夏雨

林檎




『......間もなく――村役場前――バスが停車してから――』
 雑音の混じるしゃがれアナウンスが、僕の意識を微睡から引っ張り出した。手の中の整理券を確認する。掠れた赤インクが少しだけ滲んでいた。
「恭二、下りるよ」
 立ち上がった母さんが僕の肩を叩いて、小銭を渡した。五百円玉が一枚と、百円玉が四枚。去年までの二倍の金額だ。大金と整理券を強く握りしめながら、前に抱えていたリュックサックを背負う。出口のほうに向かう母の後に続いた。車内に僕と母さん以外の乗客は乗っていなかった。六十、あるいは七十歳くらいの運転手が、使い古されたハンカチで額を拭いながら運賃箱に付いている機械を操作する。
「ありがとうございました」
 母さんが小銭を運賃箱に入れながら呟く。運転手は何も言わない。ぼんやりとした瞳が運賃箱を見つめている。何だか気味が悪くて、僕は軽い会釈だけしてバスを出た。
 バスの外は灼熱であった。太陽から降り注がれる強烈な熱線、地面から跳ね返る熱波、肌を撫でる熱風。耳をつんざくセミの鳴き声が、それらの熱を何倍にも増幅させているような気がした。カタカタ鳴るクーラーでも、一応働いてはいたのだろう。失ってから初めて気づくんだなあ、重要なものには――どこかで聞いたことのある言葉を頭の中で呟く。
 母さんの引くキャリーケースがゴロゴロと音を鳴らす。地面を見ると、アスファルトがひび割れたままだった。辺り一面は田んぼで、車もあまり通らないのだろう。人の気配のない空気。セミの鳴き声とキャリーケース、それから僕らの足音だけが震わせていた。
(本当に何もない)
 何も無いってことはないのだけれども。東京とはまったく景色が違う。毎年ここに来るたびに、「田舎で過ごす夏休み」という絵に描いたような概念が存在していることに驚く。こんなベタな田舎が日本にまだあるということを、コンクリートとガラスで構成された東京で過ごしていると忘れてしまう。
 ひたすら僕の前を進む母さんの表情は見えない。白い女優帽から反射する日光が眩しかった。
バスを降りて十五分ほど歩いた所、山のふもとに位置する平屋。それが、この旅の目的地――おばあちゃんの家だった。インターホンなど無いから、母が大声でおばあちゃんの名前を呼んだ。程なくして引き戸が開けられる。ガラガラと、キャリーケースよりも重い音。
「よく来たねえ」
 腰の曲がったおばあちゃんが、にっこりと僕と母さんを見上げた。ぼんやりと頭の中に残っていたおばあちゃんの姿は、こんなに小さかったか?
「まあ恭ちゃん、大きくなって」
「そうかな」
 ああそうかと納得する。おばあちゃんが小さくなったのではなく、僕が大きくなったのか。言われてみれば確かにそうだ。小六の一学期から中一の一学期、つまり現在までに十五センチも伸びているのだから。暫く会っていなかったらそりゃあ驚くだろう。
「また誠二に似てきたんじゃないかしら......早いわねえ、成長って。それでね......」
 おばあちゃんの話し方はひどくゆっくりとしている。忙しない東京のじいさんばあさんとは違う。それが決して嫌な訳では無いのだけれど。リュックサックを背負いなおす。汗でぐっしょりと濡れた背中が冷える。
「あの、お義母さん。お久しぶりです......」
 どこまでも続きそうな話を遮るように、母さんが言った。
「ああ毎年来てもらって悪いねえ」
「いえそんな、恭二も毎年楽しみにしてるので」
「誠二もどこに行ったんだか。こんな良いお嫁さん置いて、全く酷い子だわ」
「ええ、本当に......どこに行ったんでしょうね」
 母さんはおばあちゃんと目を合わせようとしない。重苦しい雰囲気が僕たちの間に漂う。毎年、いつもこんな感じである。
「さ、はるばるありがとねえ。早く部屋にお上がり」
 その雰囲気に気づいているのかいないのか、おばあちゃんが僕にそう促した。言われるがままに靴を脱ぐ。母さんも後に続いた。キャリーケースは玄関に置いたまま、貴重品の入ったハンドバッグだけを持って。彼女の手を見て、僕は改めて悟る。
 ――おばあちゃんちに来るのは、多分これが最後になる。
 尤も母さんはそのことを僕に言おうとしないので、僕も言わないけれど。
 
 おばあちゃんは、僕たちを畳張りの広い居間に案内した。毎年お決まりの場所で、広いこの家の中でも一番の部屋だ。でも、ただっ広い部屋の空気はやはり重い――二年前におじいちゃんが死んでからは、もっと。一人暮らしのおばあちゃんにとってこの家は広すぎるのだろう。部屋の色んな所に埃が積もっている。古い畳の草っぽい香りと線香の匂いが混じって、まるで寺みたいな空気感だ。扇風機のモーター音が静かな部屋に響いていた。
 ハンドバッグを畳に置いた母さんが、壁に掛けられた写真を見て小さくため息をついた。その写真には、白無垢を着た母さん――今よりも若い――と、袴を着た男が微笑んで写っている。その男が、僕の父さんだそうだ。......僕にとっては全く記憶に無い男なんだけど。
 僕が生まれてすぐのお盆、丁度今くらいの時期に父さんは行方不明になったらしい。書き置きなんかも残さず、神隠しに遭ったみたいに。警察に届け出たが、事件性が無いということで捜査は殆どしてもらえなかったそうだ。父さんが失踪してからもずっと、母さんと僕はなんとなくこの家を訪ねている。もしかしたらひょっこり父さんが帰ってくるかも、なんて考えて。だけど、多分父さんはもう帰ってこないのだろう。母さんも(言い方は悪いが)見切りを付けたみたいで、ここ数年、僕の前で父さんについての話を全くしていない。でも、別に僕はそれに対して寂しいとか、そういう感情を抱くことは無かった。なにせ僕には父の思い出というのが全く無いので、どこか他人事のようなのだ。寧ろ、生まれたばかりの赤子と妻を置いてどこかに行ってしまうなんて、ちょっと無責任すぎやしないかと思ったりもしている。
 そんな感じで、僕は父さんに対してあまり良い印象を持っていない。けど、おばあちゃんは優しいので嫌いじゃない。おじいちゃんが死んだときも悲しかった。二人とも、小さいころから僕を可愛がってくれたっていうのは本当なのだ。だから、もう会えないっていうのはちょっとだけ寂しいかも。
 ぼんやりと物思いに耽っていると、おばあちゃんがお盆に三人分のコップとペットボトルの麦茶を持ってきた。母さんがはっとしてそれらを慌てて受け取る。
「す、すみませんお義母さん。わざわざ......」
「そんな気を遣わなくて良いのに」
 おばあちゃんも申し訳なさそうに笑う。彼女の一族は昔から、ここ一帯の有力者一族だったらしい。高齢化・人口減少の甚だしい現在はその権威は殆ど無いようなものだけど、小さいころから不自由なく育ってきたであろう彼女の気性は非常に穏やかだ。怒ってるところなんて見たことないし、母さんにも僕にも、とにかく誰にでも優しい。だからこそ、母さんはやり辛いのだろう。
 入れてもらった麦茶をぐいと飲む。からからの喉を潤す麦茶は普段の何倍も美味しい。あっという間に空になったコップに二杯目を注ぐ。ペットボトルの水滴が熱い手のひらを濡らした。
「本当に毎年来てくれてありがとねえ。東京からは遠いでしょう......来年からは私のほうから行きましょうか」
「そんな、良いですよ。お一人でなんて、大変でしょうから......」
「ふふ、そうね。......誠二は、今年も帰ってこないのかしら」
「......」
 低い椅子に座るおばあちゃんと、気まずそうに正座を崩さない母さんは会話を続けている。内容は父さんのことばっかりで、僕に会話のボールが回ってくることは無さそうだ。
 
