それは思い出とは言えない

スニラ


 
《三好春香ちゃんは普通の小学生》

 三好春香ちゃんは今思えば、普通の子だった。
 花田小学校の三年生の春香ちゃんは、なぜかちょっとみんなに嫌われていた。なぜか、というのは、大人になった今ならなんとなく言葉にできて、それはクラスで一番髪がサラサラでおしゃれでちょっと怖いかりんちゃんという女の子が、春香ちゃんのことをこそこそ声で意地悪を言っていたからだと思う。
 もっと言えば、春香ちゃんは小麦色のハーフで、日本語がちょっと下手で、クラスの中のグループの垣根を越えて話しかけてくる子だった。そういう、些細な違いをかりんちゃんという、クラスの人気者という力のある人が取り上げて発することで、なんとなく嫌いだったのだ。嫌いにさせられていた、というのが事実に近いのかもしれないが、それはあまりにも被害者ヅラ過ぎると思える自分でありたいので、自ら望んで、私(たち)は春香ちゃんが嫌いだった。
  春香ちゃんとは、通学路が一緒で、よく二人で帰っていた。私も、もちろんなんとなしに嫌だなと思いながら、嫌だと思う決定的な何かが分からず、分からないものの味は薄味で、目の前にあるもののほうがずっと刺激的だったから、通学路を歩く間だけ私達はよく喋った。春香ちゃんの家は私の家の少し先にあって、私の家を通ってから帰るために春香ちゃんにとって遠回りになるルートを選んでいた。中にビーズが入ってシャカシャカ鳴るチャームがおしりに付いた鉛筆の話、おもしろ消しゴム禁止事件、中身の破れたカイロを枝でつつく日。玄関をくぐってランドセルを置いたら忘れる話ばかり、しかし楽しさの余熱はほこほことしばらくは続いていた。
 春香ちゃんは私の家の玄関前で、明日楽しみなことを教えてくれる。給食のパインパン、図工の授業、テストが返ってくる日。そして、「またね」といって帰ってく。えくぼが出るくらい笑って帰ってく。バイバイ、と言っていた私も、いつの間にか「またね」に変わっていた。
 それでも、教室の中の春香ちゃんと遊びたいとは思わなかった。

 もぐにーまーむ。
 かりんちゃんがゲームセンターで見つけたぬいぐるみのストラップの名前。
 体がファー生地、顔がある部分は楕円に布地になっていて、エビの目のようなつぶらな瞳が二つ付いている。それから刺繍の口元は正三角形の牙が上に二つ下に一つ。『ウルヴァリン』のような爪で柏餅を持っていた。もぐにーまーむのカシワ。かりんちゃんはある日の朝にラベンダーのランドセルとその子を教室に連れてきた。
 はじめはかりんちゃんとなかよしの二人、次にそのなかよしの二人と少し仲良しの四人......、かりんちゃんが生み出した価値は波になって伝播した。もぐにーまーむを手に入れるには、ゲームセンターの小さいクレーンゲームをするしかなかったから、余計にレア度が増した。かりんちゃんとなかよしの二人が早くにサクラとトウキビのもぐにーまーむを連れてきた時から、それは人権の証となった。
 当然私も、父をゲームセンターに連れて行って千円かけてヨモギを手に入れた。黄緑のファーに眠たげな眼は愛らしく、なぜか欲しくてたまらなかったものだったため、赤いランドセルに目立つヨモギを気に入っていた。
 教室の女子は皆、もぐにーまーむを持っていた。なぜかおもちゃ屋さんや雑貨屋さんにも売られていない、その不思議なおもちゃが好きだった。かりんちゃんはその流行りが高まるにつれてもぐにーまーむの数を増やし、最終的には五匹のぬいぐるみがきゅうきゅうになってランドセルについていた。
 ただ、春香ちゃんは唯一もぐにーまーむを持っていなくて、かりんちゃんはそのことについてクレーンゲームも下手そうだから。と言っていた。私は、半分当たってると思いつつ、半分は違うと思った。春香ちゃんの家は裕福という訳ではなくて、むしろその逆という、印象だった。同じ服をよく着ているし、絵画コンクールや作文コンテストの参加賞でもらう文房具ばかり筆箱に入っていた。そういうところも、きっと嫌われていた。
 
