女男

林檎



Sentimentalism

 トイレの流れる音を、生温い布団の中で聞いた。安いゴムとアンモニアが混ざったようなにおいが充満する布団の中には、私と、それからもう一人の温度が残っている。だが、そのもう一人が居ない。さっきまで一緒に居た、もう一人が。
 トイレのドアが静かに開いた。出てきたのは、さゆりさんだった。さっきまで私の腕の中に居た体温。私と繋がっていた体。大学時代から、なんだかんだで十年一緒に居る女性である。同棲を始めてからかなりの時間が経つが、籍は入れていない。子供も作るつもりはない。必要ないと、お互い思っているからだ。築三十年のアパートの一室で、二人寄り添い静かに暮らす。穏やかで平和な日常だった。
 さゆりさんが、一糸纏わぬ姿でぺたぺたとフローリングを歩く。胸も、陰部も全て丸出しである。しかし、いやらしさは無い。堂々とした姿はまるで美術品のようで、どこか気高いのだ。
「たいちさん」
 凛とした声が私の名前を呼ぶ。枕元にしゃがんでこちらを見つめるさゆりさんの太腿は、よく見るとじっとりと湿っていた。先程体を重ねた時に、汗をかいたのだろう。
「どうして毎回トイレに行くんです」
「女の尿道は短いのよ」
「はあ」
「だからすぐに膀胱炎になる、ちゃんと流さないと」
「辛いのですか、膀胱炎は」
「ええ、それはそれは。血尿が出るの」
「ふうん」
 投げ捨ててあった私の白いワイシャツを、さゆりさんが羽織る。下着もつけないまま、細い指がぷちぷちとボタンを付けていく様子を、私はぼうっと眺めた。
「さゆりさん、下は」
「そういう気分なの」
 そういう気分、とは。露出趣味があるわけではないだろうに。
 カチャリ、とロックが外され窓が開く。淀んだ空気に、冬の風が吹き込んできた。うっすら汚れたレースカーテンがたなびき、さらさらと音を鳴らす。隙間から差す日の光は温かい。計を見ると、もうすぐ午後二時になろうとしていた。冬の空気はいつも朝のように澄み切っているので、時間の感覚が分からなくなる。
「寒い」
 さゆりさんは、そろりとベランダに踏み出すや否やそう言った。しかし部屋に入る素振りは見せず、コンクリート造りの塀に肘をついて、片足をぶらぶらと遊ばせている。
「何も履いていないからですよ」
「そうね」
「風邪ひきますよ」
「たいちさんも」
「えっ」
「意外と、良い」
「何が」
「何も履いてないの」
 ふふ、とさゆりさんが微笑む。柔らかで女性的な表情は、聖女のようであった。柔らかな体を包む私のワイシャツは天女の羽衣だ。彼女の内側に残る私と彼女との穢れなど感じさせない、清らかな姿。毎日見ている筈の彼女の姿に、私は目が離せなくなってしまった。
「なんか、風に溶けて飛んでいっちゃえそう」
 レースカーテンの向こうで、真っ白なワイシャツが日の光を反射する。本当に、溶けてどこかにいってしまいそうだ。彼女の周りをふわふわと漂う空気中の塵に攫われて、どこか遠いところに。
「ね、たいちさんも、ね」
 さゆりさんの体が、くるりとこちらに向けられる。私を誘う声は無邪気で、まるで少女のようだった。
「ワイセツでは」
「誰も見ていないでしょう」
 流石に自分のワイシャツで局部全体は隠しきれない。ワイセツになってしまう。この部屋はアパートの二階の端に位置し、コンクリート造りの塀の向こうからこちらは見えない。さゆりさんの言う通り、別に誰かに見られることは無いのだ。ただ、私が恥ずかしいだけ。あまりにもさゆりさんがあっけらかんとしているから、かえってこちらがおかしいのでは、という心地にすらなる。
「大丈夫」
 恥じらう私が可笑しいのか、さゆりさんの笑みが深くなる。にんまりとした表情に、試されているような気がした。......少しだけ。少しだけなら、大丈夫だろうか。いやしかし、流石に下半身丸出しというのは、無理だ。
 結局私は綿パンを履いた。その下には何も履いていない。私の、精一杯の妥協であった。普段とは違う生地が肌に直接当たって変な感じがする。汗ばんだ肌がはりついて、冷たい。正直気持ち悪い。
「こっち」
