鏡の国の

島ポドロ



内・一
 順風満帆な人生を送ってほしいと、母は生まれたばかりの私を抱いて思ったらしい。だから順平という名前になったらしい。平らかに凪いだ海を、帆に風を孕ませて滑るように進む船。
 皮肉なことに、私たちの乗った船は沈んだ。目的地、モロッコの土は踏まず仕舞いになった。ハリケーンの最中、制御不能になった船の内部では意見が二分した。荒波のなか救助艇を出すと主張するアラブ系の船員と、ゆっくり浸水しつつある船舶内で救助信号を送り続けようとする青い目の船長に。
 私は残ろうとした。というよりも、ゴムボートに乗って海に出たくなかった。死ぬとしても、船舶の中で、足の下に地面がある中で死にたいと思った。死ぬだろうということは刻一刻と、前提に成り下がりつつあった。ただ、船舶内の大半を占める子供たちはそうは考えなかったらしい。
 彼らには、私にはもうない未来がある。あると信じて疑わない。彼らはそれを大人から当然のように受け取る資格があるし、いざとなれば、暴動を起こして大人の手から奪い取っても構わないと考えている。それが権利だと考えている。
 子供たちは甲板に殺到した。それが直接の原因だったとは考えていないが、最後の一押しになったかもしれないとは思う。船底に溜まった水は波打って、左舷側のデッキに流れ、船はバランスを欠いた。雷の閃光が、電気の落ちた船内を一瞬煌々と照らし出したことは覚えている。それから衝撃があって、私は息を吸い込み、吸い込んだそれが空気ではなく海水だったことも覚えている。パニックになって肺の中の息を全て吐き、それが全部あぶくに変わった。
 息苦しさが頂点まで高まると、意識が端から暗闇に呑まれて消えていった。抵抗する気はあまりなかった。とにかくこれで苦しみは終わる。
 最後に考えたことは、風船を握っている手をぱっと開いて蛸紐を放すイメージだった。そんな風にして、私は意識を手放そうとした。どこかで喚いているだろう彼らの声は聞こえなかったし、聞こうともしなかった。それだけは確かだ。
 生き残ろうとはしなかった。それは私に許された権利ではなかった。

 空は絶望的なまでに青く、果てしなく広い。その縁は、同じく果てしなく四方に広がる海洋の果てと接した線だけ白く霞んでいる。インド洋のどこかだろうという推測しかできない。私の地理の知識は、最初の一日目で底を見透かされて終わった。中等社会の教育免許は実践では使えない。
 ここはどこなのか、訊かれても私には答えられなかった。それでも食い下がらないから、インド洋のどこかだろうと予想を口にすれば、それが今何の役に立つんだよと罵声を浴びせられた。私はただ身を縮めて黙っていた。嵐が行き過ぎるのを待っていた。
 ここでの嵐は向こうのそれとは訳が違う。目を焼くような青空の果てに白い雲が一つ沸いたと思えば、見る間に横に広がりながらこちらへ押し寄せてくる。夕暮れのように暗くなり、ぽつりと雫が頬に落ち、あとはばらばらと小石でも撒くような音に変わる。ぶつかったところが真っ赤に腫れあがる。滝のような雨で一帯が白く煙り、息も吸えない。
 島には狭い洞窟があった。洞と呼んだ方がいいくらいのもので丘の元がえぐれて石が庇のように迫り出しているだけだった。雨が降りだすと子供たちは喚きながら庇の下に押し合って駆け込み、途端壁のように出口を塞いで流れ出す雨垂れを恨めしそうに見上げた。
 雨は一日降り続くこともあった。狭いところに押し込められた十四歳の熱気と汗と酸っぱい体臭は、彼らを鬱々とさせ、しまいには狂わせた。
 深夜、暗い洞窟の数か所で暴力が爆発した。人間ではなく、石でも投げ付けられたような獣のギャンという悲鳴が上がり、重いものがぶつかる音があちこちで続いた。力を持たないものは隅で身を縮めているしかなかった。教室と全く変わらない。爆竹だらけの箱に、三十九個の発火石を押し込めているようなものだった。小さな振動で軽く触れ合った石と石はカチリと火花を散らし、箱は木っ端微塵に弾けて燃え上がる。
 しばらく経って、ごん、と重い音を最後に今度は恐ろしく静かになった。誰か一人の荒い息の音だけが静寂を際立たせていた。麻袋を引き摺るような音が、洞窟の奥から移動して私の前を通って外へ出て行った。藪を踏み分ける音が遠くなってしばらく経って、どこか遠くで絶叫に似た鳥の鳴き声がした。夜明けが近かった。
 三十九の石を収めた箱は、校舎の二階に三つあった。つまり学年に百十七いた子供たちは島に流れ着いた時点で十三になっていた。うちの一人は浜辺に仰向けに倒れていて、小さく開いた口の小さな歯列の奥の暗がりから小石に似た蟹が横歩きで這い出て来た。私は埋葬を指揮した。その時点では、まだ私の尊厳は多少なりと残っていたらしかった。
 壮絶なまでに美しい朝焼けが島の頂上から斜面を下って洞窟の中まで差し込んだ。黙って身じろぎをする影は目ばかりぎらぎら底光りしていた。子供ではなく、大人でもない何かに一晩で変容したようだった。一人足りないが、なぜか誰がいないのか思い出せなかったし、だれもそのことに触れなかった。
 発火石の数は、十一で安定した。

外・一
 火花のようにアラームが弾けて羽住は目を覚まし、自分がまだ生きていることに絶望した。身体が一気にマットレスに沈み込むような怠さを感じる。天井をただ仰向いて見上げている。頭を枕から持ち上げようとしただけで、頭蓋を締め付けるような痛みで視界が真っ白く焼け付いた。呻く。昨夜余分に飲んだ睡眠薬のせいだろうと分かっていた。
 羽住はほとんどあらゆる恐怖症を持っていた。閉所、高所、先端、高温、水中が駄目だった。であれば残るのは薬しかないが、先にインターネットで効能を調べる癖のせいで、遥か昔広島で生ガキを食べ当たった時の苦しみを思い出して壜を片手に尻込みする破目になった。結局寝られる量から数錠足してかみ砕き、毎夜内蔵がぼろぼろに傷ついていくだけだった。
 怖いのは、自分でも何が恐ろしいのか言葉にできないことだった。漠然とした、ただもうこれ以上は我慢できないような恐怖が煮詰まり、じりじりと全身を焦がし、毛穴が開き、そこから体内に収まりきらなくなった純度の高い恐怖の液体がとろりと溢れ出してくるような気分だった。
 恐怖の正体を見極めれば、気が狂って「私」は消滅するだろうと羽住は考えていた。だから必死で目を逸らそうとしていて、それでも意識は自分の頭を掴み無理やりにそっちを向かせようと首を捻ってくるから、それが怖いのだろうと羽住は分析した。少しはましになって、汗で薄い寝間着が背中に貼り付いているのも感じられるようになった。上体を起こすと洗いざらして薄くなったシャツの布地が剥がれ冷えた空気が背骨を這い上がる。
 毎朝、一時間は余裕をもって目覚ましをセットしていた。それでも毎朝布団を剥ぐまでに二十分は無駄にした。
 
内・二
 あの夜、新たな秩序が築かれた。夜中真っ暗な洞窟の中で響いた物音は、何かがぶつかったり倒れたり低く呻いたりする音は、世界を解体して組み立て直している音だった。それまでの世界はもう遥か海の彼方に遠くなった。
 ここは力の王国だった。それまで頂点にいた少年は、玉座から転がり落ちた。瀬尾史也に代わって木山康太が戴冠した。
 木山はいつも瀬尾の右後ろ隣にいるような生徒だった。体格が良く、笑い声も大きく、度胸があった。気に入らない人間がいれば反射で胸倉を掴んだし、そうすれば高校生くらいに見えた。体育大会ではタイヤ奪いで大立ち回りを演じ、毎年二、三人をタイヤごと引き摺って保健テント送りにするような生徒だった。対するところの瀬尾は、リレーでアンカーを走るような生徒だった。一列に並び、次々に前の走者からバトンを受け取って色とりどりの鉢巻を巻いたアンカーたちが飛び出していく中で、一人最後まで残ってぴんと意識を張り詰めてトラックの向こう、半周遅れの走者を待ち続けているような生徒だった。それだけで歓声が上がった。同じ組の女子生徒の声には涙が混じってさえいた。人当たりが良く、笑顔の中には何かまだ穢れていないものが残っていて、それは中学生の群の中では珍しいことだったから教師にも効力を発揮した。悪事はその裏に隠れて行うということを、瀬尾自身よく承知していてボロは出さなかった。
 つまり木山と瀬尾は互いに相手が持たないものを持っていた。頭脳と武力。微笑と拳。島では、瀬尾がこれまで行使してきた力はほとんど価値を持たなかった。試験は存在せず、成績表も配られず、女子は一人もいなくて、大人はその権力を持たない一人しかいない。転落は決まり切っていたことだった。
 働かなければ食えない。ここでは文字通りの意味だった。
 島には衣食住が存在しなかった。寝間着代わりに着ていた生徒たちの体操ジャージはすぐに塩と泥で薄汚れた板のようになった。木山はさっさと上裸になった。詰襟を着れば飼い慣らされた熊のようにどこか滑稽に見えていたが、今は漁師の息子じみた風格があった。楽しそうだとは言えないが、生気には溢れて見えた。浅黒く日に焼けた太い腕で指示を出し、自分は何か果物を齧っていた。半透明の膜に包まれた種子が口の端から溢れ、粘つく汁が手首を伝って肘から光の粒になって垂れた。
 食は目下の問題だった。島に生えているのは鮮やか過ぎて毒々しいような無数の種類の斑点と疣だった。私は食べられるものとそうではないものの分類を始めた。手段は残念ながら、少量千切って口に入れるほかない。舌の上に痺れを感じた瞬間吐き出して、水で口を漱いだ。小川があるお陰で真水にはそう困らない。木山がよく齧る果物も私が発見した。木に実っているものを採らないと、熟れて凸凹と地面に転がっているものは、割ると李の種子よろしく巨大な芋虫が中央を食いつくして丸くなっていたりする。
 これ、食べられるんだが、と私は巨大な葉に包んだ果実や根茎を差し出した。木山の洞窟の中は外よりいくらか涼しく、ぼろぼろのゴザのようなものが敷かれていた。生徒達の水筒やタオルが端の方に集められ置かれていた。遺品のような静謐さがあった。島での暮らしに慣れようともがく度、文明の名残は擦り切れていく。猟に出る生徒たちは、失くしたくないものをここに置いて出かける。
 中央で胡坐をかく木山ではなく、脇に立った曽根という生徒が包みを奪い取る。小さな木の実が零れて転がった。
 私は洞窟から離れた崖の上にある、あばら家を住処にしていた。家といっても天井は腐り落ち、柱も倒壊し、雨風どころか虫や上から注ぐ陽光さえ防げなかったが、雨が降り始めた時は崖下まで行けば、私一人なら濡れることはなかった。私が生徒達から遠ざかっていたのか、それとも生徒達が私を追放していたのか、それは分からない。
行きは私一人だったが、洞窟からの帰りは二人の生徒が数メートル後ろからついて来ていた。内向的で無口な二人だった。うち一人は海で眼鏡を無くしたのかしょっちゅう木の根に足を採られていて、もう一方に罵られていた。私は立ち止まって振り返る。
 彼らは数日の間に目に見えて痩せていた。猟に出るだけの運動神経がないから、充分食べていないのだろう。私も似たようなものだった。彼らは黙ったまま何も言わず、私をじっと見つめた。
その日から、私は彼らに指示を出すようになった。彼らはしばしば摘んだものの大半を自分たちで食いつくし、午後になって慌てて辺りの草を手あたり次第にむしって持って来たりした。中に毒を持つ蔦が混じっていて、彼ら自身腕が無数の発疹で赤く爛れていた。
 きつく叱りつけた。彼らは教室で私に向けたのと同じような恨みがましい上目遣いで私を見上げた。遠い記憶の奔流に呑まれて私がたじろぐと、彼らの眼は三日月型に歪んだ。
 彼らは、決して私に信頼を寄せて付いてきたわけではなかった。そんなものは微塵もなかっただろう。その目は、私を嗤っていた。自分たちに対しては大きい態度で、まだ教師ででもあるかのように振舞えるが、木山には貢物をして僅かばかりの魚を分けてもらうしかない、私のことを嗤っていた。半ば怒りで私は震えた。残りの半ばはその目が教室を覆いつくして細波になって私を見ていた遠い日々の、戦慄の名残だった。

