春夏秋冬物語ー秋の章ー「淋しさの行き場は」 怪鳥 キャンパス内の校門から図書館までの間に広がる並木道。その並木道の樹々の葉っぱたちは紅色や山吹色に完璧に染まっている。そして、並木道の道の上にはいくつかの松ぼっくりが所々に転がっており、秋の並木道が完成していた。この完成された秋の並木道が、和花は季節の景色の中で一番のお気に入りだった。夏が過ぎ去り、秋の深まりを感じられる紅葉の道が、和花は大好きであった。 「よっ」 突然、背中をたたかれ自分の中で軽い衝撃が走る。その反動で「おわぁ」という間の抜けた声が思わず飛び出てしまう。誰だよ。こんなことするの。自分に間抜け声を出させた犯人の顔を確認しようと後ろを振り返ると、そこには、自分より二回り以上も背の高い、見知った男子大学生が立っていた。七海圭。小学校からの幼馴染だ。 「なんだ、圭か。びっくりしたじゃん」 「いや、たまたま見かけたからさ」 「見かけたからって押すことあるー?」 「あはは、すまんすまん」 反省の色が全くうかがえない謝罪。普通ならもっと怒るところであるが、「もう」と呆れ笑いで返すことで、和花は圭の行為を許すことに決めた。 「今から授業?」 「あぁ。お前は?」 「昼からだけど、その前にちょっと。友達とカフェテリアで会う約束してて」 その会話をしているうちに、気づけば圭は自分の隣に並んで歩いていた。特段頼んだわけでないにもかかわらず、彼は自然と自分に歩を合わせてくれていた。 「覚えてるか?あの約束」 「あの約束?......あぁ、学祭一緒に回ろうっていうやつでしょ。覚えてるよ」 この大学の大学祭は二日間ある。ただ、二日間あるといえど、一日目と二日目の違いはイベントステージにおける部活の出し物や大学祭実行委員会の企画のラインナップが異なるくらいであり、二日間を通して出店している店舗はほとんど変わらない。和花と圭は、互いのスケジュールや各々の友人や部活の仲間たちと回ることを考慮し、一日目だけを一緒に回る約束をしていた。 「楽しみだね」 「だな」 「圭との大学祭、なんだか特別な感じする」 「そうか?俺は、なんか変に緊張してる」 「なんでよ」 「だって、......お前と付き合い始めて、初めての大学祭だし」 そう告げる圭の目線は明らかに意図して自分から逸らされていた。からかってやろうと思ったが、「付き合い始めて」という言葉の想像以上の恥ずかしさに気圧され、思わず目を伏せてしまった。 和花の中での圭は、小学校からの幼馴染であり、今自分が付き合っている彼氏である。そして、今年の大学祭は、去年とは違う、彼氏と回る、自分の人生の中で経験のない大学祭であった。 「じゃあな。また明後日」 「うん。授業頑張ってね」 「おう」 並木道を抜けた先にある図書館。その隣にある建物の前で和花と圭は分かれた。この建物には大学が運営する食堂が入っており、昼時には講義を受けていた学生やこれから部活動をする学生が多く立ち寄る、当大学学生御用達の場となっている。和花の目的は食堂ではなく、食堂の一つ上の階に併設されているカフェテリアだ。 食堂に向かう分の二倍の数の階段を上り、取っ手以外の部分がほとんどガラスで作られたカフェテリアの扉を開ける。今の時間帯は講義を受けている学生が多いため、客足は少なく、入り口からでも片手で数えられる程度しか客の姿は見られなかった。入り口の扉をなるべく音を立てないよう、意識して静かに閉める。今、カフェテリアにいる客のほとんどは、カフェ目当てではなく、カフェで自習や読書をしたりする暇つぶし目当ての客がほとんどだ。自分と同じ学部、同じ専攻っぽい人はいないかと、ばれない程度に何をしているのかを覗きながら、和花はいつも座っているテーブル席へと向かう。すると、そこには既に自分のお目当てとなる人物が到着していた。