春夏秋冬物語-夏の章ー「片道切符」

怪鳥



 今、目に映っている夜の景色は、自分が知っているそれよりも、ずっと綺麗で、美しかった。右手の窓から覗く空には、深い藍色の布生地が敷かれ、その上には白い点たちがそれぞれに集まり、大三角や天の川など固有の団体を形成している。周囲に外灯がないことで、それらは、いっそう輝いて見えていた。目の前を左から右へと過ぎてゆく住宅地の景色には目もくれず、私が電車に乗り込んだその時から、無意識に目を奪われていたのは、いつもよりも美しく見えたこの空だった。
 ガタン。ガタンガタン。ガタン、ガタン。
 この電車に乗っているのは、おそらく私一人だ。0時間近の終電のローカル電車。私が乗り込んだ時にいた数名の大人たちは、一つ前の主要駅で皆、降りてしまった。多分、今、電車の中にいるのは、中学校の制服を着て、今日、中学校に持って行った荷物がそのまま入っているスクールバッグを持った、いてはいけないはずの、私だけ。
 急に、どこかへ行きたくなった。いつもいる場所に居ることが嫌になった。私が普段過ごしているあの場所から、逃げ出したくなった。一秒でも長くあの場所にいたくなくなった。だから、塾帰りに、家に帰らずに、逆方向にある駅に行って、所持金を全部使い、それで行ける分の片道切符を買い、電車に乗り込んだ。
 馬鹿だと思う。他人のことも、明日のことも、何も考えてない、今のことしか頭にない奴の、おかしくて、とても愚かな行動。でも、もう、この電車は出発してしまっている。引き返すことは、私にはもう出来なかった。
 ガタン。ガタンゴトン。ゴトン、ゴトンゴトンゴトンゴトン。ゴトン。
「ご乗車ありがとうございました。揺ヶ浜。揺ヶ浜です」
 車内に一人残る中学生のためのアナウンスとともに、取り付けられている全ての扉が一斉に開く。私が買った片道切符で行くことが出来るのは、ここまでだ。何者かに追われるように、自分の座席から最も近い扉から、外に出た。

 どうやらこの駅は、駅員が一人もいない、無人駅のようだ。運賃箱の中に、自分の持っているただ一枚の切符を入れ、完全に放置されている改札を通り抜けた。
 電車に乗って辿り着いたこの町は、静かで、小さな港町だ。深夜でも眠らないような、疲弊する程の、都会の明るさとはかけ離れた、静寂の町。この町に流れている空気が、もう静まり返ったものであることが、すぐに分かる。私はそこへ、コツコツというローファーの音を添えながら、あてもなく、町の中を歩き始めた。
 歩いていると、この町が如何に静かであるかよく分かる。耳に届いてくるのは、海の中から繰り返し出てくる波の音だけ。人間が出す音は、何も聞こえなかった。
音だけではない。人間の出す明かり、匂い、空気。私の周りでは、日が沈んで、夜が更けて、また、日が昇りだすまでずっとあるはずのものが、この場所では、その存在すべてが、消されていた。それが、今の私には、とても心地が良い。
 一軒家の集まる通りを抜けた先は開けていて、左手には、平地一面にひまわりが植えられていた。夜に見るひまわりの花びらは、黄色というよりかは、山吹色に見える。太陽の方を向いて咲くというひまわり達は、太陽が休んでいる今だけは、皆、海の方を見ていた。ずっと聞こえていた波の音の正体はあれだろうか。知らずのうちに私は、ひまわり達と同じ方向に体を向け、足を進めていた。

 海なんて来るの、何年ぶりだろう。去年、は来ていない。二年前、三年前、も来た覚えがない。来たのは四年前。おそらく小学三年生の夏、初めて家族と来たとき以来だろう。そんな人生二回目の海は、一回目の、炎天下の下、大勢の人が泳ぐ、白藍色のぎらりとした海ではなく、月の下、誰の泳ぐ姿もない深藍色の、普通ではない海だった。その深藍色の水の上では、いくつもの白い斑点が反射しており、私の目線よりも下の所で、新たな夜空が創造されている。二つの空が一つの景色に溶け込んでいる。幻想的で、いつもとは違う、特別な景色。現実から離れたような感覚。しがらみも縛りも何もない、至高の感覚。最高の場所。ずっと、この場所に留まっていたい。動きたくない。ここに居たい。そう思えた場所だった。あとは、海の中から触手か何かが伸びてきて、私を拘束して、海の中へ引きずり込んでくれれば......
「ねぇ、君、ここで何してるの?」
 え?驚いて声も出せずに、ぎこちのない動きで後ろを振り返る。さっきまではいなかったはずの、白のワンピースを纏った少女が、観察と心配の目をしながら、そこには立っていた。

