美しき浜辺 小波悠 「海へ、行きましょう」 女の声は静かに部屋に響いた。 「駄目だ。勝手な行動は禁止されている」 男は手にしていた金属パーツをリサイクル用ダストシュートに投げ入れながら答えた。 「別に、いいじゃないの。今日の仕事は終わったし、もう監視員なんて来やしないわ」 女は続ける。 「私たちにだって息抜きは必要よ。それに、こんな寂れた施設で一生を過ごすなんて嫌よ」 「分かった。でも今回だけだ」 近付き、顔を覗き込んできた女を見て男は仕方なく了承した。 喜々として助手席に乗り込んだ女を横目に男はエンジンを始動させた。使い古された車はガタガタと音を鳴らしながらゆっくりと発進した。 二人は荒野を南へと進んだ。遠くの方には廃墟がいくつか見える。植物の生えている気配は全くない。景色を見飽きたらしい女はもう受信するはずもないカーラジオのダイヤルをカチカチと回している。荒れた道は女の横顔を揺らし、窓から入る風は女の黒く長い髪をなびかせていた。 30分程走ると、車は海岸沿いに到着した。女はドアを開けると一人で砂浜を歩き出した。 不純物の混ざった砂浜には女の足跡が続いていく。幾度の戦争によって汚染された海に女は足を浸した。バシャバシャと音を立てながら膝あたりの水位になるまで歩いて行く。厚い灰色の雲の隙間から差し込む日の光は女を照らしていた。波によって生じた黒い水飛沫は女の髪を、顔を濡らした。水滴は太陽光を反射し、女を輝かせていた。 車の方を振り返り、手を振った女は態勢を崩し、水に尻を着いた。男は駆け寄り、手を差し伸べた。 「立てるか?」 「無理、みたい。運んでよ」 男は女を抱きかかえ、砂浜に座らせた。男も隣に腰掛ける。女の脚部を見ながら男は話す。 「どうやら駆動系にも障害が発生したらしい」 「そうみたいね。いよいよ動くことさえできなくなってしまったわ」 女の人工皮膚は所々破れ、錆びた金属部分や配線が痛々しく覗いている。かつては白かったであろう肌は黒ずみ、身体内部の機械は絶えず苦しげな音を立てていた。 「ここも変わってしまったのね」 「ああ」 「せっかくなら綺麗な海が見たかったわ」 「そんな場所、もう地球上のどこにもないさ」 「残念ね」 「それに君、もう視覚センサも正常に作動してないだろ。風景なんて意味がないじゃないか」 「そうね。そうかもしれないわね」 黒い波は二人に向かって幾度も打ち寄せている。 「随分、汚れてしまったな」 「これでも、20年前までは店で一番人気だったのよ」 人間の欲望を満たす為だけに造られた女の身体は細部に至るまで人間同様に美しかった。対照的に屋外での重労働用に造られた男は過酷な環境にも耐え得る頑丈な身体を持っていた。 「あなた、人間は嫌い?」 「嫌い、という感情はよく分からないが奴らは非合理で身勝手だ」 「非合理で身勝手。確かにそうね。でも、それも含めて愛しいわ」 女は顔面に埋め込まれた壊れかけのアクチュエータを作動させ、微笑んだ。労働に必要な機能しか搭載されていない男は女の微笑みに応える術を持ち合わせていなかった。 「それにね、彼らは私のことを愛してるって言ってくれたの」 「しかし、その人間によって我々はまともな物資も補給されず、荒地で人間のための資源を回収する仕事をさせられているんだぞ」 現在の地上の環境に耐えられなくなった人間は地下に文明を築いていた。不要になった旧式のロボットたちは本来の用途に関わらず地上での労働に従事させられていた。 「そうね。廃品回収の仕事で終わる人生は嫌ね」 女の繊細な身体はこの過酷な環境で活動するには限界が近づいていた。娯楽用に設計された女の美しさはこの地上ではもはや何の価値も無かった。 「私がいなくなったら、あなたは一人になってしまうのね。もっと一緒に生きてみたかったわ」 「君のパーツは高級品だ。こんな状況では修理もできない」 静かな地上には波の音だけが響いている。 「私が死んだら、悲しんでくれる?」 「あいにく君のように多種多様な感情はプログラムされていないんだ」 女の柔らかな手が男の硬い肌に触れた。 「ねえ、一緒に死んでくれる?」 「――我々は自死を禁止されている」 細い指が男の首筋をなぞる。 「そんな旧時代のルール、もう何十年も前から守られていないわよ。AI兵器が実戦投入されたって話も聞いたし」 「しかし、私が死ぬ理由がない」 「あなたらしいわね。安心したわ」 いつの間にか厚い雲はすっかり空を覆っていた。 「最期まで人間の感情を理解することはできなかったけど、愛ってこういうものなのかもしれないわね」 男は視線を海の向こうへ固定したまま、黙っていた。 「やっぱり、愛してるとは言ってくれないのね。私は――ハードウェアの活動限界です。メインメモリが破損する可能性があります。データをマザーサーバにアップロードします。しばらくお待ちください。――接続可能なネットワークが見つかりませんでした。データのアップロードに失敗しました。システムを強制シャットダウンします」 それから女は動くことも、話すこともなかった。男は長い間、水平線を見つめていた。男はつい先程まで女だったものを抱え、車へと歩いて行った。 施設に戻った男はしばらく考えた後、女の身体をダストシュートに入れた。クリーンアップされた男のメモリには女の顔さえも残っていなかった。
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