可哀想(前編)

手野寺拝


 
 「ちにゃぁ、ちにゃぁ。」
 篠竹のように細い雨が、アスファルトを激しく打ちつける。人も車も通らぬ街路の端で、濡れ雑巾となった子猫がボール箱の中から必死に声を張り上げている。雨をしのぐこともできずに、綿毛のように白い毛をぐっしょりと濡らす。濡れた毛は子猫から体温を容赦なく奪い、その身を弱弱しく身震いさせていた。それでも子猫はその場から離れて雨宿りすることも出来ず、ただひたすらに、ありったけのエネルギーをもって声を張り上げるのだった。
「ちにゃぁ、ちにゃぁ。」
曇天の下、子猫の声が木霊する。子猫が求めるのは母の乳だろうか、自分を捨てた人間だろうか。兄弟たちか、お気に入りのおもちゃか。それとも、まだ見ぬ新しい里親か。
「ちにゃぁ、ちにゃぁぁ。」
誰でもいい。何でもいい。ボクを一人にしないでよ。そんな悲痛な叫びは、空しくも透明な篠竹の藪の中へと消えていく。
 その時ちょうど、一人の少年が子猫のボール箱の前を通る。
「ちにゃぁ、ちにゃぁ、ちにゃぁ。」
子猫は少年を呼び止めるかのように目一杯に鳴く。通り過ぎようとした少年はくるりと踵を返すと、箱の前で腰を屈める。
「ちにゃぁ、ちにゃぁ、ちにゃぁぁ。」
「こんなところにいたのか。」
「ちにゃぁ。」
少年は傘を肩に掛け、子猫の背中をさすり始めた。子猫は弱弱しくも、少年に甘えるような声を出す。
「ちにゃ、みゃうぅ。」
「結構痩せてるやん。辛かったなぁ。」
子猫は少年の手に頬ずりをして甘える。それはまるで、赤子が母の慈愛の手から愛を享受するかのように。それはまるで、敬虔な信者が高尚な説教をした神父の救いの手に頬ずりをするように。子猫にとって、少年は紛うことなき救世主であった。
「...可哀想だね。」
少年は左手をびしょびしょに濡らしながらも、慈しむかのように撫でてやる。子猫もすっかり安心しきって彼に甘える。
「大丈夫。」
そう呟くと、少年は子猫の背中から首元にそっと手をかけてやる。子猫は目を丸く見開き、彼を見た。先ほどと何も変わらない、柔らかい笑顔。その笑顔のまま、彼はこう続けた。
「僕が助けてあげる。」
その瞬間、彼は左手に全体重を掛けた。
「ぢゃ、ぐきょっ。」
子猫は手をじたばたとさせ抵抗する。救いだったはずの手は死神の手となった。
「頑張れ、頑張れ、もうちょっとの辛抱だから。もうちょっとで逝ける。頑張って。」
少年は右手の傘を手放し、暴れ狂う子猫の身体を押さえつける。目は赤く充血し、口と鼻からは泡状になった血液がブクブクと漏れ出している。そして遂に、ゴリッというくぐもった音とともに子猫は抵抗をやめた。一瞬ビクリと痙攣したものの、すぐにぐったりと四肢を放り出した。
「ふぅ。」
少年は嘆息すると、段ボール箱の底に敷いてあったタオルケットを子猫にかけてやった。
「向こうでは元気におやり。」
少年はまるで、生まれたての赤子に話しかけるようにそう呟くと、その場を後にした。気づけば雨脚は止まっており、雨雲の隙間から桃色の夕焼け空が顔を覗かせていた。
「お、晴れた晴れた。」
傘を閉じてバサバサと振る。少年の顔は、いつになく晴れやかだった。

 日曜の昼下がり。外の街路樹に張り付いた蝉の大合唱が、通行人の耳を劈(つんざ)く。わずかに傾き始めた太陽も、アスファルトを熱して陽炎をユラユラと上らせている。八月もまだ上旬。この灼熱地獄はまだ終わらない。
 誰もいないリビングは、少し肌寒いとすら感じるほどに冷房が効いている。今、この家にいるのは俺だけだ。息子は朝から友人たちと遊びに出かけたし、妻も先刻買い出しに出た。俺一人しかいないリビングは不気味なほどに音が無かった。まるで時が止まったかのような錯覚すら覚えたほどに。
