ギャロップ キヌア・リーヴス いくらあひてが鏡でも、こんなものをうつすのは全く気が退ける。だが、時たまにはしかたがない。おつきあひに私はのぞき込む。それが私の顔なのだから。 金子光晴「鏡」 いつだってここではないどこかへ行きたかった。いつだって自分ではない何かになりたかった。僕は焦っている。何かがこっちにやって来る。雷が閃く黒雲のような、草叢の騒めきとなって忍び寄る狼の群のような、電話を掛けて接近を報告してくるメリーさんのような、そういう何かに追われている焦燥にいつも急き立てられている。 速駆けの馬。ずっと何かから逃げている。 その何かは兄だったのかもしれない。兄は落雷を伴う嵐であり、げらげら笑いながら羊を食って口の端から赤い肉をはみ出させている狼であり、逐一現在地を報告してくる人形みたいにまともな人の心を失っていて、しかし電話は掛けて来ない。ショートメッセージの履歴はどこまでスクロールしてもただの業務連絡で埋まっている。「21時」この三文字は、今日の二十一時からステージで、二十時にはライブハウスの楽屋に集合しておけということを意味する。主語の省略どころの話じゃない。「分かった」僕はそう送って、兄からの返信は永遠に来ない。 これでも、連絡を取るようになった方だ。去年までは家ですれ違っても一言も喋らなかったし、メッセージを送るとか以前に、兄のいかなる連絡先も知らなかった。 家にグランドピアノはあるけどドラムセットどころかスネアも無いから、僕は皆が朝練を始めるより先、警備員が高校の正門を開ける時刻ちょうどに音楽室に行って、防音のパーカッション室でドラムを叩く。 スネアを買えるくらいの貯金はある。ただ、家で叩けば多分母が失神する。兄の存在だけで疲れ果てた母をこれ以上苦しめたくはないし、早朝の学校はほとんど修道院みたいに静謐で気分が落ち着くから、別に構わない。僕の頭の中で兄が笑う。「あほだなお前」黙れ。防音室の扉を閉じればここは本当に静かになるから、頭の中の声だけが朗々と響く。 兄は自分以外の何に囚われることもなく、何を慮ることもせず、父のクレジットカードで勝手にキーボードを買って二階の自室で弾いていた。うるさかった。音が小型の台風になって狭い部屋の中で暴れているようだった。実際時々は何かが床に落下する音も響いた。そのとき僕は受験期で、気が狂うかと思った。 校章が入った規定鞄を下ろし、軽く手首を回して椅子に腰かける。はじめはドラムセットの中からスネアだけ、身体の正面に移動させる。膜が振動で低く震える。スティックくらいは買った。ケースから取り出し緩く握り、構える。まっさらに凪いだ海面、真っ直ぐ横に一筋伸びた線が瞼の裏に見える。右手から僅かに力を抜くとスティックがほとんど自重で下がり、落下と同時、音が一つ撥ねる。凪いでいた海原に四分音符の白波が立つ。僕の手から生まれた波形が世界を四分の四に断つ。八小節叩いて八分の八に増やす。波は感覚を狭めて凸々と、等間隔に連なっていく。三連符、十六分、頭の中が空になっていく。 半拍三連、二拍三連、頭の中で波がずれていくのが分かる。等間隔に均等に波が波を追い縋る。テンポキープは得意だった。中等部から高等部に上がるときに、ピアノを弾くならパーカッションに入らなければならなくて、もしそうじゃなかったら多分、一生ドラムに触れることはなかっただろう。そういう口実がなければ、母は僕がスティックを握ることを許さなかっただろう。 「お前はそれしかできない」大海にひとつ、人を小馬鹿にしたようなヨットが揺れていて、そこから兄の声が薄笑いで言う。「お前はテンポを守り続けることしかできない。道を外れることができない」僕は眼をきつく瞑り自分のドラムの音で雑音をかき消す。ヨットを単調な波の間に沈ませる。 一時間くらいでパーカッション室を出た。ボーンやホルンや談笑の騒めきが一気に鮮明さを増して流れて来る。騒めいているのに芯に音律が一筋通っていて、コンマスがハーモニーディレクターのBの鍵盤を鳴らせばその電子音に合わせてばらけていた音の筋は一つに収束していき、ひとつのBの響きになるだろう。ここでは調和が調和として、厳然とある。 対極としての高架下にあるライブハウス、あそこでは音は収束するのではなく、投げ合って跳ね合ってぶつかって砕け散って響く。野蛮な世界、全く兄が好みそうな場所だった。 ギャロップ。僕は馬の蹄が地面を叩く十六分音符を、そのズレをずれることなく叩けたが、そんなことはどうでも良かったのかもしれない。どうせ兄が全部をぶち壊す。 兄は日々全てを壊していて、それが趣味みたいなものだった。中三の塾帰りに他校の不良に財布を盗られ、殴られ、その日から兄は変わってしまったのだと母は泣く。僕は慰めながら、でも、あいつは昔からそうだったよと思う。殴られて倒れてアスファルトで側頭部を打ったせいで脳にダメージが入ったわけじゃなく、ただ兄が元から持っていた暴力性、優等生じみた眼鏡の奥に隠していたそれが表出しただけだ。精神的にも物理的にも兄を捻じ曲げることはできない。 いっそ、その不良が兄を立てなくなるまで殴り倒しておいてくれれば、全てシンプルになったのかもしれないと時々思う。いっそ手の指でも折ってくれていればよかったのかもしれない。そう思って、自分がそこまで思えてしまうことにぞっとする。兄がステージの隅、僕の右前でキーボードを掻き弾くのを、その弓なりに曲がった後ろ姿を見るにつけ思う。ベースの目羅さんが、楽譜にない旋律を弾く兄の方を凄まじい目で睨んでいて、僕はその段階もとっくに通り越している。睨む気もしないで諦観の沼に胸までテンポを刻んでいる。竜巻と十六年間同じ屋根の下に暮らしているようなもので、だから慣れる他ない。 バンドを組んだというよりは、もともと兄がいたバンドのドラムが抜けた穴を補充するために僕が引きずり込まれたようなものだった。僕の叩くテンポを兄のピアノは完璧に無視し、逸脱し、それでいてテンポを逃してはいない。あくまで流れを掴んだ上でそれを抜け出て遊んでみせる。