春夏秋冬物語ー春の章ー「またね。」 怪鳥 怪鳥 「皆さん、お花見行ったことって、ありますか?」 明るく、透明感のある彼女の声が、室内に響き渡る。何の脈略もなく出された一つの言葉が、部屋の中の静謐な空気を少しだけ緩和させ、皆の時間と、口元を動かし始めた。 「小学生の頃はよく行ってたな」 「私もー。」 中央の机の上で、パソコンを触っている先輩と、退屈しのぎに何かの絵を描いている先輩が、そう答えた。二人答えたのなら、もう大丈夫だろう。発言することをなるべく避けるために、私は、自分の読んでいた本に目を落とす。だが、質問者は、そんな私を見逃してはくれなかった。 「まこと先輩は、どうなんですか?」 「私は......」 本から目を離さずに、その質問に答える。 「家の近くに大きな公園があったので、高校生の頃までは、毎年、そこで、家族と、花見を、してました」 「家の近くにそんな所あったの?いいなぁ」 羨ましそうに、絵を描いていた先輩が、ちらりと私の方を向く。そこで、一つの会話が、一応の終息を迎えた。 立花もも。一つ年下の私の同期は、いつも、このようにして、場の空気を和ませる。彼女は、私たちにとって居心地の良い空気の作り方を、無意識に心得ているようだった。おそらく本人は全く意識していないであろうが、場を和ませるという仕事は、茶色っ毛のショートヘアを持ち、春色のワンピースを着る彼女には、ピッタリの仕事であるかのように思える。 少し和やかになった空気を一通り堪能した後、読んでいた本を、なるべく音を立てないよう、そっと鞄の中にしまい、帰宅の準備を始める。現在十六時五十分。今、出れば、十七時のバスには、十分に間に合う時間だ。 「私、そろそろ帰ります。お疲れ様です」 「あ、じゃあ、わたしも」 私が帰るタイミングを見計らっていたのか、はたまた帰る時間が偶然私と重なっていたのか。どちらかは分からないが、彼女は、机の上に出していた自分の荷物を急いでバッグの中へと詰め込み、私と一緒に、ブラウンのスニーカーシューズを履いた。「おつかれー」という別れの挨拶の言葉を背中越しに聞きながら、私たちは揃って、文藝部の部室を後にした。 私たちの部室は、部室棟の最上階である三階、その階段から最も遠い場所に位置している。そのため、部室を出ても、部室棟の外に出るまでには、少し時間がかかる。全く覚えられそうな気配のない、他の部の部室たちを眺めながら、彼女よりも少し遅れて階段の方へと向かう。 「そういえば、さっきの話の続きなんですけど、私、実は行ったことないんですよね」 さっきの話というのは、きっと花見についての話だろう。私の中では先輩の返事で完結したと思っていた話だが、彼女の中では、途中で途切れてしまった話としてまだ残っていたようだ。 「一度も、ないの?」 「はい」 「誰かに連れて行ってもらったことも?」 「わたしの両親、共働きで、全員同じ日に休みっていうことが中々なくて、連れて行ってもらう機会がなかったんです」 「そう、なんだ」 プライベートなことを聞きすぎてしまっただろうか。一瞬、氷が当てられたかのように、階段を下りる時の自分の足を動かすことが苦になる。だが、そんな苦しみは、彼女の、バッグを縦に動かしながら下りる動作を見て、ふっと消えていった。私より一足先に踊り場についた彼女は、「あ、そうだ」と、何かひらめいた素振りを見せながら、階段の三分の二を下り終わった私の方へと振り向いた。 「まこと先輩、よかったら、明日、私と一緒にお花見、行きませんか?」 「え?」 残りの三分の一を下りようとしていた私の足が、一瞬にして止まる。あまりにも急な提案に、自分の足を止めざるを得なかった。 「な、なんで?いきなり......」 「だって、私、お花見一度も行ったことないんですよ。十九年も生きてるのに......。やっぱり日本人として、行っておかないといけないと思うんですよ、お花見」 「別に、日本人だから行かなきゃっていうのはないと思うけど......。っていうか、四月の下旬に桜が咲いてるところなんてほとんどないんじゃない?」 「と、思うじゃないですか。実は、大学の裏手の山に、開花時期が普通よりも遅いからって、この時期に咲いてる桜があるらしいんですよ」 私たちの大学の裏手には、登山部の人でも少し上りきるのに苦労するような、標高の高い山がある。その山は麓でも、他の所よりかは標高が高いため、そこに生えてある桜が、遅れて咲くというのは、確かにあり得る話だ。