天司竜貴 林檎 二月、一時間目にあたる時間の職員室。大多数の教師は授業に駆り出されているため、閑散としている。私は電気ストーブに一番近い自分の机で、一枚の紙と睨み合っていた。男子校で美術教師として勤めて今年で十年。これが、一番の厄介事かもしれない。年度末が近づき、今年もなんとか一年やり切ったと脱力しかけたそのタイミングで、どうしようもない問題が発生したのだ。担任するクラスの生徒のことだった。一人の生徒が、進路希望調査の用紙を空白で提出してきたのだ。進路希望に何も書かれていない、というのはまあ良い。今までにも何回かそんなことがあった。問題は、その紙を提出した生徒にあった。 白い調査用紙の氏名欄に書かれた美しい字をなぞる。一年二組、出席番号一番――天司(あまつかさ)竜(たつ)貴(き)。今年度、何回も見てきた筆跡だ。成績優秀、容姿端麗、品行方正(ということになっている)。創作物にでも出てきそうな、奇妙なほどに完璧な生徒である。それだけなら、何の問題もない。進路希望が空白だったとて、きちんと話を聞いて一緒に考えれば良い話だ。ただ、それができない理由があった。 ......学校内で、何人もの生徒と淫行を繰り返しているらしい。同級生も先輩も問わず、目を付けた生徒を誘って、抱かせているとのことだ。よりによって、男子校で。生徒だけでは飽き足らず、教師とも――という噂さえまことしやかに流れている。そんなことがあり得るのか。いくら綺麗な顔でも、それだけで男を抱けるものなのか。同性にそのような感情を抱いたことが無いので、全く想像がつかない。単なる流言事だと言い切ってしまいたいが、本人の持つ非現実的な雰囲気が噂の信憑性を妙に強めていて、どうにもそうできない。 本人に問いただせば良い。ただ、それを不可能にするもっと大きな、更なる懸念があった。天司の家だ。彼は、悪名高いカルト教団の総本山――反社との繋がりもあるらしい後ろ暗い教団の跡取り息子なのだ。下手を打ってうっかり彼の親が出てきたら大変なことになるというのが、教師の中でも生徒の中でも暗黙の了解となっていた。そういう訳で、誰も手を出せていないのだ......手は出しているが。一年間、どうにか彼をやり過ごせたと思った矢先に――これだ。進路希望が空白というのは、流石にやり過ごせない。進路について話すついでにお前が諸々の問題を何とかしろ、という同僚の視線を感じる。私は書類をファイルにしまって、授業の準備に向かった。次は天司も居るクラスだ。教師としてあるまじき憂鬱を抱えながら、美術室に向かうことにした。 授業中、教室を周回しながらこっそりと天司に視線を向ける。真面目な表情でキャンバスに向かう姿は至って普通の男子生徒に見えるが、彼の纏う雰囲気は周りとどこか違う。どう形容すべきなのかは分からない。ただ、何かが違うのだ。 一年間彼を担任してきたが、正直彼のことはよく分からない。濡れ羽のようにしっとりとした黒髪は耳のあたりで切り揃えられ、常に艶めいていた。顔はかなり整っているほうだと思う。イケメンというより、美人と形容したほうが近いタイプだ。 天司はずっと、コバルトブルーの絵具を平筆に取って、キャンバスに乗せている。何の絵を描いているのだろう。気になって、天司の後ろで足を止めた。 「天使を描いているんです」 私の気配に気づいたらしい天司が、キャンバスに向き合ったまま声を掛けてきた。 「天使を」 「そう、天使」 キャンバスを見る。全体的に青みがかった色で構成された画面には、対になった羽のようなものが見えた。天司の雰囲気にそぐわない荒々しい筆致で描かれたそれは、彼の思う天使なのだろうか。 放課後、最終下校時刻十分前に部員を見送って、美術室の鍵を閉める。自分が顧問を務める美術部には比較的大人しい生徒が集まっていて非常に心地よい。