そらのまんなか

茅萱弥風



「あっつ......」
 転がり落ちた呟きは、むせ返るような熱気と喧騒の中に消えていく。肩に食い込むリュックの紐を握り締めると、手のひらに滲んでいた汗の気持ち悪さに顔を顰めた。緩慢な動作で見上げた空は目を差すような光量と彩度。そこには立ち並ぶビルやマンションを飲み込みそうなほどの入道雲がそびえ立っていた。
 その場にいるだけで、体力も精神力も音を立てて削られていくような容赦のない暑さに足の運びも重くなる一方だった。何となく家には帰りたくない。そう思った夏休み前、終業式の帰り道。最寄り駅を降りた後、当てもなく歩き出した自分に後悔ばかりが募る。せめて二駅分先のショッピングモールでも目指すべきだった。
「何やってんだろ、私」
 何度目か分からない溜息を溢すと、体にまとわりつく籠った熱気とは不釣り合いなほど涼やかな風が前髪を揺らした。緩慢な動作で顔を上げるも、視界に移るのは見慣れた景色が映るだけ。それでも、汗ばんだ額を撫でた心地よさはどこからか繰り返し届いてくる。火照った体には大変魅力的な冷気に誘われて、気が付けばふらりと足が動き出していた。
 
 
 
――――チリィ......ン......

 市街地の賑わいを縫って、涼感を誘う響きが不思議と際立って聞こえた。気紛れに鼓膜を震わせる音と額や首筋を撫でていく風。導かれた先にあったのは、ビルの隙間にひっそりと息を凝らしていた建物だった。年月を感じさせる佇まいだが、寂れた印象はなくレトロな感じの外観だ。どことなくファンタジーチックな印象を受けるのは、レンガの壁を張っているツタのせいだろうか。物語に出てくるような魔法使いの屋敷が現実にあるとすればこんな感じなのだろう。

――――チリィ......ン

 今までよりもはっきりとした音が耳に届いた。誘われるようにして目の前の建物を見上げると、最上階に照り付ける光を反射させながら揺れているものが見える。気まぐれに音を鳴らすアレは風鈴だろうか。風鈴と思しきものの横には、アンティーク調の看板がぶら下がっている。しかし、この距離では看板の字を読むことは不可能。好奇心に突き動かされて外付けの階段を上り始めた体は、気づけば全身が清涼な空気に包まれていた。
 最上階まで階段を上ってきたというのに、時折肌を掠めていく風のおかげか汗をかいていない。内心小首を傾げながら視線を動かすと、やはり音の正体は風鈴で合っていたようだ。空の色を内に含んだかのような小ぶりな風鈴。そして、隣に並んでぶら下がる看板には、流れるような筆跡で店名が書いてある。
「そらのまんなか......?」
 店名の下にはこちらも流れるような筆跡で一言。

『あの日の空、この日の空、古今東西の空承っております。』

 二回、三回と目を滑らせるが理解が出来ない。何屋なのかが分からなければ、入ってみることも躊躇われる。一人静かに悩んでいると、背後で風鈴の音よりも僅かに固い音が鳴った。ドアベルの音だ。
 慌てて振り返ると、背後の店の扉が開かれていた。扉を支えているのは綺麗な黒髪の男性。一房だけ、今日の空と同じ色に染められているのが印象的だ。十中八九、彼はこのお店の店員だろう。不審がられただろうかと体を小さくしていると思いのほか穏やかな声が掛けられる。
「よろしければ、店内をご覧になりませんか?」
 柔らかな微笑を浮かべた店員はそっと店内を指し示す。私はそれに促されるようにして恐る恐る中へと足を踏み入れた。