 帰り道。私のもぐにーまーむは揺れていて、それだけで何もない春香ちゃんのランドセルにもその持ち主のことを可愛そうだと思った。だからきっと、その日はいつもと変わりなく接したように思う。そして春香ちゃんは私の家の玄関前でランドセルを下ろした。いつもと変わることだ。それからランドセルの前ポケットからもぐにーまーむを取り出した。
「見て、私もヨモギ取ったの」
「みんなね。持ってるから、私も欲しくてお母さんに連れてってもらった。すぅごい大変だったの。千円もらったけど足りなくて、貯金の中から二千円使ったんだ。」
「お揃いね、でしょ、一番最初に見てほしかったから隠してたの」
手のひらに緑のフワフワを乗せて、春香ちゃんはえくぼをつくって笑った。
 その時、私は隣町に住むおばあちゃんが持たせてくれる冷めたキシキシの唐揚げのことをなぜか思い出した。そして、そういう時と同じように、「嬉しいな」と言った。
 春香ちゃんはふふっと笑って二度ジャンプをして、ランドセルの蓋を閉めずに背負った。「またね!」と言うので、「またね」と返し、春香ちゃんの手に握りしめられたままのヨモギを見送った。私のヨモギは、ランドセルでぷらぷらとしていた。
 すぐ次の日、春香ちゃんはランドセルにヨモギをつけてきた。だからといって日常は変わらない。普通ならもぐにーまーむを初めて連れてきた子には誰かが朝、喋りかけに近寄ってくる。
 ヨモギはロッカーにランドセルとともに片された。その日、春香ちゃんに話しかけた人はいない。春香ちゃんは後ろのロッカーや前の黒板を行ったり来たりしてどれかの話の輪に入るためにヨモギの話を持ちかけては、みんなキシキシの唐揚げをもらった時の顔をする。
 その次の日には、かりんちゃんがもぐにーまーむを連れてこなかった。家に全部置いてきたと言って、もう二度と持ってくることはなかった。そういうことなら、と、またかりんちゃんの影響力は波となり、一ヶ月以上愛されたもぐにーまーむは一週間もしないうちに教室から消えてしまった。無責任な飼い主であったと思う。
 かりんちゃんは、ヨモギをつけたままの春香ちゃんを見て笑うから、私も笑って距離を置く。春香ちゃんはどこの輪でもそう扱われて、最後に自分の席でぎゅと小さく丸まって座り、机の上とにらめっこし続けていた。
 またその日の帰り道。春香ちゃんはとうとう喋らなかった。自分の家の屋根がぎりぎり見えそうなところで私は優しいアドバイスをした。
「ヨモギ、外したほうがいいよ」
そうすると春香ちゃんは、
「お母さんがお金を出してくれたから、大事にしないといけないの」
と言った。
「せっかく、いいよ、って言ってくれたのに」
 俯いて出た言葉は私に向けてか分からない。
 風が吹く。型の古い傷の入ったランドセル。安っぽい緑で染められたぬいぐるみが揺れる。袖の長い制服。制服と同じ紺色の影が暗い肌をより一層暗くする。泣いてしまうかと思った。けれど春香ちゃんは強かった。しかし、強い子だと思いたいだけかもしれない。ただ弱いところを見せたくなかったのかもしれない。誰にせよ弱いものいじめじゃなくてよかった。
 玄関前で、春香ちゃんは「じゃあね」と言った。私もつられて「バイバイ」と言った。私はその時、最低なことに、もう仲良しをしなくていいという開放感に安心していた。
 そんなこと置いておいて、春香ちゃんを抱きしめて友達になってもらえばよかった。そんなことは、逆立ちしても無理だった確信はあるけれど。 その時、抱きしめられたいのは春香ちゃんに優しくする私であって、私はもう抱きしめられなくてもいいくらいにみんなに愛されていたから。
 春香ちゃんはそれから一緒に帰ってくれなくなった。でも、一緒に帰ろうと言ったら多分、帰ってくれたのに、そうはしなかった。小学校卒業まで誰かと特別なかよしになっているのを見たことはなかった。中学は離れてしまって、もう会っていない。
 それから十五年が経っても、私はふとした時に思い出す。 
 
 後になって、お父さんがいない春香ちゃんの家の想像ができるようになった。
 今になって、クレーンゲームに入れる百円とワンプレイを遊戯として楽しめるようになった。
 そして今さら、思い返しては優しくしたかったと、思うだけ思っている。
 
 三好春香ちゃんは今思えば、普通の子だった。友だちと仲良くしたくって、少し人見知りで、笑った時にえくぼが出来る。
 そんな普通の子だった。
 春の香りがするような柔らかな笑顔は、確かに彼女のものだったのに。
 彼女の唇を食いしばった顔ばかり、思い出す。もぐにーまーむのヨモギを、今ではもう忘れていてくれたらいいなぁと、私はたまに願うのだ。


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《モルモット俳句春》

 ママ!うんち! ぷいも臭いと 春風も

 真鍋優希くん(仮名)による作品。
 初めて買ったモルモットが、お家で初めてのうんちをしたそう。かわいいのに臭いことにびっくりしたそうです。
春風に吹かれてこちらにも香ってきそうな温かみのある一句です。

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《チャンスの理容師》

 理容師の給料はビビるほど安い。「バーバーババ」から出る給料はその辺の理容師より更に安いし、さらにチャンスがない。独立、というのがおそらく我々の一縷の蜘蛛の糸なのだが、俺にはない。そういう気力さえ起きない。七時に起きて十二時に寝る生活とそこにあてがわれた労働。それをこなすのがやっとで、そういうヤツに夢や希望や挑戦という言葉は、ツーブロックの髪型で物書きをしている人間より非現実的な存在と同じである。
 まあ、それでもなんとかやってはいけるのだ。自動ドアとサインポールを稼働させる。反射的に開く扉と、登り続けるフランスの配色。若いんだから何にでもなれる、今からでも遅くない! と言われもしなくなってきた二十九歳の朝九時。今日は予約の客が一名、明日は、実は誕生日。明日から1年間、アラサーからただのサーになる。三十になって魔法使いになれるほどこだわりが強い訳でもなく、かと言って建設的な未来のために努力したいものもない。帰りにラーメンを食べて、家でビールを飲むサイクルの中で、のらりくらりと想像つかない三十代という領域に足を踏み入れる。気持ちは、駅のホーム。点字ブロックの黄色い線の向こう側、だ。

