良い子のアップルパイ スニラ 「人生に教科書なんてないんスよ」 と言っていた新卒の彼は、幸福に決まりはないと酒の席以外でも零した。そう言う彼が同僚に『嫌われる勇気』を読むのがいいと助言しているのを見たことがある。僕はなんとなく、それでも正解を誰かの言葉の中から見出そうとする彼がこの会社で長く働けることを願った。残念ながら、それは叶わなかったが。 それから彼はケーキ屋さんを始めたと聞いた。それは僕の世代で少し流行った「自分探しの旅」と近いものなのかも知れない。と、僕は思う。 ごった返したインドの市場で大きな籠を頭に乗せている女、籠の中から赤茶のりんごが落ちる。 理解の足掛かりもない文字列を行き先にする特急列車に乗って、コートの襟を立てながら未経験の寒さに凍えるのを、淡雪色のスカーフを巻いた青い目の老婦人が見つめる。 りんごを拾うのは同じインド人で、特急列車に乗ったのは君でも僕でもない。 旅は街の外にあって、たとえ県境を越えてもはるか遠く、自分のための旅の終着点は天竺ではなく、家の中にある。 Googleマップに踊らされてはいけない。地図に書かれていることは都合よく解釈された成長であり、何者にかなりたかった人々の未発達ゆえに履いた下駄の脱ぎ散らかし。いや、いけないことも、ないか。年を取ると説教臭くなる。 ただ僕は今、少し迷子になっている。目当ての店が、見つからない。 「お菓子、買ってきて」 と妻に言われた。客用の菓子を買い忘れたらしく、そういうセンスは女性の方が良いだろうと純粋な意見を返したが、あなたの上司なんだから好みが分かるでしょうと言われてしまった。確かに。適材適所と思って任せ続けていたら、役割を妻だけのものと錯覚してしまっていた。僕だって、菓子を買ってもいい。妻だって、菓子を選ばなくてもいい。 菓子、と思い、和菓子、を思い浮かべたが、コーヒーには合わないか。上司は、というか、僕も含め男は「とりあえず」コーヒーかビールだ。 マップの検索欄に菓子屋と入れて、ヒットしたのは最近できたのであろうケーキ屋だった。チェーン店の洋菓子を買ってもどうせ残す。ならば、と思いその店を目指す。そして、入社して三年もせずに夢を追いかけて(?)辞めてしまった彼を思い出したのだった。 古くからある灰色の家々の隙間に、まだ木の匂いが残っていそうな暖色灯の灯る店がある。僕は自転車をギコギコ走らせて、ようやく見つけたその店の中で、辞めた彼と偶然出会えやしないかと期待を胸に入口の扉を開けた。 残念。店員は見るからに物静かそうな若い女性だった。親戚から贈られたのであろう、親しげな応援付きの開店祝いのドライフラワーが僕を出迎えた。 ショーケースの中には三種類ばかりのケーキと、それぞれのこだわりを書いた値札が並ぶ。チェーン店のに比べて地味な上に高いが、商いがどうだこうだとこの夢の中にケチを入れずに済むほどには稼いでいる。その代わりに、名刺大のクラフト紙に金の丸文字で綴られた夢が読みにくくなった。 生クリームとベリーのショートケーキと、娘用にガトーショコラを注文して、レジ横に置いてあったクッキーも一袋足した。妻か娘が食べるだろう。値札を見ていない彼女らに割高だと怒られる心配もない。 「ありがとうございます」 と頭を下げる店員の声は小さい。新卒君は声は大きかったように思う。僕がそんなにも新卒君を気にしているのはやはり、夢を追うなり自分を探すなり、何者かになりたかったりする、そしてそれができる自由や時間があったりするのが、羨ましいのだろう。 よく過去を振り返る。過去に取った選択肢を変えてみたらどうなるだろうと考えてみて、考えただけではその選択肢のもうパラレルになってしまった未来など分からない。僕の可能性は日に日に減っている。それを今になって残念に思うのは、今僕が自由を手にしている証拠なのかもしれない。 でも本当に自由なら。ギコギコ。錆びついた自転車を新品に変えて。ギコギコ。そのまま高速に侵入とかしちゃって。ギコギコ。そのまま東北まで行っちゃって。ギコギコ。訛りのキツイ集落にそのまま住み着いて。ギコギコ。畑とか耕して自給自足して。ギコギココギコギ。そのままギコギコ一人でコギコギ死んでギコギコしまったりして。シュー。段差で浮く尻、ベルが安っぽく悲鳴をあげた。僕の旅の終着地。 * 毎週日曜日の十五時、僕は必ずダイニングの椅子につく。祖母の趣味は古い少女漫画の世界観に偏っているが、恐らく祖母の世代とその世界観の流行は被っていない。