マダーメモリア 白い黒猫 ──に手を伸ばした。その影はやがて緩やかな弧を描き、一つに溶け合う。 「......あなたとなら、死んでもいいわ」 暗闇の中に赤い花が咲いた。 * 彼女についての話をしようと思うと、高校二年生の初夏まで遡る必要がある。 わが家に長い間奉仕してくれていたキヨさんが、先日入院した。ちょうど、次の誕生日祝いの品を考えていた時だった。キヨさんの正確な年はわからないが、聞く話によれば、キヨさんは父の誕生にも立ち会ったらしい。私のことを実の孫のようにかわいがってくれた人だった。 キヨさんが家を離れてから、屋敷の雑務は外部委託のような形となり、毎日入れ替わりで人が来ることになった。耳をつく、やたらと大きく響く足音。必要なピースが欠けているような、何とも言えない寂しさが募っていく。しかし、キヨさんも抜かりない。 二週間ほどが経ち、日に日に高くなる湿度に滅入っていたころ、ちらりとわが家の門を通る影が見えた。ちょうど前のお手伝いさんが帰った後だったため、私が向かう。流れで扉に手をかけようとしたが、安易に開けるべきではないと思いとどまった。そして──扉の向こうにかすかな気配。ひとまず呼びかけてみることにする。 「どなたでしょうか」 警戒心を隠し切れず、反射的に棘のある声が出てしまった。 「......はい」 芯がありながら、穏やかさや落ち着きも感じられるような声。問いかけの答えになっていない、たった二文字の言葉に、私はどこか懐かしささえ感じた。ふと気づいた時には、扉の鍵に指が触れている。今度は、ためらわなかった。 ふわり、と風に肌を撫でられる。いつもは鬱陶しいほど重いそれは、彼女のそばでは湿り気を失ったようだった。 「失礼します。本日よりお世話になります」 ヴィクトリアンメイドに身を包み、肩上で切りそろえた黒髪をさらさらと揺らす女性。彼女は穏やかな笑みを浮かべながら、一通りの挨拶と事情説明をした。 聞けば彼女は、キヨさんの養子に当たるらしい。と言っても、正式な養子になったのはほんの数年前で、つい先日までイギリスにいたとのこと。キヨさんが彼女を呼んだということは、言われるまでもなく分かった。 「──つきまして、あなた様は何とお呼びすればよろしいでしょう」 少しだけ悩む。私は自分の名前があまり好きではない。とはいえ、おそらくこれから長い付き合いになるだろう。そう自分に言い聞かせ、渋々口を開いた。 「......アオイ」 「はい、ではアオイ様と。これで皆様へのご挨拶は済みましたので、さっそく業務に入らせていただきます」 私以外にはもう話が通っていたらしい。そういえば門の鍵を開けられていたな、と今更ながらに思い出した。彼女が確かな足取りで今まで使われていなかった部屋に入る姿を見て、荷物も既に送られてきているのだと分かった。そして、自分の鈍さに少しだけうんざりした。......そういえば、彼女の名前をまだ聞いていなかった。──はぁ。 彼女が来てからの日々は、かなり新鮮なものだった。業務内容について、今までのお手伝いさんには最低限のことしか話していなかったが、彼女に対してはそうはいかない。洗濯や料理、清掃の細かなルールや、キヨさんがどのようにしていたかなどを空いた時間に一つ一つ教えていく。私も日中は学校に行くが、両親はほとんどの間家を空けているため、彼女の指導は必然的に私の仕事になった。 あまり細かいことまで言うことはできなかったが、彼女はすぐに家の規則に馴染んでいった。そして、環境の変化というものは、時の流れを早くするということを痛感する。気づけば梅雨はあっという間に明け、肌に纏わり付くような厳しい暑さが訪れた。 そのころになると、彼女は少し変わった一面を見せるようになった。 「時に、アオイ様」 「なに?」 「スフィンクスのモデルとなっている動物をご存じですか」 「いきなり何を」と言っても、彼女はただ笑みを浮かべるだけ。彼女は、私が暇そうにしているといつもこんな突拍子もない話を振ってくるのだ。 「あれはペルシャ猫がモチーフなんですよ」 へー。今日も新しいことを知れた。あ、そういえば。 「ところで、あなたをなんと呼べばいい?」 一瞬、普段の笑みが崩れる。しかし、彼女は数秒視線を宙に泳がせた後、何事もなかったかのように穏やかな笑みを浮かべた。 「では、アカネとお呼びください」 アカネ。言葉を舌の上で転がすと、無意識のうちに言葉が出ていた。 