 ......することがない。おじいちゃんが元気だった時は二人で将棋とか囲碁とか、色々遊んでもらってたんだけど。去年はどうしてたっけ? 持ってきたリュックサックをごそごそ漁る――ああそうだ、ゲーム機。去年の冬にスマホを買ってもらってからちっとも触っていないあれだ。今年は持ってきてない。
 スマホを開く。電波の強度を表すマークにはバツ印――圏外だ。無論、こんなド田舎の家にWi-Fiなんて通ってるはずがない。要するに、スマホで出来ることが全くないのだ。......こんなところで三日間も? 友達からのメッセージも届かず、音信不通の状態で?
 僕は頭を抱えそうになった。スマホに染まった現代っ子には苦しい三日間である。さあ、どうするか......
 おばあちゃんと母さんのゆったりとした会話は終わりそうにない。現在正午、まだまだ夕飯まで時間がある。僕は足を投げ出して、温かい風が入ってくる障子の隙間から外を見た。この部屋は山に面していて、窓からはその山(ほぼ丘ではないかと思うけど)が見える。多分あれもおばあちゃん一族の所有物、というかここ一帯の土地は全部そう。春になったら筍が採れるらしく、おじいちゃんが元気だったころは毎年うちに届いていた。
(行ってみるか)
 森の中は案外涼しいと聞く。そう、折角田舎に来たんだからそれっぽい体験をしよう。ついでに、課題になってる日記のネタにもなるだろう。先程までの憂鬱が嘘みたいに飛んで行った。我ながら単純な性格だと思う。
 スマホをポケットに、飲み止しの水筒を肩から掛けて僕は玄関を出た。居間を出るときに母さんがどこに行くのか聞いてきたが、「散歩」とだけ答えた。あの人はああ見えて意外と心配性だから、山に行くなんて言ったら面倒だろう。僕だってもう中学生なのだけど。
 山に入ってすぐ、僕は周囲の気温が一気に下がったのを感じた。こんなに分かりやすく涼しくなるものなのだろうか。何だろう、水蒸気? 空気が瑞々しいってこういう感じ? とにかく、外よりは絶対に涼しかった。っていうか、もしかしたらおばあちゃんちよりも涼しいかも。ここは私有地で、人も殆ど入らない(だろう)から、道は整備されていない。だけど、人が今まで通っていたような後は存在していた。草の生え方が控えめなそこを通って、僕はひたすら進む。
 二十分くらいだろうか。それくらい歩いたところで、やや開けた場所に出た。大木が一本、堂々と立っている。そして、その根本のあたりに何かが崩れた跡――ところどころ赤く塗られた木材が転がっていた。その先にはボロボロの石階段。苔むしまくっててぱっと見石には見えないけれど、多分石。十段くらいしかない小さな階段がある。
(......あっ、神社か)
 転がる木材をよく観察する。殆ど色は落ちているが、あれは間違いなく鳥居の赤色だ。石の階段も神社にありがちなやつ。こんなところに神社があるものなのか。しかも、鳥居崩れちゃってるし。......なんだか罰が当たりそうだ。これ以上進まないほうが良いかもしれない。ホラー映画を思い出してちょっと鳥肌が立つ。夜になったら何か出てくる系のあれな気がする。
 踵を返そうとした瞬間、ゴロゴロという音が鳴った。急に冷たい風が吹いてきて、大木の青々とした葉が不気味に揺れる。木々の間から微かに見える空は暗い。そういえば家を出る前に空を見ていなかった。もしかして、あの時から既に雲が出てたり? 僕は自分の無計画さを呪った。悪い予感というのはまあ大体当たるもので、程なくして冷たい雫が空から降ってきた。ぽつりぽつりと小さかったそれらは次第に強くなり、あっという間に大粒・大量の雨に発展してしまった。こんな天気で山を下りるのは......流石に危険だろう。どこかに雨宿りできるところは無いだろうか? もしこの辺りが神社だったのなら、石階段を上った先に何か建物が残ってるかもしれない。とにかくこの雨を防げる場所に行かないと、全身ずぶ濡れになってしまう。僕は唇をぎゅっと結んで階段を駆けた。雨に濡れてぬめる石階段に滑りそうになる。決して長い階段ではないが、それでも落ちたら大変だ。良くて骨折、打ちどころが悪ければ......死んでしまってもおかしくない。
 階段を登り切った先には予想通りいくつか建物(だったであろうもの)があった。やっぱり元々は神社だったようで、それらしい雰囲気だ。その中で一番大きな建物で、なんとか原形を留めているものがあった。屋根も崩れていない。そこなら多分、この通り雨を凌げるだろう。
 
 心の中で、かつて居たかもしれない神さま的な存在に断っておく。本当にすみません、ちょっと屋根借ります――普段はそんなの意識していないけど、一応。
 屋根の下に入ろうとして、うっかり大きめの枝を踏んでしまった。思いの外大きな音は雨の中でも確かに響く。足元をおずおずと見ると、枝はぽっきりと真っ二つに折れていた。
「......誰か居るのか?」
 男の低い声。入らんとしていた建物の内側から確かに声がした。不吉すぎる、やっぱ引き返すほうが良いか――なんて考えていた僕の心臓が跳ねる。比喩ではなく、結構本気で跳ねた感じがした。リコーダーのひっくり返った音みたいな間抜け声と一緒に、口から出てきてしまいそうなくらい。
「なんだ、子供じゃないか」
 建物の引き戸が開き、ゆっくりと人間が出てきた。正確に言うと、人間の形をした何か――いや、やっぱ人間であってくれ。体の内側で、血液がどくどくと送られるのを感じる。固く組んだ自分の両手をひたすらに見つめる。雨で髪の毛がびしょ濡れになってる気がするけど、そんなことを気にしてる場合ではない。
「あの、ここって」
 唇が震えているせいで、声まで情けなくなってしまった。
「ここ? ただの廃神社だけど。俺が住みついてる」
「住み、憑いて......」
 やっぱ妖怪とか、幽霊とかそういうものなのか? いやでもそんなの実在するのか? というか人間であったとしてもこんなところに住んでる人間ってヤバい奴なのでは? もしかして、おばあちゃんの友人とか? しかし――
「で、何の用なわけ」
 ぐるぐると疑問で目を回しそうになっていた僕を、低い声が引き戻す。そうだ、僕は雨宿りに来たんだ。空の様子を見るに、まだまだ雨は止みそうにない。この状態で山を下りるのはいくらなんでも危険だろう。
「ちょっとだけ、雨宿りしていっても良いですか」
 組んでいた手をほどいてぎゅっと結ぶ。どうにかなれ、と思い切って顔を上げて相手を見る。やっぱり見た目は人間だ。よれた灰色のTシャツを着ている彼は僕より結構背が高いけど、やけに線が細いというか薄いというか......とても男には見えない。黒い髪は肩の辺りで乱雑に切られていて、顔つきもきつめの美人系。やっぱり女っぽい。でも声は明らかに男だし、首とか鎖骨とかは意外とくっきりしてる。
「ええ......いやまあ、こんな雨の中子供を帰らせるのもなあ......あー......」
 めんどくさそうに頭を掻きながら男がぶつぶつ呟く。こちらに向けられる視線には露骨な嫌悪感が含まれていた。
「......雨が止んだら帰れよ」
 引き戸を開けたまま、男はぶっきらぼうにそう言って建物の中に戻った。これは、入ってもいいということだろうか。
 びしょ濡れの靴を脱いで、ちょっと高くなってる建物の縁側? みたいな所に上がる。靴下まで水浸しになっていて、木の板にじわりと水が染み込んでしまった。流石にこの足で畳に上がるのはまずいと思い、立ち尽くす。男は部屋の片隅でごそごそ何かのビニール袋を漁っている。
 畳張りの室内は案外広い。奥の壁の中心には大きくて立派な仏壇......いや、神社なら神棚か。華美な飾りがあったであろうそれが、無残に崩れていた。昔は神社として神様を祀っていたようだ。一方で、部屋の隅にはバケツが置かれている。ぽつりぽつりと天井から雫が落ちてくる。まあ、あれだけボロボロなら雨漏りもするだろう。さらに、床には脱ぎっぱなしの服や空のペットボトル、それから酒缶でパンパンのゴミ袋が転がっていた。布団も敷きっぱなしだ。非日常的な空間に、生活感が存在している。何とも奇妙な空間、ゴミ屋敷みたいに汚い訳じゃないんだけど......ああ、こんなことを言ったらそれこそ罰が当たってしまうかもしれない。
 裸足の男がずかずかとこっちに来た。華奢な見た目なのに、言動は結構がさつだ。
「ん」
 男が僕に白いタオルを突き出した。汚れ一つないハンドタオルである。
「あ、ありがとうございます」
 おずおずと受け取る。広げてみると、端っこにタグが付いていた。肌触りも柔らかい。もしかして新品?
「良いんですか」
「別に」
 タオルで服を絞ると、雑巾みたいにぼたぼたと水が落ちてくる。新しいタオルの優しい感触になんだか安心した。顔と体を一通り拭く。中まで水がすっかり染み込んでいたけど、とりあえず表面に付いた水滴は拭けたと思う。
「あの......」
 散らばった服を畳む男の背中に話しかける。
「敬語とかいいよ。子供だろ」
「中学生なんですけど」
 男は小馬鹿にしたように鼻で笑った。手を動かしたままちっともこちらを向こうとしない。
「ガキじゃん」
 ガキじゃねーし、と言い返そうとして、やめる。そんな事言ったら余計ガキっぽくなるし。
「......ここに住んでんの、ほんとに」
「ああ」
「こんなところに?」
「人の家を"こんなところ" 呼ばわりか? 生意気だな」
「だって廃墟じゃん」
「いやまあ、そうなんだけどさ」
 手に持ったタオルがずしりと重い。洗濯ものを畳み終わったらしい男は、何をするでもなく雨の打ち付ける外を眺めて......あっ、引き戸閉めるの忘れてた。閉めたほうが良いよね。
「別に良いよ、外見てるから」
 男が、立ち上がった僕の服の裾を掴んだ。これは気遣いだろうか? 怪しいしぶっきらぼうだけど、そんなに悪い人じゃないのかもしれない。
 雨はまだまだ止みそうにない。僕は男の隣に腰を下ろして、横目で彼を観察する。小屋の外でも顔は見たが、近くで見るとより一層整っている。まず、睫毛が長い。僕の二倍くらいあるんじゃないかなんて、そんな事を思ってしまうくらいに長い。目が気だるげに細められているせいでもあるかもだけど、それにしてもって感じだ。小屋の薄暗さと相まって、なんというか......色っぽい? セクシー? 凡そ今まで他人に対して抱いたことのない感想が浮かんでくる。変な考えを振り切ろうと視線を下ろす。すらりと長い首は一見すると美人画の女性のようだが、よく見るとしっかり喉仏や鎖骨の線が出ている。そして、頸動脈の通ってる辺りに一つだけ黒点、多分ほくろが位置していた。それは小さいけれど、白い首の中で確かに存在感を放っている。一度見てしまうと何故か目が離せなくなってしまうような――ああ駄目だ、また変な感じ。
「最近雨多いよな」
 混乱する僕の心中をよそに、男が呟いた。僕は変なことを考えていたってのを悟られないよう、顔にぎゅっと力を入れて答える。
「そうなの?」
「なんだお前、この辺の子供じゃないのか」
 男がこちらを向いた。不意に目が合ってどきりとする。
「おば......祖母の家に来ただけ。明後日には帰る」
「あーなるほどな、通りで田舎臭くない訳だ」
「田舎臭くない?」
「そ。何となくわかんだろ、そういうの」
「そうかな」
 男は俯く僕をしげしげと見つめている。視線が痛い。居心地が悪くて、畳のへりの模様をじっと見つめる。古びた畳は色あせていて、所々にささくれが見える。
 「都会でしか暮らしたこと無いなら分からんか」
 こちらに向けられていた視線がようやく外れた。この人と話すのはちょっと緊張する。決して見た目が怖いとかそんなんじゃないけど、雰囲気が......妙に、不思議な人だと思った。
 
