空の色は

ビガレ



 突然の雨だった。
 小テストに備えて英単語帳を眺めながら右目の端で見ていたテレビの天気予報では、今日は一日中晴れだと言っていたはずだ。家族はみんなそれを信じて傘を持たせなかった。
 真(ま)希(き)は、昇降口の前で立ち尽くしていた。
 シャーペンの芯みたいな軌道を描いて落ちる無数の水滴の前に、真希はお天気キャスターの女性の作り笑いを思い出していた。
「山田(やまだ)、俺の傘貸そうか?」
 つむじの右上辺りから聞こえた声に驚いて、振り返る。
 片瀬(かたせ)だ。
 真希の頭のなかに、一瞬、余計なことがよぎる。
「え、私?」
「山田は、山田しかいないだろ」
 そう言って傘を差し出す片瀬の腕は、太くてたくましいのに、白くて毛が一本も生えていない。同じ野球部なのに、髙山(たかやま)や野村(のむら)のような黒くて騒がしいだけのやつらと、片瀬とでは一体何が違うのだろう。
「片瀬、傘二本あるの?」
「あー、いや、まあ、多分大丈夫」
「持ってないんじゃん。じゃあいいよ、私、親が仕事終わるまで待ってる」
「んーじゃあ」片瀬が傘を外に突き出して、ばさっと開く。「バス停まで、一緒に行く?」
 片瀬が笑う。
 真希は、自分の腕が強張るのを感じた。
 真希に向けられている片瀬の表情は、いやらしさを微塵も感じさせず、それでいて高校生とは思えない色気があって、思わず、みぞおちの奥で嬉しくなってしまうような感じだ。真希以外の女子生徒だったら、そんなふうに思うだろう。それなのに真希は、むしろその場から逃げ出してしまいたいような気分だった。
 昇降口の扉を叩く雨音の方に、意識が奪われる。
「いや、ほんと、いい。大丈夫」
 「本当は嬉しいけど遠慮している」と思われるところから一歩はみ出すくらいの強さで言った。
 片瀬も流石にそれを察したのか、「そっか、分かった」とどこか寂しそうに言って、律儀に別れの挨拶を告げ、雨の中に去っていった。
 全身に張り巡らされていた緊張がほどける。途端に、指先やひざの裏などにようやく血液が運ばれたような感覚になる。
 彼の言葉が寂しそうだったのも、律儀な別れの挨拶も、別に真希に好意があるからというわけではない。これは強がっているわけではなく、あれは誰に対しても同じように好意を持っているかのように接するのだ。
 それに心を奪われた女子生徒は、真希の周りだけでも両手では数えきれないくらいいる。明日の時間割や、弁当の中身と同じくらいに、「片瀬くんのこと」は真希たちの普段の会話の話題に上る。
 そんな環境のなかで、真希だけは片瀬のことを好きになることができない。
 なぜなら、見てしまったから。
 彼が、図書室の本を破くところを。
 夕方と夜の中間みたいな色の日差しが、本棚を照らしていた。誰も使う人なんていない放課後の図書室に、学校の人気者が入ってきて、その日図書当番だった真希は咄嗟に本棚の陰に隠れてしまった。その不釣り合いな光景に、見てはいけないものを見てしまいそうな予感を悟ったからかもしれない。
 真希は息を潜めながら、そこにいるはずの彼の気配をあまりに感じなかったから、本と本の間の小さな隙間から、彼のいるであろう方向を、覗いた。
 するとやはり彼はそこにいて、真希がいる方に背を向けて、というより手に持っていた本にすごく集中して、それを丁寧に開き、最初に目にしたページを、ゆっくり、とてもゆっくり、上から下へ、びりりと破いた。彼は笑っていた。斜め後ろから見えたその顔は、紫色に照らされていて、普段の彼の姿からは想像できないような、おぞましいものだった。真希はそのとき持っていた本を手の震えで落としてしまわないように必死だった。
 その日から、真希は片瀬を見ると、身体に力が入ってしまうようになり、好意を抱くなんて、もってのほかだった。


 やっぱりか。
「ねえー、昨日うちらの片瀬くんと話してたって本当?」
 昨日、真希の頭によぎった不安とは、これだった。
 学校へ来て、下駄箱にローファーを入れた途端、どこからか現れた栞里(しおり)が真希に身体を摺り寄せながらそう言った。彼女は真希の中学からの親友で、真希の周りにいる片瀬フリークの筆頭だ。
 「いや、大したこと話してないから」と真希は苦笑いを浮かべながら栞里の肩を押す。彼女は冗談交じりに言っているように見せて、その実、真剣に嫉妬しているのだから厄介だ。
 片瀬に好意を抱くはずなんてないのに、普通に生活をしているだけでこういう類の感情がもたれかかることに、真希は心底うんざりしていた。だから、片瀬とはなるべく関わりたくないと思っている。
 栞里が簡単に「うちら」と言えてしまうほど、片瀬に思いを寄せている生徒が多いことは周知の事実なのだ。真希は振り返り、まだ濡れた昇降口の扉を見た。


