薔薇の匂いの犬の剥製

キヌア・リーヴス


 
 俺は中学三年までピアノ教室に通っていて、そこでは全てが枯れたバラの匂いだった。
 レースのカーテンとテーブルクロス。全裸赤ん坊天使の絵入り茶器。白くぼわぼわした耳をプラスチックのサクランボの髪ゴムで留めたマルチーズにまでそれは染みついていた。バラの匂いの霊廟だった。
「そこはフラットついているでしょう」
 講師の婆さんは俺の斜め後ろに立って左手を椅子の背に添え、右手で譜を指した。死者の手だった。骸骨の手だった。声は平坦なまま、指導に熱が籠ってくると左手が椅子の背を蜘蛛みたいに這い上る気配がした。俺は五本の指が蟲の関節じみた動きで俺の肩から鎖骨、首筋、喉仏を這って締め上げていくのを感じている。「今のところはアクセント。どこを見ているの」俺は婆さんが俺の首を絞めてるなんて馬鹿げたことが実際には起こってないと知りつつ、どんどん気管が圧迫され閉じていくのを感じている。感じながら鍵盤を叩いている。
 毎週木曜日が来るたび俺は死ぬような気分がした。
 死んだバラの匂いは迎えに来た母親の赤いボルボに乗っても消えなかった。家に帰ってもしばらく消えなかった。
 あのマルチーズは去年の暮に死んだらしい。死んだ後も剥製になって、定位置のピアノ下に伏せの恰好で目を丸くして飾られてるらしい。真っ黒いガラス玉を嵌め込んだ眼。俺の眼鏡の奥と同じ眼だ。
 俺は中三でピアノ教室を辞めた。弟はまだ通い続けていて、だから毎週金曜日には奴が通った後にバラの匂いが筋になって残る。そのたび俺は、最後のレッスンの後、ピアノ下の暗がりからこっちを見つめる一対の眼を思い出す。黒くて潤んでいて、俺を全く無言で責めている。
「七歳から通ってくれてたのに」婆さんは月謝の領収書を切って震える骨皮の手で寄越した。「もったいない。あなたにはセンスがあったから」俺はこの婆さんは少し頭がおかしいんだろうかと思いながら紙切れを受け取ってポケットに突っ込む。くしゃりと潰れる感触があった。
「これからも、うちを辞めても、いい音楽に触れることはやめないでね。きっと人生を豊かにするから。忘れないで」
 婆さんが言う音楽と俺の音楽が同じものを指すのかは甚だ疑問だったが、とにかく初めて婆さんの言うことが腑にすとんと落ちた。俺は手を差し出し、婆さんは路肩に落ちてる黒ずんだ軍手の片方を見る目でそれを見下ろした後、取った。俺は骸骨と握手した。
「ピアノを弾くための手ね」
 婆さんが溜息みたいにしみじみ言った。俺は呪いに掛けられたような気がしていた。右手には死んだバラの匂いが染みついて、家に帰って洗っても風呂に入っても取れなかった。多分まだ取れてない。
 
