大関陥落 つげろう 浮かび上がってくる、しかし、それは熱気を帯びたものではなく、泥汗のように熱さのうらにうすら寒さをかんじさせる悲惨さの現れだ。建は、半乾きの泥のように、すっかり不安定なものになった心持を回復させるべく、あてもなく川沿いを歩いていた。垂れるように伸びる森の影に覆われて昏れていく集落に、川と山からの冷気がたちこめていくなかで、皮膚を薄く覆っていた日中の暑気と汗は、はがれるようにひいていく。かれは、頭に考えの搾りかすを一杯に抱えながら、これからをどれだけ、自らで許せるものにできるのか、あいまいにいつものようにしまいには、投げ出してしまう確信に型通りに背を向けながら、黒くきらめく川面をみつめた。向こう岸の淵に、ゆらぎたつしなやかさで傾いて生えている柳が、かれの心をその枝が風に靡いてさらっていく。建は、半年前に、集落のはずれのガソリンスタンドのおっさんがぬっと黄昏の薄暗闇から現れたことに対して、それは分断された物語のひとつの断片として受け入れなければならないと、川から登ってくる冷気に半袖からぶら下がった腕に鳥肌を立てた。もし、おっさんが唐突にではなく、同じ人間として感じ取れる機微のある前後の文脈を備えて現れたならどうだろう、とかれは、川面をガードレールから乗り出してより近づいて見つめようとすると同時に問いを積み上げる。おっさんが、川の岸辺に立ち尽くす一瞬、柳と対峙する形になって瞼をかたくしぼっただろうところは、案外想像に苦しくなく、引き込まれるようなところもないだろう、問題は、柳に絡まっていたところを見つけられた後だ、消防団で駆けつけた親父曰くそもそも矮小な身体だったおっさんは猫みたいにかかえられて病院へつれていかれたらしく、親父のつねにあかぎれているために想像中でも正確に剥がれた皮膚を舌で舐め取る動きを再現できる唇からこぼれでた「猫」から近所を徘徊するワタ埃みたいな病気の痩せ猫を連想して、かれは問いを上から叩き潰すように崩した、病気の猫! と。溺れかけていた人がそうするように、建はくちをぱくぱくさせながら、肺に冷え冷えとした空気を充填させ、川面の黒々としたゆらめきから顔をひきはがした。彼の丈夫とはいえない気管は、ちくちくする不穏さに震えて爆発し、目に滴った涙にかれは現実の風景から脱したのち、筋立てされた感傷にとりこまれ、ふらふらとガードレールを離れて復帰した道のりの薄暗い先をこんどははっきりとした目的を持って進んだ、るーは、るーはきょうもいるだろうか? 太陽が没して久しく無限に広がる奥行きを得た田と集落を別つように抱いている、川および道なりは、闇の淵として伸びていて水の音はなおも滝のへりとその流れに垂直に逆らって歩いている錯覚を起こさせた。建は、期待を自分の中で大きく育てることに、当然にそれが裏切られる、というよりも何が転換することも無くあおぐろいアスファルトがえんえんと続くことをおもって躊躇しつつ、その実が身体の内側を背徳的にくすぐるまで膨らむことを許してもいた。もし、期待がそのままに立ち枯れしたならば、この先の道路改修記念碑がたつ、道をさらに細い二本に割く分岐点で、器からあふれだす寸前の水面の静止のような正気を保っていられるだろうかと、かれは危機を予感した。それは、自分自身が器を勢いよくひっくり返したのちに、碑に対して踵を返して闇の道を逆に体になじむものと得た、とさらなる破綻にむかって一歩を出すというようなことが決してないという直感のためだった、危機は熟した後も膨らむことなく身体にたいして小さいまま爆発し、自身の心臓のみを狂いなく砕くものだ。晒上げるような他人の顔を思い浮かべようとも、表情はやわらかにおのれの顔に変化していくのを、握り拳をつくる力すらなく見過ごすしかできないことに、かれは膨らみつつある期待の中心で徐々に鮮明になる顔の心地良さを再確認した。