機械仕掛けの神の食卓 ジャスコ 非常食って何なんだろう。私はこの時代に生まれて生きて、それなのに食べる物について考えるのが好きだ。爺からはマゾだと思われてる。 爺と私は海憂館をねぐらにしていて、ガラスのでかいケースの中には水はもう張られていなくて、ぼこぼこ穴が開いて背面からパイプが出た作り物の岩窟とか、貝殻が開いたり閉まったりしてあぶくを吐き出す仕組みの薄汚れたピンクのシャコガイなんかが底に散らばったままになっている。 ここは昔、スシ屋だったんだと爺は言った。スシは切った魚を柔らかいデンプンか何かの上にのせて握った料理らしい。あんまり旨そうじゃない。それだってもう二十五年か三十五年か、知らないけどそれくらい昔の話だ。私は魚を食ったことがない。 爺は傘つき電灯の紡錘形の光の下で私に手回しラジオの修理の仕方を見せてくれながら、それかモールス信号の打ち方を教えてくれながら、それかまあ色々そんな感じのことをしながら、昔の話をした。私は眠れない夜にはそれを反芻して、頭の中に刷り込んで、だからほとんど自分の記憶みたいに昔のことを知っている。 時々本気で自分の記憶なんじゃないかと思う。例えば爺がアイスクリームの話をしたとき私の頭に浮かんだのは真っ青な空と真っ青な海を背景にすらりと立ったガラスのグラスで、盛られた丸い形の雪の塊みたいなのの上に垂れる真っ赤な木苺ソースのせいでざんねん台無しにマズそうに見える。てっぺんには紙で作った小さい傘がさしてある。 そんな傘ここじゃ何の役にも立たない。ここで降る雪は散弾銃の弾と変わらない。 そもそも青い空/青い海/目を焼くような日差しなんて海憂館の剥げかけた壁画でしか見たこともないはずなのに、なぜだかさっぱり分からないけど私はそれを知っている。知ってると思う。爺にそう言ったら、珍しくちょっとだけ笑った。 なんの話だっけ。ああそうか非常食。 雪とか? 私が今いる穴倉は浴槽くらい狭くて、だから私は風呂みたいに胎児の恰好して納まっている。ちょうど目の高さに分厚い窓ガラスがあって灰色に凍り付いた合間から白い雪の斜面が見える。こういう、ごみステーションとか倉庫とか利用した塹壕は胡蝶蘭ロードのあちこちにあって、私はその全部を頭に叩き込んでいる。雪ならいくらでもあるし、話を聞く限りアイスクリームと大して変わらない。 一回だけそう口に出したら、爺は手元の腹を捌かれたトランシーバーから顔を上げて私をじっと無言で見た。顔から血の気が引いてぶっ倒れそうに見えた。ジョーク、と私が言っても同じ目で私を見つめ続けたから、気味が悪くなった。 非常事態の時食うにはすぐ手元にないといけない。クリア。安くないといけない。雪タダだからクリア。旨さなんか二の次で、非常事態になったら大事なのは殺されないことだ。微妙なところだな。私がまだ小さいころ、まだ銃のグリップの握り心地を知らないころ、プルートっていうドブ鼠を飼っていて、やつは純粋だった。私が知る生き物すべてのなかで最も気高く、優しく、勇敢で、疑うことを知らないピュアなハートの持ち主で、だからきらきらした瞳で雪食って血い吐いて死んだ。 やつの同族の、ほか八割に比べたらいい死にざまだろう。自分で死ねば殺されたことにはならない。どこかでひゅん、と空気が切れる音がする。ひゅん、ぼす。雪に着弾すれば静かだ。私はほとんど棺桶みたいに狭い空間で身じろぎし、外套の下から白く塗った銃身を引っ張り出す。懐で温めておかないと銃も死ぬ。がしゃん。装填されていることを確認する。雪は奴らの足跡を消すが、同時にこっちの姿と物音も隠す。 また空気に斜めに穴が開く。あれにやられるのが、殺されるってことだ。