彼女は一足先にミルクコーヒーを頼んでおり、本を片手にそれをたしなんでいた。 「お待たせ、千秋」 「やっと来たー。もう。遅いよ、和花」 「ごめんごめん」 山根千秋。和花が大学で初めて出来た、入学後一番目の友達だ。共に同じ文学部学生である和花と千秋は、入学後早々に行われたオリエンテーションで出会った。というよりも、一人で座っていた和花の隣に偶然千秋が座り、そこで千秋が和花話しかけたのが始まりだった。その後も、大学の無数にある授業の中で同じ講義を取るという偶然が何度も重なり、共に授業を受けるうちに意気投合。入学から一年半経ち、専攻とする分野が異なった現在でも、暇な時間があれば話したいからとどちらからともなく連絡し、授業前や授業後にこのカフェテリアに 二人でよく集まるようになった。 千秋が座っている席の向かい側のイスを引き、自分も席に着く。テーブルに置かれているカップの中身を見てみると、ミルクコーヒーの半分以上はすでに千秋によって飲み干されていた。 「何読んでるの?」 「ん、これ?『春夏秋冬物語』っていう短編集。最近SNSとかでけっこう話題なんだけど、知らない?」 「え、知らない」 「春、夏、秋、冬を題材にした話がそれぞれ書かれてて、登場人物の心情とかの描き方がリアルっていうので話題になってるんだ」 「へぇ。よく知ってるね。千秋、あんまり小説とかに興味ないのに」 「SNSのフォロワーの人でこの本を紹介してた人がいてさ。それでちょっと気になって」 「ふぅん。で、どう?」 「うーん。確かにキャラの内面とか気持ちとかはリアルだなって思ったけど......リアルすぎて私には少し重かったかな。小説とかの物語に娯楽を求めてる人には合わないかも」 「なるほどねぇ」 今の千秋の感想を聞いて、和花はむしろその作品に興味を持っていた。自分は、物語には娯楽ではなく、生々しさを求める人間だ。 「で、ここまで遅くなった理由は?」 「え。あぁ、それは、まぁ......」 「彼氏と会ったんでしょ」 テーブルの端に立てかけられているメニューに伸ばした左手が一瞬びくりと震える。当たりだ。否定する言葉をどうにかして出そうとしたが、「彼氏」という言葉の恥ずかしさで接着剤でもつけられたかのように離れなくなった口元からは、何の言葉一つも出すことが出来なかった。 「なんで分かったの」 「えぇ?普通に分かるくない?」 「"普通に"って」 「それにぃ、和花、きもち顔赤いし」 「ちょ、分かってるんだったら見ないでよ」 千秋の指摘のせいで、今まで自覚なく顔を赤らめていたことを嫌でも自覚してしまう。和花は、自覚してさらに赤面することの恥ずかしさを紛らわそうとメニューを一瞥した後にカフェテリアの店員を呼び、ブラックコーヒーを一つという注文を伝えた。 「そういやさ、もう明後日には学祭だよね」 「そうだね」 「和花は、一日目は彼氏君と回るんでしょ?」 「うん。あと、その『彼氏君』っていう呼び方は止めて」 「ごめんごめん。......でも和花、本当に良かったの?一日目だけで」 「いいのいいの。向こうだって友達とか部活の人たちと回りたいだろうし、私も千秋とかとも回りたいし」 「でも......」 「もう。そんなに気にしなくていいのに。私たちも話し合って納得した上で決めたことなんだし」 「だったら良いけど」 了承の言葉を口にしながら千秋は身を引いた。それでも彼女の中での不満感は拭えきれてはおらず、その不満感を隠すように、残り半分のミルクコーヒーが入ったカップに口をつけた。 この話は、和花と圭二人の問題であり、このことで千秋にはあまり気を使わせたくはない。気にかけてくれている千秋をフォローできないかと、考えを表面に出さないように軽く脳内で考えるも、これ以上何かを言うと帰って彼女に気にかけさせることになると考え、この件については和花からは何も話さないことにした。