旅は道連れ つげろう 服の布の下を汗がだらだら流れている。服を着ているという感覚をなくすほどの量の汗が、持ち主に混沌とした視線を送られただの布切れとして振舞うしかなくなったかれの服を、さらにみじめな原色に侵している。 「名前はマエヤマダで。いい? 」 かれが服を着たまま、汗を介して薄い羞恥心からかれの服を取り去って裸の居心地の悪さを手に入れことにつけて、少し遡っておれとマエヤマダの二人を見捨てるように過ぎ去っていった通行人たちや対面している、ここでは特にマエヤマダが服を着ていることの存在感はさらに不思議だと、かれは考えて少し芝居がかった調子で生唾を飲みこんだ。マエヤマダのはだけることに馴れているのか白くも深い陰影をもった鎖骨から上方にたわみながら伸びている鋭い肩を包んでいる、セーラー服なる布はその繊維のきらめきに自分の意志の介在を認めるようにかれはさらにその不可思議さを見つめた。しかし、それは全くの偶然だ、おれがマエヤマダと出会ったときそれと同時に始まった服の違和感に、腰のポケットへぶっきらぼうに両手を突っ込んだとき、右手にはそれ自体も外気温に冷たくなっている部屋の鍵、左手には不器用なもので一本のペットボトルを買うために差し出された一万円だった残りの三千円があたった、そして、よそよそしく腕を引き上げたときにその三千円が不意にひっかかり日の目をあびることになったということだ、とかれは回想した。一度目の前に差し出した金をひっこめるのか、とその裏に道徳的、教訓的な裏付けがない場面であることはかれも認めていたけれど、無秩序の一瞬に耐えられずにとっさに三千円を差し出したのだ。ともかくとして、マエヤマダが座っている対面の風景の背後にある、ICOCAの「イコちゃん」がいるポスターにも負けるほど、マエヤマダのバックグラウンドや諸々には関心が生まれず、かれは心の中で曖昧に感嘆した。 ひとは物凄く焦っている時間が過ぎれば、正常な未来を埋めていたなんでもない時間を取り戻そうとして、変に落ち着こうとする、かれも強引にこれまでを俯瞰して焦りの残りかすを除去しようと試みる。いま、おれたちがいる車両が停まっている駅はきっと地図を広げて少しく目を動かすぐらいに広く地理的に見れば丘のうえにあたるのだろう、なぜかってプラットホームまでの道はひどくゆるいつづら折りになっているからで、それは道間の陰が朝から昼に変貌する強い太陽光線に濃かったことにも記憶されている、という風に。かれの現在の心象はすべて、正午の強烈な光に満たされていた、執拗に追ってくる時間が光の像を得て、短期間にトラウマをつくってしまったのだ。その光はすでに、かれが寝過ごさなければ、快い朝のおのれの肉体のみずみずしさに享受していた朝のひかり、闊達な前進運動を照らしていた昼のひかりではない凶暴さでもって、数時間後のロックン・ロール・コンサートのむなしく真っ黒な影法師を結んでいる。 マエヤマダはすくっと立ち上がると前後の対面席の様子を確認して再び、箱に収まる猫のように小さく座った。かれの位置から車内にほかの乗客は見受けられなかった。かといって、どこからか聞こえる喋り声はかれらを空間から切り離そうと執拗に感じるほどに絶え間なく続いている。喋り声は必ず、発信と応答のきれいにそろった二組となっている。灯台と舟のやりとりのようなそれが、かれの遠近感覚にくさびを打ちこみ、かれは確実に悪い酔いに向かっていた。 「そっちが喋ってくれないと、こっちは何にもできないってことだよ、なんでもいいから」 マエヤマダは、その位置を確かにしてさらにその中心線を定義づけている、ごとっと重く置かれたような目線をかれにむけ、不器用な考えにかれを不意にいたらしめた、座席が逆にマエヤマダに座られている、座らされている? 「たとえば、どこまでいくの? 」 「"高砂"まで」 かれは意識の外に燃え上がる気管支系とそれに遠巻きにあてられていた頭の血管のあやしい感覚の発露をまぎらわせていった。手のひらのつけ根でこめかみを打つ動きはどこか、行っている自分でも既視感があってそれに助けられてマエヤマダの位置をかれ側からでも捉えることに成功し、ようやくかれは心身の安定を感じてあとにつけ加える。