 ベランダから、さゆりさんが手を差し出す。だぼつく袖から伸びるなめらかな手が、私を誘っている。清らかな背徳の道、二人だけのワイセツに。思わず、唾を飲む。クローゼットにかけてあったワイシャツを羽織ってから、私は彼女の手を取った。しっとりとした肌が、私の肌に吸いついた。

 冬の風が、下着を履いていない私の火照った頬を擽る。布一枚無いだけで、こんなにも心細いものなのか。外から見れば普通にズボンを履いているだけなのに、その下は普通じゃない。密やかな逸脱に、心臓がどくどくと激しく鳴る。
「どう」
 さゆりさんが指を絡めてそう尋ねた。どう、と言われても。どうなのだろう。気持ち悪い、心細い、恐怖......興奮? 興奮しているのだろうか、私は。
「分からないです」
「そう」
 静かに呟き、さゆりさんが再び塀に肘を置いた。視線をどこか遠くに遣りながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ横顔は、やはり清らかだった。
「気持ちいいでしょう、ワイセツ」
「そうでしょうか」
「癖になる」
「......いつも、しているのですか」
「いつもではないけれど」
「たまに?」
「ふふ」
 さゆりさんがそうやって笑うのは、肯定する時だけだ。なんだかんだと十年一緒に居て、私は彼女のことを大分知っている。しかし、今回のことは初耳だった。ワイセツ、の詳細はともかく、こういう行為をさゆりさんがしていたというのは驚きだ。未だ私の知らぬ彼女が居るのかと、何とも言えない気分になる。
「バレないんですか」
「バレないようにしてるの」
「どうしてそこまで」
「気持ちいいから」
 さゆりさんは理知的に見えて案外刹那的な人間で、快楽に弱いところがある。情事でも、どちらかといえばさゆりさんのほうが積極的だ。かくいう私も、そういうところを好いている。私は元来消極的な人間で、それは下半身においてもそうだった。
「ずっとこの時間が続けばいいのに」
「ずっと、ですか」
「永遠に」
「永遠――」
 私は、わけも分からず悲しくなった。何が悲しいのか。永遠、という言葉だろうか。或いは、存在しないものをさも存在するかのように語るさゆりさんだろうか。それとも、下着を履いていない状態で妙な感傷を覚える自分だろうか。
 交わっている瞬間は、何も考える必要がない。体を重ねて溶けあい、揺らして、出す。快楽の波に全てを支配されて、獣に堕ちる。溶けあう、というのはあくまでも比喩だ。小数点ミリのゴムがそれを妨げる、否、それが無くても私たちが一つになることはない、なれないのだ。どれだけ潤っても、結局は違う肉体、違う存在。二人だけのワイセツは、ワイセツでしかない。
 横を見ると、さゆりさんはまだ遠くを見つめていた。何があるのか、と思い私もそちらに目を遣る。いつもと変わらない、普通の住宅街がそこにあるだけだった。
 一発出した後の頭は重くて、速い。誰も止められない思考の濁流が、ぐるぐると頭の中を駆け巡る。下水と同じだ。
「あ」
 さゆりさんが急に声を出した。
「昼ごはん、食べてない」
「そういえば」
「昨日のおでんが残ってる」
「まだあったっけ、大根」
「溶けちゃってるんじゃないですか」
「それが良いのよ」
「そういうものですか」
「そういうもの」
 そういうもの、と私は言葉を転がした。さゆりさんはもうキッチンの方へ歩いて行ってしまった。そういうもの――そうか、そういうものなのかもしれない。どういうものなのか分からないけれど、そういうものな気がした。
 トイレのレバーを下げて水を押し流すみたいに、密やかな息を吐く。一人残されたベランダで、私は自分の肌と綿パンの生地とがすっかり馴染んでいるのを感じた。


アヴェ・マリア

 それはあまりにも突飛で、しかし確固たる絶望であった。日雇いバイトの給料を受け取った時――再生紙の茶封筒が、治りかけのささくれにめり込んだ瞬間。ああ、と思ったのだ。些細な痛みだった。普通の精神状態であれば、きっと一瞬顔を顰めて終わる程度の痛みだった。ただ、その時の私は――否、もう既に、ずっと、普通なんてものは持ち合わせておらず、そして生きるか死ぬか、という繊細な天秤は軽やかに後者に傾いだ。多分、世の中で自ら死を選ぶ人は皆、そういうものなのだと思う。