自分から話さなければおそらくこの話題はもうすぐ流れてゆくだろう。 「んー。まぁもうこの話はいいか。じゃ、和花。一日目は頑張ってね。土産話、楽しみにしてるから」 和花の予想通り、千秋が残りのミルクコーヒーを飲むのと同時に、大学祭の話も彼女の体の中へと流れ込んでいった。千秋がカップをテーブルに置いた直後に運ばれてきたブラックコーヒーを、和花は備え付けの砂糖やミルクを入れることなく、ストレートのまま一口、口の中へと入れた。 * 金管、木管、パーカションの音が一つに重なり、会場内に響く。演奏している旋律のメインは後ろのトランペットたちだが、自分が吹くホルンも一つの音として溶け込み、全員で一つの音楽を作り上げている。 大学祭一日目。和花が所属する吹奏楽団は大学祭でのステージイベントとして、ミニ演奏会を実施していた。現在フィナーレで演奏している曲『オーメンズ・オブ・ラブ』は、アップテンポなリズムが特徴の曲であり、聴いているだけで恋の予感を感じさせる、大学祭での演奏会の最後を飾るにふさわしい曲であった。 曲のクライマックス。今までより一層高い音域で吹く場所が多くなっているにもかかわらず、誰一人として音を外さない。繰り返し出てくるメインテーマのフレーズに揃った高音域の音が合わせられ、一段と曲全体を輝かせる。そして最後、テンポが落ちるとともに金管が冒頭のファンファーレと同じメロディを高々と奏で、曲は終わりを迎えた。 最後の一音が吹かれた瞬間、場内から無数の拍手が沸き起こる。演奏に集中して見ることの出来なかった観客席の人たちの顔が、和花の目の内に映り始める。その映像の中にはもちろん圭の姿もあった。 「おつかれー」 自分の楽器を早々と片付け、同じ担当楽器の部員たちにねぎらいの言葉を軽く告げ、和花は部室を出、圭の元へと向かう。吹奏楽団の部室がある部活棟の入り口で、おそらく自販機で買ったのであろうグレープジュースを飲みながら、すでに圭が待っていた。 「待たせてごめん、圭」 「全然いいって。良かったぞ、演奏会」 で、まずはどこ行く?」 「んー。私的には映研がちょっと気になってはいるんだけど......」 「そうか。じゃあ、最初そこ行くか」 「え!いいの?」 「いいよ」 圭が持っていた大学祭のパンフレットをちらりと盗み見ると、次の映画研究部の作品公開開始までは残り十五分を切っていた。 「やっほー、和花」 公演場所の教室にたどり着くと、その入り口には、『こちらが会場です』と書かれた看板を持った千秋が会場への案内を行っていた。 「え、なんでここにいるの?」 「あれ?言ってなかったっけ。わたし、映研入ってるんだけど」 そういえばそうだった。普段バレーボール部に行く姿しか見かけていないため、映画研究部と兼部していることをすっかりと忘れていた。 「もうすぐ映画始まるから。さ、中に入って入って」 「うん。案内ありがとう」 「どうも。映画楽しんでね」 「うん」と圭と二人で言い残し、暗闇に覆われた教室へと入室する。映画館さながらの公演前のこの暗さは慣れていない人にとっては緊張するものであるが、月に一度は必ず映画館に足を運ぶ和花には当たり前のものであり、むしろ安心感を感じていた。淡々と歩を進め、教室中央の空いている席二つに、二人並んで腰を下ろす。 この映画研究部は、映画の自主制作を積極的に行っており、大学構内で撮影している様子を和花もたまに見かけることがあった。和花は昨年の大学祭も、この映画研究部の公演会に足を運んだが、その時は圭はいなかった。映画の知識が乏しい圭は、今ここで映画を観ようとしていることに対してどのように思っているのだろうか。 つまらないと思っていないだろうか。 「圭」 「ん?」 暗闇で見えていなかった圭の顔が、正面から横に振り向いたことでうっすらと見えるようになる。