熊猫怪奇録~死を招く亡霊と消えた河童~ 灰汁太川猫也 BOX棟の最上階の、更にその右奥の最果て。物置と化した部屋の更にその奥に、小さな部室があった。少し埃っぽい畳が配置された部室の中の机の前に、小生は悠々と鎮座していた。その横で古本の棚を物色するK君が、小生に質問した。 「猫也(びょうや)君、私立探偵を名乗り始めたって、本当?」 小生は得意顔で答えた。 「あぁ、そうだよ。作家にとって必要なのは、実際の経験だからね。取材者がわざわざこちらに赴いてくれる私立探偵は、まさにうってつけの仕事である訳だ。」 K君は明朗に相槌を打った。 「へぇ!新しいことに打ち込むその姿勢、いいね!」 小生はK君の方を見て呼びかけた。 「そうだろう、君も助手として働いてみるかい?」 K君は笑顔を崩さずに、小生の戯言をシカトして聞いた。 「依頼人はもう来ているのかい?」 小生は気を取り直し、立ち上がって告げた。 「あぁ。ありがたいことに、本日来て頂く手筈になっているよ。」 すると外から、静かな足音が聞こえてきた。その後間も無く部室の扉が開き、一人の美しい女性が入ってきた。小生は一瞥して、仰々しく告げた。 「ようこそ、文芸部・熊猫探偵社へ。ご予約のS女史ですね?ご依頼内容を、お伺いいたします。」 「私には、高校からの親友のYちゃんがいました。」 S女史はその言葉を皮切りに、事情を説明し始めた。 「Yちゃん、ここの大学ではなくて、他の大学に通っていたんですけど、ここの大学に通うN君と、遠距離交際していたんですよ。でも......。」 S女史が物憂げに言葉を吐く。彼女の薄紅色の口唇の口角は、下がってしまっていた。 「探偵さん、ここBOX棟で身投げが起こったことは、覚えておいでですか?」 問われた小生は顎に手を当て、思い出し思い出して答えた。 「えぇ、そういえば、一月前でしたか、えらい騒動になっていましたね。何でも一週間程、一帯が使用禁止になって、大変でした。」 K君も事情を思い出して言った。 「うら若い女性が自殺したとかで、何だか悲しかったです。でも事件性は無かったようで、数日すれば警察も帰っていたように覚えています。」 その直後S女史の口から、衝撃の事実が明かされた。 彼女は長い黒髪を弄りながら、寂しげにこう言った。 「その時自殺した女性が、Yちゃんなんです。」 一瞬、部室に静寂が流れる。小生は最初に口を開いた。 「それは......。ご愁傷様でした。何と言うべきか......。」 どもる小生を遮って、S女史は再び続けた。 「私、何で彼女が自殺に疾走ったのか、わからなくて......そんなに思い詰めていたなら、何で私に話してくれなかったんだろう......?」 S女史の瞳から一筋の涙が零れ、蛍光灯の光を反射した。深紅のネイルに彩られた彼女の嫋やかな手が、その涙を拭った。小生は手近にあった中折れ帽を深く被り、彼女の手を取って向かい合った。 「顔を上げて下さい。美しい御顔が台無しですよ。貴女のような愛らしい方に、悔恨の涙など似合いません。」 S女史は涙に腫れた眼で、小生の手を握りしめて懇願した。 「後生です!どうか、Yちゃんの自殺の動機を突き止めて下さい?」 小生は大きく息を吸って断言した。 「承りました。真実を明らかにして、必ずや貴女の御顔に笑顔を取り戻してみせましょう!」 会釈して帰ってゆくS女史を見送った小生は、振り返ってK君に告げた。 「では、K助手。君に、最初の任務を与えよう。小生と手分けして、Y女史の身辺を探るぞ。」 突如として激務を課されたK君は、驚愕して小生を凝視した。 「僕はまだ、君の助手になんぞなってはいないよ?」 「そうか。では、これから君は名探偵・灰汁太川 猫也(あくたがわ びょうや)の右腕だ。頼りにしているよ。」「いや、ちょっと!」 小生はK君の方に一切振り返らず、飄々として部室を後にした。 数日後。 小生は調査内容を記した手帳を傍らに置き、部室の畳に寝転がっていた。暫くすると喧騒の後、勢い良く部室の扉が開かれた。そこにはいくつもの資料を抱えたK君が立っていた。 「やぁやぁ、ご協力助かるよ。」 ?気な口調で感謝する小生に、いつもは温厚なK君も渋い顔で睨んだ。 「まさか僕が巻き込まれるとはね......。」 小生は聞こえないふりをして、平然と質問した。 「Y女史の事情について、何かわかったかい?」 