外・二
 悪寒と頭痛を奥歯を噛んで耐えながら、羽住は筒状の容器から錠剤を二粒、手のひらに振り出した。赤と白が一つとオレンジが一つだった。奇妙に艶々して飴か何かみたいに見えた。それを仰向いて飲み下し、蛇口を捻って水を手に溜めて啜った。学校の水道はどこも鉄錆の味がする。
 顔を上げると、罅が入った洗面鏡に中年の男が映って羽住を見ている。
 行きたくない、と男の口は動いた。声もなかったから、生きたくないとの抑揚の違いは分からない。教室に入ればまた内蔵がねじ切れるような痛みに襲われることは分かっていた。昔から胃腸がストレスに弱かった。それでも、自分に行かないという選択はできない。しんどくなったら逃げなさい、とネットで知り合った自称精神科医には言われた。
 逃げられるだけの度胸があるなら、ここまで苦しんでいないだろうと羽住は思った。思いながらキーボードを叩いた。ありがとうございます。もう少し、頑張ってみようと思います。
 行け、と羽住は口を動かす。鏡の中の男は絶望した顔で羽住を見つめ返した。
 二年三組の扉に手を掛けてから二度深く呼吸をし、それから戸を引いた。絶叫と爆笑が耳を聾して襲い来る。羽住は顔を俯けて教壇に上った。出席簿を開いたり、チョークを意味もなく全色集めて来たりしても、教室が静まる気配はない。その程度で察して口を閉じるような殊勝さは、この生物の群には存在しなかった。授業を始めます、という声はあっけなく掻き消された。正確に言うのなら、本当にこちらに気づいていないわけではないと分かっていた。気付いた上で、羽住の声をかき消すようなタイミングで爆笑を弾けさせる。生徒達は相手の力量を見抜くことに長けていた。長けていると思っていた。
 授業を始めます、ともう一度言って、やはり声は通らない。羽住の顔は窒息しそうに赤くなった。日直誰ですか、と叫ぶと悲痛に声が裏返り、瞬間教室はしんと静まり返る。いきなり叫んだ教師を前に、子供たちは驚いて目を丸くして羽住を見つめていた。そのくせ、目の奥で彼らが笑っているのを羽住は知っていた。
 羊の群には牧羊犬がいて、左右外れた方を見て草ばかり食んでいる頭が足りない羊を誘導する。
「僕です、すみません、忘れていて」
 いきなりヒステリーを起こした教師に対し、恐る恐る、しかし勇気をもって声を掛けた風に一番後ろの席の少年が立ち上がる。「起立」生徒達はがたがたと椅子を鳴らして立ち上がる。
「礼」
 羽住だけを取り残して、「着席」生徒達は皆がたがたと椅子を鳴らして着席した。号令をかけた生徒は羽住の挙動を心配するようにこちらを見上げている。こいつのせいで、と羽住は思った。クラスの背後で、その雰囲気も流れも彼の一声で進路を変える。羽住の顔からは今度は血の気が引いて蒼白になる。瀬尾は、憐れむように眉を曇らせて微笑んだ。悪魔がいるとすれば、瀬尾史也の顔をしているだろうと羽住は思った。

内・三
 一人の生徒が悪霊に憑かれ、酷く腹を下した。
 夜中、曽根が離れたところの崖のあばら家に一人でいる私を呼びに来て、そう告げた。室生というその生徒は洞窟から少し離れたところの岩棚に寝かされて、芋虫のように身をよじって荒い息を吐いていた。なんとかしろよ、と木山は言った。子供の我が儘だった。何でもかんでも壊れれば、修理で直るか替えが利くと信じている。伝染するんじゃないの、と静かな声が言った。顔を上げるとひょろりとした幽霊みたいな瀬尾の影が、輪から外れたところに立って白い顔でこちらを見ていた。木山も 曽根も、何でもない風を装って私と室生から二、三歩下がった。室生は喉に詰まったような音を立てると吐いた。岩に広がる薄い吐瀉物には草の繊維がそのまま残っていた。私は脱水を恐れ水を飲ませた。大丈夫なんか、と木山が言った。そいつ死なすなよ。死なないよ、と私は答えた。声が震えないように力を込めたことを、悟られたくはなかった。
 この生徒が死ねば、自分が殺したことになるのだろう。
ここではその罪がどう裁かれるのか、分からなかった。新しい秩序が生まれて初めての殺人者になるわけだった。ここでの死は、島の鳥や虫や他の生命の死と同じく極彩色で、壮絶で、一拍あとの腐敗を伴って訪れるのだろうと思った。それきり、考えるのを止めた。
 室生は恐らく、空腹に耐えかねて毒を持つ何かを口にしたのだろう。もしくはあの二人の生徒が勝手に摘んだ野草を室生に売ったのだろう。全身から生気を吐き出し切って衰弱した日の出から、寝息が安らかになった。容体は安定した。その日から、私は再び先生と呼ばれるようになった。教師に対する、医者に対する、大人に対する呼称だった。私は離れた崖で一人で過ごす権利を改めて認められ、島のヒエラルキーの半ば外側に位置付けられた。
 三角錐の底にいるのは瀬尾だった。あの夜以降、彼は生徒達の輪から本格的に弾き出されるようになった。いつも一人で外れに立っていた。何か言いたそうにも見えたが、瀬尾自身、底でいくら声を上げようが上にいる奴らには届かないことを知っていた。
 室生は神格化された。しばらく後遺症かショックのせいか口が利けなくなり、しかしそれは私の不手際でも室生の傷でもなく、何か神聖なものだと生徒達に受け取られた。室生が丸一日呻いてもがいて汚した岩棚は、聖域となった。
 室生が死の淵に近づいたその翌日、魚の群が岸辺に押し寄せた。波と一緒に砂浜に打ちあがり、そのまま痙攣して動かなくなるまで砂の上で跳ねていた。室生は生贄になったのだ、と生徒達は考えた。そうでなければ、目の前の光景の説明が付かなかった。その日は久しぶりに全員が満腹まで食べ物を口にした。一日では食べきれず、干し魚にしようとしたが虫がたかって結局腐ってしまった。
 瀬尾が触ったからだと木山や曽根は言った。瀬尾が無断で魚を口にしようとしたせいで、穢れが移り腐敗して目玉の代わりに眼窩に蛆が白く細い体を潜らせようと刺さってくねる破目になった。
 誰も瀬尾とは口を利かなくなった。見えないかのように、少年たちの視線は瀬尾の身体を透過するようになった。瀬尾は透明人間であると同時に忌避され遠ざけられるものだった。相反する波は木山と曽根によって創られた。木山は亡霊のように佇む瀬尾の影を見るたび罵り、石を投げたが曽根は完全に無視した。どちらが人間を深く損ねるものか、それぞれ信条があったのだろう。結局、無視が多数派になった。目を瞑っている方が幾らか樂だったし、憂さなら木山が勝手に晴らしてくれた。
 瀬尾のスニーカーの底は細かい波模様で、その足跡の上は踏んではならなかった。海水を汲んできて、さようならと唱えながら水を掛け、辺り一帯が泥濘になって足跡が溶けて消えるとやっとその地は浄化される。瀬尾の声は鳥の声と呼ばれた。聞こえても、その素振りを見せてはならなかった。穢れは目、耳、口から伝染するとされ、息を止めることも推奨された。苦しくなった者は、誰が始めた風習だか分からないが、手の甲を干し肉のように噛む。唾液に血が混じって垂れ始めるころには、亡霊はどこかに消えていた。
 島には宗教が生まれつつあった。

