吾がマンゴーフライドチップス

スニラ


 
友情の話をしよう。
亀の名前は光万生。母が名付けたが、名に過度な期待が込められていて恥ずかしいと言い、兎には光と呼ばせている。
兎は、名付けられた通りに万年生きているのだから、別に恥ずかしがるところがあるものかと思ったが、望まれたように光と呼ぶ。確かに自分が「光・万・生」と、一文字一文字に後光がさすようなのばかり並べられて、一生それを名とせよと命じられたら、少しばかり嫌だ。 
なれど兎は名をすみれと言うが、亀が「すっちゃん」と呼ぶ方がもっと嫌だと思った。
だから、時おり「光万生」と呼んで含み笑いをする。亀は意地悪だと言うが、兎にとってそれも含めてじゃれ合いの一つである。
 
 亀は万年生きている。
 真鯉が出迎えるマゴイ池の淵を辿って、山壁にぶつかったらそこが家。よく目を凝らせば茶色い竹造りの門構え。兎は中に入っていく。
 洞穴平屋の2LDK、亀の書籍コレクションが壁の棚に所狭しと並んでいる。万年分の書物の中には、兎の母の母の母の母の母の母すら生まれていない時代の書物も埋もれている。それを亀は、何度も何度も読み返し終えている。
「それはね、サクラダ谷の鶴にもらった図鑑だよ」
 亀は豆の炒ったのを砕いて、お湯と合わせて出汁を濾し出したクァーフェイをミハジキ草の器に入れた。香ばしい匂いが立ち込めるが、騙されてはいけない。クァーフェイは熱冷ましの薬湯よりずっと苦い!
 兎はマゴイ池の冷えた水をもらって、亀に図鑑を読んでもらう。
 亀は愛おしそうにページをめくり、兎に思い出話をする。
 兎は年輪のように渦を巻いて、苔むした岩のように硬い亀の甲羅を心ともなく撫でながら、亀の話と、亀と自身の間にある距離を考えた。
 遠い場所に行くとき、兎は走る。柔軟な筋肉と絹の繊細さと羽毛の軽さでできた骨を自在に動かして、体が完全に宙に浮く瞬間瞬間に自分がどこにでも行けると確信を強くする。
 遠い友に会う時、兎は走る。兎にはこう見える。まず輪郭の曖昧になった木は林となり森となり、三次元構造で存在していたはずの世界は、記憶で補完された森の形に網膜への波が混線してできた何色とも取れないマーブルで色付けされる。友への想いが募る時、空間はキリキリと先を細め、円柱状に尖る。体はその円柱の内側にあり、円柱からはみ出した額の毛を時間が切って彼方へ飛ばす。いつか空間の内外が逆転し、自らの胸元に突き刺さり絶命するイメージが、体を置いていくほどの加速にブレーキをかけさせる。しかし兎は止まらない。心臓だけが時を刻む中、知覚できるのは眩しさ。その時兎は過去であり、現在に身を宿しながら、未来まで時を置いてくる。
つまり、死ぬ手前の力を出し切ってめちゃくちゃ走る。
 回る視界で滝の汗を流しながら、どれだけ長い距離の間をどれだけ短い時間で縮めたのか、それが兎にとっての愛情の指標であり、信頼の証明であり、身に染み付いた善である。
しかし、二匹の間にある途方もない歴史には、どれだけ兎が若く速くとも追いつけない。
 傍目から見ても、兎と亀が馴染みの友人同士であること容易に分かる。そして、兎と亀各々が自身らを馴染みの友人同士だと認めていることも確かである。
 野いちごを渡せば、たんぽぽがもらえるように、自身の逞しい肉体やまっすぐな好意をまっすぐ渡せば、等価の安心と信頼が得られる。これまでしてきたように、亀に対して、常に兎はそうあった。
《なるべく早く 生き急げ
まっすぐ正しく 伝え死ね》
羽佐家、家訓。家の一番浅い層の部屋に、ひいの何十乗だかの先祖が伝えた文言を板に木彫りした家訓が掲げてある。祖母が説く生き方は、増改築によって地下十階にまで部屋が作られたこの家の隅々に行き渡っている。祖母が死ねば、母が受け継ぐ。代々伝え死んでいく。兎もまた、受け継ぎ、伝え、死ぬことを、求められている。
 兎が家訓に従っても、やはり亀には追いつけない。
 それは兎にとって初めてのことだった。初めての、友だった。
「サクラダ谷には野いちごはある?」
「野いちごはあるけれど、ここらのと違って味がしない」
「全く?」
「唾液味」
「変なの」
 兎の知らないことを、亀はたくさん知っている。だから兎は亀と過ごすのが好きだった。兎の知っていることを、亀は当然知っていて、懐かしむように兎の話にゆっくり頷き、たまに「僕の時代はね」を枕詞に話をし始める。
 兎はそういう時、疑いようのない亀との関係に疑いの目を向ける。兎がその後ろ足と、沸き立つエネルギーを渡したお返しに、亀も悠久の時の一部と、親しみを込めた笑みと興味深い話を渡してくれる。
それは確かに等価であると、フクロウの天秤屋さんで計ってもらわなくたって兎は理解している。けれども手元に残った日々が、寂しさを纏うのはなぜだろう。
だけどまた、遠すぎて分からなかった。亀は、そんなに遠くをのっしのっし歩いているのか。距離など測ったことがない。天秤屋さんで切り揃えられた樫の木を買って並べる暇があれば、走ればいい。いつだって追いついたなら喜びが寂しさを上書きするのだから。
追いつけさえすれば。もっと速く走れさえすれば。
遡って永遠に亀の一番近くに居れるはずだと思った。