「最も北の"高砂"だ、たしかそう書いてあった。そこから少し行けば小規模な、といってもこの国では特筆すべき砂嘴のあるはずだ」 マエヤマダは、なおもその目に一切の重心の調整を託しているという感じで、口にはその移行を予感させる微風さえも吹いていなように乾燥した見た目で放置されている印象がある。 「でも、おれは俯瞰図でしか見たことが無いから、陸地を見ても分からないだろうな、内海を見ないといけないかな」 「それで、それはなにか言おうとしているの? 陸だとか内海だとか」 かれは急激に乾いていく汗のはりつきを感じて曖昧に返事をし、窓の外からゆるやかに去ろうとしている一切に溶け込む気持ちで座席に深く座りなおす、蛸が人並にしゃべることができたならばおれの返事のような不完全な発音でもってマエヤマダの言うようなことをいつもわめくもので、相当われわれを苛立たせずにおかないだろうな、という思い付きを急加速にその形を崩す、暮れていく街の輪郭に見送りながら。 ハイブリッド車のモーター音もその技術の上げ潮の退いていくことに遥かなものになっていくが、その音の不快さ、指先で撫でられつつときどき引っ掻かかれる海牛の類の表面に思いをはせずには居られない、と昔いったことはいまだ懐に温めている、かれはその表現はこの車両のモーター音のはなはだしさには「海牛」の一点でそぐわないと認めており、かといって「魚竜類」ではその表面の光沢の神経質さは的をえていても大げさでわざとらしいところがあるといった思案がかれの喉を詰まらせていき、それをマエヤマダは溺れている猫の滑稽さに目線をそわせているように微笑をわずか錯覚させる沈黙でかれを見つめている。 「死んでしまうの? 」 その声は車両の内臓のひとが飲めばぶくぶくになって即死するだろう工業溶液や油にまみれた複雑さを想起させるモーター音と混ざり合いつつ半固形状に浮かんでいてかれの顔を遠灘のブイが揺れるように撫でる。このモーター音はすなわち、精神に食い込むものであり、新型鉄道導入の当初より問題視されて久しかった。 人間の生活空間において名称をすべて同じものにすることにより物体が"驚異的に加速する"という新論理が発見され、その十年のち選ばれた有識者による<沿線地名選考委員会>の決定からすぐさま、新型高速鉄道が疾走するこの国の土地はすべて「高砂」と名を改められた。しかし、根本的にその加速がモーター音を介して与える精神的悪影響の解決を待たずの導入であったため、新型鉄道は必ず複数人で乗車しなければならない、モーター音は二人以上の人間によってなされる会話によってでしか軽減されなかった。この対処法は、地名が「高砂」に統一されることへの反発が思いのほか少なかったこともあり、大きな議論となった。かれもその巨大な群衆の拳の陰で、当時住んでいた建物すべてが黄昏時には山の影となるアパートの、しっとりとして地衣類の著しい薄暗い庭で大家と、となりの部屋の大学院生とともに「高砂」以外の地名の載る過去の地図を焼きつつ遠泳に疲れたように縮こまって不安がっていた。新型高速鉄道の保安上の問題になるとして官公の命に従い焼かれていく、故郷の地名を見つめながら火のあたたかみにあたる前傾姿勢のみじめさは、つづら折りの道をのぼり駅に向かうかれによって久方ぶりに再発見される。そして、それにつけて思い出される、前歯のすきまから唾のあぶくをふかせながら大学院生がいった言葉にかれはどこか親しみの持てる、子供時代の怪我の痕のような懐かしさを覚えるのだった、「ぼくらに......、ぼくにとって、あれに乗るのはなかなかなことですよ! 」 そういえば、あのアパートの名前もかれが当時からへんに下品だと感じて軽蔑していた大家によって、「高砂」に名を変えていたな、とひんやりとした土のにおいが鼻をくすぐる。下の道と上の道の間にあるクリーム色の粘土層の露頭に手を添えてその動きの何気なさから、いまはむなしさになる当時の無味乾燥な日々の空気が腕にまとわる冷気とともによみがえる。丘に冠、なにかの本でみたそれ自体は簡素であるが極めて象徴的な聖界のもの、のさりげなさに位置している駅が逆光に浮き出ているホームの屋根の張り出しを空に掲げて見える。