Bさん曰く

植場


植場

 これは、私の友人のAさんが実際に体験した話です。

 中学生のころ、Aさん一家は団地の二階に住んでいました。Aさんの自室の窓は駐車場に面していて、道路を挟んだ向こう側には小さな公園が見えます。勉強机は窓際に置かれていたそうで、勉強に疲れたとき、Aさんは窓から公園の様子をぼうっと眺めていました。朝には体操をするおじいさん、昼には遊びに来た親子連れ、夕方になると部活帰りの学生が屯するのが見えて、地域の生活を観察している感じが好きなのだと話していたのを覚えています。
 ただ、日が沈んだ後にその窓を覗くことは、ほとんどなかったそうです。
 その理由は、公園の手前に設置された電話ボックスにありました。
 昔は町を歩くと頻繁に目にしたものですが、近頃は撤去が進み、災害時に備えて最小限の数が残っているに過ぎません。その電話ボックスも、そうして撤去を免れた内の一台であるようでした。
 当時は既に携帯電話が普及していましたから、私たちの世代で電話ボックスを利用したことがある人は少ないでしょう。Aさんも同じでした。人ひとりが入れるくらいの手狭な直方体で区切られたその空間は、体験したことのない者にとっては一種の異界です。さとるくんや怪人アンサーといった都市伝説も、当時の子供たちが電話ボックスに抱いていた、漠然とした恐怖が形を成したものなのでしょう。もちろん、それらの怪談はとっくに廃れていましたが、Aさんが電話ボックスに対して感じる得体の知れなさも、つまりはそういうことでした。
 そして、もうひとつ。
 夜になってからその窓を覗いて、街灯に照らされた電話ボックスがふと目に入って。
 もしその中に、人がいたらどうしよう──
 そんな不安が頭から離れなかったというのです。
 その人は誰なんだろう。なぜ携帯電話を使わないのだろうか。こんな夜中に何をしているのか。通話相手は誰なのか。何を話しているのだろうか。
 その人が振り向いて目が合ったら、どうしようか。
 夜の間、Aさんは努めて窓を覗かないようにしていましたが、空気を入れ替えたいときや、カーテンを開け閉めするときは、どうしようもありません。
 八月の蒸し暑い夜のことです。
 昼間は窓もカーテンも開けっ放しですが、カーテンを開けたまま寝るのはなんとなく落ち着かないそうで、ベッドに入る前に閉じるのが夏の夜の習慣でした。
 その日は課題を片付けるのに手間取り、十二時を目前にしてようやく寝る準備が整ったそうです。あとはカーテンを閉じるだけと、窓に近付きました。
 ふと、目に入ってしまったのです。
 夜闇に浮かび上がる電話ボックス。
 その中に背を向けて立っている、黒い人影。
 誰かが──電話を使っていました。
 言ってしまえば、それだけです。しかしAさんは、ついに見てしまった、という気持ちでした。団地から電話ボックスまで、五十メートルほどでしょうか。顔は見えないにしろ、目を凝らせば、その背格好や服装は十分に確認できます。
 誰だろう。近所の人だろうか。もし知っている人なら、よく見れば分かるかもしれない。
 ほんの少し、目を凝らすだけで──
 Aさんはすぐにカーテンを閉じ、ベッドに入りました。

 一度そんなことがあれば、気にせずにはいられません。
 毎晩、カーテンを閉めるとき。ちらりと、視線が勝手に電話ボックスの方に向かうのです。
 もちろん、そこには誰もいません。ただでさえ、利用者の少ない公衆電話。それも人通りの少ない夜中です。きっと、トラブルが重なって仕方なく使っただけだろう。あの夜のようなことはもうない。高を括っているのか、自分に言い聞かせているのか......Aさんは毎晩、溜め息を吐きながらカーテンを閉めていました。
 次にその人影を見たのは、僅か一週間後でした。
 同じ曜日、同じ時間。遠目に見えるシルエットも、一週間前と同じように見えました。Aさんは愕然として、電話ボックスを見つめていましたが──やがて我に返ると、すぐさまカーテンを閉めてベッドに潜り込みました。
 しばらく眺めていても、その人影の正体は分かりませんでした。体格は大きくも小さくもなく、また服装にも特徴はありません。性別はおろか、年齢すら判然としませんでした。確かなことは、それが通話をしているということ。受話器を右耳に当てた姿勢は見間違いようもありません。頷くでもなく、手振りをするでもなく。ただじっと直立して、通話をしているようでした。
 翌朝に目覚めて窓の外を見たときには、当然、人影は消えていました。
 