「アオイとアカネ、か」 私が言い切るやいなや、アカネは「失礼します」と踵を返してそそくさと歩いて行ってしまった。少し彼女らしくないとも思ったが、足止めしすぎたのだろう。特に気には留めなかった。 それからしばらくの間、アカネは同じように私に雑学を流し込んできた。 「モアイ像の"モアイ"は現地の言葉でそのまま"像"という意味があるそうですよ。つまり像の像ですね」 「世界最初の民族衣装は南米の高山帯で生み出されましたが、その柄はのちに矢絣のもとになったといわれているんです」 「エベレストを最初に登頂したのは日本人で、有名な登山用品メーカーのロゴにもされています」 「"二番煎じ"とはもともとはイギリスの慣用表現で、あちらでは主に紅茶の茶葉を指していたそうです。それが日本に入ってくる際に煎じ茶と結びつけられたんですね」 日を追うごとにアカネの雑学が脳内に積み重なっていく。初めはただのきまぐれかと思っていたが、毎日ほぼ同じ時間に切り出されることに気づいてからは、何らかの意図があるのではないかと疑うようになった。──それはそれとして、スフィンクスやモアイ像なんかの言葉を耳にするたびにアカネの声が脳内に流れ始めるのは、何か......その、良くないのではないだろうか。何が良くないのか、何故良くないのか。そんなことは全く分からなかったけれど。そのような漠然とした感覚を抱えたままでいることは、想像していたよりもずっともどかしかった。 数日ほどが経ったある日の夕方、エアコンのフィルターを取り換えたアカネが控えめな咳をした。近くの椅子で本を読んでいた私は、反射的に顔を上げる。 「大丈夫?」 「......大丈夫、です。ご心配を、おかけして、申し訳ございません」 アカネは、取り繕ってはいるが明らかに普段よりも掠れた声で答えた。少し埃を吸っただけ、という考えも一瞬脳裏に浮かんだが、アカネが対策を怠るようには思えない。現に、別の部屋で作業をしていた際はマスクを着けていた。──と、なれば。 「風邪かもしれない。一度休養をとったら」 アカネは何か言葉を重ねようとするが、口を手で抑えて咳を一つ。改めて見ると、顔色も少し悪いように思える。 「少し、考えます」 そう短く言い切ると、アカネは手早く清掃道具を片付けて部屋を出ていった。 翌朝、アカネが別荘の管理という名目で休養を取ることになったと父からメールで伝えられた。また、代わりに家事手伝いの人が通いで来ることになったとも。キヨさんの後にあった期間と同じだと思うと、不安はない。しかし、どこかに穴が開いているような、そんな──懐かしい──感覚が襲ってきた。 帰宅。荷物と課題を片付け、一息つく。紅茶でも淹れてもらおうかと考えたが、朝のメールが脳裏へと浮かんでくる。今日は、自分で用意することにした。まずは電気ケトルに水を注ぎ、スイッチを押してから食器類を取り出しにいく。一通りそろったのを確認した後、食器棚の二つ隣の小棚にかかっている、薄いレースカーテンをめくる。わずかに頬が緩むのを認識しながら、いくつかの小さな缶の中からひときわ輝く黒地に金のワンポイントが入ったものを取り出した。小袋の封を切り、経年劣化が見える白磁のティーポットに二振り。残りはシールで封をしてから丁寧にしまう。名残惜しさを感じつつ、簡素な丸椅子から茜色の空を眺めた。ずいぶん日が長くなったことを想いながら、ぼんやりと時間を過ごす。やがて体内時計に従って立ち上がり、ケトルが音を立てるのと同時に持ち上げた。小さく「の」の字を書くように、ゆっくりと注ぐ。三割ほどを満たしてから中を覗き込むと、うっすらとではあるが、茶葉が踊るようにふわふわと上下しているのが見えた。舞い上がる柔らかな香りが鼻腔をくすぐる。もう二割ほどを注ぎ、ケトルを置いた。緩く目を瞑り、ゆっくりと香りを吸い込む。ティーカップを手に取り、六割ほどを飴色で満たした。 今日はもう、ここで飲んでしまおう。 頼りない丸椅子に腰かけ、代わり映えのしない景色に目を流す。記憶の中よりもずいぶん小さくなった空は、それでもなおすべてを受け止めてくれるように錯覚させてくれた。ティーカップを持ち上げ、舌先で触れるようにして熱さを確かめる。ひとつ、ふたつと息を吹きかける様子は、過去の自分の姿と重なり合った。 ゆらり、ゆらり。薄く細く立ち上る湯気は、何も考えずに眺めているのにちょうど良い。何も考えていない自分が許容されるこの空間が、私は好きだ。