 そういう訳で、今私は名も知らぬ森の中を彷徨っている。彷徨っている、というのは違うかもしれない。迷いは、無い。どこにも。自分のささやかな全財産を使い果たして行ける、一番遠く、名も知らぬ駅で降りて、そのまま一直線に山へ向かった。家は払ってきた、というかもう家賃が払える状態ではなかったから、遅かれ早かれ払うことになっていた。携帯は捨ててきた。もう、帰るつもりは無いのだ。金なし家無し仕事なし、しかし妙に軽快な気分だった。もう戻れないと悟った末の開放感に、私は酔っている。
 そういえば、結局女を抱くことなく終わってしまったと、そんな僅かな悔恨が浮かんだ。しかし、もう戻れないからそれはしょうがない。迷いを振り切り、行く当てもなく、森の中を歩く。月が妙に明るく、森は完全な暗闇ではなかった。
 暫く歩いたところに、突如人工物が現れた。十字架だ。三角屋根の建物のてっぺんに、十字架が付いている。教会がこんな森の奥にあるのか。壁は至る所が剥げ、窓は割れ、ドアは朽ちかけている。打ち捨てられて、大分経った教会。最期の場所として相応しいのではなかろうか。そう思って、私は建物のドアを開けた。
 中に入った瞬間、とてつもない黴臭さに思わず鼻を覆った。森の匂いと、湿った木材の匂いが混ざって、正に廃墟とでも言うべき臭いが充満していた。止めた息をゆっくり吐き出して、周りを見る。ステンドグラスから月光が差し、空気中の塵をきらきらと照らす。ぼんやりと見える内装は、外装ほど傷んではいなかった。教会によくある木製のベンチは、いくつか原形を留めているものもあった。
「どちら様」
 埃っぽい廃墟の空気を、柔らかな声が撫でた。思いがけない他人の気配に、つい口を覆う。覆ってどうなる、という話だが。おそるおそる声のした方を見る。人間だ。人間が、ランタンを持ってこっちに来る。......女だ。私より小さい。何かあっても、多分勝てる。物理的に。
「あなた、どこから」
 不穏な思考を巡らせる私の内情に構わず、女はのんびりと話しかけてくる。シスターの服を来ているから、この教会の職員だろうか?こんな、朽ちかけの教会に職員なんているのか?
「どこから、来たんです」
 女が、私の傍にあるベンチにランタンを置いた。淡い暖色の光が、私と彼女を照らす。無論温度は変わらない。しかし、なんとなく温かくなったような気がする。
「東京、から」
「そう」
 シスター(仮)の顔を見る。美人だ。暗めの茶髪は肩まで伸ばされていて、一本一本に艶がある。しっかり通った鼻筋、長い睫毛、整えられた眉。作り物と言われても信じられるレベルで良いつくりをしている。
「これで、五人目」
 シスター(仮)は憂うように目を閉じた。
「この山、自殺の名所なんです」
 自殺。そうだったのか。そんなこと、全く知らなかった。運命かもしれない。丁度、死ぬべき頃合いだったのかもしれない。私は、なんだか少し嬉しいような、奇妙な気分になった。
「何か、あったのですか」
 シスター(仮)が徐に目を開け、あやすようにこちらに微笑んだ。
「もし宜しければ、私に話してくださいまし。力になれるかは分かりませんが――」
 そう言って、シスター(仮)は胸の前で手を組んだ。うお、胸でか。......ではなく。その様子はあまりに清らかで、本当に彼女は聖職者なのだろう、という確信が生まれた。警戒心は、とうに消え去っていた。どうせ最後だ。私は、身の上を語ることにした。
 昔から友達が殆ど居なかったこと。高校受験に失敗したこと。滑り止めで入った高校を中退したこと。定職に就けていないこと。金が無いこと。急にすべてを終わらせようという気になったこと。
 私がここに至るまでのことを、全て話した。自分でも驚くくらいに言葉がすらすら出てきて、まるで魔法に掛かったようだと思った。
 話をする
「そうですか」
 シスターが、組んでいた手を解く。ゆっくりと私の瞳を見つめて、再び聖母のような微笑を湛える。
「では、セックスをしましょう」
「は?」
「分かります?性交、sex、??、??????」
「いや......え?」
「誰も来ませんよ」
 シスターが、どこからか古臭いラジカセを取り出して、再生ボタンを押した。テープを巻く音がして、それから謎の音楽が流れ始める。音質が最悪で、何の音楽か分からない。オルガン? と人間の声――讃美歌か?
