って言ってみた

ビガレ



一 死にたい

 私だって可愛いって言われたい。
 家を出て、駅まで歩き、電車に乗り、また歩き、学校に着く。その間にすれ違う男性たちが私に一瞥をくれることはない。視界に現れてから消えていくまで、ずっと風景のまま。スカートを短くしてみたりブラウスの一番上のボタンを開けてみたりしても、それは変わらない。
 靴を履き替え、階段を上り、教室の扉を開ける。そこでようやく、クラスの男子の何人かが私を振り返る。だけどそれは一瞬で、がっかりしたようにすぐに友達同士の会話に戻る。
 私があまり可愛くないことに気付いたのは、小学四年生の頃だった。ある日クラスでも目立たないような男子数人に呼び出された私は、男子トイレの個室に閉じ込められ、彼らに身体の至るところを触られた。私に触れる男子の手の動きは、いやらしいというより、同年代の女子の身体の構造を知るために動いているような、おぼつかないものだった。なぜかぼうっとしていて何の抵抗もしなかった私をよそに、男子の一人が「めぐみには何しても大丈夫だから」としきりに言っていたのを憶えている。自分が可愛いかどうかは分からなくとも、同じクラスのあっちゃんが可愛いと言われていることくらいは知っていた私は、「これはあっちゃんにはできないことなんだろうな」と思った。そう思ったとき、私は自分が可愛くないことを知った。
 自分以外の存在で満たされた空気と空気の間を、窮屈そうに通り抜けて、教室の真ん中の席に着く。机の上に鞄を置いたときのどん、という音が思ったより響いた気がして、周りの視線を窺う。
 私だって可愛いって言われたい。
 「私は可愛くない」という自覚がそんな欲求に変化するまで時間はかからなかった。
 そのためには何だってした。化粧やスキンケアはもちろん、くだらない付け焼刃だって。ごく普通に飛び交う異性を品定めするような視線は気持ち悪いけど、それにさえ縋りたくなるみっともない自分も確かにいた。
 外の風で窓が揺れる。あえてキャミソールを纏っていない背中が寒い。
「ねえ教育実習生来るらしいよ」
 肩への衝撃とともに、早口が頭の上から降りかかった。
「おはよう、佳以(けい)ちゃん」
 佳以ちゃんが、自分の鞄を私の机に置いた。私を叩いたらしいその鞄には、知らないアニメの男性キャラクターが二頭身にさせられているキーホルダーがいくつもぶら下がっている。
「水、飲みに行こう」
 佳以ちゃんは私の腕を引いて、渡り廊下にある冷水機のところまで連れ出した。朝の気温はまだ肌寒いくらいに低い。佳以ちゃんの力は強くて、ブラウスが肌に擦れる。
 佳以ちゃんは、毎朝私を連れて冷水機で水を飲む。私は佳以ちゃんともう一人以外に、学校で冷水機を使っている人を見たことがない。その存在自体は認識しながら、普通は誰も寄りつかない。
 足でペダルを踏んだ音が、二人の間だけで響く。
 なんとなく汚いから使わない。誰が言い出したかもわからない曖昧な価値観に、私たちの心はなびく。
 小さな水流の放物線に、曇った空が映る。
 体育の授業で短パンを履かないとか、合唱祭で張り切りすぎないとか、そういう見えないなんとなくは私たちの周りにたくさんあって、そのなんとなくをいくつ破っているかで、私たちは他人をジャッジしている、ような気がする。
 佳以ちゃんは、そんななんとなくをいくつも破っていた。唇を突き出して水を飲む佳以ちゃんを、私は目を細めて見た。佳以ちゃんがもう一度ペダルを踏む。
「さっき言ってた教育実習生って?」
 佳以ちゃんが冷水機から口を離し、袖口で拭う。
「今年の教育実習生、うちのクラス担当するらしい。どうせ林(はやし)が楽したいだけっしょ」佳以ちゃんは担任の林先生のことを頑なに林、と呼ぶ。私は佳以ちゃんがこの呼び方をするのがあまり好きではない。「ねえ男かな? 女かな? てか知ってる? 教育実習生ってただの大学生らしいよ。高二の私たちからしたらそんなに変わんないよね。去年来た奴らに変に緊張して損したわ」
 私はそれを知っていたけど、へえそうなんだ、と相槌を打った。
 徐々に登校する生徒の数が増えてくる。私たちの傍を通る生徒の笑い声が、こちらに向けられたものみたいに聞こえてしまう。
「教室戻ろ」
「うん」
 私は、私より身体がひと回り大きい佳以ちゃんのあとをついていく。
 一度、佳以ちゃんと一緒にいるのを偶然見かけた母親に「あの子、お友達?」と聞かれたことがある。リビングのビーズクッションと一体化してスマホを眺めていた私は、その丸くて大きな体の内側から湧き出る言葉の数々を取捨選択するだけの間を取って、結局、最近よく話す人、と答えた。最後まで迷った簡単なほうの言葉を選ばなかったことと、佳以ちゃんが眼鏡をかけ始めてから私がすぐにコンタクトにしたことは、少し関係があるのかもしれない。
 佳以ちゃんは私より可愛くない。それが、私が私を可愛くするスピードを遅くしている気がする。
 教室に戻ると、何やらみんなが慌ただしくしていた。私は今日の曜日を思い出す。今日は月曜日。朝のホームルーム後に週末課題の提出がある日だ。これのせいで毎週月曜日の朝は、主に土日も部活動に追われている運動部や吹奏楽部の人たちの課題の見せ合いによって教室が忙しなくなる。帰宅部の私や佳以ちゃんには関係のない話だ。
 彼ら彼女らはひとまとまりに群がって教室のなかを歩き回る。それはまるで天気予報で見る台風の渦のようだった。周囲を巻き込みながら奔放に前進し、通過した地点に雨風をもたらす。私たちはその雨風に見舞われないように真ん中の席に戻ろうとした。
「めぐみ、見て」
 佳以ちゃんが声を潜める。私は佳以ちゃんの視線が指しているほうにこっそりと目をやり、あれか、と思う。
 群れの真ん中、いわゆる台風の目の地点に、そのなかで一層の存在感を放つ人物がいた。三浦(みうら)さんだ。
 三浦さんのことを端的な言葉で言い表すならば、私とは正反対の位置に存在する人物、である。
 正反対、とはこれはどんな尺度においても言えることだった。たとえば「容姿」、「学力」、「人望」。数え始めたらきりがない。彼女は可愛くて、賢くて、いつもみんなの中心で笑っていた。何をやらせてもだめな私とは真逆の、なんでもできる人だった。
 そんな三浦さんのことを佳以ちゃんはよく話題にした。大抵の場合あまりよくないふうに。
「あんなのさ、絶対やってるよね。きも、ああやって男子にばっかり可愛い子ぶって。なんで誰も気付かないんだろう。マジで男子って見る目ないわ。女子はそういうのすぐ分かるじゃん。なんていうの、女の勘? ってやつで。だからあの周りにいる子たちも、絶対裏で悪口言ってるよ」
 佳以ちゃんの早口が耳元で滞留する。佳以ちゃんは三浦さんのことをよく「やってる」と表現する。その四文字が嫉妬的な感情から来るものなのか同性特有の嫌悪感から来るものなのかは、その表情からは読み取れなかったが、私は佳以ちゃんの言うことも分からなくないと思いながら、彼女とは別の感情を抱いていた。
「やばい、今週の数学マジ分かんない」
 さっきから同じ場所で漂っている群れの中心で、三浦さんの声が吹き上がる。実際の声量はそうでもなかったけど、それに同意する声がパス回しのように周囲に広がっていて、それは彼女の存在感の大きさをよく表していた。佳以ちゃんが舌を出してもどす真似をして、自分の席へ帰っていった。
 私は佳以ちゃんみたいに三浦さんを良く思っていないわけではない。それよりも、三浦さんのように完璧な人を見ると、切なくなってしまう。
 群れが移動を始める。なるべく進行方向を妨げないように、自分の席に戻る。
 私は、私たちが見ている三浦さんは、誰かの作った三浦さんを被らされているだけなんじゃないかと思う。本当の三浦さんは隠れていて、三浦さんは誰かの作った三浦さんを演じているだけなんじゃないかと思う。思って、勝手に切なくなる。
 こんなふうに他人のことをいちいち考えてしまうのは本当に痛々しい妄想だと自分でも分かっている。だけどその妄想の末に、私は三浦さんをあわれだと思うときさえあるのだ。
 携帯をいじりながら右耳の先で群れの動向を感じ取る。未だに数学の課題の解答が分かっていないみたいだ。問三がマジでヤバい、と言っている。問三なら問題集の応用のところに似た問題があったから、それを見ればすぐに解ける。
 微かな優越感で油断しきっていた私のもとに、甲高い声が突き刺さってきた。
「ねえ畠山(はたけやま)さぁん、この答え、分かる?」
 耳鳴りのように、静寂が空間に広がった。
 少し集中を疎かにした隙に、群れからたった一人飛び出していた三浦さんが、私の机に寄りかかっている。
 三浦さんは笑っている。誰が相手であっても同じような、分け隔てない公平な笑顔を私に向けている。
 私の位置からは三浦さんの後ろにいる群れに残った人たちが見える。三浦さんと私を見るその目は、不安と好奇心が入り混じった、まるでサーカスでも見ているような目だった。
 ピエロと、舞台装置。
 私は、これだ、と思った。私が三浦さんのことをあわれだと思うのは、こういう、何も見えていないふりを演じようとしているときだった。
 みんながなんとなく思っているけど口には出していないことを、三浦さんはときどき見えていないふりをする。雰囲気、社交辞令、スクールカースト。三浦さんは、みんながそんなこと思ってるなんて知らなかった、を平気で演じる。私の目にはそれがすごく白々しく映ったのだけど、そのことは誰にもあまり気付かれていないみたいだった。
 私は三浦さんが冷水機で水を飲んでいるところを見たことがあった。そのとき彼女は友達から、由良ちゃんってたまに天然入ってるよねー、と言われていた。
 今の三浦さんはそのときと同じ顔をしている。
「畠山さん、ここの、問三のとこなんだけど。もう解いた?」
 三浦さんの顔が近づく。柔軟剤の自然な良い香りがした。
 彼女の、見えていないふりはときに周りの人たちから注目を集めた。天然な三浦さんがスクールカーストを飛び越えるのを見つめる、不安と好奇心が入り混じった目。三浦さんがピエロで、私が舞台装置。今の彼女は多分、背中に目がついていて、全部見えている。
 ピエロは笑っている。観客の期待に応えるために。
 舞台装置の私は舞台装置らしく行動しなければと思うけど、自分のことを舞台装置だと思って行動したことがなかったから、何をすればいいのか分からなかった。
 藁をもすがる思いで佳以ちゃんを見た。佳以ちゃんは、目が合いそうになった瞬間顔を窓のほうに向けた。
 私はもう何も分からなくなりそうで、視界の見えているところと見えていないところの境界線が、あやふやになってしまっていた。
「それ問題集見たら解けるよ」
 ぎりぎり焦点の合っていた三浦さんの顔が上がったのが分かった。私も同じようにすると、そこには平子くんがいた。あ、平子(ひらこ)くん。
「問三なら、問題集に同じようなやつあったから、それ見れば? 俺はそっちも分かんなかったから、答え見てパクったけど」
 ぶっきらぼうな、低い声。平子くんの声。
 みるみるうちに脳に酸素が回って、視界が元に戻っていく。
「えー、そうなんだー! ありがとー!」
 三浦さんの声はさっきよりワントーン上がって、対男子仕様になる。それに多分、普通よりも気合が入っているほうの。
 三浦さんの背後から注がれていた視線が、ばらばらとほどけていく。つまらない公演を見せられたあとの、チケットを投げ捨てる観客のように。
 「俺日直でそれ集めないといけないから、早く解いてよ」と平子くんは言い残して、私の席から離れた。そのあとを三浦さんが「じゃあ教えてよー」と追っていった。
 大きな台風が過ぎ去った。ずぶ濡れの私が一人残される。
 まだ胸がどきどきしている。同じような日の繰り返しのなかでたまに起こる、大気のうねりみたいなものに巻きこまれた感じだ。ずっと緊張していたからか、身体中の筋肉がばらばらと崩れるような感覚が流れる。深く、息を吸う。
 取り残された私の手元には、平子くんの声が残っていた。
 残っていたというより、ずっと持っていた、のほうが正しいかもしれない。
 どこからか、パンの匂いがする。
 始業を告げるチャイムが鳴って、雲から晴れ間が見え始める。
 そうだ、平子くんと言えば、パンだ。


