踊って 三流詩人間諜太郎 倒れくる鏡の裏になにがあるおとぎの国かいな死者の国 杉原一司 私はこれからこれら全てがまるでギャグ漫画だったかのように語ろうと思う。 起きたことは変えられないとしても、そのくらいの抵抗は許されて然るべきだと思う。私は私の手に私の物語を取り戻さなければならない。そのくらいの権利は認められていいと思う。全て失ったのだから、せめてその記憶くらいは自分の好きにする権利。 駄目だ、湿っぽくなってしまった。改めて始めなければ。時間は無限に湧いて出るわけではないということに、私たちは断水のその日まで気付かない。さっさと始めよう。昔昔あるところ、に思えるついこの間のことでした、 まことの頭が破裂した。 絶対に、ここから語り始めるのは間違っている。私はいつも間違った方を選ぶ。 武中も武中の両親も私の母も私にそう言った。私は高校二年生から武中のことを武中と呼んできたから、下の名前では照れて呼べなかった。武中の好きだったところが、彼の些細な暴力性(つまり家に入ってきた虫を親指で潰したり、テレビ画面の野球で中日の選手が捕球し損ねると死ねやと怒鳴ったり、私がねえと声を掛けて彼の集中を途切れさせると深く息を吐いたあと髪をぐしゃぐしゃ掻きむしり私の方に黙って手を伸ばしてきたり、そういったもの)で損なわれていって、それらを凌ぐだけの好きなところが見つからなくなっても、私は照れて彼のことを名前で呼べなかった。だって、彼の名前は陽太だった。 皆が私に間違っている、考え直せとそう言った。だって殴られたりしたわけじゃないんやろ? 私は頷いた。殴られたことはない。伸びてきた彼の手は、私の髪を鷲掴んだ。 全部終わったあと、彼の手指には抜けた私の髪が七、八本絡んだ。きたねえと言いながら彼はそれを左手で摘んで台所のゴミ箱に捨てた。 間違ってる、こんなん、と彼はダイニングの椅子に凭れる格好で座り、赤く充血した目で私を見上げた。テーブルの上には離婚届があって、学校事務員に応募する時に書いた履歴書の数倍あっさりした書類のうち、半分はもう記入済みだった。彼の手はペンを持たず投げ出されたままだらりと垂れていた。私は、彼が野球部だったころを思い出した。コンクリート打ちっぱなしの部室で、一人、こうやって目を真っ赤にしていたいつかの放課後を思い出した。私はあの瞬間、間違いなく、彼を愛していたことを思い出した。 間違ってるよ。彼は私の目を真っ直ぐ見つめて言った。 私はしばらく呆然としたあと、ゆっくり首を左右に振っていた。今も愛している。それでも、私は武中がまことに手を伸ばすのを見た。夜の濃淡で全部シルエットになった子供部屋で、泣き喚くまことに向かって始めは宥めるように、じきに苛立ちをぶつけるように何か吐き捨てぐしゃぐしゃと自分の頭を掻き、それからかつてバットを握っていたころのタコがまだ残る右手をまことの方へ伸ばす。 私は首を横に振り続けている。もう遅い。誰かへの愛が本当に駄目になってしまうことはあるのだ。過去の時点、ある一点、あの夕方には完璧なものとして存在した愛が、今もあの夕暮の中では完璧なものとして存在している愛が、今はもう修復しようとかき集めるだけの価値もない。私はゆっくり首を横に振り続けている。 彼はそれを見つめたあと お前は最悪な間違いをしたって、今分からんでもそのうち気付くわ。 そう呪いを掛けた。 そして呪いは私の目の前で破裂した。 ここから語り始めるのは間違ってる。それは分かっているのに、私はしばしば、本当にしばしばそこへ引きずり戻される。私は何度も何度も立ち尽くし、その目の前で、まことの頭は何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も弾け飛ぶ。 輪ゴムを延々スイカにかけ続けて、最後には破裂する映像を見たことがあるのなら、無理矢理例えるなら、それに近い。半袖のシャツを着た少女が襖にもたれ、父親=動画主の輪ゴムをひたすら広げてかける作業に飽き、画面外へ立ち去ろうとし、父親がそっちを見て呼び止めようとした瞬間、それは起こる。 嘘だ、全然違う。やはり人間の頭はスイカではない。 最初の一回は、実際に起こったそれは、凄まじい音と自失しか残さない。反芻するうちに細部が生まれる。