ただ会うことが出来れば救われるというような不幸を軸にからみつく蔦みたいなものの無く、彼女と自身の間にはいつでものびのびとした光が満ち時間が静止した小世界ができるものだ、とかれは射していた橙の光がひいて深まるくら闇に期待をそのまま自らの拳の筋の力に変換できる手がかりを捉えるために目を凝らした。 ●-●-●-〇-〇-〇-●-●-〇-〇-●-●-(5勝7敗) 大相撲九月場所、西大関の十二日目までの星取はこうだ。長期休場あけの横綱の全勝優勝で終わり、平幕優勝が二回続いていた土俵に番付の重みを求める声がやっと止んだ先場所、かわって二人の大関へ矛先がむけられた。それもそのはず、東大関は中日までかろうじて横綱に二敗で追っていたが、結局はクンロク、西大関にいたっては初日から負けが重なり、皆勤で十敗を喫した。先場所、横綱と優勝争いの舞台にたてたのは、幕内二場所目ながら大銀杏も結えないいわゆるルーキーであったことも、大関への観衆の目をよりいっそう厳しいどころか、諦めの混じる冷たく鋭いものにした。特に、西大関、十敗のうち、角番が決定した八敗目の土はそのルーキーにつけられたものであり、今後かれが高みにのぼる過程において、この勝ちはいくぶんか飾られて記録されるだろうが、立ち合い速攻で大関を寄り切った力士がすこぶる強かったというよりは、力なく憂鬱な軟体動物を思わせる巨体をもてあまして土俵を割った大関が弱かったのだというのは、会場で実見したものと中継越しの多くの目が同意するところだろう。結局のところ、東大関が十三日目にルーキーを退けつつ、横綱が堂々の優勝を成したことは、番付の世界に変化と安定の微妙になりたつバランスが再び戻って来たことを予感させ、来場所以降も、共通認識上の、儀式としての安寧ともいうべき予定調和と、勝負として求められる番狂わせとのせめぎ合いの魅力は保たれると思われた。しかし、九月場所初日から、満身創痍の横綱は二つの金星を配給したのち休場し、期待のルーキーも振るわない。かといって新入幕力士もおらず、熱気のない土俵には、淡々とした繰り返しの構造が露呈し、それは滑稽にも白々しさにも人々の目に映った。横綱の休場により、最高位をはる東西両大関も、東大関が勝ちはするも安定とはいえず、爆発力もない相撲で中日五勝三敗、仮に十二勝で優勝しても綱取りの声はかかりにくい、角番の西大関はさきの星取表のとおり中日でひっそりと五敗、他三役も星をくいあう格好となっていた。観衆は、不甲斐ない上位陣、と平幕優勝へ目を向け始める。平幕優勝には、三役力士の優勝にないドラマのつくりやすさがある、しかし、横綱大関の優勝額の連続に、ぽつりと前頭の名があるからそれは渋い光を放つのであって、そう連続しては番付という大相撲の幻想の根幹が崩壊する不安が訪れるのだ、それにつけても人々は大横綱の出現をなかば信仰のように確信してしまう、今までがそうであったから......。大相撲をみるものは、ひとまずこの場所は平幕優勝で終わるだろうと、平幕の好調力士とその人となりを取りざたし始める。そして、一部殊勝な人間たちは、角番大関がその地位から陥落するか否かの凄惨な戦いぶりに、一種の詩を見出そうとしていた。 「今日も......」 薄暗やみにぼうっと白い岩みたいにうずくまっているものを、それを足元にするまでは岩のように不注意でただその前に来たというふうに近づいたは良いものの、建は岩を肉に戻すための呪文を言いよどんでしまった。小さな白い岩は、黒に近づきつつある濃紺の空に浮いているぼやけた島影みたいな表情の顔を見あげ、かれが予想していたよりもはやくにそして利口に状況の可能性をよみとり、途方もなく深い峡谷として隔たっていた緊張をそっと指先につけた接着剤でふさがる小さなささくれとごまかす。 「ケンちゃん、相撲みた? 