分厚くて不格好な手袋から、凍えて真っ赤になった手を引っ張り出す。私は小窓の下の把手を引き、空いた穴には先人の置手紙なのか遺書なのかくしゃくしゃになった写真が詰め込まれている。全裸の金髪美女が膝に貂乗せただけの寒そうな恰好でこっちを挑発するように鼻づら上げて笑っている。ジャストドゥイット。漢字より英語アルファベットとロシア語アルファベットの方がまだ読める。 穴に詰めるべきなのは女じゃなくて銃の方で、だから私はそうする。反動に備えて壁を蹴る格好で足を踏ん張り引き金に掛けた人差し指に力をこめ、ずだん。空気が震える。雪で磨りガラスになった窓の外、一面雪の中で、グレーのシルエットが二秒立ち尽くしたあと、ぐらりと力が抜けて倒れる。無声映画を見たのは一度きり、あのころはまだ駐屯地のプレハブ小学校が開いていて、夜のプレハブ体育館で上映会があった。スクリーンの中の白黒の髭男は、私が日々撃っている影と同じ言葉を喋ってた。 遠くで叫び声が上がり、〇・六秒後、辺りに大粒の雨が降り始める。どこかで金属に当たった鋭く高い音がキンと響き、煉瓦の壁を穿つのがぼろぼろ聞こえる。旧庁舎か。どこ狙ってるド下手糞。ずだん、弾は泣けるくらい貴重だから、私はほとんど一発も無駄にしない。音が鳴るたび、どこかで誰かが仰向いて弾かれ、もしくは茫然とした後で崩れ落ちる。 普段食う飯は非常食とは呼べないんだろうな。私はそんなことを考えてる。 海憂館に帰り、薄いガラスの扉が凍り付いているのをばりばり剥がして引くと、水槽と水槽の向こう、店の奥のカウンターに掛けた爺は作業の手を止めて、幽霊でも見たような目で私を見る。私は油紙に包んだ塊をカウンターの隅に置く。ランプの光がちらちら踊って、滲み出た汁が照って見える。 爺は肉を食わない。私が初めて持って帰ってきた時に、一言も喋らず脂の輪の浮いたスープを一口掬って啜り、それからガタリと席を立って、帰ってきた時には口の周りの髭が濡れていた。それを拭って「悪い」言って椀を私の方に押し遣る。その日から一度も口にしたことはない。 別にいいけどあんたもっと食った方がいいぞ。そのうち乾涸びて自分の方が干し肉になる。私は、爺のぶんも椀を自分の方に引き寄せて食ってしまう。 爺はよく謝るようになった。悪い。何が? 私は笑う。あんたって私の爺さんなわけ? 爺は皺とミミズみたいな傷跡が入り混じって走る右手で目元を覆い、魂まで吐き出すような息をついて首を横に振る。違う? そりゃあ良かった。私の老後が総白髪でこんな縮むとかマジで勘弁。 正直な話、私は爺ほど生きないだろう。半分いくかも怪しいな。 ジュっと音を立てるハンダを置き目を瞬かせる爺に、私は「四人やった」老けたなと思いながら報告する。「さすがに減ってきた」 「そうか」 爺の声には諦めというか疲労というかが滲み出ていて、だから爺さん肉食えって。しっかりしろよ。あんたが死んだらここらで駐屯兵は私一人になる。増援が来るとは思えない。胡蝶蘭ロードを通る奴らは引き上げるばかりで、基地の周りで商売やってたやつらももう露店を畳んで撤退してった。ただでかくなっただけの穴倉みたいな酒場には、暖炉の近くのテーブルにだけ、腐りかけた襤褸切れみたいな連中ばかりが溜まっている。足をやったり頭をやったり、もうどこへも行けなくなった奴らだ。私と同じ穴に嵌った狢だ。 「お前はどこでも行ける」爺はここ数年、事あるごとにそう言ってくる。ハンダを置いて右手で眉間を揉む。どこがだよ。胡蝶蘭ロードは四方を雪に囲まれてぽつりと孤立してる。 敵に顔は無い。敵に影は無い。薄い板みたいなそれを日々私は淡々と撃つ。