外・三
 羽住の日々は儀式に似て、決まった型通り単調に変わりなく行き過ぎ、職員会議もまた毎朝同じ表情同じ抑揚で羽住の上を通り過ぎて行った。それは粘土の顔色をした教頭の表情であり抑揚だった。その薄い目が手の中のコピー用紙から上げられる。
「そういえば、もうすぐ何の季節か知ってますか」
 羽住はずっとレジュメの文字列を目で追っている格好をしながら、その句読点だけを結んで星座を作ろうとしていた。文字でもいい。数式でもいい。とにかく教頭の湿った声色を頭の中から追い出せるなら何だろうが構わなかった。教頭はしばらく職員室のデスクの上を眺め渡した後、舌で時計の秒針の音を立て始めた。急かされるように、羽住の眼の動きも速くなった。最早ただ文字列を左右に追うだけだった。
 教員の誰もがレジュメに目を落としたまま、静かな無関心を保っている。古参の数学教師などは奥の自席で悪びれもせずデスクトップに見入っている。必要な伝達だけすればいいのに毎回何かクイズを出してくる教頭の心理が、それでいて自分も何一つ楽しそうではないその目の奥が、羽住は怖かった。「あと十秒」長すぎる、と思う。汗が首筋を伝っている。どうせ誰も何も答えはしないと、統計的に見ても明らかなのに、教頭は毎日なぜこの無駄な時間を律義に取り続けるのだろう、と思う。宗教的な儀式と同じだった。長い年月の間に中身を風雨に浚われて、もはや外骨格しか残っていない虚ろな何かだった。動悸がする。句読点の縁が薄青くぼやける。印刷ミスだとすれば膨らむことはないはずだった。
 口の中に苦い味が広がる。吐き気の味だと知っている。自分が考え過ぎだということも、思いつめすぎるのは悪い癖だということも、自称精神科医に言われるまでもなく分かっていた。
「残念、時間切れです」教頭の声色は全く揺れ動かない。長年続けていれば感覚も摩耗するのだろうかと思う。羽住は週に五日掛ける四週掛ける九か月程度が数十年連なって続き、どこで切っても断面には教頭が舌を打って秒を刻む音が響いているところを想像し、吐き気を催した。
 目を見開いてレジュメを凝視し、額に汗の粒を浮かばせる羽住を、パソコンを挟んだ向かいの古典教師が顔をしかめて横目で見ている。彼女は、いつもの事ながら、羽住先生がまだ一つも不祥事を表沙汰にせず勤続年数を増やし続けていることを、どうかしていると思っていた。何かしら後ろ暗いことをしてはいる。それは挙動を見れば明らかだった。何をなのかは知らないし知りたくもない。
「来週の月曜はバレンタインですね」
 知らないわけがなかった。羽住は声にならない溜息を吐き、それは末期の息に似ていた。知らないどころか、先月の終わりからずっと遠くに暗雲のように垂れ込めていて、羽住を被食者と見るや凄まじい勢いで覆いかぶさって来た。教頭のクイズの下らなさは幸いにも、バレンタインという大嵐の影に隠れた。
「今年は休み明けで不要な菓子を持ち込もうとする生徒の増加が見込まれるので、各クラスで今日明日と、注意喚起を徹底して頂きたい。お願いします。校内への菓子の持ち込みは禁止、それの交換や譲渡は持っての他、発見し次第没収です」
 古典教師はレジュメではなくそれを持つ手の爪を見ていた。教師の中には、露骨に自分の授業の準備を始めた者も多い。羽住にも分かっていた。こういうものはいくら口で禁じたところで無駄なのだ。大体が、若い教師たちは自分たちも鞄にチョコレートの包みを隠して登校し、受け取った包みを同じく隠して持ち帰った手合いだった。それを禁じることの無謀さも、興の無さも分かっていた。だから体操服袋の陰になるよう持った紙袋も、教室の隅で行われる談合も、見て見ぬふりをする。チョコレートを学校に持って来ないよう言うのではなく、わざわざ「見つけたら」没収すると宣言する教師までいた。彼らと生徒達の間には、ある種の連帯感が生まれた。
 羽住にはそういう、生徒の人気を掴むような魅力は掛けていた。職員室の中で勤勉さは、確かに美徳だったが地味すぎて、亡霊のように影は薄く、評価されなかった。それは羽住が学生の頃からそうだった。羽住の三十九年の人生の、あらゆる局面においてそうだった。

内・四
 夜、私の小屋を亡霊が訪ねて来るようになった。
 島に明かりは無いから、月が差し込まない丘の斜面は陸と崖と浜の区別もつかない闇になる。そこに黙って佇む白い影には、はじめはぞっとした。しばらく続いて慣れた。
 影はただ遠巻きにこちらを見ているだけだった。何を言うでもなく、それ以上近づいて来るでもない。あばら家には壁も扉も窓もなかったから、向こうを見ないでいることも、向こうの視線を遮ることも、できなかった。
 瀬尾は、私を恨んでいるのだろうと思った。
 大人でありながら無力で、現状を打開しようとすることもなく、瀬尾が転がり落ちて抜けた分の穴を埋めるように島で地位を得た。恨まれない要素が見つからなかった。遭難それ自体に私の及ぼす力はなかったとしても、私はその責任を追及されて然るべきだった。結局のところ子供は世界の成り立ちの不具合を、手近な大人に訴えて然るべきだった。
 その日、私はいつも通り洞窟に果実を届けに行っていて、不漁だったらしく小さな蟹と海藻を持って崖へ帰る途中だった。雨が一滴額に当たり、瞬間私は踵を返して獣道を脇に逸れ、崖下へと急いだ。雨は小一時間も降り続いた。薪木が水を吸う心配を、私はしていた。
 濡れた草叢を踏んで粗い石の転がる坂道を上る。あばら家の残った柱に凭れる格好で、白いずた袋が見えた。島にずた袋などなかった。人工の繊維などなかった。足の感覚が失せ、草を掻き分けて泳ぐように歩いた。蟹はどこで失くしたんだったか、後から思い返してみても分からなかった。
 少年が倒れていた。誰なのかは顔を見るまでもなく分かっていた。瀬尾はこれ以上無いくらい水を吸い、体の縁から周囲一帯は水溜まりのようになり、産毛のような雑草の若芽と広がった瀬尾の細い毛髪に、細かい泡が無数に纏わりついていた。死んではいないはずだった。
 身体は水と同じ温度に冷え切っていた。服を脱がせて絞ると小さな流れができた。
崖下に戻り、奥に隠しておいたあばら家の角材の腐った一部を抱えてきて、表面を削ぎ水を吸っていない内側に石を打って火花を散らした。瓦礫を積んだ上に薪を乗せたが、焚火というよりはただ酷い匂いの煙が燻っていた。私が苦心してなんとかその段まで漕ぎつける頃には瀬尾は、魘され始めていた。この夜が長くなることを、私は経験から知っていた。生者の番をする夜は、死者の伴をする夜は、これが初めてではなかった。
 翌日は果物を採りに行かず、ずっと熾火を守っていた。さらに翌日も午後近くになって、瀬尾は口が利けるまでに回復した。はじめにその薄く開いた目が私を捉え、色素が抜けきった口が小さく動いて出た言葉は、先生、だった。私は自分が受け取るべき言葉ではないような気が眩暈がするほどにしていた。そのあと呪詛が続くのか、それとももっと違う言葉が控えていたのかは分からない。瀬尾はまた目を瞑って眠り、私はしばらく傍に付いたあと水を汲みにその場を立ち、帰って来るとあばら家はその骨格の中を空にして私の帰りを待っていた。

外・四
 羽住は被告席に座ったことはなかったが、帰りのホームルームで教壇に立つたびその気分は味わっていた。あばら骨が痛んだ。罪人の気分だった。
「明日は」声が震えないように腹に力を込めた。「バレンタインデーですが」
 その言葉を口にしただけで、生徒達は騒めき始めた。それよりも羽住の冷や汗を掻き立てるのは、微かに聞こえた失笑だった。羽住の口から、羽住から最も遠い所に存在するような単語が出て来たことに対する揶揄。数秒経ってやっと怒りが追い付いてきた。キッと顔を上げると、生徒達はみな隣に身を乗り出したり後ろの席を振り返ったりして思い思い話していて、誰も羽住を見ていない。静かにしてください、と声を張る。週に一度程度、隣の教室の担任をしている体育教師から、生徒を静かにさせるよう注意が来る。「ほらお前ら羽住先生困ってるだろ静かにしろー」教室の後ろの扉から顔を出しそう言うと、生徒は湧き立つ。それを手を振って制し、羽住に向かって日焼けした苦笑を漏らして見せて、体育教師は隣の教室に帰って行く。
 そうなる前に、静めなければならない。思う度羽住は焦り、追い詰められていき、目が落ち着きなく挙動不審に動いた。生徒はそれを観たがった。
「いいですか。聞いてください」
 いくら羽住が声を上げようが一向に騒ぎは収まらなかったのに、後ろの席ですっと一人の生徒がまっすぐ挙手をし、自然と場は静まり返る。
当てないのか、という丸い三十九対の瞳が羽住を真っ直ぐ見つめて黙っている。気分が悪い、と思った。頭が痛い。吐きそうだった。「どうかしましたか」
「質問しても良いですか」
 この生徒は、どこでこの物言いを覚えてくるのだろうと思う。瀬尾は机に軽く手を付きすらりと立ち上がった。
「隣のクラスの友達から聞いたんですが、そっちでは、チョコを持ってきてもいいそうなんです。明日だけ特別に」小さく首を傾げる。無害な生徒だった。愛嬌があり、度胸もあり、クラスメイトからの畏怖や尊敬と教師陣からの半ば呆れたような歓心を買う、無害な生徒にしか見えなかった。羽住は口の中に広がる苦い味を噛みしめたまま黙っていた。隣のクラスの担任なら、皆まで言わずともここで、仕方ないなと苦笑を漏らしてみせるのだろう。そして教室は子供たちの歓声で湧き立つ。
 羽住は鈍いわけではなかった。生徒達の眼には酷く痩せた鈍い眼鏡の中年にしか見えていなかったが、鈍い訳ではなく、むしろ繊細過ぎて反応までに時間を要するだけだった。
 羽住は言外の問に答える素振りも見せず黙っているので、瀬尾は茶目っ気のある言い方で踏み込んだ。「うちのクラスは、どうですか?」囃すような声が取り巻きから上がる。
いくら考えようが、結局板挟みになって答えなど出ない。
「お菓子の持ち込みは、校則で禁止されています」
 羽住がようやくそう言うと、生徒達の眼は薙いだように一斉に敵意の色に変化する。瀬尾の眼は笑いの形をしているがあくまで冷ややかだった。羽住の無能さを見抜いて笑っている。今更校則を持ち出す狭量さに苦笑を溢している。羽住は吐き気と頭痛の向こうに微かに胸の苦しさを感じた。それが、生徒をまた失望させたことに対する痛みなのが、惨めだった。
「でも二組はオッケー出てんじゃん」
 姿勢を崩して椅子に掛けた生徒が怠そうに野次を飛ばす。木山というその生徒の、親が夏に一度、職員室まで怒鳴り込んで来たことがあった。小さな鞄を両手で持って喚く母親の、喋っている内容は酷く理解し辛かったが、整理してみれば何のことはない、羽住には担任を持つだけの力量が不足しているという苦情だった。羽住は謝罪の声を絞り出し、それがみっともなく応接室に響くのを知りながら頭を下げた。謝るべきは私にじゃなくこの子でしょうという母親の訴え通り、その隣には一回り図体がでかい木山が、授業を抜けて同席していた。羽住の頭はさっき洗面所で飲んだ錠剤のせいで薄く霞みかかっていた。今ここで、腹を切って死ねば、誠意を見せたことになるだろうかと考えていた。「なんで俺らは駄目なん」
 生徒が使ういつもの手だった。ここで羽住が強く出れば、隣のクラス担任の体育教師に歯向かったものとして認識される。羽住の視界はもうずっと揺れていた。多分薬のせいだったが、ここで自分が倒れようが誰も助けてなどくれず、囃し立てられるかシューズのつま先やシャーペンで突かれるか、そんなところなのだろうと思った。
 将来、同窓会で集まった生徒たちにそんな教師もいたなと、自分の死が酒のつまみ代わりに消費されるような、そんな人生なのだろうと思った。
「まあ、よそは余所だから」
 瀬尾が宥めるように言い、しかし目はまだ嗤っている。
「でも、なんで菓子類の持ち込みは禁止なんですか」
 ふと疑問に思った、といった口調だった。別に羽住が創った校則ではなかったが、いつの間にか羽住が被告席に立ち、責められている。
「なんでって、授業中に食べたりしたら、授業に集中できなくなります。他の生徒の迷惑になるし、ごみも出ます」羽住は思いつくまま喋った。
「でも、なら授業中の飲食禁止にすればいいんじゃないですか。先生は、それで何が困るんですか」
「ルールを崩すと」そこで言葉に詰まる。「一つルールを無視すると、他の全てのルールの意味がなくなってしまう」
「なんでそんなに話が飛ぶんですか」
 瀬尾の化けの皮がその一言だけ剥がれた。一拍置いて、また純粋そうな優等生の顔に戻り、本当に訳が分からないという風に小首を傾げる。
「話を戻しますね。だから、食べ物を学校に持ち込んでも、先生は困らないんです。それだけじゃ何も問題じゃない。先生はただ、ルールに意味があると思ってるんじゃなくて、ルールを破らず自分のクラスの生徒がいい子にしてることが大事なんじゃないんですか。主任の先生たちにばれたり、問題になるのが嫌なんでしょ?」
 僕たちも学年集会は嫌です、と瀬尾は笑って言う。羽住より二十五歳下の子供が完全にその場を支配していた。
「だから、協力したらいいと思います。二年一組のみんなで。チョコレートを持ってきてもいいけど、見つかったら負けっていうルールのゲームをするんです。球技大会もあるし、団結力を高めるのにはいい機会だと思うんだけど」
 羽住に訊いてはいなかった。最後の台詞は三十八人の生徒達に向けられており、そのうちの活発な三割程度が歓声をあげて応え、羽住の耳には鼓膜をびりびり聾して聴こえた。決を採る頭数に、羽住は端から入れられていなかった。
 チャイムが鳴って、法廷の幕は勝手に閉じた。