」 建は、陸地でのたうち回ることをすっとばしていきなり干からびかけた魚になったような気持だったが、なんとか水を得て、夕べの露に雑草の一本一本がきらめく立体感を持つ道端に浮かび上がってくる大きな目の利発的な微笑みに、自らでも魚の伸びる顎の仕組みを思わせるぎこちなさで微笑をつくった。かれは、満ちていた草の香りをあますことなく吸い込むように周囲を見回し、なんども角度を変えながら犬の糞を拾い上げようと格闘しているスコップとその持ち主が、ほんのすこし気にかけていた落ち着きのない犬の行方を捜した。犬は、橋を渡った向こう側の草むらからひょいとその白い耳を出したかと思うと、暗やみに途切れ途切れ胴や脚を出現させつつ、マジックの瞬間移動のように数秒後にはかれらのもとへ到着した。そして、糞を拾い上げた飼い主が母親か、子分にたいする親分かその中間のため息をついて犬の平たい額を小さな掌で叩くのを見て建は、今度は自然な笑みを浮かべた。 「今日も負けちゃったなあ、昨日もだけど。明日も負けたら陥落で、引退するかもなあ」 薄汚れた白いウインドブレーカーは、その体格に見合わず大きいために着ているというよりは、農薬の袋に穴をあけて被っているように見える。建は、しゃがんでいた時とほとんど変わらないような差で見下げつつ、彼女の驚きとあどけない抗議が共存するまなざしを横抱きにする感覚に心地よさを自覚して道路改修碑を目にすることなく集落への帰路についた。 建は、皆な"るー"と呼ぶ少女が、厳しい冬の峠を自転車で通学するためにまだはやい中学校が指定するウインドブレーカーを着ていることに吸いつくような親しみを感じた。裾の刺繍は、誰かのお古であることを示唆しているが、何年もその姿で極地を旅する旅人のように着慣れた感がある。かれは、傍らであか黒く垂れた口の肉に白いあぶくを湛えている犬とるーが、そろいの小さな白い陶器の人形みたいに近所で遊んでいるのに、粘つく汗にむせかえるウインドブレーカ―を着ていた頃から一つのまなざしを持っていたことを、後ろを振り返るように思い出した。建は、そのために、隔たりを満たしている闇に顔を浸して、るーの表情を覗き見ることを躊躇して、行き場を無くしたまなざしを、かれらの数歩先で路傍に執拗に体をこすりつけている犬に据えた。近づくたびに、犬は錯乱とも恍惚ともいえない微妙な表情を明らかにしてかれらにそれをやめさせるためのいつもの定期的な徒労のため息をつかせた。 「犬ってのは強い臭いが好きだからな、何か強烈な臭いを体にこすりつけときたいんだよ。そうだなあ、たばこ自販機の家にボケた爺さんがいるだろ、最近、道端でところかまわず立ちションするから困ったもんだって聞くけど......」 かれは、言い終わる前に全身をつかい力ずくで犬を地面から引き剥がしていた飼い主の表情を見て、射られるように後悔と今まで続いた酩酊に嘔吐する正気に襲われた。しかし、かれは航海において一度は見失い再発見した、黒い岬の影のように不気味な自分のふらつきに、もうすべてを委ねることしかできなかった。建は、また再び感傷的になり、かれの毎夜を支配していた妄想を膨らませながら、よく近所の老人たちからアホ! と罵られる犬と、その不幸な飼い主から距離をとった。集落の宵の灯りは、どこも小さい窓の家の造りから、決して華やかさなどはなく、一つ一つが誰かを疑いつつ脅しかける陰湿な目のようだった。るーと、彼女と離れようとしていながら、感覚の部分的な喪失から実は近づきつつあった建の帰路との結び目にあたる三叉路で、かれは遠い外国の歴史の一事件ほどに自身のなかで縮めていた存在を、ますます混濁する意識の中から掬い上げ後ろを振り返った。まなざしは、恐ろしいほど近くに不時着地した。瞬時に、かれは足元の楽天的に舌をつきだした犬とは対照的なおびえる犬と化した。