 このころには、Aさんは恐怖よりも疑念のほうを強く感じるようになりました。
 人影の不可解な振る舞いもそうですが、中学校のクラスで、とある噂話を耳にしたのです。それは、夜中に掛かってくる不気味な無言電話の噂でした。決まって金曜日の十二時ちょうど、家の固定電話に非通知設定の電話が掛かってくる。受話器を取っても相手は何も言わず、やがて通話は切られる。一週間後、別の家にまた同じ電話が掛かってくる──というものです。実際に体験した地域住民が何人もおり、その中にはAさんの同級生数名も含まれていて、自治体や教員の間でも問題視され始めているようでした。
 クラスメイトらは様々な憶測や、尾鰭の付いた噂話を交わしていましたが、真相に最も近いのは間違いなくAさんでした。件の人影が出没する日時もまた、金曜日の十二時だったためです。Aさんは、あの人影が電話の主であることを確信していました──であれば、残る疑問はひとつだけでしょう。
 なぜ、そんなことをするのか。
 不気味ではあれ、実害と呼べるものはまったくありません。愉快犯にしては手口が不可解です。自治体も、それを理由に警察への通報を躊躇っているようでした。
 Aさんもまた、人影の件を誰かに伝えるのを躊躇していました。理由は単純で、まだ二度目だからです。
 もしかしたら、偶然かもしれない。来週からは現れないかもしれない。そんなわけがないと頭のどこかで考えていながら、「かもしれない」の壁は分厚いものでした。三度目......もし来週の金曜日もあの人影が現れたら、教員にその旨を伝えよう。そして、その次の週には、無言電話の犯人が捕まるだろう。そう決意して、Aさんは次の金曜日を待ちました。
 一週間後。夜中の十二時ともなれば両親は既に眠っており、聞こえる音といえば虫の鳴き声と、ときおり自動車や電車の走る音が遠くから響いてくるだけです。電気を消すと部屋は静寂と暗闇に満たされ、半開きになったカーテンの隙間から、Aさんは落ち着かない気持ちで外の風景を眺めていました。
 電話が掛かってくるのは十二時ちょうどですから、見張りを始めたのは十一時四十五分ごろです。しかし、十五分が経っても、通行人の姿すら見えません。不安と緊張で高鳴っていた鼓動も、三十分を回るころにはすっかり収まってしまいました。やはり思い過ごしだったのだ。早とちりして誰かに話さなくてよかった。安堵と落胆の入り混じった溜め息を吐き、Aさんはカーテンを閉じて窓際を離れました。寝る前に、お茶でも飲もう。部屋を出て、台所に向かおうとしました。

プルルルルル プルルルルル
 全身の毛が逆立つのを感じながら、Aさんはリビングの片隅に置かれた固定電話に目を向けました。

プルルルルル プルルルルル

 頭が「非通知設定」という文字の意味を理解したとき、体は既に自分の部屋へと駆け戻っていました。変わらず部屋を満たす静寂が、心臓が早鐘を打っているのを否が応にも意識させました。震える手で、ゆっくりとカーテンをめくります──