鼠をいたぶる猫みたいなものだった。 これがいる限り僕は否応なしに僕であることを思い知らされる。僕は僕であることから逃れられない。僕は焦っていて、逸っていて、ふと自分がテンポを崩していることに気付いた瞬間兄が弾く久々に精確な旋律が僕を引き摺り戻す。 その気になればこいつは、地方のコンクールくらいなら賞を攫う。 僕は何者かになりたかった。自分以外の何かになりたかった。他のバンドメンバーがカウンターでエナジードリンクを受け取ってるのを尻目に、僕は一人楽屋に帰る。母には、十時まで塾の自習室にいると伝えてある。ここで浪費する時間は無い。 今から帰るとメッセージを打ちながら片手でウエットティッシュを引っ張り、詰まって二枚同時に出てくる。口元を拭うと真っ赤な跡が引き摺られて付いた。身を屈め、鏡を覗き込んでその赤が残らないようにきつく拭く。変態、と兄の声が頭の中で僕を笑う。 何より最悪なのは、兄が実際にそう口にしたことは一度だって無いことだった。変態。頭のなかに兄はいないし、だとすればそれが誰の声なのか僕は分かっている。だから僕はどこかへ行きたい。いつまでも自分の身体の中にいれば、頭で反響する自分の声でいずれ耳が潰れるだろう。 制服のネクタイを結び直し鞄を掴んで楽屋を出ようとしたところで、ベースの目羅さんとすれ違う。兄の同級だから僕の二つ先輩になる。 「お疲れ井上弟。大丈夫か」 目羅さんはピアスで耳がずたずたになっているくせに相手のことをよく見ていて、一番真面そうに見える兄の頭だけが段違いに狂っている。僕は苦笑してみせる。「明日小テストがあって。先失礼します」 「小テストね」目羅さんの耳朶をなぞって並んだ真珠のピアスが光った。「井上弟は多分普通に生きれば俺らと関わり合うことはなかったんだろうな」 僕は笑う。どうとでも取れるから笑うのは楽だ。「いや、でも兄があれなので」 「井上弟って無意識に井上のこと軽蔑してるよな」責めるでも茶化すでもなく淡々と言う。 「どうなんですかね」笑っていれば答えなくて済むから、楽だった。 「どうなんでしょうね。まあ兄貴の分までテスト頑張れ」 目羅さんは言ってポケットからキットカットの小袋を取り出して僕に渡し立ち去った。柔らかかったから、開ける前から溶けているのは分かっていた。 意識に上らないから無意識と呼ばれるのに、不可知の領域について問われたところで何も答えられない。兄のことを軽蔑しているのは意識の領域の話だ。僕の無意識には漠然とした敵(歯を持った蝗の大群、相手を轢き殺す地点を目的地に設定したダンプカー、青白い死の馬の群)がいて、それが何を暗示しているのか僕には分からない。 二週間前の全統模試は国数英総合校内四位だった。英語だけなら一位タイだった。週に二日塾に通って、水曜にはとっくに兄が辞めたピアノ教室にまだ通い続けていて、楽団の次期パーカッションリーダーに決まっていて、一体どこが大丈夫じゃないんだろう。 家に帰るとお帰りなさいと母が顔を出す。「遅かったね」ごめんと僕は謝って、英語の長文解いてたら長引いちゃって、と言って、自分の口から出た「ちゃって」という語尾の粘つきに首筋が総毛だつ。 そう、と母の顔は本気で命の心配でもしていたみたいに緩み、「何か温かいもの淹れようか」訊かれて僕は首を横に振る。それだけじゃ足りないから「ありがとう」挟んでおく「でも大丈夫」 母を見るたび、昔見た美女と野獣のアニメを思い出す。野獣の命を体現し、硝子の覆いのなかに保管された薔薇の花を思い出す。世界から隔絶されていて、守られていて、花弁が一枚落ちるごとに終焉が近付く。そのくせ皆薔薇が散るのを待っている。門戸を閉ざした豪邸が崩壊するのを待っている。 初めてDVDで観たのは多分小学生のころだった。僕は野獣が人の姿を取り戻したことに、理由も分からないまま、ただ台無しにされたような気分になったことを覚えている。 母は優しい人だから崩壊に目を瞑ることができる。というか気付かない。遠い国の砂塵と瓦礫が舞うニュース映像が映った瞬間チャンネルを変えて、暖かいリビングから不穏な気配を消し去って紅茶を淹れるような人だ。ドレッサーから口紅が一つ消えたのも、きっとただどこか暗がりに転がっていってしまったんだと思っている。その母の純粋な盲目性から、優しさや気の弱さを差し引いたのが兄だった。 つまり悪びれもせず人の傷口に指を突っ込んで開いて笑うような人間だった。野獣に近かった。母が片手で髪を櫛梳りながら家中回って口紅を探していたときも、ずっと自室に引きこもっていて、偶にミネラルウォーターのボトルを漁りにキッチンへおりてきても常にイヤホンを填めていた。気付いていなかったというよりそもそも多分興味がなかった。 僕がまだ兄のバンドに引きずり込まれる少し前の話だ。 そのころ僕にとって崩壊の兆しは日増しに増えつつあった。兄は制服を崩して着るようになり、夜もどこか出かけて夜遅く帰ってくるようだった。家の中で顔を合わせることはほとんどなかった。薔薇に被せられた薄いガラスの覆いに音もなく罅が入り、その光る細い線が枝分かれしながら少しずつ伸びていく軋みを、僕だけが聴いていた。罅が震えながら伸びていく間にも、また兄が隣の隣で電子ピアノを弾いていて、消音設定にされているから本来無音のはずなのに、鍵盤の音がなぜかうるさかった。何匹もの鼠がフローリングにばら撒いた積木の上を駆け回るみたいな音がじわじわガラスに負荷を掛けていく。かたかたと流れるように鳴る鍵盤の音は僕の神経を逆撫でて嫌な記憶を削り出し続け、決してコンクールで兄に勝てはしなかったことを、そのくせ兄は素行の悪さで審査員の心証を著しく害しトロフィーが僕に回ってきたことを思い出させる。あのトロフィーの、嫌らしい重みを、僕の手は忘れないだろう。そしてこれからも一生、ピアノを弾こうとする度に、僕の手を重くするだろう。僕が、ガラスが、圧し掛かるものの重みに耐えかねて軋んだ瞬間、壁と壁を挟んだ向こうで鍵盤が目に見えない楽譜の最後の一音を叩き、張り詰めて全てを食い止めていた力が砕け散った。 