真夏のハーゲンダッツ(上) 林檎 通勤ラッシュ最後の電車が、蒸された空気を切り裂いて去っていく。けたたましい蝉の鳴き声と共にホームに置き去りにされた青年――大海(おおみ)航(わたる)は、手の中の単語帳を握りしめた。――escape、~から逃れる ~を避ける、逃亡――hang、~を掛ける、~を絞首刑にする、ぶら下がる――release 、~を解放する、~を発表する――とっくに覚えた英単語を意味もなく繰り返す内に、胸にぐっと熱いものが込み上げてくる。理由をはっきりと言葉にはできないけれど――何となく、世界全体に取り残されたような気分だった。名状し難い感情の塊が頭の中で溶けだして、堪えきれず、大粒の涙となって零れてしまった。ぽとりと紙面に落ちた黄色い蛍光ペンの線が滲む。 みっともないと、頭の中で誰かの声が繰り返される。止めようと目を擦ってもかえってひどくなるだけで打つ手はなかった。電車が去った後で良かった。これを誰かに見られでもしたら―― 「暑そうやなあ」 大きな人影が航の前に立つ。足音は無かった。いつの間にか、目の前に居た。ちらりと上目で見上げると、大柄な男が口元だけの薄ら笑いを浮かべて航の顔を覗いている。航はやってしまったと思いつつ、目を合わせまいと唇をきゅっと結んだ。 それを見た男は、くっきりとした隈のある目を細めた。白髪交じりの短い癖毛を掻きながら、秘密基地の場所を教えるように声をひそめて囁く。 「ね、おじさんち、ハーゲンあるけど来る?」 ――いかのおすし。行かない、乗らない、大声を出す、すぐ逃げる。最後の一つは何だったっけと思いながら、航は沸騰してしまいそうなほど熱いアスファルトを早足で歩いていた。目の前には、例の大男。これでも歩調を合わせようとしているのだろう、長い足をわざとらしくゆっくりと進めている。普段だったら付いていかなかった。いつもだったら、ちゃんと逃げ出せていた。それぐらいの分別はあった。しかし――今、航は普通ではなかった。だから今こうなっている。 何でもよかったのだ。何でもいい、誰でもいいから、自分をどこか遠くに連れて行ってほしかった。風に巻き上げられる木の葉になって、連れていかれてしまいたかった。何から? それは分からない。ただ、とにかくどこか遠く――非日常に。自暴自棄ともいえる自身の逃避的な思考回路に航は呆れ笑いを零した。 男の家は、駅から推定徒歩七分のボロアパートだった。薄汚れた白壁を這う朽ちかけた配管は、銀色のテープでぐるぐる巻きになっている。グリーンカーテンがあったであろう緑色のネットには萎びた植物の残骸が纏わりついていた。 「ここの、二階の端っこがおじさんち。右側のね」 錆びついたトタンの階段を上がりながら、男が端のドアを指差した。 妙に間延びした訛っているのか訛っていないのか分からない口調も、いまいち上手く作れていない笑顔も、全てが胡散臭い。逃げ出したほうが良いだろうかと思いつつも、もう少しだけ流れに身を任せてみたくもある。いざとなれば、逃げればいい。背負っている鈍器のようなリュックを武器にして、全力でぶつかってやれば少しは怯むだろう。その隙に―― 「ここやで~」 呑気な声が、不穏なシミュレーションを中断させてしまった。 「......お邪魔します」 所々塗装が剥げた金属製のドアを男が開けて、先に入れと促した。航が玄関に上がったのを確認し、静かにドアを閉めて後ろ手で鍵を掛ける。かちゃりという音と同時に、頭を割るように響いていた蝉の声が止んだ。 「ごめんなあ、汚くて」 玄関に立ったまま、航は一人暮らし用の小さなワンルームを見渡した。部屋は雑多なもので溢れていた。