夜伽

林檎



 通夜が終わった後、ゆらゆらと揺れる線香を私は見つめていた。沈香の香りが染みついた畳張りの部屋の中心には柩が置かれている。中に納められているのは、加菜――私の妻だ。
 加菜は、交通事故で死んだ。享年二十六、結婚してからまだ四年しか経っていない。近所のスーパーに一人で牛乳を買いに行って、その帰りに信号無視の車に撥ねられた。あろうことか大晦日の夜に、加菜は死んでしまった。あまりにも突然のことだったので、現実感が無い。悲しもうと思っても、加菜のことを考えようとしても、意識をそこに集中させられないのだ。
 柩の窓を開けて、加菜の顔を覗く。死化粧を施された彼女の表情は生前と変わらず、しかし確かな冷たさを持っていた。ひき逃げだったらしい。顔の損傷こそ少なかったものの、体は――と、警察官は口籠っていた。それ以上は聞けなかった。それをするだけの度胸を私は持ち合わせていなかったのだ。今晩、私は彼女と一晩を過ごす。寝ずの番、というやつだ。今頃はあまり行われないらしいが、加菜の家が熱心な仏教徒の家だったため、葬儀もやや厳格に行うことにした。喪主として、夫として彼女の肉体と共に在る最後の夜。立ち上がって、祭壇に置かれた加菜の遺影を見る。穏やかに細められた目の奥が、私を責めているような気がした。一番大切だった筈の加菜を失っても、何でもないような顔をして生きていられる私は、酷い薄情者なのかもしれない。胸の重さを吐き出すように、私は溜息をついた。
「カズさん」
 足音の一つも無かったので、突然のことに肩を跳ねさせる。若い男の声だ。私以外の親族は皆出ていった。忘れ物でも取りに来たのだろうか? 柩の窓を閉めて振り向くと、そこには女の子がいた。紺色のセーターに、赤いネクタイ。膝上丈の短いスカート。肩まで伸びた黒髪はやや内側にはねている。女子高生か? 加菜の親族にその年頃の女の子は居ない筈だが――
「久しぶり」
 顔を見て、ぎょっとした。加菜にそっくりだったのだ。おっとりとした垂れ目に長い睫毛、薄い唇は、今柩の中で眠っている加菜と同じものだった。まさか、と思いもう一度柩の中を覗く。加菜はそこに居た。
 状況を飲み込めずにいる私の体に、彼女はそっと腕を回して抱きついてきた。予想外の出来事に、避けられない。慌てて引き剥がす。この状況を誰かに見られたら不味いことになると思った。
「......っ」
 掴んだ肩は華奢で、しかし骨ばっていた。男だ。見た目こそ可憐だが、この子は間違いなく男だ。細い体からふわりと花の匂いが香る。ドラッグストアの洗剤コーナーを通った時の匂いだった。
「君は......」
 彼はもぞもぞと体を動かして私の正面に正座した。ぴんと背筋を伸ばした彼が、私に笑いかける。
「和也さん、だよね? 僕だよ、ミナト。覚えてない?」
「......湊くん?」
 名前を聞いて思い出した。湊くんというのは、加菜の弟で、私から見ると義理の弟に当たる子である。そういえば、加菜によく似た少年だったような......確か私よりも十個下で、最後に会ったのは二年ほど前――彼が高校に入学した年だったか。ということは、今は十八歳。もう高校三年生で、そろそろ受験だろうか?
「まさか、会えるとは......加菜の......お姉さんのことは、その――」
「びっくりした。急に連絡が来たと思ったら、姉さんがって......」
 加菜が死んだ後、放心状態のまま加菜の電話帳に登録されていた親族と思しき人たちに葬式の連絡をした。あまり記憶が無いが、その中に弟の湊くんも含まれていたのだろう。通夜の会場に彼が居なかったから、てっきり来られなかったのかと思っていた。
「会えて嬉しいよ、カズさんに」
 彼はそう言ってはにかんだ。カズさん、というのは彼が付けたあだ名だった。名前で呼ぶのが恥ずかしいから、と恐る恐る呼ばれたのを覚えている。加菜はその様子を見て可笑しそうに笑っていた。この子人見知りなのよ、懐いてもらえて良かったねえ和也さん、と。
「カズさんは、今晩ずっとここに居るの」
「ああ」
「じゃ、僕も居ていい?」
「え......」
「駄目?」
 首を傾げて上目でこちらを見つめられて、不本意ながらもどきりとした。
「お、お義母さんには伝えてあるの」
「必要ないよ。ね、良いでしょ。姉さんも人数が多いほうが楽しいって」
「そうかもしれないけれど......」
 そう言われると、断れなくなるのを分かってやっているのだろうか。......湊くんは、そんな器用な子だったか? 私は微かな違和感を覚えた。しかし、夜ももう遅い。ここで帰れというのも大人としてどうかと思い、結局彼の滞在を許すことになった。


