晴れわたる、夏

林檎



 通勤ラッシュ最後の電車が、蒸された空気を切り裂いて去っていく。けたたましい蝉の鳴き声と共にホームに置き去りにされた青年――大海航は、手の中の単語帳を握りしめた。――escape、~から逃れる、~を避ける、逃亡――hang、~を掛ける、~を絞首刑にする、ぶら下がる――release 、~を解放する、~を発表する――とっくに覚えた英単語を意味もなく繰り返す内に、胸にぐっと熱いものが込み上げてくる。理由をはっきりと言葉にはできないけれど――何となく、世界全体に取り残されたような気分だった。名状し難い感情の塊が頭の中で溶けだして、堪えきれず、大粒の涙となって零れてしまった。ぽとりと紙面に落ちた黄色い蛍光ペンの線が滲む。
 みっともないと、頭の中で誰かの声が繰り返される。止めようと目を擦ってもかえってひどくなるだけで打つ手はなかった。電車が去った後で良かった。これを誰かに見られでもしたら――
「暑そうやなあ」
 大きな人影が航の前に立つ。足音は無かった。いつの間にか、目の前に居た。ちらりと上目で見上げると、大柄な男が口元だけの薄ら笑いを浮かべて航の顔を覗いている。航はやってしまったと思いつつ、目を合わせまいと唇をきゅっと結んだ。
 それを見た男は、くっきりとした隈のある目を細めた。白髪交じりのもっさりとした癖毛を掻きながら、秘密基地の場所を教えるように声をひそめて囁く。
「ね、おじさんち、ハーゲンあるけど来る?」

 ――いかのおすし。行かない、乗らない、大声を出す、すぐ逃げる。最後の一つは何だったっけと思いながら、航は沸騰してしまいそうなほど熱いアスファルトを早足で歩いていた。目の前には、例の大男。これでも歩調を合わせようとしているのだろう、長い足をわざとらしくゆっくりと進めている。普段だったら付いていかなかった。いつもだったら、ちゃんと逃げ出せていた。それぐらいの分別はあった。しかし――今、航は普通ではなかった。だから今こうなっている。
 何でもよかったのだ。何でもいい、誰でもいいから、自分をどこか遠くに連れて行ってほしかった。風に巻き上げられる木の葉になって、連れていかれてしまいたかった。何から? それは分からない。ただ、とにかくどこか遠く――非日常に。自暴自棄ともいえる自身の逃避的な思考回路に航は呆れ笑いを零した。

 男の家は、駅から推定徒歩七分のボロアパートだった。薄汚れた白壁を這う朽ちかけた配管は、銀色のテープでぐるぐる巻きになっている。グリーンカーテンがあったであろう緑色のネットには萎びた植物の残骸が纏わりついていた。
「ここの、二階の端っこがおじさんち。右側のね」
 錆びついたトタンの階段を上がりながら、男が端のドアを指差した。
 妙に間延びした訛っているのか訛っていないのか分からない口調も、いまいち上手く作れていない笑顔も、全てが胡散臭い。逃げ出したほうが良いだろうかと思いつつも、もう少しだけ流れに身を任せてみたくもある。いざとなれば、逃げればいい。背負っている鈍器のようなリュックを武器にして、全力でぶつかってやれば少しは怯むだろう。その隙に――
「ここやで~」
 呑気な声が、不穏なシミュレーションを中断させてしまった。
「......お邪魔します」
 所々塗装が剥げた金属製のドアを男が開けて、先に入れと促した。航が玄関に上がったのを確認し、静かにドアを閉めて後ろ手で鍵を掛ける。かちゃりという音と同時に、頭を割るように響いていた蝉の声が止んだ。
「ごめんなあ、汚くて」
 狭苦しい玄関で靴を脱ぎながら、航は一人暮らし用の小さなワンルームを見渡した。部屋は雑多なもので溢れていた。ゴミ屋敷とまではいかないが――本に雑貨にゴミに、あらゆるものが秩序無く床に散らばっている。廊下に流し台の下に、部屋の奥まで。壁に沿うように置かれているカラーボックスは縦に横にと押し込まれた本で破裂しそうだ。
 男は立ち尽くす航をそのままに部屋を進み、中央の天井からロープで吊り下げられたリモコンを手に取った。エアコンのセンサーにリモコンを向けて、数回ボタンを押す
「こうしとけば失くさんから便利やで。デッドスペース? ってやつや」
 ......梁のある部屋なんて珍しい。ガタガタと不穏な音を鳴らすエアコンを見上げて、航はそんなことを思った。
 男が部屋の奥に敷きっぱなしの薄い布団をそそくさと畳んで、空いた小さなスペースに立て掛けていた折り畳み式のちゃぶ台を置いた。そのまま手慣れた様子で緑色の座布団を山の底から引っ張り出して、航に差し出す。
「どうぞ」
「ど、どうも......」
 座布団は綿が潰れてぺちゃんこになっていた。不審すぎる男の妙な気遣いに航が会釈すると、男はやっぱり下手くそな笑顔を顔に貼り付けた。一体何をするつもりなのか。穏やかそうな垂れ目が却って彼の思惑を煙に巻いているような気がした。戦々恐々としていたいのに、どこか抜けた場の雰囲気に飲み込まれてしまいそうだ。
 男が大股で雑多な床を掻き分けて、よっこいせ、と冷蔵庫の前でしゃがんだ。殆ど物の入っていない冷凍庫の引き出しを開けながら、のんびりと航に声を掛ける。
「チョコ、イチゴ、抹茶、バニラ、どれがええ?」
 航は耳を疑った。ハーゲンダッツは本当にあったらしい。それも、味の選択肢付きで。
「バニラ、で」
「慎重派かあ」
 ばりばりと箱を開けて、男がアイスカップを一つ取り出す。
「自分、名前は?」
 そう尋ねながら、男はちゃぶ台にハーゲンダッツと使い捨てスプーンを置いて、畳の上にどっしりと胡坐をかいた。
「航......大海、航」
「へえ、オオミワタル君。ええ名前や。あ、リュック下ろし」
 胡散臭い関西弁もどきに促されるままに航はリュックサックを下ろした。古びた木の床が軋む音がして、思わず体が跳ねる。
「おじさんの名前は夏太郎な。どうぞよろしく」
「え?」
 聞き間違いだろうか。カッターシャツがはりつくほど汗ばんだ背中にクーラーの風が当たり、航はぶるりと身体を震わせた。そんな航に構わず、男――もとい夏太郎は続ける。
「ワタル君。あのなあ、ちょっとおじさんからのアドバイスなんやけど。もっとな、警戒心みたいな? 持ったほうがええで」
 不審を覚えながらも、航は目の前のアイスの蓋を躊躇いなく開けてアイスを食べ始めた。あまりに無防備な様子に、夏太郎は眉を顰めつつ、顎の無精ひげを撫でる。
「おじさんが悪人だったらな。ワタル君、今頃漁船かラブホか森の奥やで」
「悪人じゃないんですか」
「さあ」
 責任のせの字もない返事に今度は航が眉をひそめた。しかし、手は止まらない。真夏の太陽に蒸されてしまった体にとって、冷たいアイス、それも普段食べられない特別なそれは、禁断の果実なんかよりもずっと魅惑的だったからだ。強張った体も柔らかくなってしまうような非日常の甘さに、航は既に絆されかけていた。
「......人から貰った食べ物もな、口に入れちゃいけません」
 わざとらしく溜息をつく夏太郎をちらりと見て、航は自分から連れ込んでおいてくどくどと説教を垂れるなよ、と心の中で悪態をついた。
「その制服、朝山高の? アタマええとこやん。何、夏休み無いんか」
「受験だから、今年......」
「あー模試とか補習とか? あるよな、夏の。懐かし~」
 気さくな様子で話を続けようとする夏太郎と目を合わせないように、カップの側面についたアイスをこそいで口に運ぶ。クーラーもようやく効き始めたらしく、あれだけ熱かった顔はすっかり冷めていた。
「で、ワタル君はサボり?」
「まあ......」
「そうかあ」
 夏太郎はそれ以上、航の事情に踏み込まなかった。馴れ馴れしいのかそうでないのか、よく分からない。悪い人ではないのかもしれない、と甘みに絆されかけた頭で考えながら、食べ終わったカップにスプーンを入れて、手を合わせる。
 ......取り返しがつかなくなる前に、帰ってしまえ。
「ごちそうさまでした」
「待て待て待て」
 勢いよく立ち上がった航の足の甲を、夏太郎が指でつついた。
「そりゃあないで、食うだけ食って帰るとか。まあ座り」
 航はしぶしぶ背負ったばかりのリュックサックを下ろした。今度は慎重に下ろしたので、床は軋まなかった。
「おじさんなあ、ワタル君に手伝ってほしいことあんねんけど」
 夏太郎がゆっくりと立ち上がって、芝居がかった仕草で辺りを見回す。
「片づけをな、手伝ってほしいねん」
「片付け」
 何かの隠語だろうか。航はブルーシートに包まれた塊が車のトランクに詰められている画を想像し、腕を組んだ。流石に、それは無いか。
「ほら、片付けって一人でやっても進まんやん? おじさんちょっとワケアリでなあ、部屋まっさらにせんとあかんくて。必要なものとか、そういうの無いから構わず全部捨てたってや」
 拒否の意を挟ませないような早口で夏太郎が捲し立てる。
「な? ハーゲンのお礼や思って」
 親指と人差し指で空になったカップを摘まんで航の前で揺らしながら夏太郎がウインクした。
 航はげんなりしながら、小さく頷いた。......そうせざるを得なかった。
「あの、名前」
「え、おじさんの名前?教えたやん」
「夏太郎って」
「本名やで~」
「......」
「ほんまやって。ナッチャンって呼んだって。敬語とかいらんで」
「......ナッチャン......」
「さ、始めよ。暗くなる前に帰らんと怒られるで」
 不審がる航を置き去りにして、夏太郎は鼻歌を歌いながら、部屋の隅に転がっていたレジ袋から一番大きいサイズの市指定ゴミ袋を取り出した。
「これゴミ袋な、遠慮せずバンバン使ったって」
「分別は?」
「全部燃えるやろ、火ぃ点ければ」
 あまりに適当な返事に何かを言い返そうとして、止める。この男に何を言っても無駄だろう。
「あ、本だけ束ねて古紙出すんでよろしく。俺は水回りから片付けてくから、ワタル君はあの辺よろしく」
 押し付けられた黄色い袋を破り捨てたくなる衝動を抑えて、航は重い足取りで雑貨の山--の一つに手を付けた。ごちゃごちゃとした雑貨さえ何とかすれば、少しはましな景色になるだろう。どうせ全部捨てるなら、そんなに時間はかからない筈だ。さっさと終わらせて、さっさと帰ってしまおう。
 心ならずも片付けを始めた航を見て、夏太郎はほくそ笑んだ。


 航は雑貨の山の一番上にあったキャンバスを手に取った。ノートくらいのサイズの軽いキャンバスに、海から飛び出てくる二匹のイルカが妙にぬめぬめした質感で描かれている。
「何これ、ディズニー?」
「あ~なんだっけそれ。あれや、なんとかセンの......斡旋? 螺旋......せや、ラッセン」
 ラッセン――画家の名前だ。聞いたことがある。といっても、その絵を見るのは初めてだったので、納得感は無かった。代わりに浮かんだのは、数年前に流行った芸人のネタだった。もう名前も顔も思い出せないけれど、一時期爆発的に流行っていた気がする。
「昔彼女に買わされてん。本物らしいで。お金に困ってたみたいでなあ」
「彼女」
「過去形やで。何人目やったかな......結構な金額渡したんやけど――次の日に音信不通になってもうた」
 てかてかとしたキャンバスの表面を指でなぞりながら、元気にやってると良いけどなあ、と
 夏太郎が笑う。その言葉に皮肉めいた含みはなく、ただただ相手を大切に思うような、穏やかさだけがあった。少なくとも、航にはそう見えた。
「ふーん......」
 航はキャンバスをゴミ袋に突っ込んだ。キャンバスの裏に見えた「printed in China」の文字には気づかないふりをして。

 --駄目だ、全然終わりが見えない。
 いくら捨てても減らない雑貨に、早速航はうんざりしていた。気分転換をしよう。といっても、片付ける場所を変えるだけだが--航は、もはや本棚に入り切っていない本の山に手を付けた。
 古紙に出す、ということだから、ある程度の大きさ毎に分けて、紐で束ねなければいけない。
 ビニール紐--航は部屋を見渡して、すぐに諦めた。眉間を揉みながら、キッチンのほうの片付けを進めている夏太郎に声を掛ける。
「あの......ビニール紐というか、なんか結べるやつ、ある?」
「結べるやつ......?」
 夏太郎は首を傾げたが、すぐ合点がいったように手を叩く。
「ああ、本か。えーっと、玄関のほうにあったと思うんやけど--」
 ちょお待っとって、と言い残し、夏太郎は玄関収納を漁り始めて--数分後。
「あったあった。おまたせワタル君」
 頭をぽりぽり掻きながら、夏太郎が透明ビニール紐を航に渡す。
「縛り方分かる?」
「多分」
「ん、分からんかったらまた呼んでな」
 航は夏太郎を見つめ、小さく頷いた。