 あのときいた子に似てる。
 学年が一つ上がるとクラスが変わる。黒板に貼り付けられたA4紙で馴染まない教室の自分の席を確認する。振り返った視界で窓際に座る彼を捉えたとき、そう思った。
 あのとき、トイレで私の身体を触りまくっていたあの子に似てる。
 皮肉にも、それが平子くんを意識するようになったきっかけだった。
 それから。
 平子くんの声を聞くと、前髪の調子が気になった。
 平子くんを見ると、アマゾンのカートに入っているコスメを一気に買いたくなった。
 平子くんのことを考えると、お腹の下の辺りがじわっと熱くなった。
 そういうことを繰り返して平子くんへの想いを高まらせているうちに、私は、私があのときの気持ちよさに未だに縋っていることに、初めて自覚した。
 あの、男子トイレの個室での時間は、私が私の異性からの扱われ方を知った瞬間でもあり、人生で唯一異性に求められた瞬間でもあった。それは確かな事実であり、また、そのとき私の身体のなかに熱くなった部位があったのも認めざるを得ないことだった。
 平子くんの存在は、私の感覚にあの熱を再現させる。それはまだ感情とは呼べないほどに不定形なものだったけど、間違いなく私の行動原理だった。
 平子くんと、よく行くパン屋が一緒だった。
 分かったときはできすぎていると思った。気付かないうちにストーカーまがいの行為をしていたのかもしれない、とも思ったが、どうやら通っている歴は私のほうが長いようだった。まず自らを疑った自分が情けなかった。
 繁華街のはずれの、用事がなければ来ないような路地裏に店はあった。目の前には柵の設けられた用水路があって、そのさらに向こうに大きな百貨店があった。百貨店といっても、見えるのはブランドのロゴやマネキンなどではなく、換気扇や従業員用の出入口くらいで、言わばはりぼての裏側がこちらを向いていた。中学生のときに初めて母に連れられたとき私はそれを気に入って、それからたまに店を訪れるようになった。
 雨が降った日があった。濡れたアスファルトから立ち上る匂いが不快だった。私は折り畳み傘を閉じ、ベルのついた扉を開く。木製の持ち手の感触は、すっかり指の腹に馴染んでいる。
「いらっしゃいませー」
 快活な声が、レジからそう離れていない入口まで真っすぐに届く。最近入ったらしい店員のおばさん。軽く会釈をする。こういうとき、上手く笑えているか少し不安になる。
 左手にトレーを持ち、右手で掛けてあるトングを取る。前回来たときと恐らく寸分違わぬ動き。こういうタイプの、いわゆるエモい空間に、自分のお決まりの行動があることになけなしの優越感を覚える。
 その日は塩パンとあんバターデニッシュをトレーに乗せた。本当はダイエット中だけど、そのパン屋だけはアリということにしている。気付くと、身体のなかの空洞が全部パンの匂いで満たされていた。
「いつも来てくれてありがとうね」
 心惜しげにテーブルのパンを見ながらゆっくりレジまで向かっているときに、おばさんの店員に話しかけられた。咄嗟のことで、私は反応が遅れる。
「よく、来てくれてる子よね?」
 おばさんが瞼の皴を上げながらもう一度尋ねた。今度こそ口を開く。
「ぁ、はい、そうです」
 上手く声が出なかった。
「そうよねー、いつもありがとうね」
 おばさんは私の気持ち悪い声なんて気にしていないように、私の手元からトレーを受け取った。そのときのおばさんのエプロンの擦れる音と、ありがとうの響きは、不思議と私の心の隅々まで行き渡った。少しだけ泣きそうだった。
 からんころん。
 ベルが鳴る。私は気にせず袋に詰められるパンを見つめていた。おばさんが顔を上げて、あ、とこぼす。
「もう少しで終わるから、待ってて」
「畠山さん?」
 身体がじわっと熱くなる。
 おばさんの声に被さったもう一つの声は、私に確かにそう感じさせた。
「あれ? 同じ学校?」
 おばさんは、私ではなくて私の後ろのほうに話していた。顔を上げてふと目に入ったおばさんの名札に、「HIRAKO」のローマ字がある。
「今年の春から同じクラス。畠山さんだよね?」
 私は振り返る。そこにいたのは、紛うことなき平子くんだった。雨で少し髪が濡れている。心臓からどくどくと送り出された血液で真っ赤になった私の顔から「うぃ」みたいな変な声が出る。最悪。
「うそー、すごい偶然。息子と知り合いなんて」
 おばさんが手を叩く。
 私はパンを買うのを二個に留めていてよかった、と思っていた。一人で三個も四個も食べる奴だと思われたら平子くんに引かれるかもしれない。
「じゃあ、車で待ってる」
 平子くんはそれ以上会話はせずに店を出て、裏へ回っていった。
「学校の帰り道の途中にあるから、私の上がりの時間と重なるときは送ってるの」
 レジからお釣りを出しながらおばさんが何か喋っていたけど、正直全然聞こえていなかった。私は震える手で塩パンとあんバターデニッシュが入った袋を受け取った。
「また来てねー」
 おばさんの温かい声に会釈して、私は折り畳み傘を開く。外はまだ暗い。傘の内側の骨に雨露が滴っている。
 私の心は、高揚していた。
 あるはずないと思っていた平子くんと私の共通項。
 しかもそれは、クラスメイト、とかいう私以外にも無数に繋がっているものじゃなくて、平子くんと私だけの。
 その唯一無二感に、私は、手を押さえていなければ雨の中に傘を放り投げてしまいそうになるくらい、興奮した。アスファルトの匂いなんて、全く気にならなかった。
 だから、平子くんと言えば、パンだ。


 佳以ちゃんがそう言った一週間後、本当に教育実習生は来た。
 「これから二週間、HRは木村(きむら)先生に任せるから」と林先生に言われて教卓の前に立った木村先生は、憂鬱な月曜の朝に似合わないはきはきとした声で自己紹介を始めた。
「木村早(さ)季(き)です。今日からこのクラスのHRを担当します。教科は英語なので、英語の授業でもみなさんと会うことになると思います。先生と言っても、まだ全然で、年齢もみなさんと四つくらいしか変わらないので、気軽に頼ってください。みなさんのためなら何でもします! よろしくお願いします」
 腹の底から届く木村先生の言葉に、思わず教室からぱらぱらと拍手が上がる。「良い挨拶だね」と褒める林先生に、木村先生ははにかんだ顔を見せる。
 私はみんなと同じように拍手をしながら、挨拶の内容なんかよりも、彼女の外見を見ていた。
 身長が大きくて、腰の位置が高い。骨格は多分ナチュラル。メイクは薄くしてあるけどシャープな目に長めのアイラインが映えていて、眉毛を描くのが上手い。髪はつやつやで、後ろで一つに束ねている。
 一言で言うと、自己主張の激しい女子高生のなかでは見ない、まさに大人でかっこいい女性、って感じだった。
 朝のHRが終わったあと、案の定木村先生はクラスのみんなに質問攻めにされていた。「彼氏いるんですか?」「ここを卒業したってことは知ってる先生まだいたりしますか?」なかには私も訊きたかった「化粧品どこで買ってるんですか?」という質問もあった。「普通にドラッグストアだよー」と答えていた。
「教師を志したきっかけはなんですか?」
 一際目立って聞こえるのは、やっぱり三浦さんの声だ。「真面目なこと聞くね」という言葉をもらっている。「将来に向かって行動している人って憧れるので」
 私からは、教育実習生相手でも距離感をわきまえている私、を演じているように見えて、また切なくなった。
「行こ」
「あ、うん」
 次の授業の教科書を持って、教室を出る。佳以ちゃんの大きな身体についていく。「ほらもう一限目始まるよ」という木村先生の優しい声が後ろで聞こえた。
 それから日が経つにつれ、木村先生が少し変わっているということが分かってから、彼女の周りに集まる生徒は少なくなっていった。
 木村先生はやけに、私や佳以ちゃんみたいにクラスでもあまり目立たない生徒に話しかける。それが一部の人たちからよく思われないということは私たちだって分かっていたのに、木村先生だけは気付いていないみたいだった。
 掃除の時間、私と佳以ちゃんが担当している生物室前の廊下に、木村先生はよく現れた。長い手足を存分に使いこなして、ほうきで埃を集めていた。
「二人は悩みとかないの?」
 そう言う木村先生の瞳は、反射して自分の姿が見えてしまいそうなほど輝いていた。
「いや、ないです」
 佳以ちゃんが木村先生に背を向けたまま言った。私は内心少しひやひやしていた。
「そっかぁ」木村先生の長い睫毛が下りた。「でもね、悩みを持つことって悪いことじゃないんだよ」
 木村先生の、耳に掛けていた細い髪が俯く顔にはらりと落ちた。その数秒間の動きを見た私は、なぜか悲しくなった。
 彼女は、今自分が嫌われていたり「偽善者」などと陰口を言われていたりすることを本当は全部知っていて、それでも私たちのところへやって来てくれているのかもしれない、とふと考えてしまったのだ。
 それで別に彼女のことを好意的に捉えるようになるとかではないけど、一瞬、彼女のことを信じてみてもいいかもしれない、と思った。
「先生、私、悩みあります」
 木村先生がゆっくり顔を上げた。
「本当に? どんな悩み?」
 私は口をつぐんだ。
「すみません、全部は言えないんですけど、悩みはあります」
 木村先生は優しく微笑んだ。
「そっか。でも教えてくれてありがとう。そっか、そっか。悩みがあるんだね。よし、分かった」
 ほうきをぎゅっと握りしめる。
「じゃあね、どんな悩みでも解決できる方法を教えてあげる」
「え、どんな悩みでも?」
 私の心の、開きかけた穴が閉じる音がした。どんな悩みでも解決できる方法。そんなのあるはずがない。私は何か危ない道に引きずり込まれることさえ頭によぎらせた。だけど目の前に立つ木村先生の表情はとても真摯に見える。私は思ったことをそのまま口に出す。
「そんなの、あるはずないです」
 木村先生が一瞬驚いたような顔をして、すぐに口角を上げる。
「それがね、あるの」
 私は眉をひそめる。
「なんですか、それ」
 木村先生が息を吸う。
「あのね、死にたい、って、言うの」
「えっ、死にたい?」
「そう、それをね、言うの」彼女は笑っている。「なるべく立場や力の強い人に」
 訳が分からなかった。彼女の言うことが分からなかったからこそ、私は思わず尋ねてしまった。
「どうして強い人に言うんですか?」
「自分が弱くなれるから」
「死にたい、って言うと弱くなれるんですか?」
「そう。死にたい、って言っちゃえば、その人をそれ以上苦しめるものは全部人を殺す行為になっちゃうでしょ。だから、悩みのもとも無くなるし、みんな心配してくれる」
 さっきまでの優しい微笑みを浮かべていた彼女から発される言葉とは思えなかった。私は呼吸が浅くなっていることに気付いた。彼女の言葉を荒唐無稽だと吹き飛ばしてしまいたいのに、なぜかできなかった。
「別に死にたくなかったら、どうするんですか」
「死にたくなくてもいいの。とにかく、言うの」
 木村先生の瞳は、奥底が見えないくらい黒く澄んでいた。どこまでもどこまでも、追いかけたくなるように澄んでいた。
「何かあったら、いつでも私のところにおいでね」
 チャイムが鳴った。
「あ、掃除終わったね。教室戻ろうか」
 木村先生が私の分のほうきまでロッカーに片付けてくれて、一緒に教室まで歩いた。佳以ちゃんはいつの間にか消えていた。
 木村先生の言葉はそれからしばらく経っても私の頭のなかを漂っていて、なかなか底のほうに沈んでいってはくれなかった。