〇.五ミリの芯先が折れた。僕は開いていた参考書の上にシャープペンシルを置いて立ち上がった。 僕には衣装が必要だった。それと絵具が必要だった。僕は僕という牢獄の中から逃げ出さなければならなかった。そのためには生まれ直さないといけない。もしくは死ななくてはならないのかもしれなかった。どちらにせよ、血が流れる必要がある。 僕は道具を揃えた。母は庭にいて、兄は自室に籠っていた。準備を終わらせてから僕は着替え、そして実行に移した。 静かな水の音が聞こえていた。タイルにシャワーが降り注ぐ音だった。午後の風呂場は電気を付けなくても窓から差し込む光で白く眩しかった。磨りガラスの向こうで世界はぼやけていた。さっきまでそこに黒い影となって喚いていた母は遠くへ行ったらしい。まだ何か喚いているのが二階の方から微かに聞こえた。水がタイルの上を浸し、僕の身体の舌から赤が滲み、ほぐれて溶け、筋になって流れていく。大きな流れが二股に分かれ、また排水口の近くで合流してするりと網の間にそそぐのを僕は眺めていた。 下腹部が真っ赤に濡れている。 現実味はなかった。ネットのニュース映像に映った、担架で運ばれていく異国の少女を思い出す。モザイクが掛かった下腹部はぼやけた赤に染まっていたのを思い出す。どこか遠い国の戦争を想起するくらいには、現実味はなかった。 白いワンピースが濡れて貼り付き、水餃子の白に透けて紺のトランクスのゴムが見えていた。母がこのワンピースを着ていたのを最後に見たのはもう六、七年前、高原の方に数日避暑に行ったときだった。今風呂場の蛇腹のドアのロックを外せば、母は僕から目を逸らし、クローゼットの中から白いワンピースを探すだろうか。全てから目を逸らして、もう二度と見つからないそれを探すだろうか。 かつて白かったワンピースならここにある。臍から下を真っ赤に染めている赤は、血の色にしては鮮やかすぎる。 僕はそこで満ち足りていた。大量に出血しながら、それを眺めているのは確かに爽快だった。僕が僕の中から流れ出していく。僕は確かに僕ではない何かに変容しつつあった。磨りガラスの外で世界は崩壊してしまってもう手遅れだ。どうしようもなく爽快だった。 しかしその調和は外から破壊された。兄は洗面所のカミソリで自分の頬を切り、あっけなく血を流してみせ、その血を手の平で摩りガラスになすった。なぜそんなことをしたのかは分からない。兄の考えていることなど分かるはずがない。ただそれは、中学の絵具セットのマゼンタではない、圧倒的な赤だった。僕は結局のところこいつにいつも邪魔をされる。この狂気に敵わないと思い知らされる。僕は茫然とドアのロックを下げ、扉が蛇腹に折れて開き、兄が僕を風呂場の外へと引き摺り出した。 兄に人を思いやるような心は無い。だからこれも全て優しさではない。「とりあえず服なんとかしろ」兄は言って先に風呂場を出て行き、遠くから母のくぐもった声と兄の声が聞こえた。兄の方だけ聞き取れた。なんか風呂場で寝てた。シャワー浴びようとして落ちたんだろ。勉強ばっかしてるから。母が何か答えて、兄の声に露骨に苛立ちが混じる。そんな気になるなら一遍精神科連れてってみれば? クラシック療法でもやらせてみろよ。 やがて、楽団のパーカッションの先輩が僕を呼び出した。「僕の代打でバンドのドラムやってくれない?」そして僕はなぜか兄のバンドでドラムを叩く破目になり、冒頭に繋がる。 問題は、黒雲がまだ晴れていないってことだった。 音楽療法は根本的な解決にはならない。音楽は常に僕を少しずつ削っていく。昔は楽しめていたはずだったのに、いつから苦しくなったのかもう覚えていない。多分、兄が音楽を楽しみ始めてからだろう。僕の前には常に兄がいて、それが続く限り僕は決してそれを超えられないと悟ってからかもしれない。 僕は夢を見るようになった。走っている夢だった。何かに追われて走っているから、多分悪夢なんだろう。 ダイニングキッチンに下りれば甘い匂いと塩からい匂いが混じっていて、僕の席には皿が置かれ、サラダとベーコンとマフィンとジャムを垂らしたヨーグルトが盛られている。胃が強張る。おはよう、と母がエプロンで両手を拭きながら微笑む。僕も同じ言葉を同じ微笑みで返す。 傷の無い完璧かつ普通な朝になるはずだった。つまりそうはならなかった。兄が珍しく下りてきて、僕も母も無視してシンクに直行する。 「起きてくると思わなかった」母の声は緊張を隠さずそのまま伝える。「ごめんね。今から支度するね」 「いい」兄はラックから伏せてあったティーカップを取ると湯呑みたいに掴んで水を注いで飲む。 「給水機から飲みなさいよ。水道だとカルキとか入ってるんだから」母の声は自分の発言に煽られて苛立つ。「バンドやってるのか誰とつるんでるのか知らないけど、お母さん、そういうポーズ取るの逆にダサいと思う」 兄は顎から水をぼたぼた垂らしながら笑った。眼鏡を外してそのまま水道で洗う。 「俺は朝食えないタイプだし、あんたも親父もそうだ。なのにこいつだけの為に作ってやって食わす」 「何が言いたいのか、はっきり言って」 「そうやって優しくしてやってたらこいつバケモンになるんじゃないかってだけだよ。まさか今更、俺は駄目んなったけど弟の方はまだ踏み外してないとか、思ってるわけじゃないだろ。俺の弟だぞ」 僕は口を開きかけた。兄が水を止めダイニングから出て行く方が速かった。 「母さん」 母は俯いていて、一回目の呼びかけには反応がなかった。眩暈がした。「母さん、大丈夫?」 うん、と顔を上げた母の眼は赤かった。「ごめんね。大丈夫」僕はそれ以上何の言葉も持たないまま、兄はこの家を出て行くべきだと思った。それが皆の為になる。兄も含めた全員の為になると、そう思った。 夢のなかで僕は走って逃げていて、響いているのは馬の蹄の音だ。一定のテンポから先はどう足掻いても速くならない。背後、僕を追ってくるものたちは刻刻と近づいて来ている。 