「サクラダ谷の鶴は、私にクァーフェイを教えてくれた最高の友さ」
 亀はコップの底を天井に向けて、クァーフェイを飲み切った。喉がゴキュリ、と鳴る。兎は首が長いな、と思った。
「最高の友なのに会わないんだね」
 兎はふわふわの白い毛に埋もれた自分の喉元に触れながら言った。唾を飲み込むと毛が手のひらの薄いところに当たってこそばゆい。
 
亀がこの森の中から外に出ているところを、兎は出会ってから一度も見ていない。
「まぁ、そう言うものだよ」
「そうかな。私だったら会いたくなったらすぐに会いにいくよ?」
「元気にしてるかな、くらいには思うさ。機会がなければ、会わないね。亀はそう言うものだ。」
「じゃあその鶴の顔、忘れちゃうね」
 亀は微笑を浮かべた。亀の目にはサクラダ谷の鶴が映る。鶴は良き友である。川の石をさらって一日中綺麗なのとそうでないのを分けたり、爆竹を崖の上から谷底に投げ入れて、反響する音を目覚ましにしたコウモリが真っ黒な筋になって飛び出していくのを笑ったりして互いに楽しんだ仲だった。
 そんな鶴も、今や父となり家族のためにミミズを啄んでいる。言うまでもなく家族の中に亀はいない。
「ヤツはクァーフェイを羽に溢した染みが、ずっと消えていないんだ。だからすぐ分かる」
 亀はパリパリと音を立てながらコップを食べ始めた。ミハジキ草は無味無臭であるから、クァーフェイの苦味と酸味が染み付いたくらいがちょうどいい。クァーフェイはこの旨い草のおまけだ。
 図鑑のクァーフェイ豆のページが開かれ、鶴がそのページを編集したと兎は知る。草稿に添えられた鶴の絵が壊滅的な仕上がりだったことも合わせて知ったが、図鑑の上での豆の生育を描いた絵は上手だった。まるで写真のよう。しかしその時代に写真機は無かったんだ、と亀は説明する。絵は偶然居合わせたヒヨドリに任せたらしい。
「描き終える頃にはそれは鮮やかで、ヒヨドリとは思えなかったね」
 水に浸した花を踏み締め、乱れた羽を色に染め続ける灰の鳥の様子を思い浮かべる。内羽や尾羽も湿って薄い花の色で透けている。亀が俗な意味合いを言葉尻含ませたのを、兎は聞き逃さなかった。それ自体は、別に嫌ではない。
モカマンチャロ、ニャテマラ、マロンビア......クァーフェイ豆は種類が多い。兎がどの豆を使ったら亀にとって目印になる染みになるのかと思う一方で、性的な美しさを感受する感性を持っているのを知り、美しく着飾る自分に微かな期待を抱く。兎の白い毛にもクァーフェイは染み付いてどんなに洗っても取れないだろうし、柔らかい毛は色鮮やかな花の色を誰よりも美しく表せるだろう。鶴よりも、ヒヨドリよりも。兎は兎というだけで空に浮かぶ雲のような柔らかで白い毛を持っている。だから敵も多いのだ。鶴よりも、ヒヨドリよりも。
兎は決して敵の多さなど誇りはしないが、自身の価値に何も気づかないほど純真ではとうの昔に死んでいる。
兎の心の内側に、身の丈に合わない希望が灯る。
亀の隣は案外近いのかもしれない。兎はほんの少し亀に近寄れるように座り直した。

