アイドル

えし



 彼と出会ったのは、友達に無理矢理ライブに連れていかれた時だった。女子かと見紛うほど長い睫毛、整えられた短髪、すらりとしたモデルのようなスタイル...彼は、一世を風靡する男性アイドルだった。その横顔に見とれていた時、彼はふとこちらを向き、にこりと顔を緩めた。
 瞬間、頭のてっぺんから足の爪の先まで、痺れるような感覚を覚えた。体中の神経を侵し、甘く溶かすような衝撃が走っていた。ライブが終わった後も私は、しばらくその場から動けなかった。
 
 これは恋とは違うのだろう。現に私は、彼と付き合いたいとも、結婚したいとも、ハグやキスやその先までしたいとは思わない。俗に言う「ガチ恋勢」のような特徴を、私は持ち合わせていない。ただ彼の一挙手一投足に「光」を感じ、彼の言葉に「教え」を見出し、彼の存在に「赦し」を得る。「神」と「信徒」という言葉がぴったりな関係。それが彼と私だった。毎日彼に「祈り」を捧げ、床に就く。私の日常は、そんな「信仰」で成り立っていた。
 
 その日常が、ある日突然、瓦解した。
 
 週刊誌の一面に大きく写された彼の後ろ姿。その隣で彼に優しく笑いかける女。二人は仲睦まじく腕を組み、夜のホテル街を歩いていた。激しく動揺する私をよそに、テレビでは彼が一般女性との結婚、そしてアイドルを卒業することを発表した。数年後には、第一子の誕生を祝うニュースが流れた。
 
 私の「神」は死んでしまった。
 
 
 夜空に星が輝く夜。花屋で仕立ててもらった薔薇の花束を抱え、彼の家に行く。彼に感謝を伝えるために。彼に別れを告げるために。そして、私の「神」にもう一度会うために。インターフォンを押し、彼を待つ。緊張に体が強張る。ドアがゆっくりと開かれ、彼が現れた。
 
 期待は、落胆に変わった。
 
 そこにアイドルとしての彼はいなかった。伸びた髪は粗雑にまとめられ、モデルのようだった体形はだらしなく緩み、私に向けられ続けていた笑顔は、何かに怯えるような表情に変わっていた。
 「なんでここが...!」
 彼の声は震えていて、それがさらに私の失望を加速させた。
 「どうしたの?あなた。」
 奥から現れたのは、彼を奪った女だった。一度は受け入れたはずの憎しみが私の中を駆け巡る。だが、その不快感は長く続かなかった。女の腕に抱えられた赤ん坊が目に入る。その顔は、彼によく似ていた。思わず見入ってしまった時、赤ん坊がにっこりと私に笑いかけた。
 
 瞬間、あの時と同じ衝撃を覚えた。体の芯が甘く痺れ、とてつもない幸福感が私を襲った。
 
 その後の判断は、一瞬だった。
 
 花束に隠していた果物ナイフを目の前の男に突き立て、引き抜く。玄関が薔薇色に染まった。悲鳴を上げる女の口に花束の薔薇を数本押し込み、突き飛ばす。床に倒れ、痛みに悶えるその頭をハイヒールで踏みつけると、肉と骨が潰れる感触が伝わってきた。数十回続けると、女は完全に動かなくなっていた。
 絶命した女の腕から「彼」をそっと取り出し、抱きかかえる。微かな温もりと甘い香りに、眩暈がした。しばらく見つめていると、「彼」は私に優しく笑いかけた。まるで私を「母」と認めたかのように。
 
 私の「神」は復活した。
 
 そうして「聖母」となった私は、血にまみれた玄関を後にした。
 
 
 ・「Idol」...(信仰の対象とされる)偶像、神像。崇拝の対象となる人。


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