この空間において私は自分の価値を証明する必要などなく、ただ真新しい丸椅子で足をぶらぶらとさせて待っていればいい。そう教えてくれた人は、黒地に高級感のある金色の模様が入った缶を片手にゆっくりと歩いてきた。 「お疲れでしょうから、今日はこちらにしましょうねぇ」 その人は、時折両親の目を盗んで私をここに連れてきてくれる。そして、秘蔵の紅茶を振る舞ってくれるのだ。 「あとどれくらい?」 「もう少しです」 のんびりとした声とは裏腹に、無駄のない手つきで茶葉を扱う。ぼんやりと景色を眺めていると、周りがいつもの香りに満たされていくのを感じた。 「はい、出来上がりましたよ」 流しのすぐ横のちょっとした台の上に、コースターもなく置かれるティーカップ。飾り気のないその姿が、私をひどく安心させてくれた。 「熱っ」 反射で手を引き、指にふうふうと息を吹きかける。後ろを見れば、その人はちょうど自分の分を注いでいるようで、私の反応に気づいていない。普段なら文句の一つでも言いたくなるだろうが、今の私には、冷めるまで待つのもやぶさかではないと思えるだけの余裕があった。 意味もなくその人に話しかけ、時折紅茶に舌で触れる。そうして冷めていく液体に反比例するように、私の心は温もりで溶けていくのだった。 アカネが屋敷を離れてから三日が経ったある日、私は特に目的もなく屋敷を歩き回っていた。そして、思いがけずアカネの部屋の扉がわずかに開けられていることに気づいた。近くをあわただしく歩き回るお手伝いさんに聞くと、どうやら部屋の整理もかねて荷物の一部を別荘の方に移すことになったらしい。──ふと、良くない考えが浮かんだ。それと同時に、「好奇心は猫を......」とも。扉の付近を三周ほどくるくると歩き回っているうちに、もう一つの言葉を思い出した。「A cat has nine lives」、「猫に九生あり」。私は、一度生まれ変わることにした。 お手伝いさんをキッチンに誘導し、今更ながら罪悪感に浸る。しかし時間は有限で、そんなことを気にしている場合ではない。周囲に聞き耳を立ててから慎重に扉を開けると、簡素ながらもきれいに整えられた空間が眼前に姿を現した。向かって右側には二人用のソファーと木製のローテーブルがあり、奥には作業机と椅子のセット。左側にはベッドとクローゼットが控えめに存在を主張している。足音を殺しながら周囲を見回すと、整いすぎているがゆえにほとんど生活感が感じられない部屋の中で、一か所だけ目を引くものがあった。それは、作業机の上に置かれている小さな白地の手帳である。シンプルなデザインながら隅にちょこんと描かれている赤い花柄が、人間味のようなものを訴えかけてくるように感じた。 少々の逡巡の後、表紙に手を置く。タチの悪い悪魔にまんまと唆された私は、ゆっくりと表紙をめくった。目に入るのは、一ページ目に小さく書かれた「茜」の文字。もはや、罪悪感はあまり機能しなくなっていた。 ページを進めていくと、これはアカネが屋敷に来てからの日記のようなものだということがわかる。しかし、それにしては少し変わった点があった。日付の後にほぼ毎日二行ほどの記述があるのだが、四日に一回ほど詩のようなものが書かれているのだ。それだけではなく、日付にしばしば×印がつけられている。これらの意味を考えようとしたが、遠くから聞こえてくる足音に妨げられた。潮時のようだ。 その後お手伝いさんを口先で丸め込むことには成功したが、手帳の内容のもっともらしい意味を推測することはできなかった。常に纏わりついてくるもやもやとした感覚に辟易させられていると、あっという間にアカネが復帰することが知らされた。 すっかり以前と変わらない様子で現れたアカネは、「ご迷惑をおかけしました」と一通りの謝辞を述べたが、今の私はそれどころではなかった。しかし、意外なことに形式的なやりとりが終わるや否や口を開いたのはアカネのほうだった。 「さて。......どう思われましたか」 もう自分が勝手に手帳を読んだことは知られているんだと、すぐに察しがついた。とりあえず謝ろうと思った瞬間、アカネのほうが先に口を開いた。 「では、ここでひとつ問題を出したいと思います」 こちらが口をはさむ間もなく続けてくる。突拍子もなく話題を変えるのはいつものことだが、今回は少し異質さを感じる。アカネの瞳に何か強い意志のようなものが宿っているのを、私は直感した。 