「う......っわぁ!」
 目に飛び込んできたのは、店内の四方に置かれた巨大な棚とそれを埋め尽くす大小様々な数多の瓶。瓶の中身はここからだとよく見えない。だが、透き通るような青に純白、重厚感のある灰色や茜色など。色の種類ごとに並べられているものの、同色でも全ての色味が微妙に違っている。
 息を呑むほどの壮観な景色だった。思わず飛び出た感嘆の声に店員さんがくすりと笑みを溢す。慌ててぽかりと開いた口を閉じて、誤魔化すように近くの棚に近づいてみた。
「――――これ、空?」
 形容しがたい間抜けな私の顔を映し出している瓶。そこには空が入っていた。先ほどまで見ていた今日のものよりも幾分か薄い青。綿菓子のような雲が一つ二つと浮かんでいる。よく見てみると、その雲は緩やかに瓶の中を漂っていた。一定の漂い方があるようで、気が付けば再び目の前の位置に戻ってきている。3D映像、CG、立体映像。目の前の現象を何とか言葉に表そうと、それっぽい言葉が脳内でぐるぐると回っている。
 隣に目を向けると温かな笑みが向けられており、私の頬は羞恥に染まっていった。居たたまれずにリュックの肩ひもを握り締めると、店員さんは棚へと手を伸ばして一抱えほどもある大きな瓶をおろし始めた。
「こちらは、昨年の7月1日の空。夕方の瓶になります」
 そう言って掲げた瓶は、深い藍色と透明感のある紅色が織りなすグラデーションが美しかった。よく目を凝らしてみると、瓶の底よりも少し上の方にチカリと光っているものがある。一番星だ。
「こちらの瓶も、綺麗ですよ。一昨年の2月24日のお昼ごろのものですね」
 夏の空よりも透明度が高く、どこか張り詰めた静けさの漂う淡い青。その中では、音もなく眩しいほどに無垢な牡丹雪が舞っていた。
「え、っと」
「正真正銘どの瓶に入っているものも本物になります」
 思わず僅かに後退りしたせいか、店員さんは微苦笑を浮かべた。
「ほんもの、えっ......と。本物の空......。空を、瓶詰め......?」
 二の句が継げず瓶を凝視することしかできない私と、眉を下げて当然の反応だというかのように頷く店員さん。
 
「すみません」
 突然店の奥から聞こえてきた声に、私の肩は大きく跳ねあがった。誰も居ないと思っていたが先客がいたようだ。店内の奥の方の棚の間から、厳めしい顔つきの老紳士が顔を覗かせている。
「あっ、はい、今行きます。えっと、店内はご自由に見てもらって構いません。気に入った空があれば、お声がけください」
 軽く頭を下げた店員さんは、そのまま小走りに老紳士の方へと向かっていった。
「どうしよう......」
 この奇妙で不思議なお店を今すぐ後にしてしまいたい気持ちと、お店の摩訶不思議さに好奇心が擽られてしまいその場に立ち尽くす。『空』を売る。そんなことが可能なはずがない。そもそも空は、手に取れるものでも瓶の中に詰められるものでもないのだから。そんなこと小さな子供でも分かっている。こちらの興味を引いておいて、変な壺や危ない薬をあの手この手で売りつけようとしているだけなのではないか。
 店員さんだって優しそうな人だったが、あのような人に限って裏の顔があったりするのが本やドラマの定番だ。無暗に人を疑っているわけではないが、用心するに越したことはない。
 でも、もし本当に、もしかしたら。目の前の瓶の中身が、このお店が売っているものが、本物の『空』だったら。不安と好奇心、相反する気持ちがぐるぐると回り続けている。
「よし......」
 完全に信用をしたわけではないが、もう少しだけこのお店を見てみよう。店員さんに先程見せてもらった『空』は、自分が持っている語彙では言い表せないほど綺麗だった。眺めているだけで、不思議と心が軽くなってくる。
「こんなに綺麗なものを見ながら、時間を潰せるならお得だし......」
 少しずつ少しずつ足を進めながら瓶の中を覗き込む。綺麗。美しい。そんな陳腐で稚拙な言葉しか出てこない。それが、どうしようもないほどもったいなく情けなかった。
「アイツだったら......、もっと格好いい言葉が出てくるんだろうな」
 無意識のうちに呟いた言葉に体が強張った。こみ上げてきそうになった感情を振り払おうと首を振ってみる。ふと視線を上げると、いつの間にか先程の老紳士の背中が二つ先の棚のあたりに見えた。自分以外にこのお店にいる唯一のお客さん。興味を惹かれた私は、歩き出した老紳士と店員さんの後を追いかけた。
 