今年は美大志望の生徒もいないので気楽だ。天司をなんとかせねばと張り詰めた心が、僅かながら解れた気がした。問題は何も解決していないが――私はポケットに鍵を突っ込んだ。職員室に戻る前に、美術室前のトイレに寄っていこう。 トイレに入ってズボンのチャックを下ろそうとした時、個室から荒い息遣いが聞こえた。押し殺した男の声、布が擦れる音、肌がぶつかる音、粘ついた水音――あまりにも露骨なその音は、これは―― 「あま、つかさ......」 声を掛けようとして、止まる。あまつかさ――と名前を繰り返す、掠れた男の声。それが誰のものなのかは分からない。この学校の生徒の誰かだろう。この音は、誰かと天司とのぶつかり合いによる音だ。であれば、漏れ聞こえる艶やかな声は、天司の―― 注意せねばならない。現行犯だ。教師として、きちんと指導すべき出来事だ。しかし、よりによって。 ......見なかったことにしよう。私は下ろしかけたチャックを戻して、慌てて外に出た。 家に帰っても風呂に入っても、夕飯を食べても天司の喘ぎ声は頭から離れなかった。変声期をとうに迎えた男の声には間違っても可愛らしさなどあるはずがないのに、あの声を聴いた時に私は僅かに興奮してしまった。常に第一ボタンまでしっかり留めている彼の、だらしない声。想像できそうでできなかった彼の痴態に手が届きそうで、もどかしい気分だった。......私は何を考えているのか。教師として、あってはならない。明日こそ天司に声をかけて、進路志望をどうにかせねば。淫行の件はもう、触れないままでよいだろう。きっと、触れるべきではない。逃げるように目を瞑り、私は泥のような眠気に身を任せた。 次の日、朝のホームルーム中に天司と目が合ってしまった。昨日の晩に想像しかけた彼のいやらしい姿が思い出される。気まずくて私はそれとなく目を逸らした。進路について声を掛けねばならないのに、結局駄目だった。 悶々としたまま一日が過ぎ、放課後が訪れた。部活が休みなので事務仕事を片づけていたところで、最終下校時刻が近づいていることに気づいた。きりがついたので帰ろうと、鍵置き場を見る――美術室の鍵が無い。誰かが忘れ物でも取りに行ったのだろうか。特別教室の鍵を取る時は教員に声を掛けるように、と書かれたラベルを横目に見る。端が剥がれかけていた。形骸化したルールに眉間を揉んで、私は美術室に向かうことにした。 美術室は旧校舎の端に位置している。職員室から一番遠い特別教室だ。部活が無い日は殆ど人通りのない廊下は、洞窟のように冷ややかで湿っぽい。リノリウムの床を鳴らしながら、早足で歩いていく。 美術室の電気は点いていなかった。そして、ドアには鍵が掛けられておらず、開きっぱなしだった。誰かが教室に鍵を置いて帰ったのか、はたまた鍵を持って帰ってしまったのか。前者であることを祈りながら、私は教室に入った。 暗い教室に、月明かりが射していた。静かな空間に、水の流れる音が響く。蛇口から水が出しっぱなしになっているらしい。古びた設備なので、水が時折止まったり、早く落ちたりしている。溜息をついて、流し台のほうに向かう。 「おちないんです」 思いがけない声に心臓が跳ねた。男の声だ。やや舌足らずで、地に足のついていないような声――一日中頭の中で反響していた喘ぎ声と同じ――間違いない、天司竜貴だ。 震える手で、電気を点ける。天司が、流し台の傍の机の上に座っていた。 「絵具が、膝についてしまって」 彼のズボンには白い絵の具が付いていた。水で濡らした痕跡もある。油絵具なら水では落ちないだろう。 「一人でこんな、何を」 「居残りを」 天司の座る机には、彼が授業で描いていた青い天使の絵があった。乾いていないキャンバスや筆を見るに、放課後ひとりで残って続きを描いていたのだろう。 「鍵を持っていくときは一言声を掛けてほしい」 「ああ......