その顔は、普段和花に見せている、穏やかな表情で染まっていた。 「映画、楽しみ?」 「ん?そりゃ、楽しみだけど」 「そう......じゃ、いいや」 「何だよ、『いいや』って」 その言葉を最後に再び圭の顔が見えなくなる。「楽しみだけど」という圭の言葉を信頼し、和花は楽しめないのではないかという、凝り固まっていた一粒の不安を脳内から消滅させることに決めた。 先ほどまで頂上で地上を照らしていたはずの太陽が、少しずつ地平線の方へと傾きつつある。鮮明に見えていた大学祭の景色が少しずつ見えなくなってきている。。大学祭一日目がもう終わろうとしている。回り始めた時から幾ばくか冷たくなった風を肌に感じながら、先ほど屋台で買ったうどんを、一本口へと運ぶ。 「美味しいな、うどん」 「ね、まさか売っているとは思わなかったけど」 高校でも文化祭を経験し、昨年も別々にではあるが大学祭に足を運んだ二人でも、屋台でうどんを売るというのはあまり聞いたことがなかった。 「明日はどうするんだ?お前」 「まぁ、友達と適当に回って、最後のフィナーレ見る予定」 「俺も大体似たような感じかな。その場その時でどこいくかとか決める感じ」 「友達と回る時って、そんな感じだよね」 十一月上旬の夕方は日中と比べてかなり冷える。定期的にうどんを口に入れなければ、空気の冷たさに身体が負けてしまいそうだ。一度すするごとに、うどんの温かさと柔らかな出汁の風味が全身を温め、癒してくれる。 「......ふぅ」 「疲れたか?」 「え、まぁ、......うん」 「吹部の演奏会やってからだもんな。そりゃ、疲れるよな」 見て分かるほどに、疲労が顔に出てしまっていただろうか。圭にはあまり気を遣わせたくなかったのに。自分 の疲れを心配してくれた圭へのうれしさと、気を遣わせてしまった申し訳なさが、じわじわと和花の心を侵食していく。 「そんじゃ、そろそろ帰るか」 「あ、待って。うどんの出汁、まだ残ってるから」 「お前、汁まで飲むのかよ」 「当たり前でしょ」 容器の中に入っている出汁を飲み干すと、和花の大学祭の一日目は終わる。なんとか一日目が無事に終わりそうでよかった、と和花は胸を撫で下ろす。 ―無事に終わりそうでよかった?自分の中に先程芽生えた感情に、和花は疑問を覚えた。帰ることへの淋しさではなく、安堵感が、今の自分の中にあることに。 「で、それが土産話?」 大学祭の片付けも終わり、二日間の祭りの熱気が収まり始めてきた火曜日、和花と千秋はいつものごとくカフェテリアの、一番隅の窓際の席に集まっていた。今日ここに集まろうと言い出したのは和花の方だ。一日目に感じた違和感を千秋に話したかった。 「うん。これだけ」 「思ってたよりも重い話になっちゃったねぇ」 先週と同じく、テーブルには二つのカップが置かれており、手元のカップにはブラックコーヒーが、奥のカップにはミルクコーヒーが入れられている。和花の視線の先にあるミルクコーヒーは半分以上がすでに飲まれていたが、手元にあるブラックコーヒーにはまだ一切の手が付けられておらず、運ばれてきた時のものと同じ状態であった。 「なんで和花は、その安堵感に違和感を持ったの?」 「それは......」 違和感を持った理由。初めて感じた時からずっと考えていたそれについて、和花の中で一つの結論に辿り着いていた。 「帰る時に、淋しさを全然感じなかったから」 違和感の原因は、結局はこの理由一つだ。今まで圭とどこかに出かけ、帰る時にも安堵感はあったものの、同時に淋しさも感じていた。だが、今回は違う。和花の心中にあったのは、安堵感ただ一つだけだ。 「......ねぇ、和花」 何かを言いかけると同時に、千秋が持っていたカップをこのカフェテリア専用のテーブルの上へと戻す。ソーサーに置かれたカップにはもうミルクコーヒーは入っていない。 