ゴミ屋敷とまではいかないが――本に雑貨にゴミに、あらゆるものが秩序無く床に散らばっている。廊下に流し台の下に、部屋の奥まで。壁に沿うように置かれているカラーボックスは縦に横にと押し込まれた本で破裂しそうだ。 男は立ち尽くす航をそのままに部屋を進み、中央の天井から吊り下げられたリモコンを手に取った。 「こうしとけば失くさんから便利やで。デッドスペース? ってやつや」 ......梁のある部屋なんて珍しい。ガタガタと不穏な音を鳴らすエアコンを見上げて、航はそんなことを思った。 男が部屋の奥に敷きっぱなしの薄い布団をそそくさと畳んで、空いた小さなスペースに立て掛けていたちゃぶ台を置いた。そのまま手慣れた様子で緑色の座布団を山の底から引っ張り出して、航に差し出す。 「どうぞ」 「ど、どうも......」 座布団は綿が潰れてぺちゃんこになっていた。不審すぎる男の妙な気遣いに航が会釈すると、男はやっぱり下手くそな笑顔を顔に貼り付けた。一体何をするつもりなのか。穏やかそうな垂れ目が却って彼の思惑を煙に巻いているような気がした。戦々恐々としていたいのに、どこか抜けた場の雰囲気に飲み込まれてしまいそうだ。 男が大股で雑多な床を掻き分けて、よっこいせ、と冷蔵庫の前でしゃがんだ。殆ど物の入っていない冷凍庫の引き出しを開けながら、のんびりと航に声を掛ける。 「チョコ、いちご、抹茶、バニラ、どれがええ?」 航は耳を疑った。ハーゲンダッツは本当にあったらしい。それも、味の選択肢付きで。 「バニラ、で」 「慎重派かあ」 ばりばりと箱を開けて、男がアイスカップを一つ取り出す。 「自分、名前は?」 そう尋ねながら、男はちゃぶ台にハーゲンダッツと使い捨てスプーンを置いて、フローリングの上にどっしりと胡坐をかいた。 「航......大海、航」 「へえ、オオミワタルくん。ええ名前や。あ、リュック下ろし」 胡散臭い関西弁もどきに促されるままに航はリュックサックを下ろした。古びた木の床が軋む音がして、思わず体が跳ねる。 「おじさんの名前は夏太郎な。どうぞよろしく」 「え?」 思わず聞き返した航に構わず、男――もとい夏太郎は続ける。 「ワタル君。あのなあ、もっと警戒心みたいな? 持ったほうがええで」 不審を覚えながらも、航は目の前のアイスの蓋を躊躇いなく開けてアイスを食べ始めた。あまりに無防備な様子に、夏太郎は眉を顰めつつ、顎の無精ひげを撫でた。 「おじさんが悪人だったら、ワタル君、今頃漁船かラブホか森の奥やで」 「悪人じゃないんですか」 「さあ」 責任のせの字もない返事に今度は航が眉を顰めた。しかし、手は止まらない。真夏の太陽に蒸されてしまった体にとって、冷たいアイス、それも普段食べられない特別なそれは、禁断の果実なんかよりもずっと魅惑的だったからだ。強張った体も柔らかくなってしまうような非日常の甘さに、航は既に絆されかけていた。 「......人から貰った食べ物も、口に入れちゃいけません」 わざとらしく溜息をつく夏太郎をちらりと見て、航は自分から連れ込んでおいてくどくどと説教を垂れるなよ、と心の中で悪態をついた。 「その制服、朝山高の? アタマええとこやん。何、夏休み無いんか」 「受験だから、今年......」 「あー模試とか補習とか? あるよな、夏の。懐かし~」 気さくな様子で話を続けようとする夏太郎と目を合わせないように、カップの側面についたアイスをこそいで口に運ぶ。クーラーもようやく効き始めたらしく、あれだけ熱かった顔はすっかり冷めていた。 「で、ワタル君はサボり?」 「まあ......」 「そうかあ」 夏太郎はそれ以上、航の事情に踏み込まなかった。馴れ馴れしいのかそうでないのか、よく分からない。