すみません」 あどけない笑みがこちらに向けられた。薄く開かれた唇が緩やかに弧を描く。 「先生、忙しそうにしていたので」 夢の中のように掴みどころのない表情に、胸騒ぎがする。これ以上彼と二人きりで喋っていたら、おかしくなってしまうのではないか――そんな予感があった。 「絵具、落ちるかな」 「油を使ったほうが良い」 「へえ」 天司が自身のポケットからハンカチを取り出して、濡れた手を拭う。 「ねえ先生、落としてくれますか」 「え?」 「ずっと洗っていたから、疲れてしまって」 何を言っているんだ、と思った。しかし有無を言わさぬ目と、作り物めいた言葉にすっかり調子が狂い、私は結局頷いた。 古布に筆洗油を含ませて、天司の脚に触れる。布越しでも分かる程に細い脚は力を入れれば折れてしまいそうで、はらはらした。そっと触れて、ズボンの絵具がついた部分を布で拭う。付いてからあまり時間が経っていなかったらしい絵具はすぐに薄くなった。ほっと胸を撫でおろす。これなら何とかなりそうだ。ついでに進路についても尋ねてしまおう。 そう思って天司の顔を見上げると、目が合った。天司は、自身の足元に跪く私の事をじっと見つめていた。その視線には、気品と妙な色気がある。普通の男子高校生が持ち得るはずのない雰囲気に、ついたじろぐ。 「昨日」 ふと、天司が何かを思い出したように呟いた。 「聞いていたでしょう、先生」 「聞いていたって、何を......」 「お手洗いで」 私の手のひらから布が落ちた。水が、流れている。絵具のこびりついたステンレスの流し台に水の叩きつける音が、ずっと。 「先生」 天司の手が私の頬に添えられた。ひんやりとした白い手は、石膏像のようだった。 「もう、落ちてますよ」 冷たい手のひらに上を向かされ、天司と目が合った。柔らかく微笑むその瞳は飴細工のように甘く、繊細なつくりをしている。 ああ、これが天司竜貴か――と思った。白紙の進路希望用紙、天使の絵、いとけない微笑み。独立した画が代わる代わる現れて、霧散する。私の中で、何かが、或いは全てが傾いだ気がした。ここにはもう、倫理など無い。 「ねえ、先生......」 形の良い細指が、私の唇をゆっくりと撫でて押し開く。乾燥した唇を柔らかく揉まれ、体の奥が疼いた。下半身に締め付けを覚え、そちらを見る。私は、屹立していた。絶句し、自身の昂ぶりを隠さんとする私の腕をしなやかな脚が払う。天司はそのまま、爪先を私の熱に軽く押し当てた。鈍い圧迫に、思わず呻き声を零す。 「電気、消してくれませんか」 天司が甘やかに囁いた。逆らえない。彼の頼み事なら、何でも聞かねばならないような気がした。教室の電気を消したその瞬間、最終下校のチャイムが響いた。それが、終わりと始まりの合図だった。もう戻れないという確信――古びたスピーカーから流れるがさついた音色を聴きながら、私は天司を組み敷いた。彼の肩を押し付けた机が激しく軋む。火照った体から冷や汗が滲んだが、もう戻れないと思った。目を閉じて、ほっそりとした腕を掴む。そのまま、頼りない体を揺さぶって、かき混ぜて、一番奥まで暴き尽した。テレビン油のつんとした臭いと天司の匂いが混ざりあい、頭に靄がかかる。窓から射す青白い月の光が、溶けあう私たちを冷ややかに照らしていた。 全てを終えた私は、茫然とその場に立ち尽くすしかなかった。私を突き動かしていた狂おしい衝動は粘つく欲望と共に吐き出され、残ったのは只々後悔だけだった。空虚な体を動かせないでいると、背後から軽やかな笑い声が聞こえた。天司だった。はだけた服を着直しながら、天司がくつくつと笑っている。その姿は天使のようにも、悪魔のようにも見えた。もう、どうにもできない。私はどうしようもなく愉快な気分になって、薄く笑った。
さわらび136へ戻る
さわらびへ戻る
戻る