「映画館を思い浮かべてください。そこではしばしば、映画を最後まで見ることなく退場するお客様が現れます。このことに対する対処法は何でしょうか」 アカネの目は私にまっすぐ向いたまま揺れ動かない。目をそらしてはいけない、そんな思いが湧き上がってきた。思いついたままに口を開く。 「エンドロールが流れ終わるまで劇場を閉め切る、とか」 私が言い終わると、アカネはふっと表情を緩め、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。 「そうですね、そちらも正しい答えです。......ですが、もっと簡単な方法があります」 アカネはふいに、どこか遠くに目をやる。一呼吸おいてから、ゆっくりと口を開いた。 「それは、──」 この後に何か言ったはずだが、よく覚えていない。二、三会話が続いたと思う。一つだけ確かなことは、アカネの自室に連れてこられたことだけだ。 「どうぞ、そちらのソファーにおかけください。──さて、そろそろこちらについてお話ししましょうか」 そう言うと、アカネは机上の手帳を手に取った。 「結論から申し上げますと、これは未来についての日記です」 予想外の回答に思わず「え?」と声が漏れる。 「アカネは未来予知ができるの?」 ふふ、とアカネは頬をほころばせた。 「さあ、どうでしょうか」 いたずらっぽく囁いたアカネは、するりとほとんど重心を動かさずに私の隣に腰を下ろした。突然肩が触れそうな距離に入られ、心臓が軽く跳ね上がる。ほのかに花の香りが鼻をついた。こちらの気を知ってか知らずか、まったく変わらない態度でアカネは続ける。 「この日記には、未来に行いたいことや起こってほしいと思ったことを書き記すんです」 自分の気を紛らわせるため、反射的に言葉が出てくる。 「時々詩のような言葉遣いなのはなぜ?」 アカネは手帳から顔を上げ、ぼんやりと視線を泳がせながら答えた。 「曖昧にしておいた方が、後からあれこれ当てはめられるからですよ」 そういうものなのか、と今は納得しておくことにする。どうも今は、うまく頭が回らない。引っかかっていたことだけを何とか絞り出す。 「じゃあ、あのバツ印は」 「......別の日に、先伸ばしにする内容ですね」 達成できなかった日ではなく、先延ばしにする日という表現を使っていることに表現し難い良さを感じる。しかし、その感覚に浸る暇はなかった。 「ところでですが、アオイ様もこちらを書かれる気はございませんか」 え、と声が漏れる。突拍子もないことを言われたことに対してではなく、自分の心を見透かされたことに対して。自分で自分の未来を思い描くというのは、今の私にはとても甘美な響きだった。 「お見せいただければお手伝いできるかもしれませんし」 思わず首を縦に振りかけるが、それはつまり私だけが一方的に日記を検められるということではないか。書くこと自体はやぶさかでもないが、心の柔らかいところを差し出すような覚悟は、すぐにはできそうになかった。 「......考えておく」 それきり口を閉ざした私を見て、アカネはどこか安心した様子で「かしこまりました」と言う。どうも引っかかる態度が多いように感じる一方で、自分が無意識のうちに緊張していたのだろうということに思い至った。意識した途端、どっと疲労の波が押し寄せてくる。それに合わせて、小さなため息がこぼれた。 「どうかなさいましたか?」 「いや、」 なんでもない。そう続けようとしていた口は、数秒間だけ私の制御下から抜け出す。 「......怒られるかと思ってたから、意外で」 言わない方がよかったのでは、そう思ってももう遅い。目を伏せ、飛んでくるであろう言葉におびえる。──しかし、現実は思っていた通りにはならなかった。 ふわり、髪に優しく触れられる感覚。 「怒りなんてしませんよ」 胸の奥をきゅっとつかまれる。息ができなくなり、声が出ない。けれど、とても心地よい。 「そんな素直な、」 一つの白に合わさっていくようなそれは、やがて、空洞を満たしていった。 「 」 これ以上はきっと、戻れなくなる。 ゆっくり、ゆっくりと顔を上げた。そして、少し驚いた顔のアカネと目が合う。遅れて、私の目尻が微かに熱を帯びていることに気づいた。 また、アカネは私が知らなかったものを教えてくれたらしい。 明くる日、まったく身が入らない授業達を片付け、足早に雑貨店へと向かう。