悪い人ではないのかもしれない、と甘みに絆されかけた頭で考えながら、食べ終わったカップにスプーンを入れて、手を合わせる。 ......取り返しがつかなくなる前に、帰ってしまえ。 「ごちそうさまでした」 「待て待て待て」 勢いよく立ち上がった航の足の甲を、夏太郎が指でつついた。 「そりゃあないで、食うだけ食って帰るとか。まあ座り」 航はしぶしぶ背負ったばかりのリュックサックを下ろした。今度は慎重に下ろしたので、床は軋まなかった。 「おじさんなあ、ワタル君に手伝ってほしいことあんねんけど」 夏太郎がゆっくりと立ち上がって、芝居がかった仕草で辺りを見回す。 「片づけをな、手伝ってほしいねん」 「片付け」 「ほら、片付けって一人でやっても進まんやん? おじさんちょっとワケアリでなあ、部屋まっさらにせんとあかんくて。必要なものとか、そういうの無いから全部捨てたってや」 拒否の意を挟ませないような早口で夏太郎が捲し立てる。 「な? ハーゲンのお礼や思って」 親指と人差し指で空になったカップを摘まんで航の前で揺らしながら夏太郎がウインクした。 航はげんなりしながら、小さく頷いた。......そうせざるを得なかった。 「あの、名前」 「え、おじさんの名前?教えたやん」 「夏太郎って」 「本名やで~」 「本当に?」 「ほんまやって。ナッチャンって呼んだって。敬語とかいらんで~」 「......ナッチャン......」 「さ、始めよ。暗くなる前に帰らんと怒られるで」 不審がる航を置き去りにして、夏太郎は鼻歌を歌いながら、部屋の隅に転がっていたレジ袋から一番大きいサイズの市指定ゴミ袋を取り出した。 「これゴミ袋な、遠慮せずバンバン使ったって」 「分別は?」 「全部燃えるやろ、火ぃ点ければ」 あまりに適当な返事に何かを言い返そうとして、止める。この男に何を言っても無駄だろう。「あ、本だけ束ねて古紙出すから、なんとなーく大きさで分けてその辺積んどいて」 押し付けられた黄色い袋を破り捨てたくなる衝動を抑えて、航は重い足取りで雑貨の山(の一つ)に手を付けた。ごちゃごちゃとした雑貨さえ何とかすれば、少しはましな景色になるだろう。どうせ全部捨てるなら、そんなに時間はかからない筈だ。さっさと終わらせて、さっさと帰ってしまおう。 心ならずも片付けを始めた航を見て、夏太郎はしてやったりとほくそ笑んだ。 航は雑貨の山の一番上にあったキャンバスを手に取った。ノートくらいのサイズの軽いキャンバスに、海から飛び出てくる二匹のイルカが妙にぬめぬめした質感で描かれている。 「何これ、ディズニー?」 「あ~なんだっけそれ。あれや、なんとかセンの......斡旋? 螺旋......せや、ラッセン」 ラッセン――画家の名前だ。聞いたことがある。といっても、その絵を見るのは初めてだったので、納得感は無かった。代わりに浮かんだのは、数年前に流行った芸人のネタだった。もう名前も顔も思い出せないけれど、一時期爆発的に流行っていた気がする。 「昔彼女に買わされてん。本物? らしいで。お金に困ってたみたいでなあ」 「彼女」 「過去形やで。結構な金額渡したんやけど――次の日に音信不通になってもうた」 てかてかとしたキャンバスの表面を指でなぞりながら、元気にやってると良いけどなあ、と 夏太郎が笑う。その言葉に皮肉めいた含みはなく、ただただ相手の安寧を祈るような慈しみだけがあった。少なくとも、航にはそう見えた。 「ふーん......」 航はキャンバスをゴミ袋に突っ込んだ。キャンバスの裏に見えた「printed in China」の文字には気づかないふりをして。 