 することが無くて、天井から落ちてくる雫の数を数える。バケツが受け止める軽やかな水音が、僕らの沈黙に響く。普段友達との間に生まれる沈黙はちょっと気まずいけど、これはあんまり嫌じゃないかも。強かった雨脚も弱まってきた気がする。そろそろ止むかな。何だかんだ結構な時間お世話になってしまった。ちゃんとお礼を言っておかないと......そういえば、この男の名前を聞いていない。
「......名前、聞いてもいい?」
「名前? あー、名前......」
 僕の唐突な質問に、微妙な声色が返ってきた。もしかして聞かないほうが良かったやつかな。いやでも、名前くらいは教えてくれても良いと思うのだけど。
「お前は」
「恭二だけど」
「恭二......ふーん。恭二、か」
 男は顎に手を添えて、ぶつぶつと僕の名前を繰り返す。そんな変わった名前じゃないと思うんだけど、何か引っかかる所でもあったのかな。
「俺はなつめ」
「なつめ? 夏に、目?」
「いや、違う。夏に雨――夏の雨で、なつめ」
 夏の雨。正に今の状況だ。夏生まれなのだろうか。
「なつさめ、じゃないんだ。初めて聞いた」
「キラキラネームってやつ?」
「そんなキラキラはしてないと思うけど」
「くすんでるってか」
 なつめさんがからかうように笑った。
「いや、そういう意味じゃなくって」
「夏の雨の日に出会ったから、夏雨」
 なつめさんが言った。自分の大切な思い出を話すみたいに、ゆっくりと。横目で見たその表情は、びっくりするほど柔らかかった。多分、夏雨っていう名前を気に入っているのだろう。自分の名前の由来を話す時に「出会った」なんて言葉を使う人は初めて見たけど、案外ポエミーなタイプなのだろうか。こんな山奥に一人で住んでるんだし、そういうタイプでもおかしくはない......まあ、あんま突っ込むとこじゃないか。
 
 それから暫く、僕はなつめさんの隣で雨漏りの音を数えながら時間を過ごした。なつめさんは我関せずとずっと文庫本を読んでいたので、僕の鼓膜を震わせていたのは雨音と紙を捲る微かな音だけだった。
 雨漏りカウンターが百を超える頃には、雨はほとんど止みかけていた。天井からの雫も殆ど落ちてこないし、これくらいなら十分帰れるだろう。スマホを見る。もうすぐ四時――思っていたよりも長い散歩になってしまった。母さん、心配してないと良いけど。
「そろそろ帰る」
「そう」
 濡れたタオルを手渡そうとしたけど、なつめさんは手元の本から目を離してくれない。ちょっとだけ覗き込んだ紙面には小さな文字がつらつらと並んでいた。
「あの、ありがとう」
「ん」
 なつめさんは小さく返事をしたけど、やっぱり視線を落としたままだった。そんなに集中して、一体何の本を読んでるんだろう? 悲しみも喜びも表情から伺えない、どこか気だるげに文字を追う彼をずっと見ていると、どことなく不安な気分になる。本当に彼は生きた人間なのか、突然煙みたいに消えてしまうんじゃないか――そんな、根拠のない胸のざわめきである。
「何」
 一向に帰ろうとしない僕を訝しんだ(であろう)なつめさんの目の動きが止まった。
「......また来てもいい?」
 試しに言ってみる。怪訝そうに顔を上げたなつめさんの眉間に皺が寄った。予想通りの反応である。自分でも少し得意げな顔をしてしまっていたのだろう、彼は心底面倒だとでも言うように、ため息を吐きながら本を閉じた。
「こんなところに来ても何もないだろう。もう来るんじゃないぞ」
 呆れたようにそう言って、なつめさんは僕の手の中で行き場を無くしていたタオルを受け取った。
「雨の後は滑りやすいから、気を付けて帰りなさい」
 小さな子供を諭すみたいな声色に顔が熱くなる。濡れた手のひらをズボンで拭って、僕は小屋を出た。
 
 多すぎる夕飯を食べて風呂に入って、それから夜。空き部屋に敷かれた敷布団の中で、僕は今日のこと――正確に言うと、なつめさんのことを考えていた。彼は何故、あんなところに一人で暮らしているのだろうか。あんな、雨漏りのする不気味な廃神社で。
 やっぱり人間じゃないのかな。妖怪とか、幽霊とか......あの儚い雰囲気、わりとそれっぽいと思うんだけど。あれ? でも本を手に持って読んでたよな。タオルだって手に持ってたし。やっぱ人間? ってか現実には居ないよな、そういうの。うん、きっとそうだ。
(なつめ。夏の、雨......)
 目を閉じて、彼の言葉を思い出す。「夏雨」って綺麗な名前だし、彼にぴったりだ。あのちょっとアンニュイな表情が雨っぽいと思う。ちょっとぶっきらぼうだけど、最後の声はすごく優しかった。多分そんなに悪い人じゃない。もう来るなとは言われたけれど、また行っちゃ駄目かな。どうせ明日もすること無いし、行っちゃおうかな。
 よし決めた。明日はなつめさんが人間かどうかを確かめに行く。絶対嫌な顔をされるけど、僕は「子供」だから仕方ない。
 
 
 