建は、自身が犬となる想像だけをかろうじて夢想のように維持しながら、飛び散る火花みたいな落ち着きなさの、突発的に出た明るい声で差し出された白い花のような手を見つめる。彼女はかれの曖昧な言説に自らの手を汚され、それでいてかれにその被害の事実を確認するように要求したのだ。かれは、でも明日も相撲はあるよとわけも分からず微笑し、小さな手のひらの中央の落ち窪んだ部分の儚い蜃気楼を捕えるみたいに、彼の想像の中で長く鋭く伸びた鼻を近づけてにおいを嗅いだ。 画面越しの熱気というものを、建は信じることを、自らの性分に照らし合わせて、なんとなく拒んでいたが、それでいても、国技館に満ちた晩夏の湿っぽい空気は画面を乗り越えて、かれのいる小教室に溢れてくるようだった。 かれは、父親の知り合いが経営している隣集落のささやかな規模の学習塾で、塾に欠かせない役割未満のどろどろとした半固体のイメージをもつ労働を担っていた、かれに集落とそこを一端として広がる世間に、ある程度とっくに成人した人間としての存在の正当性を最低限に担保している仕事だ。かれは、自分を雇っている塾長とその憐憫の感情に素直に感謝していたが、その裏でおれはもう永遠に閉じつつあって挟まる脚をちぎり飛ばすこともないネズミ捕りにかかっているのではないか、と疑念を常に抱いていた。疑いはかれをいやらしく安易な破滅願望に顔を向けさせるが、妄想は頭痛が現れて遮られる。そしてまた、塾長の机に据えられた小さなテレビと、その周りに二か月に一度出現する小世界の循環にひきこまれて抜け出せないでいた。 るーは、まだこの塾で学ぶ年齢に達していなかったが、塾長の親戚だったので気ままに遊びにきていて、きりきりとした時間が過ぎていく教室で、一人だけ自由な時間を享受していた。本場所が始まると、彼女は、その歳のわりには凛とした横顔でテレビに向かう。建は、るーが大相撲をどこまで愛好しているかは測り得難いと感じていたが、傍らでともに見ているうちに、彼女が特に西大関の土俵に純粋な体の傾きを捧げていることを知りえたのだった。 建は今日も、十両土俵入りが始まる頃に、教室に入った。塾長は塾のカギをあけたあと、始業まで隣にある自宅に立ち戻る。教室では、幕下上位の苛烈な土俵を前にしながらも、少し眠たげな目をしたるーがイスに縮こまっていた。大相撲は幕下十両間の戦いがいちばん面白いことを、また教えてやろうと思いながら、建は自分のデスクから椅子をひいて傍らに座った。教室の隅にある塾長の机の対角では、薄汚れたホワイトボードを背に、前に崩れかかった姿勢をして、ひと眠りしようとしている女の講師が、かれを一瞥した後、ため息をついて瞼を閉じた。その講師は、愛人というあだ名を持っていた。彼女はまた別の集落出身で、建より四つほど若く、その田舎で一番賢い高校を卒業か中退かしたあと、何やらの専門学校に通っている事だけをかれは知っていた。愛人というあだ名は、よく授業前に、塾長に連れ添ってベランダでタバコを吸いにいくことから、男子生徒を中心に発生したものだ。建は、彼女の周りに漂う曖昧な愛人的な雰囲気や文脈を敏感に感じ取る男子中学生の皮膚感覚を興味深く思い、このあだ名を心の中で使っている。実際に、そのあだ名の妥当かどうかは、確かめようがない、なぜなら彼女はかれを明らかに、デスクのコンピュータ以下の存在に置いているような振る舞いを隠そうとしておらず、かれも、ただそれに反逆すること無くコンピュータみたいにじっとして、じりじり鳴くコンピュータ以上に静かに黙っているだけだからだ、ただ大相撲中継の時間を除いては。 前頭6枚目までの後半戦を終え、小休止に写される前半の星取表に、前日までは好調力士の黒星が並ぶ。さらに、淡泊な取り組みの多かった前半である、その一つ一つの勝敗が、角番大関の土俵へ観衆の目を否応なしに向けさせる。