*

 私の前に突如として現れた少女は、私と同じくらいの年齢で、背丈もほぼ変わらない。ただ、その少女は、腰まで届くほどのさらっとしたロングヘア―で、白いワンピースを着ている。そして、私に対して正体不明の不思議生物を見つけた時のような、興味津々の眼差しを向けている。可憐で、美しくて、少し不思議な女の子だ。
「ねぇ、なんで返事してくれないの?」
「え、あぁ、ごめん」
 自分が硬直していたことに全く気付かなかった。ずっと、突然現れた少女に目を奪われていた。
「まぁいいよ。その姿と荷物だったら......分かった。家出でしょ?」
「違うけど」
「え。......違うの?」
 そうだと思っていた答えを即座に否定されたからか、それとも間違っていたのに「家出でしょ?」と言ってしまったのが申し訳ないと思ったのか、少し強張った表情になっていた。
「いや、正確には『ちょっと違う』って感じ。あと、別に家出って言われたのは気にしてないよ」
「そうなんだ」
 そう言って励まされると、すぐに彼女は、彼女に似つかわしいであろう明るい表情に戻った。この気持ちの変化は、励まされた後、軽い足取りで私の周りを回るようになったことからも見て取れる。なんだかとてもふわふわした人だなと思った。
「君、名前は?」
「な、なまえ?」
「そ。名前。教えてよ」
 もし、学校の帰り道や、都会の街中で、知り合いでもない人にこんな事を尋ねられたら、ほとんどの人は間違いなく、その質問には答えずに、逃走を謀るだろう。名前なんていう立派な個人情報、見も知らぬ人間に易々とは教えない。でも、私は、今、この海岸にやってきている彼女になら、全く教えてもいいと思った。彼女には、私に絶対、危害を加えないだろうという、謎の安心感がある。
「朝宮波(な)岐(ぎ)、だけど」
「波岐かぁ。いい名前」
「そっちも教えてよ、名前」
「えぇ?」
 名前と言われて、彼女は少し答えるのを戸惑っていた。その戸惑いは、私を警戒しているとかではなく、どう答えようか迷っているという意味での戸惑い、であるように私には見えた。
「うーん。わたし、誰かに教えられるような名前、ないんだよね」
「な、ない?」
「うん。特定の、というか、固有の名前がないって感じ。......。そうだ!波岐が決めてよ、わたしの名前」
「え、私が?」
「そ。形式ばった名前じゃなくて、あだ名みたいなのでもいいよ」
 名前を決めて、なんてRPGゲームの中でしか言われたことはない。そもそも、名前を尋ねられて、あなたが決めてなんて答える人なんて、数億人の中に一人もいないだろう。本当に変わった子だなと思いながらも、ゲームの中でニックネームを決めるのと同じように、見た目と、そこから感じた雰囲気を基にして、名前を考える。海辺で数分彼女と話した中で生じた彼女のイメージを、そのまま彼女の名前にした。
「クラゲ」
「く、くらげ?」
「クラゲちゃん。どう、かな?」
 夜の海の中に溶け込む、見方によっては透明にも見える、白のワンピースドレス。ふわっとした雰囲気。そして、どこか不思議さのある彼女。それが、私には海月のように見えた。ぴったりの名前だと思ったのだが、私が予想していた反応とは違い、当の本人は、名前が伝えられたその瞬間から、涙が出るくらい笑っていた。
「そ、そんなに可笑しかった?」
「いやー、ユーレイとかそっち関係の名前かと思ってたら、クラゲって。考えてたやつと違ってびっくりしちゃった。でも、良いね。クラゲちゃん。面白いよ」
 自信満々で出した名前を可笑しく思われたという恥ずかしさと、褒められたという嬉しさで、感情の置き場が分からなくなる。だが、次、自分が何をしたいかということははっきりと分かっていた。彼女―クラゲちゃんと、もう少し近くで、もっと沢山のことを話したい。そう思った時に目に入った彼女の瞳は、黒色でありながらも、中に白色の光を宿しており、見ているだけで吸い込まれそうだった。私だけの物にしたい、真珠のような彼女の瞳。その瞳が若干左に動いたことで、彼女が、私から別の何かに視線を写したことに気が付いた。
「あれ?もしかして、もう一人来ちゃった?」
 彼女の動いた視線の方に、私も目を向ける。海辺に降りてくる階段の付近で、中学生くらいの男の子が、こちらを見ているのが見える。その男の子は、足で砂をじゃんじゃんと掻き分けながら、私たちの方へと近づいてくる。
「やっぱり、誰かいた」
「......え、誰?」
 酔ってしまいそうな、熱く、きらびやかな空気の中に、気まずい空気が内陸側から流れ込んでくる。場の空気が一瞬だけ固まった。この空気を和ませようと口を開いたのは、やっぱりクラゲちゃんだった。
「ねぇ、せっかく海いるんだし、三人で遊ばない?」