 夏太郎の本棚は、とにかく混沌としていた。『デキる男の爆モテファッション ティーンエージャー編』『ツァラトゥストラはかく語りき』『邪馬台国の真実』『車輪の下』『エクセルマスターガイド』『ゲーテ詩集』『大人の学び直し 高校物理編』『人間失格』
 ............夏太郎も、文系か。
 航はいちいちタイトルを確認するのを止めた。
 文庫本、新書、ハードカバー、雑誌、それ以外、大事そうなもの--いくつかの山に分けて、航はそれぞれを紐で結ぶ。何冊か、卒業アルバムやら同窓会名簿やら、大事そうな本が含まれていたので、それは端に除けておく。
 しかし、まあ--よくこれだけの本を揃えたものだ。縛っても縛っても終わらない本の山に溜息を吐きながら、航は少しだけ感心した。


「あ」
 動いているのか動いていないのか分からない壁掛け時計を見て航は声を上げる。時計の針は正午を指していた。
 黙々と雑貨やらゴミやらを袋に突っ込んでいく夏太郎を横目に、航は大きなリュックを漁った。これでもかと詰められた教科書や参考書をかき分けて、ランチョンマットの包みを取り出す。
「弁当?」
 手を動かしながら、夏太郎が顔だけを航のほうに向ける。学校も昼休みに入っているだろう。柔らかくなった保冷剤を揉みながら、航はおずおずと頷いた。
「休憩しよか」
 夏太郎がちゃぶ台の上を手で払った。

 弁当の具材は、いつも通りのものだった。冷凍食品のシュウマイとチキンナゲット、プチトマト。のりたまがかかった米、そして甘い卵焼き。毎朝、自分より早く出かける母さんが作ってくれている。 
「いただきます」
 航は手を合わせた。
 まずは、好物のシュウマイ。二個入っているうちの一つだけを食べて、喜びを最初と最後に分散させるのが、航の流儀だった。ふにゃふにゃの皮と少量ながらもうま味の閉じ込められた肉、アクセントに入っているエビの触感を楽しみつつ、味が無くならないうちに飲み込む。
「ええなあ、弁当」
 のりたま米をいくつかの塊に切り分けたところで、声を掛けられる。ひとかたまりを箸で口に運びながら、航は視線だけを夏太郎に向けた。夏太郎は、頬杖をついてただただこちらを見ている。食べ始めてから、ずっと。......やりづらい。
 米を食べ進めながら、どう返すか考えあぐねるうちに、いつの間にか弁当箱の半分が空になっていた。航は箸を上下さかさまにして、チキンナゲットを掴む。
「......食べる?」
「いらんいらん! 高校生に飯たかるおっさんとかヤバいて」
 航は何も言わず、箸で持ち上げたチキンナゲットをそのまま自分の口に運び、残る卵焼きとトマトに取り掛かった。
 夏太郎はやっぱり、航の食べる姿をずっと見ている。若干の気まずさを覚えつつ、航は残しておいた最後のシュウマイを食べる。
「ごちそうさまでした」
 振り切るようにぱちんと音を立てて、航は手を合わせる。夏太郎が、おかずのかすも残さず完食された弁当箱を覗き込んで、なぜか満足そうに笑った。

 弁当箱をリュックにしまい、再び部屋の片付けに戻る。
「うわ」
 雑貨の山の中に、ティッシュの塊が落ちていた。うっかり触ってしまった航は小さく悲鳴を上げた。不潔だ。流石に使ったティッシュをそのままにしておくのは無い。しかめっ面でつまんで捨てようとしたところで、それがただのティッシュの塊でない事に気づいた。中央のあたりが輪ゴムで括られている。破かないようにそっと広げると、ティッシュの塊の正体はてるてる坊主だった。
「夏太郎、もしかして子供居る?」
「なんで」
「これ」
 てるてる坊主を夏太郎の目の前にぶら下げる。滲んだ顔のパーツがひどく不気味で、これでは逆に雨が降りそうだと、航は笑う。
「それ俺が作ったやつやで」
「子供の運動会?」
 自分の母親が、学校行事のたびにてるてる坊主を作っていたのを思い出して、航は尋ねる。
「ちゃうわ。なんでこんなおじさんが、そんな。ガキなんかこさえたことないで」
 下品な言葉遣いに航が眉を寄せる。潔癖な反応に夏太郎は短い襟足をぽりぽり掻きながら曖昧な笑みを作った。
「......多分?」
 自信なさげに付け足した言葉に航の眉間の皺がもっと深くなったのを見て、夏太郎が誤魔化すように話を進める。
「いつやったかなあ。夕方Eテレでやってたから--てるてる坊主の歌」
「何それ」
「急な思い付きやで」
「で、晴れた?」
「降った」
 夏太郎が、航の手から不格好なてるてる坊主を摘まみ上げた。水分を失った輪ゴムが千切れて、ぱらぱらと床に落ちる。
「ままなりませんなあ」
 苦笑いを浮かべた夏太郎は、輪ゴムの残骸とてるてる坊主をゴミ袋に入れた。


 捨てても捨てても減らない物の山に途方に暮れそうになりながら、何時間も。気づいたときにはもう夕方――午後四時を回っていた。狭い玄関でもぞもぞとスニーカーを履く航を見下ろしながら、夏太郎が笑顔で喋りかける。
「いやあ助かったわ。ワタル君のお陰で大分片付いた」
「あんま変わってないけど」
「いやー、大分変わったで。四分の一くらい?」
「四分の一」
「何、ワタルくん。言葉繰り返すの癖なん? じゃ、あと三日間よろしくな」
「えっ」
 さらりと掛けられた思いもよらぬ言葉に、航は目を見開いた。ドアを開いたまま、体が固まる。
「ハーゲンあと三個も残ってんねん。おじさんあんまアイス食べんから、な?」
「別にアイス食べたいわけじゃないんだけど」
「え~お願いワタル君、この通り!」
 反応の悪い航に向かって夏太郎は両手を拝むように合わせ、ぺこぺこと頭を下げた。
 ――自分よりずっと年下の子供にそうやって頭を下げて、プライドは無いのだろうか。
 大男の醜態に溜息をついて、航は部屋を出た。




 ――来てしまった。
 結局次の日も、航は電車に乗らず、夏太郎のアパートを訪ねていた。どうせ初めから学校なんて行く気は無かったのに、リュックサックには教科書や問題集がパンパンに詰まっている。自分の臆病な心が言葉通りの重荷となっていることに、航はため息をついた。
 今から行けば、二時間目からは間に合うけど--
 ドアの前、インターホンを押すか引き返すか迷って、体を翻しかけた瞬間――ドアが開いてしまった。昨日と同じ服を着た夏太郎が目を丸くして航を見つめる。
「わ、ほんまに来てくれたんか。ええ子やねえ」
 夏太郎が脚でドアを押さえたまま、顎を触る。そして、俯いたままの航が大きなリュックを背負っているのを見て、にんまりと目を細めた。
「......や、学校サボってんか。悪い子やったわ」
 そっちが来いって言ったんだろ、と顔を上げて、航は唇を噛んだ。しかし、夏太郎は航の言わんとすることを全て見透かしたように、軽口をたたく。
「せやせや--俺のせいにしとき」
 夏太郎が、大きな背中をぴったりとドアにつけて、入れ、と促す。もはや言い返す気も湧かず、航はつま先でそそくさと靴をそろえつつ、部屋に上がった。
「お邪魔します」
「どうも~」
 気の抜けた家主の返事を無視して、航は壁沿いにリュックを下ろした。軽くなった体で伸びをして、部屋を見渡す--色々なものをひっくり返したせいで、始めよりごちゃごちゃしている。
「あ、そうや」
 服がはみ出まくっているタンスに早速手を付けたところで、声を掛けられる。
「今日から報酬は後払い制ってことで。ハーゲンは後で、な」
 夏太郎がばりばりと市指定ゴミ袋の袋を開ける。
 ......ハーゲンダッツ。完全に忘れていた。
 昨日食べた甘ったるいバニラの味が、航の口の中に蘇る。もしかして、夏太郎は僕がアイス目当てでここに来ているとでも思っているのだろうか。そんな単純な。
 いや、でも......アイス目当てじゃないとしたら、残る理由は、ちょっと情けないものばかりだ。
 アイス目当てということにしておこう。航は一人頷いて、タンスからシャツを引っ張り出した。

 タンスには、服やらアクセサリーやら、そういうファッションアイテムがこれでもかと詰め込まれていた。アクセサリーは、金属製のゴツい指輪やら鎖みたいなネックレス、ごたごたしたピアスと、あまり良い趣味ではない。今はあんなぼろぼろのスウェットを着ているが、元々はおしゃれ好きだったのだろうか。
 身なりはあんなだが、夏太郎はよく見ると、いわゆる男前、とでも言えそうな顔をしている。普段そういう人を見ることが無いので、上手くは言い表せないが--鼻筋がしゅっとしていて、彫りが深くて、ああいう俳優を見たことがある気がする。それなりの格好をすれば、それなりの見た目になるのだろうな、と航は勝手に考えながら、ひたすら物を捨てていく。
 大方服は捨てただろうか、というところで、こつりと硬いものが手に当たった。アクセサリーではない。もっと大きくて、重い--瓶だ。
 ずっしりとした黒い角瓶には、金色のラベルが貼られている。中には半分ほど液体が残っていて、鼻に近づけると、重くて甘ったるい匂いがした。
「トム......フォード......ノ、......」
「トムフォードのノワール。あー、香水やね。なつかし」
 いつの間にか後ろに立っていた夏太郎に、香水瓶を奪われる。
「香水ってどうやって捨てんやっけ......燃えすぎないんかな、燃えるゴミで出したら」
 ぶつぶつと呟きながら、瓶の中の液体を揺らす夏太郎。航はそれとなく、その右耳に目を凝らした。
 ......あった。ピアスの穴。耳たぶに、二個。
「何」
「や、アクセサリーとかピアスとか、そういうの付けるんだって」
 航の言葉に、夏太郎が瓶の蓋を開ける。
「昔な。プレイボーイだった頃の事や」
「プレイボーイ......」
「そりゃもう、モテモテのモテ男よ。毎日色んな女の子のベッドに--」
 会話があらぬ方向に向かいかけたので、航は夏太郎の腕を肘で小突いた。
「ワタル君って潔癖?」
「......」
 航は俯いて、スマホのブラウザを開いた。
「ティッシュに吸わせて密閉、二重のポリ袋に入れて捨てるって」
「へえ」
 夏太郎の生返事に、航は振り返る。と、同時に甘い香りが鼻をくすぐる。夏太郎が、腕に香水を付けていたのだ。瓶越しに香ったのが濃厚になった、そう--イオンに入っている高い服屋の匂い、とでも言えば良いのか。普段あまり匂うことのないタイプの香りだ。
「大人の香りやで~、ワタル君も付けてみる?」
「いい」
「潔癖やなあ」
 夏太郎がくつくつと笑う。甘くて重くて、どこか苦い--鼻にじっとりと纏わりつく、大人の匂い。航は知らず、産毛しか生えてこない自身の顎を撫でていた。 