次に航が目を付けたのは、ジューCの空き容器だった。若干退色したパッケージには、見たことのない奇妙なキャラクターが描かれている。 「これは食べたらすぐ捨てなよ」 「それなあ、底見てみ」 言われるままに容器の底を覗く。斜めに一枚、ラムネが引っかかっていた。 「そういうのって引っかかると出てこんくなるよな」 「勿体なくて捨てれなかった?」 「せや。おじさん断捨離苦手やねん」 だからこんな部屋になってしまっているのか。納得を覚えつつ、航は容器の底を自分の手のひらに叩きつけた。軽い音を立てて、ラムネの引っかかりが取れる。 「取れたけど」 「ワタル君、見かけによらず大胆やね」 夏太郎が感心したように頷く。 「あ。それいつのか分からんから、食べちゃあかんで」 「食べないよ」 食い意地が張った子供だと思われていることに口を尖らせて、航は容器をゴミ袋に投げ入れた。 「うわ」 雑貨の山の中に、ティッシュの塊が落ちていた。うっかり触ってしまった航は小さく悲鳴を上げた。不潔だ。流石に使ったティッシュをそのままにしておくのは無い。しかめっ面でつまんで捨てようとしたところで、それがただのティッシュの塊でない事に気づいた。中央のあたりが輪ゴムで括られている。破かないようにそっと広げると、ティッシュの塊の正体はてるてる坊主だった。 「夏太郎、もしかして子供居たりする?」 「なんで」 「これ」 てるてる坊主を夏太郎の目の前にぶら下げる。滲んだ顔のパーツが酷く不気味で、これでは逆に雨が降りそうだと思った。 「それ俺が作ったやつやで」 「ピクニックにでも行ったの?」 「ちゃうわ。なんでこんなおじさんがピクニックすんねん。ガキなんかこさえたことないで」 下品な言葉遣いに航が眉を寄せる。潔癖な反応に夏太郎は短い襟足をぽりぽり掻きながら曖昧な笑みを作った。 「......多分?」 自信なさげに付け足した言葉に航の眉間の皺がもっと深くなったのを見て、夏太郎が誤魔化すように話を進める。 「いつやったかなあ。明日布団干したいな思った晩に作ったんや。Eテレでやってたから」 「何それ」 「急な思い付きやで」 「干せた?」 「降った」 夏太郎が、航の手から不格好なてるてる坊主を摘まみ上げた。水分を失った輪ゴムが千切れて、ぱらぱらと床に落ちる。 「ままなりませんなあ」 苦笑いを浮かべた夏太郎は、輪ゴムの残骸とてるてる坊主をゴミ袋に入れた。 途中に昼食を挟みつつ、航と夏太郎はひたすら物を捨て続けた。捨てても捨てても減らない物の山に途方に暮れそうになりながら、何時間も。気づいたときにはもう夕方――午後四時を回っていた。狭い玄関でもぞもぞとスニーカーを履く航を見下ろしながら、夏太郎が笑顔で喋りかける。 「いやあ助かったわ。ワタル君のお陰で大分片付いた」 「あんま変わってないように見えるけど」 「いやいや! 大分変わったで。四分の一くらい?」 「四分の一」 「何、ワタルくん。言葉繰り返すの癖なん? じゃ、あと三日間よろしくな」 「えっ」 さらりと告げられた思いもよらぬ言葉に、航は目を見開いた。ドアを開いたまま、体が固まる。 「ハーゲンあと三個も残ってんねん。おじさんあんまアイス食べんから、な?」 「別に、アイス食べたいわけじゃないんだけど」 「え~お願いワタル君! この通り!」 反応の悪い航に向かって夏太郎は両手を拝むように合わせ、ぺこぺこと頭を下げた。 ――自分よりずっと年下の子供にそうやって頭を下げて、プライドは無いのだろうか。 大男の醜態に溜息をついて、航は部屋を出た。 続く
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