「飲め」 僕がライブハウスの外で熱を冷ましていると、目羅さんがグラスを二個持って出てきて片方を突き出した。受け取る。ジンジャーエールは喉で焼け付いてそのまま僕の脳と視界を揺らした。 今日の演奏で、久しぶりに兄は暴走した。よりによって今日、音楽事務所のスカウトが聴きに来ていたらしかった。それなのに、普通だったら火を吐き周囲に悪態を吐きまくっているはずの目羅さんは落ち着いていた。コーヒー牛乳の色をした液体を啜る。 「今日あいつが弾いた曲、あれ、あいつが葬式で弾いた曲のアレンジなんだよ」 そういきなり話し始めた。「聞いたことあるか? あいつの師匠みたいなキーボードがいて、バンド組まず一人でやってたんだけど、その人が急に死んで、その葬式であいつあれを弾いた」 なぜその話を僕にするのか分からなかった。そうなんですねとかいう馬鹿みたいな返事しか出てこなかった。兄にも人の心があるってことを言おうとしてるんだろうかと思う。兄の暴力性は兄のナイーブさの裏返しだって言おうとしてるんだろうか。頭が熱いのは多分ジンジャーエールのせいだった。 兄は確かにピアノが上手い。それくらい僕も認める。ただ兄は、キーボードというより人間として重要な部分をいくつも欠損していて、それもまた事実だった。あの人には相手に共感する能力が無く、そもそもそれが必要だという意識が無い。あの人は僕のことを永遠に理解できないだろう。僕と兄の間には永遠に風呂場の擦り硝子の扉が立ち塞がり、それ以上歩み寄ることはできないだろう。 「そういやオアシスが復活するらしいな」 目羅さんがいきなり言った。「知ってるかオアシス」そう訊かれて頷く。「イギリスの」本当は大して知らない。 「ノエルとリアムのギャラガー兄弟っていうのが中心で、そいつら世界一中の悪い兄弟っていわれてるバンドなんだけど、復活するらしい。絶対どっかで殴り合いになって流れるだろうけどな」 「何が言いたいんですか」時々、自分の発言と口調が母に酷く似て響いてぎょっとする。 「いや、いかにオアシスがぶっ飛んだバンドかを伝えたいんだよ。知ってるか、リアムはツアー中バーで乱闘してアメフト選手に前歯折られて通報受けた警官蹴って残りのツアーキャンセルしたし、ノエルはカミソリを万引きして逮捕された」 目羅さんはそこから延々、オアシスの起こした騒動を列挙し続けた。僕は黙ってそれを聞いていた。静かな夜だった。背後のライブハウスの分厚い扉越しに、水底にいるみたいに籠った演奏が聞こえてきていて、そのせいで一層静かだった。 僕と兄は殴り合ったことはない。殴り合うほど、親密じゃなかった。 僕は兄と顔を合わせず先に家に帰って、制服のネクタイを解き、それからoasisで検索して出て来た白黒のサムネイルをタップする。白黒のMVが流れ出す。レコードの針が落ち、男が椅子に座り、ギターのイントロが流れ始める。訳の分からないショットが連続する。僕はただ聴いている。歌詞の意味は取ろうとした傍からメロディーに乗って流れ去って行くけど、何度も繰り返されるサビくらいは何となくわかる。 多分お前が僕を救ってくれるたった一人なんだろう。それで結局のところ、お前が僕のワンダーウォールなんだ。 ワンダーウォールが何なのかは分からない。僕はまた一から再生し直す。映像が邪魔だから目を瞑る。透明な壁、果てしなく広がる荒野を端から端まで横断する巨大な壁が僕の眼前に聳えたつ。透明なその壁が、こっちへ押し寄せてくる透明な軍勢を堰き止める。 この曲を聞いたことがあるのは、あまりに有名だったせいかもしれない。でも、なんとなくもっとずっと昔から知っていたような気がする。どこか遠く、今ここと隔たったどこかで聞いたような気がする。歌詞はずっとyouに呼びかけ続けている。僕は透明な壁の向こうに、背けていた目を向ける。そこに誰かいるのか。僕が何に追われていて、僕を内側から引き裂くものが何なのか知っている誰かが、そこにいるのか。 瞬間、落雷が僕の瞼の裏を引き裂いた。いくつかのイメージが頭の中に閃いて、その意味を理解する前に消え去った。 一つ目のシーンは印象派の絵画みたいな色調だった。女の人が、血まみれの子供を膝に抱いて青い芝生の上にへたり込んでいる。昼間の空にチョークの粉みたいな赤青ピンクの花火が煙になって爆ぜる。フラッシュが瞬いて場面が転換する。 いつの間にか僕は暗い雪の森を歩いている。足を取られる夜の雪原に点々と黒い窪みができていて、それが自分の血だということ、僕は自分が大した猶予もないもうすぐ死ぬことを知っている。自分の大切な人がそれから三分と間を置かず死ぬことを知っている。僕は分厚い皮の手袋を嵌めた手で外套の腹部を押さえていて、熱い液が染みてくるのを感じている。その年寄りの手が自分の手だと知っている。 視界が何重にも重なって酷い眩暈がした。僕は勉強机に手をついてしゃがみ込む。その右手を支点に一瞬世界は収束し、僕の現実に収束し、それでもまだ眩暈の余波が世界を揺らしている。机のふちを掴んでいるこの手も自分の手だ。同時に手は縮み、歪んで大人のそれみたいに大きくなり、蚯蚓が這ったような傷痕が走り、それからまた元の僕の手に戻る。 僕は僕を見失っている。僕は僕が見た覚えのない景色の中で溺れていて、でもそれら全部を僕が見たのだと知っている。 「前世って信じますか」 「あ?」 母にも父にも心配は掛けられない。こんなこと訊いたら僕まで頭がおかしくなったと思われて終わりだ。目羅さんは多分、他のバンドメンバーに囲まれて多少の狂気に慣れている。 「考えたことねえよ」言いながら考えている。「なかったと思う。知らんけど、前世があったって考えたら人口の計算が合わなくなりそうだろ」 僕はちょっと笑う。笑っていれば返事をしなくて済む。 「お前は? 信じてんの」 僕は逡巡する。「分からない」否定ではなく、前世なんか笑い飛ばすでもなく、そう自分が答えてしまったことに驚いている。「最近、夢を見るんです。