 次の日の朝、ご飯を食べてすぐに僕は山に向かった。昨日とは打って変わり、雲一つない快晴。昨日の雨のおかげだろうか、葉や草のひとつひとつが水滴に濡れて輝いている。マイナスイオンって感じだ。
 鳥居跡地を通り抜け、苔むした石階段を駆けのぼり、小屋の前にたどり着く。やっぱりボロボロだけど、その小屋は確かに存在していた。幻覚じゃなかったことに胸を撫でおろし、深呼吸。
「なつめさーん」
 大声で彼の名前を呼ぶ、と同時に引き戸が開いた。
「もう来るなと言っただろう」
 丁度外に出る所だったみたいだ。なつめさんはプラスチックの洗濯籠を持って、やっぱり嫌そうな顔をしていた。籠の中をちらりと見ると、僕の顔くらいの木の板と、何枚かの服、それからタオル――昨日僕が貸してもらったやつも――がいっぱいに入っていた。なつめさんの着ているカーキ色のTシャツは、昨日と同じように襟がよれてしまっている。
「何の用? ここには菓子も遊び道具も何も――」
 深いため息をついて、なつめさんが重そうな籠を地面に下ろす。
 ――今だ。
 僕はぎゅっと唇を結んで、空いたなつめさんの手を取った。もし彼が人ならざる者なら、僕の手はすり抜けてしまうはず。こんな風に握手なんてできない......って、あれ?
 普通に触れてしまった。ああ、やっぱり人間だったか。手のひら越しに伝わる熱、そして鼓動は、紛れもなく人間のそれである。というか、絶対ヤバい奴だと思われた。出会い頭に何も言わずに突然手を握ってくる男って、どう考えても怪しい。背中に冷や汗を伝わせながらゆっくりと顔を上げると、なつめさんはにやついていた。
「......へえ、どしたの急に」
「あ......なつめさんって、人間なのかなって......思って」
 なつめさんの目を見ていられなくて、再び俯く自分の声は豆粒みたいだった。僕は昨日の深夜テンションを恨んだ。僕は「子供」だから仕方ないとか、そんな面の皮の厚いことを考えていた自分が馬鹿みたいだ。手を解こうとしたけど、解けない。見ると、なつめさんが僕の手を握り返していた。
「まさか俺が幽霊だとでも?」
「だって!」
「悪かったなぁ、廃墟に住んでて」
 僕の手を握ったまま、なつめさんが目を細めた。手首のヘアゴムがするりと肘のほうに落ちる。
「可愛いな、少年」
 そう言った彼の指が、ねっとりと僕の指に絡みついていてきた。肌が小さく跳ねて、それから息が止まる。
「ほら、幽霊だったらこんな風に触れないだろう」
 なつめさんの指はすらりと細長い。僕よりサイズは大きいはずなのに、少し力を入れたら折れてしまいそうな手。色の濃い僕の肌と、ぞっとするほど白い彼の手のコントラストに目を奪われ、絡ませた指に力が入る。体中の血管がどくどくと鳴って、口から漏れる息が荒くなる。言葉で言い表せない、よく分からない感情が胸の中に渦巻いた。
「恭二なんだけど......名前」
 真っ赤になってる顔を見られたくなくてそっぽを向くも、なつめさんがもう片方の手で僕の肩を引き寄せた。突然のことに頭が真っ白になり、彼のほうを向いてしまう。微かに甘い香りが僕の鼻を通り抜けた。
「"少年" じゃ嫌か?」
 耳に低い囁き声が流れ込んでくる。肩に置かれていた手がするりと降り、袖の隙間から入り込んできた。つうと撫でるように、汗ばんだ僕の二の腕を指が這う。触れるか触れないかの刺激に腹のあたりがそわりと疼いた気がした。
「じゃあこれからそう呼ぼう」
 僕の沈黙を肯定と受け取ったらしいなつめさんは満足げにそう言って僕から離れた。同時に、僕らを包んでいた妖しい雰囲気が霧のように晴れ、僕は呼吸を思い出す。
 なつめさんは籠を持って、すたすたと階段とは反対のほうに歩きだした。あまりにあっけらかんとした態度。狐に摘まれたような気分だ。あれだけ迷惑そうにしていた彼が、急にあんなことをしたその意図が全く理解できない。このまま彼に付いて行ってもいいという事だろうか。僕は火照る顔を手で扇ぎながら、なつめさんの背を追いかけた。吐息に毒された耳は未だ熱を孕んでいる。
「せ、洗濯すんの」
「そ。あっちの川で」
 茂る草を大股でかき分けながら進む。森に慣れているなつめさんに置いて行かれないように、早足で。先行する彼の表情は見えないけれど、少なくとも声色は僕を拒絶するものではなかった。少しだけ距離が縮まったような気がする。
「その板って洗濯板?」
「よく知ってんな」
「教科書に載ってた。洗濯機は?」
「電気通ってないんだよ、この辺」
「えっ」
「電気なんて無くても案外暮らせるもんだぜ、都会少年」
 小屋から五分ほど歩いて、僕たちは川に辿り着いた。ごつごつとした岩と岩の間を、透明な水がゆるやかに流れている。さらさらと流れる水の音は涼やかで、顔の火照りを冷ましてくれそうだ。
「こっち」
 なつめさんが手招きした方向には、岩に囲まれて流れを失った水の溜まり場があった。そこで洗濯をするのだろう。籠を下ろした彼の髪の毛が、低い位置で一つに結ばれた。
「手伝おうか」
「ちょっとしか無いから別に良いよ。子供は遊んどけ」
 また子供扱いだ。なつめさんだって随分若く――二十代くらいに見えるのに。まあでも、洗濯板は一つしか無い訳だから手伝いようが無いのは確かである。仕方がない。僕は小さい岩に腰かけた。靴と靴下を脱いで、そっと足指の先を水に浸ける。ひんやりとしていて気持ち良い。ズボンの裾を上げて、足首まで水に入れる。足湯、もとい足水とでも言うべきか。冷たい水が、体の内側を循環する血液の熱を奪ってくれているような気がした。
 なつめさんを見る。ちょっと離れた場所で彼は洗濯板で灰色のTシャツを洗っていた。多分昨日着ていたやつ。無表情で作業を続ける白い頬に、汗が伝う。シャープな輪郭線をなぞる雫。煩わしそうにそれを拭う彼が、薄く開いた唇の隙間から息を吐いた。
「はー、あっつ......」
 全ての服を洗い終わったらしいなつめさんが、サンダルを脱いで水の中に入ってきた。手で自分を扇ぎながら僕のほうに近づいてくる彼に、身を固くする。痛いほどに握りしめた拳がぷるぷると震えた。
「隣、座るぞ」
 僕のすぐ隣になつめさんが座った。体臭まで分かってしまう距離。この甘い匂いはなつめさんのものだろうか。今まで触れたことのない香りだ。女性的とも男性的とも言い切れない、どこか陰のあるミステリアスな甘さが僕の鼻にねっとりと纏わりつく。さっき密着した時よりも強いその香りに、頭ががんがんと揺れた。
「電気無いってことはさ、クーラーも無いの」
 全く関係ない話題を振る。おかしくなってしまいそうな頭を現実に引き戻すため、そしてなつめさんに悟られないようにするために。肩と肩とが触れ合ってしまうくらいの距離で、その微かな抵抗が意味を成すかは分からないけれど。
「うん。まー、小屋の中は意外と涼しいからさ。死にはしない」
 なつめさんは僕の動揺に気づいているのだろうか。この距離では、互いの心音まで聞こえてしまいそうだが。ちらりと顔を伺うが、長い前髪の間から見える表情は平静なまま。もしかして、なつめさん的にこの距離は普通の距離なのか?
「いつも何して過ごしてんの、こんな暑いのに」
「別に何も。寝たり、本読んだり......ダラダラしてる......こんな風、に」
 なつめさんが僕の肩に寄りかかった。飛び出しかけた叫び声を必死に抑える。僕の顔は今、茹でたタコみたいになっているんだろう。頭上で響く蝉の鳴き声が、いやに大きく聞こえる。
「し、仕事は」
「無職。昔十分稼いだからさ、もう働かなくても大丈夫なの」
 ゆったりとした口調に合わせるように、なつめさんが立ち上がった。軽やかに水面を揺らし、水の溜まり場の中心で伸びをする。それらの動きがあまりにも優雅で、もしや彼は人ならざる者――例えば女神とか、妖精とか――いや、男だけど――そういう類のものなんじゃないかって、そんなことをすっかり茹で上がった頭で考える。
「......何の、仕事......」
「秘密。ガキにはまだ早い」
「なにそれ......」
 さっきから頭が回らない。何だか思考が変な所に飛んでしまう。それに、唇もおかしい。もっと聞きたいことがあるのに、痺れて上手く動かない。
「あの、なつめさん――」
 なつめさんに近づこうとして立ち上がった瞬間、体が傾いた。重い頭にぐわんと体が持っていかれるような感覚。このまま倒れたら、岩に頭をぶつけてしまう――痛いよな、多分。打ちどころとか悪かったら、死んじゃうのかな――
「大丈夫か」
 倒れかけた僕の体を、なつめさんが抱きとめてくれたらしい。一先ず頭を打たなかったことに安堵する。
「あ......ありがと」
「すごい汗」
 なつめさんが僕の額に手を当てた。ひんやりとしていて気持ちいい。
「そろそろ帰ろう。ほら」
 体がふわりと浮いた。なつめさんが背負ってくれたらしい。汗ばんだ彼の背中に顔を埋める。こうやって人におぶられるのはいつぶりだろうか。というか、あんな薄い体で仮にも中学生である僕を運べるのだろうか。そんな疑問がいくつも湧いてきたけれど、それを言葉にするより前に僕の意識はぷつりと途切れてしまった。
 
