいいかもしれない。あの銃撃事件の日までは双子で、巻き込まれて死んで、それからは配役がめちゃくちゃになった。とにかく僕の方が年上なことだけは決まっている。その辺りのことはまだ思い出さない?」
 俺が答えるより先に店長が口を開く。
「ああ、銃撃事件ってあの祭りの、瀬川卓也が銃ぶっぱなしたやつだろ。俺、いたよ、そこ。撮ってた。そん時のビデオ裏にあるけど、俺、忘れらんないんだけど、双子が死んでるとこ映したよ」店長はパーカー男=真矢を充血した目で見つめている。視線は揺らしもしないまま、口元だけが笑う形に歪む。
「あんたが双子の生まれ変わりだとしてさ、年齢的に、辻褄が合わんよな」
「そうですね。だから、ここにいるんです」
 真矢は腕の時計を見て言う。
「あの時僕が約束したのは二点です。真弓が思い出すのを待っていればここが焼けるので、先に言ってしまえば、「何があっても」「どこにいても」「絶対」弟を見つけるというのが一つ。もう一つは、全部大丈夫だということです。弟は出血して意識を失っていた。僕はずっと弟に話しかけていた。何もかも元通りになるし、全員無事で、僕らは家に帰れる。そう何回も繰り返し唱え続けた。その二点が、絶対のものとして、世界の支柱となった。なぜなのかは僕に訊かないでください」
「そりゃお前らが主人公だからだよ」店長が笑って、真矢は顔をしかめる。
「で、その二点だけは絶対になったせいで、他の部分にしわ寄せが来た」それが俺が今いるここだし、これまでいたあれらの世界だ。「皺っていうか、致命的な矛盾で、潰さないといけない」奥で柱が軋む。天井も呼応したように軋む。もう通路の向こうの明るさは無視できなくなっている。風が熱い。
「すみません」全くすまないと思ってない声色で真矢が言う。いいよと店長は朗らかに答える。俺の方を見る。目に、オレンジのきらめきが映ってきらめいている。
「前にお前、俺になんで映画が好きなんかって訊いただろ。あんときは時間だか寿命だかを得るためって答えたけど違った。映画のいいところは時間がないところだ。あそこでは誰も本当には死なない。俺が一時期死体ばっか撮ってた時も、撮ってしまえば現実から切り離されて映画になるからな。ただの映像の切れ端でもそういう映画ではあるんだ。で、映画の中では死体も死なない。誰も死なない。あそこにあるのは永遠だ」
 真矢が音の無い溜息を吐いて腕時計から顔を上げ、袖口を軽く引っ張って時計を隠す。店長は、俺が見たことがないくらい幸福そうに見える。俺が見たことがない、知らない誰かに見える。
「誰だって自分の物語が消えるのは怖いだろ。誰だってずっと先に残りたい。生き物なんだからそういう志向を持ってるんだ、お前らもそうなんだろう。だからこんなことになってる。こんなことに!」
 店長の声にかき消されながら「昔キャンプ行った時のこと覚えてる?」真矢が言う。顔は、もうそこで背の高い草原のように揺らぐ炎を照り返している。
「どのキャンプだよ」言いながら俺は覚えている。最初のキャンプだ。俺が真弓でこいつが真矢だったころ、父さんと行った湖畔のキャンプだ。焚火に怯えて真矢は声も出さず、ただ目から涙を滲み出させて睫毛をびしょびしょにするいつもの泣き方で泣いていた。俺はひたすら焚火の端を突いて、火の粉が散る瞬間を涎を垂らしそうに見ていた。あのキャンプ。
 物語が燃えていく。俺がいたかもしれない世界が燃えていく。「こんな死に方なんてな」店長は喚いている。「最高だな」奥の方で天井の崩落が起きたらしく、地響きが空間を揺らす。熱い。
「あともうちょっとしたら思い切り息を吸え。二酸化炭素で死ぬ方が楽だから」真矢が静かに言う。
「こういう死に方したことあんの」こいつは焼死初心者にしてはやけに落ち着いている。
「死にかけたことはある」真矢が淡々と答えて俺はちょっと笑う。炎が渦を巻く。
「これは罰なのか? 俺があの惨状を撮ったから? でもあれは記録であり、あれのおかげで君らは未来永劫生きる。ああだからこれはどっちかというとご褒美か?」店長は煙を吸って噎せる。
俺も目と鼻と喉がヤバいから腕で鼻から下を覆って言う。目が痛くて細めると涙が湧き出てくる。何も見えない。灰色のぼやけから噴き出すオレンジの眩しさしか見えない。ふと、思い出す。
「何かお前、学校かデパートかで、火災報知器のボタンわざと押したことあったよな」
「は? そんなことするのはそっちに決まってる、今だ吸え」
 瞬間俺は思い切り息を吸い込んで、煙を肺から脳まで吸い込んで、だから視界がだんだん白くなっていって、苦しみもなく、世界が白に溶けていけばいい。


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