「うちの子彼女できたみたいで、なんか最近やけに色気づいちゃってさ」
 毎年こどもの日を過ぎると、パン屋に柏餅が並ぶ。今時、スーパーやコンビニで売ってあるようなパックに入ったものでなくて、誰かのついた柏餅を食べられる機会は滅多にないので、私は必ず買いに行っていた。
 あれ以来お店に寄る回数が増えた私は、店員のおばさん、もとい平子くんのお母さんにすっかり顔と名前を覚えられ、色々と話しかけてもらえるようになっていた。とは言え、何度通っても彼と再び会うことはなかった。
 その日、柏餅とはちみつバターパンを買った私は、レジでいつものように私に話しかけたおばさんの言葉に耳を疑った。
「あれ、知らなかった? うちの息子、彼女いるの。あ、これ言っちゃだめなやつだったのかも。畠山さんごめん、みんなには内緒にしといてくれる?」
 おばさんの言葉は上手く脳を通っていかなかったような気がしたのだが、身体の動作に現れるくらいには、器用に意味だけさらえていたらしい。私はパンの値段を見もせずに適当に財布から千円札を取り出し、大小ごちゃまぜの小銭とパンの入った袋を受け取り、店を出た。
 バス停までの道のりを歩く。私は、今自分が歩いているスピードが速いのか遅いのか分からなかった。何度も見ているはずの風景が、全然知らない町のもののように見えた。それなのに、ときどき右膝に当たるレジ袋の感覚は、回数を数えられるくらいはっきりと分かった。
 動揺して色んなものが曖昧になっている一方で、やけに冷静な自分もいた。
 まあ、彼女くらいいるよな。
 次の日私は、教室でなるべく平子くんを見ないようにした。だけど全く視界に入れないというわけにはいかなかった。なぜなら、彼の周りにはいつもやけに耳につく甲高い声がついてまわっていたからだ。その声に対してあれこれ思うたびに、必ず平子くんの姿が目に入った。
 平子くんの彼女が一体誰かということは、おおよそ予想がついていた。
 学校から家までの帰り道、いつものルートを逸れて公園の公衆便所に入る。個室へ入って鍵をかけ、便座に座り、私はインスタグラムを開く。慣れた指つきでIDを入力し、アカウントを検索する。出てきた丸いアイコンの周りが虹色に縁取られていて驚いた。普段は、ストーリーなんて更新しないのに。
 私は答え合わせのつもりで、平子くんのアカウントのアイコンをタップした。
 そこには、彼女ができて浮かれた顔をしている平子くんと、目尻がいやらしく垂れ下がっている三浦さんのツーショットが現れる、はずだった。
 出てきたのは、商店街みたいな場所で、手前に誰かが見切れている写真だった。更新された時間は、つい数分前。
 何これ? 今誰かと一緒にいるの? この手前に映ってるのが、彼女ってこと?
 写真がぶれているせいで、何が映っているのかうまく判別できない。
 スクリーンショットして、拡大してみる。
 シルエットから察するに、通学用の鞄のようだった。
 そこには、見覚えのあるアニメキャラクターのキーホルダーがぶら下がっていた。
 私は手を止める。
 は?
 外から、子どもが遊んでいる声が聞こえる。
 これ、佳以ちゃんが持ってるやつじゃん。
 子どものなかには、男の子もいれば、女の子もいる。
 佳以ちゃんが平子くんの彼女ってこと?
 子どもたちの声に被さる、大人の女性の声。
 そんなわけない。そんなわけない。
 インスタグラムの画面に戻ると、平子くんのストーリーが新たに更新されていた。
 震える指で、タップする。
 佳以ちゃんが笑っている画面が表示された。
 数秒の動画のなかで、全然可愛くない顔の佳以ちゃんが笑っていた。それを撮っている平子くんの低い声と一緒に。
 大人の女性、恐らく子どもたちのお母さんが、声を荒らげた。
 いつから? 平子くんに助けられた日も、パン屋で初めて会った日も、同じクラスになった日も、こんな投稿なんて上げていなかったのに。いつから佳以ちゃんと付き合ってたの?
 子どもたちのお母さんは、何かを叱っている。お母さんには、叱ったり褒めたりして、子どもを育てる権利がある。それは、お母さんがその子どもを作って産んだから。
 佳以ちゃんは、全然可愛くなかった。私より可愛くなかった。毎日学校にすっぴんで来ていたし、全然面白そうじゃない趣味の話ばかりしていたし、冷水機で水を飲んではいけないということに気付いていなかった。
 それなのになんで。なんで佳以ちゃんなの。佳以ちゃんよりも化粧に詳しくて服にもお金をかけていて冷水機も使わない私じゃなくて、なんで佳以ちゃんなの。
 佳以ちゃんでいいなら私だっていけたじゃん。
 子どもを育てるお母さんには、子どもを作る相手がいた。相手がいたから子どもを作ることができて、そして育てることができる。私だってそうやってお母さんに育てられてきた。だけど私が子どもを育てる権利を持つことはあるのだろうか。私が子どもを育てる権利を持つために、私と子どもを作ってくれる相手は現れるのだろうか。
 私だっていけたじゃん。
 嫌だ。はなから諦めていた自分が嫌だ。そうさせた自分の自信の無さが嫌だ。自分の自信をなくさせたあれが嫌だ。
 声が消えた。
 トイレの個室。鍵のかけられた扉。この景色を見ると、どうしてもあの日のことを思い出す。あの日を思い出す辛さは、最近は平子くんのことが好きだという気持ちが上書きしてくれていた。それが決して純粋なものではないとしても。だけど、それすらも。
 早く。平子くん、早く、私に熱をちょうだい。
 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした私の頭のなかには、ある言葉が浮かんでいた。黒く澄んだ、ある言葉。
 今なら、言えるのかもしれない。
 そう思った私は無理やり嗚咽を止めながら、学校に電話した。電話に出たのは事務の人だった。あまり頭のまわっていなかった私は、事情も伝えず「早く木村先生に代わってください」と口走っていた。事務の人は困惑しながらも、木村先生がまだ学校にいるか確認してくれた。幸い、木村先生は翌日の授業の準備のために残っていた。
「もしもし、木村です。畠山さん?」
 木村先生は、もう何かを察知しているみたいだった。
「先生、私、死にたいです」
 数秒間の沈黙があった。だけど不安にはならなかった。
「明日、学校で話そう」
 耳元に置かれた言葉は、すぐにツーツー、という無機質な音に変わった。電話越しで、先生がどんな表情でそれを言ったのかは分からなかった。
 携帯を耳から離すと、さっきよりも個室は狭くなったように感じられて、私は鞄を抱きかかえて日が沈むまでそこにいた。


 木村先生の第一声は「誰が悪いの?」だった。先生は私くらいの年齢の子どもが死にたくなる理由と言えば、誰かからの嫌がらせだと決めつけているようだった。私は一瞬頭のなかを一回転させて、「平子くんです」と答えた。次の日、木村先生がクラスの私以外の全員を教室に呼び出して集めた。何が行われたのかは知らない。だけど、次の日学校へ行くと、教室に入るなり三浦さんやその周りの女子たちが私のところへやって来て、「めぐみちゃん大丈夫?」とか「何かあったら私たちに相談してね」とか言った。私はこの人たちが私の下の名前を知っていることに驚いた。平子くんはその日から学校に来なくなった。翌週には、佳以ちゃんも学校に来なくなった。
 私はクラスメイトたちからの同情をありったけに享受し、そしてパン屋に通うのをやめた。


 家を出て、駅まで歩き、電車に乗り、また歩き、学校に着く。靴を履き替え、階段を上り、教室の扉を開ける。すれ違う人や男子の視線が、こちらに向けられることはない。
 またいつも通りに戻ってしまった。
 木村先生が教育実習を終えてどこかへ行ってしまうと、クラスメイトの見る目は元通りになった。三浦さんたちに近寄られることも、一切なくなった。
 唯一変わったところとも言える空いた二人分の席を眺めるけど、何も感じない。達成感なんてあるわけがない。
 喉が渇いた。だけど私は、冷水機で水を飲むことすらできない。

*

二 生きづらい

 どの季節が一番「映画」っぽいかで、いつも日(ひ)菜(な)と揉める。
 日菜は秋から冬にかけてがそうらしくて、私は冬から春、ちょうど今くらいの時期が最も「映画」っぽいと思っている。
「ほら、この映画も春じゃん」
 私はテレビの画面に映る桜の木の描写を指さして言う。
「これはだって、アクション映画だし」
 日菜はソファから立ち上がって、共用の冷蔵庫から二リットルのペットボトルを取り出す。紙コップに爽健美茶を注ぐ日菜に「アクション映画じゃなくて特撮ね」と、何度目か分からない小言を挟む。
 日菜は、べっこう色のバンダナを頭に巻いている。
 大学のなかでバンダナを頭に巻くおしゃれができる人は、数が限られている。できる人とできない人との違いは単純な似合う似合わないの話ではない。無難な黒のパーカーばかり着ている私は、そういうことをさらっとできてしまう日菜のことを心から尊敬していた。
 再びソファに腰かけた日菜の、紙コップを握る細長い指が目に入る。深いカーキに塗られた爪。先週まではオレンジだったことを思い出す。
「あ、今イマジナリーライン超えたよね」
 日菜が早口で指摘する。イマジナリーラインとは、映像制作においてまたいではいけないとされる、画面に映る演者同士を結ぶ見えない線のようなもののことだ。日菜はこれしか映画用語を知らないのか、しきりにこの言葉を使いたがる。
「いいの、それがこの監督のらしさだから」
 私はそのままの姿勢でボリュームを抑え気味に言う。日菜は「ふうん」と興味なさげに呟いて、充電コードにつながれた携帯をいじり始めた。部室のコンセントは隅のほうにしかないから、床には延長コードが張り巡らされている。
 日菜は一応こちらに気を遣ってか、携帯の音量をゼロにしてくれている。彼女の好きな映画のジャンルは恋愛モノだ。
 私は集中して見ようと、ソファの座る位置を浅くした。コンクリの床にスニーカーが擦れて音が鳴る。
 画面には、街を荒らす巨大怪獣と、それに立ち向かうヒーローの姿があった。
 私の好きな映画のジャンルは、特撮モノだった。
 特撮モノの映画が好きになったのは、ヒーローへの憧れからだった。
 どこからともなく颯爽と現れて、困っている人を助けるため勇敢に行動する。人々の笑顔を見ることができるのならば、自らが傷つくことも厭わない。
 映画に登場するヒーローたちのそんな姿に、幼い頃の私は憧れ、心奪われた。そして大学生になった今でもその憧れが絶えないのは、そのヒーローに、姉の佳(か)苗(なえ)の姿を重ねてしまうからだろう。
 私には年の離れた姉がいた。姉は、私が生まれたときにはもう小学校を卒業していて、共働きで忙しい両親に代わってよく私の面倒を見てくれていた。優しくて自律的な行動のできる姉だったが、幼い私から見てもその年齢にしては不相応なくらいに家のことを任されていた。今思えば、お金も余裕もないのにいい年して精を出した両親や、その産物である私に対して嫌気がさしてもおかしくなかったのに、そんな素振りは見せずに私の親代わりを務めてくれていた。私は姉のことが大好きだった。
 そんな大好きな姉のことを、私はヒーローを見るたびに思い出した。だから私は、時間潰しのために見せられていたような特撮映画にも、退屈することなく夢中になることができた。
 肩に何かがぶつかる。
 日菜の頭だった。いつの間にか彼女は眠ってしまったようだ。私はソファの背もたれにかかっていたタオルケットを彼女に乗せ、音量を少し下げた。
 だけど最近の姉は、どこか変わってしまったような気がする。
 大きな変化と言えば、子どもを出産したことだ。二年前に職場の後輩と結婚し、苗字も変わって、先月出産を終えた。そのあたりから、姉を見ると違和感を覚えるようになった。それまで姉と接するなかでは抱くことのなかった感情だった。しかし子どもを産んだことが、その違和感の直接的な原因ではないように思う。初産にしては年齢を重ねていた姉が、家族や病院の人たちから「心配してたけど一安心」とか「なんとか無事に終わってよかったですね」とか言われているのを見ると、その胸のざわめきはいっそう強烈になった。
 肩に頭を乗せる日菜がびくっと動く。一瞬驚いたけど、眠いときによく起こるあれか、と思って視線を画面に戻す。
「弱いお姉ちゃんを見るのが嫌だったんじゃない?」
 日菜にそう言われて、私は得心した。私が最近の姉のことについて日菜に相談したとき、彼女は携帯を見ながらそう答えた。
 確かにこの違和感は、小さい頃は親のようになんでも頼れる存在だった姉が、みんなから心配されたり労われたりするか弱い存在になってしまったというギャップによるものなのかもしれない。そのギャップを目にするのが嫌だったのかと思うと、私はすごく納得した。
 私にとってはうんうん唸ってしまうほどの悩みも、それは日菜にとってはインスタのストーリーをチェックしながらでも答えられてしまうほどのもので、私はまた、彼女に対する尊敬の念を強めるのだった。
 映画はエンドロールを開始する。私はついさっき見た映画の結末に、心のなかで拍手を送っていた。とても良い作品だった。
 隣で日菜が目を覚ます。
「今何時?」
「三時、夕方の」
「え、今日って何曜日?」
「火曜」
「よかった、今日バイトじゃなかった」
「普通逆じゃない? 聞く順番」
 私は二時間分固まった首を回しながら、日菜が紙コップの残りを飲み干すのを見守る。寝起きで喉が渇いたのか、彼女は再び冷蔵庫からペットボトルを取り出した。日菜が二杯目を飲み、空のコップをテーブルに置いたのと同時に、部室の扉が開かれた。
「あ、お疲れ様」
 現れたのはサークル長の浅野(あさの)くんだった。
「お疲れ様です、二人だけですか? あ、もしかして今見てました?」
「大丈夫。ちょうど見終わったとこ」
 浅野くんは私たちより学年が一つ下の後輩だ。私たちの映画制作サークルでは男性がサークル長を務めるのは少し珍しいのだけど、浅野くんの学年で積極的に活動に参加してくれるのは彼くらいしかいなくて、私たち先輩からの満場一致でサークル長を引き継いでもらった。ちなみに前年度までのサークル長は日菜だ。
「今日ゼミ?」
「いや、バイト前に少し寄ろうと思って。ほらこれ、毎年恒例の」
 浅野くんが日菜に手渡したチラシを、私も覗き込む。そこには〈春の映画祭〉とあった。
「ああ、これ」
「これ置きに来たんです。二人は今年出すんですか?」
 私と日菜は顔を見合わせる。そして私よりコンマ数秒早く、日菜が浅野くんのほうに向き直って「いや、まだ分かんない」と言った。
「そうなんですね。でもできれば出してほしいなあ。二人の作品、見たいんで」
 浅野くんはそう言って、じゃ俺バイトあるんで、と足早に部室を後にした。
 部室の人数はまた二人になった。でもさっきまでとはその間に流れる空気が微妙に違っている。日菜は多分、今年も映画を撮るのだろう。
 〈春の映画祭〉とは、毎年春休みに行っているサークル内のイベントだ。そこではサークルのメンバーが各々で制作した映画を作品として提出することができ、提出された作品のなかからメンバーの投票によって最優秀作品というものが決められる。これは次年度の新歓活動で新入生向けに上映するために設けられたものだが、やはり「最優秀」という言葉の響きは、否が応でもメンバーに競争することを意識させた。
 とは言え提出は強制ではないので、実際の作品数は部員の数の半分にも満たないのがほとんどだったのだが、そんななかで私と日菜は今のところ二年連続の皆勤賞で作品を提出していた。だから恐らく、日菜は今年も出すだろうし、私もそのつもりだ。
 私たちは次の春で四年生になるから、これが最後の映画祭ということになる。正直言って、そういうこともあって今回の最優秀作品は私たちの代から出る可能性が高い。過去先輩たちが最後になって突然気合いの入った作品を提出してきた気持ちも今なら分かる。
 大学生生活最後の映画祭。獲ったことのない最優秀作品。映画祭の締め切りを過ぎるまで、その話題を二人の間で上げるのはどことなく気まずかったのだ。
「今日この後暇? カラオケ行く?」
 日菜の言葉には、平静を装いつつ、この空気を悪い方向に持っていかせないようにする意図が見える。
「あー、うん、いいよ。じゃあ途中でお金下ろしていい?」
 それを分かっていながらいなす私ではないので、彼女の提案に乗る。最近覚えた歌を歌うため、ではなく、日菜と今後も関係を良好に保つためにカラオケに行く。
「オッケー。じゃあ自転車取ってくる」
「はーい」
 日菜が荷物をまとめて部室を出る。明日別の友達と会う約束があることは、黙っておこう。
 机に置きっぱなしにされたチラシが目に入る。〈春の映画祭〉。私はエンドロールを終えて真っ暗になったテレビの小さな画面を見る。頭のなかではイマジナリーラインを超えないようにヒーローと怪獣の対決を撮る自分の姿が膨らんでいた。