 服飾類をおおかた片付けて、航は隣のカラーボックスに手を付けた。試しに一番上の収納ボックスを引っ張り出して--溜息を吐く。混沌としていた。物の分類なぞ何のその、とにかく目についたであろう物が何でも放り込まれている。雑誌は本の山に、文房具はゴミ袋に、謎のオブジェもゴミ袋に。眉をひそめながら、航は黙々と仕分けを進める。
 その中に、航は奇妙な物を見つけた。未開封、紺色の袋に入った、ハッピーセットのおもちゃだ。
「おしゃべり宇宙人」
 航が商品名を読み上げると、夏太郎がのそりとベランダから出てきた。ちょうど香水の中身を処理し終わったらしい。例の甘い匂いを全身に纏わせている。
「何、また変なの見つけたんか」
 航は頷いて、紺色のビニール袋に爪で穴を開ける。黄色いふにゃふにゃとした輪郭に、印刷された顔。中心には惑星の形をした赤いボタンが、飛び出した四つの部分には、丸い金属板が付いている。気の抜けた曖昧な笑みは、どこか夏太郎に似ていると思った。
「......隠し子?」
「んなわけないやろ」
 一緒に入っていた小さな説明書の通りに上の金属板と左の金属板を指で抑えると、がさついた小さな音声が流れた。
 --ラッキー!
 人体を通して電流が流れるらしい。説明書にはそう書いている。
「なんやそれ」
「なんだろう」
 宇宙人、エイリアン? 航の頭に、alienという英単語が浮かんだ。英語の授業で先生が言っていたこと--そう、alienの、他の意味。何だったかな......とにかく、「宇宙人」以外に色々意味があったのだ。英単語帳の、ページがぼんやりと浮かんだけれど、思い出せない。後で確認しておこう。
「ハッピーセット自分で頼んだの」
「おじさん胃小さくてなあ、ハッピーセットくらいが丁度ええねん」
 全然ハッピーじゃないじゃないか、理由。航はこの大柄な男がハッピーセットを頼む姿を想像して、思わず噴き出した。
「なんやねん、急に」
「いや......はは、なんでもないけど......ちょっと手貸して」
「手?」
 差し出された手のひらに、自分の手のひらを乗せる。自分より二回りほど大きい手のひらは冷たくて、ちょっとがさついていた。
「で、ちょっとそこ触って」
 上側の金属板を持ったまま、夏太郎に下側の金属板を触らせる。
 --ワレワレハトモダチデス!
 流れた間抜けな音に、夏太郎がいつもの笑みを浮かべた。おもちゃの顔と同じ、しかしどこか毒を混ぜたような表情だ。
「あー、そういう......こういうおもちゃ昔流行らんかった?」
「そうだっけ」
「......世代がちゃうんか、一回り半くらい」
 夏太郎が眉を下げて、自分の手を航の手のひらから離したり、もう一度付けたりを繰り返す。
 --ワレワレハトモダチデ、ワレワレハ、ワレワレハトモ--
「ええなあ、ハッピーで」
 小さい子供のようにおもちゃを弄ぶうちに、もともとがさついていた音声がどんどん小さくなっていく。
 --ワワワ、ワワワレワレハ、トモダワワレワレ--
 そして--静かに音が消えた。何度手を触れさせても、鳴らなくなってしまう。
「壊れてもうた」
「電池が無くなったんでしょ」
「ああ......」
 夏太郎が航の手からおもちゃを取り上げて、そのままゴミ袋に入れた。
「アホ面や」
 ......夏太郎に似てると、言わないでおいて良かった。


 その後しばらく片付けを続けて、三袋目のゴミ袋に突入しようとしたところで、時計の針が正午を差した。
「ねえ」
 夏太郎には、いつでも休憩を取ればよいと言われている。けど、一応断っておいたほうが良いだろう。
「弁当食べていい」
 そう尋ねながら、航は既に弁当箱の蓋を開けんとしていた。夏太郎は苦笑して、折り畳みのちゃぶ台の上を手で払った。
「夏太郎は」
「俺?」
「昼ごはん」
 擦り切れたポケモン柄の箸を手に持って、航は夏太郎の顔--の、少し下のほうを見る。
「いやあ、俺はええわ。お腹すいてへんもん」
 そう、と頷いて、航は弁当の蓋を開けた。
「あ」
 蓋の裏側についていた水滴が手を伝い、ちゃぶ台にこぼれ落ちる。航は箸を置いて、ランチョンマットの端で拭こうとする。
「ええよええよ」
 どこからか取り出してきたボックスティッシュを手に、夏太郎が航を制す。箱の底から四、五枚のティッシュを引っ張り出して、濡れた場所にまとめて置いた。水を吸ってしなりとしたティッシュの塊を、航がそっと両手で包む。
「あの、ごめん」
 縛ったばかりのゴミ袋にティッシュを突っ込みながら、しゅんと肩を下げる。
「ちょうど使い切りたかったから気にせんとって、ね」
 そう念押しされた航は、ありがとう、と微かな声で呟いた。
「はは、ええのに」
 ティッシュの空き箱を畳みながら、夏太郎はやっぱりへらへらと笑った。


 気を取り直して。
 今日の弁当はいつもの卵焼きにシュウマイ、のりたま米にミニトマト。加えて、ささみチーズカツ。母さんがかけてくれたであろうソースがしっかり染みている。
「いただきます」
 手を合わせながら、航はちらりと夏太郎のほうを見る。今日もまた、腕を組んでこちらを見つめていた。  
「......何」
「いや、何でも。どうぞお構いなく」
 そう言われても、気まずいものは気まずいのだが。
 反論する気も起きなくて、航はしぶしぶシュウマイに箸を付けた。
「それ、自分で作ってるん?」
「いや......母さんが」
「へえ、ええなあ」
 母さんか、と夏太郎がぼやく。
「ワタル君は、立派なご両親にちゃーんと大事に育てられてきたんやろなあ」
 それは、どういう意味だろう。航はミニトマトを口に入れる。こちらを馬鹿にするような声色ではない。であれば、言葉通り?
 両親に大事にされていたって、夏太郎はそうじゃないのだろうか。尋ねようとして、止める。......人の家庭事情を勝手に聞くのは良くないだろう。昨日より少し大きめに切り分けた米と一緒に、邪な好奇心を飲み下す。
「ああそうや、ワタル君、今日何時まで空いてるんかな」
「四時半には帰る。塾あって」
「塾って......岡駅のほう行くん」
 ソースの染みたささみチーズカツを飲み込んで、航は首を振った。
「ううん、すぐそこにあるから歩き」
「この辺に塾なんてあったかなあ。駅のとこの鴎州?」
「......個人経営のとこ。生徒も二人しかいないし」
 航は僅かに瞼を伏せて、最後のシュウマイを口に入れた。柔らかい肉の塊を噛んで、ごくりと飲み込む。
「ごちそうさまでした」
 ワタルが手を合わすと、やっぱり夏太郎は満足そうに笑った。

 昼食を終え、次はどこに手を付けようか--と航は立ち上がる。
「......」
 先程ハッピーセットのおもちゃを見つけたカラーボックスの横に、引っ越し業者の段ボールがどしりと鎮座しているのを一瞬視界に入れて、目を逸らし、視線を戻す。段ボールにはぴっちりとガムテープが貼られており、剥がされた形跡はない。つまり、未開封だ。
 どうせいつかは片付けねばならないのだ。仕方がない--と腰を下ろし、航は爪でガムテープの端をひっかいた。
 格闘すること数分、ようやくガムテープを剥がす。しっかりとくっついていたので、段ボールには無惨な跡が残ってしまったが、どうせ捨てるのだ。目くじらを立てるようなことでも無いだろう。
 ごくりと唾を飲み、そっと段ボールを開ける。
 中に入っていたのは、へたった男物のリュックサックと、数枚の服と、それから--
「......タコ焼き機?」
 布類を脇に除けて、航は小型タコ焼き機の箱を持ち上げる。ねじりハチマキを巻いたタコが、タコ焼きの舟を笑顔で持っているパッケージに眉をひそめて、夏太郎を呼ぶ。
「どしたん」
「家電は......さすがに駄目じゃない?燃えるゴミに出したら」
 手にお玉を持った夏太郎が、航の腕の中のタコ焼き機を見て、自身の額に手を当てる。
「あー、小型家電の分類やったっけ......」
「どうする?」
「......まあ、ワタル君が帰った後に何とかしとくわ。ちょおそれ貸して」
「うん」
 渡されたタコ焼き機の箱を、お玉を置いた夏太郎がしげしげと回し見る。
「はー、そんなとこにあったんか。てっきり向こうで処分したかと思っとったわ」
「あの段ボールに入ってたけど」
 あぐらをかいた航が引っ越し業者の段ボールを指差すと、夏太郎はわざとらしいほど大きく頷いて、タコ焼き機の箱を部屋の端に除けた。
「部屋に溶け込みすぎて存在忘れとったわ、箱ごと」
「夏太郎って大阪出身?」
 元の持ち場に戻ろうとする夏太郎の足が止まる。またどうして、と瞬いた夏太郎に、航は言葉を加えた。
「タコ焼き機とか、話し方とか」
「ああ......俺、生まれも育ちも岡山やけど」
 予想外の答えである。航は驚きを噛み殺しつつ、続きを促すように上目で夏太郎の顔を見る。
「大学で大坂出て、就職もそのまま」
「じゃあその、関西弁は?」
「関西弁っちゅうか......エセやろ、多分。一番長く付き合っとった彼女がコテコテの大阪人で、中途半端に方言移った結果がこれ」
 夏太郎が自分の顔を指差す。航は自身の膝裏を長ズボン越しに掻いて、一人納得した。確かに、夏太郎の話し方はテレビで観るような関西弁と比べて親しみやすいというか、あまり違和感がないというか。元々の出身が岡山ならこのあたりの方言が混ざっていて当然だろう。
「なるほど」
「何の納得やねん」
「や、普通に」
 釈然としない答えに、夏太郎が拾ったお玉をぺちぺち自分の手のひらに打ち付ける。そして、何かを思いついて、かしこまった顔でその先を航に向けた。
「ま、エセでも関西弁はモテるからなあ。ワタル君も習得したらどうや」
「エセ関西弁を?」
「まあ、俺が教えられんのはそれくらいやけど」
 航は自身に向けられたお玉を掴んで、ゴミ袋に入れた。

「ワタル君、今日はここまでにしとこ」
 夏太郎の声に、航が顔を上げる。時計を見ると、四時を少し過ぎたところだった。
「お待ちかねのハーゲンやけど、味はどうしようか」
 別にお待ちかねではないけれど--まあ、貰えるなら貰っておこう。昨日バニラを食べたから、残りの味は確か、チョコとイチゴ、それから抹茶だったか。その中で一番好きなのはイチゴで、あまり好きではないのが抹茶。
「じゃあ、チョコで」
 好きでも嫌いでもない味。冷凍庫に余ってたら食べるけど、自分では絶対に買わないのがチョコ味だった。
「チョコな。ちょこっと待っとって」
 軽い足取りでキッチンに向かった夏太郎のギャグをスルーして、航は頬杖を突いた。
「はい、お待たせ」
「ありがとう」
 キッチンから帰ってきた夏太郎が、チョコ味のハーゲンダッツと使い捨てのスプーンをちゃぶ台に置いた。濡れた手をシャツで拭いて、航に食べるよう促す。
「どうも、いただきます」
「どうぞー」
 夏太郎はちゃぶ台を挟んで、航の向かいにどかりと腰を下ろした。

 ハーゲンダッツを食べながら、航は部屋を見渡した。やっぱりまだ部屋はごちゃついているが、それでも朝よりはマシになっている。努力が目に見えて分かるのは良いものだ、と頷いて、スプーンを進める。缶に入っている少し高いチョコがそのままアイスになったような味である。可もなく不可もなく、わざわざ選ぶ味では無い。
「ワタル君、これから塾か。頑張るなあ」
 アイスで元気補充しとき、と言われ、航はスプーンを持った手を止める。頑張っていると言われても--今日、自分は学校をサボっている。頑張ることから逃げてしまっているのではなかろうか。航は知らず、頬の内側を噛んだ。チョコに染まっていた口内に、僅かな鉄の味が混じる。
「......あとちょっと踏ん張ったら、な。楽しい大学生活やね」
 楽しい大学生活。大学生になった自分を思い浮かべようとしたが、航の頭には具体的なイメージが全く浮かばない。
 晴れない航の顔を見て、夏太郎は気まずそうに自分の顎を撫でた。

 航がドアを開けると、むわりとした熱気が吹き込んできた。思わず目を瞑ると、夏太郎が片手でドアを止める。航はそそくさと玄関を出て、乱れた前髪を整えながら振り返る。
「お邪魔しました」
「じゃあ、また。明日も来てな」
 明日も、か。
 航はリュックサックを背負い直し、トタンの階段を駆け下りた。


 夏太郎の家を出て、航は家とは反対の方向に向かった。夕方になったとはいえ、じめじめとした空気には真昼の熱が未だ籠っている。どこか非日常めいた夏太郎の部屋から出て、ずしりと背中に重いものが戻ってきたような気がする。この重みは教科書や参考書を詰め込んだリュックサックのものでもあるし、それだけが原因のものではない。じんわりと汗ばむ手のひらを握って、航はアスファルトを踏みしめた。
 おおよそ十数分歩いたところで、航は古いアパートを見上げた。古い、と言っても、夏太郎のアパートほど寂れた感じはない。その二階、真ん中の部屋に掲げられた看板の文字--松下学習塾--が、航の通う塾の名前だ。
 重い足取りでスチールの階段を上り、部屋の前に立つ。航は深呼吸をしてから、インターホンを鳴らした。
「はーい、こんばんは」
 少し間が空いて、腰の曲がったおばあさんがドアを開けた。彼女はこの教室の先生の妻、松下洋子さんだ。
「こんばんは」
 航はドアを押さえて、会釈した。いつものように靴を揃えて、部屋に上がる。