 混沌とした状況に追いつけず、フリーズする私の前でシスターは突然服を脱ぎ始めた。
「えっ......」
 なんだ、このストリップショーは。音割れした讃美歌をBGMにって、趣味悪過ぎないか。突っ込みが追いつかない。あっという間に、シスターは下着姿になった。あっ駄目だ。刺激が強すぎて、目を瞑る。情報量に押し流されてしまう。
「童貞ですか」
 脱ぎ捨てたシスター衣裳をはたきながら、彼女が言う。その声には、軽蔑も好奇も見えない。ひたすら、台詞のように平坦だった。
「あの、......セ、セックス、するって......なんで」
 なんで、こんな廃墟で。よりにもよって教会の廃墟で。これって、野外プレイなのか?廃墟は野外に入りますか? ......ではなく。そもそも、出会ったばかりの関係性でそういう淫らな行為をするというのが、私としてはちょっと――
「いいんじゃないですか、別に」
 ......良いか。うん、まあ良いか。元々全部終わらせる予定だったのだ。或いはすでに全部終わっていて、これは只の夢なのかもしれない。ああ、悪くない。夢魔だ。目の前の痴女がありえない程に私好みの姿をしているのも、全てこれが夢の中の出来事だからだ。ならば、何をしようと構わないな。論理的な即堕ちである。
 覚悟を決め、私は目を開けた。全裸の女性が立っていた。体薄。胸でか。腰細。尻ちっちゃ。......あ、全裸ではなかった。妙に肉付きの良い両の太ももに、謎のベルトが食い込んでいた。所謂ガーターベルトというものか。何も留めていないが。華奢な体格のわりにむっちりとした、柔らかそうな太腿の肉感を強調するためだけにあるベルト。淫ベルトだ。良いんじゃないか、と思う。正直、印象最高。
「構わないんですけど、触っても」
 触る。他人に、女性に......女体に。
「手を、繋いでも?」
「......」
 沈黙。ループ再生で延々と流れる音割れ讃美歌が、私たちの間の空気を殴り続ける。居心地が悪くて、視線を胸の突起に向けた......桃色だ。二次元の乳頭色だ。
「......キモ」
 キモって。いつもの私であれば泣いていた。萎えていた。しかし今はそうでない。多分、今なら何にでも興奮できる。というかもうスタンバイできている。スタンド、もといエレクトしている。Erect-byである。
「はい」
「繋ぐんでしょう」
「あ......」
 差し出された手は、細かった。白くて華奢で、柔らかそうで。女体というのはこうも指先まで繊細なつくりをしているのか。私は唾を飲んだ。そして、触った。手汗でびしょびしょだ。もうこんなになっちゃってるね......とか、そんな感じの定型句が朧気ながら浮かんだ。
 私と彼女との間に本来あるべき隙間、手の皮膚の凹凸が、手汗で満ちている。実質一つになっているようなものだ。なんというか、既にこれがセックスなのでは?もう股間が痛すぎて、正直辛い。彼女の手がやたらと冷たく感じられるのは、恐らく私の手が熱くなりすぎているからだ。
「何の体位が好き」
 くらくらとする私の頭を、またもや爆弾発言が殴りつけた。体位? 体位って、このコンテキストだとアレだ、四十八手のアレ。
「せ、正常位」
 嘘である。本当は騎乗位が好き。混乱の末、口をついて出たのが正常位で、しかし訂正するというのも気恥ずかしい。それに、ぶっちゃけ何でも良い。挿入できるならまあ何でも良いと思う。
「そう」
 シスターは、複雑で単調な私の思考にあまり興味が無いようだった。表情を変えないまま、彼女が朽ちかけのベンチに上半身を倒す。一応下敷きとして彼女が脱ぎ捨てた衣裳があるから棘は刺さらないだろうが、寝心地は悪そうだ。良いのか、こんな所でヤっても......良いのか。水風船のような二つの胸が、たゆんと外側に垂れた。でかい。改めて見ると、でかい。とても。DかEか、はたまたFか。
「あ」
 何かを思い出したように、体を起こした彼女が自身の下の布をまさぐる。ずるりと引っ張り出されたのは、紐に繋がれた銀色の十字架――ロザリオというやつだった。一体何をしようとするのか。
「......」
 彼女は目をそっと閉じた。そして、そのロザリオを首から下げた。長い睫毛がふるりと揺れる。なんだ、これは。まるで神聖な儀式のようだ。全裸だが、美しい。全裸だからこそ、かえって芸術品のような美しさが生まれているのかもしれない。ぼんやりとした頭で、そんなことを考える。音割れ讃美歌は、延々と流れ続けていた。
「触らないの」
 再び体を倒した彼女の谷間に、ロザリオの紐が挟まる。乳の下で揺れる十字架。挟まれている。ロザリオが、巨乳に。ヤバ。
「む、胸......」
「どうぞ」
「わ......」
 促されるまま、触った。触ってしまった。
「......わぁ......」
 揉んだ。柔らかい。いつか摘まんだ自分の二の腕より、ずっと柔らかい。そして、温かい。ずっしりとした質量があるはずなのに、エアバッグのように柔らかく包んでくれる。極楽か? やっぱり夢か? 