しかしながら、一年早く、通い始め、一年多く大学で生活している私の知らないような情報を、彼女は、一体、どこから仕入れてきたのであろうか。彼女の情報網の広さと、情報収集能力には、脱帽するしかない。 「お花見、一緒に行きませんか?あ、それとも、もう既に別の予定、入っちゃってましたか?」 特に、何の用事も入ってないし、断る理由も何も思いつかない。 「......いいよ、別に」 「え?」 「あ、特に予定とかもないから、行ってもいいよお花見」 「え!本当ですか?」 「立花さんが私でいいのなら」 「もちろんです!」 私の返事に、彼女は満面の笑みで返してくる。どれだけ疑心暗鬼な人でも、どれだけ人間不信であっても、絶対に信じてしまうであろう、心の底からの微笑み。だが、その微笑みは、私に一瞬見せた後すぐに、また自分のバッグを揺らしながら、階段を降り始めてしまったため、長い間、見ることは出来なかった。 「ただいま。」と言っても、誰の返事も返ってくることのない、暗闇の部屋に、自分の靴を玄関にそろえて置いて入り、慣れた手つきで、電灯のスイッチを「入」の方向に倒す。明かりがついたことで目に飛び込んできた今の家の景色は、テレビや台所など、生活上必要最低限の物が置かれた、よく見られるような家の景色だった。個性的なものといえば、テレビの向かい側に置いてある、数冊、本が入れられた、黒色の本棚だろうか。 荷物をおいた私は、今日、大学に持って行っていた、三百頁前後の単行本を、棚の下段の右から六つ目の場所へと戻した。表紙に春、夏、秋、冬の日本の四つの季節を表す絵が描かれた本。春を表す部分には、少し白い色が混ぜられた淡いパステルピンクの桜の花びらが一枚、描かれている。 桜、か......。紙面の上に描かれた桜の花びらを見て、自分が大学生になって以来、一年間、一度も、現実の桜を見ていないことを思い出す。いや、実際には、見ているはずだ。お花見には行っていなくとも、通学までの道にはいくつか咲いているはずだし、大学構内に入れば、いくらでも桜が咲いている場所はあるはずだ。だが、私は、桜を見たであろうどの記憶も、決して思い出さなかった。だって、皆にとっての桜は美しく、綺麗な、春の風物詩であっても、私にとっての桜は、色のない、淡白で、そして、忘れ去りたいあの子との記憶の一つであるのだから。私の中のパステルピンクの桜は、一年前の三月、私が高校生としていられる最後の日に、全て奪い去られ、ただ、白の花びらと黒い木の幹だけが、ずっと自分の頭の中に残っていた。 * 「『わらしな』っていうんだ、君の苗字」 あの子―千秋とは、高校に入学して間もない、せっかく満開になった桜が、散る準備を始めようとしている時期に出会った。クラスの中で見つけた仲間と過ごし始める休み時間に、教室の自分の席で、一人で過ごしていた私に初めて声をかけてくれたのが、千秋だった。 「珍しい苗字だね」 「そ、そう、ですか?」 「うん。少なくとも、今、会わなかったら、将来会うこともなかったと思う」 「な、なら、良かったです」 「え......?うん、そうだね!」 少しの驚きと、満面の笑みを含んだ顔が、座っている私と同じくらいの高さにあった。 これ以来、私は、千秋と、クラスの仲間として過ごすことが多くなった。休み時間に二人で話すことも多くなったし、昼食も二人で一緒に食べるようになった。体育祭も二人で同じ競技に出場し、学園祭も、千秋に誘ってもらい、二人一緒に回った。 高校二年生になって、クラスが変わり、千秋とは友達として過ごすようになってからは、学校外でも一緒にいる時間が多くなった。一年生の時は、千秋が誘わなければ一緒にいなかった学校行事も、二年生になってからは、どちらから誘うこともなく、自然と二人で楽しむようになっていた。 高校三年生に進級し、そろそろ自分の将来についてを考え始めなければならない時期に、千秋が、私と同じ大学を受験するつもりであることを知った。その事実は、当時の、県外の、第一志望の大学に入れるかどうかなんて全く分からない私にとっての、大きな励みとなった。千秋と一緒に、同じ大学に行ける。千秋と同じ大学で四年間を過ごせる。この事実があるだけで、私は、いくらでも受験勉強を頑張れるような気がした。志望する大学に合格できるような成績ではないのは、千秋も同じことだった。だからこそ、二人で一緒に、来年の春、同じ大学の門をくぐろう。来年の進路を決定する際、私たち二人は互いにそう誓い合った。 