内・五
 酷い嵐が、全てを押し流していった。少年たちが見様見真似で洞窟の近くに造っていた生簀も、砦も、私がいつも赤く酸っぱく微かに甘味を感じる実を集めていた秘密の茂みの一つも、流れて黒っぽい泥の小川になり、、荒れ狂う本流に合流して、海へ流れた。
 生徒の一人がおかしくなり、彼もまた、夜の間に洞窟から駆け出し、海へと流れたらしい。というのは私は実際に目にしたわけではなく、後から木山や曽根や二人の生徒たちが話すのを漏れ聞き、つなぎ合わせて推測しただけだったからだ。
 確かに、一人減っていた。何が起きたのかは分からない。
 嵐の後はからりと晴れ上がり、日照りの方が滝のような豪雨の何倍か苛烈だった。細い沢は枯れた。本流も小川程度に細くなり、岸辺は沼地と化して風一つ吹かないまま、蒸れたような腐敗臭が立ち込めていた。気が狂うような凪の中、水面が日の光を弾いて風もないのに細かく震えていた。渇きに耐えかねて水を飲もうとしゃがむと、茶色い藻が繁茂する中を、無数のボウフラがのたうつように身をくねらせていた。光が震えて踊っていた。
 水を沸かし、水蒸気を漏斗状の葉で集める装置を私は考案し、曽根に見せた。その日から、洞窟では水づくりが労働に加わった。水は通貨になり、へまをしでかすと配当が減らされた。木山はいつも水筒を肩から下げていたが、それは誰か別の生徒のものだったはずだった。名前シールの後だけが黒く残っていて、私の記憶も曖昧に掠れたから、実際のところは分からない。分かったとして、言うべきことなど何もなかった。
 果実や根茎や葉物も、足が速くなったので、木山たちに納める量が減った。そもそも自分の食べる量さえ削ってもう限界が見えていた。
 その日は朝から足元が覚束なかった。熱があるのだろう、と自分で診断を下す。いつもの生徒二人は水の当番で不在だったから、なんとか果実と草の根を集め、洞窟まで運んだ。量に応じて水が渡される。木の皮で作った椀に半分だった。私はよろめくように洞窟から外の凄まじい夕日の中へ出て、そこで水を飲み干してしまった。今の渇きも癒えなかった。熱に浮かされた脚と頭で、あばら家まで帰ったことは覚えている。柱に凭れ掛かり、そのままずるずると膝を着き、視界が暗転した。
 苦しみも安らぎもないただの眠りだった。微かな寒気で目を覚ますと周囲はとっくに暗く、屋根が抜け落ち梁だけになった天井から、星空が見えた。いつぶりだか分からない、涼しい夜風が吹いていた。
 目線を落とし、ふと、不自然に草叢が乱れている所に気づく。半ば這うように近づくと、毒々しく艶のある赤紫と黄色が見えた。スモモに似た果実が三、四個、不自然に草に埋もれ頭を覗かせていた。私はそのまま動きを止め、草叢が続く先の闇を透かすように見た。人影は見えず、風が草を渡る音と波音が混じって響くだけだった。
 それは毎日、私が洞窟から帰ると置かれていた。果実とは限らず、甲羅の潰れた小さな蟹や、薪木の束が置かれていることもあった。私はごんぎつねの物語を思い出した。毎晩、置かれているそれらを拾い上げ、闇夜の奥を透かし見るように立った。見られているような気もすれば、誰もいないような気もした。
これを持ってくる主は、飲み水をどうしているのだろうとふと思った。
 その夜は月が煌々と照って明るかった。私は漏斗の形の葉と焚火、椀を用意した。丘の上はライトを浴びた舞台のようだった。あばら家は、中が透けるよう壁を廃した大道具のようだった。私は一人で水を沸かした。その夜は、闇の中に潜んでいるだろう視線を強く意識した。
特に変化はなく、翌日以降も変わらず贈り物は届き続けた。けっきょくあの夜、観客がいたのかどうかは分からないままだった。
 日照りが終わる日のことだった。私の手伝いをしていた生徒のうち一人が、生贄になった。彼が木山に渡した果実の中身が虫に食われ腐っていたらしい。海水に浮かぶか確かめろと教えたその手間を、惜しんだのだろう。彼は縄で手首足首を縛られ、室生の岩場に転がして置かれた。室生が、そうすれば雨が降ると宣託を下したのだと、曽根は言った。呻き声が岩場から遠く響いて来ていて、私は逃げ出すように洞窟を後にした。残響は後を追ってきた。空は早回しの映像のように暗くなり、崖が見える頃には雨粒の初めの数粒が落下し始めていた。
 生贄となった生徒のことを、私は強いて考えないようにした。崖下で雨が止むのを待ってあばら家に戻り、そのまま少し作業をして、眠った。贈り物が無かったのは恐らく雨のせいだろうと思った。無事だろうかと思った。
 草を踏みしだく足音で目が覚めた。空は雨雲の名残で赤黒く曇っていて、まだ夜中の暗さだった。心臓が跳ねる。幽霊が、床や扉があれば玄関であっただろう場所に立って私を見下ろしていた。生徒の誰かが化けて出たのだと思った。恨まれる心当たりならいくらでもあった。
 眼鏡を無くしてからすっかり役に立たなくなった目を細める。ぼやけていた白いシルエットの輪郭が、二重になり、一重に収束する。瀬尾が立って私を見下ろしていた。
 君は、と掠れた声が出た。瀬尾は、何の感情も見せないまま私からふと視線を逸らし、背後に向ける。暗い波のような草叢を、中に何か潜むような揺れが、遠くの密林の方へ走り去って行った。島に猪や鹿がいるという話は聞いたことがない。猿にしては、草叢に潜んでいたその何かは大柄だった。今のは、と掠れた声が出た。瀬尾は黙って、手に持った鋭利なガラス片か金属片をポケットに仕舞った。私は、影から救われたことを悟った。
 瀬尾は黙ったまま踵を返し、何も言えない私を残して、影が逃げ去ったのと同じ方角へ丘を歩いて下って消えた。