亀は冒険家である。
部屋の壁やガラクタの並ぶ棚にたくさんの写真が並ぶ。どのフォトフレームの中にも、兎の知った者はいない。黄ばんだそれは、長らく新しいものが増えていない。記録することに熱を上げていたのは、もう過去のことである。冒険譚を語るうちに亀は自身さえももう、遺物であると気づいたのだ。
「もう私も老いぼれだから。すっちゃんが羨ましいよ」
「今からどこにでも行ってなんでもできる。いいねぇ」
兎はそう言われても、しっくりこない。できることと、やれることは違う。ベリー飢饉の時に新たな定住先を見つけに旅に出た先祖のようにできないし、一歳しか離れていない従姉妹のように若草資格を取ってやりがいのある仕事に就ける訳でもない。嫌気が差すくらいに勇気も才能もないことを亀は分かってくれない。亀は亀の内側に作り出された兎を、目の前の兎に投影して買い被っているのだと思う。
「私を追い越す日が楽しみだね」
 違うよと言えば、それも聞かずにそんなふうに言い返すことを知っている。
 ならいつか追い越すことで走る以外の価値を渡せるのなら挑戦したっていい。アライグマの服屋さんで新しい運動靴を買って、毎日朝日より早くに起きて走りこみ。帰ったら、スケジュールを立てなきゃ。
だって並ぶ写真に兎の知らぬ者たちが映るのがほんのり悲しい。兎は写真の一枚一枚を確かめながら部屋の中を回る。すると、他の比べれば色合いの鮮明な一枚の写真に兎と亀が写っているのを見つける。兎は尋ねた。
「いやいや、それは! その昔すっちゃんのひいひいひいひいおばあちゃんとかけっこ競争をした時の写真だよ。いやー懐かしいね。」
 六世代前の祖母というその兎は、悔しそうな表情で亀と肩を組んでいた。まさか、と思い兎はさらに尋ねる。
「そう、私が勝ったのさ」
 亀が誇らしげに兎と亀のかけっこ勝負の顛末を語る。
「君のおばあちゃんはいい子だったんだよ」
「女の子だけど負けん気が強くて格好がいい子だった」
 その昔、亀は速さこそないが、走りの持久力だけは自慢だったらしい。先祖はそれに勝手に自分のプライドを燃やした。速さの兎と耐えの亀。娯楽のない森の中、特に兎の一族の盛り上がりは向かいの山にも伝わった。二匹の戦いがその日限りの祭りと化して、たぬきの夫婦の懐が温まった。
 見物客の半分が単に祭りを楽しみ、残り半分が互いの世間話に興味が移していたとしても、二匹は相手に勝つというだけの名誉のために走り続けたという。
 兎と亀は最高の友達。
「男の子と喧嘩して泣かすこともあったんだよ。彼女は」
「それが何年かぶりにあったらすっかりお母さんになっちゃっててねぇ、いやーびっくりだったね」
「子供が六匹! ベッドの上でもしっかり泣かせてたんだろうね」
亀がガハハと笑う。勢いで唾が飛ぶ。兎は非常に大きなため息をついた。
「それ、セクハラだよ」