「今日は早いねえ。博さんはまだお風呂入ってるから、内田君と待ってて」
 洋子さんの言うように、洗面所の方からはシャワーの音が聞こえる。先生はいつも、塾の前に風呂に入っているらしい。普段航が来る頃にはもう住んでいたから、こうしてシャワーの音を聞くのは初めてのことだった。
 やけに到着が早い理由。学校をサボったからなんて言えないだろう。航は頬の内側を噛んで、笑顔を取り繕った。

 居間を抜けて、塾の教室になっている和室に入る。中央に置かれた大きなちゃぶ台では、内田が単語帳を開いて突っ伏していた。内田は襖を開ける音に体を起こして航のほうを見ると、数回瞬いてから、再び突っ伏した。
「......なんだ、大海か」
 航は重いリュックを下ろして、内田の向かいに座った。内田が見ていたのは、紺色の古文単語帳だった。世間話でも、と思い、航は内田に話しかける。
「単語テスト?」
「明日」
「へえ」
 そっけない答えに、そっけなく返す。いつものことではあったが、妙な居心地の悪さを感じて航は脚を組み直す。
「一組って今日だった?テスト......名詞めっちゃあるとこ」
 内田に尋ねられ、航は時間割を思い出す。今日は、二時間目が古文だったような。......サボっていなければ。リュックサックから英単語帳を取り出しながら、航は平静を装う。
「あったかも」
「かもってなんだよ」
 内田とは、一年の時だけ同じクラスだった。「うちだ」と「おおみ」で出席番号が前後ではあったものの、そこまで仲が良い訳ではない。そもそも、スポ少からサッカー部の内田と万年帰宅部の航では色々と違うのだ。つまるところ、学校をサボったことを言うほどの仲ではない。航は勉強する振りをしていつものページを眺め、無言を貫いた。

 しばらくして、襖が開いた。しっとりとした慎ましい白髪を整えながら、ここの塾長にして唯一の講師--松下先生が入ってくる。手にはバスタオル、まさに風呂上がりのおじいさんだが、こう見えて長年数学教師をやっていたこともあり、教え方はかなり分かりやすい。
「ああ、テキスト持ってきとらんが......洋子さーん、数学のテキスト持ってきてくれえ」
 先生が居間のほうに声を掛けると、洋子さんの穏やかな返事が返ってくる。
 航は英単語帳をリュックにしまってこれから使う数学の参考書を取り出す、が。そこに挟んでいた紙がはらりと落ちてしまう。慌てて足で寄せて、紙をリュックに押し込んだ。
 --東進のパンフレット。航が岡駅前で貰ってきたものだった。しわくちゃになっているであろうそれが、ずしりと胸に沈んだ。



 今日で三日目か。蝉の鳴き声と重いリュックを背負いながら、航は夏太郎の部屋のドアをじっと見つめた。頬をつうと流れる汗を腕で拭い、インターホンを押す、が--返事はない。少し待って、もう一度押してみる。やはり返事はない。留守にしているのだろうか。航は溜息をついて、しぶしぶドアをノックした。
「ん、今日も来てくれたんやね」
 ドアを開けた夏太郎が、にこやかに航を迎える。
「インターホン押したんだけど」
「あれ壊れてんねん。押しても音鳴らんかったやろ」
 片手でドアを押さえる夏太郎に、もっかい押してみ、と言われて、航はもう一度インターホンのボタンを押す。押した感覚こそあれど、やはり鳴っていない。
「大家さんに言うのもめんどくさくてなあ」
 部屋に入り、航の後ろをのそのそ歩きながら夏太郎がぼやく。どうせ近いうちに引き払うからその時に言えばええわ、とでも思っているのだろう。頭の中で勝手に再生された夏太郎の声に頬を緩めて、航はリュックを畳に下ろした。

 カラーボックスから引き出した木箱の中から、航は黒い厚手の化粧箱を手に取った。開けると、中には派手な黄色のネクタイが入っている。黄色......というか金色というか、かなり目立つ色をしている。さらに、細かい模様がびっしりと入っていて--
「趣味悪いやろ」
「......、」
 そんなことない、と言おうとして、言葉に詰まる。
「親父が就職祝いにくれたんやけどな、これ結構いいやつらしいで」
 夏太郎が、航から受け取った箱を指で擦る。
「でも、金色は無いよなあ......成金か、ちゅう」
「お父さん、仲良かったんだ」
「まあ、仲良くするしかなかったというか。俺んち母さんおらんかったからさあ、男手一つで育っててもらってん」
 触れないほうが良い話だったかもしれない。分かりやすく体を強張らせた航を見て、夏太郎が鼻を触る。
「小学校入る前くらいに急に家出ていかれて、母さんにな? そっから男二人暮らしって感じ」
 他人事のように喋りながら、夏太郎がネクタイを取り出した。航は、昨日昼ご飯を食べていた時の夏太郎の言葉を思い出し、その意味に納得すると同時に、居心地の悪さを感じて手の甲を掻く。
「ま、最後くらいは付けてみるか」
 何も言わない航に構わず、夏太郎は手慣れた様子でネクタイを結ぶ。といっても、襟のよれたスウェットにネクタイが合う訳もない。しかも、趣味の悪い金色の。どう?と聞かれて、航は目を逸らした。
「ちょお見てくる」
 夏太郎が洗面所に消え、数十秒後、戻ってくる。再び手慣れた様子で、ネクタイを解きながら。
「これはないわ」
 薄ら笑いでネクタイを丁寧に折りたたみ、化粧箱に入れてふたを閉める。そのまま、ゴミ袋へ。流れるような一連の行為に、航は口を開きかける--父親から貰った大事なものをそんな簡単に捨ててしまって良いのか、と。
 ......言ってもしょうがないか。
 木箱の中に、航は折り畳み式の携帯電話、いわゆるガラケーを見つけた。小さい頃に両親が持っていた、しかしもはや古代遺産となりかけているタイプのものだ。黒いシンプルな端末の裏側には--男女が写ったプリクラが貼られている。いかにも平成、といったフレームや描き文字に時代を感じつつ、航は小さなシール片を見つめる。おでこを出した目力の強い女性と、ゆるい癖毛をやや伸ばした、彫の深い垂れ目の男性。どちらも制服を着ている......これは。
「夏太郎、これ......」
「わー、それ俺やん。若っ」
 航の持つ携帯電話、に貼られたプリクラを夏太郎はしげしげと眺める。
「隣の人は?」
 航が尋ねると、夏太郎は頬を掻いて目を逸らす。
「何チャンやったかな......帰る方向が同じで、告白されたんよな。初カノやったわ、多分」
「名前......」
「や、最初の一文字分かったら思い出せるんやけど」
 もしかして、学生時代の夏太郎って結構ひどい奴だったのでは。航の頭に、札束の風呂に入り、両脇に女の人を侍らせる夏太郎の図が思い浮かんだ。......流石に失礼か。航は顎に手を当てて、妄想を打ち消した。
 動かないであろうガラケーのボタンをぽちぽちと押す夏太郎を見て、航はふと、あることを思った。
「夏太郎さ、スマホ持ってないの」
 そう、夏太郎がスマホを触っている所を見たことが無いのだ。いくら推定無職とはいえ、今時スマホ無しで生活するのは大変だろうに。
「持っとらんけど」
 ガラケーの蓋をぱたんと閉じて、夏太郎がさも当然とした様子で答える。
「困るでしょ、携帯ないと」
「まあ、最初らへんはちょお不便やったかなあ。慣れるとそうでもないで」
 夏太郎が笑いながらプリクラの貼られた裏蓋を開けて、バッテリーパックを取り出す。......昔の携帯はバッテリーを取り出せたのか。目を丸くした航の目の前に、夏太郎が取り出したばかりのバッテリーパックを差し出す。
「いる?」
「なんで」
「見てたやん」
 ガラケーの本体をゴミ袋に放り込む夏太郎を見て、航はその意図に気づく。
「......処分がめんどくさい?」
 バレたか、と頭を掻いて、夏太郎はバッテリーパックを自分のポケットに突っ込んだ。

「お、もう無いやん」
 ゴミ袋が、最後の一枚になったようだ。夏太郎は透明の外袋を丸めて、縛ったばかりのゴミ袋の結び目から捻じ込んだ。
「あー、俺買ってくるから......丁度ええわ、ワタル君ご飯食べとき。そろそろお腹減ったやろ」
 時計を見ると、十一時半過ぎだった。ちょっと早いが、昼食を取っても良い時間ではある。
「じゃ、行ってくるわ......十二時過ぎまでには戻る」
 夏太郎が、あくびをしながら外に出る。いってらっしゃい、と返して、航はリュックから弁当箱を取り出した--そして、小さく首を傾げる。いつもの弁当箱が、やけに軽い。これはあれだ、サンドイッチ。たまにある、特別メニューの日である。
 目を輝かせながら蓋を開けると、やはりサンドイッチが入っていた。ハムチーズと卵が、二つずつ。ランチョンマットの皺を伸ばすために弁当箱を持ち上げると、底にくっついていたらしい紙切れがぱらりと落ちた。
 何だろう、と拾い上げると、紙片には文字が書かれていた。
『困ったことがあったら相談して下さい ママは十九時頃帰ります』
 母からのメッセージ--航は、指の先が冷えるのを感じた。学校をサボっていることがバレた?バレないはずが無い。特別授業の期間ではあるが、無断欠席すれば担任から保護者へ連絡が行くはずだ。
 ......心配させてしまっている。昨日と一昨日、母さんに会った時には何も言われなかった。だけど、明らかに、母さんは僕のことを心配している。
 航は、おしぼりの内側で震える手を拭いた。両手をぎゅっと握ってから、小さく手を合わせる。
「いただき、ます」
 今自分は、きっとひどい顔をしている。夏太郎が居ない時でよかった。出会った時のような、情けない顔はもう見せたくない。夏太郎が帰ってくる前に食べてしまおう。航は逃げるように、サンドイッチを口に押し込んだ。水筒のお茶で流し込み、次のサンドイッチを押し込む。あっという間に弁当箱は空になった。
「ごちそうさまでした」
 ぼそりと呟いて、おしぼりの外側で手と口を拭きとる。航は手紙だけを胸ポケットに入れて、弁当箱をランチョンマットで包んだ。
 他人の部屋で一人になるのは、落ち着かない。早く帰ってこないだろうか。時計を見ると、十一時四十五分。夏太郎は十二時過ぎには帰ると言っていたが、どこまで買いに行ったのだろう。最寄りのコンビニなら、そこまで時間はかからないだろうに。古びたクーラーの稼働音が、静かな部屋に響く。航は吊るされたリモコンを手に取って、少しだけ温度を上げた。
「痛っ」
 忙しなく歩き回っていた航が、足の指を何かにぶつける。本の山--一日目に除けておいた、大事そうな本の山だ。一番上には、アルバム。おそらく夏太郎の卒業アルバムだろう。最初に見た時には時に気にしなかったというか、そこまで気にする必要が無かったものだ。
 ――平成十八年度一泉高等学校――
 布張りの表紙に箔押しされていたのは市内の進学校の名前だった。自分の通う高校と同じくらいのレベルの、市内にある高校だ。航はごくりと唾を飲んだ。勝手に人のアルバムを見るのは良くないだろう--しかし、どうしても好奇心には勝てない。航は手を裾で拭ってから、そっとページを捲る。夏太郎見つからないかな、なんて。教師の写真ページを抜けてすぐ--三年一組の顔写真のページ。そんな簡単に見つかるはずが無いよなと思いつつ、一人ずつ指でなぞっていく............見つけてしまった。すぐに。三年一組一番、夏太郎と思わしき、というかまんま夏太郎な男子生徒が。今日プリクラで見たばかりだったから、すぐに分かった。名前は――
「......江夏 太郎」
 そういう名前だったのか。「夏太郎」が本名だというのもあながち間違いではない。
「おもろそうな物見てるやん」
 ぬっと後ろから声を掛けられて、航は叫び声を上げそうになった。振り返ると、いつの間にか夏太郎が帰ってきている。
「ご、ごめん、勝手に」
「ええよ~別に。どお、俺見つけちゃった?」
 激しく鳴る心臓を押さえながらも、航は自身の肩の力が抜けるのを感じていた。深く息を吐いてから、夏太郎に尋ねる。
「名前......夏太郎って、江夏、太郎で夏太郎?」
「ははは、バレてもうた」
 笑いながら、夏太郎はホームセンターの店名が印字されたレジ袋をどさりと下ろした。......ゴミ袋、ちょっと買いすぎではなかろうか。ぱんぱんに詰まったレジ袋を見つめる航の肩を、夏太郎が指先で叩く。振り返ると、夏太郎が自分の顎を人差し指と中指--ピースの形をした手で挟んでいた。
「江夏太郎、三十五歳でーす」
 なんだそれ。妙に上手なウインクと女子高生みたいなポーズ、それからひげ面のおじさん三十五歳、という謎のコンボに、航は声を出して笑い出した。
 緊張が解けたからか、ツボに入ってしまったからか、一向に笑いやまない航を満足そうに眺めて、夏太郎が口を開く。
「太郎ってつまらん名前やろ。ベタ過ぎて逆に珍しいけど--ワタル君、えらい笑うやん」
「いや、だって......はは......」
 まだ笑いの止まらない航が、目元の涙をぬぐい始める。ワタル君大丈夫か、とつられて笑いながら、夏太郎がアルバムを古紙の山の一番下に置いた。
「それも捨てるんだ?」
 航はようやく落ち着いた。荒い呼吸を整えて、伸びをしながら夏太郎に尋ねる。
「アルバムなんか持っててもしゃあないやろ」
「でも......」
 あっけらかんと答えながら、夏太郎がビニール紐で古紙の束を括る。
「こんなん持っとっても何にもならんからなあ」
 何かを言いたそうな航を一瞥した夏太郎が、ぱちん、とハサミで余分な部分を切り落とした。あまりにも、迷いが無い。航は知らず、下唇を噛んでいた。アルバムまで捨ててしまうのか。引っ越すにしても、アルバムくらいは持っていけばよいのに。ここまで徹底的に、しかしちまちまと物を捨てて、夏太郎は一体何をしたいのだろう。これでは引っ越し準備というより--そう、終活。自分で自分の人生を畳む準備をしているみたいだ。
「ワタル君、落ちついた?」
 ハサミをちゃぶ台に置いて、夏太郎は底の知れない笑みを航に向けた。航は目を逸らすように俯く。
 --終活。
 自分で引き出した言葉が妙にしっくりきてしまって、航は頬の内側を噛んだ。