「あ......あ、その」
「......」
 シスターがじとりとこちらを見ている。早くしろ、とでも言っているのか。そんな不満げな視線だった。しかし、一つ致命的な問題があった。挿入のための、巨大な壁が。壁というか、膜というか。
「あの......あれは、あの、コン......」
「コンドームなら無いですけど......良いですよ、別に」
「えっでも......」
「大丈夫」
「でも私その、責任とか......」
「子供はできないんで、大丈夫」
「いや......」
「いいから」
 苛立ったらしいシスターは舌打ちをして、がばっと体を起こした。そしてそのまま、私の体を押した。予想外の出来事に、成す術もなく倒れる。頭を激しく打ち付けなかったのがせめてもの救いだ。
「もう、寝てるだけで良いです」
 そう言って、彼女は私の上に跨った......えっ。抵抗できないまま、ズボンのチャックを下され――
「あっ......」
 暗転。規制。以下、感想。
 AVだった。ぬるぬるしてて、温かかった。ヤバかった。なんかもう、色々どうでもよくなった。生きてるって感じ。


「あの、何なんですか、この音楽」
 事後、いそいそと服を着ながら尋ねる。
「アヴェ・マリア」
「アベ......?」
「讃美歌」
「どうしてこんなものを」
「演出」
「......」
「良くないですか、雰囲気」
 雰囲気。趣味悪、と言いかけて、すぐに口を噤む。ヤらせてもらってなんだ、それは。いやしかし、普通に怖かった。最中もずっと気になっていたのだ。ざらついた仰々しい歌声と、ぬちょぬちょした卑猥な水音が混ざりあって、カオスだった。
「あと語感が良い。ほら、叫んでみて」
「えっ」
「アヴェ・マリアって」
 何故。叫ぶって、そんな......
「あ、アヴェ......」
「もっと声、さっき出ていたでしょう......ほら」
 顎をつうとなぞられる。
「ア......アヴェ・マリア!」
「もっと!」
「アヴェ、アヴェ・マリア! アヴェ・マリア!!」
 ......何をしているんだ、私は。意味が分からない。
「アヴェ・マリア! アヴェ・マリア!」
 意味も知らない、多分キリスト教系の言葉を、何故私はこうも真剣に叫んでいる?これでは、気狂いだ。おかしい。やけくそだ。私は今、動物だ。
「アヴェ・マリア! アヴェ・マリア! アヴェマリア!」
 こちらに向けられる視線は冷たい。やれと言った張本人が、どうしてそんな目を。やはり意味が分からない。分からなくて......でも、だんだん妙な気分になってくる。酸欠のせいかもしれない。
「アヴェ・マリア! アヴェ・マリア!! アヴェ・マリア!!!」
 あっ......気持ちいいかもしれない。いや、そんな筈は無い。私は別に、マゾじゃない。多分。きっと。違う......のか?
「アヴェ......」
「もう大丈夫」
 無感情な声に遮られる。
「はい」
 シスターは再び股を開いた。これは、飴だ。むしゃぶりつく以外の選択肢は無かった。

 結論。もう一回戦した。叫びながら腰を振った。振りまくった。酸素が足りなくて、くらくらして、甘くて、やっぱりぬるぬるしてて。AVよりヤバかった。最高。セックス最高。生きてるってサイコー。なんか色々どうでもよくなってしまった、ほんとうに。音質の悪い讃美歌と自分の叫び声が混ざって、溶けて、頭の中をふわふわ、ぐちゃぐちゃにする。下半身もぐちゃぐちゃ。これでは快楽堕ちだ。まあ、良いけど。金なし家無し仕事なし、しかし愉快で爽快で。じゃあ、良いんじゃないかって思う。別に。マジでさいこーの気分だ。快楽さいこー。セックスさいこー。生きてるってさいこー。アヴェ・マリア。完。


二人、墓地

 日曜日の夜、二十二時頃。その電話は突然かかってきた。君、今から来れる、と。アドレス帳にも登録されていない番号からの電話だった。しかし私は、一声聞いただけで分かった。マコさんだ。私のことを君、なんて格好つけて呼ぶのは彼女しかいない。やや低めのウィスパーボイスは、二年前から変わっていなかった。
 マコさんが指定したのは、山だった。山といっても、地元の人しか名を知らないような山である。どうしてそんなところに、と聞こうとしたが、その前に電話は切られた。明日は月曜、無論仕事である。私はひとつため息をついて、コートを羽織った。ガソリン、まだあったっけな......