実際はるか悠久の昔、爺がアーケードの寄り合い所から顔だけくり抜かれたパネルをいくつも抱えて出してきて、空き地に立てて、それで練習した。雪どけで地面はぬかるんで、あらゆる隙間から細い雑草がぶわっと生え始めていた。 あんたが教えた。私は声を出さずに小さく笑う。なのに今度は私に銃を置いてどっか行けって言うのか。あんたが言うのか。 非常食ってなんだろう。というか、携帯食か。その辺が私にはよく分からない。遠くに行くときに持っていくのは何て呼ぶのか、爺なら知っているだろう。辞書みたいに言葉が頭に詰まっていて、そのくせ辞書みたいに重く黙り込んだまま喋らない。 プルートを埋めたとき、私は十かそこらだった。空き地の隅の雪を掻くと凍ったみたいに光る雑草の新芽が、鮮やかすぎる緑が目に刺さる。もうすぐ春だった。もうすぐ雪は溶けるはずだった。プルートは純粋でピュアでそこらの人間の数十倍は賢かった。知ってた。こいつが自分から雪を食ったりするはずがないって、私は知っていた。 なら誰かが食わせたんだ。プルートの首を鷲づかみ、空気を求めて開いたその小さい口に、小さくて真珠みたいに光る前歯の奥に、汚染された雪を押し込んだ。 そしてそれをやったのは敵に違いなかった。敵でなければならなかった。理由も根拠もないし要らない。それが敵であることだけが、私にとって意味を持つ。 黒い墓穴に、硬くそしてなんとなく小さくなったプルートを横たえて、私は一歩退き、立ち尽くす。しゃがみ込んだ爺がプルートの頭の横にデンプン粉を振りかけてやっていた。遠くに行くなら、道中で食べるものが要る、と説明するでもなく言った。確かにプルートは途方もなく、本当に遠くに行った。 春が来たら本土に戻ろう。私は言う。遠いし金もかかるけど、それくらいは貯めた。敵の外套を探って鎖が手に絡む感覚と一緒に引き出した懐中時計。まだ温い顎をこじ開けて、奥歯にナイフの刃先を食いこませて剥いだ罌粟型の金冠。貯めた革の巾着はずしりと重い。 爺は、私がテーブルにどさりと置いた巾着から、皺の奥から目を上げる。「お前一人でいけ」濁った眼。「私はまだここでやることがある」死体と同じ死んだ目だ。 何がだよ。あんたみたいな老いぼれが一人ここに居残って何になるんだよ。たった数人の、ここを墓場にしようとしてる酒浸りの為にラジオの修理やら配線工事やら煙草の調達やらをしてやるのがあんたの「ここでやること」か? 自分の心配してくれてる若造の気も知らないで呑気なジジイだ、そんなに死にたきゃ私が殺してやるよ。私は笑う。置いていけないって分かって言ってるのか?あんたがここをどん詰まりだって言うなら、私にとってもそうなってしまうってこと分かってるのか。 最近そんなことばっか考えてて、だから油断したんだろう。 今日も今日とて倒れた灰色外套の身ぐるみ剥いで元通り雪に転がして立ち上がった瞬間ぱん。空気に点が穿たれそこを中心に無数の罅が走る。私の肩口を中心に世界が罅割れてぎらりと光る。頭のなかはマグネシウムリボンを焼いたときの閃光に焼き尽くされて何も考えられない。熱く白く眩しい。 視界が転がる。自分が倒れたことも分からない。雪を散らしてもがき、銃が懐にない、ない、無いものは仕方ない、ポケットに手を入れ、眩しい、ばちばちと火花が散る指先で輪の形のピンを抜こうとし、抜けない。力が入らない。ピンを奥歯で噛んで、首を捻るようにして、瞬間また肩で花火が弾ける。 挙手。ちょっと待て花火ってなに? 青い空、ぬるく霞んだ空気、焦げる綿菓子の匂い、綿菓子ってなんだっけ、空にぼんやりした紙細工みたいな花火が、桃色や李色や梨色の硝煙の花がぼんぼん腹に響く音を立てて咲く。