 午後四時半、今日もよく頑張った。
 パンパンになった黄色いごみ袋を数えながら、航は満足げに頷いた。
「今日はどの味にしましょうか」
「何が残ってたっけ」
「イチゴと抹茶」
「......じゃあ、イチゴで」
 抹茶はあまり好きではない--だったら今日の内に食べてしまって、好物のイチゴ味を最後に残しておくほうが良かったのでは、と思ったが--もう遅い。キッチンに向かってしまった夏太郎にもう一度言うのもアレだ。
「はいよ」
 夏太郎が、手慣れた様子でイチゴ味のハーゲンダッツと使い捨てスプーンをちゃぶ台に置く。
「ありがと」
 航は手を合わせ、ハーゲンダッツの蓋を取った。

「......」
 やはり、見てくる。夏太郎は、航が食事をとる時、常に穴が開くほど見つめてくる。恥ずかしい、とまではいかないが、少しくすぐったい。
「あのさ」
 声を掛けられ、頬杖をついた夏太郎の指先がぴくりと動く。
「なんで、その......ずっと見てくんの、食べるとき--」
 航の声は、尻すぼみになっていく。見られてる、というのが自意識過剰だったら恥ずかしすぎる--おそるおそる顔を上げると、夏太郎は顎に手を当てて何かを考えている。大して長くもない沈黙だったが、航はつま先を丸め、ちびちびと忙しなくスプーンを動かした。
「......ワタル君、いっつも色々考えながらご飯とか食べとるやろ?」
 それを見んのがおもろいねん、という返答。アイスを食べる航の手が止まった。
「............そんな、顔に出てる?」
「めちゃくちゃ分かりやすいで」
 そう言われ、航は口の端をきゅっと結んだ。
 ......こういうことか。
「で、ワタル君」
 ポーカーフェイスを意識する航に、神妙な顔をした夏太郎が話しかける。
「なんかあったやろ、俺が帰ってきてからずっと顔色悪いで」
 顔色--航の頬が、ぴしゃりと強張る。何かあったかと言われれば、まああったとしか言えない。弁当に添えられていた、母さんからの手紙である。
 じっと航を見つめる夏太郎の目はいつになく真剣で、どこか心配しているようにも見えて--これこそ自意識過剰かもしれないと思いつつ、航はゆっくりと口を開いた。
「学校行ってないの、その......母さんにバレたかもしれなくて......」
 それで、どうしたというのか。続きの言葉が出てこない。航は俯いて、アイスで冷えた手をそっと擦り合わせた。
「ワタル君」
 夏太郎がのっそりと立ち上がり、向かいに座る航の方へ歩いてくる。一体何かと顔を上げると、夏太郎は拳二つ分くらいの距離を開けて、航の隣に腰を下ろした。
 何、と聞こうとして--航は息を呑んだ。両手を包む、おおらかな体温--夏太郎が、航の左手を両手で握ったのだ。航のそれより一回りも二回りも大きな分厚い掌が、頼りない航の手を守るように、優しく包む。
「ワタル君はええ子やな」
 大きな手からじわりと伝わる体温。氷が解けるように、航の身体から力が抜ける。
「頑張っとんの分かるで。一昨日持ってた単語帳もあんな使い込んで、なあ」
 握りしめられて、ぽろりと涙が零れた。
「ここでちょっと休憩して、また来週から頑張ればええわ。ワタル君はええ子やから、ちょっとくらいサボってもバチ当たらんって」
 軽やかな慰めは、わだかまった胸を軽やかに撫でる風のようだった。ぽろぽろと落ちる涙とともに、胸のしこりが崩れていく。
「......っ、う......」
「はは、泣いてもうた」
 夏太郎がくつくつと笑う。航は溢れて止まらない涙を右腕で拭うも、追いつかなくて、もっとひどい顔になる。ああ、出会った時もこんな風に泣いていたな--と、航はひとかけらの冷静さで考える。夏太郎は、航が泣き止むまで手を握り続けた。

「ほら、はよ食べんとハーゲン溶けてまうで」
「うん......」
 すっかり柔らかくなったイチゴ味のハーゲンは、甘酸っぱくて、ちょっとだけしょっぱくて--航の熱くなった体を、すうと冷やしていった。
「ワタル君は、ええ子やなあ」
 ゴミ袋に空き容器を入れる航の背に、夏太郎が呟く。その両目が眩しいものを見るように細められたことに、航は気づかなかった。


「じゃ、気をつけて帰り~」
 航が部屋を出る時には、既に日が落ち始めていた。まだらに雲の流れる夕焼けを見上げ、今日は随分長く居座ってしまった--と、航は頬を掻く。
「夏太郎......」
「ん?」
 航は口を開いたが、何を言うべきか分からなくて、逃げ出すようにトタンの階段を駆け下りた。アスファルトを踏みしめて、建物を振り返る。夕日を背負ったアパートは逆光を受けて、真っ赤な空に重い影を落としていた。死んだように静かな建物が真っ赤な光に包まれるその姿は--まるで、燃えているみたいだ。航は手のひらをかざし、夏太郎の部屋がある辺りを見上げた。夏太郎は手すりに寄りかかり、ひらひらと手を振っている。逆光のせいでその表情は見えないが、友人にするような気安さを航は感じて、大きく手を振り返した。
 緩んだ頬を引き締めて、航は家路につく。背中にのしかかるリュックサックは相変わらず重くて、空気もやっぱりじめじめしていて--しかし、航の足取りは軽かった。
 --自分はもう、大丈夫だ。
 暖かな夕焼けに背中を押されるように、航は前を向いた。



 四日目--夏太郎の部屋の前、航はリュックを背負い直す。今日の荷物は、塾で使う数冊の参考書といつもの英単語帳、それからコンビニで買った昼ごはんだけ。昨日までと比べて、ずっと軽い。航は背筋を伸ばし、すっかり見慣れた金属製のドアを見つめた。
 --今日で、最後か。
 地面からむわりと上る土の匂いが、鼻を擽る。これから雨が降るのだろう。じっとりとまとわりつく空気を振り切るように、航はドアをノックした。
「おはよお」
 少しして、夏太郎がドアからひょっこりと顔を出した。昨日と変わらない、へらへらとした表情--これを見るのも、一応今日が最後ということになる。
「雨降られんかった?」
「これから降りそう」
「へえ」
 夏太郎が、長い脚でドアを止める。足癖の悪さに航は頬を緩め、部屋の玄関に上がった。
「おじゃまします」
 部屋はもう、ほとんど片付いていた。カラーボックスの中はほぼ空っぽで、床に溢れていた服やら雑貨やらも、すっかり綺麗になっている。パンパンに詰め込まれた黄色いごみ袋のせいで足の踏み場は限られるものの--それらを捨ててしまえば、まっさらな部屋になるはずだ。ちょうど明日がゴミの日だから、今日の晩か、あるいは朝にでも出しに行くのだろう。どうせなら綺麗になった部屋を見たいし、明日の放課後にでも寄っていって良いかな。
「よし、じゃあ早速片付けしよおか。さっさと始めて、さっさと終わろ」
 夏太郎が、いつの間にか手にしていたゴミ袋の一枚を航に押し付ける。どうせ残っている物は多くないのだから、そんなに急がなくても良いのに。妙に急いだ様子の夏太郎に、航は小さく首を傾げた。

「うわ」
 航よりも先に片付けを始めた夏太郎が、突然驚いたような声を上げる。
 夏太郎の手には、無地の茶色い紙袋。促されて中を覗くと--大量のお守りが、これでもかと絡み合っていた。
「急にこんなん出てきたらビビるよな」
「これってこんな......持ってて大丈夫なやつ?」
「大丈夫とは」
「バチとか......何か、呪いとか」
 航が不安げに目を逸らすと、夏太郎は半笑いで、ワタル君そういうの信じるタイプなんか--と、袋の口を折りながら呟く。
「毎年お焚き上げに出しそびれとってなあ。最近はそもそも行っとらんし、初詣」
 紙袋をそのままゴミ袋に入れようとする夏太郎の腕を、がしりと航が掴む。
「そのまま捨てるの」
「いやー、神社遠いしなあ」
 --やはり、バチが当たるのでは。へらへらとした夏太郎の態度に、航は眉をひそめた。
「いまさらいまさら」
 夏太郎が航の手を振りほどき、躊躇いなく紙袋を捨てる。さっさと片付けに戻ってしまった夏太郎の大きな背中を見つめ、航は頬を掻いた。やっぱり、ちょっと変だ。投げやりというか、自暴自棄というか--昨日までの夏太郎と、どこか違う気がする。元々細かいことを気にしない性格なのだと言えばそれで説明がつくが、どうにもそんな感じではない。夏太郎は大雑把に見えて案外繊細というか、神経質というか......でも、思い返せば適当な性格でもあったような気がする。自分が見てきたこれまでの夏太郎像がちぐはぐで、航はぎゅっと拳を握った。