絶対に二人一緒に受かる!そう誓言して以来、勉強に専念するために、私たち二人で会う時間は、少しずつ減り、昼休みと、帰る時間以外はめったに会わなくなってしまった。入試直前になり、私が放課後、学校で勉強するようになってからは、一緒に過ごす時間は顕著に減っていった。会う時間が減っていくのとは裏腹に、私の成績がどんどん伸びていったことと、千秋は絶対に合格できるという、今思えばあまりにも不明瞭であった信頼から、私の中の、絶対二人で同じ大学に行くという思いは日に日に強くなっていた。 志望校決定時は、全く足りていなかった自分の学力は、順調に上がり、私は無事、第一志望の大学に合格した。 これで、通える。私が一番行きたいと望んでいた所へ、千秋と一緒に。通える。この時は、そう、思っていた。 自分が合格していたことが分かってすぐに、千秋に「うかったよ!」というメッセージを送る。だが、そのメッセージに対して返ってきたのは、「おめでとう」というたった五文字の言葉だけで、私が考えていたような言葉は返ってこなかった。 私と千秋のトーク画面が動いたのは、あのメッセージを送ってから二週間後、春分の日を過ぎ、近くの桜たちが開花し始めた頃であった。あのメッセージ以降、彼女から何かメッセージが送られてくることも、自分の方から何かを送ることもなかった。 『二人で、近くの公園にお花見に行かない?』 この〝お花見〟が、単純なお花見ではないことを、私はスマホのバナーに出た通知を見た時に、既に察していた。このタイミングで送ってくるのだから、普通のメッセージであるわけがない。だが、私は、『いいよー』という返事だけを送り、その会話を終わらせた。 結局、メッセージが送られた三日後、私たちは、公園に咲く、満開になった桜の下で会うことになった。 千秋と久々に会う日、私の心は完全に整理がついているとは言えなかった。だが、私の中の不安を悟らせないため、そして、千秋をさらに落ち込ませないようにと、最大限の元気を繕って、集合場所に向かった。 「まこと、久しぶり」 私が到着してから五分後くらいに、千秋は桜の下へやって来た。案の定、千秋は、学校で話している時のような持ち前の明るさは、ほとんどないように見えた。 「......ごめん、まこと。」 会った瞬間に、多分、そう言われるだろうな。心構えはしていたが、思っていた以上に、心にくるものがある。だが、「本当は受験の前に言わなきゃいけなかったんだけど......」という後に発せられた言葉は、さらに、私の心の中に深く入り込んできた。 「実は私、まことが行く大学、受験してないの」 「......え?」 予想もしていない、予想することもできなかった言葉を言われ、私の思考回路が、止まりかける。 「行こうって思って勉強したんだけど、でも、最後まで、成績、伸び切らなくって、直前で、受ける大学、変えたんだ」 「え、いや、でも、な......」 「ほんとは受験する前に言わなきゃなんだけど、......言えなかった。ごめん......。」 何も言葉が出ない。口も開けない。会う前に繕ってきた最大限の元気なんてものは、とっくに無くなっていた。 「......じゃ、」 自分の上で誇らしく咲く桜も見ることなく、千秋は、桜の下を去ろうとする。何か言わなきゃ、何かしゃべらなきゃ。自分から離れていこうとする千秋を留めたくても、何も行動に移すことは出来なかった。桜の木から少し離れた千秋が、双方の顔がはっきりと見えなくなったところで、振り向いて、再度、こちらの方を見て、口を開く。 「またね。」 その言葉は、「また会おうね」という意味が一切含まれていない、別れを告げるための「またね。」であった。私は、影の集まる場所に立ち尽くし、パステルピンクの桜の色が自分の中から少しずつなくなっていくのを、見ることしかできなかった。 * あの時のことを思い出すたびに、私はいつも、「なぜ、ここにいるのか」を考える。千秋が来ない場所にいて、何の意味があるのだろう。そして、何の楽しみがあるのだろう。どれだけ考えても答えの出そうにない問いを、表紙の、桜の花びらを見た私は、棚に本を戻し終えてから、寝床に入るまでの間、ずっと、馬鹿みたいに考えていた。 待ち合わせは分かりやすい場所がいい、ということで、立花さんとは、大学の部室棟の前で待ち合わせることになった。彼女曰く、何かするわけでもなく、ただ桜が見たいということなので、自分の持ち物は、スマホとハンドバッグに収まる程度の量の物で済んだ。 