K君は抱えた資料を机に置いた。「ドサッ」という音とともに置かれた書類が崩れ、K君が答えた。 「彼女の知り合いに聞き込んでわかったんだけど、自殺したYさんという女性、中々粘着質な人だったみたいだね。交際していたN君のことを束縛して、それがきっかけで随分揉めていたみたいだ。いわゆる地雷系......?というやつだろうか」 小生は指を弾いてK君を賞賛した。 「グレイトだよ、K君!やはり君の情報収集・処理能力はとても秀逸だ、頼んだ甲斐があったよ。」 K君は珍しく不機嫌そうに返した。 「褒めそやされるのはありがたいけど、これは君が引き受けた仕事だよね。僕が調べている間、君はどうしていたんだい?」 すると突如、部室の扉がノックされた。小生が「どうぞ」と返すと、扉の隙間から、小学生程の年の少年が顔を恐る恐る覗かせていた。小生はゆっくりと立ち上がり、先程のK君の問いに答えた。 「何をしていたのか......と言ったね?答えよう。小生は、目撃者から情報を集めていたのだよ。どうやら事件当日、奇妙なものが出現していたみたいだ。」 その後小生達は部室から出て、事件の起こったBOX棟真横の草叢の前まで来ていた。 「いや、しかし、これ以上何を調べるというんだい?」 困り顔のK君が問う。小生はそれにも構わず、先を行く少年に質問した。 「時に少年、君は事件当日の夜、何を目撃したんだい?」 少年は怯えた声でしどろもどろに語り始めた。 「ぼ、僕は......塾の帰りにここの横を通って帰っていたんだ......地面が暗くて、足元をずっと見ながら歩いていたら......そしたら、コンクリートの地面が、朱く染まっていることに気付いて、思わず驚いてその場で尻もちをついた!......その時突然、奥の草叢から何かが草を?き分けて進む音が聞こえて、思わずその方を見たら......それはいたんだ、草叢の奥に佇む、黒光りした河童が?河童は僕の方を見ると、一目散に池に飛び込んで逃げた......きっと河童は、女の人を殺したんだ?」 震えながら池を指差す少年を、見かねたK君が背中をなでて落ち着かせていた。小生は話を聞き終えると、腕を組んで少年に謝した。 「少年、ありがとう。君が勇気を出して語ったこの事実が、きっと真実を明らかにするだろう。」 帰路につく少年を見送った小生とK君は、少年が指差した池や事件現場の辺りを再三見直していた。やや暗い表情のK君に、小生は話しかけた。 「先程証言してくれたあの少年は、遺体の第一発見者だったらしい。だが、河童の話は錯乱した少年の幻覚として片付けられたみたいだ。」 それに対し、優しきK君の表情は暗いままだった。 「でも、残念だけど、やっぱりあの少年の言葉だけじゃあ、本当に自殺が起こったとしか考えられないよ。」 「本当にそうかい?」 小生は俯きがちに草叢を歩くK君に問うた。K君は顔を上げてこちらを見た。小生はBOX棟を見上げて語り始めた。 「奇妙な点は少年の話だけじゃない。まず、Y女史が飛び降りたとされるBOX棟屋上を見給え。」 言われて見上げたK君の目線の先には、3階建てのBOX棟があった。奇妙な部屋配置となっているこの建物は、一部の場所だけ2階建てになっている。Y女史が飛び降りたとされているのは2階建ての屋上で、その横にはコンクリート・草叢・電灯・そして少年が指差した池が広がっている。小生は話を続けた。 「夏目漱石の『坊っちゃん』の冒頭、主人公は幼少期に2階建ての建物から飛び降りて怪我をしている。しかしこれは裏を返せば、『子どもでも2階建ての場所から飛び降りるくらいなら死にはしない』ということだ。つまり、本当に自殺したい人間なら、より致死率の高い高層ビルから飛び降りるということだ。」 小生の主張を咀嚼しているK君を尻目に、小生はなおも語る。 「違和感はまだある。......時にK君、君には物理演算の心得があると聞いているが、Y女史が飛び降りた場所から、物体を一般的な女性の走る速度で水平投射したら、物体は何m先に着地する?」 K君は即答した。 「16m先だね。」 小生はK君の頭脳に驚きながらも話し続けた。 「その通り。しかし遺体を目撃した先程の少年によると、遺体はBOX棟から25mも離れた電灯の前にあったらしい。尤も、少年が地面の朱さに気付けたのもその電灯のおかげらしいしね。」 思考しているK君が思わずつぶやいた。 