「九時に予約していました者です」
 自動ドアが開く。
 異様な出で立ちの老人がタクシーを止めるかのように右手を挙げながら自動ドアの前に立っている。
面食らう俺をよそ目につかつかとしっかりとした足取りで背筋を伸ばしてバーバーチェアの前に立ち、質問をする。こちらの椅子でいいんでしょうか。
 老人と目が合ってようやく自分の調子を取り戻す。
 はい、と答えて、老人が座ってから、俺は「本日はいかがなさいますか」と尋ねた。このポジションに立つと自然と口が動くことに、後頭部のずっと遠いところにいる自分が感心していた。
 少し髪が重たいから空いてほしい。
 老人はこの理容室では聞いたことのない注文をする。そんなもの、メニューにない。うちには切る、剃るしかない。俺は店長の馬場さんを呪った。珍しく午後出勤なのは、このお客様を俺に押し付けるために違いない。
 鏡に白い散髪用のガウンを着せられた老人と、さえない笑顔の俺が映る。お客様は神様というが、接客業なら理容師でも神との邂逅を避けられないのだろうか?
 金色の長い前髪は肩を過ぎて、緩いウエーブがかって座る太ももに乗っかっている。
 俺は絶対にこの老人が、この老人こそが、巷で噂のチャンスの神様だと思った。前髪以外全て禿げ上がった老人の丸い頭に、鏡のように反射する照明の白い輪すら神々しく思えた。
「長さはこのままで大丈夫ですか?」
 老人はそう声掛けした時点で眠っていた。

 三十分ほどだっただろうか、老人は眠り眼で自分を確認した途端、みるみるゆで蛸のように赤くなった。弾かれたように立ち上がり、ガウンをつけたまま自動ドアを目がけて走り出す。自動ドアの感度が悪いため、約四秒の停止の間が面白くて俺は堪えられずに吹き出した。
老人に聞こえたのか、くるりとこちらを振り返ると、睨みつけて、叫んだ。
「くそったれ!!」
 老人の曲線を邪魔するものはもうない。開け放たれたドアからの陽の光が綺麗に頭を照らしている。
俺は神様の前髪を剃刀で綺麗に剃り落としたのだ。俺の情けなく震える手には金髪が握りしめられている。静寂が自動ドアが閉じていく間に駆け込み来店し、現実が床に細かく散っていた。もしも、彼が神様でなければ俺はかなり不味いことをした、と言えるだろう。しかし、自分の選択に責任を!と声高に叫びながら、チャンスもマウントも価値観も全てまぜこぜに混ぜた最悪のカラー剤を塗りたくってくる人が(この時俺は店長の顔を思い浮かべた)嫌いだった。チャンスの神様は前髪しかないとよく言うから、前髪すらない事実と、それを作り出したのは俺だという真実で鼻で笑いたかったのだ。それにしても、神様は何も悪くない。ただの災難である。

 さて、サインポールの電源を落とす。革命の鐘は今日も鳴らない、五時のチャイムは鳴っている。

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《モルモット俳句夏》

 アマガエルとアマービレの途 病院へ

 アマービレは愛らしくという意味。現在ピアノの先生をしている玉木百恵さん(仮名)病院への道、調子の悪いモルモットが心配でしたが、アマガエルと合唱するようなモルモットを見て、ほっこりしたそうです。果たして、病院へ向かうモルモットの訴えは本当にアマービレだったでしょうか。
 
 
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《純潔と馬鹿》

 馬鹿真面目って嫌い。宿題出せってうるさいし、染めたことない黒髪ってダサいし、好きなものって勉強・部活・ボランティア。全部全部ぜーんぶ、先生に気に入られたいからじゃん。
 こんな山か森かわからないものが観光地で、ドンキもスタバのないクソ田舎、あるのは高速道路沿いのラブホテル。愛想振り撒いたって何にも意味ないのに。あーあ、東京が恋しい。
 洋子は直接そう言ったってニコニコと笑顔を崩さなかった。私の高校時代の親友である。私は埼玉生まれで埼玉育ち。でもクラスメイトにとっては東京といって違いなかった。高校生になって転校するのを私は最初ひどく拒んだけれど、住んでみれば都......というより都人のように扱われる環境が私の高慢さをブヨブヨに肥らせた。学校と家以外の場所に行ったことがないのではないか? と思わされるような洋子は一つ私の引き立て役であり、一つ純粋さを楽しむおもちゃであり、一つ私と常に一緒の親友であり、一つどんな意地悪も陰口もなく笑顔で相槌を打つぶりっこだった。
 私はよく洋子に意地悪をしたけれど、その中で一番ひどかったのは好きな人を奪ったことだろうと思う。
 ナツヒコくんを最初に好きになったのは洋子で、ナツヒコくんの最初の彼女になったのは私。洋子が廊下でナツヒコくんとすれ違うたびに熱い視線を送っているだけの間に、私は、熱い口づけをして、その流れで交際に至った。洋子には何も言ってはいなかったが、私達は誰に隠そうとせずに手を繋ぐし、肩をそばによせるので、珍しくすぐに察して「おめでとう」と言ってきた。その時も洋子は笑顔であった。薄い唇で半月を描く中に、白い歯が詰まっていた。
 そのような素振りが、私にはいい子ぶっているように見えて、そしてそれを決してやめないところが癪だった。
 洋子はどれも覚えてないような花壇に水をやるのを忘れなかったし、後で返すと言ってジュースを買わせたし、一生懸命に投げたバスケットボールはゴールリングに弾かれて頭にぶつかった。馬鹿に正直に答えて損をするし、馬鹿に真面目でまたも損をした。
 洋子のことを優しいと認める全ての者が、学校もクラスメイトも私もが、もっと上手くやればいいのにと内心抱く全ての馬鹿者が、私は嫌いだったしこの世から消えてしまえと思うけれど最終的には、洋子だからしょうがないと考えた瞬間、抱え込んだ苛立ち風船が萎むように落ち着いていく。
 私は洋子が好きで、洋子が私のことをどう思うかなんて関係なく私の横にしかいれないと決めつけていて、私を嫌いになって離れられない洋子が嫌いだった。
 だから洋子が冴えないおじさんとラブホテルへ向かって並び歩くのを見た時、取り返しのつかない悲しさと背筋を這う多足類の失望に頭の先まで嚥みこまれた。
 自分も私の手を強く引いて家へ連れこもうとしておきながら、洋子を茶化すナツヒコの無神経さに苛立った。
 