 経済学部が講義で使っている棟は、食堂の入っている施設まで学部棟のなかで一番遠い。友達に一度「経済は学食食べられないから受験しなかった」と冗談交じりに言われたほどだ。だから講義が終わって昼休みにご飯を食べに行こうとすると、かなりの距離を歩かなければならなくなる。
 今日は日菜と、期間限定のキムチトマトラーメンを食べるために食堂で待ち合わせをしている。私は、朝は雨粒から身を守ってくれていたビニール傘を蹴りながら、食堂へと向かっていた。
 ふと見上げた先に、水色の塊みたいな人影が見える。
 あ、シズクちゃんだ。
 私はポケットから携帯を取り出し、日菜にラインで報告する。
 彼女からのラインはすぐに返ってきた。
〈うそ! 今日シズクちゃんいるの?〉
 その返信速度と文面から、彼女が嬉々として両手でキーボードを操作している様子が想像できる。
 シズクちゃんは、私たちと同じ大学に通う学生であり、その一方でSNSなどで自己を発信することで人気を集める、いわゆるインフルエンサーという職業の人だ。
 彼女の存在は日菜に教わった。日菜が見せてくれた縦画面のなかで彼女は、独特な原色のファッションに身を包み、〈生きるのが下手で何が悪い。〉というタイトルの動画をいくつもアップロードしていた。日菜の携帯で見たそのうち数本の動画の内容をまとめると、彼女は幼い頃にいじめや不登校を経験し、そんななかで自分が強くいられる生き方を模索しながら、現在は自身の過去や経験から学んだことをインターネットを通して若者に伝えている、ということだった。そこで提示される彼女の意見は、今の日本で一般的とされる価値観とはおよそかけ離れているものだったが、むしろその刺激の強さに惹かれる人も多いようで、日菜もその一人だった。
〈早季写真撮っといて!〉
 日菜から新たにラインが届く。私はその内容に一瞬戸惑う。
 シズクちゃんが大学生であることはよく知られているが、通っているのが私たちと同じ大学だということははっきりとは公表されていない。だけど学生によるSNSの投稿や盗撮によって、それは検索すればすぐに出てくる情報になってしまっている。
 私は仕方なくビニール傘の柄を腕に通して、携帯のカメラを少し前を歩くシズクちゃんの背中に向ける。
 これ私がシズクちゃんのファンだと思われたらやだな。
 ぱしゃり、とシャッターの音が鳴って、私の方がそれにびっくりしてしまってすぐに建物の陰に隠れた。
 私は、シズクちゃんのことがあまり好きではない。そんなシズクちゃんのことを好きだと言うときの日菜のことも、好きではなかった。
 さっきの音がシズクちゃんにばれたかどうかは分からない。だけど彼女のほうを覗いて確かめる勇気はない。自分は一体何をしているんだろう、と私は一人で虚しくなった。
 腕時計を見ると、もう待ち合わせの時間を過ぎている。私が写真を確認しようと携帯を起動させようとしたとき、ラインの通知で画面が光った。日菜からの催促の連絡かと思って私は少しうんざりしかけたが、そこに現れたのは日菜ではなく姉の名前だった。
〈今日来る途中でおむつ買ってきてくれない?〉


 姉の住む家はいつも全体的にオレンジがかっている。暖色の明かりは温かみを感じるから、という理由で、家にある照明は全て暖色系の光を発するようになっている。確かに、ベージュのフローリングと白の内壁にはよく似合っている。
「おむつ、ここ置いとくよ」
 私がダイニングテーブルにおむつの入ったドラッグストアのレジ袋を置いたのに対して、姉は「ああ、ありがとう」と腕に抱えた綾乃(あやの)に乳を飲ませながら答えた。
「あれ、使えばいいのに。あの、布みたいな、隠すやつ」
 私はソファで乳房の表面を露わにしている姉を見て言った。正月に実家で集まったときには、授乳する際に布のようなものを胸にかぶせていたはずだ。
「なんでよ。今あんたしか家にいないのに。使う必要ないじゃん」
 姉が綾乃のほうを見たまま言う。私の、お母さんしてるお姉ちゃん見たくないんだよ、という言葉は、直前で「レシート、袋に入ってるから」という声に変換されて口から出た。そのせいで、内容にそぐわないほど低い音になってしまった。
 月に一度くらいのペースで、姉の家に遊びに来ている。私が誘うときもあれば姉から誘われるときもあって、特に用事や理由はないのだけど、家が近いというだけでいつの間にか習慣化していた。それは姉に綾乃が生まれてからも変わらなかった。
「なんでそんな機嫌悪いの。あ、もしかしてあれ?」
「違うよ、あれじゃないよ」
 だけどやはり最近は、姉に対して、これまでのようにただ好きな気持ちだけで接することが難しくなってきた。ぶっきらぼうな言い方をしてしまった原因を生理だと疑われることも、以前までならこんなに苛立たなかった。
「てか今日圭(けい)太(た)さんは?」
「なんかね、年度末で忙しいんだって。ありがたいよね、今は私が働けないから」
 姉はすっかり夫の圭太さんを頼っているようだった。圭太さんに聞こうと思っていた、育休は取らないのか、という質問は金輪際胸の内に留めておくと決めた。
 姉からのラインを受け取ったとき、薄暗い感情が胸をよぎったのが分かった。
〈今日来る途中でおむつ買ってきてくれない?〉
 私が知っている姉は、私に限らず、他人に頼み事をするような人ではなかった。誰かが姉に手を貸そうとするより前に自分の力だけで、やることを全部やってしまうような人だった。頼み事ができるくらいには私が大きくなったのは分かっているし、ましてや綾乃に嫉妬しているなんて幼稚な話ではないのだけど、私のなかの姉はいつまでも、頼る人じゃなく頼られる人なのだ。それはもう変わらないというか、自分の力では変えようのないことだった。
「で、今日はどうしたの?」
 姉は授乳を終え、綾乃の口元をよだれかけで拭いている。
 私は配置をほぼ全て覚えてしまった食器棚からマグカップを二つ取り出し、紅茶のティーバッグを入れて熱湯を注ぐ。
 今日の約束を取り付けたのは私だ。マグカップをリビングまで持っていこうとする。
「あ、待って。そっちに置いといて。綾乃がひっくり返したら危ないから。この子が寝たら飲むよ、ありがとね」
 姉は少しボリュームを抑え、私の動きを制した。私は言われた通りに、マグカップをダイニングテーブルのほうに置く。
「ごめんね。どうした? 何かあった?」
 姉が綾乃から顔を上げる。その顔は私のよく知っている顔で、私は嬉しくなってしまう。
「んー、うん」
 私は少し俯いた。
「何、歯切れ悪いなあ」
「映画をね、作ることになって」
 映画を撮るサークルに入っていて、映画を撮っている、ということを身内に伝えるとき私は、未だに恥ずかしくなってもじもじしてしまう。
「ああ、毎年春休みにやってるやつ? 映画祭、だっけ?」
「え、憶えてるの?」
「当たり前じゃん。毎年相談されてるんだもん」
「うそ、そうだっけ」
「そうだよ。それで、その内容をどうするか悩んでるけど、結局もう自分のなかでは決まってるんでしょ」
「すご、その通り」
「なんだよもう、それ相談って言わないからね」
 会話する二人から滲み出る空気が、暖色にまみれた空間を上書きしていく。そこは、姉と圭太さんと綾乃が住んでいる2LDKのマンションの一室から、かつて両親の帰りを夜遅くまで待った実家の居間になる。姉から、母の顔が剥がれていくように見える。
「今年はどんなの撮るの?」
 綾乃が寝息を立て始めたのを見はからって、私は姉にぬるくなったマグカップを渡す。
「特撮、撮ろうと思ってるの」
 私の発する声にもう恥じらいは乗っていない。紅茶をすすった姉は何も言わず、表情だけで話を続けることを促した。
「私が特撮好きなのは、お姉ちゃんも知ってるじゃん? そのなかでも特に、町の人たちが悪者にやられて困ってるところに、めちゃくちゃ強いヒーローが現れて、悪者を倒して町の人を助ける、っていうのがたまらないんだけど」
 私は姉の目を見つめながら話す。
「それで、映画祭では最優秀作品ってのが決められるのね。でもそれって基本的に一番上の代が提出したやつから選ばれるから、どうせ無理だろって思って、これまでの二回は私無難な映画を作って出したの。もちろんそんなつもりで作った映画だから、最優秀には選ばれなくて、でもそれ、ちょっと後悔してるんだよね。せっかくなんだから思いっきりやればよかったって」
 姉が微笑みながら頷いている。それを見て、私の饒舌さは止まらなくなる。
「だから今年は、自分の撮りたい映画撮ろうって決めてるの。それで、特撮。しかも最強のヒーローが出てくるような、私の好みど真ん中のやつ。それならやり切れるし後悔はないかなって。まあ、一番上の学年で最優秀獲れるかもと思ってるから、ってのも少しあるんだけど」
 私は自分の頬が上気するのが分かるくらい、一気にまくし立てた。身振り手振りをつけながら好きなことを喋ったから、思わず肩で息をしてしまう。だけどすごく満足していた。自分の思いの丈を話せたこともそうだけど、何よりそれに耳を傾ける姉の姿が、とても、私のなかの姉らしかった。
 黙って私の話を聞き終えた姉が何か言葉を発そうとしたとき、綾乃が泣いた。姉の顔が、一気に母に戻る。
 姉は立ち上がって身体を上下させ、綾乃の機嫌を取ろうとする。恐らくの原因である私もなんとなく席を立って近付くが、どうやっても姉の視界には入ることができない。
 玄関の鍵が開く音がする。革靴からスリッパに変わった足音は、リビングから聞こえる泣き声に気付いたのか間隔が短くなる。
「大丈夫? あ、早季ちゃん来てたのか。いらっしゃい」
 スーツ姿の圭太さんが帰宅した。壁に掛けてある時計を見上げると、もう二十時を回っていた。
 私は本当は言いたくない台詞を、口から無理やり押し出す。
「もうこんな時間だったんだ、私帰るね」
「あー、ごめんね。何もできなくて」
 私はリュックを背負いながら、姉の言葉を受け取る。
 綾乃に駆け寄る圭太さんとすれ違うように、部屋を出る。玄関の扉を閉めてしまうと、あんなにうるさかった泣き声も聞こえなくなった。
 夜の街はとても静かだ。耳を澄ますほど、静かになる。
 さっきまで私の話を真摯に受け止めていた姉の視線は、綾乃が泣き出した途端にへなりと萎れ、圭太さんが帰ってきたと分かるとすぐに安堵の色を浮かべた。
 姉はもう、弱くなってしまった。
 その事実を受け止めて自分のなかに溶け込ませるまで、あとどれくらいの時間をかけなければならないのだろう。星の光らない夜空を見ながらそう思った。