「それは可笑しいね。ウサイン・ボルトの脚力でも、25m先になんか着地できない。」 小生は同感して言った。 「そうだね。ましてやY女史は調べたところ万年文化部、25m先への着地なんてとだい無茶だ。これは謂わば、エクストリィム自殺というやつだ。」 話しているうちに、草叢からコンクリートの路面の場所まで戻ってきた小生とK君は、Y女史が倒れていたとされる電灯の近くを観察した。すると小生は、電灯に照らされたコンクリートの路面に、怪しく光る箇所を見つけた。 「おい、K君、これは何だろうか?」 その箇所に顔を寄せた小生は、捜査により疲弊したK君に叫んだ。小生が見つめた箇所には、コンクリートの凹凸に入り込んだ朱い汚れを見つけた。小生に言われてその箇所を観察したK君が、首をかしげて言った。 「......何だろうね、これ。電灯の光を反射していることを踏まえると、血やスプレーなんかじゃなさそうだ。」 小生は記憶を整理しながら単語をつぶやき、奇怪な笑みを浮かべた。 「ルージュ......ラメ......。どうやらこれは、ただの気の狂った少女の自殺事件なんていうチャチなものじゃあ断じて無い。この事件、非常に興味があるね。」 「歯がゆいな......この事件の真実の究明には、まだピースが足りない気がする」 冴えない顔をした小生は、再三BOX棟横の事件現場に佇んで俯瞰していた。この時、河童を見た少年に話を聞き、現場の違和感に気付いてから、一週間が過ぎようとしていた。世間は数日後に来る連休に向かって責務に汗を流す中、小生は堂々巡りの思考から抜け出せないでいた。一日の終わりを告げる橙赤色の夕陽が、小生を精神的に焦燥へと追い詰める。 その瞬間、小生は背後から緊張感を含んだ視線を感じた。 「あの、もし......あなた、ここ最近ずっとここに立ってはここらの景色を眺めていますが、何をしているのですか。」 背後から視線の主に声をかけられた小生は振り返った。声の主は散歩中の老翁だった。右手にはリードが握られ、その先には愛くるしい柴犬が尻尾を振って待機している。小生は疲弊の滲む声で返答した。 「はは、いや失礼。怪しい者ではありません、都合あって先日起きた事件を調べている者です。」 突如、小生の言葉に老翁が目を見開いた。驚きの滲んだ声で、老翁が問う。 「?......事件って、ここで女性が飛び降りたという、あの事件ですか?」 小生は目を細めて、老翁に聞き返した。 「えぇ、そうですが......貴方、何かご存知ですか。」 刹那、老翁はBOX棟の屋上を指差し、自身が相まみえることとなった奇怪な体験を口走った。 「......実は私、事件の数日前に、見たんですよ。......あの屋上に佇む、男の亡霊を。」 夕陽が沈み、その場にあった2人と1匹の影が暗がりに溶け消える。小生は広がり始めた暗がりの中に眼光を向け、老翁に問うた。 「......その話、詳しくお聞きしても?」 老翁は恐る恐る語り始めた。 「ある満月の日の夜、私は今日のように犬の散歩をしていました。その日は満月と言っても曇天で、私は懐中電灯を片手に事件が起きたあの建物の横を通っていました。......するとその時、偶然雲が晴れて、月の光で建物の影がくっきりと形取られました。そこには建物の影だけでなく......その上に佇む、男の影があったのです?それに驚いた私が振り返ると、男は奥へと逃げ去っていきました......。その数日後にあの事件が起こったもんですので、私はもう恐ろしくて......。こんなことを言っても信じてもらえないのかもしれませんが、ひょっとしたらあれは死に神だったのかもしれません。......」 小生は老翁の話を聞いて、『タキシィドマン』なる西洋の死に神伝承を思い出していた。その他に事件についても考えを巡らせていた小生は、老翁の「あの、私は大丈夫なんでしょうか?死んだりなんか......しませんよね?」と叫ぶ老翁の声で我に返った。どうやら彼は己の恐ろしい経験に困惑して、随分苦しんでいるらしい。小生は少し考えてから、老翁に返答した。 「貴重な情報提供に感謝します。しかし残念ながら、今は貴方の言う不安を完全に打ち消すことはできません。......しかし真実が完全に明かされ、死に神の非存在証明が終われば、それも可能になるでしょう。そしてその際必要になるのが、貴方の証言なのです。」 