自分が絶対経験してない、でも経験した記憶みたいな夢をずっと見てて」 「それがお前の前世なんじゃないかって? どんな前世だよ」 それが、一人の記憶ではなく明らかに性別も年齢も境遇も違う複数人の記憶だって言えば、さすがに引かれるだろうから言わない。「ぼんやりしてて良く分からないんですが」断片的だが鮮明で最近は昼間でも襲ってくるがそのことも言わない。「ひとつ確かなのは、兄がいないってことだけです」 目羅さんは黙っている。僕は付け加える。「あの兄がいないって意味だけじゃなくて、どういう形にしろ、僕に年上の兄弟はいない」 「それは夢占い的な意味で?」 「だとすれば、指す意味は明らかですね」僕は苦笑してみせる。問題はこれが夢じゃないってことだった。これが記憶だってことで、それを僕だけが分かっているってことだった。 終末が近付きつつあることを、僕だけが知っている。僕だけが逃げていて、でもどこにも行けない。日常も悪夢の延長になっていて、境目はいつの間にか消えている。 僕はベッドに仰向けに寝て、イヤホンを嵌め、空気のささくれみたいな兄の気配を遠ざける。僕ももうずっと「あなた」に語り掛けている。どこにいるんだか分からないあなたに語り掛けている。返事は返ってこない。夢と現実の境目は消え、僕の身体の下からベッドは消失する。僕はいつの間にか霧で煙る草原に立っていて、数メートル先には、霧の中から浮かび上がるような透明な壁が立ちふさがっている。向こうに誰かいる。僕は歩み寄りながら、あなたに問いかけている。僕は頭がおかしくなりつつあるのか? 僕は、結局兄の弟であることから逃れられないのか? 血は僕の中に組み込まれて動脈と静脈という根を張っている。このまま永遠に取り除くことはできないのか。 壁に手を当て、向こう側のあなたにもう一度そう訊こうとして、そして僕はそこにいるのが自分だと気付く。壁じゃない。鏡だ。数メートル先は霧に呑まれた世界は、向こう側に広がっているわけじゃなく、僕の背後に広がっているんだと気付く。バリンと何かが砕ける音がして、世界が砕け、目を覚ます。 僕は仰向けに天井を見上げていて、一部屋挟んだ向こうから、楽譜を壁に投げつける音とくぐもった兄の悪態が聴こえてくる。 朝の自主練の時点で、調子が悪いことは分かっていた。手が回らない。今日は放課後に楽団の合わせがあって、その後夜からライブハウスも入っている。不味いな、と思って、そう思ってしまった時点で僕の頭には枷が掛かってもういつものパフォーマンスはできないと分かっている。少しアップをしただけでスティックを置く。 僕はゆるく拳を握り、それから開く。自分の手を見る。たこになった部分だけ皮膚が半透明に硬くなった華奢な手だ。ごく常識的な範囲の努力の痕が残った手。兄は爪を剥いだことがある。誰かの爪を拷問の一環でとかではなく、ピアノの弾きすぎで自分の人差し指の爪を自分で飛ばした。何がどうなれば、爪が剥がれるのかは分からない。 兄が財布を盗られ頭を強打した翌週辞めて僕が今も通っているピアノ教室の講師は、あなたのお兄さんの手は天性のピアニストだと言った。僕は、自分でも奇妙なほど凪いだ気分でその言葉を聞いていた。腹は立たなかった。 兄が人差し指の先に雑にガーゼを巻きテープで縛って血のピンクで染めているのを見たとき、僕は溶けるほどの嫉妬を覚えた。 あなたには分からない。 もしもあなたに本当に好きなものがあって、それに何もかも捨てて打ち込めたら、それの為に死ねたら、あなたは本当に恵まれている。もしもあなたが寝食を忘れて何かに没頭し、誰も追い縋れないような深海に一人沈んでいってしまえるのなら、それは本当に幸せなことなのだ。僕には棄てきれないものが多すぎる。兄には、自分が誰かを苛つかせていることが分からない。 もしも僕の爪に罅が入り、ほんの少し血が滲むようなことがあったら、母は僕の腕が折れでもしたみたいな反応でドレッサーから小箱を取り出し、数種類の中から一番傷に合った大きさの絆創膏を選んで僕の指先に巻くだろう。 だけどその仮定が成り立たないことを僕は知っている。僕は自分が、母に悲鳴をあげさせるような真似はしないと知っている。それが無かったとしても、つまり僕をためらわせる要因が何もなかったとしても、僕はそれほどピアノに打ち込みはしなかっただろうと知っている。僕は決して兄なんかになりたくなかったはずで、今もそれに変わりはないのに、自分が兄のようには何かに打ち込めないことに嫉妬している。 「兄貴に相談してみりゃいいじゃん夢のこと」目羅さんは何のつもりかあっさりそう言った。僕は「は」と訊き返した。目羅さんは笑って、僕はその笑いが気に食わなかった。 夢にはいくつかのパターンがあることに気付く。 祭日の広場でテロが起こるようなものと、荒廃した豪雪地帯で歩哨をしているのと、お化け屋敷みたいな洋館に引っ越す破目になるのと、何らかの諜報機関に所属しているのと、あといくつか。どれも程度の差はあれ、終末がそこまで近づいて来ていて、僕には弟がいることだけが共通している。 あともう一つパターンはあって、その一つだけ異質なのは、それが場面じゃなくただの静止画として浮かぶことだった。 爆撃に遭ったような崩れかけた石造りの建物のイメージは、頭の中に写真くらい鮮明に見える。三階建てほどの高さの吹き抜けは半身をえぐられ、砂塵でくすんだ陽光が上から差している。肋骨のような骨が露出している。窓は全て破られ、地面には降り積もった瓦礫の他何もなく、深い藍色の影が深い湖沼みたいに落ちている。影から一メートルほど上に、傾いだ格好でグランドピアノが浮いている。砂埃に塗れていても、灰色のグラデーションで出来た世界のなかで確かにそこだけが黒い。そこだけがピアノの色を残している。 鎖が腹の下で十字に交差する格好で吊り下げられたピアノは、何か、冷凍庫の中で皮を剥がれて逆さに吊られた家畜に似た痛々しさがある。 僕はその光景の前で成す術なく立ち尽くしている。僕にできることは、確かに何もないのだ。その画に対して目を瞑ることさえできない。瞼の裏に焼け付いていて消えない。