でもそんなん見たことないし花火って本来夜の空に打ち上げるもんなはずなのにな。私の知らない私の記憶が痛みと一緒に全身で咲いて、私は花まみれになっていく。真っ白い雪の上にぼつぼつ蕾が開き花弁が零れていく。長靴の下で踏みにじられて掠れる。 泥の中にいるみたいに身体は重く、腕は重く、ピンは私の口の端から力なく落下して、全力ふり絞って放った手榴弾は思ったより近くに跳ね、胡蝶蘭ロードの凍った石畳の上を転がった。軌道を最後まで見届ける前に、私は動く方の右手で右耳を塞ぎ、背中を向けて胎児みたいに身体を固く丸め衝撃に備え瞬間、衝撃は来る。 暮れ始めた祭りの最後を飾るのは大輪の光の花で、ダリアみたいに空全部に咲き、ミモザみたいな小さい光に解れて散って、藤の花房みたいにゆっくり流れ落ちていく。私は真っ暗闇のなかに真っ逆様落ちていく。遠くで小さな光が二、三瞬いて、あとは真の闇になる。敵がどうなったのかしらないが、まあ、人生で初めて手榴弾は使った。やるだけのことはやった。ひとつの抵抗もなしに死んでやる気はないよ。ひとつの花火もなしに死んでやる気は全くない。 時間も存在しない暗闇の中で、爺の悪態を聞いていた。 死んだかと思った。爺は言って、私もそう思ってた。死ぬっていうのは本当にあっけなく訪れる。特にここではそうだ。雪のせいかもしれないなと思う。なんとなく、いろんな感覚が鈍って麻痺してんのかもしれない。革の袋に入った、噛み煙草入れだのロザリオだの金歯だのの持ち主を私はもう覚えていない。奴らの身体は白くなだらかな雪に覆われて、沈んで、もう見えない。 そのくせ頭の芯はきんきんに冷えきって冴え渡っている。 身じろぎするとまだ、右肩に落雷して電気はびりびり肘に溜まり指先で爆ぜる。銃弾は肩の肉をえぐっただけで、貫通はしなかった。それに肩じゃどのみち死ねない。そのくせ利き手の肩をやられちゃ当分銃は撃てない。くそ、まだ帯電してる。 爺が水差しを取りに、ずっと腰掛けっ放しだったようなよろけかたで椅子を立つ。私は仰向いて天井を見、でも右手首で目元を押さえてるから闇しか見えない。「春になったら」そう、言った。暗闇と沈黙のあと爺の「すまない」声が静かに聞こえた。私は目元を覆ったまま、暗闇の中で口元だけで笑った。爺の沈黙を聞いていた。 爺は薄緑色の紙きれを、電灯の明かりの下、傷だらけ焼け焦げだらけの爺の手に似たカウンターテーブルの上に置く。私は身を乗り出して取って、光に透かして、そこに書かれている数字の桁を何回も数え直す。円だと感覚が掴みづらいから変換し、うわー多分一昔前なら、赤いジープが買えた。家も買えた。もうどっちも穴だらけのタダ同然になってるから意味がない。というか、日本の小切手はここじゃ紙くずでしかない。私はそのまま卓上を滑らせて小切手を突き返す。 爺はいつも墓の中にいるみたいに全部諦めきっている。ただ何もかもを眺めている。皺の奥の目の中で火花が散るのは珍しくて、それが何なのか読み取るのが怖い。爺の瞳の中で恐怖や絶望や怒りや、そういうバチバチした何かが閃くのは見たくない。 「もうすぐここは戦場になる」 もうとっくにここは戦場で、それは日常に溶けている。爺が言ってるのはつまり、デンプン粉の団子と痩せた肉と菜っ葉のスープが啜れなくなるような日が来るってことだろう。普段の食事が非常食に変わる日が来るってことだろう。「もう本当に時間がない」だから逃げろって? 「そんなこと言って自分はここで死ぬ気なくせに」 自分のことはどうでもいいと言うみたいに、首を横に振るみたいに顔を背ける。この頑固ジジイが。「ここにいればいずれ死ぬ」とか言うに至ってもう私は笑うしかない。何を、私が先に死ぬみたいな寝ぼけたこと言ってんの? 