熊猫前日譚

灰汁太川猫也



 その日、小生は無料券を頂いていたので、或る地方の美術館に来ていた。絵画に造形があるわけではなかったが、タダで自己陶酔ができるのであれば行かぬ理由もなかった。スーツ姿で無機質な表情の受付員に券を千切られて館内に入る。平日の昼間だったため、人など殆どいない。そして色鮮やかであったり、モノトォンであったりする絵画の前をうろついてみる。「自分は清貧の三文文士である」などと思っているが、こういう自分が門外漢になるものを見る時にどうしても世間一般での値段を見てしまう悪癖が消えない。自分の多少卑屈な精神が少々不快です。
 そんな折ふと、一際目を引く中央の絵画を見つけた。黄色を下地として描かれた西洋の何ぞの神の絵らしく、何ぞやの大賞を獲ったとかで大仰に展示されていた。欧人の絵描きの少年が死ぬ間際に犬と見た絵というのは、こんなだろうか。少し近づいてみると、絵の具の油の匂いが鼻に沁みた。
 しばらくその絵を見ていると、隣に気配を感じた。ゆっくりとそちらを伺うと、そこには一人の女性がいた。スーツ姿に薄汚れたスニーカーという少し奇妙なセットアップで、絵画の上の方に首を向けて眺めていた。そして何よりその存在感の薄さと、肩程まで伸びた黒髪に隠れる憂鬱そうな美顔が、小生の興味を生んだ。小生はしばらく、彼女とこの絵を眺めることにした。
 小生はまず、スマホを絵画に向けてみた。そしてメモ機能で何か少し書く。女史は相変わらず絵の方を見つめたまま微動だにしない。
 すると絵の具の匂いのせいか、小生はくしゃみをした。すると女史は小生の存在に気付いてこちらを向いた。そしてティッシュを探して鞄を漁る小生に、ポケットティッシュを「どうぞ」と言って渡してきてくれた。
「いや、これは失礼。助かりました。」
 私は彼女の華奢な手からそれを受け取り、くしゃみを拭った。
「いえいえ。絵の匂いは苦手ですか?」
 残りのティッシュを鞄にしまいながら女史が質問してきた。
「いえ、まあ、鼻炎持ちでして。お恥ずかしい。」
 などと生返事をした。すると女史は少し神妙な面持ちで言った。
「そうでしたか。......ところでこの絵、お好きですか?先程からずっとご覧でしたが」
 小生は少し悩んで答えた。
「そうですね......いや、何ぶん美術に疎く、申し訳ないのですが、それほどは心惹かれませんね。何だか絶対的な正しさのような、それこそ絶対に有り得ないものを押し付けられているような気がして、何か悪事を働いている訳でもないというのに、後ろめたく感じてしまう。」
 私がぼやき終わると、彼女は少しうつむいていた。私は何か余計なことを言ったのではないかと思い、急いで付け足した。
「いや、勿論良い絵ではあるのですがね、良すぎるからでしょうか」
 すると小生は、彼女がうつむいていた理由が笑いを抑える為であることに気付いた。彼女は笑いを含んだ声で言った。
「いやごめんなさいね、普通こういうのを見る人は、技術が何だ、心理が何だと理屈を並べて褒めそやすから、貴方みたいなのは珍しくって、つい」
 小生ははにかんで言った。
「ははっ、まぁ所詮素人ですので。笑い草にでもなれば重畳です。」
 そして小生達はまた、絵を眺めた。

 しばらくして小生はふと、また余計に語り始めた。
「......これは小生の憶測ですので、違っていれば大変申し訳ないのですが......貴女は、御自害なさろうとしていませんか?」
 女史はそれを聞くと小生の方を向き、今まで凪いでいた瞳を少し揺らして問いた。
「......何故そうお思いに?」
 小生はたどたどしくもまた語った。
「そうですね、先ずは貴女の服装です。平日の昼間にここでスーツなど着ている方は、暇を持て余した就活生かここの受付員位なものです。しかし貴女はどちらでもない。どちらにせよ、絵の具で薄汚れたスニーカーで面接や仕事は難しいですから。現に小生がスマホを絵に向けて操作していても、貴女は注意なさらなかったでしょう?この絵の横には、撮影禁止と書かれているにも関わらず。なので小生は他の可能性を考えました。それは賊です。やたらと絵画の上の方ばかりを見ていたので、吊るされた絵画の取り外し方でも考えているのかと思いました。そう考えれば、スーツを着ている理由にも納得がいきます。『スーツを着て受付員に擬態している』という理由がね。しかしまだ確証に乏しいので更に様子を見ることにしました。そこで新しく鍵となり得るのが、貴女の持ち物です。小生がくしゃみをした時に、ポケットティッシュを出して下さったでしょう?あの時に小生は少し違和感を覚えました。貴女の華奢で可愛らしい手に、絵の具の汚れが付いていたことです。自身の作品のインスピレーションを求めてここに来る画家であれば特段違和感はありません。しかし貴女が賊であると仮定した場合、途端に辻褄が合わなくなる。美術品という商品は非常に繊細です。少しの汚れでも価値の下落に繋がる。だというのにそのような手では盗みはできない。であれば軍手でも持っているのだろうかと思い、貴女が鞄にポケットティッシュを入れる間、失礼ながら貴女の鞄の中身を一瞥しました。その中にはロープと絵の具、そして紙だけが入っていた。そう、軍手など無かったのです。よって貴女が賊である可能性は低い。であれば貴女は一体、何をしに来たのか?受付員に擬態する必要があり、かつ絵の具で手が汚れている。更に絵の上の留め具ばかりを見つめている。そこから私は貴女の素性と、貴女が行おうとしている事を推理してみました。尤も、こんなものは推理とすら言えぬ空想かも知れませんが。その推理はこうです。......『貴女は画家。だがこの絵を何かしら憎んでおり、自分の製作も何かしらで滞って絶望していた。そんな折貴女は自殺願望を抱くようになり、どうせ死ぬなら嫌いな作品を台無しにして死にたい。そうだ、美術館に侵入しあの絵の前で首吊り自殺をしてしまおう』......と。首吊りの際の踏み台は美術館のバックヤードでいくらでも手に入る。とすれば貴女は、擬態による侵入とロープさえ準備すれば、目的を遂行できます。......とまあ、ここまで憶測を並べましたが、どうですか?勿論誤っている可能性も十分ありましたが、どうも気になった事は確認しないと不安になる性分で。すいません。」
 小生の独り語りを?然として聞いていた女史は、それを聞き終わると諦念の笑みを浮かべて言った。
「......凄いですね、全部当たっています。......この絵画、実は美大の友人が描いたものなのです。その人は、高校時代からの友人で、つい最近までは私よりずっと下手な絵描きだったのに......。そう思うと、自分でもそう思っちゃいけないと分かっていても、悔しくって。それで、つい魔が差して、気付けばここに来ていました。」
 気付けば彼女は、美しい涙を流していた。小生は彼女に向き直り、微笑んで言った。
「そうでしたか......であれば、貴女はもう大丈夫だ。これは持論ですが、真の良作とは、苦しみの末に成るものです。貴女が描く絵をいつか眺めるのを、楽しみにしています。」
 そう言うと小生は、美術館の出口へと向かった。
「ありがとうございました、名探偵さん!」
 去り際の彼女の呼びかけに小生は振り返って返答した。
「御冗談を。小生は探偵の真似事好きな、ただの三文文士です。」                  <終>


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