抜錨 白い黒猫 今日は快晴、ひなたぼっこ日和。涼しい秋風を感じながら、狭いベランダに身を躍り出す。やわらかな朝の日差しを全身で浴びながら、大きく伸びをした。...よし、今日もいい調子。おや?玄関の方から軽快な足音が耳に入ってくる。とん、とん、という心地好い音に合わせて、まるでぼくの鼓動も速まっているみたいだ。さて、いよいよこの部屋の主様のご登場。 「あれ、もう起きてたんだ。おはよう、今日もいい天気だね」 買い物袋片手に玄関からゆるゆると歩いてきたのはこの部屋の主。ぼくが■■と呼んでいる彼女は、だぼだぼのトレーナーと長めの丈のワイドパンツを着崩して、完全に休日モードだ。すらっとした背格好に、街を歩けば人目を引く高身長。長めの髪を後ろでひとまとめにしている。「気に入った服のサイズが合わないことがあるから、いいことばっかりじゃないよ」とは本人の談だが、言う相手によっては非常に反感を買うのは目に見えている。もっとも、ぼくには関係のない話だ。ふらふらと歩いてきた彼女は、「今日の戦利品?」と言いながら買い物袋の中身を部屋の中央の丸机に広げ始める。一体彼女は何と戦ってきたのだろうか。机上に築かれたカップラーメンの山を見ながら、ぼくは小さくため息をついた。 ■■の休日は非常に忙しい。ん?なぜ休日なのに忙しいのかって?そんなのは決まっている。───録り溜めた映画の鑑賞に忙しいからだ。......全く、こんなにいい天気なんだから、引き籠もっていないでどこかに行ってくればいいのに(自堕落生活のためのコンビニはノーカウント)。ただ、彼女の姿を一日中見ていられるのはこの上ない幸せでもある。今日のところは許しておいてあげよう。今日のところはね。 今日は曇り模様。昨日は日差しのおかげであまり感じなかった寒さが肌を刺す。後ろでは■■が大慌てで食パンをくわえながら髪を結んでいる。先程は開口一番、「起きてたなら起こしてよ!」と言われたが、どう考えても夜遅くまでテレビ画面に齧りついていたほうが悪いという思考にしか至らなかったため、スルーしてベランダに出ておくことにした。 「じゃあ、行ってくる!」 嵐のような勢いで彼女は出ていった。全く、せめてアラームの一つくらいはかけておけば、こんなことにはならなかっただろうに。......いや、■■はスマホのアラームを目にもとまらぬ速さで止めるのを忘れていた。はあ、こんな主様とこれからも住まざるを得ないのは難儀なものだ。ただ、このバタバタ感も嫌いではない。 昨日内心で主様の引きこもり生活を責めた責任......というか九割はただの気まぐれで、外に出ることにした。玄関のドアをくぐり抜け、周囲をぐるりと見回す。人の姿がないのを確認すると、ひび割れが目立つ錆色の階段を軽い足取りで駆け降りる。さて、どこに行ったものか。出てきたのは良いものの、特に行きたい場所もない。 ......そうだ、あのおばあさんの所に行こう。おばあさんは、ぼくが姿を見せると、いつもおやつをくれるのだ。そうと決まったらさっそく行くことにしよう。今日は雲行きがあまりよくないが、庭に出ているだろうか。もしかしたら家の中かもしれない。ああ、楽しみだ。 今日は憎らしいほどの晴れ、最悪の紫外線日和。月曜日の朝という概念を生み出した神々(人間かも?)に内心で不満をぶちまけながら、袋からあふれ出るバターロールを数個、無理やり口に押し込む。憂鬱、その言葉がこれほど似合う時間はないだろう。──はあ。本日初のため息をひとつ。機械的に向かった鏡の前で何度か笑顔を作り、むなしくなってやめた。 「行きたくないなぁ」 朝はいつもこうだ。でも、今日はスヌーズ三回で布団から出られただけマシだと思う。嫌々と心でどれだけ唱えていても、体は勝手に準備を進めているのだから不思議なものだ。 さて。改めて今日の日程を確認してみよう。今日は(も)8:40~15:30まで拘束される。以上、終わり。考えるだけで嫌な気持ちになれる。お手軽に憂鬱になれるこの現象は、もっと有意義なことに使うべきだと思う。自室への座り込みを実行しようかという考えがかすかに脳裏をよぎった。 「■■■」 しかし、足元から急かすような声が聞こえてくる。頬が無意識のうちに緩んでいくのを感じた。 「今日も■■は早いね。はあ、その早起き力を分けてほしい」 軽口をたたきながらも、すこしだけ頬がゆるむ。 「はいはい、もう行くから離して」 ■■をそっと引きはがし、一歩、二歩と玄関に向かって足を動かす。がちゃり、やけに重い音を立ててドアが開く。はあ......こっちの気も重い。 起立、礼。号令の声が響くのと同時に、一気に教室にざわめきが広がる。今日も退屈な授業を乗り切った──。その事実だけで心なしか気分が高揚してくるのを感じる。良い気分のまま帰ろうかと思っていた刹那、窓の外の景色が鈍色に染まっていく。空を見上げた途端、一気に雨が降り始めた。 「おいおい、雨なんて予報になかったぞ」 「しばらく降り続くって今予報に」 飛び交う声、ある種の阿鼻叫喚。