 そういう背景があって、馬の髪公園でばったり会った時いつも通りに振る舞う自分に驚いた。洋子がラブホテルに消えた夕方を忘れられずに、次の日から偶然を装って洋子を避けた。お昼ご飯も移動教室も洋子ではない人間と行った。洋子は洋子で似たような染めたことのない黒髪同士の女の間に溶けていた。私達は元々、別に仲良くしていなくても全く問題なかったのだ。
 馬の髪公園は丘以上山未満の勾配があるだだ広い森だ。頂上には見晴台とベンチ、そこまでに至るコンクリートの道、その脇に控えめに咲く名前の知らない花。以前は公園入口付近のスペースに多少滑り台や登り棒があったのだが、いつの間にか撤去されてしまった。今ではランニングをするおじさんのためのトレーニングコース。馬の髪公園は入り口付近のかつての公園、頂上の見晴台そこをつなぐ適度なトレーニング負荷を与える勾配の連続が売りだが、中腹の脇道の先に池がある。その池自体の大きさと取り囲む苔むした木の柵、何かしらの伝説的な価値があると述べる掠れた文字看板がどこか厳かな雰囲気を感じさせるが、私達にとってはプレイのための場所に過ぎなかった。飲酒や万引きや夜中のドライブ。そういったものに大人になったと勘違いさせられていた私達にとって、夕闇の中で他人の気配から隠れながら恋人の荒い息遣いを感じるのは、えぐみの強い生熟れの悦だった。しかしそれで良かった。
 
 私はそこに、ワイヤレスイヤホンを落としたのを探しに来ていて、洋子は池の柵の近くで水面を見ていた。脇道を進んですぐ左側にある池の反対側に雑木林があって、そこが私たちの「スポット」だった。私は遠くからそのショートボブの髪とベージュにまとめた冴えない色合いに塗られた私服と背格好で洋子ということが早くに分かっていたので、知らん顔してスマホを睨みながら林に分け行っていく。池と雑木林とは十メートルも離れていない。洋子だって私の存在は気づいているだろうが、互いに目を合わせなかった。
 あと二時間ほどすれば前日のその行為が始まった時間と同じになる。ただ、気まずかった。

 ワイヤレスイヤホンは黒色だったのもあって、GPSで探してもあと一メートルの距離が縮まらなかった。しゃがみ込んで木の葉を一枚一枚めくって探し続けていたら、見つけ終えた時には青空が赤みがかっていた。二時間が過ぎていた。
 スギの葉がくっついたズボンを払って顔を上げると、まだ、洋子がいた。
 洋子は、私を、見ていた。
 生暖かい風が頬を切る。遅れてすぐ髪の毛が前に飛ばされていく。洋子の細い目がまだ私を見ていた。
 洋子は目を見開いて、口を開けた。風で声が聞こえない。「やあ」か「はあ」か、そういうふうな動きをしている。
 距離を置いたほんの少しの間に、私は驚かれるような存在になったのだろうか。私は顔の横で小さく手を振る。洋子の顔が少し綻ぶ。私は洋子の元に駆け寄った。
「洋子!」
 自分の裏返った声を聞いて、青春映画みたいだと思った。しかし、洋子が見ているのは私ではなかったことを、私は洋子の真横に立ってようやく気づく。
「洋子、ねえ」
 私は洋子の肩に恐る恐る手を触れた。洋子は何もない雑木林の方向の、少し上を見続けていた。一転、ホラー映画のワンシーンのように洋子はゆっくりこちらに顔を向ける。怖いくらいに喜びをたたえる微笑みだった。
「ユニコーンだよ」
「えっ?」
「ユニコーン」
 角の生えた白馬が思いつく。だからなんだと言うのか。
「すごい。初めて見た」
 洋子は左腕を目の高さまで持ち上げる。それから前から後ろに撫でるような仕草をした。洋子は演技が下手だから、そこにユニコーンが浮き上がって見えるようなこともない。
「ほら、触らせてもらいなよ」
 私は恐る恐る洋子が触れる空に触れる。やはり、何もない。
「ねぇ! 何もないって」
 静けさは触れられるのではないかと思われた。私の叫びに近い声は、洋子との間で絡まった絆の結目をさらに硬くした。
「見えてないだけじゃない?」
 洋子は微笑みを保ったまま、声色に少し毒を混ぜた。その毒は突き放すようなトゲを持っていて、心配や同情の色味もない、洋子らしくない言葉尻の違和感に引っかかって、ああ嘲りだ、と納得した。よく知ったものなのに、洋子が言うと下手くそだ。
「ね、きっと見えないんだ。」
「残念」
 そう言った洋子を、どんどん沈んでいく太陽が黒い水辺の背景から浮かび上がらせて、まるで洋子自身が灯っているように見えた。洋子が赤いのは、いわゆる後光みたいな、そういうのだ。と微塵もない信仰心のカスが脳みそにそれらしい言葉の石を投げた。聖母のようなと形容したくなるのは、私がそう思いたかったというよりも、いつか見た美術館の血の気のない宗教画が怖かったからである。
 正しさは洋子に味方していた。
 見えないものを見えると言う洋子は、それを堂々と言ってのけるからなのか、私は、洋子がそんな冗談を言わないと知っているからか、気圧されるほどの自信に足元が揺らいで、私は背中の雑木林を見られたくなくて、同じぐらい自分を見られたくなくて、何も言わずに立ち去った。
 振り返らなかった。
 