現在位置の視界の切り抜きと、知見がつくりだす駅全体のあいまいな俯瞰イメージとがせめぎあいながらろ過されていく、つまりはかれが起床より断続的に受けている伸び縮みする針を飲み込んだような苦痛の忘却されていくことを、かれは不意に思い出に感傷的になったことから戒めては駅の構造に巻き込まれる吐き気をおさえて角度を増す坂道を進んでいった。 頂上付近に駅の土台を補強している鈍色の鉄骨のひと柱に、浮き上がる鮮やかさの赤ペンキが誰かの腕の一振りを想起させる荒々しさに塗られているのを発見する。光の反射から遠巻きにも塗装の真新しさとそれに呼び起こされるひとの気配を鋭く感じようとする本能に、かれは足取りをさらに緩やかなものとした。青黒い車輪の冷たく静止しているさまが簡素な柵越しに覗いている。鋼鉄の沈んだ暗い色を内側に張りつめてあやうげに白い車体は幻のように北の方へ延びており、かれはやや傾いた陽の光に紛れているその先端の形状を想像すると、この巨大な構造物が実はこの瞬間から世界の中心として振舞っており、すこしでも北へその位置をずらすとなるとたちまちなにもかも無茶苦茶になってしまうという不安、そうでなくてもこれから小一時間をおれの生存と一体化する疾走に展開、たとえば車窓の景色のいちいちまでも一瞬の連続に更新されていくという考えはもっと根源的な不安としてある。巨きいものへの恐れを長らく埋没し、なかば土となってもなおも巨大な切り株のように感じてかれは、自らを茂っているが貧弱なひこばえに重ねてその場に立ちつくす、まなじりの先にぼやけてなんだか煙いように拡がっている鉄柱の赤みは、おれを責め立てるようでも擁護するようでもある。そして、迷子となっている遠近感と焦点がいそいそと鉄柱の赤いマークとかれを交互に見やりつつ歩いていく人影に流れ着く親しみと注目をもつことに、老いて羽毛のきたない猛禽類が小さくなって休まるイメージがうかんで来、同時にその赤い鉄柱におれがたっていることは落とし穴にはまるように運命的だ、とかれは自嘲する、会話の相手のいない人間とともに車両に乗り込むことを生業にする者がいるということは聞いていたが......。 いくつもの「高砂」を通過し、そのたびに渦をつくって水に溶かす砂糖のきらめきのようにその土地は乗客たちの思慮のそとに消えていく。かれはなおも沈黙を保っているが、そのうちに視界は涙ぐましくなるあたたかみに満ちた白い光の領するところとなっていた。対面しているはずであるマエヤマダの顔の記憶もおぼろげになってきたころ、濁った白い靄から手が降ってきてかれの頬をひっぱたいた。その最後まで接触していた中指の先が離れる一瞬までに、皮膚からかすかでない震えを受け取ったかれは、ある秋の日のそれまでは夏日が続いていたためにアパートの部屋のベランダの引き戸を開けていた夜に、姪っ子に、正確にはその親から電子機器を内蔵した喋るぬいぐるみの修理を、これは姪っ子から親しみにのびのびとしたひらがなの手紙とともに受け取ったことを思い出した。にわかに冷たくなった、忍び込んでくる空気にぬいぐるみは晒されておりその微風に揺れる毛の観察に無慈悲にひき殺されていく時間を黙殺し、かれは死んだイグアナの磯臭さを自らの全く起き上がらない気力と姿勢に想像していた。ぬいぐるみのパッションピンクはかれの心臓の鼓動を時計として炸裂を待つ時限爆弾のように思われ、かれのなかでは恐れとそれを燃やして駆動するやる気と、諦めとが相克し、ぬいぐるみを中心として部屋はかれの無意識のなかでかれごと回転を始める。回転の中で、おれと顔貌をぼやけさせて共有している姪っ子の親とその子である姪っ子の顔、またおれを含めたその者たちの関係性の不気味さはどこまで続くのだろうか、という苦々しい考えが形をあらわしてくる。イグアナの腹を磯の岩のじっとりとした表面から引き剥がすと、四肢に急激に爬虫類特有の引き絞られた束のような筋肉の力が入る。先日のある事件がかれにインスピレーションを与えたことは明確であることを認め、かれは回転を内またになりながら耐えつつ、炸裂寸前のぬいぐるみの前に仁王立ちになると鞭の要領で腕をひきあげて振り下ろし、パッションピンクの残影を引き戸の外の暗やみまで見送った。