私に銃の構えだの作りだのを教えておいて、爺は自分じゃ実演したときにブロック塀に穴をあけた。白い上下に赤ネクタイの演歌歌手のパネルは無傷で、頬肉をつやつやさせたまま立っている。爺は顔を顰めて空薬莢を吐かせ、これが失敗例だといつも通りの声で言い、私はプルートを失って初めて笑っていた。 あんた一人じゃ銃が撃てない。ここに残って何をする気か知れないけど、何と戦う気か分からないけど、はんだごてじゃ無理だろう。老人の酔狂に付き合ってやろう。どうせ、まだましな業者に頼んで渡航するにはこの大金でもまだ足りなくて、半端なとこに払えばその場で殺されるかぼろ漁船ごと巡視艇に見つかってハチの巣か、どっちにしろ多分、本土を踏む前に死ぬ。そんなことはお互い分かっていて、爺のはただ、私の死体を見ると自分の心臓に悪いっていう我儘で、そんなもん知るか。 ここに居残ってやるよ。もうじき春が来て、私がどれだけ殺したのかが陽光に溶けだして、地面が緩む。がつがつ穴掘って、あんた背え小さいからそんな大変じゃないな多分、埋葬してやるよ。向こうに着くまでに飢え死なないように、デンプン粉で顔面覆って埋めてやるよ。言うと、爺は何か言おうと顔を顰めて、というかむしろ歪めて、でも何も言わない。 私の首には十字架が掛かっている。血が足りなくてぶっ倒れてる間に爺が掛けたのか、鎖を掴んで細いクロスを陽に透かす。細かく光るのは無数の傷だ、これを付けていた誰かは、漏れなく灰色外套の円柱形シルエットのうち一人だろうけど、もう息はしてないな。賭けてもいい。 これ何。訊いても返事はない。爺は私が小切手を突き返した夜からずっと臍を曲げてる。年取るとああなるから嫌だ。しつこく訊いていると、祈るときの道具だと答えた。天国に連れてって下さい、神様。そう祈るときのトランシーバーか増幅器かその辺り。自分が神の域に足を突っ込みつつある爺でも、祈ることなんかあるのか。訊くと、「どこかに完璧な世界があって、でもここはそうじゃない」それだけ言う。それって祈りになってるのか、よく分からん。救われるって信じてるのか。「いや」低くてほとんど幻聴みたいな声が答える。「ただ言い聞かせてる」 世界は本当に完璧からは程遠いけど、完璧な瞬間は存在する。二十秒くらいしかもたないけど、息を止めるような時間、空気が鏡の面みたいになってびかびか光るような瞬間、静かさが尖った針になって身体を貫通するような一拍。銃を構えて、でもその先には何もいない。灰色は影もない。ただ真っ白くなだらかな世界が、バカみたいなスケールでそこに広がってるときの笑ってしまいたいようなあれ。窒息しそうに苦しいと思うこれ。私は世界に銃口を突き付けて、そこを動くな、世界がこのまま凍ってしまうことを願ってる。祈ってる。 たいてい鳥が飛んでくるか、どこか遠くで何かが崩落とか爆発とかするかして、その薄い氷みたいな奇跡の時間はあっさりぱきんと砕けて終わる。私は銃を下ろす。 最近、敵が少なすぎだ。使った弾の数を考えてもどう見ても計算が合わない。春がまた来るのかもしれない。私が肩を撃たれてから春が来て、夏がさっさと歩き去り秋が一瞬ちらついてまた冬がきて、でこれから春が来る。 これまでとは違う春かもしれない。このだらけた戦争が終わるかもしれない。 爺にそう伝えると沈黙と「そうか」返事が遅れてくる。「なら、じきに本土からも船が来る。ちょうどいい」 何を、私は笑う、何を、他人事みたいなこと言ってる。「あんたも帰るんだ。兵役終わったら、ここに居残る意味がない」嫌な予感はしている。背中を巨大ムカデみたいにぞろぞろ張って首筋に上って来る。爺さんいよいよ惚けたか。 