外・五
 影も夜の闇に紛れるような時刻だった。羽住は帰宅する前にホームセンターに寄った。店内に入る前から蛍の光が流れていて、野菜の鉢を積んだカートを撤収しているニキビ面のアルバイトが羽住の方を迷惑そうに横目で睨んだ。まだ、閉店までには十五分近くあるはずだった。ここで退き返すのも気が引け、羽住は何か急ぎの用がある風を装って店内に入った。
 天井は高く、新しいゴムと安い木材の匂いが充満していて、羽住は息をつく。ここでなら呼吸ができた。殺鼠剤や除草剤の、べたつくピンクやゼリーのように透き通った青や緑の並ぶ列を歩いていると気分が落ち着いた。ビニールのケースに入った、錐や鎌や鉈が吊り下がる間を歩いていると自分の表面が削ぎ落されて次第に自分でなくなるような気がした。
 今日は目当ての品があった。工具の列の中程で、不自然に見えないように歩調を緩める。前にも後ろにも人影は見えないが、それ以上周囲を見回すことは避けた。人影は見当たらずとも、どこかから監視カメラの半球の瞳が自分を見つめているに決まっていた。
 片刃の鋸の、刃の下に片手を差し入れるように軽く持つ。その冷たさと重量感が知りたかった。ラックから外す。取っ手に貼られた値札には、二八〇〇の数字があった。
 柄を握って持つと、案外軽く感じられた。軽く振ると刃が空気の抵抗で軽くしなる。羽住は恥ずかしいような、照れるような気分がしてそのまま鋸をラックに戻した。手にはその重みがしばらく残っていた。自分は、それを振り回すのに値しないと思った。
 自分が自分でなければいい、という考えは常に羽住の根底にあった。
 線路に落ちた酔っ払いを、とっさに自分も飛び下り押し上げて助けた高校生のニュース。銀行強盗を出し抜いて通報し、人質の老女の代わりになって撃たれた平の銀行員のニュース。羽住はしばしば、彼らの立場に自分を置き換えて夢想した。なんてことはない。当然のことをしたまでです、と言ってそそくさと取材陣の包囲を抜け出す。どこか遠い世界の出来事だった。
 会社員が、職場で出刃包丁を取り出し上司に切りつけたニュース。いじめられていた生徒が校舎裏の木に登り、自作のボウガンで教室の窓を狙撃したニュース。自分が彼らであればよかったと羽住は思った。それだけの度胸も自分には無い。鋸をレジまで持って行く勇気も自分には無かった。
 彼にあればそれでいい、とも羽住は思った。
 暗い部屋の中、デスクトップパソコンの画面が四角い光を放っている。白く汚れた眼鏡のレンズに、文字の羅列が反射して映っていた。自分はもう既におかしくなっているのだろうかと羽住は思った。そんなことはないはずだ、と否定する。羽住は、何かを実行したネット記事の中の彼らとは違う。妄想はまだ、白い画面の向こうに押し込められたままだった。
 もしも、と思う。もしも自分が突発的に他者か自己に切りかかり、それでこの部屋に戻ってこられなくなったら。そうして捜査員がこのパソコンを押収し、総計二十万文字ほどの文書ファイルを開いたら。羽住は破滅だった。そうなる前に、全て消し去ってしまわなくてはならないと思う。まだ何も法に触れることはしていないはずなのに、見つかることを考えるだけで、常に懐にナイフを隠しているようで落ち着かなかった。
 その可能性を弄んでいるということ自体が、自分の気が狂いつつあることを立証しているのではないかと、羽住は思った。
 自分の手で何かを成したいわけではない。ただ、静観していたかった。自分の身体から脳味噌だけを取り出し、培養液かどこかに落として、ただガラスの壁越しに世界を眺めさせて欲しかった。惨劇を望んではいるが、自分がそれを引き起こしたいわけではない。その一点が、自分と犯罪者とを分けると思っていた。
 そういう意味では、そこは羽住にとっての水槽だった。羽住の手は汚れずきれいなまま、ただ物語が進行していくのを眺めていればよかった。

内・六
 私はもう、なにもせずにただ眺めていることは出来なかった。
 かつて教室で何の苦労も見せずに笑っていた、あの生徒は変わってしまった。毎晩力なく、ただこちらを見て突っ立っている姿は、本当に亡霊のようだった。
それでも、抜け殻のようなその内では鬼火のような冷たい炎が消えず揺らいでいた。その炎はあばら家に伸びていた影の手を弾き、引き下がらせた。瀬尾は、しかし、私にはまだ瀬尾の中にそんな崇高な何かが隠れていると信じることができない。彼の芯がまだ折れてはいないことだけが確かだった。
 生贄になった生徒たちは虚ろな目で何もない所を見つめ、ぶつぶつ何か呟くことが増えた。不意に笑い出すこともあり、そうなれば数分間止まらなかった。そんな有様の片割れを連れて、もう一人の生徒は翌日も私の手伝いに現れた。頬に、ガラス片で切ったような赤い筋が長々と走っていた。
 五日おきの夕方、生贄が選出された。夕日の陰影で奇妙な絵画のようになった浜辺で生徒達が円になり座る光景は、ホームルームを思わせた。
 選出と次の儀式内容の決定は、前回の生贄が担当した。内容は回を重ねるごとに過激になっていった。はじめは一昼夜岩棚の上に転がして置かれるだけだったのが、次 には服を脱がされ果物の腐りかけた汁を塗られた。虻や蚊に集られた曽根は、次の生贄の山羊に血を要求した。果汁の代わりに、貝殻で付けられた小さな傷口から溢れる水っぽい赤い血に塗れた生贄は、夜が明けると結晶化した傷口に琥珀のように小さな蟻を数十匹閉じ込めていた。
 木山はその傷によって畏怖の対象となった。
 行き過ぎだと思った。二十一世紀の日本の中学生がしていい経験ではないと思った。向こうに戻った時に彼らは元の生活に帰れなくなってしまう。そもそも日本に戻れるのか、という考えは一旦捨て置いた。それ以上考えれば気が狂うだろうと思った。
 その日の夕暮れ、私は瀬尾を待ち伏せ捕まえた。彼は両手に海藻を抱えたまま、色のない目で私を見つめていた。見つかったことに対する如何なる動揺もそこにはなかった。私は、このままでは危険だと伝えた。瀬尾の反応の鈍さに途中から焦りが先立ち、語気が強くなる。
生徒たちの信仰はエスカレートしつつあり、今後もしていくだろう。彼らは宗教とは何なのか、教室にいた頃から知っている。犠牲の山羊を選び出し、焼き印を押すことで、集団は彼を弾き出し強く団結する。彼らはその原理を初めから知っていた。
 生贄に対する代償の要求は次第に苛烈になり、じきに取返しがつかないようなものになるだろう。そして、まだ傷を負っていない瀬尾は標的の山羊に選ばれやすくなるだろう。
 そこまで告げて、言葉を見失う。それで私は瀬尾に、逃げろと言うのか。どこへ。私は茫然として、ただ瀬尾を見ていた。私はどこまでも無力で、何の手立ても持たなかった。
 先生、という声が私を現実に引き摺り戻す。瀬尾は両手をこちらへ差し出し、反射で受け取るような恰好をした私の手の上に海藻の滑った重みを渡す。分かってます、という声が静かに私の身体のどこか奥を刺した。私は言葉を探そうとして、ただ口を開け、閉じた。
 瀬尾はふと視線を逸らし、崖の向こうに果てしなく広がる海を見遣った。そちらの方角に私たちの中学校の校舎があることを、私はほとんど直観のように悟った。もうじき帰れるよ、と私は瀬尾の横顔に言った。今は二十一世紀で、日本では私たちの遭難が大きなニュースになっているだろう。大規模な捜索が行われているだろう。この島が、発見されないわけがない。
 瀬尾にそう伝えたいという気持ちに嘘は無かった。それでも、私だけは自分の言葉を全く信じていなかった。
向こうは、今頃試験期間かな。瀬尾は遠くに目を眇めて言う。球技大会はまだか。バレンタインはもう来たかな。三好が、チョコくれるはずだったんだけど。
 三好という名前が三好風花という女子生徒の顔と結びつくまでに数秒掛かった。小学生でも中学生でも早熟な子供たちは付き合っては分かれるを繰り返す。見ていていい気分はしなかった。子供のままごとだと、今、瀬尾の表情を見るまではそう思っていた。
向こうに帰ったら、先生、俺の代わりに受け取っといてくれませんか。瀬尾は言った。私の頭からざあっと音を立てて血の気が引き、それからのぼった。そんなもの、自分で受け取ればいい。声には出さずそう吐き捨てる。自分で日本に帰って自分で受け取ればいい。なぜ私に、そんなものを背負わせる。
 なんか、と瀬尾は言って、本当に久しぶりに薄く笑った。なんか俺、もう、帰れる気しないから。
 みんな多分そうなんだ。瀬尾は両手で体操服の前を掴み、滑りを拭うように引き絞った。もう中二だし、もうすぐ中三だし、占いとか神様とかそういうのは信じてないけど、他に頼るものもないから祈ってる。何かせずにはいられないから。だから、仕方ないと瀬尾は言った。誰かがその役割をやらなきゃ仕方ない。だから俺の番が来たら、そうします。
 私は茫然と立ち尽くしていた。間違っている、と思った。こんなことは間違っているv。生徒たちは何も考えず、あらゆる責任を免除され、子供として学校という檻の中で囲われているべきだった。あらゆる危険から遠ざけられ、反抗して檻に体当たりを繰り返しながらも、その檻によって寝床と食料を与えられ、守られているべきだった。
 まだ中学生だ、と思う。まだ十四歳だ。この子が、生贄などという十字架を背負わされる必要がどこにある。
 私は一体何をしている。
 ありがとう、と瀬尾は静かな声で言った。私の胸の奥深い所が捩じ切れるようだった。ありがとうございます、同情してくれて。でも、本当そう思ってくれるなら。瀬尾の虹彩は、猫のような金緑に光って見えた。本当にそう思ってくれるなら、もう全部終わりにしてください。
 私は、瀬尾の視線を受け止めるだけの何をも持たなかった。足元で草叢が波打って揺れる。私にそんな力はないよ、と言うと、瀬尾は声を出さずに小さく笑った。私の胸の奥深くを疼痛が走る。忘れていた、生徒を失望させた痛みだった。