中継では、後半戦が始まるまでの休みに、色々なコーナーを挿し込む。今日は、ありがちな往年の名力士、名勝負を映像で振り返るやつだった。アナウンサーが、不鮮明な白黒映像に解説をつけながら、昔の力士を称揚するVTRに沿った言葉を引き出そうと、解説に話をふる。しかし、面白味の少ない勝負が続いて機嫌の悪い元横綱とは、話は思うように続かずアナウンサーは愛想笑いを浮かべることしかできないようだった。 「昔の相撲は攻防があって、面白かったってよく言うけど、そりゃあつまらん相撲は映さないからな。今も昔も、大半は立ち合い一瞬の勝負で、こうも粘っこいもんじゃない。毎度毎度、"名勝負"を演じていたら、中日も迎えられずに死んじゃうだろうな」 建は、画面越しの解説に逆に注文をつけながら、同時にかれら二人に怪訝そうな目線を送る、背後で参考書を繰っている愛人に牽制に意志を示そうとした。それは、彼女が文句や揶揄を言ったりして、つま先の少しでもかれらの領分に立ち入るのを防ぐことではない。実際に、るーはかれの講釈に一つの息で返事することも無く、ただ"つまらない板"と化したテレビの前で、根本あたりに頑固に残ってちぎれない爪を噛むことに執着している。明確でなくても滲み出るような嫌悪と軽蔑の流れをつねに感知していたかれは、その発生源を刺激するようなことをしたくなかった、ただるーと愛人の間にある将来的なつながりを断ちたかったのだ。 大きな関脇が、うるさい小兵力士を捕まえた。小兵力士は、少し横にずれる立ち合いで、相手の巨体を仕切り線の間に沈める計画だったようだが、相手に読まれてしまってはしょうがない、相手は一人しかないしかし体格差を考えればぎゅうぎゅうの怒り狂った群衆のなかに飛び込むような戦いにその身ひとつで立ち向かわないといけなくなった。いびつなシルエットのがっぷり四つに会場は湧いている。小兵力士の方はなんとか廻しを切って再び距離を取るか横に食いつきたいところだ。しかし、もがけばもがくほど肉の渦に頭からどんどん飲み込まれていくように苦しげだ。そして、重量無差別級の悲哀か、かんぬきで軽々持ち上げられた後、強引な小手投げで足裏が宙をなでてひっくり返ったまま土俵に叩きつけられた小兵力士、興隆しかけた会場の声援も一瞬にしてその色を失い、再び呼び上げの淡々とした声が目に見えそうなほどに重く響いた。カエルのようにへばっていた力士は、土俵をおりたあと右腕を曲げたまま抱えて痛みが血として両目から滲み出てきそうな顔で花道を引き揚げていった。 土塗れの小兵力士は、必殺の肩透かしで初日から7連勝し、賞杯を抱く候補の一人だった。その後二敗するも、昨日西大関を仕留めている。西大関が、古いカートゥーンのコミカルな悪役みたいに覆いかぶさるぐあいで上手を取ったかと思われた瞬間、電撃を食らった直線的な倒れ方で土俵に沈む。一方で小兵力士は、鮮やかに体を開いたのちの反動を、片足を軸に踊るようにして受け流していて一滴の汗もかいていないという風だった。小兵力士がいくら、軽やかに技を決めて巨漢を倒そうが相手は大関だ、大関が負けたまたは大関に勝ったという落胆と盛り上がりが、モザイク状にぶつぶつ湧き上がるのが常のはずだ。しかし、巻き起こった歓声は、童話にでてくる子供の英雄に対して村人があげるのと同じく一方的なものだった。負けたものは、倒されたあと砂か灰かになって消えたかのように物語から脱落させられていた。もうすでに大関の地位から番付上だけでなく、圧倒的な強者とそこを頂点として築かれる秩序を渇望する人々に横綱の繭としても見放されつつあるのだった。敗北者については、満足げに仁王立ちするハンターと、その足元で撃ち殺されたあと良い姿勢にセッティングされたトロフィー・ハンティングの獲物を想起させる切り抜かれた記憶だけが残されるだろう。 