「...。」
食卓に広げられた一部の新聞に目を落とし続けている。ただ目を落としているだけで、字なんかまともに読んじゃいない。新聞そのものを眺めているような状態だ。頭も当然の如く、回っちゃいない。まるで廃人のようなこの状態で、かれこれ時計の長針は既に二周はしている。
ただそれだけで、時間が過ぎてゆく。
ただそれだけの、日曜日。
何も毎度毎度このようにしているわけではない。普段通りであれば俺も釣りやゴルフにでも出かけて休日を謳歌する。特に今日のように、俺一人しかいない休日は格別だ。一人だけの時間、自由な休日。しがないサラリーマンにとっては何物にも代え難い至福の日曜日である。どうしておめおめ無駄にできようか。だが今日は、今日だけは、どうもそんな気にはなれなかった。
「...。」
不意に耳を澄ませてみる。...いや、訂正しよう。「澄ませてみる」というのは事実を表現するにはあまりにも自発的すぎる言葉であったような気がしたから。耳が不意に「澄まされた」という方が精確だろう。澄まされた耳は丁寧に環境音を拾い、聴覚情報を徐々に彩っていった。外からはほんの微かに車の音と蝉の声。室内にはエアコンが健気に冷風を吐き出す音が漂う。あとはわずかな俺の呼吸音。鼻から大げさに空気を吸い込むと、わざとらしくスゥーッと鼻が鳴いた。
以上。
耳は拾える限りのものを拾い終えた。拾えるだけの音の絵の具で世界を彩りきった。だが、いざ出来上がった音の絵画はあまりにも殺風景な物であった。
静かだ、あまりにも。静寂が透明な壁になって迫ってくるような感覚に、息が詰まった。
居心地が悪い。
俺はソファーに放り出されていたリモコンに手を伸ばし、テレビの電源を点けた。ワンテンポ遅れて映し出されたのはテレビショッピングの番組。
『この掃除機、吸引力がものすごいんです! 見てください! ほらほら!』
軽快で安っぽいBGMとMCの不自然に明るい口調がシーンとしたリビングに響く。静寂は破られ、俺は閉塞感から解放された。
「...。」
テレビをつけたはいいが、特段見たい番組があるわけでもなかった。リモコンのボタンをポチポチ押しながら番組を変えていく。タレントの町巡り企画、地方のニュース番組、天気予報。さすが日曜の昼といったところか、ものの見事に面白そうな番組がない。録画したドラマでも見ようかと考えながらボタンを押していると、とある番組で不意に指が止まった。
『雄大な平原がどこまでも広がるサバンナ。厳しい大自然の中で生きる動物たちの素顔に迫ります。』
サバンナに生息する野生動物たちの生活に迫ったドキュメンタリー番組。
「.........。」
音量を上げる。垂れ流しておくにはこれがいいだろう。リモコンは右手に緩く握ったまま、食卓に頬杖をついてテレビを眺めた。
『ライオンたちは、群れからはぐれた一頭の若いシマウマに狙いを定めます。』
ライオンたちの狩りのシーンが流れる。どこで聞いた話だったか、シマウマの特徴的な縞模様は、集団で密集した時に縞模様が同化することによって、捕食者に一頭の輪郭を把握しにくくさせる効果があるらしい。一見サバンナの平原で悪目立ちしそうな白と黒の縞模様も、彼らの生存を有利にする武器なのだ。初めこの話を聞いたとき、俺は思わず膝を打って感心したものだ。しかし、その武器が生きるのはあくまで集団での場合だ。ポツンと一頭、群れからはぐれ、悪目立ちする縞模様を背負った可哀想な彼が無傷で帰れるほど、野生の世界は甘い顔はしていなかった。