 棚の奥に、航は平べったい缶を見つけた。紺色の--おばあちゃんの家で見たことのあるクッキー缶だった。口の中に、外国風のスパイスが効いた甘みが蘇る。缶を持ち上げると、ずっしり重い。何が入っているのだろう、と少しだけ胸を膨らませながら蓋を開けると--中には、ライターがずっしりと入っていた。それも、普通のライターではない。煽情的な服を着て、髪をきつく巻いた大人の女性が印刷された派手な模様が、全てのライターに印刷されている。
「なんやそれ」
 あまりにけばけばしい中身に航が目を瞬かせていると、夏太郎が後ろから覗き込んできた。
「うわ、キャバのライターやん」
「......夏太郎の?」
「まさか」
 鼻で笑いながら、夏太郎がじゃらじゃらと缶の中を漁る。赤、ピンク、白、黒--ライターの色も、印刷されている女の人の雰囲気もバラバラで、缶の中はとにかく混沌としていた。
「親父のや、完全に忘れとった。捨て方分からんくて放置してたやつ」
 夏太郎が、厄介そうに頭を掻きながら金髪色黒のギャルが印刷されたものを手に取った。しげしげと眺めつつ、溜息を吐く。
「まあ、随分色んな嬢のとこにお通いやったようで......」
 航は床に置いた缶から一本ライターを手に取り、回し見た。一条乙姫、ハッピーバースデー......ピンク色のしゃらしゃらとしたドレス、巻き髪にティアラを付けた女の人が、胸を寄せてウインクをしている。ふわふわとした雰囲気に誤魔化されそうになるが、かなり煽情的な画像だ。航は耳をほのかに赤らめて、不埒なライターを缶に戻した。
「キャバクラって楽しい?」
「さあ--俺はハマらんかったけどなあ」
「......行ったことあるんだ」
 まあそうだろう、と思った。今はともかく、昔の夏太郎はかなりそういう......女性関係?が盛んだったっぽいし。航は頷いて、ポケットからスマホを取り出した。
「昔や昔。接待みたいな?上司に無理矢理連れていかれて」
「時代だ」
「いやー、言うてそんな昔やないし。今もあるんちゃう?そういうの。キツいとこはまだキツいらしいで」
 ふーん、と返事をしつつ、航はブラウザでライターの捨て方を検索した。
「俺んとこはなあ、めっちゃデカい会社やったけど......何、体育会系っちゅうんかな。そういうノリむっちゃあって」
 消費者庁のページをクリックする--が、開かない。どうやらpdfファイルをダウンロードするリンクを踏んでしまったらしい。電波マークは一本しか立っていないし--航は微かに眉を寄せ、回り続ける読み込みマークを見つめた。
「お父さんも、結構遊ぶ人だったんだ」
 航の問いかけに、夏太郎が緩く首を振る。
「や、元々はそんな感じやなかったんやけど。親父なあ、俺が出てってからずっと一人やったから」
 ずっと一人--だった、ということは、夏太郎のお父さんはもう居ないのだろうか。施設に入ったか、親戚の家に行ったか、あるいは--もう、この世に居ないのか。夏太郎の口ぶりからして、一番最後の可能性が高いだろう。夏太郎はあまり気にした様子ではないが、こちらからむやみに触れる話題では無かったかもしれない。航はきゅっと唇を噛みながら、真っ白なブラウザのページを見つめた。
「まあ、寂しかったんとちゃうかな」
 聞こえるか聞こえないか、そんな小さな呟きに、航が顔を上げる。聞き返そうとしたところで、夏太郎が間髪を入れず、航の肩に手を置いた。
「で、どう? 調べてくれとったんやろ、捨て方」
 --昨日も思ったが、妙に距離が近いな。航はそわそわしつつ、ようやく開いた消費者庁のpdfをスクロールした。
「全部ガス抜いてから捨てるって」
 夏太郎は、あーやっぱり、という顔をした。航の肩から手を放し、げんなりしながらベランダに視線を向ける。
「手伝おうか」
「いや、ええよ。一人でやっとくわ」
 夏太郎が、のそりと缶を持って立ち上がる。薄暗いベランダに向かう背中は航よりもずっと広い。でも--
「............寂しい?」
「え?」
 航の小さな声に、夏太郎が足を止める。振り返った夏太郎の表情はいつも通り、へらへらとしている。しかし航は、得も言われぬざわつきを感じていた。
「夏太郎は、その、寂しい?」
 ......自分は何を言っているのだろう。自分でもよく分からなくて、航はシャツの胸のあたりを掴んだ。
「まさか」
 夏太郎は困ったように眉を寄せ、呆れたような笑いを零す。 
「......はは、何? 急に。そんなおセンチなこと言って」
 乾いた笑い声。いつもより声の温度が低くて、少し怖い。
 夏太郎は顎を揉みながら、俯いた航を見下ろす。
「こんなおっさんが寂しい言うてもなあ、そんなん需要無いで」
 吐き捨てるようにそう言って、夏太郎が、足で引き戸を開ける。ぼろぼろのサンダルを履きながら、思いついたように航を振り返った。
「ああ、もし女の子が寂しい~って言ってきたらな、ワタル君。何も言わず抱きしめたれ」
 からかう言葉に航が文句を言おうとするも、夏太郎はさっさと引き戸を閉めてしまった。立て付けの悪い戸がぴしゃりと閉まる音--航は、ゴミ袋で溢れた狭い部屋に、一人取り残されたような気分になった。
 今日で、最後なのに。仲良くなったかも、というのは単なる自分の願望だったのだろうか。四日間も一緒に--いや、たったの四日間? 夏太郎にとっては、たったの四日間だったのかもしれない。
 航は肩を落とし、手のひらを見つめる。昨日、握ってもらった手。夏太郎は何を思って、自分のことを慰めたのだろう?
 晴れ晴れとしていたはずの航の心に、再び雲が立ち込める。ベランダに座り込む夏太郎が、ひどく遠い。

「ワタル君、お昼にしようか」
 ぼうっとしながら片付けを進めていた航の肩を、夏太郎が指先でつつく。突然のことに、航はびくりと体を跳ねさせて、後ろを振り返った。
「ライターは......」
「まだ終わってへんけど--お腹空いたやろ、ワタル君が」
 一体何なんだ。ご飯くらい一人で食べられるのに--そう言いたかったけれど、航はきゅっと唇を噛んだ。いくら夏太郎の様子がおかしいとはいえ、こっちまで不機嫌な態度を取るのは違うだろう。

 金曜日は、パンの日だ。航はリュックからコンビニの袋を取り出し、メロンパンの封を切る。夏太郎は--向かいに座り、顎を撫でながら真顔で航を見つめている。いつもに増して、居心地が悪い。航は体を強張らせて、何か話せることはないか--と、額を掻いた。
「昨日さ、夜......母さんに学校サボってること話したんだけど」
 夏太郎が、顎を撫でる手を止めた。
「ええ、しこたま怒られたんとちゃう」
「ううん、全然」
 航は一口メロンパンをかじり、飲み込んでから再び口を開く。
「あと一日だけ、明日だけサボるけど金曜からは行くって言ったら、母さん笑ってて」
「はあ」
「まあ、無理せず頑張れと」
 顎に手を当てたまま、夏太郎がゆっくりと頷いた。その雰囲気がわずかに和らいだのを感じ、航はほっと力を抜く。
「ええお母さんやん」
 航ははにかんで、メロンパンをかじった。クッキー生地にかかった砂糖がじゃり、と鳴って、甘ったるい風味が口の中に広がる。夏太郎のおかげで言えた、とは言い出せなかった。昨日の夕方のテンションだったら言えたかもしれないけど--航は、複雑な感情と共に、ぱさつく菓子パン生地を口の中に押し込んだ。

 メロンパンを食べきって、航は伸びをしながら部屋を見渡す。さっきはぼんやりしていたから気づかなかったが--もう、片付けはほとんど終わっていた。残っているのは物がいっぱいに詰め込まれた大量のゴミ袋だけで、それらをゴミ捨て場に出してしまえば、本当に空っぽの部屋になる。
 ああ、終わってしまったのか--と、航は自分のシャツを下に引っ張った。もっと、達成感があるものだと思っていたのに、どういうわけか、航の表情は重く沈んでいた。
「ワタル君」
 夏太郎が航を呼ぶ。夏太郎は薄っぺらい笑みを顔に貼り付けて、ちゃぶ台の上に置かれた薄い箱を指差した。......リバーシだ。
「ちょっと一緒に遊ぼうか。今日はなんか湿っぽくなってもうたのと--最後やし、な」
 航の返事も待たず、夏太郎は箱からリバーシ盤を取り出した。
 --最後。短い言葉に、航は胸がちりと痛むのを感じたが、ぎゅっと拳を握り、夏太郎の向かいに腰を下ろした。
「白黒どっちがええ」
「どっちでも」
「じゃ、そっちが白な。先攻は俺で」
 緑色の盤に、白黒二つずつ石を置く。夏太郎が正方形の角に黒を一つ置き、挟んだ白をひっくり返す。序盤に戦略も何もあったものではないだろう。航は迷わず、白い石を置いた。

 何も話さず、黙々と勝負は続いた。がたがたというクーラーの駆動音と、マグネット式の石が立てる音だけが、二人の間の空気を震わせる。盤面を一つ一つ、白と黒とが埋めていき--そろそろ角を取れるか取れないか、という所で、ぽつりと音がした。屋根に、雨粒の当たる音。夏太郎は身じろぎ一つせずに独り言つ。
「雨か」
 どんどん音は増えて、雨はあっという間に土砂降りになった。雨漏りはしないのだろうか--航も天井を見上げたところで、夏太郎が石を置く。......あと一手で、角を取られる。航は表情を変えず、その企みを阻止した。
「えらい降っとんな。久々や」
 光が弾ける。航は咄嗟に、頭の中でタイマーを動かした。いち、に......さん--三秒後。ごろごろと音が鳴る。結構近いところに落ちたのかもしれない。
「バチが当たったんじゃない?お守り捨てたから」
「即効性のバチやん」
 特に気にした様子も無く、夏太郎が次の石を置く。
「てるてる坊主を捨てたからかも」
「はは、あれ効いてたんかな」
 薄っぺらい笑い声を零しながら、夏太郎が天井を仰いだ。紐で吊られたリモコンがぷらぷらと揺れている。
「ワタル君、傘持ってきた?」
「置いてきた」
「折り畳みは」
「......忘れた」
 夏太郎は額に手を当てた
「その大きいリュックには何が入っとんねん--夢と希望か?」
 なんだそれ、と思いつつ航は石を置いて、淡々と一列全てをひっくり返す。目を細めた夏太郎は顎を撫でた。
「止まないかな」
「これはなかなか止まんやつやで。傘--多分、折り畳みの一本あるから、持って帰り」
 どうせ捨てるしな、と夏太郎は続ける。
 順番を夏太郎に譲り、航は次の手を熟考する夏太郎のほうをちらりと見た。無精髭の生えた顎に手を当てて、真剣な顔で悩んでいる。
 この勝負が終わって、ハーゲンダッツを食べたら--やっぱりもう会えないのだろうか。自分を拒絶するような夏太郎の態度が気にかかり、航はちゃぶ台の下で足指の先を丸めた。

 ぱちん、と石が置かれる。
 予想通りの手に、航はほくそ笑んだ。
「なんやその顔」
「別に」
 航は迷わず、角に白を置いた。ぱち、ぱちと一つずつ、黒い石をひっくり返していく。
「うわ、取られてもうたわ」
「まだ一角だけだから、いけるいける」
「クソ......生意気やで、ワタル君」
 ムキになっている夏太郎を見て、航は思わず噴き出した。こうしていると、普通の友人みたいだ。明日からも会えるような、そんな友人--ああ、駄目だ。これではもう会えないことを自分で認めているようなものだ。
 航は再び顔を曇らせ、視線を横に向けた。黄色いゴミ袋の影に、何かが入った白いビニール袋が見える。ホームセンターのロゴが入っているから、昨日夏太郎がゴミ袋を買ってきたときのものだろう。ゴミ袋は全部使い切ったはずだが、まだ何かが入っている--航はそっと身を乗り出して中を見ようとする。
「ワタル君?」
 声を掛けられて、航はびくりと体を跳ねさせた。
「......あ、ごめん。置いた?」
「うん」
 そそくさと元の位置に戻る。まるで悪いことをしようとしたみたいだ。激しく鳴る胸を押さえつつ、盤面を確認する。......形勢は完全に、こちらに傾いていた。
 先程置いたところの対角に石を置く。今度の夏太郎には、動揺している様子が見られない。
 --あの袋、何が入っていたんだろう。
 淡々と石をひっくり返しながら、航はわずかに眉を寄せた。


「はー、大人げなく熱くなってもうた」
「それって勝ったほうが言う台詞なんじゃないの」
 勝負が終わり、航と夏太郎はそれぞれ石をくっつけて片付けていた。結果は八対五十六で、航の圧勝。
「言うようになったやん」
「はは......」
「じゃあ、勝者のワタル君にハーゲンプレゼントしようかな」
「......」
 素直に喜びたかったけれど、どうにもそういう気分になれない。俯いた航を一瞥して、夏太郎はキッチンに向かった。