 トラックしか走っていない県道を進みながら、マコさんについて考える。彼女は、大学時代の先輩だった。生徒が二人しかいないロシア文学の研究室の、たった一人の先輩である。一つしか変わらないのに妙に大人びていた彼女に、私は即堕ちだった。出会ったその日はマコさんで抜いたし、一度だけ、体を重ねたこともある。しかし、それ以上にはならなかった。私とマコさんの間には、常に見えない壁が存在していた。
 マコさんが卒業してから、交流は一切無くなった。他大学の院に行ったと、教授から聞いた。私は一人きりの研究室で卒論を書いたのち、一般企業に就職した。一応連絡先は交換していたが、当然向こうから連絡が来る筈は無く、かといって私かられんらくするような度胸もなく、そうこうしているうちに二年が経った。で、今回の電話である。
 マコさんじゃなかったら無視していた。でもマコさんだった。昔から、お前はちょろい――特に女に対して――と友人に言われてきたのを思い出した。
 三十分程車を走らせて、私はようやく指定の場所に辿り着いた。車を停めて、持ってきた懐中電灯のライトを付ける。良かった、まだ電池は残っていたらしい。マコさんに電話を欠けようと、スマホを取り出す......圏外だった。おかしい。いくら山とはいえ、まだ中に入ってはいない。それに、人里からもそう離れていないというのに。
 コンコン、と窓を叩かれて、体が跳ねた。おそるおそるそちらを見ると、黒いフードをかぶった人間が居た。まさか、マコさん? 窓をゆっくり開けてみる。
「遅かったね」
 マコさんだった。間違いない。フードを深くかぶっているので表情こそ見えない者の、そのぶっきらぼうな声とすらりとした背格好は、間違いなくマコさんのものだった。
「あの、マコさん。一体どうしたんです――」
 急に呼び出して、という言葉はマコさんが車のドアを開けたことにより遮られた。
「ちょっと、手伝ってほしくて」
 マコさんがフードを取った。暗闇の中に、青白い輪郭がぼんやりと浮かぶ。相変わらず、私好みの顔だった。
 マコさんに言われるがまま、夜の森を歩く。枯れ葉をざく、ざくと踏みしめる二人分の足音が、静まり返った夜に響く。まるで、二人きりの世界に来たみたいだ。研究室で過ごしたあの時と同じ。正直浮かれている。夜の森という非日常的なロケーションのせいでもあるのだろう。冷たい空気が頬を痺れさせるも、体の内側は沸々としていた。前を進むマコさんは何も言わない。ずんずんと、枯れ葉を潰しながら進んでいく。
 暫く歩いたところで、マコさんが突然立ち止まった。
「ここ」
 ここ、と言われても。何の変哲もない、只の森の一部だ。あるのは不審な人工物――シャベルが二本と、猫車。それから、そこに乗せられた謎の包み。ブルーシートに包まれたそれは、特に異様な雰囲気を醸し出していた。映画で見たことがある。死体だ、人間の。夜の森、ブルーシート、シャベル。全てが揃っていた。揃ってしまっていた。マコさんは今から、死体を埋めようとしている。そして私は、それを幇助しようとしている。犯罪じゃないか、これって。
「はい」
 シャベルの内の一本を差し出される。彼女の表情に変わったところは見られない。あまりにも、平然としている。平然としすぎていて、かえってこっちの混乱が滑稽に見えてくる。
「穴を、掘ろう」
「穴を」
「そう」
「どうして」
「まあ、いいから」
 煮え切らない態度の私に痺れを切らしたのか、マコさんがシャベルを強引に押し付けてきた。穴を掘れ、と。いきなり呼び出されて、そんな突拍子もないことを言われたらそりゃあ誰だって困惑するだろう。しかも、怪しいブルーシートの包み付きで。......でも、彼女が掘れというなら、そうしよう。そうするしかない。繰り返すが、私はとんでもなくちょろいのだ。特に、マコさんには。それが犯罪であろうとも、マコさんに失望されるよりは良いような気がした。
 受け取ったシャベルを地面に差す。土は湿っていて、案外柔らかい。力を掛けて持ち上げると、雨の日の匂いがした。
「あの、マコさん」
 マコさんは答えない。
「これ、どれくらい掘るんです」
 返事はない。ざく、ざく、と二人分のシャベルが土を掘り返す音のみが続く。時折石にぶつかって甲高い音が鳴る以外は、平坦な時間だった。掘り進めながら、私は考える。あの包みは何なんだ。ちらりと横目で見てみるが、ブルーシートでしっかりと覆われていて、やはり全く分からない。大きさは丁度猫車に乗るくらいで、そこそこの厚みがある。そう、丁度折り畳んだ人間一人分くらい――ああ、駄目だ。背中に冷たい汗が伝う。考えてはいけない。だって、マコさんは平然としている。いつも通り、涼やかな表情をしているのだから。......あれ、いつものマコさんって、何だ?