外・七
 羽住は肺の焼け付く痛みで目を覚ます。洗面所で薄赤い痰を吐いた。目覚めはいつも通り最悪だった。顔を上げると酸で目の縁が充血した、影のような男がこっちを見返している。もう全て終わりにして欲しかった。
 テレビを付けると、首都の駅地下のチョコレート売り場が映っていた。とっさに電源ボタンを押し、画面はぷつりと線が走って暗くなる。羽住は世界を呪った。世界終末時計の秒針は、中途半端なところで止まっていないでさっさとゼロまで刻んでしまって欲しかった。
 中古で買った白いワゴンRは持ち主に似て、不幸を耐え忍ぶような表情が染みついている。通勤途中にあるコンビニエンスストアの、バレンタインデーの幟が目に入るだけで、羽住の頭は鉄の輪で締め付けられているように痛んだ。ハート形のチョコレートを持った女優が、風にはためきながら羽住を見つめて笑っている。
 なぜ自分にとって世界は地獄なのだろうと、羽住は思った。何が自分と、画面の向こうでにこにこ笑ってチョコレートを頬張る人間を分けたのだろうと思った。はじめから世界は公平ではなかった。持つ人間は子供の頃から全てを持っていて、羽住は生まれた時から持たざる側に立たされていた。
 持つものは全てを持って行く。世界の造りは羽住が中学生の頃から変わっていなかった。
 朝の会議が終わり、教室へ移動しようと職員室から出たところで、声が羽住を呼び止めた。振り返ると教頭が縁なし眼鏡越しにこちらを透かすように立っている。胃がうねるのを感じる。何を言われるのかは、薄々予感があった。
「いいですか。羽住先生、お願いしますよ」
 はあと間の抜けた声が出た。教頭は眼鏡の奥の目を細め、鼻を鳴らしてドアの向こうに消える。わざわざ自分にだけ声を掛けたのだ。教頭も、気の強い若手には強く出られないことを羽住は知っていた。それに気付かないほど鈍くはなかった。
 こいつも敵だ、と思う。誰も彼も羽住を虐げる。お前も島に流されてしまえばいい、と羽住は内心罵った。お前も全身虫食い穴だらけになって、岩の上を黄色い膿で汚してのたうち回ればいい。羽住は自分が何を考えているのか理解しないままそう思った。
 教室が並ぶ二階廊下の空気は微かに、白く乳化し固まったチョコレートの甘い匂いが漂うようだった。廊下には既に、ちいさな銀のモールが落ちていた。羽住は息を吐き、刑場に引き摺り出されるような気分で教室の扉を引く。
 さざめくような笑いがつむじ風のように教室を渡り、それから静まる。羽住の首筋が嫌な予感でちりちり爆ぜた。生徒たちが急に改心でもしたかのような静寂は、しかしそんなことがあり得ないだけ不吉だった。羽住は三十九対七十八個の瞳が自分をじっと注視しているのを感じていた。
 自分は教師だ、と言い聞かせる。教頭と生徒の間で板挟みになったとして、どちらの言に従うかは明白だった。言うべき台詞は既に与えられている。手荷物検査をします、と一度口の中でつぶやく。なんてことはない。声も震わせずに言えるはずだった。言わなければならなかった。胃がきりきり痛むのを無視して、顔を上げる。羽住が口を開くより一拍速く、少年の声が「先生」呼んだ。
 瀬尾が子供らしく曇りのない笑顔を浮かべ羽住を見つめていた。
「今日は何の日でしょう」
 脂汗が額に浮いた。羽住は苦い唾を飲み下し、瀬尾を無視して「手荷物検査をします」言った。「鞄を開けて机の上に置いて下さい」
 ブーイングの嵐を予期していたが、反して教室は静かなままだった。生徒たちは奇妙な色のにやけた薄笑いで羽住を見つめたままだった。ちょっと待った、と木山がふざけて声を張り上げる。羽住は部屋の中に自分の味方など一人もいないことを感じていた。
「僕たち、先生に贈り物を用意したんです。あと一か月でこのクラスも解散だし、だから感謝の気持ちを伝えようと思って」
 何が起ころうとしているのか、羽住はもう薄っすらと悟っていた。嫌な記憶がよみがえる。羽住は中学生の時、一度だけチョコレートを貰ったことがあった。魂胆が見え透いていて、ぬか喜びもできなかった。今、ここで、食べてよと明るい髪色をしたその女子生徒は言った。放課後の教室には羽住とその女子しかいなかったが、取り巻きがどこかに隠れて羽住のことを嗤っている気配は隠しきれていなかった。
 羽住は震える手でリボンを解き、ビニールの袋から団子状のチョコレートを摘まみだす。何が中に潜んでいるのか分からず、悪夢のように禍々しく見えた。噛まずに飲み込んでしまおうと思った。口に含んだ瞬間、ココアパウダーが舞って口蓋にへばりつき、噎せてそのまま奥歯で噛み締めチョコが潰れた。アルコール消毒液の強烈な匂いが鼻を焼き、羽住はえづき、熱で溶けかけた茶色の塊が泥のように床に落下した。最っ低、と女子が遠くで金切り声を挙げるのを、羽住は涙で霞んだ視界のどこかで聞いていた。
「鞄を開けて机の上に」その言葉に縋りつく。もはや自分は中学生の少年ではなく彼らを統率する立場にある。瀬尾の顔が二十数年の間隙を飛び越えて、羽住がチョコレートを毒のように口に放り込むのを見つめていた女子生徒のそれと重なる。その顔が微笑みを崩さないまま、分かりましたと答え机の横に掛けた規定鞄に手を伸ばすのを合図に、教室中で鞄が机の上に開かれる。ビニールが一面の机の上で、細波のように日光を弾いて光った。三十九の机の上には三十九のチョコレートの袋がある。羽住の呼気は抑えきれず震えた。
「不要なものがあれば、没収します」
あの女子生徒が記憶の中で笑った。羽住は眉間に力を込めて幻を追い払う。最前列の三好風花が羽住を見上げて笑っている。
「没収してどうする、こっそり食べるの?」
 羽住は自分が瀬尾の、生徒たちの策に掛かったことを理解した。「いえ。帰る前に、皆さんに返します。今後はもうしないと約束できるなら」
「でも俺らせっかくあんたの為に用意したんだぞ」木山が怠そうに声を上げる。瀬尾は困ったような顔をしている。
「校則は分かっています。でも、形だけの決まりよりもっと大事なことって、あると思うんです。僕らはただ、先生を喜ばせたかったんです。ごめんなさい」
 声には反省の響きが滲み、それでも上目遣いに羽住を見上げる目は笑いに歪んでいた。これは子供の皮を被った何か邪悪なものだ、と羽住は茫然と思った。幼さを免罪符に野放しにするべきではない。この子供を、どういう形でもいい、処分してしまうべきだと思った。のうのうと大人に守られこの子供が大人になるようなことなど、あってはならない。許してはならない。
 そんなに規則が邪魔なら、と羽住はぼんやり思った。校則も法律も存在しない、どこか遠くの無人島にでも流されてみればいい。文明的なルールの消滅した中で、死ぬほど苦しんでみればいい。そんなに望むのなら、最後の生贄はお前にしてやる。

内・八
 私は瀬尾を逃がさなければならなかった。次の生贄は彼に決まった。
 私には島での決定そのものに干渉する力はない。ただ、彼が殺されるところを黙って見ていることには耐えられそうもなかった。私にも教師としての矜持のひとかけらくらいは残っているらしかった。
 瀬尾は自分から投降した。三日後の晩まで、岩場に拘束されることになった。私はこれまで採りつくさないようにしていた木の実を、まだ青いものまで全部もいで葉に盛って木山に謁見した。
 儀式が完遂されるために、生贄の見張りと世話をする係が必要だ。言うと木山は曽根を横目で見た。唇が虻に集られて艶々と腫れた上、権力の誇示の為かピアスのように針状の小枝を突き刺しているから、発言は専ら曽根の役目になっている。
 瀬尾が逃げたらあんたが代わりだぞ、と曽根は言った。何が目的でそこまでする。
 私はこれでも君たちの担任だから。担任だったから。そう言う資格は私には無かった。だからただ、協力したいからとだけ答えた。これまで自分の手は汚さず、綺麗なフリして隠れてたくせになと曽根が言って木山は上唇を捲りあげるように笑った。
 洞窟を辞してから、脇の茂みに隠してあった果実の残りを持って岩場に向かった。瀬尾は手首と足首を縛られた状態で、膝に顔を埋め座っていた。瀬尾、と声を掛けても反応を見せない。傍らに膝を着くとようやくゆっくり頭を上げる。その時になって懐に抱えられた瀬尾の手が、海老茶に乾いた血で汚れていることに気が付いた。言葉が出て来なくなる。手の平の中央には濡れた黒い窪みがあり、溜まった血のせいで傷の深さは分からない。両手に杭の傷、大いなる犠牲の象徴だった。誰の発案だ、と思う。子供らしい模倣はその分禍々しさが強調される。
 真水を持ってきて、傷の周りを拭った。すぐに瀬尾を中心に薄赤い水溜まりが広がった。瀬尾は呻いて私の手を振り払い、その瞬間電流が走ったように痙攣した。食いしばった歯の間から泡立った唾が垂れている。私はしばらく迷った後、また動かなくなった瀬尾をその場に残して立ち上がる。自分が何を探せばいいのかは分かっていた。
 その茂みは、しばらく前に見つけていた。試しに小さな棘のような凹凸のある葉を、千切って口に含み奥歯で噛む。青臭さと強烈な匂いが口内で破裂して、舌の上に火傷に似た痺れが残った。間違いない。茎の繊維が酷く固いそれを、束にして抜いて抱えた。
 石で軽く磨り潰し、木の皮の碗に掬い入れて瀬尾に差し出す。顔を背けて拒むので、無理やり飲ませようとすると、私の腕をきつい力で掴んで血走った眼を向けた。
 毒じゃない。酩酊感に伴って軽い眠気はあるが、痛みが和らぐ。私はそう伝えて酷い味の汁を指ですくって舐めて見せる。瀬尾はまだ私の腕を掴んだまま離さない。見開いた目の奥で光が小さく揺れた。なぜ、と短く尋ねる。なぜ、こんなことをするんです。
 なぜって、と思った。だからこれを飲めば、痛みが和らぐと言っている。君が苦しむところは見ていられないし、このまま衰弱されると困る。隙を見て、君を逃がす。
 瀬尾は何も言わず、私の底を見透かすようにしばらくじっと見つめ続けた。それから椀を私の手から奪い取り、顔を歪めながら全部飲み干す。なにこれ、と言った声には中学生らしさが滲んでいて、私は奇妙な気分がした。分からない、と正直に答える。幻覚作用があるからと口ごもり、しかし隠しても仕方ないし瀬尾のような子供は聡くすぐに察するだろうから、大麻じゃないかと思うと正直に口にした。瀬尾は表情の欠落した顔で椀に目を落とし、しかし首を横に振る。大麻は生だと効かないから、違う。そう言って私の表情を覗った。先生、知らなかったの。
 別に大麻に詳しくはない。知らなかったと答えた。むしろ、瀬尾がなぜその知識を持っているのかの方が謎だと思ったが、瀬尾は何か別のことに気を採られているようだった。私のことを探るような視線を逸らさない。
 先生が知らないことを、何で俺が知ってるんだろうね。そう、独り言のように言った。
 またさっきまでと同じ蛹のような体勢で、瀬尾は動かなくなりしばらく眠った。私は瀬尾の言葉の意味を考えていた。
 瀬尾は睡眠と覚醒を繰り返した。一度だけ、夜中に声を荒げた。あんたは何がしたいんだ、と訊かれて私は答える言葉を持たなかった。息が苦しくなった。君を助けたいんだよともう一度答えると瀬尾は顔を背けて嘔吐した。
 翌朝、私が目を覚ますと瀬尾の前に曽根が立っていた。とっさに後ずさりかけたが、先に目覚めていたらしい瀬尾は座ったまま、何もいわず平然と曽根を見上げていた。食え、と言って曽根は瀬尾の前に木の皮を置く。香ばしい匂いが空気に混じった。焼けて皮が弾け、白い肉が露出した大きな魚が乗っている。瀬尾は曽根の顔から視線を動かさず、曽根は舌打ちをした。さっさと食えよ冷めるだろ。
 瀬尾は魚の尾を掴み、そのまま持ち上げるようにして骨を外す。一瞬躊躇してから、ほぐれた身を掴んで口に運んだ。曽根は貧乏ゆすりをしながら突っ立って食事が終わるのを待っていた。瀬尾が魚の尾を噛み千切り、咀嚼し飲み下すのを待って一歩踏み出す。
 お前は最後の生贄だから丁寧に扱えと室生が言ってた。そう曽根は首を傾げて瀬尾を見下ろしながら言う。いいもの食わせてやれってさ。んで、その食い物がお前の身体を作って、その身体が俺たちの食い物になって、世界は大きな輪っかになるんだと。意味分かるか?
 曽根の顔は笑いでくしゃりと砕けた。俺には分からん。まあ何でもいいや、輪っかでも何でも俺の知ったことじゃない。俺まだ朝飯食べてないからさ、さっさとしようぜ。そう言う片手には木山の水筒がある。曽根は瀬尾の髪を掴み、引っ張られて頭が持ち上がる。
 俺の解釈だと、細かいことは置いといてお前は魚みたいなもんってことだよ。生簀の中で、餌の小魚食って太ったところを俺達が食う。で、これは餌だ。曽根は瀬尾の髪を掴んでいない方の手で、水筒をカンテラのように掲げて持った。
 一応言っとくけどまあまあ匂いきついぞ。そう言って曽根は水分補給でもするように水筒の蓋を跳ね上げ、瀬尾の顔の上に傾けた。赤と茶の混じったような液体が流れ落ち、瀬尾のデスマスクを取って顎から筋になり流れ落ちていく。瀬尾が喘ぐとそこだけ液体のベールが裂けた。顔を背けようとする瀬尾の髪を、曽根はしばらく無表情に掴んだままでいた。
 虫が来ても退治はするなよ先生、と曽根に言われて私は我に返る。まあ、しねえか。そう共犯者の笑みを浮かべて言って曽根はぱっと瀬尾の髪を放し、瀬尾は岩の上に濡れた襤褸切れのように崩れた。
 曽根が去って、岩棚に瀬尾と二人残される。早くも腐臭に集る虫の羽音が、こちらを覗うように飛び交い始めていた。私は一瞬迷い、それから迷ったことを恥じた。水を汲み、岩の上に飛び散って溜まった汁を流す。瀬尾にも断ってから水を軽く掛けた。瀬尾は悪夢に魘されるような声で、やめろ、と言った。まだ曽根に液体を掛けられ、溺れかけているようだった。私だよと答える。これは水で、さっきの汁を流そうとしているだけだ。そう説明しても瀬尾はやめろと言い募った。匂いはどれだけ流しても周囲に漂い続け、細かい雨のような黒い虫の粒が私の腕にも打ち付けた。瀬尾は無数の黒い糸に巻かれたようになり、両手を懐に庇って蹲っていた。火を焚き、それが消えそうになる勢いで香草をくべた。煙に燻されて周囲一帯が緑がかった灰色に霞み、それが晴れると虫の霧も消えていた。
 再び瀬尾の意識が喋れるまでに戻ったのは日が暮れかけた頃だった。
 先生はどこにいたんですか。一転して静かな声でそう尋ねる。何度か水と薪木を取りに行ったけど、その他はずっとここにいたと私は答えた。
 そうじゃない。俺が苦しんでいた時のことです。
 私は答える言葉を持たなかった。瀬尾の声は静かだったが、それでも非難の響きを聞き取らずにいることは不可能だった。指摘されるのを待たずとも、私は卑怯であり臆病だった。瀬尾はこの状況で、笑った。夕日も相まってどこか凄まじい色のある笑みだった。
 先生は、そう、見てたんですよ。目を逸らしもしなかった。全部を見てたんだ、その意味を分かってるんですか。
 悪かった、分かっている、謝って謝り切れることではない。そう謝ると瀬尾の眼の底が昏く光を弾いた。
 分かっている?瀬尾はそう譫言のように復唱した。
 先生は、教えてあげるよ、先生は、俺が苦しんでいるときいつも消えるんだ。分かってる?先生の姿は急に掻き消えて、透明人間になったみたいにどこにも見えなくなって、それなのにそこにいる。そこにいて、ただ目だけになって俺を見ている。全部終わってからまた気付くとそこにいて、教師の顔をして、俺の手当てをする。まるで善いことをしているみたいに、悲しんでいるみたいに、俺の傷を洗って乾かしてまた次に送り込む。先生がしてるのは生徒の心配なんかじゃなくただのゲームだって、分かってるのか。
 もう、眠った方がいいと私は告げた。興奮するとまた身体に障る。瀬尾は嗤いとも啜り泣きとも付かない声を漏らし、波の音が世界を浸し、辺りは静かに暮れていった。
 