何かの影響と言うよりも、きっとそれが祖母の理想を叶える演出なのだ。椅子の上には水色のバラ柄のクッションを敷く。中のスポンジが僕のお尻の形に変化しつつある。教科書で見たベルサイユ宮殿に並んでいそうな乳白色の地に金メッキをあしらった平たい磁器。その中心を見つめながら、焼き上がりを伝える小気味いいオーブンの電子音と嗅ぐだけで胃もたれする香りに集中していた。 「ほら、美味しいアップルパイの完成よ」 食器と対照的にカントリーな木のまな板に乗せられたそれは、僕の目の前で作り物のような焼き目や形で完璧を装っている。常に鉄をも切れそうに研がれた包丁が、端から端に直線を引く。甘い湯気は祖母の手を撫でて美味しく食べて、と愛嬌を振りまくのが上手で、調教されていると感じた。テレビの前の祖父はその香りにようやく気づいたか、もうとっくに気付いていて声をかけるのを促しているのか、メトロノームのように一定の速度で新聞をめくっていたのを止めた。彼は三社から新聞を取って毎朝読み、午後の庭の手入れの終わりにまたそれらを読み返し始める。下劣でつまらない。その口癖は彼の見ている世界を表しているのだろう。眉間に深いシワを刻み続けていないといけないほどだろうか。世界は美しいと言われても嘘臭いけれど、彼のせいで下世話な午後のテレビは見れず、結果祖父母の息遣いを敏感に感じ取ってしまう。夜中に母が帰ってくまで、この家はどこか居心地が悪い。 「お父さんも食べましょうよ」 そう朗らかに促されて初めて気付いたかのような返事をし、全くしょうがないなといったふうに渋々椅子に座る。祖父はタバコで焼けたのか喉に痰を飼っているのか、呪文のようにゴニョゴニョと何かを言う。祖母は聞いていないが、僕には「わざわざ女々しいもんを」独り言の悪態をしっかりと聞こえていた。誰にも聞かせる気はないのだと理解しているが、実は僕にだけ聞こえるように言っているのかもしれない。だとしたら僕は、どんなふうに振る舞えばいい? アップルパイは机の上の三枚のお皿に四分の一切れずつ乗っかる。そして残りの四分の一切れはさらに半分にして僕と祖父の皿の上に加えられる。僕らのために毎朝働きに出る母のために、パイの一欠片も残されたことはない。一度もない。アップルパイは焼きたてが美味しいからではなく、彼らの手の内にある全てのものの中で、二人が母のために残すものはない。母は彼らの娘ではないし、人である前に盗人であったし、彼らにとって見ればそのような仕打ちは当然であって、母は私の母であったためにそれを受け入れた。 僕にとって母は、かけがえのない母であったが、僕は祖父母のものである自覚があった。僕がそうであることが母にとって幸せである。僕にとってそうであることが幸せだ、と母が信じていることが幸せである。僕たちの絆は深いところで繋がり、だからこそ結び目を解くことなど考えられなかった。僕たちは良い家族だった。 「いただきましょう」 最初にフォークを突き刺すのはそう言う祖母ではなく祖父だった。必ずそうだった。アップルパイがその口に運ばれるまで祖母は口元に笑みを浮かべて、手はお膝。秒針の音が際立って聞こえる。僕は起爆装置を扱うかのようにゆっくりと慎重にフォークを手に取って、テーブルの木目を目でなぞってからパイの方に移し、フォークの先で九十度の角をえぐって口にした。彼らにとって、僕がこの家の作法に従う理由はないと言うのが建前である。当然従えと言われたことも無かった。が、従順だった。けれどそれに従っていることを祖父母に認められてはいけない。だから僕は高校生になっても、何も知らない子供のように振る舞った。教室にいる馬鹿を真似した。馬鹿、と言っても馬鹿にしているわけではない。羨望の眼差して見ていたはずだ。どうだろうな。その眼差しの対象は本当に、そうだったか。分からない。ただ、知らないことや、素直であることは、可愛いと思った。 焼きたてのアップルパイは、セブンイレブンのチョコスティックパンよりも確かに愛情の味がした。マルナカの半額になって米がカスカスになったカツ丼よりも心が満たされる感じがした。暖かくて、頼りない。だから毎週毎週、我慢をしてパイを食べる。 僕はりんごアレルギーだ。 祖母は僕が母と引っ越して来てから数ヶ月してから初めてそれを知った。それから定期便でりんごを一キロ、青森から取り寄せる。食べさせないでと何度も抵抗する母に、好き嫌いしてたら強い男の子になれないでしょうと怒るような、諭すような口調で祖母は言う。