 なんで辞めたかっつったら、殺されたからだ。
 婆さんは絞殺未遂だったけど未遂だった。俺はそんなんじゃ死なない。
  
 俺はうちの学校のブレザーが嫌いだった。深緑の上着に臙脂のタイ、成金趣味でゲロが出る。午後十時過ぎ、駅前の学習塾から出たところで他校に絡まれた時俺が考えてたのもそれだった。「君金持ってそうじゃん?」俺は無言のままポケットから二つ折りの財布を取り出し学生証とクレカを抜いて他校三人衆の頭っぽい茶髪に差し出した。このどこに非があったのか分からない。とにかく殴られて蹴られて鞄をひったくられたけど死ななかった。焦ったような奴らの声の後、足音三人分が走り去っていくのを頭蓋にガンガン響かせながら俺は汚いアスファルトに右耳を付けて転がっていた。肋骨が折れてるんじゃないかと思った。
「立て」
 薄目を開けるとモヒカンとロン毛革ジャンが俺をはるか高みから見下ろしていた。もう金も鞄も出すもんは何もない。革ジャンが片手を革ジャンのポケットから出してサンドバックになった俺を引きずり起こし立たせた。「迎え呼べるか」無理だ、ケータイはさっき暴漢が奪い去った鞄の中で揺られている。生き別れ。俺は返事もせず突っ立っていた。だって肋骨が折れているこの痛み。
「可愛げねえなお前。泣くくらいしろよ」
 モヒカンは言って笑ってぼろぼろの乱杭歯が覗いた。「タクシー呼んでやるから待ってな」遠くの公衆電話へ歩いていく。俺は革ジャンと二人残される。
「入るか」
 革ジャンは肩で汚いビルの疥癬みたいなステッカーにまみれたドアを指す。疑問形だったけど選択肢は与えられていなかった。
 中は雑音の荒海だった。ライブハウスだってことくらいは分かった。フロアは混んでいて薄暗くてあらゆるものが潜んでいた。棘や猫耳やえぐいピアスや金銀青赤の髪の化け物がくっ付いては離れる巣窟だった。照明の光が空気を霧みたいにぼやかしていて、ステージの上は現実じゃないみたいだった。革ジャンとは既にはぐれていた。俺が棘の塊人間や髭レスラーを掻き分けて前へ進むと、いきなり地響きが世界を揺らして俺もびりびり共振して足が止まった。顔を上げると人の頭や肩や鶏冠の向こう、ステージにひょろっとした人影が大股たった三歩で上がってくるのが見えた。脇に赤い電子ピアノを抱えていた。
 男は脚を立てピアノをセットし何か適当に鳴らし始め、一人で何か呟いて、それから顔を上げる。サングラスに嵌ったピンクのレンズが二度光を弾き閃いた。スタンドからマイクを引き千切ると「お前ら」言って、キーンとハウリングする。男が笑うと口は耳から耳まで裂けた。
「全員死ね」
 地響きで世界が轟いた。周囲の客は皆熱狂し、その熱と声が空気を揺らしていた。俺の背骨は共振してビリビリ唸った。あ男がピアノに向き直るとそれが嘘みたいに水を打って静まる。男は背をかがめて神の手術の執刀医みたいに気を張り詰めて鍵盤に触れないくらいそっと手を下ろした。その周りには観客もその喧騒も俺も存在しなかった。全き無音。肋骨の痛みは消えていた。
 それから長く骨張った指が一音目を鳴らした。天地は逆さになった。楽園が頭の上から降ってきた。
 
 あんなのは初めてだった。男はブルドーザーみたいにピアノを弾いた。大型シュレッダーみたいにピアノを弾いた。優雅さの欠片もなかった。それがどうしようもなく優雅だった。指は鍵盤の上を走り、跳ね、ほとんどその残像しか目で追えなかった。俺の頭は爆発した。音の奔流にただ流されて殴られて血を吐いた。血にまみれていた。気分はよかった。全身ぼろぼろで立っているのもやっとなのに空気は甘かった。多分俺は死にかけてる時にしか本当に生きてることに気付けない。
 それが今だった。
 
 我に返るとフロアは明転していて、それでステージが終わったことを知った。俺は撤収の波に流されないように逆らってステージに近づいた。天上にも等しく思えたのに割と近かった。誰かの鋲が飛び出たブーツが俺の脹脛を思い切り蹴ったが俺はとっくに死体だったからもうどうでも良かった。
 ステージ脇の通路に飛び込み薄暗いなかをもがいて奥へ進んだ。誰かが何か言ったが無視した。ブレザーのボタンは外れてネクタイはよじれていた。誰にも捕まる訳にはいかない。小道具やら家具やらで雑然とした廊下は薄暗く、両側に扉が並んでいて、うち一つの奥で道具箱をひっくり返したような音が響いた。俺はそのドアに飛び込んだ。
 人影は、間近で見ると一層背が高く一層痩せていていて、男が実在したことにまず俺はたじろいだ。こっちに背を向けてピアノをケースにしまおうとしている。酔ってるのかと思った。左右に頭が傾ぐ。振り向きはしない。「どちら様?」
「弟子にとって下さい」俺の口が勝手に言った。男はしばらく無言で、それから「貴様は一つ重大な過ちを犯した」低い声が言った。
「どれですか」男の前では俺のたった十数年の人生みんな過ちだ。男はずり落ちてきたサングラスを手の甲で押し上げ、こっちを振り向き、そのピンクの二つの鏡面には輪郭が緑になった俺の幽霊が映っている。男は片手で口元を隠してこっちにすこし身を寄せた。
「俺はなガキが好みじゃないんだよお嬢ちゃん。とっとと走って幼稚園に帰るんだ。そこにも鍵盤くらいあんだろホース付きのやつ」
「弟子にしてください」
 男は袋から空気が漏れるような溜息を吐いた。それから一転気弱な表情になり周囲を覗った後で囁き声で言う。「帰った方がいい。彼、今めっちゃ気が立ってるから。ぼくには分かるんだ、彼とはめちゃ付き合い長いから。こいつが暴れたらあんた死ぬぜ。普段は良いやつなんだけどな、今は駄目だ。このクソジッパーはなんでこういつも上手く閉まらないんだろうな?俺を憤死させる気か」
 男は黒いヤマハのケースを掴んで壁に投げつけた。ばんと音を立てゆっくり壁を滑り落ちたそれを中指でさす。「俺を怒らせるとこうだぞ。眼鏡君、お前は帰って勝手に死ね」
「ありがとうございます」俺は茫然として呟く。男にじきじきに死ねと言われた。アドレナリンが神経回路を焼け付かせていく。死にそうだ。
 
