鼻血

小波悠



 白いタイルの上に薄く広がる赤を見た。血だ。鼻血である。洗顔の際に誤って鼻孔を傷つけたか。不注意な自分と脆弱な鼻の粘膜を恨む。
 鼻血は面倒である。一度、出始めるとなかなか止まらない。赤と白のコントラスト。美しくはない。赤い液体は絶え間なく、一定の間隔で風呂場のタイル上に落下する。ポタポタポタポタ。自由落下。血はシャワーから流れ出る湯と混ざり、やがて見分けが付かなくなる。血液と水道水の混合物は排水口へ流れ込む。毛細血管から下水道管へ。管を流れるだけの人生。血液さん、いつもありがとう。感謝しています。でも、旅立っていくあなた方にはもう何の価値も無いのですね。
 床の隅に生える、赤カビが目に留まる。赤カビ。ピンク。赤カビなのにピンク。俺の血の方が赤いじゃないか。不意に訪れた勝利。赤カビは即刻、名称を変更せよ。そういえば最近、風呂掃除してなかったな。
 ふと、この血は自分の体内から流れ出ていることに気付く。血液は人工的に生成できないらしい。これは多大な損失である。早急に対処せねば。上唇を舐める。鉄の味。血の味。鼻から流出する血液を経口摂取する。自給自足。地産地消。永久機関の完成である。いいえ、永久機関は存在しません。物理の教科書に書いてありました。
 
 鉄の味。中学生のときに飲んでいた鉄分のサプリメント。一日二錠。あんたは貧血気味だからと母から渡された。しかし一向に改善しない立ち眩み。半ば義務のように摂取し続けた。無味無臭の思い出。黒光りするカプセル。好奇心旺盛な男子中学生。ある日、カプセルは解剖された。机に飛び散る砂鉄のような黒い粉。慌てて粉を集める男子中学生。指で?き集めた粉を口へ運ぶ。口内に瞬く間に広がる不快感。今まで体験したことのない臭み。カプセルの偉大さを知った。
 
 鉄の味にも飽きた頃、自らの愚かさに打ちひしがれる。うつむき、鼻の穴を親指で押さえる。深夜二時、風呂場、鼻に指を突っ込む男、全裸。滑稽である。しかし、どうしようもない。しばらく待機。
 寒いので肩に湯を当て続ける。鼻血の止まる気配はない。これは長期戦になると考え、できるだけ湯を細くする。蛇口を絞る。節水。節水。我が家は環境問題の解決に取り組んでいます。
 
 昔から頻繁に鼻血を出していた。どうやら鼻孔の奥の方に瘡蓋があるらしい。一度の出血で何枚もティッシュペーパーを使った。幼い頃には大事にしていた絵本を血塗れにしたこともあった。最も頭を悩ませたのは授業中の鼻血である。次々と消費されるティッシュペーパー。ノートを汚す赤い指紋。焦る少年。鼻血程度で保健室に行くのが嫌だった。些細な抵抗は何度も行われた。
 
 とうとう視界の端が白み始める。どうやら血を出し過ぎたらしい。後頭部がズキズキと痛む。ようやく危機感を覚え始めた頃、鼻血が止まったことに気付く。固まって瘡蓋となったのだろう。ここは俺に任せてお前は先に行け。今のうちに風呂場から脱出する。
 やはり寒い。急いで体中の水滴を拭き取る。使い古し、固くなったタオルの感触。嫌いではない。水分で重くなったタオルを洗濯機に投げ込む。冷たい床をつま先立ちで移動し、無造作に脱ぎ捨ててある部屋着を身にまとう。薄いスリッパを履く。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        
 まだ頭痛は治まっていない。身体から何かしらの栄養素が失われた気がする。養分を摂取しなければ。早足で冷蔵庫へ向かう。
 冷蔵庫から食べかけの板チョコを取り出す。冷気が火照った指先をいじめる。丁寧に銀紙を剥がす。指先に力を入れ、チョコレートを一口大に砕く。意外と固い。不揃いな形状のチョコレートを一つ、二つと口に放り込む。先程までの固さが嘘のように舌の上で融解を始める。口に広がる甘味と苦味。失った血液を税込み百十七円の板チョコに求める。カカオ50%。喉の奥に絡みつくチョコレートを冷たい水で流し込む。どうやら後頭部の痛みは治まったらしい。一息つくことにする。未だにカカオの風味は口腔内を支配している。
 チョコを食べ過ぎると鼻血が出ると聞く。本当なのだろうか。本当だとすると、鼻血を出した後にチョコを食べるのは適切なのだろうか。そんなことを考えている間に三〇五号室の人間は風呂に入り始めたらしい。頭上からシャワーの水音が聞こえる。この時間まで起きているのが自分一人だけではないことに安心する。三〇五号室にはショートカットの似合うお姉さんが暮らしている設定である。もちろん三〇五号室の人間に会ったことはない。生活音を拝借し、脳内で理想のお姉さんを創り上げる。生活を豊かにする方法の一つ。お姉さん、今日は誰とも会話せずに一日が終わりました。お姉さん、ゴボウを買いすぎてしまいました。お姉さん、日本の未来は明るいのでしょうか。
 既に時刻は深夜三時。早く寝なければ。明日の自分に迷惑を掛けてしまう。現時点から確保可能な最大睡眠時間は五時間。上出来である。
 寝る前にはきちんと歯を磨いた。ブラックチョコの余韻と歯磨き粉。案の定、口の中ではチョコミントが完成した。チョコミントはアイスの中で三番目に好きだ。しかし、それとこれとは別問題である。水道水で薄まったチョコミントは排水口に絡まる体毛の影響でなかなか流れ落ちていかなかった。


さわらび135へ戻る
さわらびへ戻る
戻る