昨日、自分の中に浮かんだ問いのように、今日、なぜ、ここに来ているのかを、また、考えている。別に、特別、桜を見たいわけじゃない。どちらかというと、あまり見たいものではない。だけど、今、私は桜を見に行こうとしている。なぜ?彼女の誘いを断り切れなかったから仕方なく?でも、「仕方なく」来たという気は、全く感じない。ここに来た理由も、花見に行く意味も分からない。ただ、彼女に誘われているとしても、ここに来ることを最後は自分が選んだ、ということだけは事実だった。 「まことせんぱーい」 部室棟の玄関から長く伸びる道路を、向こう側から走ってくる人影が見える。桜を見に行くだけだというのに、背中にはリュックを背負い、カジュアルな色のワンピースを着ている立花さんが、集合時間に三分遅れて、到着した。 「お待たせしました」 「いいよ、全然」 「じゃあ、行きましょうか」 私より五センチ位小さな彼女が、いつものように私より先に歩き出す。それに続くようにして、私もまた、同じように歩き始めた。 山の中にあるといっても、桜が生えている場所までの道は、かなりゆるやかで、一般の人でも麓から歩いて四十分、長く見ても、一時間程度あれば、難なく行ける場所にあるという。時間に余裕を持って出発したので、夕方までには帰れるだろう。私たちは、まだよく知らない互いのことを考え、少しゆっくりめに、歩いて向かうことにした。こういう時に会話の主導権を握るのは、もちろん立花さんだ。 「まこと先輩って、運動神経良い方ですか?」 「良い方、だと思う。高校、運動部だったし」 「え!何部だったんですか?」 「バレー部だよ」 「バレー部って、今、アニメで有名な、あのバレー部ですか?」 「うん、そう」 正直、アニメで有名であるということは私は知らない。だが、アニメで有名という捉え方をしていることから、立花さんの人となりが少し分かる。 「何で、バレー部、入ってたんですか?」 彼女にとっては、ただの、興味本位での質問。でも、私には純粋には考えられない、嫌いな質問だ。 「友達が、一緒に入ろうって誘ってくれて、それで......」 「あぁー。なるほど」 それだけ聞くと、立花さんは、その話題から食い下がってくれた。これ以上は、今の自分からは、あまり説明したくはなかった。 山の中の桜の木の場所に続くまでの道には、遊歩道が整備されており、思っていたよりも楽に上っていけそうだということが分かる。私と立花さんは、先程までのように、他愛もない話をしながら、少しずつ上っていくことにした。 「まこと先輩、高校の時、バレー部だったってことは、文藝部は大学に入って、初めて入ったんですよね?」 「そうだよ」 「何で、文藝部に入ろうと思ったんですか?」 先を歩いていた彼女が、少しだけ、歩く回数を少なくし、私の方に近づく。どうやら高校の頃の話よりも興味があるようである。別に期待されるような理由でもないが、それでも、高校の時のものよりは、話しやすい理由だった。 「一年生の春休みに、とある本に出会って......」 「とある本って、部室でいつも読んでるやつですか?あの、表紙に『春夏秋冬』って書かれてる」 「そう」 「私、むちゃくちゃその本、気になってるんです」 「ほんと?」 意外だった。その本の内容は、お世辞にも明るいものとは言えない、暗くて、読むと心にズシンとした重みのある話だった。甘酸っぱい恋愛の話が好きそうな彼女が興味を示すとは思ってもいなかった。 「じゃあ、文藝部に入ったのは、その本がきっかけですか?面白かったから?」 「面白かった、というか、その本に共感したから、かな」 「共感、ですか?」 「その本、読んでいると、すごく胸が苦しくなって、でも、それと同時に、すごく共感出来て、それで、自分でもこんな物語が書けたらなって思って、で、入った......って、どうしたの?」 気が付くと、先程より更に距離を近づけていた立花さんが、立ち止まって、ずっと私を凝視していた。何か変な事でも言っただろうか。 「いや、まこと先輩のそんな顔、初めて見たなって」 「そんな顔?」 「はい、先輩、今の話していた時、すごく楽しそうでした」 そんなこと、自分でも全く自覚していなかった。それに、別に楽しいとは特別感じていない。ただ、今、話をしていた時、いつもよりも自分の心が軽くなっているような気がした。彼女ともっと話したいという欲が、知らずのうちに、身体から湧き出ていた。 「それよりさ、立花さんの話、聞かせてよ。