 母親は、俺が変わってしまったのはこの日からだと言う。曰く暴漢に殴られ倒れ後頭部を強打したことで人格に罅が入ってしまったらしい。俺はもうブレザーの前を留めないしネクタイは緩くしか結ばない。父親は、俺は変わったんじゃなくて本性を現しただけだと言う。クレカを没収されたけどその前に電子キーボードは買った。弟は、たまに家で出くわすと何も映さない硝子の目で俺を見る。バラの匂い。かわいそうに、こいつはもう半分剥製になっている。
 
 そのライブハウスは蟹の手という名前で、俺はピアノ教室を辞め塾をサボり蟹の手にがっしり挟まれる。例のピアノ男は善造という名前で、あの夜会えたのは幸運だった。ゲリラライブしかやらない。だから俺は大抵大学生やら社会人やらそのどちらにも属さないやつらで組まれたバンドの演奏を隅で聞いて、あらゆる男女からあらゆる誘いを受けるが、なんにせよ、俺が目を話した瞬間嘲笑うように善造が世界を跨いでステージに上がってくるに決まっているから全部断る。修行僧とかいうあだ名がつく。足元にお供えのエナジードリンク缶やスナック菓子が溜まっていく。
「バンドやんねえの」
 ある夜モヒカンが言った。俺は高等部に上がっていた。
「善造に憧れてんだろ。あいつがステージの上から何見てんのか、見てみろよ」
 どうやって。
「まずバンド組むんだよ。善造が一人で上がれんのはあいつがバンドメンバー何人分以上の力持ってる化け物だからだ。他のバンドみてりゃ分かるだろ、自惚れんなよ」
 俺はだからとりあえずメンバーを探す。えぐいピアスで耳が歯車になったベースが一人でライブ聞きに来てるから掴まえてリーダーに据え、革ジャンの中古楽器屋にエレキ見に来てた根暗を掴まえるが奴は爬虫類人が人間社会を侵食しつつあると信じている。あとドラム。仕方がないので高校の吹奏楽団打楽器から引っ張ってくる。渋られたので音楽室のピアノでラフマニノフを弾いてみせると「へえいいじゃん」奴は言う。「でもバンドってクラシックやらないんでしょ。コンクールもないし」そうだね。奴はそれなりに上手いけど、時折俺の方を恨みがましい目で見るのがちょっと惜しい。
 誰も歌えない。別に構わない。詞を削いで削いでできる限り薄く透明にしたものが音であって、純度の高い旋律に歌詞は不要だ。と思っていたらベースが「お前歌え」ギターに言う。ギターはじとっとした上目遣いで見返す。「でも、大きい声出すとあいつらに聞こえる」
 あいつらイコール爬虫類人。「いいから歌いなよ、君がまだ一番マシなんだから」ドラムは何も響いてなさそうな顔して言う。実際何も響いていないんだろう。革ジャンのギター屋二階の防音室一時間二千円はこいつが払ってる。俺はばさばさ楽譜を振ってベースの注目を集める。
「何この譜」
「何が?」
 あほか。見ろ、初っ端から八小節休み。その後和音四拍×三。「突っ立てりゃいいわけ」
 ベースは何も言わず頭を掻きむしると紐を外しベースを下ろして無言で足音荒く出て行く。入れ違いにストップウォッチ片手に革ジャンがタイムリミットを知らせに来る。「今ピアス出てったけどお前ら解散したんか」
 そんなことを本気で十回も繰り返して一か月後には俺たちはステージに引き摺りあげられる。革ジャンモヒカンその他魑魅魍魎を束ねるバルザック似の蟹の手オーナーが決めたことだから仕方ない。ステージから見えた景色はアドレナリンとライトで眩んでほとんど覚えていないが多分善造の目に映るそれとは別物だった。それでも気にならなかった。手は勝手に動いて、俺は多分ピアノ講師が見たら十字を切るだろう運指で猫背で暴走した。ベースがストレスで血を吐きそうに口を歪ませてるのが一瞬目に入った。俺は弾きながら顔を上げて笑って、その瞬間確かにフロアの奥隅の暗がりに一対のピンクの目玉を見た。
 