アナウンサーは、引き揚げていった小兵力士の負傷が深刻であることを、淀みなく進行する大相撲の儀式の歯車に合わせるように、事務的な口調で説明し終え、今場所の番付で東西四人に膨れ上がった関脇について誰が一番に昇進するかという話題を始めた。解説の元横綱は、ちょうど花道の奥に姿を現した、西大関を引き合いに出して、一転しっとりとした口調で、大関という地位の苦しみを語っている。その内容におおむね同意しながらも、建は、花道奥で付き人に背中を叩かせている西大関の憑き物がついたような表情に、憐れみよりも滑稽さを強く感じずにはいられなかった。しかし、それは冷笑ではなくて、同情と羨望のためだ。あの力士は、強くなければ滑稽にいきるしかない大関の地位から、陥落して抜け出すことができる。滑稽ではなく悲惨に生きることなど人間としては不可能だ、しかし勝負の世界であるからこそ地位に永遠は存在せず、大相撲の永遠性に外包されながらもそれに絶望することはないのだ。かれは自分のいる地平線からの脱落を暗に願い続けるが人間の理性に邪魔されて、煮詰まっていく心理にただ滑稽さを見出すしか術はなくなっていた、悲劇的な人間にもなれずに、滑稽な人間として、脱落することなく生きていくほかない、おれはどうやったって、柳に縋りついてしまうし、両脇をかかえられる毛の剥げた病気の猫から、またおれという人間に戻される、世界はどうしたって続いていく......。 角番脱出へ、そして大関として一敗以上の後退を与えた、かたきの小兵力士が敗北して重症を負っても、るーは何一つ言葉を出さなかった。建は、両者とも徐々にテレビの画面ににじり寄っていくために、半ばその肩を懐に抱くような形になっていた、彼女の顔を覗き見た。まなざしは、その年代の子供特有の、底の浅い空容器のようなものだったが、かれは瞳孔の一点に、滴らんとするほどに黒い部分を見出し、薄暗い未来への受容体としてひらかれているその小さな陥穽に、ただ震えるほどに冷たい一瞬を過ごした。彼女が、かすかなため息めいたものをつき、頭を建の胸に寄せてゆくのに、かれは反発するように身をひいて、切りそろえられた前髪の稜線越しに見上げている捉えがたいまなざしから逃れた。西大関の土俵が近づくにつれて、さらなる酩酊感覚を建は欲していた。贔屓でなくても気にかかる力士が仕切るときには、誰しもが突然、荒野にとばされる孤独感に襲われる。なぜ、るーは西大関を贔屓にしているのか、大関を掴んだ場所が頂点であとは低迷し続けもがく姿に、惹かれているのか、またもう一歩進んで馬鹿にされることからかれの輪郭を見出し、それを愛好しているのか。彼女をあいまいに見つめつつ、テレビの画面の褪せた光の明滅がうるさかった。 関脇同士の取組で、二人目と三人目の関脇が土俵に上がった。その次は、東大関と最後の関脇の取組、そして西大関はいまだ一敗とひとつリードしている平幕力士を結びで待ち受ける流れだ。 結びの二つ前の拍子木に重なって塾のドアベルが鳴り、青白い顔をした少年が入って来た。少年は教室の顔たちからほとんど無視され、さげたままの視線を長机にすべらせ自らの席に着いた。少年は仕出し屋の息子だった。かれの家は、山地一帯に散らばる谷沿い集落の祭儀の食事を一括してとりもっていたが、食中毒をだし営業停止中を言い渡されていた。周辺の集落の人間は、一面では、湿潤に気候にそったおおらかさを持っていたが、家の血のつながりのうえで繰り返すべき行事に対しては、一転、いけにえをささげる儀式をまえにする乾いた高地の民のように神経質になる。事件がおこり、それが単なる暇つぶしの噂話から、山々を覆う恐慌になるまでそう時間はかからなかった。 建は、少年の机に向かっている落ち窪んだ眼を眺めながら、かれが数日前に、この塾においても家の不始末を糾弾されていた様子を思い浮かべた。"