「......と、言うわけだ、K君。喜び給え、新たな情報が増えたぞ!しかもこの情報は実に興味深い?河童と亡霊なんか、滅多に聞ける話じゃないぞ?」 小生は電話器越しにK君に叫んだ。先程老翁から聞いた話を嬉々として告げる小生に、K君はため息で返した。 「......猫也君、僕らが調べているのは現実での事件だ。オカルト雑誌の三文記事なんかじゃあ断じて無いぞ。河童だの亡霊だのと、これじゃあまるで真実は判りやしない。」 小生はK君を少しからかうように返した。 「今、『僕らの』と言ったね?集団意識を持ってくれるとは、ありがたいことだ」 小生の冗談をK君が??責した。 「ふざけてる場合じゃないぞ。この事件、ほんとに何が何だか判らなくなってきたな......。」 小生は困り声のK君に、ほくそ笑んで返した。 「......そうかい?小生は何だか、少しずつ事件の全容が判ってきた気がするよ。尤も、感覚的にだけどね。」 「何だって?じゃあ事件の夜、一体何が起きていたっていうんだい......?」 K君の純粋な探求心からくる質問に、具体的な返答ができそうになかった小生は、苦笑いで返した。 「いや、それはこれから......」 その時、BOX棟入口に立っていた小生の横を、渋い顔をした集団が横切った。不可思議に感じた小生は、K君との会話もよそに集団の一人に声をかけた。 「もし......。そこな皆さん、顔をしかめておりますが、何か困りごとがあったのですか?」 小生の問いに、その中の一人が気さくに答えた。余所者からの唐突な質問にも拘らず答えてくれたのはありがたかった。 「いや、それがですね、我々は書道部なんですが......BOX棟の外で干していた巨大な筆が、先月から紛失しているんですよ。参ったな......今度の発表に必要なのに。」 その時、小生の脳内で共鳴が起きた。連鎖的に起きる怪奇の、必然的な関連。小生は蜘蛛の糸を手繰り寄せるように、再び質問した。 「......その話、詳しく聞いても?」 書道部員は愚痴も混ぜつつ軽快に語り続けた。 「いいですよ。まず最初に我々は先月、練習で使った巨大筆を洗い、BOX棟横、丁度草叢がある辺りに並べて干していました。児童の身長程の大きさなので、部室では干せないのでね。するとその晩、話題になった、女性の自殺事件が起きたんですよ。そんで警察が帰るまで暫く筆も放置していました。あの時は困りましたよ、練習道具が使えなかったんでね。でもその後がさらに酷かった。警察が帰った後、干していた筆が消えてしまっていたんですよ。警察に掛け合っても、『そんな物は証拠品の中にない』の一点張りで。......それで結局、筆も返ってこないので、新しいのを経費で買いに行く相談を今していたところでした。まぁ、あの筆は壊れかけで、筆の頭が取れかけていたので、そろそろ買い替える予定ではあったんですけどね。」 刹那。 小生の脳裏の共鳴は、閃光とともに確信へと変わった。小生は話してくれた書道部員への感謝もそこそこに、電話口の先にいるK君に告げた。 「......K君。下手人が知れた。興醒めしないうちに、真相開示といこうか。」 数日後。 O府某所にある国際空港では、連休を利用して旅に出る客の集団でごった返していた。その一方で、天井に配置された布製の旅客機のオブジェは、空港内の空調に吹かれて悠々と静かに動いていた。 そんな中、空港の中を2人の男女が歩いていた。男は体調が悪いのか、痛みに腹を抑え歩くのもやっとである。見かねた女は男の肩に手を回し、不承不承男を支えていた。男は痛みに脂汗を流しながらつぶやいた。 「......くそっ!こんなに体調が悪くなるなら、あんなドブ池なんかに飛び込むんじゃなかった!......それも、お前が凶器の先を飛ばしたりなんかするから......!」 女は男のぼやきに怒って反論した。 「何言ってんの?元はと言えばあんたがあの面倒な女とさっさと別れなかったのが原因でしょ?......兎に角、さっさと飛行機に乗るわよ。国外逃亡さえしてしまえば、捕まりはしないわ。休学届も出したし、ほとぼりが冷めるまでは暫く日本にいない方がいいわ。自称私立探偵の中二病の男に事件の調査をけしかけておいたから、そいつも現場をかき乱してくれるでしょう。ほら、さっさと税関を通って......」 刹那、2人の背後から声が響いた。 