「ほい、最後のハーゲンや」
 夏太郎がちゃぶ台にハーゲンダッツと使い捨てスプーンを置く。今日の味は--抹茶味。あまり好きではない味だが、うっかり最後に残してしまった。航は内蓋を剥がし、おそるおそる一口食べる--苦い。最後に残してしまったのは失敗だった。しかめっ面を誤魔化すように、航はすっかり片付いた部屋を見渡す。
「引っ越すの?」
「旅にでも出ようかな思て」
「旅」
「そ、立つ鳥跡を濁さずってな。旅人は身軽なほうがええし」
 ハーゲンダッツの箱を畳みながら、何でもないことのように夏太郎が話す。
「でもさ、帰る場所が無かったら困らない?」
「帰る場所、なあ」
 航の問いかけに目を閉じた夏太郎が、潰れた箱をゴミ袋に突っ込んだ。
「引き返せないほうが楽しいもんやで、案外な」
 返す言葉が見つからない。航は何も話さず、ちびちびとアイスを食べ進める。ボロいエアコンの風で、リモコンを吊る紐が揺れた。天井に打ち付ける雨の音は、少しも止む気配が無い。
「明日は晴れると良いなあ」
 航のほうを向いたまま、夏太郎が呟く。その目はひどく遠く、吸い込まれそうなほどに空っぽだった。
「......なあ、ワタル君」
 神妙な顔で、夏太郎が航と目を合わせる。
「もう来たらあかんで。こんな、ダメダメなおじさんとこ」
「なんで」
 沈黙--屋根に叩き付ける雨音が、さらに強くなった。
「はは、受験生やろ?イイコはこんなおじさんとつるんでないでいい加減学校行きや」
 夏太郎が顎を擦りながら、突き放すような言葉を続ける。
「ダメダメ菌がうつってまうで」
 もう来るな、か。ついに言われてしまった決定的な言葉に、航は瞼を伏せた。まあ、そう言われるだろうとは思っていた。しかし、いざ言われると、なかなか来るものがある。飲み込みたくない感情の諸々をアイスと一緒に飲み込むが--やはり苦い。航はなるだけ動揺を顔に出さないようにして、頷いた。
「ワタル君ならもう大丈夫。ほどほどに気を抜きつつ、まあ--頑張りや」
 夏太郎は額に手を当て、目を合わせないまま平坦な台詞を紡いでいく。そんな、他人事みたいな--いや、他人事ではあるのだけれども。航はプラスチックスプーンを噛んだ。ぱき、と音が鳴り、スプーンが割れる。
「何、拗ねとるんか?」
 ペラペラの笑みを貼り付けた夏太郎が顔を上げ、自分の鼻を触る。これは夏太郎の癖だ。髭を触るのと、髪を掻くのも。四日間で航は彼のことを色々知った。知ったような気がしたけど--それでもやはり分からなかった。今も、彼が何を考えているのか分からない。
「拗ねてない」
 航は、空になったアイスの容器とプラスチックのスプーンを、ゴミ袋の結び目から無理矢理押し込んだ。苦笑いをした夏太郎が、いつの間にか持ってきていた紺色の折り畳み傘を手渡してくる。
「......アイスと傘、ありがとう」
「はは、ええ子やな」
 夏太郎の凪いだ瞳が細められて、心がざわめいた。
 --これで最後? これでいいのか? 何か、言うことがあるんじゃないか?
 リュックを背負い、玄関に向かいながら、航は歯列を舐める。
「じゃ、ありがとなあワタル君。元気で」
「え......」
 何も思いつかず、航がドアを開けた瞬間。夏太郎が背中を押して、玄関から航を追い出した。ばいばーい、と気の抜けた別れの挨拶と同時に、ドアがばたんと閉まり、鍵を掛けられる。
 ............本当に、なんなんだ。
 航は借りた折り畳み傘を、爪の型が付くほど強く握りしめた。さっきまでしんみりとしていたのに、流石にここまでされると腹が立ってくる。
 今日は塾だ。いつもよりも大分早いけど、家に帰ってもしょうがないし、行ってしまおう。航はドアに背を向けて、借りたばかりの傘を差す。
「あ」
 傘を、返しに行かなければいけなかった。明日もここに来る口実ができてしまったことに、航は額に手を当てた。

「あ」
 アパートの駐車場を出たところで、航は内田と鉢合わせる。内田の傘は真っ赤だから分かりやすい。ここは駅から塾にいく時の通り道だから、会ってもおかしくはないだろう。
「塾?」
「うん」
 ......気まずい。いや、決して仲が悪いわけではないのだけれど。
「大海の家ってあそこだったっけ」
 あそこ、というのは夏太郎のアパートのことだろう。
「や、ちょっと知り合いが」
「ふーん」
 内田は、大して興味が無いようで、退屈そうに顎をさする。夏太郎と同じ仕草に、航の胸がどきりと跳ねる。
「何」
「別に」

「あら、今日は一緒に来たの!」
 内田が松下学習塾のインターホンを押すと、洋子さんがいつものように、にこやかな笑みを浮かべて二人を迎えた。風呂場からはシャワーの音--先生はやっぱり、風呂に入っているらしい。航は内田の後ろをついて、和室に向かう。
「町内会でもらったお菓子が余っててねえ。ちょうど良かった」
 航がリュックを下ろしたところで、洋子さんが饅頭やらゼリーやらを、籠に山盛り乗せて持ってきた。航はそれを受け取って、ちゃぶ台の中央に置く。
「どうも、いただきます」
 内田は迷わず、黒糖饅頭を取った。
「......ありがとうございます」
 航が少し迷ってから黒ごま饅頭を取ると、洋子さんは朗らかな笑みを顔いっぱいに浮かべ、和室を出ていった。
 ちゃぶ台で向かい合い、航は饅頭を包むビニールを剥がす。ちゃぶ台--ここのちゃぶ台は、夏太郎の家にあった折り畳みのものよりもずっしりとしている。家に根付いている、というか、取って付けた感じではないというか。あのちゃぶ台、ちょっと重いものを載せたら脚が折れそうだし--航は夏太郎の部屋を思い出しながら、饅頭をかじった。ほろ苦かった口の中が甘ったるくなる。今だったら抹茶のハーゲンダッツも美味しかっただろうに。
 そういえば、夏太郎が何か食べているところを一度も見ていない気がする。四日間、一度も。水回りは夏太郎が全部片づけたから、というのもあるが、夏太郎が食べ物を口にしているところを全く想像できない--ちゃんと食べているのだろうか。いや、心配しているわけでは無いのだけれども。
「今日、政経の授業さあ」
 薄いビニールを折り畳みながら内田に話しかけられ、夏太郎で埋め尽くされていた航の頭が急激に引き戻される。
「大海、休んでたけど--塾来て大丈夫なん」
 政経は一組と二組の合同だ。航は乾いた唇をそっと湿らせて、顔を上げた。
「サボり」
「サボり?」
「月曜から今日まで、ずっとサボってた」
 予想外の告白に、内田が目を丸くする。......そんなに意外か?
「大海が?」
「そうだけど」
 両眉を上げた内田が、航に手を差し出す。
「それ」
「ああ......ありがと」
 礼を言いつつ、航は黒ゴマ団子を包んでいたビニールを渡す。二人分のビニールを一緒にゴミ箱に捨てて、内田は畳に寝ころんだ。
「めずらしー」
「そんなに?」
「めっちゃ。でもまあ、良いんじゃねえの--たまには」
 内田もそういうことを言うのか。航は後頭部を掻いて、昨日夏太郎に言われたことを思い出す。
『ここでちょっと休憩して、また来週から頑張ればええわ』
 --案外、そういう感じなのかもしれない。
 航はふっと笑って、畳に寝ころんだ。
 金曜日の朝、一週間の通勤通学に疲れ切った人々の中、航はしゃんと背筋を伸ばしてホームに立っていた。耳をつんざくような蝉の声は相変わらずだけど、体はもう重くない。
 --今日こそは学校に行く。
 立ったまま、片手で開いたボロボロの単語帳を目で追う。もうとっくに覚えたページだけど--落ち着くための儀式のようなものだ。escape、~から逃れる、~を避ける、逃亡――hang、~を掛ける、~を絞首刑に――
『――間もなく--ホームに電車が参ります――黄色い点字ブロックの手前まで――』
 ......絞首?
 妙な引っかかりを覚えて、航は顔を上げる。汗が額を伝い、ぽとりと単語帳に落ちた。電車の到着を案内するアナウンスに自分の心臓の音が重なって--肌がざわりと震える。
 風を裂いて、電車が到着する。人の流れのままに乗ろうとした瞬間、航の頭に夏太郎の顔が浮かんだ。夏太郎と一緒に片付けた部屋。梁からぶら下がったリモコン、てるてる坊主。これまで見てきた様々な物が、走馬灯のように現れて、消えていく。夏太郎は、旅に出ると言っていた。あの部屋を、何も無い部屋を置いて。
 航は列から外れて、もう一度手の中の単語帳に視線を落とす。
 ............絞首。絞首?

 まさか。

 航は、コンクリートの床を蹴りつけた。発車アナウンスののち、電車のドアが閉まる。振り返らず、航は階段を駆け下りた。勢いのままに定期を改札に叩き付け、構内を走り抜ける。航の頭は、奇妙なほどに冴えわたっていた。
 なぜ夏太郎は部屋を片付けようとしていた? なぜ全てのものを捨ててしまった? なぜ、昨日自分を追い出した? もう来るな、と--
 駅の階段を下りて、航は外に出た。まだ朝だというのに太陽はぎらぎらと照りつけていて、航の体に、日光は容赦なく降り注ぐ。 
 地面を蹴る度に、リュックが背中にぶつかってくる--こんなもの、いらない。航は思い切って、空き地にリュックを投げ捨てた。重い荷物が無くなって、羽が生えたようだ。夏太郎、夏太郎――と、何度も心の中で名前を呼びながら走る、走る、ひたすら走る--
 アパート前のゴミステーションには収集車が停まっていた。一緒に詰めた黄色いごみ袋が山盛りになっていて、航は脚を止めそうになる--が、再びアスファルトを蹴り上げる。あと少しだ。
 足音も気にしないで、バタバタと忙しない音を響かせながら、古びたトタンの階段を駆け上がる。
「夏太郎......」
 ようやくたどり着いた夏太郎の部屋の前、航は薄い金属扉をノックした。 
「夏太郎!」
 返事はない。航の頭に、最悪の状況が浮かぶ。
「夏太郎、夏太郎!」
 嫌な想像を打ち消すように、腹から声を出す。こんな声を出したのはいつぶりだろう。火照った頬を汗が伝うも、構わず航は叫んだ。
「夏太郎、江夏、太郎!」
 薄い金属製のドアがへこむほど激しくノックしながら、半狂乱になって彼の名前を呼ぶ。近所の人に見られたら通報されてしまうかもしれない。そもそも姿を見たことが無いから、住んでいないのかもしれないけれど--
「は、......なつたろ、う......」
 やはり、返事はない。叩きつけた拳は熱を持っていて、しかし、まだ止めるわけにはいかない。航の目には、いつの間にか涙が浮かんでいた。
「なつたろう、......」
 どうしようもなくて、航の喉からか細い声が漏れる。熱いドアに手のひらをつけると、それを皮切りにして、涙がぼろぼろと零れてきた。腕で拭っても拭っても止まらない。
「......、」
 かちゃりと鍵を外す音。ゆっくりとノブが回る。
「......ハーゲン、もうないで」
 軋みながら開いたドアから、夏太郎が--ぼさぼさの髪を掻きながら、顔を覗かせた。
 力が抜けて、航はその場にへたり込む。滝のように出てきた汗が肌を伝うのにも構わず、絞り出すような声で、航は名前を呼んだ。
「夏太郎............」
 顔を真っ赤にした航に、夏太郎は眉をひそめる。流石にこのまま放っておくわけにもいかないとでも思ったのか、目を逸らして、ばつが悪そうに呟いた。
「まあ、......とりあえず入り」