 今まで私が見てきた棚の瓶よりも、幾分か小さなものを抱えた店員さん。アンティーク調のレジが置かれたカウンターの中へと入った彼は、椅子へと老紳士を案内した。老紳士の前のテーブルに瓶を置いた店員さんはカウンター裏の戸棚を漁る。両腕に抱えられたのは、小洒落た大小様々な瓶やプラケース。そちらもテーブルの上にずらりと整列させた。
「島崎様、商品の確認をさせていただきます。1951年の5月19日の明け方の空でお間違いないでしょうか?」
「ああ」
「それでは、『空』を保存する容器をお選びください。此方にないものでも、何かご希望がありましたら遠慮なくおっしゃってください」
 盗み聞きは悪いと思いつつも、会話の内容が気になってしまう。ぎりぎり声が聞こえる位置で、棚に陳列された瓶を見るふりをしながら耳をそばだてている自分のなんと滑稽なことか。
「妻は寝たきりなんだ。だから、何か......、ベッドの中からでも見やすいもので頼む」
「それでしたら、額縁タイプの容器はいかがでしょうか。壁に掛けられますので、ベッドからでも見やすいかと」
「じゃあ、それで」
「畏まりました」
 老紳士の素っ気ない態度にも一貫して穏やかな物腰の店員さん。再び戸棚の中を漁って引っ張り出してきたのは、シックなダークブラウンの額縁がついた薄型のケースだった。
「喜んで......、くれるだろうか......」
 老紳士が零した一言は、その見た目や雰囲気からは想像が出来ないほどに弱々しいものだった。ほんのわずかな間沈黙が場を支配した後、老人ははっとしたように頭を振った。
「いや、すまない。変なことを言った。忘れてくれ」
「――――必ず、喜んでくださいます」
 店員さんは、何の迷いもなく老紳士の言葉に肯定を返した。不要になった瓶などを戸棚の中に片付けながらも穏やかな声で言葉が続く。
「その『空』は島崎様だけでなく、奥様にとっても特別な『空』なんですよね?」
 老紳士は大きく息をついた。
 
「............妻に結婚を申し込んだときの『空』なんだ」
 店員さんは老紳士の思い出の『空』が入った瓶を傾けて、そっと入れ物の中に注いでいく。額縁の中に移されていくその様は、とてもじゃないが自分の語彙力では表しようがなかった。音もなく崩れ落ちていく粒の細かな個体のようにも。重力にしたがって形を変える液体のようにも。空気中に掻き消えていきそうな気体のようにも見えた。
 一つだけ言えるのは、容器の中で再び形を成していく『空』が途方もなく綺麗だということ。真珠のように周囲の色を取り込んだ乳白色の雲と、その切れ間から射す紅を帯びた金色の光。そして、澄み切った紅に滲む淡い水彩画のような青。さながら一枚の絵画のようだった。
「――――妻は、私が若いころに足繁く通っていた美術館の学芸員でね。何度か顔を合わせるうちに、いろいろな話をするようになって。余りにも談議が白熱するものだから、彼女が研究室として使っていた部屋にお邪魔するようになったんだ」
 目の前の『空』ぼんやりと眺めながら、一言一言噛み締めるように話す男性。
「この日も、いつものように彼女の研究室に招かれていた。だが、余りに白熱しすぎて気が付いたら夜が明けていてね。翌朝慌てていた私を、彼女は呑気にベランダに連れ出したんだ。そして、この景色を見せてくれた。ここから見る朝焼けが、一等お気に入りなのだと」
 武骨な手が愛おし気に、容器の表面を、『空』を、思い出を撫でる。
「気が付いたら彼女に結婚を申し込んでいた。お互いシワだらけの洋服で。徹夜だったから、隈もできていて顔色もいいとは言えない。髪だってぼさぼさだ。履いているのは、雨ざらしになって古びたサンダル。全く格好がつかない」
 男性の顔に浮かんだ苦々しさとは裏腹に、独り言のように零される昔話は柔らかな声で紡がれていた。
「きちんと別の日に交際を申し込む計画だって立てていたんだ。柄じゃないことは痛いほどに分かっていたが、恥を忍んで会社の先輩に話を聞いたりもした。だが、それも一瞬で無駄になったんだよ」
 口の端に微笑が浮かぶ。
「交際期間も一気にすっ飛ばした無茶苦茶なプロポーズだった。それでも、妻は心底嬉しそうに泣きながら笑ったんだ。忘れるはずがない。この『空』を妻が見せてくれたから、偏屈で頑固極まりない私が飾らない正直な気持ちを伝えることが出来たんだ」
 そこでふと老紳士は動きを止める。それから大きな溜息を吐き出した。
「すまない。余計な話をべらべらと」
「いえ。そんなにも素敵な思い出が詰まった『空』なら、絶対に大丈夫です」
「――ありがとう。それじゃあ、世話になったね」