 十分くらい土を掘った所で手を止めて、ふとマコさんのほうを見る。が、彼女の姿はそこに無かった。
「マコさん?」
 返事は無い。代わりに、後ろで落ち葉の潰れる音がした。まずいと思って振り向くと、暗闇からマコさんが現れた。その手にシャベルは無く、代わりに細指が火の点いた煙草を一本摘まんでいた。......サボりか。人を呼びつけて、事情も説明せず穴を掘らせておいて、当人がそれか。普段使わない筋肉が疲労しているのを感じる。
「吸う?」
 マコさんが、煙草の箱をこちらに向けてきた。白いセブンスターのボックス。初めて会った時からずっと同じものを吸っているのか。大学時代、学内は禁煙だったから、いつもマコさんはギリギリ学外にある弁当屋の喫煙所で吸っていた。私はその様子を、携帯を弄るふりをして盗み見るのが好きだった。凛とした表情で煙草をふかす姿はなかなかに悪くなかった......ではなく。いけない。マコさんといると、思い出に耽って現実をないがしろにしてしまう。
「君、吸わないんだったか」
 そう言って、マコさんが箱を仕舞おうとした。
「あ......」
 私は喫煙者ではない。寧ろ嫌煙家だ。マコさん以外の喫煙者は全員消えてしまえばいいと考えたこともある。なので、煙草を一本貰ったところで仕方がない。
「何」
 しかし、マコさんが折角私に与えようとしているものを、好意を無下にして良いものか。それは、あまりにも勿体ない。
「一本、一本だけください」
「吸うの」
「少しだけ」
「少し?」
「全部吸います」
「ふぅん」
 マコさんが一本煙草を取り出して、こちらに茶色いほうを向けた。
「口」
 くち。咥えろということか。マコさんの表情は変わらない。一体どんな顔をして受け取れば良いのか。みっともない顔は晒したくない。いや、こんな暗ければどうせ見えないか。......ええい、ままよ。
 目を閉じて、マコさんの指に挟まれた煙草に口づける。
「いいね」
 マコさんの目が、僅かに細められた。カチ、と音がして、私の煙草に火が点る。
「吸って、まだ吐いちゃ駄目」
 言われたとおりに、煙を口の中に留める。ほのかな甘さと、曇ったような苦みが口の中に充満した。
「で、ちょっと吐いて、空気と一緒に吸う」
 少し吐いて、吸う。――直後、喉が詰まったような感覚に襲われた。慌てて煙草を口元から遠ざけ、激しく咳き込む。咽てしまったらしい。ダサすぎる。
「はは」
 マコさんが小さな笑い声を零した。
「まだ早かったか」
 彼女は自身の口元にすっと煙草を運び、その煙を未だ咳き込む私の顔に吹きかけた。煙草臭い。収まりかけた咳と涙が、再びぶり返す。しかし、愉快な気分だった。こうやってマコさんと戯れるこの瞬間のために、今まで生きてきたような心地さえした。腕の疲れが随分取れたような気がする。二人分の煙草を掘りかけの穴に落として、私たちは再び作業に戻った。


 それから、どのくらい経ったのか。腕はもう疲れ切っていた。穴の深さも大分ある。人の死体を、十分に隠せる。......いや、死体じゃないとは思うが。思っているが。
「もう、いいかもしれない」
 マコさんが漸く口を開いた。久々に聞いた声に、少しほっとする。
「上がれる?」
 そう尋ねられ、見上げる。私の身長より少し浅いくらいだ。全身を使えばまあ上がれる。マコさんは、厳しいかもしれない。私より十センチも低いから。
「先に上がるので、腕を引きますから」
 自分の声は震えていた。寒さか、疲れか、緊張か。そのどれかは分からない。
 穴の縁に手をかけ、ぐっと体を持ち上げる。土がぽろぽろ崩れたが、なんとか上れた。ここまで体を使うのは、高校の体育ぶりかもしれない。
 さて、マコさんの腕を引くとはいえ、どうしたものか。
「ロープ。多分、その辺にある」