僕のアレルギーは母のせいだという。母が元気に産まないから、母が子供の頃に甘やかすから、母が弱っちいから。母に対しては祖母も祖父も酷く冷たくなる。 大抵祖父は不満を漏らすだけで、不機嫌以外の感情を押し出して接することはない。しかし僕が初めてこの家の住人として迎える夜、母のことをそれは大きな声で叱りつけた。それは二階のベッドで横になっていた僕にも聞こえるほどで、そっと様子を確かめに何段かの階段を降りたけれど母を否定する言葉が並ぶのを聞いて、僕は部屋に戻るのを決めた。もし母が泣いていたら? 小さくなって頭を床につけていたら? 僕は母が人になってしまうのが怖かった。 僕が起きているのに気付かれる前にさっさと階段の電気を消さなければ。そう思って引き返す時、ふと階段の壁側に飾られた写真が目に入る。金縁のシンプルな額に囲まれたフィルム写真。家の写真だ。夢のマイホームの大黒柱が使命を滞りなく遂行した証拠として飾っているようだった。二階建てのこの恋人と若かりし祖父、そして祖母が写っていて、自信ありげな笑顔が眩しい。それから恐らく僕の父だろう人が祖母に抱かれてそっぽを向いている。父は、こういう顔だったか。覚えていないし似てもいない。そんな気がしたのはそう願うせいだったのだろうか。 祖父の白く濁った目には、孫だけが輝いて見えている。ようやく自分の男の子が帰って来たのだから。祖父は男の幸せをよく説いている。平たく言えば、強くあれ。守るために、倒すために、幸福であるために。幸福はすぐに手を離れていくのだから、男はその強さで金や地位や名誉を奪わなければならない。家は守り抜くべき城だと言った祖父は、病院で管だらけになって死んだ。 そんな未来も知らずに、我が家に相応しい子に育てられる満足感が、食べ飽きた菓子を美味しく感じさせている。 「いつも食べっぷりが良くて、お婆ちゃん嬉しいわ」 僕は幸せそうな笑顔を向けて、美味しくてたまらない様子を止まらないフォークで演出した。本当は口の中をその手の金属で掻きむしってしまいたくてしょうがなかったのに。生で食べるよりはゆっくりと反応が広がるとしても、大きなパイを食べ切る頃には歯と歯の間が痒かった。舌をいくら押し当てて掻いても痒みに届くわけでなく、歯茎との間にバールを差し込んで歯を神経ごと全て引っこ抜いてしまいたい衝動に駆られる。その舌もピリピリと細胞が膨れて擦れ合うような弱い痛みが全体に表れ始め、いよいよ我慢の限界だとも思う。そんな時には熱いお茶を口に含んで、全てを洗い流すようにグチュグチュして飲み込む。それを気づかれないように静かに、平然として何回も繰り返す。アップルパイは料理上手な祖母が何度も作った得意料理なだけあって、その味は文句のつけようがない。いくらだって食べられると思う気持ちは嘘では無かった。 けれど最近、痒みは喉まで広がってきている。腫れた喉の肉は少し気道を塞ぐので息苦しい。血が煮上がって目が取れそうになる。許容値の限界がすぐそこに迫っているのだろうなぁとどこか他人事のように思いつつ、本能的な危険信号から冷たい汗が湧いてくる。それでもこの時間を耐え抜いたら、神様が救ってくれるような気がしていた。 高校を無事に卒業して、トヨタの工場で働く。そこで可愛くて料理が上手で笑顔が素敵な優しいお嫁さんを迎える。子供を作ってからは、二階建てで小さな庭のある家に帰るとお嫁さんと子供が玄関でお出迎えしてくくれて、温かいご飯を一緒に食べて......。神様が僕に普通の幸せを叶える力をくれるような気がしていた。 「ごちそうさま! 美味しかったよ」 びったりと張り付いた笑顔の祖母、小さい方のパイを食べ切った祖父、死んだ目をして帰ってくる母。 アップルパイは優しい家族の味を思い出す。 自転車を片付けて玄関ドアを開けると、早足の小鳥のように娘が走って出迎えた。 「あこも一緒に行きたかった!」 怒る娘をなだめるのはお前と言いたげに、僕の手からケーキを持ち去った妻は、いつもより化粧をしっかりしている。 「クッキーも! これは後でみんなで食べよう」 娘にクッキーを粉々にされないように、腕を千手観音にして引き返してきてくれた妻に渡す。僕はさりげなく「今日もかわいいね」と言う。妻が少し顔を綻ばすので、さらに娘と同調して言うと照れてキッチンに隠れてしまった。 僕は既に怒りの対象を一緒に連れて行かれなかったことからケーキを今食べさせてもらいないことに変えた娘に、美味しいケーキと引き換えに小さな約束を結ぶ。 