 ――――チリィ......ン
 
 店員さんから『空』を受け取った老紳士は、気まずげに顔をしかめながらも幸せさの滲んだ表情で店を後にした。階段の手前まで見送りをした店員さんは、そのまま丁寧に一礼をする。目の前で起こっていた摩訶不思議な出来事のせいで、惚けた様に突っ立っていた私は目を瞬かせた。気が付けば目の前に店員さんがいる。
「お待たせしました。何かお気に召す『空』は見つかりましたでしょうか?」
「えっ、あー、え、っと......」
 この店で売っているものが。自分が見てきたものが。先程老紳士が買っていたものが。3D映像などで映し出された作り物ではないことは分かった。だが、それならば。瓶の中身は本物の『空』なのだろうか。店員さんの質問に対する言葉が見つからず、意味のない口の開閉を繰り返すことしかできない。
「やはり混乱しますよね。よろしければこちらにどうぞ」
 そう言って店員さんは、先程まで老紳士が座っていた席に座るように促した。リュックを足元に下ろして席に座ると、目の前によく冷えた緑茶が置かれる。
「よろしければ、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「いえ」
 会話が途切れた瞬間に広がる沈黙が気まずい。誤魔化すようにグラスを掴むと勢いよく口を付ける。緊張していたせいか喉の渇きに気が付いていなかったようで、喉元を滑り落ちる冷たさが染み渡るほど心地よかった。
 気が付くとグラスの中身は空。店員さんはにこやかにお代わりを注いでくれたが、私はじわりと頬が熱を持つのが分かった。店員さんはピッチャーを机に置くと軽く頭を下げた。
「改めまして、自分は当店、『そらのまんなか』の店主をしている青空と申します」
「青空、さん......」
「はい。『空』を売るこの店に、ぴったりな名前ですよね」
「あっ、すみません......!」
 仄かな笑みを浮かべる店員さん、ではなく店主の青空さんに慌てて頭を下げる。
「私、入相(いりあい)って言います」
「では、入相さん。質問があるなら、何でもおっしゃってください」
 そっと促すような言葉に、私は一番の疑問をぶつける。
「えっと、やっぱり本物なんですか......? ここで売ってる『空』って」
「そうですね、どの空も本物になります」
 姿勢を正した青空さんは微笑を口の端に乗せて頭を下げた。
「当店『そらのまんなか』では、『あの日の空、この日の空、古今東西の空を承っております』」
 外の看板に書いてあった言葉だ。カウンターの中へと入った青空さんは、先程老紳士に売っていた『空』が入った瓶を持ってくる。
「よろしければ『空』に触ってみますか?」
「......良いんですか?というか、触れるんですね」
「そうですね、一応。触る、という表現が正しいのかどうかは微妙なところではあるんですけど。そのまま、瓶の中に手を入れてもらって大丈夫ですよ」
 この絶景の中に手を入れるのは非常に躊躇われた。青空さんに目を向けると、どうぞとでもいうように頷く。意を決して手を瓶の中に沈めてみた。
 何かが肌を擽る感覚はある。指と指の間をすり抜け、手のひらを撫でる不思議な感触も。水のような、滑らかなジェルのような。不思議なことに、確かな質感は感じられるのに重さが全く感じられない。
「未知の感覚......」
「触り続けていると、だんだん混乱してきてしまうんですよね。自分の感覚が曖昧になってきて」
「あっ、分かります! 今まさにそんな感じです!」
 くるりと手でかき混ぜてみると、絶景がマーブル状に崩れていく。だが、暫くすると再び元の景色に戻っていった。
「これ、どうやって作る......。集める......。採取......、してるんですか?」
「えっと、申し訳ありません。企業秘密でして」
 青空さんは本当に申し訳なさそうに眉を下げた。
「いや、気にしないでください! やっぱり、こんな魔法みたいな技術は簡単には言えませんよね」
 そっと引き抜いた手は、濡れているということも汚れているということもなかった。
「空ってこんなに綺麗だったんですね」
 ありきたりな言葉でしかこの絶景を表現する術を持っていない自分が情けない。自分の乏しい語彙力を心の中で嘆いていると、ふとある人の顔が浮かんできた。それと同時に、このお店に来てからは一度思い出したきり、すっかり忘れることが出来ていた感情まで浮かんできてしまった。
「入相さん......?」
 心配そうな表情で顔を覗き込まれる。
「よろしければ、自分に話してみませんか......? 案外、初対面の人になら話せることもありますし」
「いえ、そんな。さすがにそんな図々しいことはできないです」
「構いませんよ。それにお話を聞いたら、入相さんにぴったりの『空』をおすすめ出来るかもしれませんから」
 あくまでも接客の一環で、自分の商売のためだという姿勢を見せる青空さん。
「じゃあ......、聞いてもらっても、いいですか......?」
 本当はずっと誰かに聞いてほしかった。だけど、普段からなんでも相談していた相手には話せない。もちろん家族にも。でも先程、老紳士の話を真摯に聞いていた青空さんになら。話してもいいのかもしれない。そろりと視線を合わせると、綻ぶような微笑を浮かべた青空さん。
「もちろんです」
 青空さんの言葉に背中を押された私は、纏まりのない胸の内を少しずつ言葉にしていった。