鋭く冷たい液体が体中に巡るのにかれは身体を不器用に動かし、月明かりにビーッ、ビーッと音を立てるぬいぐるみを満足げに見下げる。そして、半生でもっともおおらかで雄々しいあくびを一つ、また二つとした。 「ひとを殴ったことがあるようには見えないね」 かれはか細く震える声よりさらに不明瞭な返事をし、重いまぶたをわずかに開くそのままの力でつけ加えた。「おれは殴られてしかこなかったよ」 続けて、という声にその顛末はどこからどこまでなのかを勘案し、かれはかれ自身をまずはその日のあの駅まで歩ませてみることにした、特徴づけられた記憶の始まりとしては、高架下に位置する商店街の、線路の真下側から表となるロータリーに面した側に接続する通路、表と裏の店の名前が並べられ、いくつかの閉じた店は白紙に隠されているのを過去の記憶と照らし合わせながら見、逆の側面にある駅周辺の歴史地区の案内図の古いフォントの掠れているのは見過ごして歩いていくと、表への出口に地元出身の力士が十両昇進を決めた祝福そして後援会募集のポスターが貼ってあるが、その力士はもうすでに取的に逆戻りして幕下下位中位を行き来しているのを思い出したことを始まりとしよう。 それからは、表の「名店街」の吊り下げ看板を高校生たち、おそらくは東の山間部へ早くに帰っていくものたちのそれぞれが確固とした独立感をもった足取りに逆行していき、うどん屋にやや浅い午後の閑散を確認して入る。当時は、周辺に点在する陵墓や遺跡を世界遺産にすることを役所が推し始めていたころであり、真上の駅の鉄道会社が運営元であるこのうどん屋にも、その真新しいポスターが一部メニューを押しのけて張られている。メニューには、町の象徴としてある三つの山を模して、きつねの、その直角を汁に対して三角をつくるように並べられた新作が一頁に大きく挿入されてある。かれは、路傍の市民感情を代表するつもりで、そのほかより三百円ほど高いうどんを無視して労働者を装う抑揚のない声でもって注文を済ました。カウンターの隅のひからびた葱の褪せた緑に、今日の天気からはじまりあいまいに着地点の消失した店員の会話を聞く。せかせかとした調子ながらもどこか粘っこいところもある、ここらあたりの方言をお手本のように話す老人が、米、半煮え、飯、まあいい、とりかえ、返金、まあいい、よくない、と早口で文句を言っている。突っ立ってぼんやりとした会話をしていた店員たちはさっと裏へ退き、かわりに黒ぶち眼鏡のつるをこめかみの肉に半ば食い込ませている刈り上げの店長が出てくる。うどんがちらちらとあちらとこちらを見る、申し訳なさそうな顔と共にやってくる。かれも何となく委縮して、メニュー表をじっと見てうどんをすする。新作の一頁には三つの山を歌った古歌が似つかわしくない蛍光色の文字でプリントされている。 〈カグヤマハ ウネビヲヲシト ミミナシト アヒアラソヒキ カミヨヨリ......〉 その韻律のおおらかなることを頭の中で繰り返しては、少し急いで食い、老人の黒っぽく乾燥した茱萸の実みたいな顔を店長の肩越しに一瞥して会計へ向かった。狭い出入り口で同じく出ようとした高校生と先を譲り合い、外に出ると生ぬるい風が電車の轟音とともに駆けてきた。かれは、高校生の背後を見送り、彼の眼差し、将来ああはなりたくない、という老人へのものに、額にいっぱいに風をうけて歩きながら心の中で応えるように呼び掛けた、将来ああはなりたくないという人間に皆なるものだ! 駅に付属する広場の、水が止められて久しい噴水にはひび割れからこぼれたコンクリートの破片がそこら中に飛び散っている。縁に腰掛ける顔はみんなおれみたいだと、かれは背伸びして薄暮に無理やりな意識をなげかけた。どれほどの時間、おれは粉塗れになりながらこの縁でオットセイみたいに寝ていただろうか、夢の半ばが尾を引いていくのを呆然と見つめてかれは孤島に難破したひとの大洋における位置の孤独をふかめる。しかし、指をすり抜けて落ちてゆく砂の細かさを感じ取るような心の機微、かれはいまの渾然としながらも一体感のある、なにごとも丁寧に受け取れる心もちが本来のまた適正な自分ではなかろうかとも思った。 