 頬を撫でる冷たい風で、僕は目を覚ました。
「お、大丈夫か少年」
 明るくなった視界に一番に映ったのは、なつめさんの顔だった。こちらを見下ろしながら、団扇で僕の顔を扇いでいる。
「僕......」
「ちょっと熱中症気味だったっぽい。水飲めるか? ちょっと塩混ぜてみたんだけど」
 徐々に鮮明になっていく体の感覚。後頭部にある柔らかい感触。これは――太腿?
「あ、足?」
「うわっ」
 ばねのように跳ね起きる。正座をしているなつめさんの手からペットボトルを奪い取って、その中身を飲み干さんとする勢いで傾ける。からからだった口内が、塩水で満たされていく。
「元気そうだな」
 なつめさんはけらけらと笑って、太腿をさすりながら立ち上がった。
「僕、どれくらい寝てた」
「三十分くらい? 可愛い寝顔だったぞ」
「......ごめん」
「気にしないでいいよ。こっちこそ悪かったな、気づけなくて」
 そう言って、なつめさんは洗濯ものを入れた籠を持ち上げた。床をぎしぎしと鳴らして外に出る彼の背中を見つめる。
 最初会った時はヤバい大人だと思ったけど、案外面倒見が良くて優しい人なのかもしれない。昨日は新品のタオルを貸してくれたし、今日は僕をここまで運んで、しかも目覚めるまでずっと見守っていてくれたっぽい。突然やって来た子供にここまで良くしてくれるのだから、悪い人では無いと思う。距離感はちょっとおかしいけど。明日別れなければいけないのがちょっと惜しい。それに、多分もう二度と会えないのも。携帯も持ってないだろうし、手紙も届かないだろう。なつめさんとの繋がりは、明日終わってしまうのだ。
 僕は小屋を出て、なつめさんの傍に駆け寄る。川で感じていた不調はすっかり晴れた。物干し竿に濡れたTシャツを掛ける彼に話しかける。
「なつめさんはさ、なんでこんなとこに住んでるの」
「大人の事情があるんだよ」
「崩れそうだよ、あそことか」
「暫く直してないからなあ」
 最後の一枚、昨日僕が借りた白いタオルを伸ばしながら、彼は平然と言葉を続ける。
「次に嵐が来たらいよいよ駄目だな、こりゃあ。俺もぺちゃんこだ」
 冗談みたいにそう言っているけれど、僕はそれを素直に受け取れなかった。だって、こんなところで建物が崩れても、誰も気づけない。寝てる時なんかに屋根が崩れてしまえば、それこそなつめさんは潰れてしまうだろう。そしてそのまま――
「山、下りたらいいのに」
「はは......優しいな、少年」
 なつめさんが穏やかに僕の頭を撫でた。人に頭を撫でられるなんて久しぶりで、どんな表情をすれば良いのか分からずに俯く。蟷螂が脚のすぐ傍を横切った。思わず素っ頓狂な声を出しそうになって、慌てて抑えた。
 
「もうちょっと寝ていくか」
 なつめさんが茣蓙を畳に敷いて、そこに座る。......畳に茣蓙? 人間二人が寝転がれるくらいの大きさで、所々に変色が見られる。随分使い古されたものなのだろう。
 存在を忘れかけていたスマホをポケットから取り出して、画面を付ける。もうすぐ昼飯の時間だ。今日もなんだかんだここに長居してしまったらしい。
「僕、帰らないと」
「ばあちゃんち?」
「うん。昼ごはん食べなきゃ」
「もうそんな時間か。帰れるのか?」
 大きく頷く。でも、本当は帰りたくない。おばあちゃんのことは嫌いじゃないけど、あの家の雰囲気、常に葬式みたいなあの雰囲気が嫌なのだ。
「戻りたくなさそうだな」
「......うん」
「なんでそんなに嫌なんだ? 子供はおばあちゃんちとか、好きなもんだろ普通」
「おばあちゃんは好きなんだけど......母さんがさ、居心地悪そうで」
「姑いびりってやつ?」
「ううん。......母さん、もうすぐ多分再婚とか......すると思うから」
「再婚? 父親居ないのか」
「僕が生まれてすぐ居なくなっちゃったんだって。全然覚えてないんだけどさ」
「......」
 なつめさんが、顎に手を当てて何かを考え始めた。そわそわと動く指が徐に唇を撫でるその動きに、川に行く前のことを思い出す。あの時絡められた指が、今度はなつめさんの唇に触れている。大したことじゃないんだろうけど、その事実に胸がドキドキする。暑さのせいだ、きっとそうだ。
「あ」
 何かを思い出したような声。なつめさんが、ぱっと顔を上げた。
「なあ少年。名前――君の名前って」
「恭二だけど」
「きょう、じ......ねえ、君が生まれてすぐにお父さんが行方不明になったんだね?」
 今までない程、早口で捲し立てるようになつめさんが僕に詰め寄ってきた。瞳孔がかっと開いていて少し怖い。
「そうだけど、何」
「ああいや、大したことじゃあないさ」
 なつめさんはふらふらと立ち上がった。大したことじゃないってことは、絶対に何かがあるということだ。父さんのことを急に聞いてきたってことは、それと何か関係があるのだろう。実子である僕でさえ殆ど覚えていない父さんと、なつめさんに何か関係が?
「ほら、もっと暑くなる前に帰りなさい。あんまりほっつき歩いてると心配されるぞ」
 なつめさんが、僕を追い出すみたいに背中を押した。
「ねえ、明日も来ていい」
「......」
 階段の前で振り向いた僕に、なつめさんは静かに手を振った。優しい笑顔はそのままで、だけど少し寂しそうに。聞きたいことは沢山あったけれど、彼の表情からそこはかとない拒絶の意が見えたので大人しく階段を下りた。明日もここに来て、その時に聞けば良いだろう。
 
 夜。昨日と同じように、僕は布団の中で思案していた。なつめさんについてだ。まだ二日間しか会ってないのに、僕は彼にひどく惹かれていた。今日、彼の優しさに触れたからかもしれない。なつめさんが仮に妖怪だったとしても幽霊だったとしても、何でも良いと思った。
 気がかりなのは、最後の問答である。なつめさんは、僕の父さんについて何かを知っている。その内容は、あの態度から考えるにあまり良いものでは無いのだろう。明日になったら話してくれるだろうか。記憶にないとはいえ、自分の父のことだ。もし彼について知ることができるなら、是非そうしたいという好奇心はあった。
 明日も早く起きてなつめさんに会いに行こう。僕は改めて決意を固め、目を閉じた。
 
 
 