 学校に行っても洋子のことをなるべく視界に入れないようにしていたら、いつの間にか本当にいなくなっていた。
 あの池に何故いたか、を考えたら、私は洋子が今どうしているのかを知るのが怖かったからあの日のことは夢だと思うことにした。
 ユニコーンと検索をかけたとき、何度も想像した洋子のことを。安いシーツに身を任せ、私の知らないおじさんにブラもパンツも脱がされて大人になる洋子。そんなものなど、この世に一度も存在しなかった可能性、一縷の救いが垂らされた。
 私にはそれで十分だった。
 それにその糸が切れてしまったとしても、しょうがないことだった、のだと私は思う。
 洋子が聖母でなかったとしても、あのつまらない町の住人らしく馬鹿な人間だったとしても、一枚剥いてしまえば私と何一つ変わらない生き物だったとしても、当然咎められる人間など何処にもいないし、洋子が幸せであれば......と願っていいのは知る限り彼女の両親ぐらいだ。ならば私は彼女の何処にもいられない。
 だからそれで十分だ。
 
 早過ぎる時間に起きて、二度寝すると夢を見る。
 馬の髪公園の池の前。私たちは白い馬に触る。隣にいる洋子は私が幾つ歳を取ろうが制服を着ていて、とんがった角を怖がる様子もなく顔を撫でている。私も馬の頬を撫でているはずだったのに、いつの間にか洋子の頬を撫でていて、洋子はただニコニコとしている。
 目が覚めると洋子とユニコーンの夢を見た事実だけが霞がかった頭でも認識できていて、胸の辺りに残る多幸感が夢の内容を鮮明に思い出したくさせるのだが、いつも叶わない。
 そういう朝だか昼だか分からない目覚めの時にだけ、私は洋子のことを思い出すのだ。