 電話ボックスの中に、人影が立っていました。

 受話器を取るという選択肢はAさんの中にありませんでした。噂の通りなら、電話が掛かってくるのは十二時ちょうどのはずなのです。人影が十二時ごろ電話ボックスの中にいるのは、Aさん自身も実際に目撃しています。
 なぜ、今日は三十分も遅れて現れたのでしょうか。
 Aさんが目を離すのを見計らったかのように。
 Aさんが見張っている、今日に限って。
 コール音が鳴り止むのを待ち望みながら、Aさんはひとつのことに気付いていました。
 あの人影は、左手で受話器を持っている。
 以前に見たときは、二度とも右手を使っていたはずです。なぜ、受話器を持ち替えたのだろう。今までは目を凝らすのを意識して避けていたのに、迂闊によく見ようとしてしまったのは、混乱ゆえでしょうか。
 目が合いました。
 左手で受話器を持っているのではなくこちらを向いて立っているのだと理解する前に、Aさんはカーテンを閉めてベッドに潜り込みました。ほどなくして電話は鳴り止みましたが、Aさんは一晩中、寝ることもベッドから出ることもしませんでした。

 以降、無言電話の噂は徐々に沈静化していきました。
 全ての電話がAさんの家に掛かってくるようになったためです。
 Aさんは十二時になる前に寝るよう努めました。しかし、寝ようとすればするほど眠れなくなるのは言うまでもありません。コール音が鳴り止んで初めて、Aさんに安息の時間が訪れるのでした。
 一晩中電話ボックスを見張った時さえありましたが、思わずうとうとしてしまったAさんをコール音が叩き起こしました。はっとして窓の外に目をやると、電話ボックスの中に人影が立っていました。その視線から逃げるように、Aさんはカーテンを閉じました。
 そんなことが、十数回も続いたでしょうか。
 ......そう、十数回です。一週間ごとを十数回ですから、既に十一月も半ばを過ぎていました。Aさんが見張っていない限り、人影は金曜日の十二時という時間を守り続けました。現れる姿も立ち去る姿も見せず、気が付くとそこにいて、電話を掛けてくるのです。変わったところといえば、三度目以降、いつもAさんの方を向いて立つようになったくらいでしょうか。人影の様子を観察する気は、もはやAさんにはありませんでした。
 警察に相談しようかとも考えましたが、人影はAさんの存在に気付いています。通報などすれば、その主がAさんであることは明白でしょう。なんの意味もない無言電話を数か月も続けるような、普通ではない相手です。怒りを買うかもしれませんし、そうなれば何をされるか分かりません。
 もっとも、犯人を捕まえたいという気持ちはAさんにはありませんでした。もちろん、警察が捕まえてくれればそれが一番ですが、無言電話が止みさえすれば、少なくともAさんにとってはなんの問題もないのです。二度とあの電話が掛かってこなければいい。あの人影の注意が自分以外に移ってくれれば、それでいい──簡単な方法をAさんは知っていました。
 受話器を取る。
 噂の通りなら、ひとつの家に電話が掛かってくるのは一度だけのはずです。なぜ自分の家にだけ、何度も執拗に掛かってくるのか......電話に応答していないからだと考えるのは、自然なことでしょう。実は今までにも、電話に気付かず応答しなかった家には何度か掛け直していたとしても、矛盾はしません。
 受話器を取り、電話が切れるまで待つ。きっとそれだけで、標的は他の家に移るのです。元より、ただ不気味なだけの悪戯電話です。余計なものを見てしまったから、無駄に怖い思いをしただけ。たった数秒間の沈黙に耐える。それだけで、すべては済む──
 Aさんはそう信じていました。

プルルルルル プルルルルル

 いつも通り、金曜日の十二時ちょうど。鳴るのが分かっていても、肩が小さく跳ねます。Aさんはリビングの椅子から立ち上がり、しばしの逡巡の後、受話器を耳に当てました。

「............もしもし」

声の震えを押し殺して、Aさんは応えました──
「













































 ..................。
 はい?
 相手が何と言ったか、ですか?
 さあ。その前に、電話を切ってしまいましたから。
 Aさんがではなく......私が、ですよ。

