幸福

こちかし



 雪が降っている。ミハイルは、人でごった返した駅のホームを、身にまとったカーキ色で蹴散らしながら歩いていた。数日前に母から届いた、幼馴染が結婚するという手紙。その際にこの国を離れるらしい彼女を探して、ミハイルは周囲を見渡していた。たくさんの荷物を抱えて行き交う人々の中に見えた、熟す直前の麦の穂色の髪に、太陽を透かす雲のような色の丸い瞳。間違いなく、ミハイルの探し人だった。
「アーシャ。」
「はい、はい......あ、ミーシャ?」
 声をかけると、大きな目をさらに見開いて、アンナは呆けた声を出した。その奥で、男が一人、顔を真っ青にしてこちらを見ている。そのことを気にした様子なく、アンナは大きなカバンを置いて、ミハイルの元へと駆け寄ってきた。
「間に合わないと思ったわ。」
「どうして手紙なんか出してきたんだ。」
「あら、悪い? お祝いしてほしかったのよ。」
 そう笑う彼女の視線は、ずっとミハイルの顔に向けられている。全身に纏うカーキ色も、身長差を考えればすぐ目の前にくるだろう胸元にも、少しも興味が無いようだった。ミハイルは、軽く帽子の鍔を引いた。
「く、国を出る許可は頂いております! ここに、そ、その書類が......。」
 ミハイルとアンナの隙間に割り込むように、男が割って入って来た。先ほど、アンナの奥で顔を青くしていた男だった。震えながら差し出された腕の先には、皺のついた紙が一枚。出国許可証、と書かれた紙には、確かに軍の公式な判子が押されていた。対象者の欄には、ベネデット・オルトラーニと、アンナ・アレクサンドロヴナ・グラチョヴァ。ふふ、とアンナが笑い声を上げる。
「ベネデット、彼は私の幼馴染よ。軍服で来たのには、確かに驚いたけれど。」
「え、えぇ......!?」
 ベネデットと呼ばれた男は、素っ頓狂な声を上げた。明るい茶髪がわずかに帽子の隙間から覗いている。真っ青な目をしていて、アンナが笑うのを聞いても、怯えた様子でミハイルと書類を見比べていた。ミハイルはそれをただ黙って見降ろすと、ひぃぃ、と細く悲鳴が男の口から流れ落ちる。
「先に乗っておいてくれる?」
「えぇ!? でも......。」
 ミハイルの国の男よりも、ベネデットは大きく表情が動くし、動作が大ぶりだ。今度はアンナとミハイルを見比べて、やっぱり青い顔をする。
「大丈夫よ、時間には間に合うように乗るから。少し話すだけよ。」
 ほら、行った行ったとアンナはベネデットを引っくり返して、荷物の方へと背を押した。ベネデットはやはり心配したようにアンナを見つめていたが、ミハイルが彼を睨んでいるのを見つけて、ひぃ、とやっぱり情けない声を上げた。
「気を付けてね、アンナ。」
「分かった、分かったから。」
 最後にアンナに念押しして、ベネデットはチラチラと振り返りながらも荷物の方へと戻っていった。
 あれと結婚するのか、とは聞けなかった。舌の先にさえ来なかった問いだった。
「......結婚すると聞いて、驚いた。」
「年齢的に? やだ、まだまだ若いわよ。」
「国を出るのは、もっと驚いた。」
「......えぇ。この国の冬が、嫌いで。」
「知っている。」
 彼女の両親が死んだのは冬だった。そのことを、隣の家だったミハイルはよく覚えている。それから彼女は同じ村の叔父叔母の元で育てられ、ミハイルよりも早く村を去っていった。叔父叔母と連絡を取り続けた母のおかげで、何とかミハイルはこの場に立っていた。
「やっとこの国を出られて清々するわ。子供は暖かいところで育ててあげようって決めてたの。」
「俺の前で言うことか。」
「張り切って軍服なんかで来ちゃった貴方の前で言うのよ。」
 くすくすとアンナは笑う。ミハイルを信用しきって笑う。ミハイルは、小さく口を開いた。音として吐き出す前に、ボーー、と大きく、汽笛が鳴った。
 それにつられるように、一気に人の流れが速くなる。あら、とアンナは呑気な声をあげて、汽車を振り返った。
「もう行かなきゃね。」
「......。」
「ありがとう、来てくれて。会えてよかったわ! 元気でね。」
「......あぁ、元気で。」
 アンナはにっこりと笑って、恐れ知らずにもミハイルの肩を叩いてから手を振った。湖に張った氷に日光が反射するような笑顔だった。その眩しさに、少し目を細める。ここで別れたら、もう二度と会わないだろうという確信があった。冷たい雪原を越えるための電車に連れ去られ、彼女はきっと、ここには帰ってこないだろう。冷たく凍えたこの土地には、もう二度と。
「アーシャ。」
 雪を溶かすような気持ちで、ミハイルは囁いた。アンナは振り返らず、歩き続けている。
「アーシャ。」
 わざわざ着てきた軍服の役目は、結局一つもないままだった。なんとなく、そんな気はしていたのだ。幼いころ、彼女が村を去るのを見送った日を覚えている。あの日着ていた襤褸の服はもう捨てたけれど、きっと、何も変わってはいないのだろう。
「......アンナ。」
 あの日と同じように、ミハイルはアンナの背中を見つめたまま、ただの一歩も動けなかった。
「......幸せに。」
 汽車に乗り込む寸前、アンナがこちらを見たような気がした。しかし、すぐに姿を消してしまう。まるで引っ張り込まれたように。駅のホームからは、人が随分消えていた。アンナの夫もそうだった。
 ボーー、と汽車がうなりを上げた。ガシャン、と車輪が回り始める。鉄でできた重い機体を引きずるように動き始めた汽車は、やがて前のめりになって、どんどん速度を上げていった。
 幾人かが、汽車を追いかけて走り出す。重いコートを揺らした少女。帽子を振って叫ぶ青年。小さな体で今にもこけそうな少年。追いかけられた乗客たちも、上半身が落ちそうなほど身を乗りして手を振った。さようなら、さようなら、またいつか! 高く澄んだ別れが、汽車の音に負けじと響く。
 その光景を、ミハイルは、道端の石のような目で見つめていた。アンナの姿は、見えなかった。
 雪が降っている。汽車が起こした風で、頼りない雪の粒たちはかき回されて、ミハイルの頬を勝手に濡らした。駅のホームを抜けた汽車は、雪原の真ん中を突っ切って、黒い小さな点になるまで遠くなる。やがてその点さえも見なくなり、線路を揺らす音も聞こえなくなって、別れを惜しむ人々は去り始めた。汽車を追ってホームの端まで走り、手を振り続けた人々も、ゆっくりと、しかし確かに踵を返し始める。
 けれど、ミハイルはその場に立ちすくんだままだった。堅苦しい服で、細めた目で、南へと至る地平を見つめていた。
 きっと、握った手が熱くて振りほどきたくなるほど暖かい国で、彼女は幸せになるのだろう。そうでなければ、ミハイルはきっと、永遠に祖国の冬が嫌いなままだ。
 だから、どうか。かじかむ余地の一つもない、暖かで柔らかな幸福を。ずっとずっと、願ってる。


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