.........*.........
《でっかくなったら何になる?》

でっかい??いぬ  でっかいぬ

でっかいかに  でっかに

でっかいひとで  ひとでっか

でっかいひと  大人

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《底なし沼の苦しみ》
 
  ジャングルに踏み入れば、当然、ご想像通り、動物たちの楽園である。
「腹減った」
「逃げるか」
「死にたくない」
 皆、案外単純に生きている。
 いいなぁ動物たちは自由で。先生は蔦のカーテンを払いながら、歩みを進める。すると沼がある。あたりの生ぬるい空気や気泡の混じりの泥が生き物の呼吸や両生類の皮膚のようで、生命を脅かされる空恐ろしさを感じた。沼の端を測ることはできないが、先生のことなど縦でも横でも飲み込んでしまいそうである。野鳥のギャギャ、というしわ枯れた声が首を刺す。汗を噴き出す先生の鼻を酢えた匂いが掠めた。
「せいぜい、二メートルか五メートルなんだ、ヒトが使う単位で言うとね」
 驚いた。沼が語りかけてくる。
「確かに、埋まってしまうだろうね。猿なんかもよく落っこちてくるんだ」
「この中にね」
 濡れた体表がぐらりと光る。
「ヒト......君なんかもきっと全部飲み込めるさ。一番大きいやつで、そうだなぁ......ゴリラだ、ゴリラ。馬鹿だから暴れてズブズブはまってくんだ。はは、猿ばっかりだ」
 風が吹く。鳥が鳴く。木が揺れる。しかし、この沼地は変わりない。ただ大きな沼が広がっている。
 先生は、沼は生き物か、という問いに囚われていた。アミニズム的信仰はないが先生は沼は生き物なのかもしれない。と考えた。まさか、沼に飲み込まれた生き物の霊魂が?(そのジョークに先生だけが笑った)
「なあ、たまにヒトが会いにくるんだ。それから言うんだよ、『底なし沼だ! 気をつけろ』って。それからギリギリ握手できないところを通ってどっかに行ってしまうんだ。」
「それってひどいと思わない?」
 先生はしばらく黙っていた。
「なあ」
 沼が催促するので、状況を未だ把握できていない頭のまま答える。
「そうとも取れるかもね」
 先生は本来物言わぬ沼に対しても、無意識に声を出して返事した。
「そうさ。ひどいのさ。だって君らの感覚だろ? 普通の沼さ。ただの沼。大きいだけのね」
「まあ確かに、君らからしたら、『底なし』かもしれないぜ。すっぽり埋まっちまうんだもん。でも、それこっちは悪くないし、そもそも底、あるから。底あり沼だから」
 一瞬の間。
「そう、そうそうそう、底あるの! あとどちらかというと、池よりだと思うんだよね。みずみずしいから。なのに、『底なし沼』とかプレッシャー? 名前負け? こっちはただ沼ってるだけだっ、つーの。」
 先生は、なんとなく沼が腕を組んでふん、と鼻を鳴らした気がした。
「それは......君も、なんというか大変だということだ。えー、同情するよ。ところで、えっと私からも質問をしていいかい?」
「どうぞ」
「こうして話しているということは、君は生きているのだろうか」
「君、というのは面白いね。泥と、水と、骨だ。それから幾万のバクテリア。幾億の死骸からできている。ほら、底なしの、沼だからな。息ができずに死ぬやつを餌に息をしているやつがいる。君、もなければ、僕もない」
「そう、だから、沼、と、こんなにも意思疎通できることに、私は、......僕は驚いている、よ」
「そうかい」
「いいかい、もう一つ質問を」
「どうぞ」
「嫌じゃないのかい、そこにい続けることは」
「別に」
 沼は、もう飽きているのだと、先生にもわかった。沼も話に飽きるのだ、と先生は思った。
「そんなにものを考えているのに、誰にも話せないんだろう」
「......なんだい。勝手に想像してそんな顔で見ないでくれよ」
「つまり、そう、私が話し相手になってもいいと思う」
「そうか」
「じゃあ握手をしよう」
 握手? と思う間に私の視界はひっくり返る。

 体が沼にはまっていく。仰向けに転がった私は腹筋を使って体を起こすことを試みたが、尻が沈むだけだった。
「意思疎通ができるなら、沼でも友だちになってくれるのかい? まさか、友だちを研究対象にはしないよな?」 
 底なし沼のなかではもがいてはいけない。うまく接する表面積を少なくして沈まないようにするのが鉄則だ。
「仲良くしたいなら、泥の中で仲良くしよう。君が踏み込んだんだ、後悔はなしさ」
 しかし、上手くできなければ静かに落ちていくということでもある。
「ジャングルにいるとね、興味本位で近づいたり度胸試しに飛び込む生き物がたくさんいるよ」
「たまにいるんだ、綺麗にしようとするやつが。それは必ずヒトだけど。怖いもの知らずは虎の子。君は人の子。沼の泥全部抜くは生命破壊」
「仲良くなってどうすんだ。沼だぞ、沼。ただの沼」
 体のほとんどが泥に包まれ、現実的な死がひんやりと体を冷まして感覚を麻痺させる。
 狭まる視界の中で、先生は静かに目を閉じた。


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《モルモット俳句秋》

ぶどう嚥み 独り占めの歯 欲甘んで

 橋本哲郎さん(仮名)のモルモットはぶどうが大好き。独り占めする可愛い我が子への願いと愛を込めた一句。嚥下機能や視線の動きが気になる作品です。

.........*.........
《お揃いのリップ》

 お道具箱が小学生の時から私の宝箱で、手紙やシールや大事なアクセサリーを入れていた。まなちゃんの手紙も入っている。プリクラも入ってる。毎日一緒に帰ったけれど、まなちゃんのスポーツができて細い身体。ラブレターが届く靴箱。お金持ちのお父さん。ウォークマンが簡単に買えるくらいのお年玉。ドラッグストアのコスメを買っても減らないお財布。そのすべてを手にして当然のような可愛いお顔。
 私可愛くなれば変わると思って、お化粧品売り場を見て回っても、一五〇〇円が頭を抱える大金で、唯一買った半額の口紅はピンクが過ぎて似合わなかった。青みがかったその色は、私に似合う色じゃなく、まなちゃんに似合う色だった。私は鏡の私より、まなちゃんのことを見ていたのだと、その時初めて気がついた。
 なぜか、だからまなちゃんの使っているリップなら、私に似合うんじゃないかと思ってしまった。そんなこと、あるわけないと分かるはずなのに。思ってしまったから、どうしてもまなちゃんのが欲しくなって、いつか預かったカバンの中から盗んでしまったOperaのリップ。
 ドキドキして心臓がぐちゃぐちゃに破れてもう動かないぐらい痛かったけど、新しく生まれ変わる確信が私を動かした。鏡がもう私に牙を向けないならば、私は私が死んでも良かった。

 お道具箱には、私の宝物が入っている。私がもらったものと買ったものの愛着の中で、シャンパンゴールドが異質に光る。一番忘れられないのはOperaのリップ。
 一度使ってから、お道具箱の底に隠した。
 隠したのは、
 まなちゃんがリップをただ「無くした」としか言わなかったから。
 鏡に写った私の、モーヴピンクの唇は、やはり自分のものじゃなかったから。
 私に似合うのはテラコッタ。でもお揃いのリップを塗った時、それでも私は、人生で一番可愛かったと思いたい。
 