「連休を利用してのハネムーンですか?羨ましい限りですな。......それともある種の国外逃亡ですか?」 女が恐る恐る振り返る。そこには短躰の男が一人、中折れ帽を片手に立っていた。 「ご依頼された事件調査の報告に参りました、S女史......そしてその恋人の、N氏にもね。」 小生の言葉を聞いたS女史は、顔を引きつらせてこちらを睨んだ。 「結論から言うと、Y女史は実際のところ自殺などしておりません。他の者により殺されたのです。ではまず簡単に、今回の事件の筋書きから話しましょうか。 事件の発端はN氏の二股です。N氏はY女史という恋人がいながら、Y女史の友人のS女史とも交際してしまった。......ちなみにこれは貴女方の母校の高校での聞き込みで知ったことです。N氏、Y女史、S女史は、高校時代仲のいい3人として有名だった、とか、S女史がY女史の為に自身のN氏への恋心を諦め、N氏を譲った、とか。Y女史のいない環境が成立してしまった大学では、その気持ちを抑えられなかったようですね。 そして、Y女史の異様な執着に耐えかねたN氏と、N氏の恋人に成れたS女史は、次第にY女史への殺意を抱くようになった。しかし実際に殺してしまえば咎与えらるるは自分たち自身。そこで貴女方お2人は、『Y女史を自殺させてしまえばいい』、そのような思考に至り、共謀したのでしょう。 作戦はきっとこうです、まずN氏がY女史を夜のBOX棟屋上までおびき出す。一般的な恋人ならまだしも、N氏に異様に傾倒するY女史なら、呼び出すのも造作ないことでしょう。これは憶測ですが、『死にたい』だとかのN氏の自殺を仄めかす文面を送信したのでは? Y女史が屋上まで向かうと、そこにはN氏の靴と偽の遺書、そして屋上から見える地面には倒れたN氏が電灯に照らされています。N氏はこの為に自殺偽造の練習・準備をしていました......遺書と靴を屋上に置いたり、自分が頭を打って血を流しているように見える為の赤い塗料を用意したり......それぞれその形跡が残っていたようですよ、遺書と靴を並べている時に通行人に見られていましたし......それに、赤い塗料と言えば、S女史、貴女は美しい口紅やネイルをしていましたね?他の部分の化粧はナチュラルメークなのに対し、随分アクセントの強いポイントとなっていたのでよく覚えています。あれは、血糊で余った分を証拠隠滅のついでに使っていたのですね。 ちなみに、この作戦を『夜に』行い、血糊代わりに『口紅』や『ネイル』を使ったのには、それぞれ意味があるのでしょう。昼間に自殺偽造を行えば、通行人にも見つかる上、偽造がバレてしまう。しかし夜だと、暗くてよく見えずそこに遺体があるかどうかもわからない。そこで血を際立たせる為に、ルージュやラメの入った口紅やネイルを使ったのです。そうすれば血糊代わりのそれらが電灯の光を反射し、N氏の自殺をよりショッキングに、かつリアリスティックに彩ります。 しかしネイルの防水性と、天気については考えていなかったようですね。ここ最近は晴天も多く、ネイルは雨が降っても水を弾いたので、コンクリートの隙間にしっかり残っていましたよ、貴女方の血糊もどきが。あと、偽の遺体の位置に関してもミスが見られましたね。血糊で電灯の光を反射させたい余り、BOX棟から25mも離れた場所にN氏が倒れていた状態にしたのでしょうが、常人の脚力ではBOX棟の高さからの落下でそんな前方には進めませんよ。 では、なぜN氏は自身の自殺を偽造したのか?それは、Y女史の精神の特性を突いた貴女方の作戦でしょう。『恋人であるN氏の遺体を見れば、そのショックに耐えかねる彼女の脆い心は壊れ、Y女史自身もその場で自殺に走るだろう』とね。高校時代をY女史と共に過ごした貴女方だからこそ思いついた妙案だ。 しかしここで貴女方の1つ目の誤算が生じる。Y女史が、その場で自殺しなかったのです。恐らくですが、これはY女史の視力によるものでしょう。調べによるとY女史はどうやら夜盲症で、かつ乱視付きの強めの近眼だそうです。噂によるとY女史の遺体現場には眼鏡が無かったそうなので、彼女はN氏のメールに焦りすぎて眼鏡を忘れたのでしょう。 さて、屋上から地面をよく見えなかったY女史は、BOX棟を出て地面に落ちているものを直接見に来ました。さぁ、これは大変です。