 次の日、僕は再び朝一番に山に向かった。空模様は良くなかったけど、今日行かなければなつめさんとはもう会えないのだ。仕方がない、あまり長居しないようにしないと。ご飯を食べて着替えて、すぐにおばあちゃんの家を出る。昨日と変わらない、静かな森。三度目ともなれば、足取りに迷いは無かった。
「なつめさーん」
 引き戸に向かって声をかけるが、返事は無い。留守にしているのだろうか? 
「なつめさん?」
 しっとりとした木の戸をノックする。うっかり割れてしまわないよう、慎重に。しかし返事は無い。試しに戸を引いてみる。一応鍵が付いているっぽいし、どうせ開かないだろうと――そう思ったのだが。
 扉はあっけなく開いてしまった。鍵は掛かっていなかった......というか、付いてなかったのだ。戸の側面にはかつて鍵が付いていたであろう穴があるだけ。多分、老朽化して取れてしまったんだろう。
 なつめさんは戸のすぐ近くで寝ていた。茣蓙を敷いた上で小さく丸まっている。東京では考えられないレベルの警戒心の薄さである。まあ確かにこんなところに人など来ないだろうし、そんなものだろうか。昨日と同じ服を着たまま赤子のように体を縮こませているなつめさんの傍らには、数本の空き缶が飲みっぱなしで転がっていた。ゴミ袋に詰まっていた缶と同じ酒が......三本。レモンと氷が描かれた派手な缶は、静かなこの木の空間にそぐわない。多分、それなりにきつめの酒なんだろう。それを三本って、あのなつめさんが全部飲んだのだろうか。見かけによらず酒豪なのかもしれない。
「......」
 物音に気が付いたのか、なつめさんがもぞもぞと脚を擦り合わせた。真っ白な爪先がきゅっと結ばれる。
「ん......」
 薄い唇が微かに動いた。何か、寝言を言っている。不明瞭ではあるが、同じ言葉を繰り返していることは分かる。聞き取るために、耳を彼の口元に近づける。
「......せい、じさん......」
 予想だにしない言葉に、思わず声が出そうになる。せいじ......誠二って、あの誠二? おばあちゃんの寂しげな声、それから居間に掛けられた古い写真が脳裏に浮かぶ。そう、誠二。それは、僕の父さんの名前である。何故なつめさんがその名前を? やはり、彼は父さんに関して何かを知っているのか。昨晩の推測は合っていたらしい。彼はゆっくりと目を開けて、体を起こした。
「誠二さん......?」
 潤んだ黒目には、間違いなく目の前に居る僕の姿が映っている。しかし、見えてはいない。僕のことを、なつめさんは見ていないのだ。呂律のいまいち回っていない舌で、ぼそりと僕の父の名前を呼んでいる。酒のせいだろうか? 酔っぱらうと周りの認識ができなくなると聞いたことがある。あれだけ飲めばそうなってもおかしくないだろう。
「......あ......待ってた、ずっと......」
 勝手に納得しようとしたところで、なつめさんが急に僕の腕を掴んでぐいと引いた。突然のことに抵抗できず、そのまま体勢を崩す。尻もちをついて唖然とする僕のほうを見て、彼の色づいた頬がふにゃりと緩む。恋人にするような甘い微笑みに脚が竦んだ。
「ふふ」
 強い力で僕の右腕を掴んだまま、なつめさんが僕の肩を押した。その細い腕のどこから一体その力が出ているのだろう。やはり抗えずにゆっくりと倒れる。頭を打たないよう、腹筋に力を入れるのが精一杯だった。膝だけを立てて寝そべる僕の両肩をなつめさんが掴む。爪が服越しに刺さって少し痛いけれど、それどころではない。一体何をしようというのか、彼の緩んだ顔がじわじわとこちらに近づいてくる。アルコールの香りが鼻をつんと刺激して、僕は思わず眉をひそめた。薄く開かれた唇の隙間から、綺麗に並ぶ白い歯と真っ赤な舌が見える。暗い部屋で不自然な程に色づいたそれに目を奪われた。
「な、なつめさん!」
 唇と唇とが触れ合ってしまうその直前に僕ははっと我に返り、慌てて自分の唇を守った。流石に、これはマズい。左手の甲に柔らかいなつめさんの唇が触れる。さらさらと流れる髪の毛が外界を遮断して僕となつめさんだけの空間を作り出す。至近距離で見る彼の目元は真っ赤に腫れていて、まるでついさっきまで泣いていたみたいな――
「......君は」
 甘ったるい笑みがふっと消えて、なつめさんが目を見開いた。掴まれた腕の力が弱まったのを見て、体を起こす。目をぱちぱちと瞬かせながら、なつめさんも上体をゆっくりと戻した。
「悪い、ちょっと寝ぼけてた......ごめんな、少年」
 なつめさんが、赤い目を擦ってのろのろと立ち上がる。そのままこちらをちらりとも見ず、覚束ない足取りで転がった酒缶を拾い集め始めた。......やはり、なつめさんは父さんのことを何か知っている。ずっと知らなかった真実――父さんについての情報を得られるかもしれない。心臓が高鳴るのを抑え、僕は立ち上がった。
「なんでさ、父さんの名前知ってんの」
「父さん? 君の?」
 なつめさんが両手に持った酒缶を袋に入れる。どんな表情をしているのかは僕から見えないけれど、声はいたって平静で、動揺は見られない。
「誠二って、僕の父さんの名前......なんだけど」
 といっても、それはおばあちゃんとか母さんとかからの伝聞でしかないから「誠二」が自分の父親であるという事実に現実味はない。歯切れの悪い僕の言葉に、なつめさんがぴたりと動きを止める。
「......はは、あー......」
 手にした最後の空き缶を袋に入れて、なつめさんがこっちを向いた。その顔には生気のない薄ら笑いが浮かんでいる。長い前髪の隙間から見える瞳に先程の熱は見られない。しかし、じっとりと僕を絡めとるような粘っこさは残っていた。乾いた笑い声とその視線の粘つきが噛み合ってなくて、気味が悪い。
「まあ座りなよ」 
 なつめさんが乱れた髪の毛を?き乱す。黒髪が数本、はらりと床に落ちた。彼の纏う雰囲気が一気に変わる。目の前の彼は、昨日までの彼とは違う。それこそ、幽霊や妖怪のような――そういう類のものだと言われても驚けない。どこか人間離れした、見ていて不安になるような雰囲気。あまり踏み込まないほうが良いと、頭のどこかで警鐘が鳴った。しかし、僕を見つめるなつめさんの目がそれを許さないような気がして、結局言われるままに腰を下ろす。
「よっ、と」
 続いて、なつめさんもそのすぐ傍、ぎりぎり肩と肩とが当たらない距離に座った。甘い匂いが鼻を掠める。
「いやあ、君が聞いてこなかったら言うつもりは無かったんだけど」
 その口ぶりから察するに、なつめさんは僕が「誠二」の息子であることに気づいていたらしい。ということは昨日の別れ際、あの妙な違和感はそれに伴うものだったということだ。ではなぜ、彼は父さんのことを知っているのか。その関係性が全く見えない。
「友達、だったとか?......父さんの」
「友達?」
 そう聞き返したなつめさんの声には、明らかな嘲りが混じっていた。にやりと上がった口角の意図が分からず、僕は唇を噛んだ。
「君、今何歳だっけ」
「十三だけど」
「はは......そうか、声変わりもしてないもんな――君が言わなければ、何もしないで帰してやろうと思ってたのだけど」
 煮詰めた砂糖のようにじっとりと粘りつくような声。本能が危ないと叫んでいるのが分かる。しかし、どうしてだか逃げられない。腕を掴まれている訳でもないのに。見えない糸に絡め取られているような気分だ。
「愛していたんだ」
 なつめさんが動けない僕に顔を近づける。そして、ねっとりと耳元に囁いた。まるでとびきりの秘密を伝えるように。
「あのね――俺は君のお父さんをね、愛していたんだ。俺が十八歳の時――君が生まれるよりも前から」
「愛して、いた......?」
「ずっと、ね」
 曖昧な笑みを湛えたまま頷いて、なつめさんがさっきまで寝ていた場所を指す。
「この茣蓙も、俺と寝るときに畳を汚さないようにって」
 何も言えずにいる僕に対して、なつめさんは一方的に喋り続けた。踊るように軽やかな言葉が、雨垂れとなって僕の脳を直接嬲る。妙な気分だった。恐ろしい、触れてはいけない――そう思えば思うだけ、同じくらい引き込まれていく。頭の中の「逃げる」という選択肢が、じんわりとなつめさんの声に塗りつぶされていく。
「この名前も、誠二さんに付けてもらった」
 夏――雨が降る日に出会ったから、夏の雨で夏雨。父さんとなつめさんが出会った日のことだろう。
「......本名は」
「さあ? もう忘れちゃった」
 本気で言っているのか、そうでないのか。いずれにせよ、何か理由があるのだろう。それを問いただす勇気は出なかった。
「じゃ、じゃあさ、なんでこんな山奥に居るの」
 昨日はぐらかされた質問だ。確か、「大人の事情があるんだよ」とか何とか......大人の事情とは一体何だろう。
「ここ以外に居場所が無くってね」
「ずっとここに住んでたってこと?」
「いや、出身は東京だ。十八の時に出てきて、この山に来た」
「なんでここだったの?ここってそんな......何かあったっけ」
「どこでも良かったんだよ。誰も俺を知らない、静かな場所......で、適当に選んだとこがここだった。それだけ」
「ここで、父さんと」
「そ。行き倒れていた俺を誠二さんが見つけて、仲良くなって......それから定期的に会ってた」
 なつめさんは父さんのことを愛していたと、そう言っていた。実際のところ二人はどんな関係だったのだろう。父さんは、なつめさんのことを愛していたのだろうか。なつめさんの片思いなのか、或いは―― 
「......ふふ、そんなに気になる?」
 俺のこと好きになっちゃったの、と再び囁かれて体中の血が沸騰したみたいに熱くなる。そんな訳ないだろうと言い返そうとしたが、そう言われると何だかそんな気もしてきた。いや、一昨日会ったばかりの大人、それも男にそんな感情を抱くことは......無い――だろうか? 自分の思考に自信が持てない。はっきりと分かるのは一つだけ、僕が何故かなつめさんから目が離せないということだけだった。
「しつこい男はね、嫌われるよ」
 なつめさんの指が僕の下唇に触れた。......明らかに、からかわれている。このタイミングで? 父さんとなつめさんの関係について、わりと重めの話をしていた筈だ。愛していたとか、そんな感じの。煙のように近づいたり離れたり――彼の意図も輪郭も、全く掴めない。そもそも昨日までの彼と、今日の彼は同一人物なのだろうか。あまりにも様子が違うから、もしかしたら別人なんじゃないかって思ってしまう。お酒が入っているからっていうのもあると思うけど、それよりももっと大きな理由――そう、僕が「誠二さん」の息子だと知ったから態度を変えたのだろうか。じわじわと思考がぼやけて彼に飲み込まれているような気がする。ペースに乗せられている、とでも言えば良いのか。
「父さんって......どんな人だった」
 そう問うと、なつめさんは自分の顎をすっと撫でて考えるような素振りをした。
「誠二さんはねえ、本当に優しくて誠実で格好良くて、俺に触る時もこんな風に......」
 徐になつめさんが体を寄せ、手を重ねてきた。すり、と手を撫でられて、指の間がゆっくりと押し開かれる。
「昨日も思ったんだけどさ、身長のわりに手が大きいんだね、君。誠二さんと一緒だ」
 恍惚と浮かぶ笑みが恐ろしい。泥のように濁った暗い目を見つめ返せば、たちまちそちらに引き摺りこまれてしまいそうで、僕はただ俯くことしかできなかった。
「誠二さんと......一緒」
 うわ言のように呟きながら、なつめさんが僕の手を弄ぶ。小さな子の手慰みみたいなそれが、どうしてだか無性に恥ずかしい。
「子供が生まれたからもうここには来られない、だったかな。去年お見合いで結婚した妻との間にって......俺の誕生日、二十歳の誕生日の前の日に言われて」
 誠二さん――僕の父さんの子供、つまり僕のことだ。僕が生まれたから父さんはなつめさんと会わなくなった、ということだろう。なつめさんは十八歳の時に父さんと出会って、二十歳の時に別れて......で、父さんが母さんと結婚したのがその間、なつめさんが大体十九歳の時。父さんは、なつめさんと母さんのどちらと先に出会っていたのだろうか。これっていわゆる不倫ってやつ?いやでも父さんは結婚前になつめさんと出会っていたわけで......よく分からなくなってきた。今まで触れたことのない、ドロドロとした複雑な人間関係。
「意味分からなくない?」
 なつめさんの目は笑っていない。妙な引っかかりを覚えて、聞き返そうとした。しかし、なつめさんの次の言葉がそれを制してしまった。
「ま、もういいんだけど」
 なつめさんはため息をつきながら木の床に寝転がった。上目遣いでじっとこちらを見つめる姿がどこか幼く見えて、頭がくらくらする。さっきから、彼のころころと変わる声色や表情に翻弄されてしまっている気がする......あれ、なつめさんって結局何歳なんだっけ?
「その髪も、輪郭も、目も体も――君、やっぱり誠二さんの子供なんだね」
 細い指が頬に触れた。輪郭をそろりとなぞって、首に下りる。触れたところからぞわりと痺れが広がった。口の中に溜まった粘っこい唾液を飲み込む。なつめさんがからからと笑って、動いた喉を擦った。昨日のことを思い出して顔が熱くなる。纏う雰囲気は違えど、距離感が妙に近いのは出会った時からそうだった。
「これからきっと、君はもっと誠二さんに似ていくんだろうなぁ」
 なつめさんが天井を仰ぐ。真っ白な首にぽつりと一つ、黒子が見えた。僕から見て右側の、ちょうど血管が通っているあたりに位置しているそれに、昨日も目を奪われた。単に真っ白な首に一つだけある黒、ということで視線が向いただけかもしれない。ただ、それ以上のものもあるような気がした。何か、惹き付けられる魔力のようなもの。
「触っていいよ」
「え......」
 なつめさんが僕の左手の甲を撫でた。
「もう一回確かめなよ、俺が本当に人間なのか」
 なつめさんの赤い舌が、唇をゆっくりと舐めた。見せつけるようなその動き、てらてらとした唇のやわさが撫でられたばかりの手の甲に蘇り、思わず拳を握る。
「ほら、いいよ」
「あ......」
 なつめさんの手のひらが僕の拳を包み、わざとらしい程にゆっくりとほどいた。促されるまま、左手の親指で黒子に触れる。無防備な首をそっと覆うと、汗ばんだ手のひらが冷たい首に吸いついた。彼の鼓動が伝わる。自分の激しい心音と混ざって、一つになったみたいな錯覚を覚えた。もっと聞きたくて、彼を感じたくて、口の中がひどく渇く。
「......は、......っ」
 薄く開かれた唇から熱い吐息が零れ、僕ははっと我に返った。気がつかないうちに力を込めてしまっていたらしい。これでは本当に首を絞めていることになる。それは、いけない。
「だ、め」
 慌てて離れようとした僕の手を、低く掠れた声が制した。苦しげな表情の中に、甘い恍惚が見える。あまりに妖しいその顔に――逆らえない。
「そのまま......そう、力を入れて......」
 なつめさんの濡れた瞳には僕の姿だけが映っていた。手のひらから伝わる鼓動がどんどん早くなって、僕は今なら本当にこの人を殺せてしまうのだと、暗い興奮を覚えてしまう。もっと強くしたらどうなるんだろう。こんなこと、絶対に良くないのに。やってはいけないことなのに。そんな罪悪感が、かえって邪な好奇心を増大させる。ゆらゆらと揺れる僕の天秤――それが、ゆっくりとなつめさんが誘うほうに傾いていく。このままそちらに沈んだら、どんなにこの胸は高鳴るのだろう。僕はどうなってしまうのだろう。触れ合った場所から感じる鼓動がどちらのものなのか、もう分からない。僕となつめさんは今、ひとつになっている。
 あ、と声にならない声がなつめさんの唇の隙間から漏れた。すっかり蕩け切った彼の目が徐に閉じていき、その口角が静かに上がる。まるで、初めから僕がこうなるのを知っていたかのように。
 ――僕は何をしているんだ?
 瞬間、萎みかけていた恐怖心が膨らんだ。ふわふわとした頭の靄が一気に晴れる。なつめさんのほうに持っていかれそうだった天秤が、一気に元に戻った。
「だ、駄目......だと思う、こういうの」
 自分の声が、ひどく震えている。情けない、怯えた声。今すぐここから逃げ出してしまいたい。しかし、なつめさんの目を見てるとどうにもこの場を去れなくなってしまう。吸い込まれそうな黒い瞳と寂しげな表情、どこか儚げな雰囲気が僕の足を絡めとるのだ。もう少し、もう少しだけなら大丈夫だ。......まだ、逃げられる。この状況をまずいと思う冷静な自分と、熱に浮かされてどこか大丈夫だろうと楽観視してしまう自分が居る。
「はは......同じ顔だ。誠二さんと同じ、困った顔......」
 それに、父さんが今どうしているのかも聞いていない。それを聞きに来たのに。それだけ聞いて、早く帰ろう。そもそも、そのために来たのだ。
「あの......僕の父さんがどこ行ったか、知ってるの」
「......知りたい?」
 なつめさんが、こてんと首を傾げた。
「おいで」
 悪戯っぽい笑みを浮かべたなつめさんが、こっちを向いて手を差し出した。 
 付いていかないほうが、知らないほうが良いような気がする。いい加減逃げないと、手遅れになる。でも、知りたい。なつめさんから逃げてはいけない。そんな気持ちもある。彼の妖しい瞳に見つめられると前者の不安が後者の感情に塗りつぶされていく。なつめさんの誘いに乗るほかないという気分になる。ずっとこうだ。なつめさんの声と視線は、毒のように僕の行動や思考を乗っ取ってしまう。まるで最初から自分がそれを望んでいたかのように、思考にじわりと浸食する甘い毒。抗えず、僕は手を緩く握り返した。
 手を引かれるままに小屋を出る。一歩一歩、柔らかい土を踏みしめて歩く。自分の心臓の音が鬱陶しいくらいがんがんと頭に響いているのが分かる。地面では、蟻の行列が分解された蟷螂を運んでいた。
 