「和花さ、圭君といる時、辛いって思ってない?」 辛い。言われるとは想像もしていなかった言葉が聞こえ、顔を上げ、千秋の顔を見遣る。目を逸らしがちの和花に比べ、彼女は和花の目を真っ直ぐに捕らえていた。 「つら、い?」 「楽しいって思ってたことが、辛いって思うようになってない?」 辛い。それは、自分とはかけ離れたものだと考えていた。だが、その「辛い」という言葉は、今の自分の状態を表すには妙に合致してしまっていた。合ってしまったことへの動揺を隠そうと、自分のワンピースを両手で強く握る。 「確かに一緒にいて辛い、というか窮屈に感じることはある。でも、楽しいって思うことだって全然あるよ」 「じゃあ今は、楽しいと辛い、どっちが大きい?」 「......辛い方が、大きいかも」 「そうかぁ。辛い方が勝っちゃうかぁ」 しみじみとつぶやくと、千秋は和花から視線を外し、窓の外の方へと目を向ける。だが、それは目の前に広がる景色を見るためではなく、ここではない、どこか遠いところを見るためのもののようであった。 「私さ、人間関係って、歯車みたいだって思うんだ」 「は、歯車?」 「そ。上手くいっている時は順調に回ってるけど、歩調が合わなくなったり、どちらかが動かすのを止めたりしたら、壊れて回らなくなる」 いきなりの話題転換に、和花は一瞬だけたじろぐ。その間も和花は窓の外に浮かぶ、アザーブルーの空に視線を固定し、話を進める。彼女の中での何かの回想にふけながら。 「わたし、高校生の時、友達との歯車、止めちゃったことあるんだ」 「止めちゃったこと?」 「うん。高校生っていっても、卒業した後の話なんだけどね。事情があって、わたしの方から会うの止めて、別れて、それからずっと話せていない子がいる」 過去の自分を思い出しているのか、千秋は秋めいたアザーブルーの空の方を向いたまま、両目をつぶる。しかし、そのようにしていたのも束の間、千秋は和花の方へと、体ごと向き直した。 「和花と圭君の歯車も、きっと止まろうとしているんだと思う」 「私と圭の、歯車......」 「和花、圭といる時、気、遣ってるでしょ。辛いっていう感情が大きくなってるのも、多分、それが原因」 「そんなことしてないよ。私はただ、圭の楽しむ顔が見たいから、つまらないって思う顔が見たくないから、圭の考えに合わせようとしてるだけで」 「十分、気、遣ってるじゃん」 千秋の言葉に、和花は再びたじろぐ。そんなの仕方ないではないか。だって、圭は。和花の中での圭は...... 「圭は、彼氏なんだよ」 和花が言葉を発した後、千秋の口端が微妙に吊り上がったのが分かった。まるで、してやったりとでも言わんばかりに。 「『彼氏』だから、気を遣うの?」 「......」 「彼氏じゃなかったら、気を遣わないの?」 和花は、何も口から出せなかった。千秋の言う通り、彼氏ではない圭に、和花は気を遣わない。幼馴染であるだけの圭がどう思っているかなんて、和花は気にしたこともない。一歩距離が近づいたことで生じるようになった圭への気遣い。それによる辛さ。圭といる時にうずまく不明瞭な感情の正体はおそらくこれであった。 自分と圭の関係の全貌を理解し、和花は呆然と、自分の手前に置かれたブラックコーヒーを眺めていることしかできなかった。その間、千秋は何も話さず、ただ静かに和花を見守っていた。 「ねぇ、千秋」 「ん?」 「止まりそうな歯車って、どうしたらいいと思う?」 「んー、止めることも、また動かすことも出来ると思うよ。どちらにするかは和花次第、だけど」 「最後に突き放すー?」 普段通り接してくれる友達を前に、口元から今日一度も出ていなかった笑みがこぼれだす。こんな関係の人がずっといてくれればいい。和花は切にそう願う。 「和花がどんな結論出しても、また話聞いてあげる」 「うん、ありがとう」 どうするかは自分次第。