「お前が俺を殺せ」
 楽屋に飛んで戻ると善造がいて、旧時代的衣装箱に腰掛けている。ギターの夕食用カロリーメイトを勝手に開封し勝手に剥いて齧ってそう言った。「お前が俺を殺せ」。その言葉を多分俺は一生忘れないだろう。少なくともまだ忘れていない。直後に楽屋のドアが背後で吹き飛んで、マグマの塊と化したベースが俺を前に怒りのあまり絶句していて、だから奴の目には善造は映ってなかったらしい。気が付いたらその長身は煙みたいに消えていて、ただテーブルにカロリーメイトの抜け殻だけが残されている。
  
 母さん泣いてたけど、と弟が言う。俺は無視して、ダイニングテーブルで奴がもそもそ何か、オムレツか何かを食ってる前を横切って冷蔵庫の中を漁る。泣いてたけど、けど何だよ。冷蔵庫から有機無精卵を二個掴んで取り出し、フライパンに割ってぐしゃぐしゃにかき混ぜて炒める。皿に盛って立って食った。俺は何も言わない。弟も何も言わない。静かだった。
 
 学校の廊下を歩いてると無意識に右手が手摺りの上で跳ねている。
 俺は放課後になるとさっさとピアノを担いで近所の恐ろしく寂れたカラオケに行って千円で三時間弾きまくって蟹の手に寄って家に帰る。玄関は暗い。階段を上る足音を聞きつけて母親が寝室から出てきて下で何か言っているが、俺の耳にはイヤホンが嵌っていてショパンの竜巻が吹き荒れていてだから聞こえない。ノイズは善造が弾いてるのを勝手に録ったせいだ。俺はどさっとピアノを下ろしてベッドに倒れ込んでそのままピアノを弾く夢を見る。
「お前一人でやってるわけじゃないんだぞ」
 毎週水曜日にバンドで集まって、一曲通したところでベースがそう言う。こいつはこんなじゃらじゃらの耳しといて一番常識がしっかりしている。そんなこと言ったって、どうせ本番になったら誰も何も考えていない。俺たちは半年の間に三回ステージに上がる。
 四回目で隣町との合同ライブの打診が来る。「出ます」ギターが爬虫類人の恐怖について口を開く前にベースが即答した。
「お前多分バンド向いてねえよ」ベースは言う。面倒だなと思う。俺がしたいのはただ弾くことだけだ。ステージの上で機関銃よろしく乱射すれば人がばたばた倒れていく。
 
「演奏お上手ですね」
 俺が修行僧やってると傍らに長い脚が立って言う。俺は振り仰いで硬直する。善造は何か化学式が印刷された袋から白い結晶を摘まんでぼりぼり咀嚼する。「食う?」ブドウ糖。
「俺が弾いてるとこ、見たんですか」
「拝見致しました」
「どう」言葉が途切れる。「でしたか」
「うーんピアノって感じ」
 そう善造は言って、俺の中に難題を残す。それ以上訊くこともできず俺はじっとステージを見つめ、隣からブドウ糖を齧る音が遠ざかっていくのを聞きながらじっとステージを見つめ、目が痛くなってくる。俺は善造の音を聴いてピアノだって感じたことがない。
 