 半年も前になるでしょうか。
 急に、スマホに電話が掛かってきたんです。面食らいましたよ、今どき連絡はほとんどメッセージアプリですし──非通知設定でしたから。
 反射的に応答ボタンを押してから、まずい、と思いました。詐欺か、迷惑電話か......相手に電話番号を報せたくない理由なんて、やましいものしか思いつきません。でも、通話を始めてしまった以上、そのまま切るのはなんとなく憚られました。聞くだけ聞いて、怪しい感じだったらすぐに切ればいい──そう思って、とりあえずスマホを耳に当てたんです。
 通話相手がAさんだと分かって、余計に困惑しました。友人、といっても──たまに二言三言、話す程度の関係でしたし。中学二年生のときにAさんが転校してしまって、それっきりでしたから。同窓会の連絡かなにかか。いや、それこそ電話でやる必要はない......私が返答に困っている間に、Aさんが話し始めたんです。
 ええ、先ほどの話をです。
 早口で、捲し立てるように。何度か静止しようとしたのですが、口を挟むことすら許してくれませんでした。その割に口調には抑揚がなくて、機械音声みたいだ、と思ったことを覚えています。もちろん、昔のAさんはそんなじゃありませんでしたよ。明るくて、活発な感じの......普通の子、でした。
 電話って、相手がどんな顔をしているか分からないじゃないですか。だから私、ただでさえ電話が苦手なんですが──このAさんは、本当に自分が知っているAさんなのだろうか、と......話を聞くにつれて、自分がなにか得体の知れないものと繋がってしまっているような気がしてきたんです。Aさんを名乗る別人だと考えた方が、まだ納得できるほどでした。仮にそうだとしても、なぜわざわざ電話してきて私にこの話を聞かせるのか、という疑問は残ります。
 このまま、この話を聞いていていいものだろうか。
 そんな疑念が、頭の中に湧いてきたときです。ふと、あることに気付きました。
 Aさんの語り口が、僅かですが──明らかに、喜色を含んでいるのです。
 まるで、私にこの話を聞かせるのが楽しくて仕方がない、とでも言うような──
 あるいは、私が黙って話を聞いているのが面白くて仕方がない、とでも言うような。
 終いには、押し殺したような含み笑いさえ、話の合間に聞こえてくるのです。話が進むにつれて、語り口の異様さは増していきます。早口のあまり呂律が回っていませんでしたし、もはや笑い声を隠すつもりもないようでした。電話の向こう側で、Aさんが満面の笑みを浮かべている様子すら、目に浮かぶようでした。
 そのときにはもう、頭が困惑と恐怖でぐちゃぐちゃになって、呆然と耳を傾けるしかできませんでしたが──現実に引き戻されるかのように唐突に、ひとつの考えが芽生えました。
 この話を最後まで聞いてはいけない。
 理由や理屈ではありません。オカルトじみた思考だと、今となっては思います。しかし、Aさんの語る体験談が怪談めいていたためでしょうか、そのときの私には奇妙な確信がありました。この怪談に結末があるのなら──私は、それを知ってはいけない。
 
「声の震えを押し殺して、私は言いました──」

 本当に、本当に嬉しそうなAさんの声を最後に、私は通話終了ボタンを押しました。
 以上が、私の体験した出来事です。
 ......実のところ、少し後悔しているんですよ。やっぱり、話を最後まで聞いた方がよかったのかな、って。
 ほら、怪談とかでよくあるじゃないですか。「その後、○○さんの姿を見たものはいません......」というような。じゃあなんで○○さんに何があったのか分かるんだ、という突っ込みも、もはや陳腐でしょう?
 でも、Aさんは、自分で自分に何があったのか、私に伝えようとしていたんです。背後にどんな意図があるにせよ......私が最後まで話を聞いていれば、Aさんに何があったのか......どこに行ったのか、分かったかもしれないんですよ。
 Aさんが最後に話したの、私なんですよね?
 先ほど言った通り、そんなに仲が良いという訳でもありませんでしたし、たまたま家が近かったという、それだけの関係です。どうしてAさんが最後に私に電話を掛けてきたのか、私にも分かりませんが......明らかに尋常な様子ではありませんでしたし、ちゃんと話を聞いてあげればよかったと、今では思います。
 
 ......ああ、もう充分ですか? いえ、すみません、長々と付き合わせてしまって。この話が何かのお役に立てば幸いです。
 では、本日はお電話ありがとうございました。
 失礼します。


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