......*.........
《モルモット俳句冬》

重ね着の 巻き毛触れても 指震え
 
 八倉梨々華さん(仮名)による作品。
 冬のふかふかの巻き毛、冷え性の作者は冬になるとカイロ代わりよく腹を触っていたそうです。死を実感した場面を切り取った一句。

.........*......... 
《眠る夜》

 エ君というのは眠るのが下手で、
「毎日眠るのが怖いのです」
と言いながら出社する。私は寝つきの良い方で、眠れないというその悩みはさっぱり分からず、いつも不思議に思っていた。
 私は親切な人間(であるという自負があるくらいの実績がある)であり、エ君の先輩であるから、エ君に私が考えられるだけの解決策を提示した。
 香り、暗闇、薬。催眠術に羽毛布団。エ君は渋々全ての策を試み、どれもこれも失敗に終わった、と言った。私はお手上げだった。
 一寸先でも照らしなさい、と五万円を贈ると、ようやく少し笑って、
「僕にとって、眠ることは死ぬことですから」
と言い、よく眠らせようとするのは諦めて下さいと続けた。
 それを聞いて、ハイ、そうですか。と納得できなかった私が突っ込むと、エ君は困った顔をした。
「僕は、寝たいが眠れないというより、寝たくないから眠れないのです」
「眠りに入り、意識がなくなった瞬間に、僕の心臓は停止して、目が覚めた時から再び動き出すのです」
「僕は毎日強制的に生まれ変わらされるのです」
 つまり、エ君が言うには私が対面するエ君は、三百六十五日×二十六年と少し人目のエ君であると言うことらしい。
 おかしなことを言うやつだ、と私は思った。それから酒で難しいことを考えるのをやめさせようと考えた。そういう訳で連れて行った居酒屋が当たりの居酒屋で、案外話が盛り上がり、二軒目で完全に出来上がったエ君を帰らせる意味もこめて、三軒目にはエ君の部屋が選ばれた。
 エ君の部屋の中は簡素なものであって、ベッドとローテーブルと勉強机の他には何もなかった。それゆえにテーブルの上に私の助言通りに購入したと思われるアイテムがたくさん乗っかっているのが目を引いた。
 エ君はおぼつかない足取りでベッドを背もたれに座り込むと、小さく、
「片付けます」
と言ったが、そのまま寝息を立て始めた。
 私は驚きながらも、青いくまをつけて安らかに眠るエ君に布団をかけてやった。その羽毛布団のスクリーンショットがまだ、私の携帯に残っている。さらに、ふと触れた頬が冷た買ったので、エアコンのリモコンを探して、暖房をつけてやった。
 私は、酔っ払った頭でキッチンへ行き、水入りカップを手にエ君の横に座る。
 息も忘れて眠る姿は顔色の悪さも相まって死人のようだ。
 ......。
 ......エ君が息をしていない。
 私は急いで手を取って脈を取る。
 胸に耳を当てる。
 揺さぶる。

 反応がない。
触ったことのある非日常の温度がエ君を包んでいる。血の気が引いて、私は逃げ出した。

 次の日、エ君は普通の顔して私より先に出社していた。私とお揃いの青いくまは、やはりエ君の方がしっくりくる。私はその姿を確認するやいなや、声をかけて昨夜のことを説明すると、エ君は眉をハの字に曲げた。
「死んでる人がいたら、救急車を呼んでくださいね」
 私はそのことについて、素直に謝った。するとエ君は用件はすっかり終わったと言いたげにデスクに向き直った。呆気に取られたのも束の間、私はエ君に肩を掴んで、一つだけ質問をする。エ君はめんどくさそうにしながらも、首を捻って考えた。
「僕にとって、寝ることは......別に、痛くもないし痒くもないし、意識がただ無くなります」
「しかし、だから怖いのです。次再び意識が戻る確証はないし、意識が戻っても、つまり、起きても、それは昨日の僕と同じという証明ができないでしょう。記憶を引き継いだ全く新しいボディの僕は、本当に僕なのかな、と考えていると眠れないのです」
「ホラ、スマホの引き継ぎとか、機種変してもデータ、そのままでしょう。僕もそうなんじゃないかなって」
 エ君は社用のスマートフォンを胸ポケットから出してパタパタ振った。
「本当に死んでいるかもしれない。でもそんなこと気づかずに昨日と変わらず自分が一貫して存在しているって信じて生き続けているって、怖く思うんです」
「自分ってなんだろう、て思い出すと、もう全く寝る気にはなりません。寝ることで一貫した意識が途切れてしまうことが、僕は、怖いです」
「だから寝れません」
「いえ、寝たくありません」
 返事のしない私とエ君の間に、彼の肺に溜まった空気が吐き出された。エ君くるりと椅子を回転させて、デスクの上のキーボードを叩き始める。
 私は私の眠りとエ君の眠りを比較して、三百六十五日×三十年と少し人目の私の可能性を考えた。考えて考えて太陽は待ちくたびれた様子で帰ってしまって、私は一人、自分の部屋にいた。昨夜のエ君の体温と同じ温度だった。
 香り、暗闇、薬。催眠術に羽毛布団。
 私の眠らない夜が始まった。