「お前の戦争は終わった。だから帰れる。僕にはまだやり残したことがあって、そのせいで帰れない。それだけだ」 「死ぬ気か」 「お前がいるせいで死ねない」 は?なんだその言いぐさ。勝手に死にたきゃ死ねよ。火種が破裂寸前まで膨張し、それから理性に無理やり抑え込まれて萎む。落ち着け。死にに行こうとしてるやつに死ねなんて言ってやる優しさは要らない。「じゃ一生ここにいるわ」 爺はいつもの、ああこいつ駄目だみたいな仕草で額を拭い、「ああ」言った。 は? 「分かった。ここにいるんだろう、好きにすればいい。これだけ長い間お前を見てると、諦め癖がついてる」爺はいつもの声色で続ける。 「どうせ、そうなるんじゃないかとは、薄々思ってた」 あっけなさ過ぎて呆気にとられたけど、まあ、いいか。 そうと決まれば私は銃の手入れをし、よく使う塹壕の点検をして、プルートの墓に水をやる。花なんか供えなくたって、あの時黒く埋め立てた濡れた土は、もう雑草の混じりあって伸びた細かい茎と葉と小さい花に覆いつくされている。プルートの前に立つとき、私の頭のなかはまっさらだ。何も考えていなくて、ただ白い白い白が果てしなく広がっている。ふと、あれ、と思う。戦う準備はしてるけど、これ、敵はだれだ。灰色外套部隊はぞくぞく撤退していく。爺がこれからしようとしている戦いの、狙いは何だ。 「世界平和」 にこりともせず言うし、実際ぜんぜん笑えないって。いや、 「無理だろ」 「そうだな」爺はにやりとする。惚けたか頭がおかしくなったかどちらかに見える。「だから無駄死にするだけだって、先に言った。それでもやる。もし愛想尽かしたならいつ抜けても構わない」 こいつわざと私のこと焚き付けてるんじゃないかって時々思う。息を吐く。自分でもぎょっとするほど、爺の疲労と諦めが伝染った声が出た。 「何から始めんの」 敵がデカすぎて、どこからどう取り掛かればいいか分からない。私は、何を撃てばいい? 「撃たなくていい」爺は顔を顰める。「戦争を仕掛ける訳じゃない。ただ負け戦をするだけだ、それで済む」 私は右手の爪をたてて髪を掻きまわす。「その情報小出しにするの何なん。一気に言えって」 爺は、それはどうだろうかって感じに首を軽くひねってみせる。「一気に言えば、脳の許容量を超えて気が狂うか、僕の正気を疑うか、どちらかだ」 で、小出しに摂取したって結局、どっちも崖っぷちまで行く破目になる。どうやら、今は停戦中らしい。その指令さえこっちに届いてないけどな。で、今和平条約が締結されつつあるらしい。どこ情報だよ。爺は黙って、じりじり音を立てるはんだで作業棚の中段を指してみせる。退院を待つ無線機が眠っている。 私の表情を見、爺ははんだの先で宙を小さく掻きまわす。「そういうことだ。で、その期を狙って本土はここを潰す気でいる」 ここは両軍入り混じって、というかそれぞれの軍の駐屯部隊がいる。こっちは実質いないようなもんだけど向こうは基地もある。一日そこらで完全撤収は不可能だ。 ここを潰す。言葉の意味は勝手にひとつに絞られる。本土からの爆撃、そうすれば、そうすれば何だっていうんだろう。向こうの小さい基地と自分とこの残兵数人を陸地ごと炭にして、和平で有利になるとか? だって今から勝てるわけないことくらい、高校出てない私でも分かる。前線にいれば鼠でも分かる。あほか、どいつもこいつも。最後にちょっとでも相手にかすり傷与えてやって、それが一体何になる。 「本土の軍部もそのくらいは分かっているだろう。ただ、引っ込みがつかなくなって困っているってところだろうな」爺はまだ、傘つき電灯の下で工具を動かしながら平然と言う。 「ガキの喧嘩かよ」 「実際それに近い。