 私とクラゲちゃんが話している最中に現れたあの男の子は、望月翔という名前らしい。私と同じ中学一年生。そんな彼の身だしなみはとても外出している人の物とは言えないようなものだった。胸の辺りに短い英語の文章が書かれた、灰色の半袖シャツに、紺色の緩めのズボンを履いた彼は、部屋着のまま、着替えずにそのまま出てきたというような服装であった。さらに、所持品は、ズボンのポケットの中に入れているスマートフォンと財布だけ。人に見せられる最低限の服装と、最小限の持ち物だけを持った彼。おそらく、彼は、私と同じ、いつもの場所に居ることが嫌になった人間だ。だが、彼はいつここに来たのだろうか。あの電車には私と車掌以外に人影らしいものは見当たらなかった。それでは、私が来るよりも前からこの町に来ていたのだろうか。とにもかくにも、その彼は今、クラゲちゃんの指示の下、どういうわけか、スイカ割りをやっている。
 何か、夏らしいことしようよ。そう提案したクラゲちゃんは、私と彼を一瞬だけその場に放置させた直後、どこから手に入れてきたかも分からないスイカ一玉と、スイカ割り用の棒を持って、私たちの元へ帰ってきた。最初は、私も、彼も、全くといっていいほど乗り気ではなかったが、クラゲちゃんの熱烈な押しと、ここまで準備してくれたのにやらないのは失礼だという申し訳なさから、最終的には、両者とも、彼女の遊びに付き合うことに決めた。
「翔君、もうちょい前。前。あ!そうそうそう。で、左。まだ左。まだひだr、あ!行き過ぎ。戻って。右!もう......」
 スイカ割りは、棒を持った一人が目隠しをして、サポーターの指示の下、制限時間内にスイカを割るというゲームだ。サポーターの的確な指示と、割る側の、サポーターの指示に応えられる体感が必要となってくる。だが、割る側の人間は、目隠しで視界が奪われている上に、開始前に五回と三分の二回転をさせられるため、方向感覚が中々定まらず、自分の思うように進むことが出来ない。サポーター側がそれを見て、思うように誘導が出来ていないため、焦って指示が中途半端になる。それによって、割る側もどこに進めばよいか分からなくなる。それが、さらなる焦りを生み、時間をいたずらに奪っていく。そうして、時間切れになりスイカ割り失敗。このような状態が私たち三人の中で、三十分ほど続いていた。
 実際にスイカ割りをしているのは、あの男の子とクラゲちゃん。彼の方が目隠しをして、クラゲちゃんが彼を誘導する。私は、何もせず、ただスイカ割りの一部始終を見ているだけであった。どうにも、私は、あの男の子―望月翔―のことが好きにはなれなかった。それは、私と彼女の空間の中に入ってきたという理由だけではない。彼からは、私と同じような感じがする。それがどうにも好きになれない。軽い同族嫌悪。それが、今の私の中にあるような気がしていた。
「駄目だ。全然割れねえ」
 全然興味ない、という顔をしていた彼が、三人の中で最も悔しそうな表情をしていた。一度やり始めたものには、熱中してしまうタイプなのだろう。
「はぁ、まさかスイカ割りがこんなに難しいなんてね」
「一回休んだら?始めてから結構経つよ」
「そうだね」
 一旦休憩、という言葉を聞いた彼が、砂浜に置かれたスイカを一回目と同じ状態のまま放置して、私たちの方へと歩いてくる。
「ねぇ、次、波岐が指示役やってよ」
「え、なんで?嫌だよ」
「最初の方はやってたじゃん。もう一回くらいやってよ」
 確かに、最初の数回は、私が指示役になり、彼をスイカの場所まで誘導していた。だが、私と彼のコンビは、クラゲちゃんと彼のコンビ以上に、息が合わなかった。クラゲちゃんと彼のコンビネーションでは、かろうじてスイカの手前まで行くことが出来たが、私と彼のコンビネーションでは、スイカに近づくことすら儘ならなかった。
「俺もこいつとやるのは御免だ。指示遅いし。動きにくいったらありゃしない」
 近づいてきたついでに、口に出さなくてもいいような、苛立つ言葉を言ってくる。こちらを見ていないことをいいことに、脛でも蹴ってやろうかとも思ったが、私は、足を伸ばすことはしなかった。彼の言った通り、スイカを割れなかったのは、私の指示が遅かったことが原因だ。あの失敗は、私の方に非がある。