 兎は家に帰ってからアルバムを開く。両手でようやく持てるぐらいに分厚いアルバムをめくると、次第に写真が多くなってくる。兎は写真の横に残された思い出の記録を指でなぞりながら読み、歴史の教科書を読む時と同じ非現実を感じていた。
 数十ページ目で見覚えのある兎を見つける。例のひいひいひいひいおばあちゃんは、まだかろうじて亀の家の本を収めきれている本棚を背に、亀と、友人らしい狸やまだら兎と肩寄せている。グラスをカメラに突き出すようにしながら目が潰れるくらいに細めて笑う兎に様子から、その性格がなんとなしに感じ取れた。
 だからなんだと言い退ける兎に対して、ひいひいひいひいおばあちゃんの立場に、もしなれたなら亀の特別な所に記憶してもらえたかもしれないと訴える自分が大きくなっている。兎は家訓を反芻して、自分の口を塞ぐ。
早く、正しく。早く、正しく。早く、正しく。
 早く正しくあることが、正しいことで、正しさは心の中に宿っている。兎としてどうあるべきか、亀と兎はどうなるか、正しさは答えを既に出している。早く捨ててしまいなさい。祖母の声で再生されるその言葉。間違いは正しなさい。あるべき姿でありなさい。

 マンゴーの国は楽園と呼ばれる。
 その国の暖かな気候は生き物をのびのびと育たせる。それは生き物も例外ではなく、開放的な社会を形成している。マンゴーと呼ばれる果物は、トパーズのような輝きととろける甘さを持つという。亀はそのように語りながら棚の奥から手のひらに収まる大きさの木箱を持ち出した。押し込められた真綿の中央に、濃い蜂蜜を固めたような石がある。
これが、トパーズ。兎の頭に楽園が浮かぶ。冬の眠気にうんざりすることもなく、味のない枯れ草を齧るひもじさもない。それに、どんな生き物とも添い遂げられる夢の国。
「どんな生き物とも、って兎同士じゃなくても?」
「どんな生き物とも、よその生まれでも。さすが楽園」
 亀は遠くを見る。かつての旅を思い出していた。
「でも好き同士だったら番になるって、そんなの難しいよ」
「だって、好き同士じゃないといけないんでしょう」
兎は亀の目線の先を見た。知っている壁色と、知らない思い出が見えた。
「そうかな」
「そうじゃないの?」
「いや、難しいことかな、と」
「好かれてるかって、分からないでしょ。しかも違う生き物だったら余計」
「あんまり気にしなくってもいいと思うけどなあ。君がただ、好くだけでいいんだよ。案外難しいことを考えなくても、好きになれるし、好きも分かるよ」
「むずかし」
 随分と春めいてきていた。ミハジキ草のコップ同士の距離は未だ適当な距離がある。
 兎は机の上に置かれた木箱を手に取り、その中で輝く石の中を覗き込む。そこにはマンゴーの国がある。常夏の大地に踊りを生業とするような暮らし。兎と亀は太陽の光を差し込む大きな窓付きのログハウスを建てて、末長く幸せに暮らしましたとさ。

「行ってみたいなぁ」
兎がポツリと言うのを、亀は聞き逃さなかった。
「一緒に行ってみるかい?」
 驚きで亀の顔を改めて凝視した時、こんなにも少年のような顔立ちだったかという感想を抱く。亀は自分の発した疑問符を無視して旅に必要なものを並べ始める。
「いや、でも、ここを離れたら怒られるから」
「ご両親には私から説明するよ。」
「いや、それでも、春には主催の若草集めもあるし」
「私とは行きたくない?」
「違う、そういうことじゃないよ」
「じゃあ、行きたくなったらね。キツイ香水とマタタビと魚の発酵させたヤツを忘れたらいけないよ。」
まずい。間違えた。
「待って、光さんはマンゴーの国に行っちゃうの?」
そんな質問をしなくても。いつの間にか席を立っていて、部屋の隅で眠る探検セットに手を掛けていることから無意味であるのは分かっている。そんなの分かってる。
亀がカビ臭いナップザックの埃を叩くと、一瞬その姿が見えなくなった。モヤの中で声だけが聞こえる。
「ここは居心地が良くてね」
 待って、待って。
「行かないで、行かなくていいよ。光さん」
「一週間後ね、一緒に来たくなったらまたうちにおいで」
 兎は後脚で思い切り地面を蹴って、一飛びで亀に抱きついた。
「光さんがいなくなったら寂しいよ」
 兎は抱きしめる腕に力を込めた。
「旅の話していようよ、ずっとこの森にいてもいいよ。もう、若くないしさ、行かない方がいいと思う」
 兎の頭の毛に亀のガサガサした指が通る。それは駄々をこねる娘を宥める父親のようでもあり、恋人のようでもあった。しかし彼らはただの友人だった。
「ここに長く居すぎたからね」
「私は行くよ」