 俺は弾いて弾いて弾いて弾いている。ある一定のところから指が回らなくなる。善造ならこの程度、平均台の上を歩くみたいに平然と弾いてみせるだろう。俺の方は千と千尋のワンシーン、あの腐りかけた外階段を駆け下りていく感じに似ている。足を止めたら崩壊に追いつかれるから、なりふり構わず転がり落ちるみたいに逃げている。これじゃ殺すどころか切っ先が掠めもしない。俺の頭の中は熱くなって白く焼け付いてショートして今にも切れそうだ。死ぬほど苦しくてそれが僅かに気持ちいい。
 台風が来るからってカラオケが閉まっていて、久々に早めに家に帰ると奥の客間からピアノの微かな音が響いて来る。俺は踵を踏んで靴を脱ぐ。リビングには幸せな家族のジオラマが、同心円をつくっている。叔母と叔父と従姉妹と大叔父がいて、父と母がいて、三脚に立てたビデオカメラがある。輪の中心には主役がいる。むせ返るようなバラの匂いがしている。弟は上品にグランドピアノを弾いている。俺はイヤホンをしっかり嵌め直し、それで余計な世界の音は消滅する。こっちに気付いた叔母の唇が笑った形に動いて、父親の口が俺の名前の形に強張って動いて、それら全部がパントマイムだ。歩く先からジオラマは崩壊する。俺は弟の斜め後方隣に立ってポケットから右手を出して鍵盤にそっと下ろす。弟の肩は露骨に強張るが、テンポが乱れるが、それでも手は止めない。俺はポケットから左手も出す。
 
 俺が鍵盤からそっと指を離すと世界は本当に静まり返っている。俺は両手をポケットに戻してダイニングキッチンで水を一杯飲み干した後、もう一度靴を履いて家を出る。
 外は雨は降っていないけど真っ黒い雲が垂れてきそうに撓んでいて、風が俺の髪をぐしゃぐしゃに掻き乱す。空をバスタオルが飛んでいって、道路を酷い音を立ててバケツが転がっていく。
 俺は遭難者の呈でステッカーに塗れた蟹の手のドアをなんとか引き開け、中に身体を引っ張り込む。その瞬間死にたくなる。善造が弾いていて空間全部が唸っている。ろくに歩けもしなくて、近くの柱までよろめいて行ってそこで背を預けて座り込む。俺は救われると同時に呪われている。
 
「酷い顔してるな」
 革ジャンが言う。俺は酷い顔を上げる。休日はカラオケ館が学生で溢れ返るから革ジャンの二階でピアノを弾くことにしていた。二時間あっという間。「すぐ出る」俺は酷い顔で言ってキーボードを片付けにかかるが革ジャンが「今どうせ誰も来ねえからいいわ」止める。
 俺は差し出された缶コーヒーに毒が入っているかいないかしばらく考えて立ち尽くしている。
「ラジオ局に認知されたんだって?」
 俺は黙っている。コーヒーは苦い。ベースが勝手に送った凡百バンドのコピー音源が、そういうのばかり紹介する深夜ラジオで流れたらしい。この間蟹の手に来た某バンドのキーボードが俺の演奏を褒めたらしい。ベースはあのメンバーで高校生のバンドコンテストか何かに出る気らしい。それらは全部、俺が行きたい場所と遥か遠く離れている。
「お前は善造にはなれんよ」
 俺は反射で顔を上げる。革ジャンの視線の先には穴だらけの壁に掛かった古く汚い革ジャンがある。
「げろ吐くまで練習するって考えがそもそも間違いだ。間違いってかそれはまともな奴の考えで、お前はまともだ。頭のネジが二、三本とんでないと天才にはなれない」
 外せるものならネジくらい自分でドライバーで外しただろう。あれにはその価値がある。
「あいつにとって世界は快と不快の二極しかない。性欲も食欲も、快楽のデカさでピアノに負ける。そんなんなりたいか?」
 決まっている。他のことはもうどうでも良かった。俺には他に何もない。どっちにしろ何もなかった。それでも善造は俺に殺せと言った。初めから死体だった俺を墓から引き摺り出して鶴橋を渡してこれで俺をぶん殴って殺せと言った。他の奴らには不可能だ。俺はポケットから財布を取り出し、四千円抜いて革ジャンに渡す。「二時間延長」
「お前俺の話聞いてたか」受け取って革ジャンは言う。
 