『ライオンが襲いかかった!』
牙を持った黄金の疾風がシマウマ目掛けて突撃する。ようやくシマウマはライオンの存在に気付くが、もう遅かった。ライオンはシマウマの腰に爪を立て、前脚に渾身の力を込める。必死に逃げるシマウマは途中でバランスを崩し、草の上に倒れ込んだ。それを占めたと言わんばかりに、仲間のライオンたちもシマウマの喉やら脚やら腹に牙を突き立てた。白と黒の縞模様の毛皮が鮮血で染まる。顔の穴という穴からは血が吹き出し、内臓は裂かれ、生きたまま食いちぎられた。その様子を、仲間のシマウマたちが遠巻きに眺め見ていた。
「...。」
仲間のシマウマたちはこの光景を眺め、何を思っているのだろう。「自分じゃなくて良かった」という安堵か、単独で動いていたことに対する侮蔑か、それとも可哀想という同情の念か。野生動物が「感情」などという崇高なものを持ち合わせているかどうかは定かではないが、持ち合わせているとすればそんなところだろう。
(可哀想...か。)
そのフレーズがトリガーとなり、嫌な記憶が再び俺の脳に舞い戻る。まだ癒えていない心の傷、少年時代の昏い過去。今日の昼から何度も何度も何度も頭で反芻し続けた黒歴史が、拡がった心の傷に容赦なく塩を塗り込んでいく。
(あぁ...ああ。)
もう何十年も前の傷に苛まれている俺も、きっと傍から見れば、「可哀想」な奴なのだろうか?

 「今日は、このクラスに転校生がやって来ています!」
五月も半ばを迎えた頃。朝の会にて先生が発した報せに、四年二組全体が大きく色めき立った。転校生が来ること自体稀な田舎の学校において、よもや自分たちのクラスにそれを迎えるとなると、その興奮はとてもではないが計り知れないものだった。生徒たちは、その転校生が一体どんな人物なのかと口々に談義しあった。
「サッカー上手いんかな?」
「イケメンやといいな。」
「好きなアニメ何やろ?」
かく言う俺も、新たなクラスメートに期待を膨らましていた一人だった。
「どんな子が来るんだろうね。」
「わかんね。ただ、牛乳じゃんけんのライバルが増えることは確かだ。」
親友の栄治が鼻をフンと鳴らして返す。だがその表情は弾む心を隠しきれていなかった。
「はいはい、静かに。それじゃ入ってもらいましょうか。」
教壇の先生が手を鳴らした。クラスメートたちの視線が教室のドアに一点集中する。
「神園君、どうぞ。」
「失礼します。」
凛とした声が返る。そしてドアがガラリと開き彼が入室した。太陽の逆光も相まって、その様は岩戸から姿を顕した天照大御神を想起させた。彼は先生からチョークを受け取ると、自分の名前を書き始めた。
「え、やば。イケメンやん。」
「かっこいい。」
女子たちが耳打ちをするような声で、興奮を共有する。それもそのはず、彼は明らかにただの転校生ではなかった。亜麻色の髪の毛、翡翠色の瞳、天使のように整った顔立ち。身長は俺たちとあまり変わらないようだが、足がとても長く感じた。俺たちとは纏うオーラが違う、異質の存在だった。
「はい、注目。じゃ、自己紹介してください。」
「はい。」
名前を書き終えた彼は、クルリとこちらに向き直り、口を開いた。
「皆さん、初めまして。神奈川県から転校してきました。神(かみ)園(ぞの)創(そう)救(すけ)です。趣味はサッカーとピアノです。よろしくお願いします。」
そう言うと、彼は一礼し、ニコリと微笑んだ。背後に書かれた「神園創救」の字は漏れなく達筆であった。
「はい、ありがとう神園君。みんな拍手。」
わぁっと声を上げ、生徒たちは皆惜しみない拍手を彼に送った。
「おいおい、すげーのが来たな。」