 バイト先でたまに彼女を見かけること。そこでの彼女は決して生きるのが下手そうには見えないこと。それをもっと早く、教えてやればよかった。
 私がバイトしているカフェは駅の南口を出たところの繁華街にあって、いわゆる夜カフェというやつだった。営業時間は夜の十一時まで。だから早めに飲み終えた大学生が、ほろ酔いでなんとなくおしゃれな雰囲気に身を寄せるためには、かなりもってこいの場所だった。
 どうしてそんなところでバイトをしているかというと、そこは元々静かなパスタ屋で、私はそもそもその店で働きたくて応募をしたのに、突然、店長よりももっと上の立場の人たちの力によって木目調の机はやけに座る位置の高いミニテーブルになり、看板の丸みを帯びたフォントは読みにくい筆記体になり、店内の照明はピンクのネオンになった。呆気に取られるような急激な変化についていけなかった私は、一度はバイトをやめようとしたのだけど、そういう人は他にも何人かいて先を越されてしまい、これ以上やめられると困ると店長に言われて、しぶしぶ働き続けているのだった。
 だけど、今の店の主な客層である、顔や息にアルコールを纏った男女がここの入口を押し開けようとするたび、私はどうしても身体が縮んでしまい、自分にこの仕事は向いていない、と何度も思った。
 それはたまにやって来るシズクちゃんだって、別に例外ではなかった。
 彼女のことは、月に一度ほど見かけた。はじめは黒やグレーの地味な格好をしていたから分からなかったけど、毎回違う男性に連れられているお客さん、と認識してから、顔を見てそれがシズクちゃんだということに気がついた。
 私がその近くを通りがかったり注文を運んだりするとき、彼女は、あのとき動画で見たような話し方はしていなかった。小さな縦画面のなかの彼女は、社会を敵対視するような眼光で何かを訴えかけるように語っていたのに、この店では鼻の穴から出しているような甘ったるい声で一緒にいる男性に擦り寄り、ときどきその肩や脚に触れている。その姿は、この店のほとんどの座席を埋める、その他の若い女性のものと何ら変わりなかった。
 よく見る姿と格好が違うから彼女がシズクちゃんだと気付く人はあまりいなかったけど、一度だけ「シズクちゃんですか?」と声をかけられているのを見たことがある。彼女は「違います」と、すぐに否定していた。話しかけた男性は、腑に落ちない表情でその場を去った。
〈生きるのが下手で何が悪い。〉
 シズクちゃんは、私なんかより生きるのが上手そうだった。画面の内と外で人格を使い分け、そのどちらの美味しいところも器用に吸い取っているみたいに見えた。
 そのことを、日菜には言わなかった。特に言う必要もないと思っていた。
 だけど、もっと早く、教えてやればよかった。
 最優秀作品を、日菜に獲られるくらいなら。
 日菜の撮った、シズクちゃんにフィーチャーしたドキュメンタリー映画に獲られるくらいなら。
 午後三時。カーテンで春の空を隠して薄暗くなった部室。ありったけの椅子を寄せ集め、それでも足りないので隣の漫画サークルから借りてテレビの前になるべくたくさん置いた。春の映画祭上映会が行われる。
 どこからか侵入した花粉が部屋に籠っているのか、鼻がむずむずする。ただでさえ、流れている空気は良いとは言えないのに。
 サークル長以外のメンバーは、誰がどんな作品を提出したのかを知らない。
 あいつは撮ったのか、こいつは自分より面白いものを撮ったのか、それはどれくらい面白いのか。
 そういう疑心暗鬼な雰囲気が、日の光も当たらずお互いの表情もよく見えない部室のなかに立ち込めていた。
「それでは上映会を開始します」サークル長の浅野くんがテレビの真横に立つ。「分かってると思いますけど、携帯はマナーモードか電源をお切りください。あとおしゃべりや、前の席を蹴る行為もおやめください」
 浅野くんは上映前のお決まりの文言を、わざとかしこまった言い方にして自分の椅子に座った。映画泥棒は流れないの、という野次には無視をしていた。
「まずは一つ目の作品です」
 浅野くんがそう言うと、ノートパソコンと画面を共有したテレビ上にカーソルが現れ、動画ファイルがクリックされる。私にとって、最後の上映会が始まる。
 私の作品が上映されたのは、終わりから二番目だった。
 本気で撮った、最初で最後の作品。
 強くてかっこいいヒーローが怪獣に襲われて困っている町の人々を救う、超王道の特撮映画。
 演出や脚本はもちろん、撮影も編集も、全て自分だけで行った。ロケ地や音楽にもこだわった。
 脚本を書きながら主人公のヒーローを描くとき、無意識のうちに姉を思い浮かべていた。
 私の、全部を詰め込んだ映画だった。
 ほんの数分間、ほんの十数人ではあるものの、私から産み落とされた私の全部が、私以外の人間の時間を独り占めした。
 映画がそのクライマックスを迎えた瞬間、ひゅっ、と誰かが息を呑む音がした。その場にいる誰もが聞き取れたはずの音だったけど、それはいやに浮くことなくごく自然なものとして、一人ひとりをつなぐ空気の溝に溶け込んでいった。
 見栄えだけそれらしく取り繕ったエンドロールが流れ、映像が終了する。さっきまでヒーローの雄叫びや怪獣の呻き声などがこだましていたから、合間の静寂が際立つ。そんなところへ、水面に雨粒が一滴落ちるように声が鳴った。
「面白かった」
 そう誰かが呟くと、波紋は広がり、次々に同じような言葉が上がり始めた。
「良かったな」
「特に最後のとこ、好きだった」
「普段こういうのあんま見ないけど、見入っちゃった」
 さっきまでは誰も感想すら言わなかったのに、私の番になって、みんな口々に作品を褒めた。
 嬉しかった。
 最優秀作品なんてもらえなくても、こんなに大勢の人に面白いと言ってもらえただけで満足だ。と、心の表層では思った。
 しかしその奥のところでは、最後の一人、まだ上映されていなかった日菜の映画のことが本当は気になって仕方なかった。
 日菜は絶対に映画を撮っている。だから最後の一本は日菜の映画だ。それがどんな映画なのか、果たしてそれは私の映画より面白いのか。
「じゃあ、最後、流します」
 浅野くんがノートパソコンを操作する。すると、画面は黒一色に支配され、当てつけのように白い文字が、中心にゆっくりと浮かび上がった。
〈生きづらい/阿部(あべ)日菜〉
 日菜の作品は、交差点で行き交う群衆の真ん中に立つシズクちゃんの画で始まった。
 視界の縁にいた後頭部がいくつか揺れる。素人だらけの映像を見続けていたから、突然有名人が現れて驚いたのだろう。群衆の動きは、ゆっくりになったり早送りになったり、残像の軌道を描いていたりする。
 場面が変わり、真っ暗な部屋でパイプ椅子に座るシズクちゃんだけが照明を浴びている。そのメイクや所作から、それが、画面の内側にいるときのシズクちゃんだということがはっきりと分かる。
 日菜、ドキュメンタリーにしたんだ。
 しかも主人公はシズクちゃん。
 私は映像をじっと見つめながら、なぜか喉が急激に乾いていくのが分かった。
『まずは、自己紹介をお願いします』
 日菜の声だ。画面の外から聞こえる。
『はい。清水(しみず)静(しず)久(く)です。阿部さんと、あ、監督さんと同じ大学に通ってます。ときどき、シズクちゃん、という名前で、インターネットに動画をアップロードしたりしてます』
 たどたどしい喋り方のなかに挟まれる、アップロードという横文字が、鼓膜にざらつく。
『拝見しています。では早速、その動画についての質問なんですが』日菜は、一度だけ付き合った面接練習のときと同じような声色を使っていた。『〈生きるのが下手で何が悪い。〉というタイトルで多くの動画をアップロードされてると思うんですけど、そのようなものをインターネットに発信しようと考えた、経緯を教えていただけますか?』
『えっと、そうだな』
 何から話したらいいんだろう、と彼女は勿体ぶるようにはにかんで笑った。
『私、極度の人見知りなんです。人と話すのが、すごく苦手で。なんか他人にこう、目を見られると身体が固まっちゃうっていうか。あ、今は全然、大丈夫なんですけど』カメラの外に話しかける。『でも、特に異性とかは全然だめで』
 そうなんだ、と日菜がささやいた相槌をマイクが拾う。
『それで昔からあまり人と話さなかったら、気持ち悪いって言われるようになって、小学生のときに、同級生からいじめられたんです』
『ひどいですね』
 日菜の小さな同調が挟まれる。
『それでまあ、しばらくの間学校行かなくなったりもしたんですけど。でもそれはほんと、自分が悪いんです。人とうまく会話できない自分が悪いんですけど』
『そんなことないですよ』
 画面でそう話すシズクちゃんの身体は、私が知っているものよりも、とても小さく見えた。
 彼女は、インタビューが始まってから今までずっと「自分がいかに弱い人間か」ということを語っている。
 そしてそうやって語ることを、インタビュアーである日菜は求めている。
『だけどそういう人って』シズクちゃんの眼差しが前を向く。『そういう人って私以外にもたくさんいると思うんです』
 瞳には、涙が浮かんでいた。
 それを捉えた瞬間、私は思った。
 これ、お姉ちゃんのときと同じやつだ。
『今の時代、多様性とか、誰でもありのままで生きられるとかって言うけど、実際に私みたいに生きづらいって思ってる人がそんなふうに過ごせてるかって考えたら、全然そんなことないと思うんです』
 バイトしているときに見るシズクちゃんは、とても強そうだった。楽しげにお酒を飲んで、大きな声で笑って、一緒にいる男性の目を見て会話していた。
 だけど今画面に映っているシズクちゃんは、すごく弱そうだ。根暗。陰キャ。コミュ障。そんなふうにいくらでも形容できそうな見た目や話し方をしている。
 この正反対に見える二つの姿が重なるようで重ならない気持ち悪さを、私は知っている。
 強くて弱い姉を見たときと、同じ種類の気持ち悪さ。
 私はふと、隣に座っている日菜のほうを見た。自分の監督作品を真剣な表情で見つめる日菜。
 姉とシズクちゃん。同じ種類ではあるはずなのに、何かが微妙に違っている気がした。
 カーテンが揺れて、一瞬、春の眩しさが視界を照らす。
 え。
 私は思わず声を出しそうになって、慌てて視線を逸らした。
 なんで。
 日菜、笑ってた。
『私の周りでさえ、色んな悩み抱えてるけど誰にも相談できないって人、たくさんいます』
 シズクちゃんは、目に涙の膜を張りながら自身の悲痛な思いを語っている。
 それを見て、日菜は笑っている。
『よかったら』
 画面の日菜がシズクちゃんにハンカチを手渡す。
『すみません、こんなところ見せてしまって』
 日菜は、嬉しいんだ。
『いえ、落ち着いたら、ぜひお話の続きを』
 日菜は、シズクちゃんが弱くいてくれることが嬉しいんだ。
 そのほうが「映画」っぽくなるから。
 そのほうが見た人の感情を動かしやすくなって、より「映画」として成立しやすくなるから。
『はい、だからその』
 私は映像を見ているメンバーのことを見回す。
『私と同じように生きづらいって思ってるけど、どうしようもないって人が』
 みんな、画面に魂ごと奪われている。
『たまたまインターネットで私を見つけたりしたときに、こんな人でも、なんとか死なずに生きられてるんだって』
 私の映画を見ていたときにはしていなかったような表情。
『そうやって思って、その人が、少しでも、前を向いて、生きていけるように』
 自分は正しく同情できている、という表情。
 日菜の映画は、全然面白くなかった。
 確かに、シズクちゃんが泣きながら自らの過去を語る姿は、すごくかわいそうに見えた。思わず椅子から腰を浮かせて手を差し伸べてしまいそうになるくらいに。
 だけど、たとえば画角はずっと同じ位置からシズクちゃんを映しているだけで大した工夫もないし、構成だって今のところシズクちゃんのインタビューを流し続けているだけだ。そこに、監督である日菜の、こだわりのようなものが一つも見えてこない。
 にもかかわらず、みんな、自分のなかに立ち現れた特別な感情を噛み締めるような顔でそれを見ている。
 無数のこだわりが詰まった私の作品では、そんなこと起こらなかった。
 私は、みんな正しく同情したいのかな、と思った。
 みんなは実は普段から他人に同情を寄せたいと思っていて、だけどそれを積極的に起こすわけにはいかないものだから、自分から生きづらい、とちゃんと言えた人のところへ集まろうとする、そんな習性があるのかな、と思った。
 なんでもできる強い存在に助けられるより、なにもできない弱い存在を助けようとするほうが、人の感情を引き寄せるんだ。
 ふと母乳の優しい香りを嗅覚が捉えた気がした。私はやはり姉のことを思い出していた。
 今の姉は確かに弱い。だけど彼女は、独りで弱くなった。誰にも見られずに子どもを作り、誰にも見られずに産み、誰にも見られないまま育てようとしている。その結果、彼女は弱くなっていった。
 一方、シズクちゃんは、みんなに弱くさせられている。もちろん、元々彼女に弱い部分はある。だけどその弱さを、インターネットで、映画で、誰かの同情を引き寄せるためにむき出しにさせられている。
 弱いという点で同じはずの二人は、少し違っていた。
『大袈裟な言い方だけど、そういう、私の知らないところで生きづらいって悩んでる人に希望を持たせられることがたくさんあったらいいなと思って、私はこういう活動を始めました』
 シズクちゃんは、とても清々しい表情を見せていた。
 右目の端に見える日菜は何かを確信したように、大きく息を吐いた。
 多分、これが最優秀なんだろうな。
 日菜の作品はそのままインタビュー映像を垂れ流して終了した。
「今回の映画祭に提出された作品は以上になります。このなかで最も良かったと思ったものを、最初に配った紙に書いて、出入口の投票箱に入れて帰ってください。それでは上映会を終わります。ありがとうございました」
 流れるような浅野くんの挨拶が終わると、カーテンが開け放たれ、一気に部室に光が戻った。みんなが石化する魔法から解かれたように一斉に動き出し、思い思いに伸びをしたり骨を鳴らしたりした。
 口に溜まっていた上映会の感想があちこちで発散されるなか、私と日菜は一言も会話を交わさず、言葉すら発さなかった。
 私は日菜が椅子から立ち上がる前に急いで用紙に浅野くんの名前を書き、それを投票箱に突っ込んで部室を去った。背中で「阿部さんがドキュメンタリーやるの意外だったけどマジで良かったです」という後輩の誰かの声を聞いた。それから私は、卒業するまで一度も日菜と話さなかった。