 それから二時間が過ぎ、一か月が過ぎ、一年と三か月が過ぎても俺はまだ弾いている。
  
 その間いろいろあった。まず弟が生理になった。
 俺を呼んだのは、控えめなノック、控えめな「今ちょっといい?」、母親の困り切った顔だった。弟が、なんだか知らないが、バスルームに閉じこもっているらしい。母親の話は要領を得ない。弟が取り乱している、みたいなことを言う母親のセミロングの髪はいつになく乱れていて、それを更に掻き上げる。
「ちょっと様子見てやって。お兄ちゃんでしょう」
 醜悪だなと俺は思う。楽譜を机上に放り出して立ち上がる。弟は十四だ。その腹から内蔵引き摺り出して綿詰めて、目玉くり抜いてビーズはめ込んだのは貴方ですよ奥さん。俺は良いお兄ちゃんだから、困り眉のヤマネみたいな母を半分押しのけて部屋を出/階段を駆け降り/脱衣所の珪藻土マットレスをがたんと跳ねさせて、ざらつく磨りガラスの戸を拳でガンガンノックする。気が済むまでやってから両手をポケットに突っ込む。荒いガラスの向こうで弟色の点描はうずくまって動かない。シャワーの水音が中で柔らかく籠っている。白いはずの浴室の床に、薄赤い色が一筋流れているのに俺は気付く。戸に手を掛けるが、慣れない手応えがある。うちから錠を掛けてる。糞。俺は取っ手を力任せに二、三度揺らして、ちょっとは外れそうなガタつきがあるが、こじ開けるのは無理だ。母親の階段を下りてくる足音がする。「何してるの?」怯えている。無視する。残念ながら俺は良い息子でも兄でもない。「何してるの」母親の白魚の手が俺の腕に掛かる。俺はそれを自由な方の手で外す。「ちょっとどっか行っててくれない?」その声の超越的な穏やかさ。超越的な軽さ。手本なら俺のごく身近にいた。もしくは遥か楽園の高みにいて、ピンクのギラギラ光る双眸で下界を見下ろし笑っていた。
 母親の瞳は見開かれて今や鷹か何か自分とは別種の肉食獣を見つめている。
 俺は脱衣所に一人になって、世界は静かになる。柔らかい驟雨の音だけが、バスルームの中に反響している。ただ突っ立っていた。何も言わなかった。雨は降り続いていて、俺は水道代とか干ばつとかSDG`Sとかについて考えながら、ただそこに立っていた。何しろ俺は修行僧、待つのには慣れている。影が身じろぎする。
「あんたには分からない」
 水っぽい鼻声が言う。なんて台詞だ、こんなくだらない言葉を発するくらいなら俺は舌を噛み切る。
「知るか」
 お前の頭の中なんて知らないし知りたくもない。「いいから出てこい」こんな言い方したって出てこないだろうことくらい俺は分かってる。けど言う。俺だって風呂場は使うし、水を出しっぱにすると太平洋のどこかでウミガメが泣く。
 俺は洗面台の陶製のコップに立ててあったⅠ字カミソリを手に取る。このカミソリはさすがサムライの国ニッポン品質、刀みたいにすぱすぱ切れる。これがここにある以上、閉じ籠ってるこいつが手首切って死ぬ可能性はないと見ていい。「今のうちに開けろ」俺は言って返事はない。
 俺は頬にカミソリの刃を当て、ほとんど力を籠めず横に引く。皮膚が軽く引き攣る感覚があって、それからぬるい液体が一筋溢れて伝う。それを左手でべったり拭って、そのまま磨りガラスに擦り付ける。赤が硝子の荒い凹凸に染みて光って赤い。通行手形。しばらく経って、カチリと小さな音がする。取っ手を掴んで引くと扉は蛇腹になってあっけなく開く。双方にとって非常に残念なことに、俺と弟は血で繋がれている。
 弟はちょうどよろめいて立ち上がったところで、まあ気になるところは色々あってそれがいっきに俺の目に飛び込んできたわけだが、まず弟は母の白かったワンピースを着ていて、その腹部から下は鮮血を吸ってツツジみたいな紅に染まっている。真赤が裾からだばだば滴って、俺は人間がどれだけの血液を失ったら死ぬんだったか思い出そうとしている。