晴れた日も雨の日も、僕の頭の空洞の中にはあの廃墟があって、がらんとした中にピアノだけが吊り下がっている。 ピアノの音が強く鳴って眼の奥で発光し、僕の意識を現実に、暗い中でスポットライトが目を焼くライブハウスのステージに引き摺り戻す。僕は水中から引き揚げられた人間みたいに喘ぐ。兄のピアノが右手で薄い旋律を弾きながら左でテンポを叩いている。僕が白昼夢の中で取りこぼしたそれを、寸分のずれもなく刻み続けている。 ステージを降りてすぐ目羅さんに謝った。はじめ、何のことを言われているのか分からなそうに「あ?」言って髪を掻き「あーあれのことか。兄貴ので慣れてるから別に今更あのくらい。気にすんな」。それよりお前大丈夫かと訊かれる。僕は微笑んですみませんでした、もう大丈夫ですと答える。こめかみを冷えた汗が伝って髪が貼り付いて気持ち悪い。 僕はもうずっとトンネルの中にいる。トンネルは緩くカーブを描いていて、あとどれくらいで外に出られるのか、そもそも終わりがあるのか分からない。僕はもうずっと温いオレンジ色の闇のなかを一人で歩いている。 夢の輪郭が次第に掴めてきた。僕は大抵いつもどの夢の中でも焦燥感に襲われ続けている。もうすぐ取返しが付かないことが起こると自分一人にだけはっきり分かっていて、どうせ防げないことも分かっている、夢の中のあの感覚にずっと追われている。 夢の終わりは目覚めた時の衝撃で白く飛んでいることも多い。覚えている限りでは、毎回僕が死んで終わる。僕は毎回、何をしているのかは朧でよく分からないものの何か重大な任務のなかにいて、弟に後始末を頼んで死ぬ。弟が僕より先に死ぬことはない。 夢の輪郭がはっきりしてくるにつれて、僕の現実はぼやけていく。 学園祭用のドラムの新譜をひとつ後輩に譲った。「一年の教育の為に、まあ一回二人とも楽譜読んできてもらって、そんでもし寺田君が叩けそうなら、後輩の教育になるんじゃないかって思んだけど」顧問は言って、僕はそうですねと答えた。自分でも不調は分かっている。 分かっている。 返って来た中間試験の点数を見て血の気が引いた。教卓から自分の席に帰るまでの悠久の道のりの途中で問題用紙を畳んで、一度も開かずファイルに綴じた。机の中に仕舞っても赤ペンで勢いよく書かれた数字が紫から刺青のような深い藍色になって眼の裏に焼き付いて、そのまま消えなかった。母はテストが今日返却されるということを知っている。あの人は、たとえ僕が六十点を取ったとしても決して叱らないだろう。ただ心配をするだけだ。 僕は戦場と化した町の中を歩いている。砂と煙が帯になって漂う。高い建物から狙われるから、左手奥、いくつか通りを挟んだ向こうのアパートで爆撃の煙が立つ。ゆっくりと粉塵が流れていくとそこにあったビルは倒壊してもうない。大は小に帰していく。 地下鉄の通路の壁面に設置された電光パネルは、視界の左側だけを、どこか遠くで今も続いている戦場に変えた。ユニセフだかユネスコだかの広告は、言葉に意味を伝達させることをあきらめたらしい、ただ戦場の映像を流し続けている。壁に沿って歩いていると、粉っぽいモノクロの風景が細かい光の粒でできていることが分かる。無数の赤青緑の粒が集まって砂利をつくり、叩き割りのクッキーに似た瓦礫をつくり、薄緑に何か書かれたが燃え跡とその言語のせいで僕には読めない看板をつくり、世界を組み上げている。また一つ、音のない爆撃が向こうで爆ぜて煙が昇り、ピルを構成していた粒が砂のように落ちて崩れる。画素に崩れる。 電車通過のアナウンスが無機質な女性の声で流れ、黄色い線の向こうをシルバーの車体といくつもの窓がほとんど残像になって過ぎて行き、僕は熱い風に煽られて、視界の左では火事の真っ黒い煙が次第に濃さを増しながら流れてきていて、僕の頭上に前衛映画のタイトルじみた赤い太字のSAVE OUR CHILDRENが大写しになる。 兄の背中を見るのにはもううんざりした。 それでも仕方ない。僕はドラムだから、嫌でも照明で焼け付いた兄の猫背のシルエットが視界に入る。おかげでというかそのせいでというか、気付いたこともある。兄はテンポも音も決して外さず、しかし自分の中の暴れ馬に、乗りこなせてはいない。兄自身、荒れ狂う馬の鬣になんとか齧りついているだけだ。というよりむしろ、手綱が自分の手首に絡んで解けず無理やり引き摺られているみたいに見える。何かに呪われているみたいに見える。紅い靴が脱げなくなり、足が勝手に踊り続けるという童話を思い出す。確か最後には、樵が斧で靴ごと彼女の脚を切り落とす。 弾くことを諦めないのなら、ある一定から上の高みを望むことを止められないのなら、踊り続けて死に至るほかない。兄は演奏の喜びの対極で、他に誰もいない場所で一人踊っている。仕方ない、それを兄は自分で選んだ。 演奏が終わり、拍手と歓声と拳と罵声と丸めた紙と空き缶とセロハンに包まれた一本の薔薇がステージに飛んでくる。 「ああいうのってここ出ていいんか」 目羅さんがピンクグレープフルーツジュース色の飲み物をグラスから啜りながら言う。視線の先のステージでは、酷く伸びたタンクトップの男が歌っている。 「出れないほどひどくはない」ギターボーカルの高橋さんが小声で言って、兄は無視してステージに背を向けカウンターの上で見えない鍵盤を弾いている。 「そういうことじゃねえよ。分かるだろ」目羅さんはうんざりしたように言ってまた一口飲む。ステージの男は両手を印を結ぶように掲げていて、今回の戦争で一方の国を支持する仕草だった。それは基本的には大国に中指を立てるのと同義であり、先日大きなフェスで同じポーズを掲げたミュージシャンがそれなりの規模のニュースに燃え上がった。 「偉そうな主題で誤魔化してるだけだ、あそこに立っていいほど上手くもない」目羅さんはステージを暗い目で見ながら、しかし確かに兄に向って言った。兄はしばらく無視した後、「でも立ってる」答えた。「オーナーが許した」グラスを傾け中の氷をがらがら口に入れると、通路の向こうに消える。