スローモーションで展開するまことの額のわずかに左寄りが膨張し、たんこぶが瘤に膨れ、左目も引きずられて吊り上がり、骨格が歪んで目と目の間が開いて馬じみた顔から見開かれすぎた眼球がほとんど飛び出してから、表面張力が破れる。何か内に引き込む凄い力が働いたみたいに、顔の表層は中央部に収縮し、内と外が反転して真っ赤な肉厚の薔薇が咲く。 これが残虐映画のワンシーンなら席を立つか、画面、映画館のスクリーンでもテレビでもスマホでもパソコンでも、画面を破壊してしまえばいい。割ってしまえばいい。記憶の嫌なところは、自分の脳の壊れてリピートし続ける画面を爆破するわけにはいかないってことだ。はは。 笑っていればいつか笑い話になるのだろうか。物語は変容し得るんだろうか。それともこのまま? 一度割れたものはもう二度と元には返らないのだろうか。 明るくて、暖かい春の陽気で空気は煙っていて、風船が幾多の手の中から逃れて飛んでいく。風は緩く、温もったモルモットの毛皮と糞と青緑の蠅の匂いがする。車椅子の老人が倒れた車輪の間から起き上がろうともがいていて、逃げ惑う群衆の足と足と足と砂埃で見えなくなる。遠くで男の子が二人へたり込んでいて、同じような恰好をしているから多分双子だろう。うちの片方は意識が無いかほとんど失いかけていて、右腕からの出血がひどい。その腕を自分の肩に回させ、その頬を両手で挟んで崩れる首を無理矢理座らせようとしている、もう一人の方の肘まで血が伝っている。まだ意識がある方の少年は何か怒鳴っていて、怒鳴られているもう一方は目を瞑っている。 私が鮮明に世界を眺めているのは、自分の膝の上に目を落とせないからだ。その重みと、ぬるい粘りが硬いジーンズ繊維に染み込んでくる感覚。だから私は世界を見ていて、その他は決して見えない。 皆絶叫していて、皆泣き叫んでいる。よくそんなリソースがあるなと私は思う。本当に酷いことは起こり得る。私の理解を超えたことは起こり得、だから理解はできない。絶叫するなんて、悲しむなんて、泣くなんて本当は凄く余裕がある反応なのだ。そんなことを呆然と思っている私は当然泣きじゃくり幼児みたいに顔をぐしゃぐしゃにして助けを求めているのだけど、当然私はそれに気付かない。膝はどんどん濡れていく。 双子の片割れはもう一方の、がくりと落ちた首を押さえて無理矢理顔を上げさせようとしている。酷く痛々しい情景なのと同時に、どこかシュールで、それが悲しかった。私は特に信仰を持ってはいなかったけれど、一人残されてしまった方の彼に、まだ兄弟の耳に何か届かない言葉を語り続けている彼に対して誰かの慈悲が下されることを願った。 瞬間、彼の体は軽く跳ね、のけぞって倒れ、ただの地面の上の起伏になって動かなくなった。 絶叫と破裂音がまた近づいて来る。私は天を仰ぐ。救いが降り注ぎ始める。 そうして私は死んだ。まるで冗談だ。なら私は誰? いまここで語っている私は誰。まことはどこ? まことはどこ? 呆然とした私の隣にいつの間にか幽霊が立っている。さっきの双子の片割れ、弟の耳に口を近づけ何か喋り続けていた、陰気な隈の落ちた少年だ。あなたじゃない、と私は言う。酷く申し訳ないような悲しいような気分が押し寄せてくる。でも、ここに現れて欲しいのはあなたじゃないの。少年の顔が無表情なまま、しかし内奥で鎌首をもたげて暴れかけた激情を抑えて呑みくだしたのがわかる。 まことを知らない? まだ小学生で、すぐに迷う。近所のスーパーマーケットでも迷って、何日も山の中で遭難していた子みたいに通路の隅で膝を抱えて蹲ってた。ああでも今迷子になっているのは私の方だ、道を外れてしまって帰れなくなったのは、スーパーマーケットまで戻る道が分からなくなったのは私だ、誰か私をあそこに戻して。連れ戻して。 少年はひどく傷ついた目をして、それをうまく押し隠した。彼が何も悪くないことを私は知っている。ただこの場にいただけだ。 ふと、双子の片割れはどうしたのだろうと思う。遅れて来るのだろうか。 少年は生真面目な顔をして何か考えてから、俯くように私の耳元に口を近づけ言う。どこかの世界には何の苦しみもなく、痛みもなく、罅ひとつない完璧な世界が存在して、(逡巡して続ける)ここはそうではない。 そうか、と思った。悲しいのか何なのか分からない。ただ、逆再生で全ての傷が癒えていく気がする。同時に取返しが付かないくらい、傷口から血が流れ出ていくような気もする。何の苦痛もない世界。あなたは、と私は言う。あなたはそれを望むの? 