「本当に久しぶり。カズさんが元気だって、姉さんから聞いてはいたんだけどね」
 私の真横で胡坐をかきながら、にこにこと湊くんが喋る。短すぎるスカートの裾から見える脚には産毛の一本も生えていない。声こそ男のものだが、それ以外は完全に女子学生だ。居心地が悪い。もうすぐ三十になろうとする男と、やたらと距離の近い女子学生。見た目だけとはいえ、今すぐにでもこの場を去りたくて堪らない......が、そうはできない。湊くんは繊細な子なのだ。こちらの挙動をよく見て、その一つ一つに感情を動かすような子だったような気がする。少なくとも、私の知っている彼はそうだった。
「......ああ、久しぶりだね。ずっと会っていなかったから......ずっと心配していたよ」
 湊くんは、二年前に突然家を出たらしい。何でも、元々険悪だった両親との関係が、加菜が家を出たことにより悪化したとか、何とか。加菜とだけは昔から仲が良かったそうで、連絡を交わしたり、時折一緒に出かけたりしていたと聞いている。加菜は湊くんのことをひどく心配して何度も実家に連れ帰ろうとしたらしいが、案外彼が強情で上手くいかない、と頭を抱えていた。
 それにしても、最後に会った時から随分印象が変わったような気がする。前に会った時はもっと、大人しくて真面目そうな雰囲気だった。実際に何度か勉強を教えたこともあるが、常に自信なさげな表情をしていた。今の彼は、どう形容すれば良いのか――ふわふわとしていて、掴みどころが無い感じがする。最後に会った時と比べて体格は良くなった筈なのに、雰囲気が奔放でいてか細く、見ていて不安になるのだ。格好のせいだろうか。女の子の格好なんてしているから......そもそも、どうしてそんな格好をしているんだ? 何か理由でもあるのか?
「湊くん、その......その恰好は?」
「葬式って、制服で出るものでしょう」
 葛藤の末に絞りだした私の問いに、湊くんはあっけらかんと言い放った。退屈そうに毛先を弄ぶ細指の動きは、街中で見る女子学生と変わりない。
「でも君、それって女の子のじゃないか」
「これしかなかった」
 これしかなかった、とは。彼があまりにも平然としているから、逆にこっちがおかしいような気分になる。何か、もっと聞かなければと思ったが、言葉が出なかった。当惑する私をよそに、湊くんは続ける。
「コスプレ用ので、貰いものなんだよね。一回使っちゃったからアレかなって思って、でもやっぱこれしか無かったからさ。ついでに持ってたウィッグと化粧で、良い感じにしてみたんだけど。ね、可愛い?」
「......学校も、それで?」
「......行ってないよ、学校。もう辞めた」
「辞めたって、一体どうして」
「どーでもよくなったっていうか。なんかそんな感じ」
 湊くんが、ぱちぱちと忙しなく瞬く。私は釈然としない答えに頭を抱えながら、更に質問を重ねた。
「親御さんは」
「知らない。ずっと会ってないし、会うつもりもない。だから今来たんじゃん」
 やり辛い。世代の違いのせいだろうか。多分違う。私の知っている湊くんと、様子がまるで違う。こんなにぺらぺらと話ができる子ではなかったし、距離もこんなに近くなかった。学校を辞めて家出して――二年間のうちに、一体何があったんだ。加菜も、湊くんが元気だとは教えてくれたが、実際に彼がどんな様子で、どう生活しているのかまでは一度も話さなかった。
 湊くんが、何かを言いたげにこちらを見つめている。折り畳んだセーターの袖を伸ばしたり、また畳んだり、落ち着かない様子だ。
「何――」
「や、別に」
 何かを誤魔化すように、彼は居住まいを正した。ぴっちりと畳みなおされたセーターから伸びる手で、柩を指差す。
「開けていい」
「ああ......」
 そういえば、加菜の弟だというのにその顔を見せていないことに気が付いた。大切な姉の最期の顔だ、見たいに決まっているだろう。私の許しを得てすぐに、湊くんがそっと窓を開けた。加菜の顔を眺める横顔から感情は読み取れない。
「......姉さん」
 ぽつりと、消え入りそうな声だった。姉を失った弟の、深く静かな慟哭が聞こえた。先程までと打って変わった弱々しい声色に、息苦しさを覚える。
「ごめん......」
 首を絞められたようで、つい謝罪の言葉を吐き出す。自分でも情けないくらいに掠れた声に、湊くんは怪訝な顔をした。
「なんでカズさんが謝るの」
 私が、と言おうとして、口を噤む。言ったら、彼はどんな顔をするのだろう。想像して、頬の内側を噛んだ。怖い。彼に失望されるのを、軽蔑されるのを恐ろしいと思った。
「カズさんは悪くないでしょう」
 じわりと、鉄の味が滲んだ。
「いや......私のせいなんだ――」
 言いたくないのに、口が動く。いや、言わねばならないのだ。それを本当は分かっていて、口を動かしているのだ。

