みかん

さよ


夜勤が終わり、落ちそうな目をこすりながら家のドアを開けたとき、みかんが一つ目に入った。
みかんの皮を一剥きして私はふと思い出したのである。

四畳半の小汚い部屋に薄い窓ガラスから西日が差し込んでおり、瞼がゆるゆると重くなっているころだった。私の目の前にはみかんがあり、それを私はひとつ拾いあげていた。みかんの皮の鮮やかな橙色は、夕日を浴びて一層映えており、どこか印象深い光景であった。
私はこの光景に覚えがあった。昨年のちょうど今頃のことであった。
私が大学に入って初めてのひとり暮らしをしていたときのことである。バイトから帰ってみれば、玄関にみかんが一つ。駅の近くの青果店で売っていたものと遜色ない形だと思い、何の気なしに剥いて食べた。
そのときも、私はこのみかんをどこから持ってきたのかと不思議に思ったのだ。しかし、すぐにその思考は中断された。携帯電話の着信音がけたたましく鳴り響いたのである。相手は私の姉であった。
その日、私は夜の九時ごろにアパートへ帰ってきたのだが、そのとき姉はすでに部屋を後にしていたようである。私が不在の間に部屋へ上がりこんでいたようであるが、注意したところで仕方がないので私はとくに何も言わなかった。特に私が一人暮らしを始めてからというもの旅行のついでにと言ってアパートによることが多かった。姉はその日、私の誕生日を祝うために部屋を訪れたのだと言った。そして、そのときに一緒に持ってきたみかんをひとつ食べたのだとも言った。私が帰ってきたのは九時すぎであるから、遅かったのだろう。よく見ればテーブルの上に封筒と手紙が一枚置いてあった。
小さな封筒の中身を確認し、私は大層驚いた。そこには十万円もの金があったからである。私への誕生日プレゼントだと姉は言った。バイトで稼いだ金だから気にするなとも言われた。しかし、気にするなと言われたところで気が気でないのが私の性分である。私は姉に何度も礼を言った。姉は私に対して嬉しそうにしていたが、私にはその姉の喜びようがよく分からなかった。
私は自分のために十万円もの金を平気で差し出すことのできる姉の心情が理解できなかったのだ。
このみかんは昨年と同じものだと私は直感した。しかし、姉はつい半年前、遠方に嫁いだまま、あまり連絡を取らなくなっていた。
私は一瞬考えたが、結局そのまま食べた。
四畳半は夕闇に包まれつつあった。
部屋の片隅は早くも闇に浸され、そこにどのような物があったのかは、判然としなかった。
私はそのまま目を閉じた。意識が身体から切り離されようとしているのが自覚された。閉じた瞼の裏には橙色のみかんが浮かびあがっていた。それはやがて白色へと変わり、そして黒へと変わった。
 朝起きて、私は携帯電話を確認した。姉からのメールは届いていなかった。私は布団の上で身体を起こし、目を擦った。部屋のカーテンの隙間からは朝日が差し込んでいた。埃が宙に舞い上がり、きらきらと光っていた。四畳半の床は冷たかった。
私はみかんを食べたことをすぐに後悔した。しかし、次に私が携帯電話を確認したときには、もう姉からのメールは届いていたのである。
そこに記されていたのは短く明瞭な文章だった。
ごちそうさまでした。
その文章を見たとき、私の脳裏に浮かんだ言葉はひとつであった。ごちそうさまではすまされないといった意味の言葉を私は発しようとしたのだ。しかし、すでに手遅れであることは自明でもあった。ここで私がいくらそのようなことを言ったところで、姉が実際にそれを聞き入れてくれることはないだろうということも理解できた。
私は少し傷んだみかんの皮を剥いた。それは橙色をしており、やはりどこか印象深い色合いであった。そのみかんの皮をごみ箱へ捨てたとき、私は小さな寂しさを覚えたのである。それは当然であるような気もしたし、また不思議なことのようにも感じられたのである。
私の目の前ではカーテンがゆらゆらと揺れていた。そして、カーテンの裾からは明るい光が射し込んでいた。四畳半は朝を迎え、私はその四畳半でひとりみかんを食べていた。


さわらび135へ戻る
さわらびへ戻る
戻る