 穴の中から、マコさんの声が聞こえる。ロープを垂らして引っ張れ、ということだろう。ロープ、ロープ......あった。猫車の車輪の下に、よくある茶色の麻ロープが置かれていた。これで、マコさんを引っ張り上げる。......それで、良い。しかし気になる。あの包みは、一体何なんだ。人か。本当に、このまま進んで良いのか。私は唾を飲んだ。体の中で心臓が暴れ回る錯覚を覚えるほど、心拍数が急上昇している。見れば見るほど、怪しい。やはり人間なんじゃないか?そう思うしかないサイズ感である。いや、たまたま仕留めてしまった鹿か猪か、そういうのかもしれない。粗大ごみの不法投棄の可能性も......無理があるか。粗大ごみくらい普通に出すか、マコさんは。考えれば考えるほど、疑念は大きくなっていく。だったら、何故。マコさんに何があって、そんな。
「遅いよ」
 私は息を呑んだ。背後から、自分のすぐ後ろから、声が。
「マコさん......」
 穴の中にいた筈の彼女が、私の背後に立っていた。黒いレインコートが夜の闇に溶け込んで――まるで、幽霊だ。
「遅いから、自分で上った」
 マコさんの土に汚れた白い手が、私の手をそっと包んだ。震えている。違う。震えているのは、私の手だ。私は、自分の手の震えをこの時初めて知った。
「ねえ」
 マコさんが柔らかく微笑む。今日初めて見た、いや、今まで見たことのない彼女の優しい笑顔だった。薄暗い視界が、ぱっと明るくなったような気がした。
 私は、マコさんのことを何も知らない。解らないし、多分解ることもない。しかし、それで良いと思った。だって、目の前のマコさんは笑っている。私のために、私だけのために。それだけで、なんでもできる。そういう確信を覚えた。
「手伝って、くれる?」
 はい、と私は頷いた。もう迷いはなかった。

 マコさんが、猫車の持ち手に手を掛けた。
 マコさんが、猫車を押した。
 マコさんが、猫車を傾けた。
 マコさんが、ブルーシートの包みを穴に落とした。
 どさ、と鈍い音がした。マコさんは冷ややかに穴の底を見下ろして、囁いた。
「埋めよう、一緒に」
 一緒に。甘美な響きだ。はい、と再び私は頷いた。そして、シャベルを手に取った。
 山になっている土を集めて、穴に落とす。包みはすぐに見えなくなった。穴を掘るのは大変だけど、埋めるのはそれに比べて大変ではない。ああ終わってしまう、と思った。私と、マコさんの時間が。今は何時だろう。ずっと、時計を見ていない。明日も仕事だが、家に帰れるだろうか。
「君は、犬みたいだ」
 ひたすら土を戻しながら、マコさんは言った。犬。犬か。
「私のためなら、泥だらけになってくれるんだ」
 かわいいね、とマコさんが笑う。今日のマコさんはよく笑う。笑っているマコさんは、可愛い。私よりもマコさんのほうがずっと可愛いと思う。
 無言で土を戻して、時折マコさんの顔を見て。そうこうしているうちに、穴が埋まった。底に何かが埋まっているなんて、一見して分からない程綺麗になってしまった。
「ありがとう」
 土を踏み固めながら、マコさんが私に笑いかけた。甘い。とても、甘い。マコさんに感謝されて、全身の細胞が歓喜に打ち震えた。
 堪らなくなって、私はマコさんを抱きしめた。そして、強引に唇を合わせた。マコさんからは、甘い土の匂いがした。二人とも泥だらけだが、そんなのどうでも良くて、ただ欲しかった。マコさんが、マコさんからのご褒美が。
 そのまま私とマコさんはセックスをした。森の中で服を取っ払って、肌を重ねた。私は本当に、馬鹿みたいにマコさんを求めた。犬みたいに腰を振った。マコさんは一回、私は二回絶頂した。
 全部終わった頃には、空が白みかけていた。私はマコさんを車に乗せて、駅まで送っていった。車の中、会話は殆ど無かった。今日、雨降るんだって、とマコさんがぽつりと言って、私がそうですか、と曖昧に返しただけ。
 それからマコさんには会っていない。連絡すら無い。今、彼女はどうしているのだろう。研究を続けているのか、就職しているのか。恋人はいるのか、結婚しているのか。何も、知らない。
 しかし、私の体は覚えていた。マコさんに命令され、犬のように服従する悦楽を。体の芯に刻みつけられているのだ。電話が来れば、二十四時間いつだってマコさんの元に行く。尻尾を振って、マコさんを求める。私は犬だ。マコさんの、犬だ。







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