残った僕と目羅さんと高橋さんはしばらくステージを見ている。 ボーカルはウェイクアップと繰り返しがなっている。僕はもし「お前はどう思う」と訊かれたらどう答えるか考えていた。苦笑して、僕はいま自分の戦争の中にいるので、と答えるだろうか。ウェイクアップ、目を覚ませ。僕は自分が目を覚ませているのかどうかも良く分からない。自分の粉塵のなかをもがきながら進むのに手いっぱいなので、遠くの戦争も、それを歌うことも、考えるだけでも今は手に余るんです。無責任かもしれないけど。 結局、お前はどう思うとは訊かれなかった。 僕は自分の戦場の中で溺れている。 空は青く、芝はそれとはまた違ったように青い。空には硝煙のような薄い青や桃色や橙の小さい雲が浮かび、風に流されかけている。芝生にはポップコーンや薔薇や屋台の景品だったプラスチックの宝石が散らばって光っている。僕は芝生に座り込み、弟を抱えている。弟は立つと僕より一センチ背が高く、今は僕の肩に頭を凭せ掛ける格好で身体からは力が抜けていて、右肩から先が赤黒く濡れている。ぐったりとした体の重みは僕が支えるには重すぎる。 それでも支えなければならない。手放してはならない。ここで兄なのは僕だ。 どこかでまた悲鳴が聞こえる。歓声のようにも聞こえる。どこかでまた銃声が聞こえる。クラッカーの弾ける音にも聞こえる。ぬるい液体が髪を掻き分け伝い落ちてきて、目に流れ込んで塩辛く染みた。汗か、そうじゃないのかは分からない。甘いものを食べ過ぎたときの頭痛がずっとしている。僕の視界は霞んでいく。僕はとにかく武器になるものを、周囲の地面を探って指に触れた傍から拾い上げ、しかしそれはかき氷用のストローでしかない。歓声ないし絶叫はこっちに近づいて来ていて、僕はいま、確かにひどく硬く速い何かが自分の耳元を掠めたのを感じる。無我夢中で、敵がいると思った方に向かってストローを投げる。ストローにしては手応えがあり、青く眩んだ視界の中で、どちらに飛んで行ったのかも分からず、敵の罵声が近くで聞こえる。「 おい!」 僕はだらりと手を下ろして立ち尽くし、右手に握っていたはずのスティックは多分今投げたから無くて、バンドは演奏を止めていて、目羅さんと高橋さんが僕の方を振り返っていて、フロアの闇の中から白い顔が無数に浮かんで僕の方を見つめている。急性の難聴に罹ったみたいに、世界は静まり返っていた。 フロアの奥、カウンター正面にタンクトップ男がボードを掲げて立っている。この間の社会派バンドのボーカルだとすぐに分かる。手製のボードには、拡大した写真がでかでかと貼られている。天井も壁も崩れかけた廃墟の中が映っていて、人が仰向けに宙に吊られている。 はっとして目を凝らすと、上の方から鎖を回され吊り下げられているのは、砂埃を被ったグランドピアノだった。僕の頭の中に焼け付いたイメージがそこにある。なぜピアノを少年と見間違えたのだろうと思う。シルエットも、混同するようなものではない。 別に間違えてはいないと、ひどく醒めた脳の片隅で思った。あれは弟だ。 僕はもう一本のスティックを取り落とし、からんと音が一つ世界に響いて、自分がそのまま踵を返して舞台裏に帰るのを、同乗者みたいにただ眺めている。 その時兄がどんな表情で何をしていたのかは、奇妙に全く記憶にない。 兄の部屋に入るのはもう何年振りだか分からなかった。そこだけ家の中に在って無いようなものだった。母も父も無視する。ノックしても返事はない。「ごめん、今、入っていい」訊いても返事はない。ただ、音を切った鍵盤を叩く音だけが途切れずにずっとしている。「入るよ」胃が痛いのを感じながらドアを開ける。 兄はベッドの上で胡坐をかき、膝の上に脚を外したキーボードを乗せて猫背で弾いていた。ヘッドホンを嵌めた頭は上げず、僕が入って来たことにも気付かないようになんの反応も見せず、だから僕はそこに立っているしかなかった。 永久に途切れないんじゃないかと思ったころ、兄の演奏はぷつりと終わった。僕には聞こえない余韻が消えるまで静止しそれからヘッドホンをずり下げて黙って僕を見る。 「話がある」僕は言う。 「勝手に話せ」 「バンドを抜けたい」 垂れた長い前髪の下で口が笑いの形に歪んだ。「話す相手を間違ってる」 「目羅さんたちにはもう伝えてある。それで、兄貴に訊いてみろって言われた」 「おー。じゃあ好きに辞めて何にでもなれ」 僕は数秒黙った。こいつの根本的なところはきっと永遠に変わることはないのだろうと思った。 「多分目羅さんは、辞めないように説得して欲しかったんだと思うよ」なぜ僕がこんなことを言っているのだろうと自分でも思う。 「知らねえよ」乾いた声で笑った。「必死こいて引き留めるほどのドラムじゃねえだろ」 僕と兄との間には溝が、というか遥か高い壁があって、永久に崩れることはないだろう。別に怒りもなかった。今更失望もなかった。ただ、こうなると分かっていたはずなのにわざわざ兄の部屋まで報告に来た自分が惨めな気がした。踵を返し、部屋を出て行く。ドアノブに手を掛けたところで「お前さ」兄の声が僕の襟首をつかんで引き留める。 「禿から何か受け取ったろ」 「は?」 「俺はお前の演奏にも態度にも口出したことはなかった」兄は僕をまったく無視して一人で喋る。「ただ一回、初めてライブハウス行く日に一言、たった一言だぞ、言っただけだった。覚えてるか。あそこでスキンヘッドの男に渡されたもんは何一つ口に入れるなって言った」 僕は微笑み、それから笑った。こいつは、僕がライブハウスで客から貰ったドラッグだか似非ドラッグだかをやったと思っている。そのせいで錯乱し、おかしくなったと思っている。 そうなのかもしれない。というか、その方がまだましなのかもしれない。あの兄に正気かどうか心配されるようになったら世も末だなと思う。僕の片手はドアノブから離れる。兄に向き直る。 あんたに、お前に、兄に、なんて呼び掛ければいいだろう、それももう忘れた。兄に相談してみればいいって? 僕は兄を見る。