 
 一年が経った。
一年の間に、兎は祖母が決めた相手と番になることが決まった。結婚式の日に初めて目が合った赤い目が怖かったけれど、自然を愛し、植物に詳しい彼と過ごすのに不満は感じなかった。会話の際には、亀に教えてもらったことが役に立つ。兎は知らない土地の植物の話を聞いて、亀の言っていたことを思い出し、亀と一緒に旅をした。
家は新しいものを作った。夫が張り切ったので、一世代だけで住むには広すぎるくらいの立派な家に住むことになった。母が初めて家に来た時、「素敵な旦那をゲットできてよかったじゃない」と耳打ちされた。兎は母の言い方には引っかかったが、確かに、そうだと思った。夫は自分よりも足が速かったし、自分のために駆ける姿は自分が与える愛情よりもはるかに大きな質量を持っていた。それが少し、いたたまれない気持ちにさせるけれど、私はマンゴーの国には行けなかったのだから、しょうがないと言い聞かせた。
 光さんは私に選ばせた。私は選ばなかった。
 亀が旅立つ日、兎はのろのろと歩いて亀の家に赴いた。そして、息遣いはそのままに、主人の姿だけがない部屋に安心した。運が無かった、機会が無かった、運命じゃなかった。言い訳がすぐに思いつく自分の平凡さが誇らしく思えるほどに、人生は順調である。
 十数個の部屋の中に、鹿の家具屋からはるばる取り寄せたこだわりの家具が入った。夫一番のこだわりはベッド。どんなに激しく動いたとしても数十年軋みも歪みもなく使えると店主に言われたという。おもちゃを自慢げに見せびらかす子供のように見えて、初めて可愛いと思った。兎にとって、本当に好きだと心の底から思える相手は、夫ではないと思っていた。しかし思うまい、と思っていても、簡単なことで絆される。可愛いと思ったその日から、案外愛せそうな気がしていた。自分が思うより勝手に大人になっていく思考に、子離れの寂しさを覚える。まだ、子の親になんてなりたくないのに。
「早く孫の顔を見せなさい」
 母がそのように口を酸っぱくして言うのは、きっと祖母に怒られるから。兎は母になることだけはまだ、拒んでいた。兎の中に少しばかり残った反抗心と灯ったままの希望の光を捨てきれていなかったから、一年の間夫の自慢のベッドの頑丈さを証明できるような行為は致していない。夫はそれを察しているのか、強要することもなくただ手を繋いで眠った。決して兎のことを怒ることはなかった。
 二年が経とうとしていた。
 光さんは帰ってはこなかった。 
星が降る夜に、夫にプロポーズをされた。番の儀式は当然既に行なっていたから、愛を確かめ合うために若い恋人たちが行う遊びのような儀式は本来必要なかった。しかし兎はとうとうそれに応えた。諦めでもあり、愛着の湧いた相棒への義理でもあった。毎日の生活で与えられた安心と信頼のツケを払うのに、その夜はあまりにも適していた。
 それはそれは、綺麗な夜である。星明かりを頼りに、暗闇を二匹は手を繋いで進む。小高い丘に出る。輝く星は幸福の象徴。手の届かないはずの幸福も、その夜ばかりは手が届く。夫は静かに兎の肩を抱き、兎はその赤い目に映る星を見て、空を見上げた。美しい景色を見て、声や顔をぼんやりとしか思い出せないのに亀のことを想うのが抜けない癖になっていた。
「僕たちは家を構えているけどさ、すみれちゃんと一緒に旅行に行きたいんだ」
暗黙の了解で形作られたいつもの会話とは違う切り口。真剣な声色に兎は、家を出て季節が変わる瞬間を感じるのと同じ感覚になる。ひまわりがうなだれる、夏の夜である。
「どこにでも行ってさ、興味あることなんでもやってみようよ」
「僕、すみれちゃんと一緒にいられたらいいなって、思うようになったんだ。子供とか、ご両親とか、気にしないで欲しくて、それで、幸せになってくれたらって思うんだ」
「好きだよ、すみれちゃん。これからもずっと一緒にいて欲しい」
 申し訳なさしか感じなかった真っ直ぐな好意に、初めてありがとうと言いたくなった。あまりにロマンチックな状況をおかしく思いながら、長い留守番にピリオドが付けられたその瞬間の呆気なさに調子が狂う。与えられたものが思っていたより美しくて、自身と不釣り合いな目の前の幸福に思わず視界が霞む。
 夫は何も言わずに胸の中に埋めてくれて、涙が零れ落ちないように強く抱きしめてもくれた。星が落ちきって家に帰るまでの間、二匹はしっかり手を結んで、いつもの通りベッドに入った。