教室のざわめきに同じ方向性が生まれた。しかし、あの天気から土砂降りとは。これ以上ひどくなる前に帰ろ......いや。 刹那、予感というか、第六感的なものが働いたような気がする。足早に階段を駆け下りる。勢いを保ったまま下駄箱のそばまで歩を進め、その空間に注意深く目を凝らした。 「......やっぱり」 錆の目立つ簡素な傘立ての中で目に留まったのは、無地の青い傘。以前私が置き忘れていた傘が、ぽつんと佇んでいた。思わず拳を握る。ありがとう、昔の自分、本当にありがとう。大慌てで下駄箱に向かっていく生徒たちを横目に見ながら、勝利の余韻のようなものに浸っていた私は、ふと小さな悪戯を思いついた。こういうことは、思いついてからは速い。傘立てからさっと身をひるがえした後、下駄箱の陰で息をひそめる。 「来るかな、■君」 この機を逃したら、きっともう機会はない。私は人を待つことにした。私が、待つに値する、待ちたいと思うような人を。彼のことを意識してなのか、鼓動が次第に高鳴っていく。彼は傘を置き忘れたりするような人ではないし、こんな日に傘を持ってきているとも考えにくい。嗚呼、なんて絶好の機会だろう。人の流れが徐々に少なくなっていく様子をひっそりと見つめ続ける。 「!」 待ち始めてから数分が経ったころ、お目当ての人が姿を現した。よし、ここで──。 そんな思いは、押し止められる。 彼の横に立つ人物、私が親友だと思っている、彼女の存在によって。彼女は、彼と隣り合って、雨を憂うような内容の話をしている。ほのかにはにかむ親友。私の知らない、その横顔。脳内で、檸檬の匂いがした。 「......そんな顔、できたんだ」 言葉が漏れ出て、脳が揺れる。無理やり目を見開きながら見ていると、彼は数歩進んだのち、鞄に手を入れた。一瞬動きが止まる。彼がちらりと傘立てのほうを振り向いた瞬間、彼の顔に浮かんだ動揺の色を、私は見てしまった。 ──もう、バカみたい。 私は陰から飛び出し、まっすぐに彼─彼らのもとに駆け寄った。 「あ、■■」 視線を合わせないように意識しながら、強引に彼の手をとる。 「え、ちょっと」 みすぼらしくて、ちっぽけな青色の傘。こんなのしかないけど、許してね。 無理やり彼の手にそれを握らせると、一度も振り返ることなく、私は雨のほうに向かって走った。雨粒が服に滲み込み、どこまでも冷たく私を押さえつける。真っ直ぐに零れ落ちるしずくが地面で弾け、乱れたステップを踏み続けていた。 まだしばらく、雨はやまない。 おばあさんの家でくつろいでいると、気づけば雨音がぽつぽつと聞こえるようになっていた。ぼくは慌てて帰路へと駆け出す。時々おばあさんの家に行っていることは主様には秘密だ。勢いを増していく雨をなるべく避けながら細い通りを走り抜けると、程なくしていつもの階段にたどり着いた。ぼくはたんたんと小気味良いリズムを奏でながら、何とか部屋の前までたどり着いた。一度小さく深呼吸をしてから、部屋の中へ耳をすませる。 ......大丈夫、まだ帰ってきてないみたいだ。軽く雨粒を払い、ほっとしながらドアを抜ける。 ぼくがソファーに倒れ込むと同時に、階段の方からこつ、こつとゆっくりとした足音が聞こえた。ぼくは足の疲れなんかすっかり忘れて、玄関の方に歩を進める。 「ただいま」 彼女はぼくに疲れた笑顔を向けてから、ゆっくりと靴を脱ぎはじめた。髪や服からは絶え間なく水がしたたり落ちている。今日もお疲れ様、と声を出すも、ん?と返されてしまう。んー......少しもどかしいが、こればかりは仕方ない。諦めて足元をくるくると歩き回ることにする。 「元気だね、■■はいつも」 彼女は少々乱暴にスリッパに履き替え、タオルで髪をわしゃわしゃと拭いている。 「......疲れた。もう、色々」 手早く部屋着に着替える彼女の顔には、いつもよりも深く疲れが滲んでいた。 「あー、ご飯」 彼女は一瞬キッチンへと顔を向けるが、すぐに踵を返す。 「今日はもういいや」 小さく呟いた彼女は、突然ぼくを抱えたかと思うと、ゆっくりとソファーに腰掛けた。そのまま寝転がって、ぼくを顔の前におろした。 「はぁ......」 吸われた。突然何をするかと思ったら、思い切り吸われた。驚きのあまり身動きが取れない。......でも、悪い気はしない。 「ずっとこのままでもいられない......わかってはいるけどね」 独り言を空気に溶かしつつ、彼女はゆっくりと立ち上がった。体を大きくしならせ、彼女の手から床に降りる。 「ありがとね」 彼女はどこか遠くを見つめながら、おもむろにそう言った。 ......まったく。 ■■■、君のその笑顔を見ていたい。自由でいてほしい。笑っていてほしい。疲れた時は、ゆっくり休んでほしい。 そして、明日も、階段から軽やかな音を響かせてほしい。ぼくの心残りは、きっとそれだけだから。 ぼくは小さく鳴いた。
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