カンピロ"という名をつけられ磔にされた少年、顔の筋肉を苦しく湾曲させてなんとかその理不尽な嵐をかれらの懐に収まるばかげたものにしようとする試みは、痛々しくて見ていられなかったが、かれにはそれを多くの他人に宣伝したいという矛盾した欲求も生まれていた、滑稽に生きる人間の行く末として。 「あんたのとこがやらかしたのって、結局カンピロとノロのどっちなの? 」 愛人が、唐突に顔をあげてその冷たい視線を十全にその場であらわした。教室はそこにいるものたちの不和が白く凝固していくように静まりかえり、一人だけその静寂に溺れるイメージをまとう少年はもがくように首をちぢめて小さく咳をした。建は、愛人の意図の見えないあからさまな発言に戸惑いをおぼえたが、遭難事故が起きている海の浜で佇む優越を一方では感じていて、彼女に対して初めて連帯を意識した。そして、少年はどう返事するのだろうそれともこのまま押し黙るのだろうか、という期待に胸のうちが焦げるような感覚が襲う、それは確かに痛みだったが愉みでもあった。かれは回転椅子の角度をさらに少年の方へひらくが、回転の軌道がるーとぶつかり中途半場に止まった。不安が揮発している、るーの顔が目に入り、建は不意に頭痛の絶え間から湧いてくる英雄感に身体が火照るのを感じた。少年は寄生された幼虫みたいにぎこちなく上半身をみじろぎさせている。 「ノロですよ、カンピロじゃないです。うちの母親が牡蠣の加熱用と生食を取り違えしたもんで、すっかり母は何にも食えなくなって、下痢してる年寄の方が早く元気になるかもしれない。それにしても、カンピロなんて誰が言いだしたんだろう? うちがやらかしたのはノロですよ、そこは間違えてほしくないなあ! 」 少年が顔を歪ませて口角をあげているのに、建はハゲワシの翼の影がその溢れ出ようとしているはらわたに大きく伸びる様子を思い描いた。こいつはきっとこれからずっと半分腐った肉をぶら下げて啄まれつつ後退していくだけだ、きっとそれでいておれを、助けを求めるべき同族みたいに見つめるのだろう、あいつの腐臭がつくまえにおれは断崖を超えなければならない、かれは幼い冒険の妄想を自覚して展開する。それは脳がしぼんでいく感覚を引き起こし、かれは愛人が人工的な冷たさでもって少年の脚を撃ちぬいたのに対して、本能的なまたは集落の人間特有の素朴な構造の陰湿さにも通じる追撃を考えた。 「おまえのとこは、潰れやしないよ。だってこれから、どんどん年寄りが死んでいくだろうし、法事の数も増える。ここらの人間はばかみたいにおまえのとこで、オードブルやらなんやらを頼むだろうな。はやくまた店を始められるといい、年寄りが下痢して脱水でたくさん死んだら、それこそ稼ぎどきだからなあ......」 かれは言い終えるまでに、なにか皮膚が空気に張り付く感覚を覚えた。そして、自らの中であいまいに揺らめいていたものの動きがとたんに鈍くなり、その輪郭がまざまざと不快な存在感をあらわしてゆく。ふと途切れた意識を繋ぎなおすと二つの視線が自らを吊るしているのにかれは気づいた。 「まあ、あんまり気にしないのがいいよ。ここらへんの人間はろくでなしばっかりだし、もうちょっとしたら、また誰かろくでもないことをして、皆なあんたの家の事なんて忘れるよ。ホントにろくでなしばっかだから」 少年はもともと青白い肌のせいでひどく赤面しているようにみえた。それは死人の顔とかけ離れた生気に満ちている顔だった。建はいつからその顔を死人の顔に重ねていたのか、感覚の喪失の悪癖を恨んでもどうしようもなかった。かれは狼狽し、カバンの中をまさぐって皮膚が分厚くなったように鈍い指先の感覚で、強迫観念めいた冷めた期待を探し求めた。指先は薄いアルミとその内側を濡らす液体が生み出す情けないほど空っぽな反響音に、とまどいつつもまた新たに明確な気泡の破裂音を響かせる、建は自らの腕が別の生き物のように振舞うのに無力のうな垂れているしかなかった。