「名店街」のつくりだす光の筋に導かれて改札口に向かう、学生たちも見えず、帰宅する会社員たちもあまり見えない、そういう時間なのだろう。振り返れば、噴水にたまる橙の街灯の光が途方もなく遠くにあるように見える。日中の鬱屈とした心身の重みをそこに置いてきたように、かれは歩く姿勢にも少しの端正さを整える。自らがほかの通行人から切り離されて目立つことを想い、かれは消化の落ち着いた腹の充実感に満たされて改札を抜け、数段に延びている吐しゃ物の帯も可笑しく見てホームへの階段をのぼった。あとは、盆地の東端にある住処へとおだやかな体の軽さで運ばれていくだけだ、今日は気分の良い夜の街の光の粉を衣につけた何気もない帰宅者そのままに。 〈カクニアルラシ イニシエモ シカニアレコソ ウツセミモ......〉 吊り下げ広告には、うどん屋で見た歌がまたも引かれてこの街への鉄道旅が紹介されている。かれはそれを気に留めずに車内を見回す。かれが寝ていた噴水のある駅に比さない小さな駅を二つほど経て電車は田園の真っただ中であり、乗客もかれ以外には学生の二人組がいるだけだ。その背後には、ちょうど三つの山のうち一つが、暗やみからその姿を遠くに現す。その山体の円錐形の端正なために、また南に延々とつづく山地から飛び石として独立しているために、その輪郭は暗い海に浮かぶ島に似ている。かれは、その山のあらためて見れば盆地に唐突に登場する奇妙な存在感を思いつつ、これまでの各駅停車を検討するとこの車両がかれの住処である特急停車駅の一つ前で西へ引き返す準急であることに気がつく。数年前に突然、導入されたその悪くいえば中途半端な便に対するさまざまな憶測も、普段であればかれの不満を加速させるのに十分であったが、かれは意に介さずのろのろとした車両の揺れに目を閉じた。 終点となる駅より望む、東の高原へと徐々に引き絞られて狭い谷間に築かれた、ベッドタウンのほの明かりが眠りより覚めた目に優しい。かれは、山から降ってくる冷気に身震いしながら、山並みを貫くトンネルを通過する、一駅先である高原の小盆地にあるささやかな都市行きを待つ。プラットホームの延長の山の暗やみを背に、男女の学生がじゃれあっており、遠巻きにそれは見様見真似のコンテンポラリー・ダンスに通じる滑稽さに目に映る。かれはその二人のあいまいに話題が移り変わりどこまでもゆるやかに伸びていく会話を、その寄り添う足取りに想像し、駅の待合室に入っていくのをたちの悪い好奇心で見つめた。そして、いままで明らかな凪の心持であったのが行動することへの志向に微妙に波動する。かれは、毅然とした一歩を今日の終わりも近くに刻むと、待合室へ息を殺して近づく。かれは引き戸をわずかに開けて、その隙間からその先の展開を目にすることを望んだが、それは叶わなかった。腕ごと引きずられる勢いに扉が開き、かれの視界のすべては悪辣なしかし冷酷な鬼の顔だ。一瞬のうちに顔面の中央部の筋肉は死んだみたいに硬直し、鼻の穴から音叉をねじりこまれるような痛みと吐き気にかれは、駅の灯りが無数の帯をつくるのを仰ぎながら後方へ敗退していった。鼻のあるはずであるあたりの感覚が、ぽっかりと消失していることに、どろどろと液体が漏れ出ているのを両手で抑えて到着した車内に退避する。そして、結局は流れっぱなしにして乾くのを待とうと座席に、サーカスの椅子に座る猿さながらの姿勢で呆然とする、四肢、いや体のどこにも力が入らない。そして、車窓ごしに見える駅名の看板にたいして、切り離された感覚のある頭部にはやりきれない怒りがわいてくる、どうして、こんな辺鄙な駅を終点として折り返してしまうのだろうか? ......。 かれはマエヤマダの初めてみた笑みに、小学生の頃にその晩夏で最も無惨な姿に轢かれたカエルを見つけた友人のそれを思い出した。ゆすり起こされて、しばしまどろんでいると無限大の大きさをもつ暗いかたまりが脳内に現れ、それは吐き気へと変換される。かれは、意外な無邪気さでもってさらに肩をゆする手をはねのけ、体を起こしてその興奮の原因を後ろの座席に覗く。そこには、黒いレザーのコートを身にまとった一人の老人が停車の揺れによって崩れた姿勢でもって対面座席のあいだに体を半分突っ込んで倒れている。