何で、文藝部に入ったのか」 「え、わ、私ですか?」 「えぇ......」と言いながら、彼女は、私から少し顔を逸らす。彼女にしては珍しく、照れているようであった。だが、恥ずかしがりながらも、きちんと前を向き、少しずつ歩を進めながら、今まで聞いてばかりだった自分のことについての話をし始めた。 「私は、人を知りたかったんです」 「人を?」 「はい。私、小さい頃から物語が好きで、アニメやドラマを観たり、マンガを読んだりするのがすごく好きだったんですけど、小説だけは全然、読まなかったんですよ。でも、高校生のある時、ふと小説が読みたくなって、読んでみたんです」 「うん」 「そしたら、とても面白くて。その『面白い』が、話としての『面白い』じゃなくて、書いた人が、今まで見てきたこと、感じてきたことが知れる、ということの面白さだったんです。それで、もっと、色んな人のことを知りたいと思って、沢山、小説を読むようになったんです。でも、読んでいくうちに、今度は自分の事を知りたいって思うようになって。で、自分で書いて、自分の事を知ろうと思って、その書こうと思うきっかけをくれたのが、文藝部だったんです」 「す、すごいね。何か」 「べ、別にすごくなんて......」 謙遜しているが、案外、満更でもない様子だ。だが、彼女の理由を聞いて、並大抵の人からは聞けないような理由だと思った。立花さんの物語好きと、彼女の性格、人となりが全て合わさった、彼女唯一の理由だ。 「でも、多分、文章を楽しみたいという点では、まこと先輩と同じじゃないですか?」 「......え?そ、そう?」 「だと、思います!」 楽しみたい。自分がそう思っている、と思われている事が、何だか不思議な事のように思えた。だって、私の中には、大学では何の楽しみもないと思い込んでいたから。 「着いたー!」 道中、彼女とかなり話し込んでしまったため、麓から桜の木の所まで行くのに、既に一時間以上経っていた。 「すごい綺麗ですよ、先輩」と言って、彼女は、見えた瞬間に、桜の下へと、駆け出して行った。そんな彼女を、私は一歩一歩、確実に追いかける。 「本当に、すごいですよ、先輩!」 初のリアルお花見が出来て、興奮している彼女の隣に並び、私も、桜の木を見上げる。今まで見ていたものとは比べ物にならないくらい、大きく、そして、美しい桜だ。思わず、自分のスマホで、写真を撮ってしまう。 「まこと先輩」 念願の桜を見ていた立花さんが、私の名前を呼ぶ。でも、彼女の目は、まだまだ桜を見足りないようで、ずっと満開になった桜の花びらの方に向けられていた。 「私、今日、先輩とお花見に来れて、今、とても楽しいです」 「そう?」 「はい。先輩の知らない所、たくさん知れましたし」 「別に、今日じゃなくても、たくさん知る機会はあると思うけど......」 「でも、今の先輩は、今しか知れませんでした」 そう言うと、彼女は、再び、桜を見ることに集中し始めた。確かに、今、目の前にあるこの桜は、今日来なければ見ることはなかっただろうし、隣にいる彼女のことも、今、話していなければ、今の彼女を知ることはなかったかもしれない。今の桜と、今の彼女を知ることに意味があったかどうかは、現在の私には、まだ判別はできない。ただ、今日、この桜と彼女のことを知ることが出来て、とても良かったと、心から感じていた。 私も、彼女と同じように、私たちの上に広がる大量の桜の花びらを見る。今日の桜は、白い淡白な桜ではなく、あの本の表紙に描かれていた、パステルピンクの桜のように見えた。 * 桜を見終わった後、彼女が何件か、寄り道をしたいと言ってきたので、結局、自分の家に帰る頃には、太陽が沈みかけている時間になってしまった。休日であるのに、一日中、部活に励んでいた高校生たちが、並んで歩く私たちの隣を、自転車で次々と追い抜いてゆく。家に帰れば、私たちの今日は終わる。でも、私と立花、ももちゃんの二人には、まだまだ、次がある。 「私、家、こっちなんで、ここで曲がりますね」 そう言うと、私とももの距離が少しずつ離れていく。完全に離れきる前に行っておかなきゃ。そう思って、私は、いつもより、少し明るい声で、彼女を呼び止める。 「ももちゃん!」 呼ばれた彼女の顔には、少し驚いた表情が浮かんでいる。それに、私は、今の自分の最大の笑顔で応えた。 「またね!」
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