「わたしは、二人にもう一回スイカ割りやってほしいんだけどな」
「何で、俺とこいつなんだよ?」
「だって、......波岐と翔君の二人が、一番息が合うと思ったから」
 冗談だろう。隣で聞いていた私は、即座にそう思った。だが、その言葉を発した本人は、まっすぐに彼の目を見ていた。
「息なんて、合うわけないだろ」
「いや、合う。大体、翔君は勝手に動きすぎ。早くスイカを割らなきゃいけないって気持ちは分かるけど、もう少し落ち着いて、波岐の言うことを聞いてみてほしい。確かに指示を出すのに少し時間はかかるけど、波岐の指示は、私の出したどの指示よりも上手で、的確だったよ」
「......そうか」
「波岐も」
「え?」
 彼に向けられていた真っすぐな視線が、私の方へと移される。こちらに向けられた彼女の黒い瞳はやはり綺麗で、その中に吸い込まれてもいいと思ってしまう。
「波岐、翔君のこと避けてるでしょ?」
「いや、別に避けては......」
「分かるよ。それくらいは。ちょっとしか話したり、遊んだりしてないのに、翔君のこと避けるのはまだ早いと思う。もしかしたら、最初の数回は、息が合っていなかっただけかもしれないでしょ?」
「で、でも......」
「少しは、相手に期待してもいいんだよ?」
 期待、か。それは、どういう期待なのだろう。私の思い通りに動いてくれるだろうという期待。それとも、私のことを受け入れてくれるという期待。どちらの期待も、自分から誰かに求めたことはない。でも、どうせなら、私に少し似ている彼になら、求めてみてもいいかもしれない。
「......やってみる?」
「やってみるか」
 どちらからということもなく、二人同時に、同じ言葉が飛び出した。スタート地点に向かって、彼は再び歩き出す。
 正直、誰かに指示を出すのは、苦手だ。出される側からの、早く指示を出せ、という重圧にいつも耐えられなくなる。そんな私の思いにはお構いなく、彼はルール通り、目隠しを着け、開始地点で棒を起点にぐるぐると回り始める。五回回ったら、スイカ割り開始だ。
「始め!」
 私の後ろから、開始の合図が告げられる。今まで合図とともに進もうとしていた彼は、スタート地点から一歩も動かず、私の指示を待ってくれている。早く指示を出さなければと思いながらも、失敗のないよう、慎重に指示を考える。彼は今、開始前に五回回った影響で、体が、スイカからかなりずれた方を向いている。だから......
「まず、体、左に向けて。左向け左の要領」
「あぁ」と返事をして、彼はすぐに、私の思い通りの方向に、思い通りの角度分向けてくれた。これで、おそらく、向きは大丈夫。あとは距離だけ。開始地点からスイカまでの距離は約五メートル。彼の身長から考えると、大体五歩くらいで、丁度いい位置にたどり着くだろう。
「今のところから五歩、ゆっくり歩いて」
「分かった」
 そう言うと、彼は、すぐに、ゆっくりと右足を前に踏み出した。一歩。二歩。三、歩目の所で、彼の体が少しよろける。大、丈夫だ。大きくは、ずれていない。
「大丈夫。そのまま進んで」
「おう」
 四歩、五歩目まで進んで、まだ少し遠いことに気づいた。
「もうちょい前。半歩進んで」
 半歩進む。まだ足りない。
「もう半歩」
 もう半歩進む。そこだ。私の考えていた位置に、彼がぴたりと重なる。ここなら、割れる。
「今!棒、振り下ろして」
 右手に持っていた棒を、力強く両手で握りしめ、スイカの上中央目掛け、勢いよく振り下ろす。規則的な黒い波の中に、縦向きのひびが頂点を中心に参入する。だが、まだ、底にまでは届いていない。あと、二発ほど必要だ。
「もう一発」
 両手で握られた棒が、一発目と同じ力加減で振り下ろされる。緑の球体の中にさらに深く、さらに広くひびが入る。
「もう一発!」
 一発目、二発目よりも少し高い位置から、三発目の棒を振り下ろす。規程上の最後の一発が振り下ろされた、緑と黒の球体からは、ずっと隠していた赤い果肉が、夜の浜辺にさらけ出されていた。