少年は虚を突かれたような顔をする。その一瞬、彼の老成した無表情が罅割れ、幼く脆く不安定な少年がのぞく。 だって、全て元通りになる、と彼は言った。 そうか、と思った。その瞬間、きっと私は何かを悟った。世界に苦しみが無ければ、私はまことをこの腕に抱くことはなかっただろう。そしてさっきまでまことだったものを膝に抱くこともなかった。私は自分の目からなぜ涙が滲み出て止まらないのか分からない。悲しみでも喜びでもなく、ただ感情のうねりのなかにいる。 間違えてはないよ、と私は語り掛ける。武中に対してなのか、まことになのか、目の前の少年になのかは分からない。私は何も間違えてないよ。選択肢が二つあって、正解を選ぶか不正解を選ぶかではないのだ。ただ私はここにいて、それだけのことでしかない。他の選択肢が過去のどこかの時点に存在したなんてことは無くて、ただ私が辿った一本の道以外あり得なかった。武中の手を取ったことも、その手を放したことも、どちらも間違いではなく、ただそう在るだけの過去だ。 私はいくつもの夕方を思い出す。 悲惨な夕暮れもあれば、幸福な夕暮れもあって、世界に走った無数の罅も傷も西日を受けて輝いていた。陽が当たるアパートの和室で、まことの両手を武中はごつい手で優しく握ってぐるぐる回すように踊っていて、まことは笑い転げながら踊っていた。息が上がって脚が縺れたまことがこける前に武中はまことの脇に腕を入れてすくい、唸りながら抱き上げた。武中がする絵本に出てくるトロルの真似をまことは気に入って、その頃ほとんど中毒のようにせがんでいた。 武中は片腕でずり落ちかけたまことを抱え直すと振り返り、笑って私の方に片手を差し出した。 高校のコンクリート打ちっぱなしの野球部部室で、電気も付けず一人でベンチに座り込んだ武中に向かって、あの時私は片手を差し出して立ち上がらせたんだった。立っている場所が入れ替わった気がした。眩暈がして世界がぐるりと回った。そのまま武中が私の手を取って、回転のなかに引きずり込んだ。 私は踊った。私たちは踊った。特に作法も知らなかったから輪を作って子供みたいに踊った。どうかしてるみたいに踊った。トロルが喚いていて、まことが笑っていて、私は息を切らしながらやめないでと繰り返していた。もう一回踊って、踊って、やめたら恨むから。呪うから。 私はあの夕暮れがじきに終わると知っていて、それでも唱えていた。繰り返していた。 私はあの夕暮れがもう終わってしまって手も届かないと知っている。あの夕暮れが歪で完璧で美しくて、幸福だったということも知っている。 私は微笑んで倒れ、芝生に散らばった大輪の赤い薔薇のうちの一本になり、どこか遠くのスピーカーから音割れしたオアシスのリブフォーエバーが流れているのが聞こえる。阿鼻叫喚と啜り泣きと何かが燻るような音の幕の向こうから聞こえてくる。オアシスは最悪の兄弟喧嘩をして解散して、もう元には戻らないのかもしれないけれど、でも構わない。完璧な音が完璧な空間に鳴り響いた瞬間がどこかで確かにあったのだろうから、それできっと十分だ。じきにサイレンが重奏でボリュームを上げ、こちらへ近づいてくるだろう。 かわいそうに、と思った。私が? まことが? 多分、あの双子がだろう。世界はもう元には戻らない。砕け散ってしまったものはもう取返しがつかない。そして私たちはしばしばそのことに気付かない。彼はきっと諦めることができないのだろう、だから幽霊になった。 そしてきっとこれからも、諦めることなどできないのだろう。だとすれば、彼の行く手に待つのは薔薇が咲かない茨の道だ。 少年の亡霊が私の方を見つめている。ひどく年老いてしまったみたいな表情だった。彼は「大丈夫」と言った。二人とも、何も大丈夫じゃないことくらいは分かっていた。 「大丈夫、全部なんとかするから。全部元通りにする」 私は微笑んだ。彼がたった今、その考えに呪われてしまったのだと分かった。だから私は微笑んだ、他にできることなんて何も無かった。 欠けも傷もないのなら、それは美しくはないのだということを、彼はまだ知らない。 数時間後、警察が発表した被害者一覧には、私とまことと双子の兄弟を含む四十五人の名前が並び、私たちを巻き込んだ渦は、戦後最大の無差別大量殺人事件と呼ばれるようになる。
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