覚えがあるのか」 「いや。兄妹なんか初めからいなかった」親だって九でどっちも死んだ。それなのに、なんとなく私は兄弟げんかがどんななのか分かる。引っ込みがつかなくなる感じも自分のことみたいに分かる。それやってんのが小学生のガキじゃなくて国同士だっていうんだから国民は不幸だな。 「で、私らはどうやって負けんの」 爺はまた、背後の棚をニッパーで指す。そこに並ぶのは爺が血管を継ぎ直し、心臓を作り直し、眼球を交換したあらゆる機械だ。タグが死人の足に括りつけるやつみたいに垂れている。いや、それは分かるんだけど、間の説明省かれすぎじゃない? 「全部、中に火薬を仕込んである」 爺は平然と爆弾を投下する。 は? 「厳密にいえば、今の言い方は語弊があるが、細かい説明はどうせ理解しないだろう。そういうことだ、ここ数年の間に修理した機械全て、島にある電波塔全て、ひとつのスイッチで駄目になる。無線、電信、電灯、ラジオ、あとはもう忘れた」 私は茫然としている。のんきに雪に足跡つけてあるいてたら、急に地面の硬さが靴底の下で崩れて深く青いクレバスがぽっかり口開けたみたいな気分だった。巨大な蜘蛛の巣のが頭に浮かぶ。中央でせこせこハンダを動かす小さな蜘蛛を真ん中に、縦横斜めに糸が伸びて、先にはそれぞれ懐中電灯やら無線信号機やらがある。一か所に火が付けば、白く細い線をなぞって炎は燃え広がる。 気づかなかった。知らなかった。そりゃそうか。スパイ活動として疑われもしないだろう。機械の修理はただの生命線の確保で、そこに手をつけるってことは、自分の血管を自分で切るのと変わらない。そんなアホが、辺鄙な極北の基地でせこせこ何かしていても、注意を払う必要もない。 本当にただの自殺行為だ。半島は極寒真っ暗闇になる。なって、で、それだけだ。 「何のために?」 「少なくとも、明日の作戦は決行されない」 いやいやいやちょっと待ってくれ。「明日が駄目になっても、延期するかも」言いかけて、そんなことにはならないかと思う。和平話し合い中、条約が結ばれるまでの間だけしかチャンスはない。結局Xデーは明日しかない。「いや、まあ、でも、それで世界が平和にはならないだろ」 「作戦の決行中に停電が起きれば、少なくとも我が国の戦意は削げるだろう。喧嘩と同じで、あとは止めるきっかけが必要なだけだった。そうすれば無事負けて、また銃が規制される」 「銃」私の懐の中でごつごつしてる感触が、急に主張強くする。 「本当の目的は、それだと言った方が正しいかもしれない。また銃が規制された世界に戻すこと、それが」 そこで爺は黙った。 何なんだマジで。爺は自分が銃を解禁した責任者だって思いこんじゃった感じ?そんなに銃がいやなら、どういう気持ちで私に撃ち方を教えたの? 「はじめはまあ、銃も、人が死ぬのも、自分に耐えられるとは思えなかったが、もう、慣れた。時間さえあれば何にでも慣れるし、時間なら、いくらでもあった」 何度も分解した、と爺は言うし私はそのことを知っている。私は扱い雑だから、何度か鉄屑を詰まらせたことがあった。その度に、傷だらけの作業台の上に置いておいた。 「分解してしまえば、個々は鉄のパーツでしかない。それが組み合わさっているだけであって、無線機が電源を入れなければ使えないのと同じように、誰かが引き金を引かなければ撃てない。その誰かが問題なのであって、鉄の機械ではない。 銃が嫌いで規制したいわけではない。ただ、銃規制というルールを国に敷き直すことが目的であって、それ以上のことはなにもない。」 「それで、あんたは満足すんの」爺が爺となるまでに経た年月は、そんな消費のされかたをしていいのか。