外・八
 羽住は静寂の中にいた。

 結局朝のホームルームで羽住は大きな紙袋二つ分のチョコレートを没収した。偽札でも抱えたような不安さに潰されかけながら、職員室まで小走りに戻り、デスクと椅子の間に紙袋を押し込んで隠した。セロハンが潰れる音がした。
 それ以上は奇妙なほど何事もないまま、帰りのホームルームになった。羽住が何かを言う前に、先手を打ったのは瀬尾だった。約束はできません、と瀬尾は言った。何の約束について言っているのか羽住は一拍遅れて理解する。もう二度とこんなことはしないと誓うことを条件に、チョコレートを返すと言った。深く考えての発言ではなかった。慣用表現みたいなもののつもりだった。
 羽住は両手に紙袋を持ち夜逃げするように退勤した。
 教頭から呼び出されたのは、翌朝だった。職員室の最前で幅を取るデスクの前に立ち、羽住は悲壮な顔で教頭を見つめていた。今朝に限って、普段は無関心を決め込む同僚たちの好奇の視線を背中に感じた。自分の悲劇は彼らの眼には喜劇に映るのだろうと思った。
「複数の保護者の方から」
 そう教頭は切り出した。羽住はその時点で、こんなに心臓が辛いのなら、いっそ痙攣して止まってしまえばいいのにと思った。
「昨夜、お叱りの電話を頂きました。羽住先生、何か心当たりは?」
 羽住は既に、教師の前に呼び出された臆病な中学生に戻っていた。両手を組み、捻り回す。教頭の視線がそれを見て不快そうに眼を細めるのにも気づいていなかった。子音のSを酷くどもって喋り出す。
「しかし僕は、前日にも生徒たちに注意喚起、教頭先生がおっしゃられた注意喚起をしましたし、当日も手荷物検査を行ってその、行って」
「行って、どうしました」
「行って、チョコレートを没収しました」
 職員室のどこかで囁くような笑い声が聞こえた。自分を嗤う声だと羽住は思い、いっそう頭に血が上る。こめかみで血管が脈打つのを感じた。自分の様子が傍からは不審に見えるだろうと羽住は分かっていた。疑いを晴らすため言葉を喋ろうとするたび、舌の根が膨れ上がり、気管を塞いでいくのを感じ、このままでは窒息するだろうと思った。そうですか、と教頭は机上で手を組み替える。
「で、没収したチョコレートはどちらに?」
 羽住の耳から音が消えた。熱がどんどん流れ落ち、地面に逃げていくのを羽住は感じていた。目に見えなくとも自分の身体のどこかには致命傷があって、そこから血がどんどん流れ出ていく。羽住は首を横に振った。言いたいことならありすぎて喉に詰まって塞いでいた。絞り出そうとすると目の奥が熱を持って痛んだ。自分の視界の縁が潤んでいることを自覚した途端情けなくてたまらなくなり、じわりと視界全体が揺らいだ。
「相手は子供ですよ」
 教頭の声からは軽蔑以上の何も聞き取れなかった。
「私がお願いしたのは、問題を起こさないようにというただ一点のみだった。検査をしろだの処罰をしろだの、細かく指示をしたわけではない」
 したじゃないか、という声を飲み込んで羽住は口内をきつく噛んだ。とにかく視界の表面張力を保つべきだった。決壊さえしなければまだ何か取返しが付くような幻想に、羽住はしがみ付いていた。
「生徒たちはあなたにチョコレートを渡したと言っている。あなたはそれを没収し、しかし自身で隠匿し、私や主任への報告を怠り、自宅へ持ち帰った。取った全ての行動が見事なまでに間違いでした。あなたがもし悪意から行動したわけじゃないならですが。
 いいですか、相手はただの十四そこらの子供ですよ。それを教え導くのが教師の、あなたの役目でしょう。なぜ私は朝から、あなたを叱責する余分な仕事を背負いこまなければならないんだ」
 羽住は呻くように思った。あれは子供じゃないんです。子供の皮を被った悪魔で、あなたもその仲間の一人なんです。口から出てきたのはしかし「申し訳ありません」という囁きの繰り返しだった。
 今日はもう帰って下さい、と言われ羽住はのろのろと荷物を纏めた。職員室はいつの間にか、授業が入っていない数人を除いて出払っていて、遠くグラウンドの方から生徒の笑い声が響いて聞こえて来た。
 もうここへ来ることはないかもしれないなと思った。しかし辞表を出す、それだけの度胸も自分にはない。であれば死ぬしかないのかもしれないなと思った。その方が、今の羽住にとっては敷居が低く思えた。
 羽住は静寂の中にいた。職員玄関は無人で、霊廟のようにひんやりと冷えていた。茫然としたまま機械的に自分の靴箱に手を入れ、しかし革靴ではない感触に指がぶつかる。紙の小箱だった。蓋はピンク色、本体はベージュに茶のストライプだった。同じ茶色のリボンは少し歪に歪んでいる。羽住は無感動なまま、リボンの一端を引き、ほどいた。蓋を開ける。
 中には紙が一枚、整った筆跡で、ゲームは先生の負けですよと書かれていた。羽住は箱を持ったまま立ち尽くし、その文面を三度読み返した。意味が理解できなかったわけではない。それどころか、これ以上無いくらいよく分かっていた。確かに自分は打ち負かされたのだと思った。
 君らを守り、導くのが教師の務めなんだ、と羽住は思った。その目はまたカードの短い一文を端から端へなぞっていたが、焦点は数ミリずれていて、何も見えてはいなかった。教頭先生がそう仰っていたから間違いない。君らは守られていたんだよ。ルールは君らに味方していた。私みたいな人間から、守られていたんだ。羽住の眼は五度目に文章をなぞって動く。もう一度、ゲームをしよう。今回は簡単すぎてつまらなかっただろうから、今度は私がルールを決める。会場も観客も用意してあげよう。