もしN氏の自殺偽造がバレれば、芋蔓式にN氏とS女史の交際、その他諸々も発覚、ろくなことにならないのは目に見えています。しかし自殺偽造の為寝倒れたふりをしているN氏はY女史の近づいているのにも気付きません。念の為に一連の様子を隠れて観察していたS女史は、必死でその場に干してあった書道部の巨大筆を咄嗟に掴み、それを鈍器としてY女史の背後から振り下ろしました。クリーンヒットしたY女史は死亡、作戦は結果オーライになったように思えました。 が、ここで2つ目の誤算が生じます。凶器にした巨大筆の先が、衝撃で飛んで行ってしまったのです。巨大筆は壊れかけていたので、これはある程度必然的なことだったのですがね。草叢の奥に飛んでしまった筆先には、Y女史を殴った時に付着した血痕がありました。それを見つけられれば、飛び降り自殺の偽造はパァです。S女史は急いでN氏に筆先を探させました。その間S女史はY女史の遺体を動かし、血糊もどきの隠蔽の為に、血糊もどきを付けた部分に頭が重なるように配置しました。女性の体とはいえ重かったでしょう、恐らく引きずって動かして、血の跡はティッシュか何かで拭ったのでしょう。 そうして2つ目の誤算の尻拭いをしている最中に、さらに立て続けに3つ目の誤算が貴女方を襲いました。遺体を動かし終わった矢先、塾から帰宅中の少年がやって来てしまったのです。既に遺体を動かし終えたS女史はすぐに隠れることができましたが、少し遠くの草叢で筆先を探していたN氏はそうはいきませんでした。少年に気付けなかったN氏は、血糊もどきを額に付けた姿を少年に見られ、河童と見間違われました。一方、少年の尻もちの音で少年に気付いたN氏は、姿を隠す為に、咄嗟に横にあった池に飛び込みました。今N氏が腹を下しているのは、その時にあのドブ池の水を飲んでしまったからでしょうか。その後、少年に見られたことによる恐怖心を感じた貴女方は、事件が自殺として送検され、再捜査の心配が消えるまで、海外に高飛びしようと考え、今に至りました。 ......とまぁ、ざっとこんな感じでしょうか。ちなみに小生に事件の調査を依頼したのは、自分たちが造ったY女史自殺のシナリオを広めさせるためでしょう。......あ、異論あればどうぞ、小生の本業はあくまで三文文士なので、理論に抜けがあっても何ら不思議はありません。」 小生の長口上を聞いていた2人は、次第に顔から血の気が引いていった。小生が言い終えると、S女史が震える声で叫んだ。 「しょ、証拠は?証拠は無いでしょ?」 小生はわざとらしく額を抑えて言い返した。 「なるほど証拠ですか、参りましたね。それは小生の領分ではない。なので本日は、この方々に来て頂きました。」 小生が言い終えると、小生の背後から待ち構えていた男が前に出て来た。男は自前の警察手帳を示して告げた。 「BOX棟横の草叢から、角に被害者Yの血が付いた筆の頭が発見された。どうやらお前ら2人じゃあ発見できなかったみたいだな。おまけに現場からは、再鑑定の結果、遺体が引きずられたような跡のルミノール反応が出た。筆の持ち手はどこを探っても無かったんで、多分お前らが今持っているスーツケースの中にあるんだろう。調べさせてもらうぞ。」 男の言葉とともに、N氏とS女史の周りを、空港にいた多くの警察官が取り囲んだ。警察官がS女史のスーツケースをこじ開けると、そこにはやはり持ち手だけになった巨大筆があった。 N氏とS女史に手錠がかけられ、パトカーへと連れて行かれる様子を、小生はK君と共に眺めていた。「俺は言われたことやっただけだ!指示は全部この女がやった!」パトカーに乗り込む寸前で叫ぶN氏の様子を見て、K君は引きつった顔をしていた。 「ところで犯人糾弾の際、君は何故隠れていたんだい?」 小生はK君の質問に苦笑いで答えた。 「いやぁ、何となくおっかなくってね。それに本来、犯人逮捕は主に猫也君の手柄だ。僕が出る幕じゃないかな、と。」 小生はおどけて返した。 「そんなことはないさ。君の情報とスペックも事件解決の一助になった。ただ......。」 小生は渋い顔でK君に告げた。 「『何故N氏のような愚かな男に、S女史は惚れたのか』。それだけは、この名探偵である小生の頭脳をも以てしても、理解できなかったね。」 <終>
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