だが、どうしたいかはもう和花の中では決まっていた。 * 『次の土曜日会えないかな?話したいことがあって』 そのメッセージを圭に送ったのは、カフェテリアで千秋と話してから数時間後のことだった。送信して十秒と経たない内に、メッセージの横に「既読」の二文字が表示される。 『分かった』 『その前にここ、一緒に行きたいんだけど、いいか?』 ポン、という音とともに二つのメッセージと、一つのURLが間髪を入れずに送られてくる。そのURLは、市内の駅からバスで十分程移動して所にある日本庭園を示していた。和花が一年前、付き合い始めた頃に行ってみたいと、圭に伝えた場所だ。 『十二時に、駅で待ち合わせでいいかな?』 和花のメッセージに、圭から「OK」という文字と、マスコット風のカエルがサムズアップしている様子の描かれたスタンプが返される。それから約束の日になるまで、二人のトーク画面が動くことはなかった。 約束していた駅に、和花は待ち合わせ時間の十分以上前に到着していた。少しでも暖かい場所へと、日が存分に当たる噴水近くの外灯の前で、圭を待つ。外の空気の気温は明らかに下がりつつある。空から時折差し込む日差しは、まだ暖か味の残る秋の日差しであり、コートやダウンジャケットを羽織ろうと思うほどではないものの、かすかに吹いてくる風は確実に冷たさを帯び始めていた。本格的に寒くなってくるのか、と迫りつつある次の季節の到来に思いを巡らしていると、駅舎の方から自分よりも二回り程度、身長の高い男性がこちらに向かってくるのが見えた。厚手の長袖Tシャツにジーンズ、肩にショルダーバッグをかけるというカジュアルなファッション。間違うはずもない。圭の姿だった。 「すまん。待ったか?」 「ううん、大丈夫。全然待ってないよ」 和花も圭も約束の時間よりも早くに到着している。予定したよりも五分以上も早く、和花と圭は左手に見えているバス停へと向かい始めた。 黒塗りの城壁の目立つ城を遠くに望むこの庭園は江戸時代に作られた日本を代表する大名庭園の一つであり、今の時期には山茶花や寒椿などのツバキ科の植物が園内には多く見られる。紅葉も多く残っていたが、そのほとんどは大学祭以前にキャンパス内の並木道で見たものよりもはるかに色褪せていた。園内に時折降り立つタンチョウを横目に、和花は一年越しに叶えられた自分の要望を深く噛みしめていた。 「今日は連れてきてくれてありがとね、圭」 「いや、前にお前が行きたいって言ってたのを思い出してさ。せっかくだからと思って」 やっぱりそう。やっぱり圭と一緒にいることは楽しい。幼馴染として過ごしてきた時からあるこの気持ちは、大学生になった現在でも変わらず残っている。だが、変わらぬ楽しさがいくら自分にあろうと、その楽しさで、今はもう一つの気持ちがうやむやになっているとしても、言うべきことは言わなければならない。そのために今日、和花は圭に「会いたい」と伝えたのだ。 「圭。そろそろ話、しない?」 和花の一言で、二人の足が同時に止まる。和やかだった二人の間に、緊張が走る。 「そのために、今日来たんだもんな」 緊張を受けた圭が、二人の周りを見渡す。少しして、彼は、近くの広場にある、二人用のベンチを指さした。 「あそこ、座ろうぜ」 彼に促され、和花はベンチの右側に、圭は左側に腰を下ろす。目の前の広場では、何羽ものタンチョウが、地上に降りたって広場を散策したり、そうしたかと思えばまた飛び立ったりを繰り返していた。 「ねぇ、圭。私、圭と付き合い始めて、ずっと付き合ってきて、本当に楽しかった」 「俺も。俺一人じゃ行かなかったような所行けて、楽しかった」 このような改まった場で、和花はどう話すべきなのかよく分からない。どうしても逃げたいという感情が出てきてしまう。だからこそ、何も飾ることはなく、自分が何を考えているかを、素直に圭に伝えることにした。 