「私、夢があって......。ようやく見つけた、というよりもそれを夢にする覚悟がようやく持てた夢。初めて本気で叶えたいと思えた夢なんです。で、その夢を叶えるために、自分なりに努力も重ねてて......」
 きつく握り締めた拳を開いてまた閉じる。
「親友、ちょっと恥ずかしいんですけどクサい言い方したら相棒、ですかね。中学校からの付き合いなんです。......メインボーカルが私で、作詞作曲はアイツの担当。その親友と二人でユニットを組んでるん、です、けど」
 声が震える。喉が詰まる。自分の本音を人に伝える行為は、簡単なようで意外ときつい。自分の内側のどこかにある、自分でもどこにあるのか分からない。ひどく柔らかくて脆い場所を曝け出す行為。
「素人なりに、動画サイトに自作の曲を投稿してみたり、高校の学園祭とかで歌ってみたり。動画の再生回数も伸びてきたし、学校のライブでもたくさん人が集まってくれるようになって。本気でプロを目指してるんです。二人で何度も話し合って、喧嘩して、泣き喚いて、悩んで悩んで悩んで......っ!! それでもあきらめきれなくて。本気で目指そうって覚悟を決めた夢なんです......っ」
 視界が磨りガラスのように歪んで。はっきりとして。そしてまた歪んで。青空さんは話を遮ることなく、ただ静かに相槌を打ち続けてくれていた。
「例え途中で挫折することになっても、絶対に後悔はないって言えるところまでは悪あがきをしようって。そう決めた日に、それぞれ親に話をしたんです。まずは音楽系の大学に進んで、しっかり基礎を学びたいって話になったから。それにどちらにしても、やっぱり親にはきちんと話をしないといけませんし」
 きゅうっと喉が痛くなって、頭の奥が微かに痛む。
「で、親にはきちんと話したんですけど......。まあ、それで応援してもらえるかどうかは別問題なわけで」
 青空さんが静かに眉を寄せたのが分かった。
「親友は、両親に応援してもらえるようになったことを、学校で開口一番に報告してきました。でも、私はダメでした。二人でプロを本気で目指すことを最終的に決めたのが、高校1年生の夏休み。私が今高2なんで、一年間。何度も話をしました。定期テストで学年30位以内をキープし続けることは音楽をやる最低条件だって言われたので、まだ1年ですけどキープし続けてます。」
 まあ、親は無理だろうって思ってたみたいなんですけど。皮肉気な言葉が口をつき、苦い笑みが浮かぶ。何度も繰り返した話し合いという名のぶつかり合い。そのたびに、両親に言われた言葉が木霊する。
「確かに歌は上手いけど、同じぐらいのレベルの人はたくさんいる。冗談じゃなかったの。そんな不安定な職業だと、失敗したときどうするんだ。自分たちだってこんなことは言いたくない。もっと安定した職業に就いて、趣味か副業として続けたらいいじゃないか」
 最初の方は、そう言われるのも仕方がないと思えていたが、何度も何度も繰り返されてきた否定の言葉の威力はきっと私にしか分からない。私自身の内側にある柔いところに小さな棘が繰り返し刺さって、刺されて、抉られて。そこには常にじわりと血が滲んでいる。
「分かってます。両親だって意地悪がしたいわけじゃなくて、私の幸せを願ってくれているからこそなんだって。でも、やっぱりシンドいものはシンドいんです。話し合いを繰り返すたびに、私が粘り続ける時間に比例して、こう、澱が溜まっていくっていうか」
 親友が一緒に両親に頭を下げてくれたりもした。それでも、半ば意固地になってしまったかのように頑なに首は横に振られる。その時、隣で一緒に頭を下げてくれている親友に思わず嫉妬してしまった。親友は簡単に認めてもらえたのに、何で自分はこんなにも認めてもらえないんだろう、と。