日差しに焼かれることも厭わずひたすら大通りを早歩きで進む私は、はたから見れば何かに取りつかれた人のように見えただろう。しかしその甲斐あって、じんわりと汗が滲むころには冷房が効いた店内に滑り込むことができた。直感で手に取った手帳は、アカネのものとよく似た意匠で、思わず笑みがこぼれてしまう。青い花柄を眺めていると、自分の名前が少しだけ好きになれたような気がした。 この季節の数少ない利点は日が長いことだと改めて思わされる時間帯。鞄を床に放り、手帳と筆箱だけを引っ張り出す。せかせかと机に向かい、手帳を開いてから、はたと手を止めた。きっと私は、油断すると「今日は何も変わらない一日だった。」などといずれ書き始めてしまうだろう。そう思ったのだ。──きっとそれでは、何も変わってはくれない。ひとまず、やるべきことを先に済ませることにした。 夕食、入浴、課題に予習、その他諸々の一通りのタスクを片付け、再び手帳と向き合う。ひとまず紅茶でも淹れるかと考え立ち上がった時、天啓のようなものが降りてきた。椅子にすとんと腰を落ち着け、ゆっくりと筆を執る。 ・アカネに紅茶を淹れてもらう 一行にも満たない、ただの思い付きのメモ。にもかかわらず、胸の奥がほのかに暖かくなったように感じるのはどうしてだろうか。きっと、まだ答えは出さなくてもいい。そんな気がした。 それ以降、私は手帳をメモ帳のようにして未来の日記を綴っていった。 ・駅前のパン屋の塩パンをアカネにも食べてもらう。私のは普通で、アカネのはクルミ入り ・きっとコーヒーの気分。でも夜には飲めないからアカネにコーヒー牛乳にされる ・こっそり掃除機のフィルターをきれいにしておく。すぐバレるかも いつしか、手帳は私の生活の一部になっていた。そして、アカネと二人だけの世界を想うことは、とても心地よかった。 日記のページは瞬く間に埋まっていき、蝉時雨とともに微かに八月の匂いを感じさせる。つまりそれは、明日から夏休みが始まることを意味していた。もちろん高揚感がないと言えば嘘になるが、今の私にはもっと重要な悩みがある。 ・アカネと夜空をみる ただ一言、声をかければいい。いつも何かを頼むときのように、自然に。......どうやら、それがひどく遠いことには名前が付けられているらしい。 でも。 今日だけは、先延ばしにしてはいけない気がした。決意を固め、アカネの部屋の前に行く。胸を押さえ、一度深呼吸。軽く手を握った後、三回のノック音を響かせた。 「......いない、か」 全身から力が抜け、その場に座り込みそうになる。 「アオイ様」 「っ?」 背後からの不意打ちに、大きく肩を震わせた。煩い心臓を無理やり意識から引きはがし、振り返る。そこには、いたずらな笑みを浮かべたアカネが立っていた。左手には、あの手帳が収まっている。 「今、お時間を頂いてもよろしいですか」 気が付くと、うまく頭が回らないままに首を縦に振っていた。 「あの、どこに連れていかれるの」 「すぐにわかりますよ」 あれから何の説明もなしに、アカネは私を連れまわしている。 「こちらです。お足元にお気を付けください」 目の前に映っているのは、庭へと続く裏口の扉だった。ようやく状況を飲み込み、思わず頬が緩む。やっぱり、アカネにはかなわない。軽い音を立てて開いた扉の先には、薄く光の差し込む暗闇が広がっていた。その深くどこまでも伸びる黒は、不思議と私たちにぴったりだと感じる。闇夜の白色を、しばらく追いかけた。 「アオイ様、」 「待って」 雲一つない空の下、私から言葉を遮る。 「今だけは、ただの『アオイとアカネ』じゃだめ?」 アカネの表情はよく見えないが、きっといつもの、優しい笑みを浮かべているだろう。 「ええ」 わかりました、と言いかけ訂正するその仕草は、とても新鮮で、愛しかった。これからもずっと、甘く美しい未来を見ていたい。たとえ、叶わない願いだとしても。 「月が綺麗だね」 二人は夜空の輝きに手を伸ばした。その影はやがて緩やかな弧を描き、一つに溶け合う。 「......あなたとなら、死んでもいいわ」 暗闇の中に赤い花が咲いた。 * 一つ、思い出したことがある。それは、いつか彼女が私に返した答え。 「──ラストシーンを最初に流してしまうことです」 結局今でも、私は彼女の掌の上ということらしい。
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