多分何にもならず、多分誰のことも大して救わず、自分たちが生き残る結末にもならず。なぜならそんなアホやらかした辺境の残党を本土がほっとくわけないから。助けてくれないわりに裁いてはくれるやつらだ。援軍は寄越しやしないけど、戦時局は飛んでくる。 爺は、それこそ十幾つのガキみたいに頷いた。なぜか爺が十の時、どんなだったか二重写しになって見えた気がした。今と同じくらい年取った眼で、今と同じくらい可愛げない青白い顔のガキだ。「そうすることは、無駄じゃないと思う。無駄じゃないと信じてる。どうせ、信じるほかどうしようもない」 つまり、私は爺さんの酔狂に付き合って死ぬんだ、と思った。 不思議に、その瞬間、腑に落ちた。 これまで何度も、こんな気分になったことがあった気がした。これまで何度となく、こんなことしてなんの意味が、そう思ったことが、気が狂いそうになったことが、星が頭の上を弧を描く白い線になって流れていくみたいだ、ありえないような長い長い時がいっきに早送りになって、私を置き去りにしたまま流れていくみたいで、私は茫然としている。いままでなんどもこの質問を誰かにしてきた気がする。もう顔も白い靄になって見えない父さんに? もう笑ってもその声も思い出せない母さんに? 分からないけど、その感覚が、なんていうんだっけこういうの、何か昔もこういうことがあった、確かにあったって感覚が、私を押し流す。高い高い壁になって崩れてきて私を呑み込む。溺れている。息ができない。 いつかどこか遥か遠くで、溺れたことがあった気がする。泳いだことなんてないのに。 日が暮れかけて、電気を全部点けた。もう電球の傘もいらないし、窓の目貼りもいらない。灰色外套たちは自陣のほうに帰っていったか、川の方に雪解けに流されていった。爺は四角い大きい封筒から黒い円盤を取り出して、ラッパがついた機械、ああ蓄音機ね、知ってるよ。なんで知ってるのか全然分からないけど、母さんの腹の中にいたときの記憶なのかもしれない。生まれてくる前の記憶なのかもしれない。なんなんだろうなこれ。 もう一つ知っていることとして、多分晩飯を食べるのは最後だ。まだ夕方のうちだけど。食事をとること自体が多分最後だ。なのに、最後だって気がしないからおかしい。 貯蔵庫の缶詰も、塹壕の干し肉も全部作業台の上に並んだ。短長いろいろの蝋燭がばらばら立って光っている。光の輪っかが重なっている。豆の缶詰をうちにある中で一番きれいな銀のフォークで刺して食った。半分まで浸した液が白く濁ってるけど大丈夫だろう多分。旨かった。 最後の晩餐。なのに最後の晩餐な気がしない。爺は向かいでコーヒーを啜ってる。これまであったすべての晩飯が、それぞれに二度とない最後の晩餐だったからかもしれない。そんなしょうもないオチみたいなこと? だとしたら最悪だ。そうじゃないと思うけど、まあいいや。今考えたって分からんことは、今考えても分からん。 私はコンデンスミルクの缶を逆さにして、舌にどろっと触れた瞬間脳天に雷落ちたくらい甘い。甘さに耐えるみたいに顔を顰めてそれから顔を上げ笑う。最後まで一緒にいてやるよ。こうなったら。自棄だって? そうかもな。でも気分はなんでかそんなに悪くないんだ。絶対意味がないって分かってて、それなのに意味があるって信じてる気分だ。祈るってこんな感じなのかもしれない。とにかく、自分は間違ったことはしていないって、思いこむことなのかもしれない。 爺は、まだコーヒーを啜りながら、それはどうだろうって言うみたいに首を傾げてみせる。
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