「親友が羨ましい。認めてくれない両親が妬ましい。なにより、両親の応援や援助がなくても、夢を追いかける覚悟を持てない自分が恥ずかしくて情けない。前はあんなにキラキラしてたのに。今は将来のことを考えると、どす黒い気持ちばっかり広がっちゃって」
 高ぶる気持ちを抑えようと大きく息を吐く。無理に吐き出された息は不本意なことに情けないほど震えていた。
「分かってますよ。両親だって意地悪がしたいわけじゃない。実際、音楽で生きていける人なんてほんの一握りで、私が想像している世界よりももっと過酷なんだって」
 音を伴わない笑いが零れ落ちた。
「親友と一緒にいるのも気まずいし、家に帰るのもシンドくて。時間を潰そうとぶらぶらしてたらここを見つけたってわけです。 ――すみません。長々とどうでもいい話しちゃって」
 その言葉に青空さんは何度も何度も首を横に振った。
「......どうでもよくなんかありません。どうでもいいわけがないです。少なくとも、入相さんにとっては、自分の将来を掛けた悩みなんですから」
 どうでもよくない。きっぱりとそう言い切ってもらうと、僅かだが息がしやすくなったような気がした。
「自分は、諦めたほうがいいとは思いません。でも、無責任に夢を追いかけろとも言えません。ですが、入相さんがこれからどうしていきないのかは......」
 もう、決まってるんじゃないですか?
 ぽつりと呟かれた青空さんの言葉に、とんっと背中を押された気がした。自分の単純さに呆れかえるが、冗談ではなく目の前が明るくなった気がした。
 そうだ。そういえばそうだ。最初から自分の中に夢を諦めるという選択肢は存在していなかった。いくら引き攣るように泣いていても。いくら自分に両親に親友に苛立っても。いくら現状や将来に動き出せないほど悩んでも。ようやく見つけた夢を手放すつもりなど、自分は最初から毛頭なかったのだ。
 ただ、それを認めることに怖気づいていただけだったのだ。ふっと体のこわばりが解けた。ようやく思い切り息を吸えた気がした。体の隅々にまで酸素がいきわたる感覚は、良く知っている歌い始める前の感覚と同じだった。
「――――親友と二人でプロを目指します。いや何が何でもプロになります。もちろん、両親に応援してもらえるのが理想ですけど」
 もう一度話し合おう。どうせ今回も認めてもらえないという考えは捨てよう。認めてもらえるまで、何度でも自分たちの覚悟を伝えるんだ。大人と子供の狭間で揺れている自分たちの覚悟など、ちゃちでちっぽけなものにしか見えないかもしれない。それでも、自分にとっての自分たちにとっての精一杯を見せ続けることにきっと意味はあるはずだ。
 そこまで考えたとき、ふと頭の中に眩しいほどの蒼天が広がった。目の前に広がるのは、脳裏に焼き付くほどの青と弾けるような歓声を上げている人々。そして、隣には夢を共にすることを決めた親友。関節が白くなるほど握り締めたマイクに、掻き鳴らしたギターの音。頭が麻痺したように痺れる高揚感に支配される中、無我夢中で言葉を紡いだ。
 ふと隣を見ると、意図したかのようにかち合う視線。聞こえるのは自分の声と、隣で響くギターだけになった。滴り落ちる汗になど意識は向かない。ただひたすらに曲を紡いでいた私たち。絞り出した最後の一音は、青空の中へと掻き消えていった。
「――青空さん、私も欲しい空が見つかりました」
 今、自分の中には心地よい緊張が広がっている。もう大丈夫。頑張る覚悟はできた。不思議とそう思えた。にっと笑みを浮かべた私に対して、柔らかな笑みをのせた青空さんは丁寧に、丁寧に一礼をした。
「――承りました」
 