 加菜は、大晦日の夜にスーパーへ行き、その帰りに死んだ。私のために一人で牛乳を買いに行って、その帰りに事故に遭ったのだ。その日、酒を飲んで酔っぱらった私は無性にカフェオレを飲みたくなり、しかし冷蔵庫の中に牛乳が入っていないことに気づいた。そして、千鳥足で徒歩五分のスーパーに向かおうとして、加菜に止められた。代わりに買ってくる、と彼女は出ていって――帰ってこなかった。私はその時、玄関でブランケットを掛けて寝ていた。目覚めた時には、全部終わっていた。

「......」
 私の話を聞いて、湊くんは押し黙った。顎に手を当てて、何かを考えている。次に彼の口から出るのは私への罵倒だろう。
「あんなに飲まなければ、加菜を一人で行かせなければ、加菜は......」
「......生きていた」
 事実を告げる声が、冷たく私の言葉に楔を打った。
「涙が、出ないんだ......加菜を死なせたのは私で、加菜が一番大切だと思っていた筈なのに――なあ、酷いと思わないか」
「そうだね」
 私の懺悔に、湊くんは的確な言葉を打ち込んでいく。罪を真の意味で自覚させるための正しい凶器として、言葉を選んでいる。それを後ろめたいと、聞きたくないと思うのは、私が真に自身の罪を受け入れていないからだ。
「そうだ......私は」
「姉さんは、」
 湊くんがゆっくりと瞬きをして、私が言えない言葉の続きを紡ぐ。
「怒っているだろうね」
「あ......」
「カズさんのこと、恨んでるかも」
「......ああ......あ......」
「でも、もう赦してもらえないよね。だって姉さんは」
 傷口に錆びたナイフを刺し込まれて、ぐちゃぐちゃにかき回されている気分だ。今までの人生で漏らしたことのない嗚咽が、震える口の端から零れ落ちていく。
「死んじゃってるから」
「ああああ......!」
 淡々とした彼の言葉に、絶叫する。加菜は私のせいで死んだ――自分で何度も反芻してきた言葉だ。何度も自分で唱えていたのに、何故ここまで動揺しているのか。それは、納得していなかったからだ。理解していた筈の事実を他者から突きつけられて、自分が納得していなかったことに初めて気づいた。きっと、納得したくなかったのだ。加菜の死を、背負えなかったのだ。
「......カズさん」
 私の名前を密やかに呟いて、湊くんが体を寄せてきた。太腿に細い手が這う。
「ね、僕が姉さんになってあげようか」
「......?」
「僕が、赦してあげる。カズさんのこと、全部」
「何を、言っているんだ......」
「だから、僕が姉さんになって、カズさんを赦すってこと」
 私は自身の浅ましさを恥じた。見破られていたのか。湊くんに事の真相を話したのは、きっと甘い赦しの言葉が欲しかったからだ。彼ならば、与えてくれると期待したからだ。勝手に期待して、勝手に裏切られた気分になって、しかもそれを自分よりずっと年下の青年に見破られてしまって――なんと愚かな人間か。
「......駄目だよ......だって君は加菜じゃない......」
「じゃ、僕が姉さんだったら良いの」
 湊くんが震える私の右手を取って、指を絡ませた。しっとりと吸いつく温かな手に、加菜を思い出す。最後に手を繋いだのはいつだったか。思い出せるのに思い出せない。思い出したのに、思い出せなくなった。
「あ......」
「本当は赦されたいんでしょう」
 柔らかな言葉に、頭がどろりと傾くのを感じた。例えるならば、湯船の中で意識を失いかける時のあの浮遊感。これ以上彼の言葉を聞けば、ぬるま湯の底まで沈んでしまう。ああ、駄目だ。この青年は、人の形をした悪魔だ。人を堕落させる淫魔だ。大人として、夫として、人間として――抵抗せねばならない。今すぐ彼を跳ね除けて、この場から追い出さねばならない。
「大丈夫」
 湊くんが頬に口づける。同時に、繋いだ手をきゅっと握られた。反射的に私も握り返す。ほんの数秒のことで、そこにはっきりとした意思は無かった。けれども彼はその瞬間、淫靡な瞳に無垢なきらめきを灯らせた。迷子の子供が親を見つけた時のような、そんな光だった。その様子があまりにも幼げで、私は彼が解らなくなった。彼が何を思い、何を求めているのか。私は大人としてどう振る舞うべきなのか。何も解らなくなって、逃げるように目を逸らした。
 絡ませた手を解いて、湊くんが私から離れる。そして、柩の前に進み、加菜の顔を一瞥してから窓を閉めた。かたん、という無機質な音が和室に響く。
「湊くん――」
 私の言葉を遮るように、湊くんが私を抱き締めた。首に回された細い腕はずしりと重く、振り払えない。
「二人だけの秘密だから、大丈夫」
 湊くんの指が私の項を擽った。ぞわりとした感覚が走って、思わず体を退きそうになった所で再び抱き寄せられる。彼の柔い唇が私の耳に当たり、小さく震えた。
「――ね、和也さん」
 その囁きに、体の力が抜ける。加菜と、目の前の青年の姿が重なり、溶けた。抵抗など出来る筈が無い。初めからそう決まっていた。加菜を殺した時点で、私にはもう堕ちる以外道が無かったのだ。張り詰めていた理性の糸が、ぷつりと切れる音がした。諦めというのは、ひどく甘い味がする。湊くんを押し倒しながら、漠然とそんなことを考えた。