 春をまたいで四年生になると、それまでに必要な単位をほとんど取得していたこともあって、大学へ行く機会はぐっと減り、バイト以外では曜日の区別がなくなるような怠惰な生活が始まった。
 それで私は、姉の家をさらに頻繁に訪ねるようになった。育休中で曜日が関係ないのは姉も同じだったし、久しぶりに乗った体重計で見たことのない数字を叩き出したのもある。バスを使えば数十分で行けるところを、なるべく徒歩で向かうようにしていた。
「おじゃまします」
 ラインで姉に伝えていた時間を少し遅れて到着した私は、綾乃が昼寝しているかもしれないことを考えて静かにゆっくりと玄関の扉を開いた。
「あ、いらっしゃーい」
 ソファの定位置に座っていた姉は、テレビで韓国のドラマを見ていた。
「綾乃、起きてる?」
「うん、一緒にこれ見てる」
 綾乃の顔を確認すると、まさにビー玉のような小さな眼球を、一生懸命にテレビのほうに動かしていた。
「内容、分かってるのかな」
「こんなどろどろした恋愛なんて、まだ分かってほしくないよ」
 姉は健やかに笑う。出産直後に彼女の顔に纏わりついていた霧のような疲労感は、最近では徐々に晴れていっているような気がする。
「あれ、どうしたのそれ」
 私の左手を指して、姉が言う。
「あ、これ?」私は手に持ったドラッグストアのレジ袋をひょいっと持ち上げる。「おむつ、そろそろなくなるかなと思って買ってきた」
「え、私頼んでたっけ?」
 申し訳なさそうな表情が姉にさっとよぎる。
「ううん」私はすぐに否定した。「いやほら、私最近体重やばいからって歩いてるじゃん? それで、ここに来る途中にたまたまお店があったから、まあ、運動がてら寄ってみただけ」
 そう言って袋をダンベルに見立てたポーズをした。
「わざわざ、ありがとう」
 姉が普段の表情に戻る。
「あ、あと」
「ん?」
「これも」
 私は、そのなかからプラスチックの容器に入ったモンブランを取り出した。
「全然、高いやつとかじゃないんだけど。よかったら」
「え、これ私に?」
「もちろん。あ、甘いのってあんまだったっけ?」
「ううん。大好き」
「そんなに驚く?」
「うん。だって、早季のほうからこういうことしてくれるの、珍しいから」
 姉は私の手から二百九十八円のモンブランを受け取ると、まるで宝石のついた指輪を眺めるように、両手のなかで見つめた。
「そんなにじろじろ見ないでよ」
 私は少し照れくさくなって、おむつをダイニングテーブルに置いてキッチンへ向かった。勝手知ったる手つきで、紅茶を淹れるための用意をする。さっきから流れていた韓国ドラマの音声が止まった。途中で姉がテレビを消したみたいだ。
「最近は学校行ってるの?」
 姉はリビングとダイニングの間に置いたベビーベッドに綾乃を寝かせ、テーブルの長椅子に座った。私は紅茶の入った二人分のカップを運んできて、その目の前に腰かける。こうして向かい合うのなんて、どれくらいぶりだろう。
「ほとんど行ってない。単位はこのままいけば大丈夫だから、あとはゼミと、教職の授業くらい?」
「あ、教職課程取ってるんだっけ」
「お母さんに言われて、一応ね」
「じゃあもしかしてもうすぐ教育実習?」
「うん、まあね」
 意味もなくティーカップを手で回してみる。香りが立つかと言われれば、よく分からない。
「じゃあ、生徒に木村先生、とか呼ばれるんだ」
「そうかもね」
「どういう先生になりたいの?」
「ええ、そんなのないよ」
 カップのなかで水面が上下左右に揺さぶられる。
「なんでもいいから言ってよ」
「ええ」私は紅茶を一口すすった。「お姉ちゃん、私ね」
「うん」
「生きづらい」
 普段あるはずの甘味がなくて、そこで初めて砂糖を入れ忘れたことに気付く。紅茶は喉を通っても、渋味がまだ舌の根に残っている感じがする。
 姉の表情から、みるみるうちに色が失われていく。口角は下がり、瞳は何かを憐れむようになる。
「うそうそ!」私は大きな声を出した。「全然そんなこと思ってない、ほんとに! 人生、すごく楽しいし! なんかちょっと言ってみたくなっただけ。だからそんな、全然心配しないで」
 絶対に同情なんてしないで。私は姉から目を逸らしながら言った。
 ティーカップを握っていた手に、包まれる感触がある。
 姉の、大きくて柔らかい手。
 私は顔を上げなかった。だけど姉が何かを言おうとしていることは、はっきりと分かった。
 姉が口を開いて、言葉を発そうとした瞬間。綾乃が泣いた。
 私の手から、姉の手の感触がさっと消え、彼女は弾かれるようにベビーベッドに向かった。
 紅茶の渋味がまだ口の中に残っている。
 姉の腕に抱かれたその小さな命は、いつまで経っても泣き止むことはなかった。

*

三 疲れた

「はあ、疲れた」
 背後、遠くから女子高生らしき声が聞こえる。
 私はと言えば、ブレンドコーヒーを「ブレンド」と呼ぶかどうかで悩んでいる。こういうときは大抵、自分を外から見る機能が作動している。
 平日の夜、一人、ミスタードーナツで、ドーナツを二つトレーに乗せた、スーツ姿の、男。
 そういうさまざまな状況や属性を、パッチワークのように持ち合わせた存在が、ブレンドコーヒーを注文するとき言うにふさわしいのは「ブレンド、一つ」か「ブレンドコーヒーを一つお願いします」か。
 私は、実際には一秒にも満たない時間を感覚的に引き延ばしながらそんなことを考えつつ、店員の女性のはつらつとした笑顔を確認した。ここで働けることが楽しくて仕方がない、と言わんばかりのその表情に、私の口からは「ブレンドコーヒーを一つお願いします」という言葉が引き出された。
 スーツ姿の男と、チェーン飲食店の制服を着た女。カウンター一つ挟んだ、あっち側で、そんな顔をされると面食らってしまう。
「お支払いはどうされますか?」
 過剰とさえ感じてしまう大きな声に、私のほうはすぼんでしまう。
「あ、現金で」
「ではそちらにお入れください」
 視線の下には、金が入るのを口を開けて待ち構える大きな機械があった。最近よく見かけるタイプのレジだ。
 私は未だにこの存在に慣れることができない。どうして客のほうが札を入れたりお釣りの小銭を取ったり、作業量を増やさなければならなくなっているのだろう、と思ってしまう。
 時代の流れに適応するのにかかる時間が日を経るごとに長くなっている。そのことで、自分はもうその最先端にいる人間ではないのだということを実感する。
 長財布を開き、中を確認して、ちょうどお釣りが三百円になるように調整した金額を支払う。戻ってきた小銭をしまいながら、私はもう一度財布の中身について考えた。
 あのとき以来、自分の財布には四千五百円分のスペースがぽっかり空いたままになっている気がする。
 店員からドーナツとブレンドコーヒーの載ったトレーを受け取り、空いている席を探す。金曜日ということもあってか、店内はそれなりに混んでいた。一人で座れる席と言えば、さっき大きな声で「疲れた」と叫んでいた女子高生の隣くらいしかない。私はその席に、彼女から遠いほうへ回って、トレーを置いた。
 女子高生の座る席を横目で確認する。目の前には、彼氏らしき男子高生がドーナツを頬張っていた。
 いや、いけない。
 男女が二人きりでいるからと言って、それをカップルだと決めつけるのは。
 隣に座る二人は彼女と彼氏という関係ではなくて、ただの友人同士かもしれない。
 そういう配慮を、ちゃんと持ち合わせなければならないのだ。
 鞄からノートパソコンを取り出して、開く。会社を出るときにしっかりと電源を落とすのを忘れていたのか、終業前に見ていた画面がそのまま立ち上がる。
〈生理は、もう女性だけのものじゃない。〉
 薄緑色の縁がついた白地の背景に、わざとらしく手書きのようなフォントで記された文字がでかでかと、パワーポイントのスライド上に表示される。私はそれをじっと見ていることができず、水中から顔を出して呼吸をするように、ドーナツにかぶりついた。
 私が勤める会社はナプキンなどの生理用品を主に取り扱う企業だった。所属は、商品の広告やキャッチコピーの検討など、それらを売り出すための戦略を考える広報部だ。
 会社の性質上、男性の社員は珍しく、色々な場面で体力が必要とされる営業以外の部署では、男女比の偏りはかなり激しかった。だらけ切った大学生活のせいで四年の夏頃にようやく就活を始めた私は、唯一の内定をもらえたこの会社に縋るほかなかった。
 コーヒーをすする。体温が上がったのを感じて、シャツの袖をまくった。
 これまで広報部に異動の希望なんて出したことのなかった私が突然そこへ配属されたのが、今年の春。
 しかしその意図はなんとなく理解しているつもりだった。
 液晶が落ちかけたのでマウスを動かし、息を吹き返させる。改めて、さっきと変わらない文言が存在を主張する。
 これは今日の会議で最終決定した、新商品のキャッチコピーだ。デザインもほぼそのままで、パッケージのナプキンの横に印字されることになったらしい。
 元を辿れば、〈生理は、男のものでもある。〉というものだった。最初に会議で目にしたときはあまりに生物学的決まりとかけ離れていて全身の力が抜け落ちそうになったが、これを提案した後輩の女子社員曰く、物事を男女などの性別で分ける時代はもう古く、それは生理についても同様であり、今は女性だけでなく男性も自分事として生理を捉えるべきである、というメッセージを込めたとのことだった。
 女子社員の言うメッセージは、そっくりそのまま私が広報部に配属された意図を表している、と思った。
 我が社に入社した男性社員というのは、そのほとんどが半自動的に営業部に配属される。そこでサラリーマン人生を終える者も少なくなかった。たとえば、若くして広報や企画開発などの、生理について実感を伴った理解がなくては仕事が難しいような部に配属される、などということは、余程のことがない限りそう起こるものではなかった。しかし最近になって、私を含め入社七年目未満の若手がそういった部へ異動になることが、少しずつ増え始めた。
 時代の流れは、始めは小さかったとしても徐々にその大きさを増し、いつかは一つの会社に余程のことを起こす、ということを思い知った。
〈生理は、男のものでもある。〉
 まさにそんなキャッチコピーのもと、実感の伴わない理解と営業部で培った体力という武器しか持たないまま、若手男性社員たちは言われるがまま投入されていった。
 会議で熱弁を振るった後輩と対照的に、上司の反応は冷静だった。
「言いたいことはすごく分かる。だけど言葉が直接的すぎるかな。だから、もう少し表現を変えてみない?」
 彼女は眼鏡を外しながら、後輩の熱意を受け止めつつ躱した。全面的な肯定も否定もしない、絶妙なバランスの取り方に私は感心を覚えた。
 確かに、後輩の主張自体には共感できる部分もある。
 もし男性が、生理にまつわる問題を当事者である女性だけに押し付けて、自身はそれらとの関わりを疎かにするようなことがあれば、それは生理で辛い思いをしている人に対して無遠慮な態度を取ってしまうことにつながり、その人を傷付けることになるかもしれない。
 誰かが傷付きかねない問題は、可能な限り予め避けたほうがいい。それは正論だ。
「清水くん、この案どう思う?」
 上司の声ではっと手元の資料から視線を上げる。
 そのとき、みんなの顔がこちらを向いていた。
 全員、女性。男は私一人。
 壁に投影されたプロジェクターには、〈生理は、もう女性だけのものじゃない。〉とあった。
 自分の気付かないうちに会議は進んでいて、さっき私が見たあのコピー案は、いつの間にかそれっぽく仕上がっていた。
 その間、私は一言も発していない。
「どうかな?」
 みんなの顔が見れない。
「うん、いいんじゃ、ないですかね」
 震えてしまわないように力を込めた喉から、そんな音が絞り出された。
「よし、じゃあこの方向で進めよう」周囲から息を吐く音が聞こえた。「デザインの発注とかも、もう進めてもらって大丈夫。それじゃあ、今日は解散、お疲れ様」
 上司が手を叩くと、パステルカラーのオフィスカジュアルに身を包んだ社員たちは立ち上がり、私の存在をすり抜けて会議室を出ていった。
 広報部に配属されて数か月、私はずっと「お客様」だった。時代の流れに沿って動かされたはずの私という駒は、まるで使い物になっていなかった。
「僕にもできる仕事をください」
 生理用品会社の、広報部に配属された、男。
 は、それを言うべきなのかどうか、未だに答えは出ていなかった。
「お客様」
 ついさっき頭のなかで再生した言葉が耳に届いて、私は錯覚かと驚く。気付くと、レジの店員の彼女が手にポットを持って立っていた。
「はい?」
「よろしければ、おかわりはいかがですか?」
 ブレンドコーヒーにはおかわりのサービスがあったことを思い出す。私は「あ、えっと」と返答までの時間を稼いで、壁に掛けてある時計を見た。針は二十時を過ぎている。
「いえ、結構です」
 そろそろ家に帰らなければ、流石に言い訳が苦しくなるだろう。
 私は店を出て、鞄に残っていたペットボトルの水を飲み干した。舌に染みつきかけていたコーヒーの風味が、溶けて消える。
 このところ、帰宅する時間がだんだんと遅くなっている。というより、帰り道の途中でカフェや漫画喫茶に立ち寄って、あえて遅くしている。
 今だって、足を出すたびにその地点にいちいち全体重を乗っけるような歩き方で、家路を急ぐサラリーマンたちの行進にぐんぐん取り残されていく。
 家に帰りたくない。
 そうすると形を持ってしまいそうで言葉にできずにいた思いが、ビルとビルの隙間のあちこちに入り込んでいった。