 
 
「あっつ......」
 転がり落ちた呟きは、むせ返るような熱気と喧騒の中に消えていく。肩に食い込むリュックの紐を胸の内の決意とともに握り締めた。息を吸い込みながら見上げた空は、目を差すような光量と彩度。立ち並ぶビルやマンションを遥かに凌ぐ入道雲がそびえ立っている。
 摩訶不思議なお店に来店する前と、ほとんど変わらない景色。そして、茹だるような暑さ。だが、その足取りは軽かった。小気味よく進む足と、風になびくスカート。体に広がる心地よい緊張感と、覚えのある興奮。頑なに引き結ばれていた口元から、小さな声で歌が紡ぎ出される。知らず知らずのうちに笑みが零れ落ちた。
「アイツに自慢しなきゃ......!」
 胸元で弾んだ蒼天が、烈日の光を反射した。
 
 ◇◆◇
 
――――チリィ......ン

 不意に風鈴の音が響いた。そちらにちらりと視線を向けたあと、扉の取っ手に『へいてん』の札を掛ける。階下を見下ろすと、家路に向かう沢山の人たちが見えた。青空はその光景に背を向けると、足早に店内に戻っていった。
 カウンター横の扉を開けると、上へと続く階段が現れる。静寂の広がる階段を、半ば駆け上がるようにして上っていった。踊り場の小窓は紅に染まり始めた街並みを切り取っている。いつもは暫く立ち止まって眺める景色も、今日は一瞥を寄越すだけで通り過ぎてしまった。息が上がって胸が苦しい上に、心音が痛いほどに体中を木霊する。心音、荒い吐息、忙しない足音。辛うじて脳内に届くのは、この三つの音だけ。
 階段を上り切った末に現れた扉を普段からは考えられないほど乱雑に開け放した。扉の先に広がるのは『空』一色の部屋。そして、巨大なドーム型のガラス張りの天井の先。そこには徐々に夜の帳を下ろし始めた空が映っていた。空間に縦横無尽に張り巡らされているガラス管。屋根の上をカラスでも通ったのか、黒い影が部屋を滑った。
 今では意識しなくても避けられるようになったガラス管の先には、青空の身長と同じぐらいのガラス瓶が沢山繋がっている。ずらりと並んだガラス瓶の中身は言わずもがな『空』だ。時折上がる白煙の中を突き進んでいくと、ぽかりと開けた空間に出た。立ち並ぶ巨大な棚に囲まれたそこには、重厚感のある机が鎮座している。机の上には大量の書類と、数冊の分厚く繊細な装丁を施された本。
 青空は手に握り締めていた伝票を机の上に放ると、傍に置いてあった椅子に素早く腰を下ろした。目の前のキャンバスにはすっかり埃が積もってしまっている。手早く埃を払い落とした青空は、ふっと息を吐き深く椅子に座り直した。
「何だ、何だ。騒々しい」
 隙間なく瓶詰めの『空』が並べられた棚の一角が揺らいだ。一対の金色の瞳が現れると同時に、緩慢な動作でカメレオンが姿を現した。その体の色は、移ろう空模様を表すかのように定まらない。青に灰色に紅に。ゆったりと色を変えながら机の上によじ登ったカメレオンは、青空の顔を覗き込む。眉根を寄せた青空の目はきつく閉じられていた。
「こりゃ、ダメだな」
 返答を諦めたカメレオンは、青空の前に据え置かれたキャンバスにゆらりと尻尾を絡ませた。
 きつく目を閉じた先に広がるのは鈍色の曇天。地面を叩く大粒の水滴。陰鬱とした空の表情に耐え切れず思わず顔を背けたその瞬間。さくりと切れた分厚い雲の隙間から金色の光の筋が差し込んだ。一拍遅れて顔を覗かせた青色は、ゆるりとその面積を広げていく。日の光に染められた糸雨はさながら金糸のようで。頬が濡れ、洋服が重みを増すにもかかわらず、視線を縫い付けられたかのようにその景色から目を逸らせなかった。
『狐の嫁入り』
 この光景をそう表した先人の言葉に深く共感した。狐の毛皮のような金色に、『結婚』と評するにふさわしい煌びやかさ。雅でありながら麗麗としたその光景は、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。
 静かに瞼を開けると、イーゼルに立てかけてあった筆を手に取り、パレット上の絵の具を撫でた。そしてそのまま、脳裏の光景を溢さないよう、数年ぶりに筆をそっとキャンバスの上に滑らせる。
「っ............」
 現れたのは、細い細い金の線。簡単に掻き消えてしまいそうなその糸雨は、頭の中に焼き付いた光景とは似ても似つかない。あの時見た光景はこんなに頼りない金ではなかった。もっと、見ている人の、自分の視線を縫い付けて逸らすことを許さないような迫力があったのだ。これほどはっきりと思い出されるというのに、どうしても自分の手で形作ることが出来ないのだ。筆を乱雑に筆洗へと突っ込むと、肺が空になりそうなほど大きな溜息が零れ落ちた。
  