「イケメンの転校生なんて、少女漫画の世界だけだと思ってたけど。ほんとにあるんだね。」
「ピアノも出来るんだ。すごーい。」
栄治も、彼への期待に胸を膨らませていた。
「すげぇ。なぁ、徹。」
「う、うん。」
栄治への相槌もそこそこに、俺は一人の女子生徒の方をちらりと見た。俺が密かに思いを寄せる女性、九条伊織その人だった。彼女もまた、近くの女子たちと談笑し合っていた。
(九条さん、笑ってる...。)
思い人の笑っている顔が拝めた嬉しさと、その笑顔が他の男に向けてのものである妬ましさ。俺は二つの感情に板挟みにされていた。
「それじゃ、授業始めます。神園君は空いている席座ってね。」
新たなメンバーを迎えた四年二組。暖かな日差しが差し込む教室に、少しだけ冷たい風が吹き込んだ。

 神園君がクラスに馴染むまで、ほとんど時間を要さなかった。彼は積極的にクラスメートとの交流を図り、クラスメートもまた彼を温かく迎えた。そして彼のことを深く知り、共に日々を過ごした過程で、皆一つの共通認識に辿り着いた。
"神園創救は天才である。"
「すげー、また百点だ。」
彼のテスト用紙の右上にはいつも百と書かれた花丸があった。
「また二組に負けた。」
「あの転校生強すぎるやろ。」
クラス対抗サッカーは彼が転校してきて以来、うちのクラスが連戦連勝だった。
「あいつまた先生に怒られたんやって。」
「やっぱアホなんやな。」
「でもこの前、日直の仕事手伝ってくれたよ。助かったなぁ。」
「う...うん。」
悪口を言われている生徒をさりげなくフォローし、面子を保たせることもしばしばだった。
「神園君マジでタイプど真ん中なんやけど。」
「えぇ、アンタこの前まで別の男子がタイプって言ってなかったっけ?」
「だって、あんなの来たら誰だって心変わりするでしょ。」
「まぁ、確かに。」
彼の日本人離れした美しい容姿に心を奪われた女子生徒は、もはや両の指では数え切れなかった。聞いた話では、彼はドイツ人の父と日本人の母を持つハーフなのだそうだ。彼曰く、「父さんも母さんも、若いころはモテていた。」という。そんな神秘の混血の末に生まれたサラブレッドが、美しくないはずもなかった。
文武両道、品行方正、容姿端麗。彼はまさに神童と呼ぶに相応しい存在であった。
聖人君主のような彼は、御多分にも漏れずに俺にも親しげに話しかけることがしばしばあった。
「坂本君、一緒に遊ぼ。」
「う、うん。」
 だが、俺はどうしても彼と完全に打ち解けることができなかった。その理由は単純で、拙劣なものだった。彼に対する幼稚な嫉妬心が心の扉を堅く閉ざしてしまっていたのだ。彼が転校して来てから、俺の友人との交流に、少しずつ変化が生じていた。
「なぁ、今度一緒に遊ぼうや。集合場所はいつものところで。」
「あぁ、悪い。神園君と遊ぶ予定入れちゃってるからまた今度な。」
「あ、うん。わかった。じゃあまた...。」
俺と友人の間に築かれていた何気ない日常が、ひびが入るでもなしに、だがゆっくりと確実に形を変え始めていた。勿論、友人たちにも悪気があるわけではないし、神園君を悪く思うことも全くの筋違いな話であることは理屈の上では理解していた。だが、思春期を迎えた坂本少年は、その理屈を「はい、そうですね。」と受け容れきれるほど大人ではなかった。
水色の空に燻る薄い黒雲が日に日に増える。五月も終わりに近づき、季節は梅雨を迎えようとしていた。

 薄墨色の空から糸雨が降る。少し早い梅雨入りを迎えた六月初頭の夕方、俺と神園君は同じ道を歩いて帰っていた。
「しばらく雨の日が続くって母さん言ってたよ。」