 金属製のドアが閉じて、蝉の声が遠くなる。カーテンが閉じられているからだろうか、夏太郎の部屋は、いつにもましてひんやりと、薄暗い。
「......、」
 部屋に入ってすぐ、航は息を飲んだ。
 ガタガタと音を鳴らすクーラーの風に吹かれて、ロープが揺れる。昨日まで吊るされていたリモコンはちゃぶ台の上に。空虚に揺れるロープの先は--首を吊るための輪になっていた。
 ゴミ袋が片づけられた部屋は恐ろしく広い。空っぽのカラーボックス、ちゃぶ台と首吊りの輪だけが存在する異様な空間。 
「......」
 夏太郎が溜息をついて、畳の上にどかりと腰を下ろす。片膝を立てて肘をちゃぶ台につくその姿はあからさまに不機嫌そうで、航はそのちゃぶ台越し--玄関側に、膝を抱えて座った。ちゃぶ台と首吊りの縄を挟んで座るも、夏太郎は航を見ようとしない。顔を背けたまま、低い声でぼやいた。
「もう来るなって言ったはずやけど」
「だって、......」
 航が、首吊りの輪をちらりと見上げる。言いかけた言葉を抑えるように唇を噛んで、夏太郎の首元を見つめる。言ってはいけないような気がした。思ったことを言葉にしたら--本当のことになってしまいそうで。
「夏太郎、は」
 名前を呼ばれて、夏太郎がちらりと航を見る。航のすべすべとした頬に残る涙の跡に顎を擦り、何も言わず、目を逸らした。
「どうして--」
 やはり、続きの言葉は言えない。喉に言葉が詰まったようだ。ひりつく空気に指を組んだり解いたり、どうしようもなくなって、航は俯いた。いつもこうだ--航は自分が口下手だという自覚を持っていて、こういう時にひどくもどかしくなる。
「どうしてやろなぁ」
 腕を組んだ夏太郎が、口元だけで笑う。
「ワタル君は、なんで俺に構ってくれんのかな」
 口調こそ穏やかではあったが、その表情は貼り付けたように変わらない。
「もうな、何もないで。ハーゲンも全部食べたし、この部屋も空っぽ」
 黙りこくった航を責めるように、つらつらと言葉を繋げていく。航は膝を抱える腕の締め付けを強め、全身を縮こまらせた。
「なんで--こんなおじさんに構ってくれんの」
 夏太郎が、とんとんとちゃぶ台を指先で叩く。
 --何かを、言わなければ。
 航は汗ばんだ手のひらを、爪が刺さるほど強く握りしめた。多分、この質問に対する正しい答えなんてものは存在しない。だけど、間違ったことを言ったらその瞬間全てが終わる予感がした--正解なんて、ないのに。航は、からからになって固まりきってしまいそうな口を恐々と開いた。
「一昨日」
「うん」
「慰めてもらったから」
「......、ああ」
 夏太郎は顎に手を当てて少し考えるそぶりを見せたのち、再び口元に軽薄な笑みを貼り付ける。
「ええなあ」
 くっきりとした隈を携える目が眇められ、揺れる首吊りの輪に向けられた。 
「ワタル君はほんま、ええ子や」
 しみじみと噛みしめるような、しかしどこか地に足のつかない言葉。不穏な視線に、航は膝の前の手を組み直した--どうして夏太郎は、一向に自分を見ようとしない?
「じゃあ、そんなええ子に--おじさんも、慰めてもらおかな」
 夏太郎がようやく顔を航に向けた途端、部屋が示し合わせたように暗くなる。太陽が雲に隠れただけだろう。しかし、航は己の体を撫でる不穏なざわめきに鳥肌を立てた。
「ワタル君、一緒に死のうか」
 夏太郎は、航の左手を取って自分の口元に寄せた。ぞっとするほど冷たく、大きな手のひらはまるで死神のようで--航は、無意識のうちに後ずさろうとしていた。
「俺のために、一緒に死んだってや」
 遊びに誘う様な軽々しさで、死を誘う言葉。航は自身の首を絞められているような心地を覚え、思わず自分の首に触れる。薄い皮越し、脈打つ血管--夏太郎がその気になれば、一掴みに締め上げてしまえそうだった。
 どうすれば良いのだろう。品定めをするような視線が、じりじりと肌を焦がしていく。ここで、頷いてしまったら駄目だという直感が航の中にはあったが--突き放してしまったらどうなる? どちらに転んでも、事態は悪い方向にしか進まないような気がした。ああ、また何も言えない--航は、本当に少しだけ、震えるように、首を横に振った。............どうすれば良い?
 夏太郎が静かに航の手を解放し、そうか、とかすれた声で呟いた。生気を失った暗い瞳を閉じて、どこか安堵したように息を吐く。
「そんなら、もう--」
「夏、太郎」
 夏太郎の言葉を遮るように、航は勢いよく立ち上がった。
 --上手くいくかな。いくと良いな。
 深く考えないまま、航は衝動に任せてちゃぶ台の上に乗り上げた。頼りないちゃぶ台の脚が不穏な音を立てたが、構わず背伸びする。首吊りの輪に手を掛けると、ぽかんとしていた夏太郎が目を見開いて、荒々しく立ち上がった。
「な......、おい、ちょお待って」
 夏太郎がちゃぶ台に勢いよく乗って、航の腕を掴む。強い力で縄から手を離させたところで--ちゃぶ台がみし、と鳴った。何かが折れる音が、死んだように固まっていた部屋に響く。あ、という、航の声と同時に--体重が偏った部分から脚が折れた。 
「......っ」
 バランスを崩した航の身体が傾き、視界がスローモーションになる。
 ああ、駄目だ--受け身を取れない、と目を瞑り、航はどさりという鈍い音とともに崩れ落ちた。
「あー、......ちょ、大丈夫かワタル君」
 背中に、体温。航の想定していた衝撃は訪れない。慌てて振り返ると、夏太郎が下敷きになっていた。二回りほど大きな夏太郎の体に受け止められて、航は全くの無傷だった。
「ご、ごめん」
 だらりと座ったままの夏太郎が、腰をさすりながらよろよろと立ち上がる。
「腰--やったかも」
「腰......」
「そ、腰」
 あー、と呻きながら、夏太郎がベランダに続くガラス戸にもたれかかった。拳二つ分くらいの間をとって、航もそそくさと隣に腰を下ろし、膝を抱えた。体が熱くなったからか、背中についた窓ガラスがひどく冷たい。 
「あのちゃぶ台安かったからなあ」
 夏太郎が、まだ現実に戻り切っていないような顔で、脚が一本折れて崩れたちゃぶ台を眺め、流石に男二人の体重は無理やわ、と頷いた。
「まあ......ワタル君が大丈夫そうで何よりですわ」
 ようやく空気が緩んで、航は揃えた膝に顔を埋めた。 
「しかしまあ」
 夏太郎は、ちゃぶ台の残骸の上--未だ揺れる首吊りの輪を見上げる。その呆けた横顔をちらりと見て、航はつい、力の抜けた笑い声を零した。
「......はは」
「何」
「いや......ふふ、変な顔」
「笑いごとちゃうねんで」
「ちゃう?」
「ちゃうわ」
 ひとしきり笑った後、航は目元を拭い、大きく息を吐き出した。--なんとかなって良かった。
「あーあー、ほんまあほらし」
 夏太郎が、立てた膝に腕と顔を乗せてうなだれた。だらりとした姿勢のまま航を見やり、口を尖らせる。
「また失敗したわ」
 また、という言葉に、航は夏太郎の顔を見た。
「二回もワタル君に邪魔された」
 拗ねたような口調で、ぺらぺらと夏太郎が捲し立てる。
「二回目やねんで、二回目」
「......二回目?」
 どういうことだろう。二本指を立ててむくれる夏太郎に、航は首を傾げた。
「一回目は、駅で」
 駅--航の頭に、出会った日のことが浮かぶ。英単語帳を持って号泣していたら、夏太郎に声を掛けられたのだ。
「あの日なあ、ほんまは電車に飛び込んだろう思てて」
 何でもないように衝撃的なことを告げながら、夏太郎が眉間を揉む。
「飛び込み--」
「そ、飛び込み。でもなあ--流石に泣いてる学生には見せたくないやん、人体がこう......バラバラになるとことか」
 そんなん見てもうたら一生のトラウマもんやろ、と夏太郎は笑う。
「そんなことで......」
「そんなことって、はは......言うなあ、ワタル君」
 額に手を当てた夏太郎が、ずるずると窓に沿ってずり落ちる。窓を頭側に寝ころんで、天井に揺れる縄に手をかざした。
「ごめんなあ、巻き込んで」
 薄暗い部屋の空気に、呟きが溶けて--消える。航は、ゆっくりと上下する胸を見つめた。
「夏太郎は--僕が居なかったら......、死んでたの」
「まあ、そうなってたやろ」
「......なんで、夏太郎はそんなに--」
 言いかけたところで、航は唇を噛んだ。
 聞きたいことは山ほどある。多分今の夏太郎なら、自分が聞けば何でも答えてくれる、けれど。自分は、返ってきた答えに、ぶつけた質問の全てに責任を負えるだろうか? いくら距離が縮まったとしても、好奇心のためだけでないにしても、他人の事情にずかずかと立ち入ることは--ひどく残酷な行為なのだ。航は喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、小さく息を吐く。そして--心に浮かんだ、もっと単純な言葉を、祈りを呟いた。
「--死なないで、よ」
 夏太郎の右手を、両手で強く握る。死体のように冷たい手を、一昨日自分がしてもらったのと同じように。ずっと腹の中に抱えていた言葉を吐き出したことで、航は目の奥が熱くなるのを感じた。
 --ああ、また泣いてしまう。
「はは、ほんまにワタル君は--」
 夏太郎が、握られていないほうの手で自分の目を覆った。指の隙間から自分の手を握る航を透かし見て、眩しそうに目を細める。 
「--いや」
 夏太郎が、目元に当てていた手を口元に持っていく。いつもの癖で上げてしまっていた口角を抑えて、言葉を揉むように、顎を撫でる。
「ほんま、大人げないわ」
 床に手をついて、夏太郎がのそりと体を起こす。いつになく真剣な顔で、握られた手をじっと見つめ--ふっと、柔らかな笑みを口元に浮かべる。
「ワタル君の手は、あったかいなあ」
 夏太郎が、握られた手を自分の立てた膝に乗せ、もう片方の手を上に添えた。そして、上体を曲げて--祈るように、恭しく額を付ける。思いもよらない行為だったが、航は静かに、それを見つめる。二人の間には、生まれ変わるための儀式のような--そんな、神聖めいた空気があった。
「ワタル君は--お日さんみたいや、なあ......」
 震える声は弱々しく、かたかたと鳴るクーラーの音に紛れて消えてしまいそうで--航は、何が夏太郎を死に向かわせるのか、それが--少しだけ、分かった気がした。
 航はゆっくりと瞬きをして、縋るように握られた夏太郎の手をほどく。迷子になった子供のように夏太郎がたじろいで、顔を上げた--その瞬間。航は体を寄せて、大きな夏太郎の体に腕を回した。夏太郎の、息を呑む音が聞こえた。目を見開いて、大きな手のひらが頼りなさげに結ばれる。航は何も言わず、腕の力を強めた。遠くに行かないように、しがみつくように、しっかりと抱きしめる。そして、夏太郎の肩口に頭を預ける。夏太郎はうなだれて、自分の前に回された航の腕に顔を埋めた。自分よりずっとがっしりとしている肩が、かすかに震えているのに気づいて--航は静かに、目を閉じた。 
 --こんなにも、温かい。
 世界から切り離された部屋。二人は何も言わず、寄り添い合った--言葉はいらない。ここに自分と、夏太郎が生きていて、体温を重ねている--それが、二人にとっての全てだった。


「......うん、ありがとなあ、ワタル君」
 どれほどの時間が経ったのか。互いの心音まで共有できてしまいそうなほどに寄り添ったのち、ようやく夏太郎が口を開く。どこか晴れ晴れとした顔で航から離れ、腰をさすりながらゆっくりと、大きい体を立ち上がらせた。
「いたた......あー、片付けんとな」
 航も続いて立ち上がり、まっさらになった部屋で伸びをする。そんな航を見つめる夏太郎の目は穏やかで、憑き物が落ちたかのように凪いでいた。

 夏太郎が、床に転がっていたハサミを手に取り、二人で壊したちゃぶ台を壁に寄せる。そして--梁に括りつけられたロープに、ハサミを添えた。航は立ったまま拳を握り、その様子を見守っている。
「......」
 ハサミを入れる直前、夏太郎の瞳が迷ったように揺らぐのを見た。 
「夏太郎」
 名前を呼ぶと、夏太郎が驚いたように目を見開いてから、表情を緩めた。そして、一思いにロープの輪を切り落とす--そこに、迷いはなかった。
「ぜーんぶ無くなってもうたなあ」
 切り落とされた輪を拾って、夏太郎が空っぽになった部屋を見回した。クーラーの風で、首吊りの輪の残骸--中途半端な長さのロープが、ふらふらと揺れる。
「夏太郎が捨てたんでしょ」
「まあ、な」
 夏太郎が肩をすくめて、苦笑する。
「......ところでワタルくん、学校はええの?」
「あ--」
 航の顔が強張る。......完全に忘れていた。流石に一週間サボりはまずい、というか--母さんに、金曜からは行くと言ってしまっていたような気がする。
 午後の授業からでも--と、リュックを寄せようと立ち上がる航の動きが、半腰になったあたりで止まる。
「どうした」
「捨ててきちゃった」
「捨てて......?」
「リュックも、傘も」
「どこに」
「道に」
 夏太郎は顎に手を当て、数秒考えたのちに噴き出した。
「ははは! 早う回収せんと持ってかれんで」
 どすどすと大股で玄関に向かう夏太郎。航は小走りで、その後を追った。 
「せや。帰りにコンビニ寄ってもええかな」
「いいけど......昼ご飯?」
 夏太郎が力強くドアを開けると、真夏の蒸された風が吹き込んだ。薄っぺらいドアを足で止めて、航を振り返る。
「ハーゲン。一緒に食べよ」
 夏太郎の顔に浮かぶ笑顔は、もう下手くそでも、薄っぺらくもない。航は大きく頷いて--晴れわたる空のもと、夏太郎と一緒に、日の当たる廊下に飛び出した。
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