こいつは僕の対極であり、鏡映しになった自分自身だ。僕は兄の中に僕を見る。兄が落とした影としての自分を見る。鏡を割らない限り、僕はここから逃れられない。 「僕は別に薬中ではないし、他のどんな中毒にもなっていない」 ふと、兄に全て話してしまえばどんな反応をするだろうと思った。これまで優等生の面をしていた弟が「前世の記憶」と現実を混同してバンドを抜けると言いだした。引くのか、無視するのか、笑うのか、どれもあり得そうでそれも違う気がした。。単なる興味だった。ただそれだけで、僕は話し始めていた。 僕はしばらくずっと夢を見ている。それが前世なのか僕の妄想なのかは知らない、問題は、それが僕にとって圧倒的なリアリティを持つということだけだ。いくつもの夢、もう面倒だから前世と呼ぶそれの中で、僕には弟がいた。 僕と弟は、なぜかいつもトラブルに巻き込まれているようだった。もしくは大小さまざまな戦争の渦中にいるらしかった。それなら離れていればいいのかもしれないけれど、そうは行かないらしかった。何らかの目的があり、その為にはたとえ死ぬとしても二人して戦争の中に飛びこまなければならないようで、実際大抵は死んで夢が終わる。 ずっとここではない場所に行きたかった。行かなければならないと思っていた。それが怖かった。自分が得体の知れない巨大な波に呑まれようとしていて、しかし迫って覆い被さって崩れてくる水の壁を茫然とただ見上げている。狂気だと思った。僕はそれが、僕の血に混じる狂気の兆しだと思っていた。 弟が僕を見つけることもあれば、僕が先に弟のことを思い出して探すこともあった。今回は僕の番だった。そして僕は、戦場の廃墟を映した一枚の写真の中で弟を見つけた。 「で、そこに行くんか」 兄は黙って話を聞いたあと、胡座をかいた上にキーボードを乗せてつまみを弄りながらそれだけ言った。瞬間、僕の耳は自分の血が渦を巻いて沸騰する音を聞いた。 否定しろよ。自分の声で誰かが言うのを聞いていた。兄は目だけこっちに上げる。蔑んでいるんだろう。見下しているんだろう。もしくは、そういう反応さえ見せるのも億劫なくらい、僕には興味がないんだろう。殺してくれよ。どこかで僕の声が馬鹿みたいなことを言っている。全く自分でも愕然とするほど馬鹿げているのに自分でも制御がきかない。このまま行けば兄か、僕か、どちらかは消えなければならないような気がしている。 僕は多分怯えている。この狂気は僕のものであって、血は関係ない。それが分かってしまう。殺せよ、と僕は繰り返し言っているがそれにはほとんど意味はない。ただの機械的な反復だった。僕は兄ほど自分が狂っていないから、狂気の大波がここまで押し寄せてくればひとたまりもないだろう。殺せよ、それができないならあんたは偽物だ、殺せ。 「もしお前が、そのピアノ見に行くんなら、死ぬ確率はある。俺は止めないからお前は死ぬかもな」 兄は言って、腰を挙げないまま腕を伸ばしてキーボードのコードを繋ぎ直し、ボタンを押し、上部の表示に光が灯る。「でも、止めようが薦めようがどうせ無駄だ。俺はお前の言うことを聞く気はないしお前もそうだろ」眼鏡を手の甲で押し上げ、歯を剥いて笑った。「対話なんか無意味だ。相互理解クソくらえ。どこだろうが行きたきゃ勝手に行って死ね」 「頭おかしいよ」 「今更なに言ってる」 言った兄の手が無造作にばらばらと鍵盤の上で解け、散らばって、部屋の中を薄っぺらい電子のグランドピアノの音が満たす。全てを押し流す。だから僕が泣いていようが喚いていようが胸から血を流していようが、兄の目には見えない。兄には届かない。 僕には弟がいたんだ。そう、旋律の奔流の中で言う。言った側から言葉は意味から剥がれ落ち、ただの音のぱらつきになって流れの中に呑まれて消える。僕にはずっと弟がいた。それは弟の形を取ったり、血の繋がりのない少女の形を取ったり、親友の形を取ったりしたけど中身はずっと弟だった。同じ役者に全く違う役を当てて使い回すレパートリー劇団みたいなものだ。どれだけ演目が回転しても僕にはずっと弟がいて、僕はずっと彼の兄だった。いつだって、どの舞台に立っていてどれほど離れていたって必ず片方が相手を見つける。今回は僕だった。僕が、あそこの廃墟で爆撃を受けながら吊り下げられた弟を見つけた。なんでよりによって、よりによってピアノなんだよ糞。 音の流れから顔を背けて悪態を吐くのはひどく胸が痛み、同時にひどく気分が良かった。 ピアノなんか好きじゃなかった。もうずっと好きじゃなかったし、好きだった頃があったとしても、もう思い出せない。音を聞くだけで兄が脳裏にちらつく。弾こうとすると一時期指が震えた。あんたが全てをピアノに賭けているのが心底嫌だった。あんたが全てをピアノに賭けたなら、ぼろぼろに負ければいいと思っていた。今も思っている。 あんたは強いから僕の弱さは理解できないだろうし理解したくもないだろう。 兄は音の暴風が吹きすさぶ中で笑っている。ここで笑える心理が僕には理解できない。多分頭がおかしいよ。僕もあんたも。 「お前はそれでいいよ。喚いてろ。お前が小学三年くらいで、俺が何してもギャーギャー泣き喚いてたころ、あの頃が一番良かった」 僕は、もう何も言わず横様に吹きつける音の中で立っている。上がった息を無理やり肺の中に押し込めて整えようともがいている。僕はもう何も言わず、兄が弾くのをただ聴いている。 そこは兄の部屋ではなく霧に煙る草原で、僕と兄の間には越えられない壁がある。音だけは聞こえる。共感も理解も意思の疎通さえままならなくても、あらゆる言語的な意味を剥奪された状態で音だけが聞こえる。崩壊の足音も、歓声に似た遠い絶叫も、黙示録の馬の蹄の音も、誰も兄のピアノの凄まじい嵐を越えてここまで来ることはできない。ただ音だけを聴いている。 僕はあなたが兄で幸せだったのかもしれない。もしくは途轍もなく不幸か、どちらかだ。
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