 私は湊くんを抱いた。布団の上で、加菜の前で、女の格好をした湊くんを激しく犯した。湊くんは、妙に手慣れた様子で私のことを締め付けた。男同士で、十も年齢が離れていて、親戚で、葬儀場で。何もかもが最悪だった。しかし体は確かな快楽を拾う。自分が今やっていることを認識すれば、忽ち気を狂わせてしまいそうで、私は只々淫楽の濁流に身を任せる他無かった。薄っぺらいミニスカートには、いくつもの染みが付いていた。
 私は何度も赦しを請うた。加菜に、義両親に、仏に神に、天使に悪魔に――自分自身に。湊くんは、その全てに赦しを与えた。体を揺すられながら、彼は何度も赦しの言葉を与えた。いいよ、大丈夫だよ、赦すよ、と――どこまでも甘い、赦しの言葉。砂糖菓子と同じだった。口移しで与えられるそれは互いの唾液と絡み合い、どろどろに蕩けて、私の脳髄まで溶かしつくした。
 精を吐く直前、私の上に跨る彼の姿が加菜と重なって、目元に熱いものが込み上げた。体も頭も緩み切った私は、彼の腕の中で漸く涙を流せた。全てが、赦されたような気がした。

 翌朝起きると、湊くんはもう居なかった。夢だったのかとも思ったが、乱れた敷布団と、肌に残った生々しい交わりの感覚はしっかりと残っていた。仏壇に供えていた線香はとうに燃え尽きて、真っ白な灰になっていた。

 それから先のことはよく覚えていない。加菜の体を燃やして、骨壺に入れた。やはり、全てに現実感が無かった。何度も思い起こされるのは、湊くんの白い体に媚びるような声、線香と混ざりあった雌のにおい。そして、しっとりとした肌の質感と舐めとった汗の味――私は彼を犯すことにより、感覚の全てを犯しつくされてしまったらしい。あの鮮烈な恍惚の前では、全てが無に等しかった。

 私は、生ける屍だ。全てを赦された後に抜け殻と化した、愚かな男だ。加菜の遺影ともう目を合わせられない。あの微笑みを受け取る資格などありやしない。

 四十九日が過ぎた。法要を終えて、私は仏壇の前で線香の煙を眺めていた。細い煙がゆらゆらと揺れて、空気の中に溶けていく。もうすぐ全てが灰になって、崩れようとしていた。代えはもう残っていない。補充するのを忘れていたらしい。夕飯の買い出しも兼ねて出かけるか。そう思って立ち上がった丁度その時、玄関のチャイムが鳴った。ぼさぼさの髪を手ぐしで軽く整えて、玄関に向かう。
「はい――」
 ドアを開ける、と同時に何かが私の胸に飛び込んできた。ふわりと花の匂いが香る。瞬間、私は葬儀場での夜伽を思い出した。
「......ただいま、和也さん」
 私の胸の中で、彼は柔らかく微笑んだ。


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