 機械から落ちるコーヒーの形状が、しゅるしゅると細くなって、最後一粒になった。部屋のなかが香ばしさに満たされる。
 各階に一つずつある給湯室は、昼休みの三十分前が狙い目だった。あと少し仕事を頑張ればランチに行ける、というモチベーションが最も高まり、お茶やコーヒーなど、余計な物を口に入れることをあえて食い止めようとする心理がみんなの心に働く時間。だからその間に給湯室を使う人はほとんどおらず、それが私にとっては好都合だった。
 紙コップを傾け、なるべくゆっくり口に入れる。
「お疲れ様です」
「あ、お疲れ様です」
 私と同じ理由で同じ行動を取る人が、もう一人だけいた。私はたった今入ってきた彼女に背を向けるように姿勢を直す。
 派遣社員の小川(おがわ)さんも、他の社員のいない時間をあえて選ぶ人間の一人だった。
 彼女は自分のデスクから持参したのであろう、ハンドタオルに包まれたマグカップを開き、ポットのお湯を注いだ。
 給湯室にあるシンクの上、備え付けられた粗い網目状の水切り棚を見る。そこにはカラフルなマグカップがいくつも逆さまになって並んでいる。
 小川さんは、あまり周りから好かれている人ではなかった。
 それは仕事が遅いからかもしれないし、愛想の良くない性格だからかもしれないし、単純に他の女性社員が日々気を配っている化粧や身なりに一切関心の無さそうな見た目をしているからかもしれなかった。「この人には何を言っても大丈夫」という共通認識が、彼女に話しかける社員の口の端から涎のように滴っていた。
 彼女自身もそれを察してか、小川さんは、他の社員のように自分のマグカップを給湯室で乾かすことをしなかった。みんなの思う「みんな」に自分がいないことを、先手を打って認めているようだった。
 紙コップに触れている指の先が、熱でひりひりする。
 その点では、私も同じ穴の狢、なのかもしれなかったが、なぜかそれを素直に認める気にはなれなかった。
「小川さん」
 私は彼女の背中に声をかけた。
「はい」
 そこから跳ね返る音は、マグカップから立ち上る湯気に絡めとられてしまいそうなほどか細い。
「僕のデスクの上に置いてある資料、コピー取って今日の十六時までに会議室に置いといてもらっていいですか」
 視線は、ずっと紙コップの水面に注がれていた。小川さんも多分、そうしていたと思う。
「はい」
 彼女は基本的に何でも言うことを聞いた。
 返事をしてすぐ、細くてしなやかな身体が給湯室を去った。
 視界を横切る瞬間、私は彼女のマグカップを握る左手を見た。それはそのとき偶然、ああ今日も家に帰らなくてはならないのか、と考えていたからかもしれない。
 捉えた左手の、薬指には、その素肌が露わになっているだけだった。
 良かった。
 小川さんは、結婚していない。
 派遣社員の、みんなから好かれていない、小川さん。
 は、結婚していない。
 それに比べれば、私は。
 私の左手の薬指で、銀色に光り輝く指輪がその締めつけを強くしたような気がした。
 左手の薬指に何も纏っていない人間を見つけ出そうとする行為は、自らのなかに「結婚」という、未だに社会的地位を底上げする効力を持ち続けるステータスがある事実を、薄氷を踏むように確かめることに等しかった。
 それがたとえ、家路につくのが億劫になるようなものだったとしても。
 紙コップを持ち換え、左手をポケットにしまう。指輪が見えなくなる。
 妻の浮気。それを疑い始めてから、私の脚は鉛を引きずるように重くなった。
 廊下が少し騒がしくなる。もう昼休みの時間に入ってしまったのかもしれない。私は紙コップを捨て、切羽詰まったような表情を作ってオフィスへ戻った。