 兎が妊娠して十日経った頃、亀はようやく帰ってきた。兎が最後に出会った姿と何一つ変わりなく、お土産を持って、つい昨日会ったかのように兎の前に現れた。
兎がやや大きくなった腹をさすると今足がついている場所が現在だと確認できた。亀は宣言通り、マンゴーの国を目的地に旅したと言う。兎はかつてのように亀の横で旅の話を聞きながら、かつての自分に戻ったような気持ちになりかける度に腹の命の違和感で引き戻されるのを繰り返した。放置された亀の家のソファは酷くカビ臭い。しかし兎は白い毛並みをいつも以上に念入りにブラッシングして、ふわふわの扇情的な毛並みを作り上げた。夫には内緒で訪れたことに後ろめたく思う心に蓋をして、無邪気を装った。
「これはお土産」
兎の手にジッパー付きの極彩色の袋が押しつけられる。黄色い丸に両目手足がついたキャラクターが異国の文字で何かを訴えている。
「マンゴー、を、薄く切って揚げたやつ。本当は生を食べさせてあげたかったけど、腐っちゃうからね。残念だけど」
異国の文字の成分表示の上に、読める文字列が印字されたシールが貼り付けられている。商品名、マンゴーフライドチップス。百グラムあたりのカロリーは五百カロリー近くあった。

「ごめんね、一緒に行かなくて」
 亀の顔を見ることができない。兎の瞳は成分表のカルシウムの部分に落ちていた。
「いいや、謝ることじゃないよ」
「すっちゃんは、私がいない間どうしてた?」
 亀の問いに、兎は花瓶を割ったときのような気持ちで吐露する。結婚したこと、妊娠したこと。夫がどういう兎であるかは伏せた。どんな家に住んでいるかも秘密にした。
「良い相手に出会えたんだね」
「まぁ、良いと言えば良い相手かもね」
 そっか。亀は考え込むようにして押し黙る。静けさが広がる。マンゴーフライドチップスの袋を揉んで無理に音を作っても、余計に居心地が悪くなるだけだった。マンゴーのキャラクターだけが陽気に笑い、踊る。
「すっちゃんと過ごすのは、私にとってすごく楽しい時間だったんだ」
 沈黙を断つのは過去の時間だ。なんて、続きの聞きたくない言葉の羅列。
「私も、楽しかったよ。でも、今も楽しいからね」
 兎は言葉を探した。けれどうまく見つからないまませめて素直に伝わるように言葉に縋った。
「ありがとう。優しくしてくれて。私はねきっとずっと家族が欲しかったんだ。でもこれは、旅をして、自由気ままに生きた私の呪いだね」
 そんな言葉が聞きたいわけじゃない。
「私も、すっちゃんと過ごすのはやっぱり楽しいなと思うよ」
 兎が聞きたいのはいつか見た夢の中のセリフだ。
「......また、前みたいに話そうね?」
「もちろん、私たち友達だから」
「......すっちゃんがちゃんと、恋人を好きになって、その結果子供ができて......って、知って、本当に友達になれたよ」
 無痛の空間で、熱が徐々に下がっていく。兎と亀は笑いあった。まるであの頃と同じように旅の話を続けた。亀の語る思い出に兎は自身の記憶を重ねながら耳を傾けた。追いかけるだけだった旅が、並行に進む時間での出来事であることで、ようやく兎は亀との距離を測りとる。何十枚とある写真の一つ一つに亀は説明をつけて、それを終えたら机の上に置いていく。机の上が彩られる度に兎の彩度は下がり、白黒に成り果てた内心を悟られないよう口角を上げる。