 湿っぽい階段を一段ずつ、手を繋いでゆっくりと降りていく。握った手は、ぞっとするほど冷たい。もしや本当に人ならざる者だったりして。いや、そっちのほうが寧ろありがたいかもしれない。僕がおかしくなっているのは全部人ならざる彼の幻術か何かのせいで、決して僕自身が望んでいるわけではない――そうであってほしいのだが。
 ふと、「妖艶」という言葉が浮かんだ。今までの人生で使ったことのない言葉だけど、なつめさんを表わすのにぴったりな言葉だと思った。こんなところに一人で住んでて、急に押し倒してきたり首を絞めさせてきたり、彼はまともな人ではない。実際に僕はずっと、なつめさんの言動の端々から何とも言えない違和感を感じていた。でも、どうしようもなく惹かれてしまう。本当は関わるべきではないのに、もっと知りたいと思ってしまう。恋とか友情とか、そういうのじゃなくって。もっと根源的な――そう、欲望。欲望を擽るみたいな彼の仕草、言葉の一つ一つが集まって、なつめさんの妖艶さが生まれている。乱雑に切られた髪の毛も、襟のたるんだシャツもぱっと見た感じだとだらしないだけなのに、それでいて行動や話し方は妙に上品で。そのちぐはぐさが、かえって彼の妖しさに拍車を掛けている。
「着いた」
 階段を下り切ってすぐに、なつめさんがこちらを向いた。繋いだ手はそのまま、踊るように軽やかな回転。それに目を奪われて思わず感嘆の息を漏らしそうになったところで、なつめさんの次の言葉を紡ぐ。
「誠二さん――君のお父さんはここにいるよ、ずっと」
 彼が右手で指したのは大木の根本――初めてここに来た時に見た、大木が根を張る地面だった。
 ......ここに、居る?
「春になったら綺麗な桜を咲かせてくれるんだ。誠二さんが、毎年ね」
 木の根元。桜の。木の根元に......「誠二さん」はずっと、ここに「いる」。それがどういうことを指しているのか。
 ......まさか。
「行かないでって引き留めたかっただけで、そんなつもりじゃ無かったんだけど......半分は事故だった」
 なつめさんが苔むした階段を見上げる。淡々とした語りが、止まった思考にそのまま流れ込む。真っ白な頭に、それだけがぐるぐると回る。繋いだ手がみっともなく震えているのが自分でも分かった。
 父さんはこの階段から落ちた――いや、落とされた――のだ。 
「落ちてから助けを呼ばなきゃって思って......でも、誠二さんが......」
 なつめさんが言葉を詰まらせる。苔むした地面を爪先で穿る動きは悪戯をして怒られた子供のようだ。 
「なんか、すごい顔して......ごめんって言ってきたから。訳分かんなくなっちゃって」
「すごい顔?」
「そう。本当に、優しい......愛しい顔っていうの? とにかく、笑ってて......よく分かんないんだけどさ。で、こう......ぎゅってした。君がさっきしたみたいに、ね」
 ほくろが一つある白い首に、骨ばった手が這う。先程僕がしたような、絞める動き。
 半分は事故だった、となつめさんは言った。ということは、もう半分は。父さんが階段から落ちた時にはまだ息があったのだろう。その時に助けを呼んでいたら、助かっていたかもしれない。でも、なつめさんはそれをしなかった。それどころか、自分の手で――
「全然抵抗されなくて。じゃあさ、なんであんなこと言ったんだろう。子供ができたくらいで、もう来れないって......ね、おかしいと思わない?」
 なつめさんは、この人はおかしい。この人は僕の父さんを――人を殺した。人を殺して、それでも笑っている人間だ。どこか壊れてしまっているのだろう。知ろうとしても理解できないし、したくない。してはいけないとさえ思う。彼の心の内に踏み込んでしまえば、あっという間に囚われる。そんな予感さえもあった。
 すっかり冷えきった頬に、ぽつりと雫が落ちた。ゴロゴロと空が鳴る。
「これは......激しく降りそうだ」
 木々の隙間から見える空は、雨雲で覆いつくされている。通り雨という感じではない。彼の言う通り、これから勢いが強くなるのは明らかだった。今から山道を下るのは危ないだろう。しかし――少しでも早く、この場所から離れなければ。
「ねえ、恭二くん――」
 肩に触れかけたなつめさんの手を払い、走り出す。待って、と引き止める小さな声が聞こえた。しかし、振り返らない。振り返ったら、もう一度目が合ったら戻れなくなってしまう。これ以上魅入られてはいけない。とにかく前だけを見て、走る、走る――
 
