なんでもない日

笹舟



 日は傾き、オレンジ色の光が窓から差し込み始める。食っては寝、食っては寝を繰り返している怠惰な休日がもうすぐ終わる気配を見せていた。ゴミが散乱している汚い部屋だけを残して。これといった成果は無く、特に感想も浮かばないが至福の時間。後から後悔するのはわかりきっていることなのだが、やめられない。そんなありふれた休暇である。如何にも、だらしないという自覚はある。しかし、認識と実行は別問題なのである。学生時代から変わらない。否、変える気の無い過ごし方であった。
 
 晩御飯は何にしようか、とまた飯のことでいっぱいになっている頭に呼び鈴が響いた。来客である。通販でも最近は置き配が増えているために、チャイムが鳴るのは久しぶりだ。若い頃は躊躇していたこの音も今は気にならない。宗教勧誘でもセールスマンであっても、ある程度あしらって対処出来てしまう自信がある。寧ろどんとこい、と思っている節もある。
 鉛に包まれた身体を起こしてから、とりあえず返事をした。するとすぐに、インターフォンの向こうから古びた音声に負けない若そうな男の声がした。
 「こんばんは。隣に越してきた者です。ご挨拶に参りました」
 私の予想は大きく外れていたらしい。あぁ、昼間賑やかだったのはこのためか、と納得すると同時に数年ぶりの隣人登場に少し緊張がはしる。少し待ってくれとだけ伝えて急いで髪を整える。整えていないボサボサの寝癖が一瞬で治るはずもないが、まあ、気休め程度に考えて欲しい。それから、全身を舐めるように上から下へ。よれたTシャツに短パン。部屋着の完全オフモードである。
「うん、多分他所に出せる見た目だ」
 自分で自分を鼓舞しておく。何事も第一印象がものを言うのである。
 ここまでにかかった時間は一分弱。私は素早く玄関に向かった。履きすぎて裏が擦れ、凹凸が無くなったサンダルを踏み、ロックを外して扉を開けた。「まともな人でありますように」と願いながら。
 
「はい、おまたせしま――」
 思わず言葉を引っ込めた。顔を上げると、そこには私が声から想像していた青年とはまるでかけ離れた容貌の体格の良すぎる青い鬼が立っていたのだった。
 自分の目がおかしいのかもしれない。そう思って失礼ながら一度扉を閉めてみた。深呼吸をしてからまた扉を開ける。うん、同じ。どういうことだろう。節分はこの前終わった。うーん。
 私が一人百面相を披露するのを見かねたのか、青鬼さん(仮)は口を開けた。
「あの、はじめまして」
 心配そうに見つめてくる見た目とは似つかわしい優しい青年ボイス。先ほど聞いた声は間違いなく彼のものであった。多分今の私の顔は目の前の貴方よりも真っ青なことでしょうね。かつてないほどの冷汗が背中を伝った。
「えっと、お隣さん......ですか?」
「はい、これからお世話になります。二〇一号室の青鬼です」
「ですよね」
 恐る恐る質問したのに、返ってきたのはストレート過ぎる超速球。その名も"青鬼"さん。まんまである。勢いそのままに彼が渡してきたのは、手土産だった。紙袋は大きく膨れていて、包装紙付きの箱と蕎麦のパッケージがちらりと見える。昔よりもさらに孤立が進んだ現代において、しかもこのオンボロアパートに引越してくる人で誠実な対応を受けることはなかなかないので驚いた。なんともしっかり者の鬼であった。
「はじめまして。ありがたく頂戴いたします」
 止まっていた時を進めるように、改まって言ってから、私は名乗った。それから、「これからよろしくお願いします」と初対面らしい言葉を交わして二言三言。会話が終了しそうになったその時、申し訳なさそうな表情で青鬼が口を開く。どこからどう見ても鬼以外の何者でもない彼からは最初に感じていた威圧感は消えかかっていた。
「あの、僕、見ての通り鬼なんです」
「はい、スルーするかどうか迷っていました」
 思わず本音が飛び出す。外見に触れるのはご法度である。誰かがそう言っていた。
「......正直に言いますと、叫ばれる覚悟でここに来たのです。色々なパターンを想定して」
「お化け屋敷かよ」
「ホントに、そのくらいの気合を込めてボタンを押したんですよ。古くて安くて人が少なくて、ここなら住めそうと思っていたのにお隣さんがいるって知って。どんな人なんだろうって怖くてですね......」
 あまりにも唐突に捲し立てながら話す青鬼に戸惑いつつも、だんだんと彼を受け入れつつある自分がいた。驚いていただけで最初から受け入れる体制は整っていたのかもしれない。
「僕を受け止めてくれそうな方で安心しました。」
「そりゃ、良かったです」
 第一印象はどうやら成功のようで安心する。緊張が解れたのか笑顔が増えていく青鬼。本当にただの好青年である。
「貴方、別に僕のことをSNSに晒そうとか思っていないでしょう?」
 まあ、確かに。そのようなことには興味がない。飯のことだけを考えて生きている。それが伝わったのか青鬼はフッと笑った。
「だから安心できるんです。深い部分はわかりません!」
「潔いなぁ」
「あとそれから!迷惑はかけないつもりなのですが、その......」
 言いづらそうにしている彼が紡ぐ言葉の続きをゆっくりと待つ。
「......感想、教えてくれませんか!ご飯が好きなら尚更お聞ききしたいです。いつでもいいので」
 彼が指差すのは先程の手土産。「僕の友人が作ったお菓子なんですよ」と言い残してお隣さんは帰っていった。

 また、数十分前と同じ定位置に舞い戻る。だがいつもと違うのは手元の紙袋であった。ずっと気になっていた包装紙に包まれたものを手際よく開けていく。〝鹿波屋〟と書かれた箱の中から、餡子に包まれた小ぶりの餅が四個。小豆が反射して煌めきを持ったおはぎだった。ひとつ摘む。甘味と旨味が瞬時に広がり、上品な和を感じる。
「うまっ」
 思わず出た声が静けさ漂う部屋に響く。間も無く次に手が伸びる。残りも全て食べてしまいそうだと思いながら、どんな感想を伝えようか考えてみる。頭の中はもう目の前の和菓子に支配されていた。鹿波屋なんて聞いたことがない。青鬼の友達すごい。とても美味い。単調な感想しか出てこないが感動している。貰い物を検索するのはあまりよろしくないのを理解しているが、私の好奇心は抑えられそうになかった。
 私は調べに調べ尽くしたと思う。しかしこれといって鹿波屋といった和菓子屋はヒットしなかった。本当に何も情報が見つからない。鹿波屋、一体何処にあるのか。最早青鬼の友達とは人間界には居ないのかもしれない、と勝手に妄想を広げてしまう位には興奮冷め止まない状態が続いていた。
 夜。いつもと変わらない休日のはずが、一気に華やかなものに変わってしまった。何も残らないはずの休日は、青鬼という新たな出会いを残していきました。
 幸せとは、きっと量より質なのだと思う。ダラダラするだけでは埋まることの無い幸福が満ちていく感じがした。私はいつの間にか最後になった欠片を口に運んだ。
「......今から行ってもいいかな」
 流石に早すぎるかも。もう夜が始まっているのだから止めておきなさい。このままでは眠れない。もっと青鬼のことを知りたい。想いが自由気ままに脳内をぐるぐるぐる。考えながらにやけてしまうのも仕方のない話であって。
 気づけば私はサンダルを再び踏み、扉を開けていた。先程よりも身だしなみを整えて見えるのは気のせいである。
 青が深まっていく空には星が光っていた。


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