 弟は黒々した瞳で俺を見る。血の気が引いたその顔の中で、擦ったように目の周りだけが赤い。若い頃の母親の顔にぞっとするほど似ていた。シャワーの水は細雨になって降り注ぎ、弟の髪を筋にして額から目元に貼り付かせて、涙と涎と鼻水の境界を分からなくさせている。流れは股の所で赤に染まって、そのままタイルの床に色を広げ続けてる。眼鏡レンズが濡れたせいで俺の視界は水の歪みで歪んでいる。
「あんたには、分からない」
 弟が若干鼻声な他はひどく静かにそう言うのを、俺は聞いている。
「僕はあんたが放り出した全部を代わりに背負わされた。知らなかっただろう。自分の弟に何か感じるだけの頭があるんだってことも、興味がなかったんだろう。あんたにだけは一生分からない」
「だったら捨てて逃げればいい」
 家も親も気が違った兄も全部ここに置いて逃げりゃいい、と思う。弟にそれができないってことくらい分かってる。俺が善造にはなれないのと似たようなもんかもしれない。いや天と地の差か。
「おい」
 俺はいきなりドアの向こう、母親がすっこんだであろう客間の方に向かって怒鳴る。もう一回、と思ったところで俺の頭は首元を掴んだ強い力に引き戻され揺れた。弟の目は半分狂気に浸ってる。「あほかあんた」その底なしの暗さ。俺が他校の人間にぶん殴られて帰った夜の母親、何があったのと訊き続ける母親の静かな小動物的狂乱を思い出して、家族だなと思う。
 俺はちょっと笑う。あほって何が。母親を弟が生理ごっこしてるバスルームに引き摺り込もうとしたことが?それとも弟のマシュマロ状のハートを無遠慮に傷つけようとしたことが?こいつはやっぱり、どこまで行ってもその小さな溝を飛び越える踏ん切りがつかないだろう。予言する。そして俺も、善造がいたあの高みには一生辿り着けない。いつの間にか俺にも水が飛び散ってぐしょ濡れになっている。弟に掴まれた胸元にデカいツツジが二輪咲いて血濡れになっている。
 俺に引導を渡したのは革ジャンだった。引導って何だか知らないけど、渡すっていうからなんか包みみたいなのを想像する。革ジャンはただそれをカンタ式に片手で持ってこっちに突き出してきただけだった。俺ことサツキは受け取らなかったから、それは地面に置かれて、雨に濡れそぼったまま放置されていた。
 俺はここに至って、多分人生で初めて弟が自分の弟だと感じる。残念ながら、認める認めないとか好き嫌いとか関係ない根本的な所で、こいつは俺の弟だ。仕方ない。俺は、誰も俺にしてくれなかったことを代わりに弟にしてやる。
「家を出ろ。誰かの友達んちに泊めてもらえ。逃げきれなくてもいい、一回親に、息子がどうかしてるってことを見せつけてやれればそれでいい」
 言っても無駄なことくらい俺は分かってる。こいつも俺も、もうどこにもいけない。それでも手くらい差し伸べてやる。形而上のもんであっても、それでも、俺には何もなかったんだから、あるだけましだろう。
「分かってないな」
 弟はカルキのせいか真っ赤な目をして言う。正直なところそうだね、俺はこいつが母親のワンピース着て高校の絵画セットからマゼンタ出して股間に塗り付けて何がしたいんだか分かってないけど、まあ根本的な所は分かっている。こいつなりに、恐ろしく失敗して明後日の方を向いているが、もがいて逃げ出そうとしたってことくらい分かってる。
 シャワーの雨は止まない。プラスチックごみだの水温上昇だの水不足だのに苦しむ太平洋のウミガメの涙は降り注いで止まない。
 