 雨脚はどんどん強くなる。風が山中の木々を激しく揺らす。葉を伝って大きくなった水の塊が頭を打つ。でも、止まれない。止まってはいけない。振り返ってはいけない。早く帰らないと。彼から、妖怪や幽霊なんかよりもずっと恐ろしいあの魔性から、逃げねばならない。
 ぬかるんだ地面に足を掬われ、前から転ぶ。顔も体も泥だらけになった。口の中に不快な味が広がる。それでも走る。雨と、泥と、涙と。きっと顔は酷いことになっている。頭の中でなつめさんの白い首、妖しい微笑みが何度も蘇り、その度に拳を握って打ち消した。爪が皮膚に刺さる感覚。自分を正気に繋ぎとめる、痛みという楔。
 
 全身ぼろぼろになりながらも、なんとか山を下り切る。ぐしょぐしょで家に帰ってきた僕に、おばあちゃんも母さんも目を丸くしていた。あんなに居心地が悪かった家なのに、ひどく安心する。風呂をためるから早く入りなさい、というおばあちゃんの言葉。温かくて涙が出た。
「これから酷い嵐になるそうよ。帰るのは明日になりそう」
 風呂から出た僕に、母さんが言った。飾られている結婚式の写真を見つめながら、ぼんやりと。
 次に嵐が来たら小屋は崩れるだろう、というなつめさんの言葉を思い出す。あの小屋の朽ち具合を考えると、彼の言葉は現実となるに違いない。そして、あの小屋と一緒になつめさんも消えてしまうだろう。そういう確信があった。あるいは、願望かもしれない。
「お盆なのに、雨ばかりで嫌になっちゃう」
「うん」
 母さんの言葉は入ってこない。頭の中にあるのは、なつめさんの事だけ。あの山の中で、父さんのことを考えながら一人静かに朽ちていくなつめさん。最期に、どんな表情をするのだろうか。
「......本当に。あの人は、どこに行ったんだか」
「......」
 顔を上げて、写真を見る。袴を着て微笑む父さんの顔が、今までにないほど自分にそっくりに見えた。僕もああなるのだろうか。父さんも、なつめさんの魔性に魅入られていたのだろうか。自分が彼をどうにでもできてしまうという、あの仄暗い万能感。あれを、感じてしまったのだろうか。
「そうだ。ねえ、あんなずぶ濡れになるまで何してたの?」
 写真を見ながら放心している僕に、母さんが尋ねる。そこに責めるような意図は感じられない。本当に心配している声だ。
 一瞬だけ、全部言ってしまおうかと思った。あの山での出来事は、一人で抱えるには少し重すぎる。なつめさんのことも、父さんのことも......でも。
「......別に」
 やっぱり、言わないことにした。
 
 
 次の日、嵐はすっかり去っていた。雲一つない青空、一面の田んぼを横目に歩く。もう二度と踏みしめることのないであろう道。目に焼き付けておこうと思ったけど、多分すぐに忘れるんだろうな、と自嘲する。暑い中、おばあちゃんはバス停まで付いてきた。出発直前のバスに向かって寂しそうに手を振ってくれたおばあちゃんに、少しだけ罪悪感を覚えた。
 
 
 この夏以降、僕がおばあちゃんの家とあの山を訪ねることは無かった。あの後すぐ、九月の始めに母さんが再婚したからだ。相手は職場で知り合ったらしい優しい男だった。連れ子である僕にも穏やかに接してくれる出来た人間で、母さんも新しい父さんも幸せそうで良かったと思う。
 山で知ってしまったなつめさんと父さんの関係は、誰にも言っていない。それに、言うつもりもない。今更言っても誰も幸せにならないし、母さんの今を壊すことなんてできないからだ。そもそもなつめさんだって、今どうしているのか分からない。生きているのかどうか、それすら不確かなのだ。あの小屋は間違いなく潰れているだろうけど......それを確かめに行くだけの勇気を、僕は持ち合わせていなかった。あの夏のことは墓まで持っていこうと思う。それまできっと、忘れたくても忘れられないだろうから。
『夏の、雨......夏雨、なつめ』
 雨が降る度、じっとりとした地面の匂いが鼻を擽る度に、僕は彼のことを思い出す。そして、あの時首を絞めた時の感覚も。もしもあの時、彼を本当に殺してしまっていたら。あと数秒、彼の首を絞め続けてしまっていたら。そう考える度に、自分の足元がひどくぐらつくような心地がする。道を踏み外す瞬間というものは案外呆気なくて、常に自分のすぐ傍に存在しているのだ。今だって、ずっと。
「......夏雨」
 そう呟いた声が思っていたよりも低くて、一瞬だけ他人の声かと思ってしまった。おかしな話だ、声変わりしてから随分経ったというのに。なつめさんも、これくらい低かったっけ。声まではもう思い出せないけど、そんな感じがした。
 ......結局また、彼のことを考えている。あの甘い毒は、死ぬまで一生僕の体の中を流れ続けるのだろう。幽霊や妖怪なんかよりよっぽどたちが悪い。それがなんだか可笑しくて、僕は小さく笑った。

 
 
 




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