 妻と出会ったのは、マッチングアプリだった。
 地元の友人や同期が次々と結婚していくのに次第に焦りを覚え始めたとき、以前から勧められていたその存在を思い出し、夜中に一人で飲んでいた酒の勢いを借りてインストールした。
 システムはなんとなく知っていた。自分の顔写真とプロフィールを登録し、気になった異性がいれば「いいね!」をしたりスワイプしたりして、相手にそれを伝える。そうして相手からリアクションがあれば、そこで初めてメッセージのやり取りをすることができるようになる。
 いざ始めてみると案外マッチングはすぐに成立した。年下の事務職の女性だった。「マッチングアプリは自分が商品の市場だから失敗するとメンタルにくる」という友人の言葉に震え上がっていた心持ちは、良い意味で裏切られた。
 しかし結局、その言い分は私にも当てはまることとなった。どうやらアプリを始めてすぐのユーザーはマッチングをしやすくなる構造になっていたらしい。その機械的に仕組まれた巡り合わせに浮かれて気ままにやり取りしていた私は、三言目には彼女からの返事をもらえなくなってしまった。
 そんなことがしばらく続いた。
 恋愛欲を抱えた者同士を効率的に引き合わせるために構築されたシステムは、自然な結果として同性間での過激な競争を生んだ。そこではそれまでの恋愛で培った経験値は経験値と呼べないほど、何の役にも立たなかった。まさに自分を商品として、恋愛や結婚に値する一人の男として、女性に認めてもらうためにさまざまな手法で自らを着飾らなくてはならなかった。
 そんな意識を全身の神経に張り巡らせながら必死の思いで初めて関係にこぎつけたのが、現在の妻である葵(あおい)だった。
 アプリ上で葵と幾度かやり取りを繰り返し、最初に二人で落ち合ったとき、私はイタリアンバルのワインと料理を口に運びながら、常に自分を外から監視していた。
 服装は派手すぎないか、席へのエスコートはスマートだったか、店員への態度は横柄ではなかったか。正直、飲み食いしたものの味など分かっていなかった。
 果たしてそれが私の本当の姿か、自分が心から愛する人と過ごすときにそうありたいと思える姿か、なんてことは、そのときは頭になかった。
 会計で私はさも当然のように四千五百円×二人分を支払い、「この後どうしますか?」と尋ねた。
 葵が腕時計をちらりと見て「うーん......」と頬を赤らめたとき、私は、RPGのゲームをクリアしたような気分になった。
 葵とはその日のうちにセックスをし、交際を始め、そして結婚した。
 身体を重ねてから婚姻を結ぶまでの間、頭のなかではずっとクリア後のファンファーレが流れていた。
「遅かったね、今日も残業?」
 帰宅した私を見て、トイレから出てきた葵が心配の色を滲ませながら言った。ボーダーの部屋着の内側で、膨らみを持った胸が揺れている。
「うん。どうしてもまだ新しい部に慣れなくて」
 私はネクタイをほどきながら、普段通りに喋ることを努める。本当はカフェで時間を潰していた。
「ご飯は? もう食べた?」
 スターバックスのサンドイッチが胃液を揺蕩う。
「ううん、まだ。お願いしてもいい? もしあれば、だけど」
 あるよー。葵がそう言ってキッチンの冷蔵庫へ向かう途中、テーブルに伏せていた携帯を一瞬見て、再び元に戻した。
 国道沿いのコンビニの駐車場。
 その光景を見て、脳内にフラッシュバックした場面。
〈いつか今日の続きもしよ!笑〉
 そのフラッシュバックに、引き摺り出された文字列。
 葵が開け放った冷蔵庫からは、山椒の香りがした。
 葵は、私と結婚するまでは保育士として働いていた。
 初めて聞いたときは、彼女の柔和な雰囲気によく似合っている職業だと思った。
 しかし結婚を機に同棲を始め、それまでとは少し離れた土地へ引っ越すことになり、彼女はその仕事を辞めた。慢性的な人手不足もあって同僚たちにはかなり引き留められたらしいが、正直付き合っていたときから仕事の愚痴を散々聞かされていたので、その方々には申し訳ないが、彼女にとっては良い決断だと思っていた。経済面については、私が今の会社に勤め続けていれば心配はいらないだろうと考えていた。
 数か月前。私が広報部に異動になった直後で、環境の変化に疲弊していた頃。葵のもとに招待状が届いた。
「何これ?」
 私はそれを覗き込む彼女に顔を近づけた。
「同窓会だって。専門学校の」
 見上げた彼女の白い歯が光る。
「保育士になるための?」
「そう。うわ、懐かしい。幹事の男の子、最初のグループワークで一緒だった。今何してるんだろう」
「すごいね、同窓会開くほど仲良いなんて」
「まあ、人数もそんなに多くなかったしね」葵は招待状を隅から隅まで眺めた。当時の思い出が現像されたフィルムを、丁寧に巻き戻しているようだった。「ねえこれ、行ってもいい?」
 そんな様子の彼女を見ては、断ることはできなかった。
「もちろん。行っておいで」
 同窓会。久しぶりの再会。参加者には男もいる。
 不安な要素が、ないわけではなかった。
 だけど、そう思えば思うほど余計に、四千五百円を支払ったときの私が顔を出して、行ってほしくない気持ちとは裏腹な行動をしてしまう。
「もしよかったら、車で迎えに行こうか?」
 キーケースの置かれた棚のほうに視線をやった。
「え、ほんと?」葵が嬉しそうに目を丸くする。「そうしてくれたらすごく助かるけど、でも大変じゃない? お酒も飲めなくなるし」
「一日くらい平気だよ。分かった、じゃあそっちまで迎えに行くね」
 肩を弾ませる彼女に、私は理解のある夫として微笑みかけた。
 当日。予定より遅い時間に連絡を受けた私は、車を走らせ、聞いていた会場とは少し離れた場所のコンビニへ向かった。
〈急遽二次会行くことになって!〉
 コンビニの住所と一緒に送られてきたそのメッセージには、キャラクターが土下座をする絵文字がくっつけられていた。
 駐車場の端に車を停め、三十分ほど待っていると、葵が走りながら現れた。胸元の開いた赤いワンピースがガラス窓から溢れる明かりに照らされる。
「ごめん、お待たせ」
 相当な距離を走ったのか息を切らしている。全然、今来たとこ、と私は言う。
 エンジンをかけたところで「あ、ごめん」と彼女が呼ぶ。
「ほんと申し訳ないんだけど、トイレ行ってきてもいい?」
 私はハンドルを握りかけていた手をそっと離しながら、もちろん、と大きく頷いた。
 葵は度々謝りながら、助手席に荷物を置き、コンビニへ駆け込んだ。
 静かに鳴る車の唸りを、背後の国道を駆けるトラックの轟音が塗り替える。真赤なテールランプがバックミラーに軌道を描く。
 助手席が震える。
 目をやると仰向けになった携帯が、煌々と輝いて通知が届いたことを知らせていた。
 悪い予感はした。
 それをじっと見つめる。
 私とのツーショット写真の待受の上に、二人の両眼を隠すように表示された言葉。
〈いつか今日の続きもしよ!笑〉
 心臓がどくんと跳ねた。
 送り主のところには、招待状の幹事の欄に記載されていた男の名前があった。
 今日の続き。
 それは単純にお酒を飲み交わす集まりの続きということかもしれないし、そうではないことかもしれなかった。
 動揺しているうちに、店内を入口に向かって歩く葵が見えて、私はすぐさまポケットから自分の携帯を取り出した。
「こんな高い服滅多に着ないからさ、汚れちゃわないかちょっと怖かったよね」
 ドアを開けながら、彼女は笑った。私は咄嗟に開いたSNSで大量の文字を上から下へ流しつつ、さもずっと目の前のそれに集中していたかのように振る舞った。
 葵が座席の携帯を一瞬確認して、私のほうを見たのが分かった。
「なんか、ラインとか、来てた?」
「ああ、通知はあったよ」
「内容とか、見た?」
「ううん、何も」
 二人を乗せた車が深夜の国道を走る。
 本当はそんな会話、していなかったのかもしれない。
 明日の朝食のこととか、しばらく会っていない親戚のこととか、そんな他愛もないことを言い合っただけかもしれない。
 憶えていない。脳と体の各器官をつなぐ神経が全部切り離されて、何を聞くにも何を見るにも全て自分をすり抜けていくような感覚だった。
 男として。
 それから続く言葉が何なのかは判然としなかったが、男として、の何かが失われたような気がした。
 その翌日から、家に帰ろうとすると身体がそれを拒絶するようになった。
「はい、麻婆豆腐」
 私があくまで激務を演出するために仕事の資料を読んでいたら、葵が満を持すかのように大皿を置いた。これに白飯のよそわれた茶碗とビールがあるだけで、ダイニングテーブルの上はほとんどいっぱいになってしまう。
「うわ、美味しそう」
 口の端を吊り上げる。
「混ぜて炒めるだけのやつだから、全然簡単だけどね」
 テレビの前で洗濯物を畳みながら、葵は言った。スプーンで豆腐を割る。
 私は葵に直接浮気について問いただすことができないでいた。そして今後も絶対にできないという確信が自分のなかにあった。
「あ、妹さん、またテレビ出てるよ」
 振り返ると、最近よく見かけるようになった若い男性芸人の間に立って、目がちかちかするような奇抜な格好をした妹が紹介されているのが見えた。
「すごいよね。シズクちゃん、だっけ?」
 私は頷きながら、画面の下のほうに飛び出た、彼女の肩書に目をやる。インフルエンサー。
 妹の静久は、大学生になったあたりからSNSで動画の投稿を始めた。始めは彼女の決して社交的とは言えない性格のこともあって上手くいくはずがないと思っていたが、動画の内容を自身の過去について語るものに方向転換した途端、突然注目されるようになった。
 確かに彼女はこれまでに、学校でのいじめやそれによる不登校など、傍から見ていても辛そうな経験をしていたが、それについて触れるようになっただけで、どうしてそうも変化があったのかは分からなかった。
 その勢いにさらに輪をかけるように、最近大学の友達と作った自分のドキュメンタリー映画がバズり、それをきっかけにこうしてテレビ番組などに出演するようにもなった。
「うわ、あのアトラクション並ばずに乗ってる。これ今めっちゃ並ぶんだよ。それでギャラまでもらえるんだもんな、いいなあ」
 芸能人の特権的な扱いを羨む葵の姿と、自らの過去を売りにしてテレビに出ている妹の姿が、視界のなかで重なっていく。
 いいなあ。
 葵の声色を真似して、気付かれないように囁いてみる。
 いいなあ、女は。
〈生理は、もう女性だけのものじゃない。〉
 いち商品のキャッチコピーを飛び越えて、我が社のモットーのようになってしまった先進的な文言が、資料を持つ左手のなかでぐしゃりと形を歪ませた。
 男として生まれ、男として育ち、女だらけの環境で、わざわざ出会った女と結婚した、男。
 は、男としての様相を崩してまで、妻に浮気の疑いをかけられるはずがない、と思った。
「あ、ねえ」
 麻婆豆腐を無理やり口に詰め込んでいたところに話しかけられ、再び振り向く。
「今日、どう?」
 肺から喉までを通る過程で緊張感をたっぷりとまぶされた葵の声が、大気中に放り出されて、二人の間で浮遊する。それを受け取るかどうかは私次第で、私は、彼女の表情がイタリアンバルを出たところで見たものとは違うように思えて、微笑んで断った。
 そっか。吐息交じりの呟きと、スプーンと皿のぶつかるかちゃかちゃという音が、やけに部屋で反響した。


 上司に呼び出されたときは、とうとうサラリーマン人生の余命宣告をされるかと思ったが、そうではなかった。むしろその逆と言ってもよかった。
 手渡されたA4のコピー用紙には、〈男性のための生理セミナー〉という文字が一際大きく書かれていた。
「これの講師役を社内から募集するらしいんだけど、どうかな?」
 男性社員が対象だから倍率も低いだろうし、と上司は保険を掛けた。
 話を聞きながらその場でざっと目を通す。内容は、予想通りのいかにも、という雰囲気だった。
 だが、その内容に面食らう思いよりも、ようやく男らしい仕事ができることへの嬉しさが、僅差で上回った。私は自分のデスクに持ち帰ることも待たずに承諾した。
「そう、よかった」上司の顔には安堵が表れているように感じた。「じゃあ、期限までにプレゼンの準備、よろしくね」
 期限、プレゼン、準備。
 明確にその人だけが行える仕事がある人間に向かって使われる言葉が、自分に対して投げかけられていることに、私はふつふつと心を満たした。
 何かに追われる感覚は久しぶりで、それは時間の経過を忘れさせ、気付くと終業時刻を過ぎているということが度々起こった。〈今日も帰るの遅くなる。ごめん〉という葵への連絡も、それまでは自然なタイミングを見計らっていちいち躊躇しながら送信していたのが、本当にそう思った時刻に送るようになった。その日の退社時刻が遅れることは案外、終業前には判明するものだと知った。
 プレゼンの中身をそれなりに詰め、あとは全体を見直すだけ、というところで、もう期限まで間もないということを悟り、残業の時間はさらに増した。
 自分だけが取り残された職場では、遮蔽物を失った大気が空のデスクに横たわっていた。視界の端に映る空の色だけが、自分の与らないところで変化した。
 こと、という音が傍らから鳴る。
「うわ」
 私は驚いてのけぞった。
「あ、すいません」
「びっくりした。小川さんか」
 差し出された紙コップから上がる湯気と香りで、反射的に口にコーヒーの味が再現された。
「驚かせて、すいません」
 彼女の声はやはりか細い。
「いえ、あ、コーヒー、ありがとうございます」お辞儀をして口をつける。「でも、珍しいですね。残業なんて」
 派遣社員は残業をする場合、上司や派遣会社との手続きが必要になるため、面倒がられて繁忙期以外は定時に退社させられることがほとんどだった。窓の外が暗くなっても小川さんが会社に残っていることは稀だった。
「いや、携帯を忘れて」
 見れば、手には黄緑色のスマホケースがあり、そういうことかと相槌を打った。よく考えると、小川さんと給湯室以外の場所で話すのは初めてだった。突然現れた彼女を前に、何を話せばいいか分からないままでいたら、あっちのほうから口を開いた。
「今度のセミナーの、プレゼンですか?」
 彼女はほんの数センチ、身体を前に屈めた。小川さんという人に対して、こちら側が受動的になったことが初めてだったので、少し返答に遅れが生じた。
「あ、そうですね。もうすぐ上司に提出しないとなので」
「こんな遅くまで、すごいですね」
 彼女にそう言われた途端、私のなかのどこかが滾ったのを感じた。
 すごいですね。
 下から突き上げられるのではなく、上から覆い被さるように、承認欲求を満たす感覚。
 新鮮かつ、親しみがある。彼女の言葉でそんなふうになるなんて、自分でも意外で少し狼狽えた。
 そう思いつつ、私はその感情を指と指の間から逃がしてしまわないよう、慎重に口を開いた。
「小川さん、帰らなくて大丈夫なんですか?」
 尋ねられた彼女は、帰るどころか隣のデスクのチェアに腰を下ろし「しばらくバスが来ないので」と言った。
「そうなんですか。小川さん、バス通勤だったんですね」
 私は会話しながら、心臓が皮膚の内側を静かに叩くのを味わっていた。
 小川さんという、自分よりもさらに周囲から疎まれている女性に、下から見上げられる。それは、男である私を密かに興奮させた。
 会社の立地は、駅とは少し離れているが、ビル街のなかにあるのは間違いない。その最寄りのバス停に、たとえ退勤のピークを過ぎたとは言え、数十分もバスが来ないということは考えられないだろう。
 私は何かを期待する気持ちを確かに捉えつつ、それが目の前を通り過ぎてくれるのを待った。
 葵のことを、精いっぱい思い出していた。
「私の家から最寄りのバス停、誰も使わないんです」
 突然小川さんが語り始めた。呆気に取られた私は、耳を傾けざるを得なかった。
「だから帰りにそのバス停で降りるとき、どんな日だって、一人でバスのあの長いのを歩くんですよね」
 デスクトップが息を潜めた。マウスは動かさなかった。
「毎日同じ便に乗ってると、一緒に乗ってる人の顔や服装をおぼえたりしてしまうことってあるじゃないですか」
 乗客とか、運転手とか。彼女は言った。
「私、それが苦手で。だけど私、私以外に誰も使わないバス停に一人で降りるから、もしかしたら他の人よりもおぼえられやすいのかもしれないって、あるときに気付いて。そしたらそこを使うのが嫌になってしまって」
 ゆっくりと、私のなかの逸る気持ちが通過していく。
「それでもう一つ先の、最寄りじゃないけど色んな人が使うバス停で降りるようにしたんです。だから、これまでのところではもう、降りれないんですよね」
 彼女は、長く息を吐いた。
 降りれない。
 その五音が、やけに私の傍に立ったような気がした。
「バス、時間大丈夫ですか」
 私は意識のベクトルを仕事にシフトチェンジさせながら、小川さんのほうを見ずに言った。
「あ、本当だ」
 彼女の声からは少し温度が失われていたように感じた。
「私なんかの話、聞いてもらってありがとうございます」
「いえ」
 マウスを動かすと、再びプレゼン資料が画面に現れた。
 小川さんは「お先に失礼します」と言って、そのままオフィスを出た。
 私はまた一人になる。自分が発さない限り、どんな音も聞こえない世界がやって来る。
 降りれない。
 傍にいるそれを撫でる。
 ちょうど私も、そう思っていたところだった。


 葵に「話がある」と言われた。私のほうも「セミナーの講師俺に決まったよ」という話をしようとしていた。知らない香水の匂いを鼻の先で微かに捉えた。
「赤ちゃんね、できたの」
 私と葵は、半年ほどしていなかった。
 だから葵の目が潤む理由もある程度察せた。
 だけどそれにはお互いに見て見ぬふりをして、こんなふうに言葉を投げ合った。
「そうなんだ」
「うん。二か月」
「じゃあ、全然小さいね」
「そうだね」
「男の子かな、女の子かな」
「どうだろう」
「はは、まだね、分かんないよね」
「分かんないね」
「俺、名前考えとこうかな。あるんだよね、候補」
「それは、いいんじゃないかな」
「確かにね、気が早いよね。そういうとこある、俺」
「そういうことじゃない」
「ん? 何が?」
「ううん、なんでもない」
「ああ」
「え?」
(疲れた)
「ううん、なんでもない」
 それでも私は、葵に決定的なことを言うことができなかった。


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