 図書室で見たことを、真希は誰にも言ったことがない。
 片瀬のために言わないでいるというより、言えないのだ。
 彼は先日の文化祭で、バンドのボーカル、演劇、ダンスに参加し、その全てにいて圧巻のパフォーマンスを見せ、体育館を感動で包んだ。
 その後行われた生徒会長選挙では、他の候補者を圧倒し、見事当選した。
 野球部のキャプテンとして、チームを地区予選優勝に導いた。
 町で困っていたおばあさんを担いで歩道橋を渡った。
 教室に入ってきた蜂を追い出した。
 ちゃんと挨拶をしていた。
 そして依然、多くの生徒から恋慕の眼差しを一身に受けていた。
 そんな、できすぎているくらい非の打ち所がない彼の言動を見ていると、余計にあの日の行動の恐ろしさが際立って、それを口に出すのも憚られてしまうのだ。
 かと言って、このことを自らの心の内だけで収めておくには、あまりに息苦しすぎる。本当はすぐにでも誰かに教えてやりたい。
 言いたくてたまらないのに、言おうとすると口をつぐんでしまう。そんな状況に、真希は悶々とした感情を心に浮かべていた。


 今日はやけに空が青い。
 今朝見たテレビのお天気キャスターは朴訥とした男性に替わっていた。「今日は一日中快晴で......」という声をかろうじて思い出す。
 真希は、体育館の天井近くにある窓を見上げていた。これを目にするたびに、額縁に入った絵のようだな、と思う。体育座りをしながら見るそれが、幼い頃に両親に連れられた美術館で見た絵のサイズと、ちょうど重なるのだ。
 体育館の壇上で片瀬が何か話している。
 恐らく、生徒会執行部からの伝達事項か何かだろう。
 真希はなるべく片瀬のいる方を見ないようにしていた。じっと、額縁みたいな窓を見上げる。
 あれ、おかしいな、と思って目を擦る。
 さっきまで青かった空が、だんだん変わっていく。
 あれは、何色なんだろう。
 深い緑の木々が映っている水溜まりに工業排水が浮かんでところどころ虹色の波ができている色。いや違う。
 人々が行き交う交差点の真ん中で端と端から歩いてきた知らない二人が思いがけずぶつかったときに見えた衝撃の色。違う。
 偏頭痛のときに痛みの奥でかすかに聞こえてくる色。違う。
 とにかく、真希のこれまでの人生では語り得ない色に、空が変貌した。
 空に釘づけになっていると、きーんという耳障りな音がして、真希は驚いて目をつぶる。
 音は、壇上から聞こえた。見れば、片瀬が顔を真っ赤にして暴れまわっている。
 赤は、青になり、そして紫になった。
 彼は腕をぶんぶん振り回し、制止しようとする先生や生徒会の役員たちに当たるたび、地を這うような爆発音が起こり、当てられた者は粉々になった。
 彼は飛び上がり、整列している生徒のところまで降りてきた。悲鳴が上がる。すると彼はその悲鳴のもとに近づいて、また粉々にする。再び悲鳴が上がり、彼はそれを粉々にする。悲鳴が上がり、粉々にする。悲鳴、粉々。その連鎖が続いていた。
 その惨状を見ながら、真希は口に手を当てていた。悲鳴を上げないようにするためではない。飛び出してきそうになる何かを抑え込むためだ。
 真希はひどく高揚していた。
 次から次へと人々を粉々にする彼を見て、口から何かが溢れそうになった。それを感じるたび、胸は高鳴った。
 そうだよ。みんな、そうなんだよ。
 片瀬くんって、こんな人間なんだよ。
 そんな言葉が、口からとうとう溢れ出る。そう思った瞬間、
「もう全校朝礼終わったよ」
 つむじの右上から聞こえた声で、現実に引き戻される。
 真希は空想の世界に浸かり込んでいた。
 どこが現実との分岐点かは分からない。
 真希ははっと顔を上げる。片瀬だった。
 生徒会長専用の黒のバインダーを片手に、体育座りをしている真希に、手を差し伸べていた。
 真希は彼の腕を見る。輝くように白い。昇降口で見たものと同じだ。振り回されていないし、当たったところで粉々にはならない。
 真希は片瀬の腕を借りずに、自分の力で立った。
 ふと、窓から空が見える。
 それは、どこまでも青かった。


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