*

 ザザアンという波の音が、今まで以上に心地よい。ここまで心地よいのは、波が出す音の音量が、人間の耳にとって丁度良いものであるからだろうか。それとも、波が打ち付けてくるペースに秘密があるのだろうか。もしかすると、その両方があるのかもしれない。でも、どちらでもいい。私は、私たちで割ったスイカを食べながら、彼―望月翔と一緒に、還ってきた、浜辺の静謐な雰囲気に浸っていた。
「さっきは、すまん」
「何が?」
「組むのは御免だって言って」
「いいよ、別に。それより、私こそ、意地張って、少し
避けちゃって、ごめんなさい」
「いいよ、そのくらい」
「あ、でも、まだ完全に心許したって訳じゃないから」
「はぁ?何だ、それ」
 気に入らない奴には、これくらいしておくのが丁度良いだろう。からかいを含めたいたずらっぽい笑みを、彼の方へ向けておく。
「ねぇ、波岐」
 片手に線香花火を持ったクラゲちゃんが、私たち二人の方へ、歩いてくる。自分で言い出したのに、スイカは要らない、と割ったスイカを渡し、それからどこから持ってきたのか、自前の線香花火を持ってきて、小さな花を咲かせていた。
「ずっと気になってたんだけど、波岐の鞄に入ってるあの本って何?」
 おそらく彼女が尋ねているのは、スクールバッグの前ポケットから少しはみ出している、A6サイズの本のことだろう。はみ出している部分を持って、ポケットから引き出し、彼女に見せる。表紙には、タイトルを中心にして四季を代表する花の絵がそれぞれあり、右下には桜の花びらが一枚、右下には向日葵が描かれていた。
「すっごい綺麗な表紙!題名は、えっと、しゅんかしゅうとう......」
「『春夏秋冬物語』。私のお気に入りの本なんだ」
「それ、俺の家にもある。有名な本なのかな?」
 そうなのか、と思い、改めて表紙を見る。その時、表紙に描かれている向日葵が、黄色ではなく、浜辺に来る前に見た、あの山吹色の向日葵と同じものであることに気が付いた。
「二人ともさ、」
 線香花火を持った彼女が、そのまま私たちと高さを合わせてくる。何かを吸い込みそうな彼女の瞳は、まっすぐに私たちを捕らえていた。
「そろそろ聞かせて。ここに来た理由」
 私が話すことから逃げていた話題に、ついに触れられてしまった。ずっと見続けていたい彼女の瞳から、初めて目を逸らす。あまり話したいものではない。だが、もうすぐ話さなければならないものであるということは薄々感じていた。望月翔もおそらく感じていたはずだ。
「聞いてて、面白い話じゃないよ」
「いいよ。それでも、私は聞きたい」
 この話をする時には、きっと話す側も、聞く側も、一度、覚悟を決めなくてはいけない。彼女はすでに聞く覚悟を決めている。私も決めなくてはいけない。だが、たとえ決めたとしても、固まったこの空気の中で、口を開くのは容易なことではない。そのような中で、先に口を開いたのは、望月翔の方だった。
「俺は、家から逃げてきた」
「家から?」
 私と彼女、二人から同時に同じ言葉が、口から出た。自分のことを話そうと勇気を振り絞って口を開いた彼は、空よりも遠いどこかを見ているような目をしていた。
「俺、小さい時に、親に、将来医者になりたいって言ったんだ。それを聞いた両親がすっごい喜んで、ガキの頃からずっと頑張れって応援してくれた」
「へぇ。医者?すごいじゃん」
「......昔のことなんだよ」
「......昔の、こと?」
「小六の時に、医者よりももっとなりたいものが出来て、そのことをまた、両親に言ったんだ。喜んでくれるだろうって、褒めてくれるだろうって思って。でもさ、違ったんだ」
「何て言われたの?」
「『何で、医者では駄目なの?』って、言ったんだ。何か言っても、『医者だったら、こんなことが出来るぞ』、『医者の方が......』ってことばっかり言われんだよ」
 多分、彼の両親は、彼のことをずっと見ていない。幼い時に、自分の将来の夢のことを伝えて喜んだのは、自分たちの息子が夢を持ったからではない。自分達が望んでいた通りの言葉が出たから喜んだ。多分、それだけだ。私と同じことを察したのか、隣にいる彼女が、口を開く。
「それじゃあ、翔君の気持ちは......」
「そんなの、俺の家にはないよ。何言っても、全部親に塗り替えられるんだから」
 視界の隅で、線香花火の火が、砂浜の上に落ちるのが見えた。浜辺を照らしていた赤紫色の花が、消えてしまった。この状況で、次、私が喋るのか。自分が話すことの出来ている想像が全く思い浮かばない。思い浮かべたくもなかった。
「俺の話はこれだけだ。そっちはどうなんだよ」