 羽住はその日、隣町のホームセンターに寄って二八〇〇円を支払って帰った。

内・九
 早朝、まだ空気が暖まりきらないうちに私は水を汲み、食料と薪を集めて戻った。岩棚に戻ると瀬尾は目を覚まし、私から顔を背ける格好で海を見ていた。桃色と白に近い空色の上を、雲が刷毛ではいたように流れている。何もかも鮮やかなここでは珍しい、穏やかな朝焼けだった。
 瀬尾の質問は、あんたは何なのか、から、俺は何なんだろうに変わった。
 多分、何か意味があるんです。俺が生贄になる理由が。先生には分かってるんでしょう。
 私は首を横に振る。この瀬尾が死ななければならない理由など、本当に分からなかった。私は本心から彼を救いたいと思っていたし、そのことを分かって欲しかった。同時に、私に瀬尾を救うことは不可能だということも、分かっていたし分かって欲しかった。
 瀬尾は黙って、それが私には一層辛かった。
 太陽が天頂近く昇ったころ、木山が一人で松明を掲げやって来た。瀬尾は再び錯乱の波に呑まれ、なんで俺なんだと喚き、語尾は聞くに堪えないような絶叫に変わって長い間引き裂くように続いた。木山は松明を振って炎を消し、まだ赤々としている先端で軽く岩を叩いたあと、おもむろにそれを瀬尾の脇腹に押し付けた。
 全てが終わった後、瀬尾は胎児のように岩の上で身体を丸めていた。駆け寄ろうとした私の腕を木山が掴んだ。
 先生。俺、よく仕事してるよな。木山は幼虫のように丸々膨れた唇を常に薄く開いた状態で、舌と歯で喋ったから、声は舌足らずに響いた。俺、反抗も文句もなしによくやってるよ。本当まるで俺じゃないみたいだよな。教室の俺じゃなくてあんたに都合がいい別の誰かみたいだ、そう思うだろ。
 私は木山の腕を振り払った。瀬尾の傍らに着くまでの数歩はいやに長く感じた。足が縺れた。
 そこに転がっている何かは、熟れすぎた果実の混交を想起させた。黄色く艶々と膨れ上がった水疱が大小散らばり、傷の中心は皮が裂けて赤い肉と白い脂の筋が露出していた。血が薄黄色の粘度を持った液に包まれ、油のように浮きながら、ゆっくりと身体の下に円を作りつつあった。
 すまない、と勝手に声が漏れた。謝るのは卑怯だと、あれほど思ったのに私はまた繰り返す。瀬尾は濁った薄目を開けて私を見、唇を湿し、もういいんですと掠れた声で言った。
 全部先生が起こしたことだった。分かってた。船の転覆も、その後皆おかしくなっていったのも、先生のせいで起きたから。だから止めてもらおうと思って色々、渡したりしたけど、悪くなっていくばかりだった。
 私は首を横に振る。何の否定がしたいのか、自分でもわかっていなかった。瀬尾の眼が瞑りかける。ここで眠らせたらもう目を覚まさないかもしれない、という予感が私を喋らせる。例え話として聞いてくれればいい。鏡の向こうの世界があるんだ。そして鏡の向こうの私もいる。
 瀬尾は口元だけで薄く笑った。鏡の向こうの俺もいるんだ、そうでしょ。それで、俺はそいつの身代わりなんだな。
 私は最後にもう一度謝った。瀬尾はもう目を瞑っていた。そのまま口だけ小さく動かす。先生は、先生の中の良心ですよ、多分。正直全然頼りないけど、でも、あんたを責めても仕方がないから、もういい。
 瀬尾が喋らなくなってから、口元に手をかざすとまだ呼気が当たるのを確かめて、私はよろめき立ち上がる。あばら家の近く、崖の下まで夢遊病の足取りで歩いた。唯一の人間が作った建造物の名残であり、唯一の人間の痕跡を、私は岩陰に纏めて隠していた。
 錆びてオレンジ色になった鋸を持ち上げると、下からフナ虫が二匹、洞窟の壁の方へと大急ぎで逃げて行った。
 自分が何をしようとしているのかはっきりとした確証は無かったが、それでも歩いた。自分には何も分からずとも、どこかにいる片割れには全てが鮮明に見渡せているのだろう。私は自分の思考がそれに倣っていることを祈った。
 岩棚が見えたところで私は足を止める。夕暮れだった。円を描くように並んだ小さな影法師が、逆光で顔の造りも見えないのにこっちを向いていることだけは分かった。彼らは私を待っていた。
 私は儀式を完遂させなければならないのだと思った。せめて自分の手を血で汚さなければならない。影は小さく下がって道を開け、私は舞台に上った。舞台の上は様々な色と濃度と粘度の体液で彩られ、中心に瀬尾が眠っていた。
 影の一人が私に椀を差し出す。間近に来たのにどういうわけか、まだ逆光で顔だけ真っ暗の影のまま見えなかった。受け取った椀は予想より重く、中にどろりとした何かが溜まっている。
 これは、と訊いた。チョコレートですよ、と影は親切にも答えた。夕日を照り返すその黒い液は泥にしか見えず、泥の匂いがする。イッパカラトルです、と影は付け加える。古代アステカの、まで喋ったところで首を振って黙らせた。なぜだかその知識はあった。つまり、私の片割れが持つ暗い知識のコレクションの一部なのだろう。
 血で割ったチョコレートは、古代アステカにおいて生贄の飲み物だった。生贄は四人の乙女をあてがわれ、犠牲となるその日まで傷一つ負わず過ごした。つまりそういうことなのだろうと思った。私が生贄となって消えれば、後にはなにが残るのだろうと思う。こんな私でも、最後に瀬尾に良心と呼ばれた。それがこの程度だとしたら、欠片のような私さえ消えてしまえばあとはどうなるのだろうと思う。私は鋸の柄を握り直し、椀をその場に置いて、一歩舞台に進み出る。
 鋸の先は腐食して磨り減り、剣のように尖っていた。その切っ先を親指で撫で、それから瀬尾の白い首に当てた。引くというよりも突き刺す格好の方がよさそうだと思った。その方が素早く、苦しめずに済むだろう。肉に切っ先が軽く引っ掛かっても瀬尾の眼は閉じたまま、震えもしない。私は少しずつ力を込めていく。岩棚に落ちた生徒たちの影が同じ調子で伸びあがっては縮み、揺らいでいる。何か薄い皮が弾ける感覚が、手に伝わった。私は同じ密度で力を籠め続けた。筋肉繊維の弾力と抵抗感が、ふつふつと千切れていくのが見えるようだった。そして、決定的な軽さの中に刃先が食い込んだ。刃と肉の間に赤が膨れ上がるのと、瀬尾の喉が息を吸い込んで笛のように鳴るのと、私が背後に顔を上げるのが同時だった。捉えた、と思った瞬間私は喘いだ。
 岩場の外の草叢に、羽住が立って、こちらを凝視していた。
 羽住は自分で自分の首を絞めるように、右手を掛けていた。親指はちょうど瀬尾の傷と同じ辺りに食い込んでいた。私の方にゆっくり目を上げる。私は鋸の柄を握り直し、羽住と正対した。瀬尾の首から流れた血が、靴底を濡らす感覚があった。
 羽住はその血を見て喉を鳴らしたあとで、顔を上げる。自分はこうなりたかったのだと思った。鋸を振るう力を持ち、それでいて自分を見失わないようになりたかったのだと思って右手から力が抜け、だらりと垂れた。自分はこうなりたくて、しかし結局彼にはなれないまま、ここで終わるのだと思った。草を踏み、舞台の方へ歩く。ドッペルゲンガーに会った人間は死ぬという話をなぜか今、思い出していた。
 私は何が正解か考えた。羽住は向かい合って立つと、ただの途方に暮れた中年の男にしか見えなかった。洗面所で顔を上げ、自分の顔を見て、酷くやつれて見えるなと思うような、そんな感慨しか起こらなかった。目を瞑る。私がなのか羽住がなのかはもう分からない。ただ、暗闇の中にいた。ぬるい風が渡って波の音と草の音が混じって闇を騒めかせた。私は息を吐き、吸い、そして振り下ろした鋸の刃先が思い切り石を噛んで手の平が痺れるような衝撃があった。
 羽住は茫然としていた。瀬尾の喉から鋸が生えていた。目の前で男が微かに震える息を吐き、目を開く。彼が手を放しても鋸はまだ、垂直に立っていた。
 なぜ、と思った。羽住と同じ顔をした男は、羽住と同じく途方に暮れたようで、しかし薄く笑っていた。羽住がずっと昔に忘れた自然な微笑だった。
 迷ったけど、と彼は言った。迷ったけれど、でも、私は結局私だ。正しい行いが何なのかは分からないが、自分を救うべきだと思った。他人を救うよりもまず、自分を救ってやるべきだと思った。
 なら全部終わりにしてくれ、と羽住は食いしばった歯の間から漏らすように言った。もう疲れた。ここから先がまだ続いたとしても、苦しいだけだ。ここで終わらせてくれ。
 悪かった、と静かな声が答えた。ずっと全部背負わせてしまった。羽住は茫然としてその声を聴いていた。
 私は息を吸う。私が代わろう、と言った。私が君の代わりに表に出るよ。羽住は間の抜けた顔で私を見つめていて、私は奇妙に笑いたいような気がした。迷子の子供みたいな男だと思った。瞬間、声に笑いが滲んでしまう。だってどうせ、君じゃ買った鋸も満足に使えないだろう。
 君だけは私を肯定してくれ、と思った。そう言う代わりに、私は、何があっても君の味方だと口にする。唯一の自陣にしては頼りないが、それでも私は私だった。私は私を認めてやらなくてはならない。最後の最後に、自分の良心に他者を殺させた、自分のことを許してやらなければならない。彼にとっては世界全てが敵だ。
 羽住は黙って私を見つめたあと、口を開き
「なら私は、何をすれば」
 言った。何をすれば、か。私は手で周囲をぐるりと示して見せる。いつの間にか、私たちを囲むように子供たちは皆倒れていて、しかし首を無理やり捻じ曲げたようにみなうつ伏せなので顔は見えない。
 ここには誰もいない。誰もいなくなった。が、まあ、海はあって、崖もあって、果物は生るし魚も獲れる。
 君が創った場所だ、とこれだけ声には出さず思う。それから相変わらず途方に暮れたような自分に苦笑してみせた。
 まあ、ちょっと変わったバカンスみたいなものだ、楽しめばいい。


さわらび136へ戻る
さわらびへ戻る
戻る