 さようなら。と言う。それは亀が言った。兎がまたね、と返したのは勝手に終わらせた亀への些細な反抗だった。
 まだ、日は昇っている。遅くなると心配させるからと亀は言った。亀にそんな風に心配などされたくなかった。
兎は走る。既に木々の輪郭は曖昧になっていた。今にも目の端から溢れてしまいそうな涙のせいだ。世界や空間など気にしていられない。記憶で補完された一本道をただ走る。
友への想いが募る時、空間はキリキリと先を細め、円柱状に尖る。体はその常に円柱の内側にあり、円柱からはみ出した額の毛を時間が切って彼方へ飛ばす。兎は気づいている。空間の内外の逆転! 自らの胸元に突き刺さった速さのせいで、胸が痛い。心臓が変に脈を打ち、息苦しい。丘の頂上はすぐそこだ。足をなんとか前に進める。兎は止まらない。兎は過去にいた。
なぜ悲しい!
頂上に着くと目を回して座り込んだ。そしてそのまま空を見上げて体を芝に預けた。星降る夜に訪れた丘である。夕闇が空に手をかける前に、兎は鼻先でマンゴーフライドチップスの封を開ける。勢いで中身が飛び出した。鼻腔をつく異質な甘ったるい香りが異国を感じさせる。噛み締めた黄色い楕円は粉々になり、香りが体を満たす。
甘すぎる。やっぱり亀の味覚はセンスがない。
兎は黙々と食べ続けた。亀は苦いクァーフェイが好きで、話始めたら止まらない。亀の語る旅はいつも魅力的で、何よりもその時間が楽しかった。亀は兎の想いなど知りもしないと思っていた。
涙は未経験の甘さで相殺された。兎は考える。頭を振る。すぐに夫の顔を浮かべて、包装紙とその中身を見て、旅行にいくならマンゴーの国にしようと思った。亀と同じ目線で、話をしたくなったから。本物のマンゴーを食べるのだ。生のマンゴー。夫と、一緒に。そして亀の話す魅惑の味について議論しよう。その前に、子供も名前を決めなくちゃ。私が決めなくちゃ。あの人ったら名前の案だけはたくさん出してくるんだから。
兎を呼ぶ声がする。おぉいと離れたところで手を振るのは夫だ。兎は食べかけの入った袋を片手に夫の胸に飛び込んだ。それって最低かもしれないけど、これはケジメになるから。
「名前決めた!」

兎の名前は光万生。三兄弟で光、万、生。
母が名付けたが、名前の由来は教えてもらっていない。三匹は両親と共に訪問する亀の家が好きだった。そして亀が聞かせる旅の話が好きだった。目を瞑ればそこは、大海原! 不気味なジャングル! 常夏の楽園! 母はすっかり旅に憧れるように躾けられた子供たちに微笑みを向ける。それから毎回マゴイ池の前で集合写真を撮る。二枚の写真は、亀と兎の母がそれぞれ受け取って、それぞれの家にある分厚いアルバムに丁寧に保管される。三兄弟が赤ん坊の時からの十数枚にはずっと、決まって同じ言葉が添えられる。
「最高の友人、兎と亀と」


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