 私の気持ちお構いなしかとも思うが、彼が私に話を振ったのは、自分の心の中の靄を少しでも紛らわしたいからであろう。まだ少し話しづらいけど、彼の言葉が、私の抵抗感を緩和させてくれた気がする。意を決して、私は、閉じていた口を開く。
「私は、皆と同じことが、同じように出来ない。何かをするとき、周りと比べて何倍も時間がかかるの」
 例えば、学校で行われる講演会後の、感想文。いつも、書き終わるのは私が最後で、職員室に帰りたいであろう先生を、毎回、教卓で待たせてしまっている。体育後の着替えだって、塾での小テストだって、全部そう。だが、これが私個人の問題であるならば、まだ自分の中で許容することは出来た。私が嫌いなのは、それが他人との共同作業の時に起こってしまうことだ。
「皆と一緒に作業してる時にさ、たまに、『私がやるから』って言われることがあるんだ。ありがたいけど、正直、言われたときは、とても辛い。また、役に立てなかったんだなって、そんな気持ちになる」
 自分の仕事がなくなる時に感じる、あの虚無感、罪悪感は何であろうか。悪意は一切ないはずなのだが、仕事がなくなるにつれ、どんどん心が締め付けられているように感じる。自分の場所がなくなっていくのではないかと感じる。
「私は、皆と合わせられないんだよ。合わせようとしても、どうやったら周りの人と合うのか分からない。同じ場所に居ても、皆とは違う場所にいるような、ずれた場所にいるような気がする。そう感じることに急に耐えられなくなって、それで、私も、ここに逃げてきた」
 全て話し終えて、私は、話してほしいといった張本人、クラゲちゃんの顔を一瞥する。彼女の顔には、初めて出会った時にあった柔らかな明るさは、もうどこにも残っていなかった。
「面白い話じゃなかったでしょ?」
「そう、かもね。でも、聞けて良かったって思う」
 彼女は今、最大限の明るさをもって、笑顔を取り繕って、私たちに見せてくれている。そんな顔見せないで欲しかった。そんな顔を見せられたら、私はもう、元の場所になんて帰れなくなる。ここには、いつまでも居ることは出来ないのに。自分はここに居ることは出来ないって、浜辺に着いた時から分かっていたはずなのに。
「ねぇ、私たち、やっぱり、元の場所に帰らなきゃ駄目かな?」
 思わず、本音が自分の口からこぼれてしまう。その、こぼれた本音を感じ取った望月翔が、その本音を掬い取る。
「帰らなきゃ、駄目だろ。俺たちは、ここでは暮らせない」
 そう言った彼は、初めて会った時の澄まし顔ではなく、どこか物悲しい表情を浮かべていた。
「でも、私、帰りたくない。ずっと、ここにいたい」
 もう一つの本音と同時に、自分の瞳から一粒、雫が、顔をつたい、零れ落ちるのが分かる。その雫を見つけたからか、クラゲちゃんが少し離れたところにある、線香花火の入った袋を持って、私たちの真正面へと腰を下ろす。
「そんなこと言わないで、波岐。私は聞きたくない、そんな言葉」
 そう言う彼女の顔には、もう取り繕った笑顔の面影は残っていなかった。取り繕いの笑顔は、顔全体に染み込んで、人間味のある、新しい笑顔が生まれていた。
「二人とも。この後に、いつも居る場所に戻るのは絶対に辛いと思う。辛い。でも、戻らなくちゃいけない。だけどさ、今日、ここに来て、いつもとは違うことして、三人で話して、似たような悩みを持つ人間がいることを知った経験は、特別な記憶として、残る。一生ものの記憶としてずっと残り続ける。そして、それがきっと、二人の支えになる。だからさ、」
 彼女は、袋に入っている線香花火の内、二本を取り出して、私と望月翔の手に、差し出してくる。
「もっと特別な記憶にして、それから、帰ろう」
 私は、彼女の持っている、黄色の線香花火を受け取った。望月翔も、彼女がもう一つ持っていた、緑色の線香花火を受け取る。そして、袋の中に入っていた最後の、赤色の線香花火を、彼女が手に取った。
「ここまで来れたもん。二人はきっと、」
「大丈夫、とでも?」
 やはり最後までいけ好かない望月翔が、得意げな顔で応える。言いたかったことを奪われた彼女が、望月翔の脛を蹴ろうとする。私は、その間に、黄色の線香花火を片手に、ライターのある所へと向かっていた。
「花火、つくかな?」
「つくだろ。簡単なんだから」
「あんたには聞いてない」
「はいはい」
 こんな会話でも、ここまでくると可笑しさがこみあげてくる。笑いを抑えながら、自分の線香花火に火を近づける。彼が言った通り、簡単に線香花火の先から光が弾け、花が咲く。他二人も、私に続いて、自分の線香花火に火を点ける。
 夜の海辺に、同時に三つの花が咲く。赤紫色の花。エメラルドグリーンの花。そして、私の前に咲いていたのは、太陽に照らされて輝く、純粋な黄色の花だった。