「また、失敗か?」
「七変化、先生......」
 ぐるりと目を回したカメレオン、『七変化』先生に青空は視線だけを寄越した。ぐったりと体を椅子に預けた青空は、そのまま腕で顔を覆う。瞼の裏には自分の夢を手折った金色の糸雨。
 今日ならいけるかもしれないと思ったのだ。何度筆を握り締めても、色をのせることが出来なかったキャンバスに、最後まで向き合えるかもしれないと一抹の希望を抱いてしまったのだ。
 弱音を吐きながらも、瞳の奥の熱は絶えることを知らなかった少女。彼女が自分の悩みを、夢への熱を吐露する姿に感化されたのがいけなかった。此方の気持ちまでも揺さぶる、青臭くてどうしようもないほどに尊い彼女の叫びに、つい引きずられてしまったのだ。先程まで痺れるほどの熱を持っていた脳は、すっかり白く冷え切ってしまった。
「ほら、まだ業務は終わってねえだろ」
 七変化先生から掛けられた声に、緩慢な動作で立ち上がった青空。重い手足を無理やり動かし、ガラス管の間をすり抜ける。辿り着いた一つのガラス瓶の中には、差し込まれた管から『空』が入れられていた。管の先についているコックを締め、ガラス瓶の蓋をきつく閉じると専用のラベルへとペンを走らせる。
『20――年、7月、――日。夕方』
 ラベルを蓋の上に丁寧に張り付けると瓶を仕舞うために踵を返した。すっかり帳を下ろしきってしまった空には煌々と月が輝いている。差し込む月光の光は、あの日の金色よりも柔らかい。描いては描き直し、描き直してはまた筆を握る。脳裏に焼き付いて離れないあの絶景は、いつになったら自分の手によって形作られるのだろうか。
 ぽかりと空いた隙間に抱えていた瓶を入れ込んだ。ゆらりとすぐ傍の瓶の姿が歪んで、七変化先生が姿を見せる。
「人の数だけ人生があるように、人の数だけ『空』がある。空っていうのは一分後、一秒後にはすっかり姿を変えちまう。二度と同じ空を見ることは出来ねえし、常に新しい光景を形作っている。だからこそ、自分の頭ん中にこびりついて離れない『空』には意味がある」
 夜の底に光る一対の金色をくるりと回して、先生は小さく笑い声を立てた。
「これだから、『空』っていうのは止められねえんだ。『空』に取り憑かれた奴は、それを知らなかった時には二度と戻れねえよ」
 まあ、精々足掻くことだな。投げかけられた声は、徐々に小さくなっていった。恐らく七変化先生が、青空の傍を離れたのだろう。青空は目の前の瓶を一撫ですると板張りの床にこつりと靴音を響かせて先生の後を追った。
「あの日の空、この日の空、古今東西の空承っております」
 零れ落ちた呟きは、夜陰の中に溶けていった。


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