「でも、同時に辛いとも感じてた。その辛さは私が自分で勝手に感じてたものだけど、それでも、今のまま圭と一緒にいたら、多分ずっと感じてしまうものだと思う。だから......」 次に口に出す言葉を、和花は今日、言わないことだって出来た。「また今度」と言って、伝えるのを引き延ばすことだって出来たはずだ。だが、和花は後戻りはしない。喉につっかえて中々出せなかった五文字を、意を決して、圭に伝える。 「別れよう」 一年前は出すつもりのなかった言葉を、和花はようやく吐き出した。覚悟を決めて出した言葉は自分の思っていたよりももろく、すぐに秋の空気の中へと溶けていった。 「自分勝手で、ごめん」 溶けて、消えてしまった五文字の言葉に、和花はそう付け加える。二人の歯車はおそらくもう止まりかけている。自分の歯車をすでに自分で、止めてしまっているから。もしかしたらもう一度動かすことだって出来るかもしれない。だが、もし再び動かしたとしても、現在のままであれば、一か月と経たないうちに、また止まってしまうだろう。歯車を動かし続ける方法が、今の和花には分からない。ならばいっそ、和花はその歯車を自らの手で止めてしまいたかった。彼と、距離を置きたかった。 言うべきことは言った。それでも、和花は視線を下に向けることしかできなかった。圭の顔などは到底、見れるはずもなかった。圭は、どんな顔をしているであろうか。怒っているか、悲しんでいるか。どちらも、今の和花には見たくもないものだった。 体感として一分程の長い沈黙の後、隣にいる圭の、口を開く音が、和花の耳に聞こえてくる。 「......ごめん、」 和花の耳に届いたのは、平均的な高さの男声に包まれた、謝罪の言葉だった。声の発せられた方へと和花はゆっくりと顔を向ける。 「俺も、和花と同じこと思ってた。それでずっと言えてなかった。俺の方こそ、ごめん」 あぁ、そうか。多分、歯車を止めていたのは、自分だけではない。圭も、自ら歯車を止めようとしていたのだ。広場に繰り返し降り立ってきていたタンチョウはいつの間にか全員いなくなり、園内のどこか別の場所へと飛び去ってしまっていた。 「終わりにしよう」 いくら上を向こうとしても、今は圭の顔の下半分までしか見ることが出来なかった。それでも圭の口元が弧を描いていることだけは、和花には分かっていた。 * 「ありがとうございました」という運転手の言葉に見送られ、バスを下りる。駅に戻ってきた時には、日は落ち、街が天体運動上作られる暗闇に染まりつつあった。圭はここからまだ少し遠い場所に住んでいるため、今から電車に乗り、帰らなければならない。いつもであれば、和花も改札前までついていくが、今日はそのまま真っすぐ自分の家に帰ることに、最初に駅に到着した時から決めていた。 「じゃあな」 「じゃあね」 どちらからともなく、お互いに手を振り、互いを見送る。「またね」と告げることはどちらからともしなかった。 県内随一の大きさを誇る駅舎に背を向け、和花は帰路につく。今日やったことに後悔というものがあるかは分からない。ただ、淋しさに酷似した感情が、和花の中で芽生え始めていた。 通ったことが一度もない、街路樹のある道を、ただ一人で歩く。和花の歩いている横を何台もの自動車が追い抜いていく。皆、ヘッドライトを点け、自分の通る道を照らしていた。 街路樹の樹々につく葉っぱたちは、完璧な赤色、完璧な山吹色ではなく、少しずつ色が失われてきていた。風で散り、他の葉っぱよりも先に枝から離された葉っぱたちが、樹々の下に何枚も落ちている。自分の後方から吹く風は、以前よりも冷たく、少し肌寒いように和花には感じられた。 もうすぐ冬が来るんだ。 (完)
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