.........*.........
《川がきれいな町の朝》

 すれちがった。
 バスには誰も乗っていない。私は車を買っていて、日に六便ほどしかないバスには用がない。
 国道沿いだけに立ち並ぶ家々の隙間から、ちらほらと鮮やかな壁色が見える。夢の新居は建ったらゴール。
 この町はジオラマのまま。ゼンマイ仕掛けの私たちはただ色や形が違うだけで、決まった道順を追っていく。
 だから、知らない名前もない。留められなかった秘密は全て、周知の事実に早変わり。
 川がきれいと眺むのは、俯瞰している神様ぐらい。多くの私たちは知らずに車を走らせる。
 川がきれいな町の朝。
 一八の時に充てられた仕事場に、昔ながらの病院に、精肉にシールを貼ったスーパーに。
 毎朝すれちがうあのバスに乗ってもこの町は出られない。毎朝乗り込む愛車に乗ってもこの町は出られない。
 心はずっとこの町にあり、気づけば体もこの町にある。
 かつてバスに乗っていた私。すれちがいざまに目が合ったのに無視をして、前だけを見てアクセルを踏んだ朝。
 はじめて気づいた町の朝。川がきれいな町の朝。
 私はこの町になるけれど、川がきれいなこの町の朝の仕掛けになれるなら、それも悪くない。
 ああ、ゼンマイが巻き直されている今日の日がまだ、生まれ育ったこの町の美しさに気づける私であること。
 
それが停滞だとしても、そうありたい明日の私と今日も

.........*.........
《メタモルフォーゼぐるぐる》

 私はよく殴られた。最初に私を殴ったのは父で、父が家からいなくなってからは、母が代わりに殴った。それから学校に行くと、私を嫌う三人組からランドセルで殴られた。
 私が考察するに、父が私を殴ったのは虫の居所が悪かったからで、母が私を殴ったのは母に降りかかる全ての不幸を母自身が受け止めきれなかったからで、三人組が私を殴ったのは、私がどこか人と違ったからだろう。
 どこか違うと言うのは、殴られた後を隠すせるように頑なに短くしなかった袖や皆が持っているものを持っていないためにクラスの話題についていけなかった姿を指す。しかし、私の私自身への違和感と認知のズレは、趣味嗜好や振る舞いに知らぬ間に表れていたのだろう。誰にも言わないでいたとしても、私が私である以上、教室の中の常識からは外れた生き物であり、私が人でない以上、クラスメイト達が不文律に従って私を殴ったり、反対に的外れな優しさを気まぐれに向けたりすることは、全て正義であった。だから、私は私を殴りつけた人々を実際に殺そうとは思わない。
 私が十五歳になった頃。私の身長が母を超えた。高くなる身長に対して、声はどんどん低くなった。幸い髭は目立たなかったが、女の子に比べると私の肌などは鰐、象、よく言ってカバ。一つ消えてはまたできるニキビが鬱陶しく、恥ずかしくてよく俯いていた。日焼け止めは欠かさなかったのに黒くなる肌が父親譲りであることを、ずいぶん後の母からの罵声の中から察した。
 私が立派な男になったその頃。私は殴られなくなった。最初に私を殴った父はとうにいなくなっており、母は時より罵声を浴びせるだけになった。それから学校に行くと、誰も私など構わなかった。
 私がどこか人と違うことは変わらない。
 相変わらず皆の話題についてはいけなかったり、校則違反と強がりを透明ピアスで埋めたりしながら愛想は一つも生まれなかった。テレビで見たあの人のように、私が私を捨ててアイコニックな役柄を自分のキャラクターとして演じることが、私がない頭で考えた一つの正解だけれども、今更そんなことができるほど私は一人の歯車としての私を大事にできなかった。......というが、ただプライド邪魔しただけとも言えるだろう。
 それでも私は、風に膨らむスカートが好きだった。カボチャを馬車に変えた魔法のような化粧品も、苺色のクリームでできた菓子も、それが似合う清廉な女の子が好きなあの人のことも、私は好きだった。
 私が殴られなくなったのは、私が私が好きなものの対極にあるような強さを、私が愛せない器のおかげで得られたからである。私は私の好きなもので身を包み、私が私であると納得できる愛らしい器を欲しながら、望まない恩恵を享受してしまっていた。
 私があのスカートを履きたいと思うこと、可愛くなりたいと願うこと、自分らしく生きたいと望むこと、それらをいまだ星しか知らないということは、私の弱さである。私の弱さだ。としてしまった方が、私はまだシンデレラになれる気がした。多くの不幸を不幸として見つめ返すことも、パラレルに存在する偶然手に入れられなかった幸福を勘定に入れることも、それらを誰かのせいにして殴ってしまうことも、一度受け入れてしまえばきっと私は二度と、私に戻ることはないだろうと思った。
 そして、この姿でだんまりを決め込んで、飛んでこない拳に安心したその一瞬一瞬に、少しずつ少しずつ、私は私を忘れていく。
 きっと俺は、もう殴られない。
 そう確信した日に得た安堵と失った私は等量。
 思い出にしてしまうには、汚れていて、記憶にしては忘れられない。口に広がる血の味が、私の味とねぶった日々。卒業式まで隠していた、ほうぼうに伸びっぱなしのすね毛を、今日初めて全てを剃ってナップザック一つ背負う。
 高速バスで揺られる中、知らない街の十二時のチャイムが鳴っていた。
 
 
 


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