 五時間目で高校で窓の外の灰色に曇った空を眺めているとごくごく微かなウェアイズマイマインドが俺の鞄の中で鳴る。モヒカンからの着信だ。トイレでかけ直すと「善造が倒れた」電話の向こうで誰かがそう言う。ピアノのためなら、一ステージのためなら善造だったら倒れるくらいのことはするだろう。そう思っていたら、そう思っている間に俺は黒いスーツに腕を通している。
 見上げれば、ビルとビルと電柱と看板で小さく切り取られた空はまだ曇っている。なのに世界の連続性は修復不可能なくらい途切れてしまっている。
 
 だってまだ俺は鶴橋を振るっていない。
 
 蟹の手は表まで真っ黒い人影で溢れている。革ジャンの革ジャンは黒くてモヒカンは頭を丸めている。ベースの耳には大量の十字架が刺さっていて、ギターはいつもの憂鬱な表情じゃなく沈鬱な表情をしていて、ドラムは授業をサボったせいで落ち着きがない。また、夢の中みたいな場面転換。俺は黒服で一杯の蟹の手のフロアに立っていて、充血した黒い瞳や擦ったせいでパンダになったアイシャドウの中央の黒い瞳がみんな俺を見ている。「弾け」誰かが言う。俺が?だって俺にはそんな資格全くないような気がしている。革ジャンが呆れる。「今更何弱気なこと言ってんだ」蟹の手オーナーがステージで何か喋って、それから俺を手招く。人波に押されるままステージに打ち上げられる。
 スポットに切り取られた世界には俺とキーボードだけがある。善造の赤いキーボード。鍵盤を前にしてここまで途方に暮れたのは初めてだった。俺は何も考えないまま構えて、それからほとんど何も考えてないまま一音目を鳴らす。瞬間指は勝手に動き出す。
 葬送曲。
 善造に教わった弾き方じゃなく、ガキが初めての発表会で弾くみたいなぽつぽつした音を俺は鳴らす。俺は結局平凡な頭しか持ち合わせていないから、平凡なことしかできない。こんなことしかできない。
 俺は初めて善造に溶けた金属みたいな嫉妬を感じていて、焼き付くような痛みを感じていて、そこで俺は初めて泣いている。
 
 嵐は去った。俺は残された。岸辺に残されて、それでもまだキーボードを弾き続けている。
 バンドは地区大会で四位まで行って、帰りのサイゼリヤで「演奏は順位つけるもんじゃねえよ」耳に待ち針を刺したベースが元も子もないことを言う。それでも優劣はつく。どれだけ綺麗ごとを言おうが良いものは良くて悪いもんは悪い。シンプルだ。「四位くらいがちょうどいいよ」ギターは言う。爬虫類人に目を付けられない程度の慎ましさがある順位ってことだろう。ドラムは笑って、「そろそろ受験勉強始めないといけないから、僕抜けるね」言って全員のフォークを止める。
 それでも俺はまだ弾き続けている。
「代わり連れてくるから」言ってドラムが蟹の手に引っ張ってきたのは俺の弟だった。そういえばこいつも吹奏楽団に所属していた。
 俺の顔を見た瞬間蒼白になった弟は「嫌です」傍らのドラムに言う。「嫌じゃないよ」ドラムはにこやかに返す。「僕も最初は渋々だったけど、やったら案外楽しかったし、それに先輩が頭下げて頼んでるんだよ」弟は押し黙る。俺はこいつの叩くドラムに合わせてなんて弾けるか、と思っているが、まあこれまでも誰かに合わせて弾いたことなんかないから一緒かと思う。
 俺はまだ弾き続けている。月に二回ステージに上がる。
 あの渇きは消えた。膝まで泥の中でもがいてそれでも遥か空の上の背中を追いかけていた時の、熱と痛みと苦しみも消えた。「最近ちょっと落ち着いたな」革ジャンが言って俺は無視する。バロック彫刻じみた膨大な装飾の旋律を勝手に付け加えたりせず、違う曲を勝手に弾き始めたりもしないことを落ち着いたと言うならそうなんだろう。浮かされていた熱は引いてしまった。結局俺は死体でも聖人でもなくただの人間だった。諦めと気怠さが俺の指を少しだけ重くして、でもそれで俺が落ち着いて演奏がましになったって言うんなら、多分そうなんだろう。悪いことでもないんだろう。俺はキーボードを抱えて眩しいステージに上がる。フロア一杯に黒い人影が溢れて溶けて波打っている。真っ赤な口紅を付けた弟が合図を二度打って、もう何度目か分からない曲がまた頭から始まる。楽譜は全部指が覚えてる。

 それでも俺は時々悪魔に取り憑かれる。頭をがつんと殴られたみたいに視界が揺れて、肋骨の檻を内側から何かが鉤爪で掴んで肉を食い破って出てきて、俺は笑いながら、曲の途中で何もかも無視して葬送曲を弾く。


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