そのコートは、体格に対して見合わないものではないが、その硬直して萎んだ顔や手先の沈んだ白さからぶかぶかに大きいものと錯覚される。かれは吐き気で哀れさも、やるせなさも特にもたない無機質な視線で自分の同行者が老人からコートを脱がせようと四苦八苦するのを見つめつつ、こうして新型鉄道を最期に利用するものがいること、かれらを先駆者としてみるものたちによる世論へのカウンター、または慰めを思い出す。 「この爺さんが幸せなものを最期に見たという奴もいるだろうが、おれはそんなはずはないと思うよ、その説は魚の痛覚云々みたいに信じられない話だ」 かれは吐き気を紛らわせるためにいったが、それはすぐさま逆効果だと分かった。全くの無関心とも、所在なげともとれる澄まし顔で小さくうなずくマエヤマダの首を抱擁するコートの、襟元から肩にかけて光の波を思わせる皺の、深く暗い谷の連続していることにかれは首根っこを掴まれた気分で注目する。そして、改札を出てもまだ視界を占領する妙な肉体感をともなうレザーの光と闇の反転と、かれがさきほど自ら提出した、爺さん、最期、魚、といったモティーフとが頭の中で轟きと共にひしめき合う。かれは掘っ立て小屋と錯覚する駅の屋根を抜けて、そこに現れた無数の握り拳がぶら下がるのに似た複雑さをもつ曇天にまったく気おされてしまい、反射的にうつむいた。その拍子に、堰を切ろうとしたものが口角を濡らすが、このままでは前を行くものの頭にすっかり全てぶちまけてしまうことを桶いっぱいの水を抱える足取りで計算して、ちょうど手をおける位置にある肩をぐっとつかんで押しとばす。かれは、ついに内側のじめじめとした管以外の感触を喪失し、視界の一部はかれを俯瞰する位置に昇りかれにその惨めな前屈運動を伝える。公開処刑直前の死刑囚の意識と、囲む群衆の、興奮しているが途方もなく楽天的な意識とが、脳内で目まぐるしく入れ替わる錯乱に、また新たな固体を吐き出すにつけて涙が新鮮な切り傷からの血のように滲み出てくる。運動の途中の切れ目でかれは確かに、コートの引きずる裾が半透明の粘ついた液体にまみれて黒光りしているのを認めた。そして、すべてを終えると、どのような顔をすれば良いかかれは分からずにとりあえずの微笑みを斜め下へ投げかけた。その微笑みの根源には、ただ混乱があるだけではなくて少しの加虐欲への満足感があることを正直に打ち明けようとしたが、その企てはすぐにしなやかなわき腹への、刺付きの蛇が這うようなしつこい痛みの殴打によって脆く崩れた。かれは、唇より垂れ下がるものをうまい具合に地面に吐き出し、時間を経て澄んでいくわき腹の痛みに、限りない大地の大きさを感じた。 最後まで腰あたりの構造に執着していた黄色い肉の脂の類の破片をゆすり落とすと、そのまま内海の方へとかれをかえりみず歩いていく。特にその肩から鋭い印象のあったマエヤマダは、覆いかぶさる大きさの皮のコートによって原始的に泰然とした印象を獲得したようにかれは感じた。乾きかけてあり褪せたさらに侘しいものとなる、かれが吐しゃ物をひっかけた部分の光沢から、この砂嘴の付け根部分の南に広がる巨大な湿地帯、その細やかな陽の反射とそこを吹く風に思いが馳せられる。かれは、そのまま一面に広がる短い草がまばらに生える荒れ地と、遠くに位している蕩蕩たる内海の輝きに、先達を溶け込まして失ってしまわないように急いであとについていった。 内海のほとりの会場を遠くに見る。それはかれの想像を持て余す、難破船じみたやるせなさと矮小さといった感じだった。遠い音を聴くと、催しは終わりに向かってその余韻をなすところの真っ最中ということが知られた。二人を反発させてよせつけまいとする、風に乱れた音がほとばしり、かれらは吹雪に耐え合うような視線を交わす。 「あんなの、ロックン・ロールじゃない」 不意に寄りかかられ、ため息をつきたかったが居残る吐き気のために結局は何もでない試行を、かれはなおさら中止せざるをえない。 「そんなことを言うな。みんながんばっているんだよ」......
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