*

 クワァ、クワァというカモメの声が聞こえる。海の方から、白く眩しい夏の朝の陽ざしが射し込んでいる。その朝の光が一瞬目に入り、一気に目が覚めた。
「あれ、朝?」
 私の隣で眠っていたらしい望月翔が、間の抜けた声を出しながら起き上がる。正直、線香花火をして以降の記憶がほとんどない。昨日のあれは、全て夢だったのかと疑ってしまう。だが、昨日見たもの、感じたことは全て現実だったという感覚が、自分の中には確かにあった。
 そういえば、彼女―クラゲちゃんーは、どこへ行ったのだろうか。気になって、起き上がり、辺りを見回してみる。しかし、彼女らしき人影は全く見当たらなかった。その代わりに、私は自身のスクールバッグの上に、何かが置かれているのを見つけた。左側に「かえり」と書かれた長方形の、片道切符。それが二枚、鞄の上に置かれていた。それに気が付いて近づいてくる望月翔と、困惑した表情を浮かべながら、二人で顔を見合わせる。
「......帰る?」
「......帰ろっか」
 どちらからともなく、立ち上がり、私と彼は、二人で、昨晩下りた駅の方へと向かって歩き出す。歩き出した私の視界の右側には、朝日で照らされた黄色の向日葵畑が一面に広がっていた。

(完)


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