かれは、なにか早急に弁解をしようと愛人の方を振り返り見た。彼女はただ微笑していた。建は、まえに一度この類の不穏な笑顔を見たことがあった。愛人が手慰みに自分のタバコの箱で机を叩いていたのに、きついのを吸っているなと、指摘した時だ、かれは手の動きを止めさせられるならばその文句に、彼女が軽蔑を口に出そうとも、逆に強いタバコを吸っている指摘につげあがって饒舌になろうともどうでもよかった。しかし愛人はフンと鼻で笑うと縁に化粧の粉がふいているほうれい線をつり上げ口のみで笑うだけだった。かれは、張り付いている別の生き物めいた動きをした口とは違って、がっしりと据え付けられて無機質な目に狼狽しすぐに体を前に戻してデスクの書類の束に視線をうずめた。かれは、その時当時もだが、あの時以上に働かない頭で、なにか懐に隠された匕首みたいなかれを侮蔑して攻撃する文脈があの微笑に隠されていることを考えた。そして、それを芯にして、何重にも巻かれた妄想を、消し去る最善の方法をとろうとするのだった。 大関の取組が始まる。建は、るーを傍らに、沈む船の舳先で恋人たちが死の恐怖を緩和するために一瓶の酩酊を分け合っている映画の一場面を自ら思い出すほど、なりふり構わなくなっていた。愛人とカンピロがどれだきたない舌に直結したきたない視線をよこそうとも、おれのそばにはそれを濯ぐような清泉がある、なおもまっすぐテレビ画面に垂直に切り立つような視線は、一度目の仕切りに発火した導火線をかれに思わせた。時間が押している、あと5分もせずに大相撲中継は終了する。 土俵上の塩が掃きとられ、対峙する両力士の白い身体は互いに独立感と調和の境にゆらぎたつ。張りつめた筋肉は照りのある皮膚の下で脈動し、たたまれる関節は声の無い悲鳴をもつ爆発寸前のばねだ、立ち合いには敗北を運命づけられたものから滲み出る音のない鎮魂歌が霧のようにたちこめた。大関はその音を聞いていたのだろうか、立ち遅れた一瞬に喉輪が食い込み陰りのある顔はどんどん紅潮していった。そして、喉と胸に突っ立てられた長い腕が音もなく引かれ、それを柱として不安定に建っていた白い塔は傾く。そのまま、大関はひどくゆっくり流れた一瞬の時間の刃で切り裂かれながら倒れこみ、土俵に突っ伏した。クジラの死骸のように白さに光が失われた大関の身体は土俵を雪が降り積もる海底に変える。観衆の極まったままほどけない硬直を置き去りにして大相撲中継は放送時間ぴったりにきりあげられた。おわりにカットインされた両国国技館の屋根が背負う、痛いほどに青く澄む空は、しばらくぶりに開かれて朝の湖の水面のように静止した建の目に突き刺さり、かれをおびやかした。 山々の稜線に切り取られた空は、徐々にその淡い桃色を失いつつある。褪せていくコスモスに似る色の空を見上げかれは足の裏、下腹部そして頭のさきまで引きずられる重力を感じ、さらに地を這う感覚は強まっていった。川面は炎をそのゆらぎに秘めて輝き、久しぶりに日の落ちる前の空虚な涼しさにかれは身震いした。川沿いを歩くのに、今日は砲弾の軌道計算のように精確にそして確かな意思をもち、何か一つの隔たりを飛び越えようとする人がみなそうするように拳を固く握る。かれは、傍らで取り留めのない水の流れを見ている少女に、自分でも取り繕っているのが分かる口調で来場所再び大関に復帰できる可能性について話した。橋の欄干に寄りかかったままのあいまいな嘆息めいた返事を聞き、かれはせせらぎの上の空中に手をのばした。白い犬が疾風のように向こう側から走ってくる。犬は、体のばねを露わに急に止まりよだれの垂れる大きな口から数回細かい呼吸をすると、かれに向かって大きく吠えたてた。
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