「今日もいい子にしていてね」 客は上司である。妻は上司の友人の娘だった。なんせ上司とその友人は仲が良いらしく、妻とも何度か会っているらしい。上司にとって、僕はその友人の延長線上の関係に立っているのかもしれないが、僕にとってはお世話になっている上司にすぎなかった。妻も、上司と話をしていたのは幼い頃に父親と上司が飲みに行くのに同席していた時の話であって、大人になってからは軽く挨拶をするくらいだったという。 新築祝いに上司が来るなんて何時代の話だろう。 玄関ベルが鳴る。 そしてどうして、予定より三十分も早く来るのだろう。 「こんなもので申し訳ないのですが」 妻がテーブルに並べるケーキを指して僕は言った。白色蛍光灯の下の夢の塊はより地味に見えた。上司はそう言えば私からも、と同じようにケーキの箱を取り出す。 「新崎がやっているケーキ屋さんに行って、顔見てきたんだよ」 「新崎? あの辞めた子ですか」 「そう、ケーキ屋さんやってるんだよ。あの子」 上司が座ったまま、妻に手に持った箱を渡した。 「涼子ちゃん、これ、切ってもらえるかな」 妻は何も言わない代わりに笑顔で受け取った。娘が私の横でケーキと睨めっこしながら手をお膝に置いている。上司は娘を横に呼んだ。当然娘は首を振る。私はケーキを食べていいからと娘に上司の横に座るように促した。意外にも聞き分け良く大人しく座り、勝手に頭を撫でられる娘は人形のようで、早速ケーキを口にしている彼女の美味しさで喜びを隠せない顔さえも嘘らしく見えた。 「しかし、立派な家を建てたね! 庭もあって羽振りがいいじゃない?」 「上物だけだったので、なんとか僕の蓄えでも建てられました」 「土地は? 親御さん?」 「そうですね、祖父母が」 「そらー羨ましいね! ね、あこちゃんも良かったねぇ」 娘の頭が前後に揺れる。くちゃくちゃになって目の前に垂れる黒い細い自身の髪を娘は手で払い除けた。 「おばあちゃんは、私あんまり好きじゃない」 上司は一口もケーキに手を付けないまま、自分の話に夢中になる。自分の若い頃に厳しかった上司の話から始まり、親と喧嘩ばかりで家出坊主だったことや苦労して買った車や持ち家の話に収束する。きっと思いついた話は家の話だったのだが、苦労を伝えたい気持ちが人生譚を説明させたために終わりの見えない話になった。コーヒーは冷え、娘はとっくに飽きて部屋の隅でゲームで時間を潰し始めた。 話が一瞬途切れる。妻が上司の持ってきたケーキを切り終えたのだ。時折、妻の賢さを家の中に留めて置くのがもったいなくなる。 「そうそう、忘れてた。ほんとつまらないものだけど、食べて食べて」 白い皿の中央に、六等分されたパイの一切れが乗っている。りんごがぎっしり詰まっている。 妻は私の横に座って、アップルパイにフォークを刺した。 「新崎もね、もうちょっと頑張れたら良かったんだけどね」 上司は地面に何か引きずった時のような音を出してコーヒーを啜る。 「ほら、遠慮しないで食べてよ」 上司の皮剥けした手のひらが僕の前に置かれた皿を指す。食べずに、とはいかないようだ。 僕はフォークでパイを突き刺して、そのまま大きく抉った。ボロボロとカケラが皿に散るのも構わずに一口で食べた。口の中はアップルパイでいっぱいになる。リスの頬袋のように広がった口の中をなんとか動かして噛み締める。声も出せずに淡々と上下に顎を動かした。そして飲み込む。その瞬間からやはり、始まった。 「美味しいですよ」 「へぇ、彼も転職した甲斐があったね」 上司はコーヒーを空にしたが、ケーキにもアップルパイにも手を付けなかった。 新崎の様子は聞きそびれた。新崎の店のことも聞きそびれた。きっと僕は上司にわざわざ新崎のことを聞くこともない。 僕は息苦しさと不快な痒みの中で、やはり新崎を羨ましく思った。同時に、この幸福を手放すことなど正気ではできないななどと思った。僕には家がある。二階建て、庭付きの家で、妻と娘を愛している。 それから、もう一度子供を作って、息子を持つと尚更良い。大学に通わせ終わったら、妻と旅行をする。日本のあちこちを回って、時には海外にも行ってみる。家の中は思い出の痕跡で満たされていく。 老いた僕は自室のベッドの上で、子供たちに見下ろされ、達成感と安堵の中で目を閉じるだろう。 僕の旅は、そこでようやく終わるのだ。
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