「そうなんだ。残念だね。」
「今度の給食はクジラの竜田揚げだって。神奈川じゃ食べたことなかったから楽しみだな。」
「あぁ、あれおいしいよ。」
神園君が話題を振り、俺がそれを適当に返す。人気のない田舎道を往く二つの傘。灰色一色の空のような、強まりも止みもしない小雨のような、当たり障りのない会話の平行線。
(早く帰りたい。)
梅雨の湿った空気の塊のようにぼんやりとした思いが、俺の歩調をわずかに早めた。
 その時、何か小さな音が聞こえた。一瞬、耳鳴りを疑ったが、どうやら違うようだ。
「...神園君。この音聞こえる?」
「うん。どこかでピーピーって感じの音がする。」
俺たちは通学路から逸れて音の鳴る方へと歩を進めた。そして音との邂逅から約五分。俺たちは音の主と対面した。
「雛鳥だ。」
「きっとこの木の上の巣から落ちたんだ。」
俺たちは木を見上げる。太い幹の根元に木の枝が不自然に集まった物体を見つける。恐らくあれが巣だろう。
「雛はどう?」
視線を雛鳥に戻す。神園君は雛鳥の状況について冷静に述べた。
「さっきよりもだいぶ鳴き声が小さくなってる。雨と湿気のせいできっと体温が奪われたんだ。」
彼の言う通り、雛鳥はもう蚊の鳴くような声しか出せないほどに弱っていた。羽毛も生え揃っていない薄ピンク色の身体を小刻みに振動させ、時折ビクビクと痙攣していた。
「可哀想...。早く巣に戻さないと。」
「...。」
俺は再び木を見上げる。高さはだいたい三メートルほど。だが、低いところにも幹は伸びており、伝って登っていけば何とか巣まで届きそうではあった。俺は幹に掴まり、足を掛ける。
(絶対に助けてあげなきゃ。)
俺は決してメロスのような生来の正義マンではない。しかし、何故生まれたかも知らない、妙に強い正義感が俺を突き動かしていた。出会って間もない哀れな雛鳥を救わなければという使命感が、俺を木に登らせていた。一番低い幹に跨った時、俺は神園君の方へ振り返った。
「神園君、雛鳥をこっちに...。」
そう言おうとして、俺は思わず絶句してしまった。目の前に広がる光景を瞬時に理解することができなかったからだ。神園君は一つの弁当箱ほどの大きさの石を頭上に振りかざしていた。彼の足元にはあの雛鳥。
「...え?」
ゴヂュッ。
彼が振り下ろした石は、雛鳥の頭をペシャンコに叩き潰した。音も時間も止まったかのような錯覚に陥る。視界さえもホワイトアウトしそうだった。
「ふう。よし、坂本君。雛鳥のお墓を掘ってあげよ。手伝って。」
そう言い放つと彼は名刺ほどの大きさの石を拾い、湿った土をザクザクと掘り返し始めた。雛鳥はもうピクリとも動いてはいなかった。
「...何で...何...してんの?」
俺はズルリと滑り落ちるように地面に降りながら、絞り出すように言葉を吐いた。
「何でって、何が?」
俺の言葉に彼はキョトンとした顔で返す。俺はさらに困惑した。無数の昏い感情がボコボコと湧き上がり、それぞれ一つ一つがブクブクと太っていった。目の前で一つの生命が奪われた衝撃、俺の正義感が踏みにじられたことへの怒り、何の罪の意識も感じていない彼への戸惑い。醜く太りあがった感情たちは、濁流となって俺の脳内を?き乱した。
(??????????)
俺はグチャグチャになった頭で、なんとか文章を構成して言葉を紡いだ。
「何で...殺したの? 俺、木に登って...。」
「...あぁ、そういうことか。」
ようやく彼は俺の言葉の真意を理解したようで、納得の表情を浮かべて口を開いた。
「だって、もう随分と弱ってたから。きっと巣に戻せても生きるのは難しいと思うよ。」
彼は悪びれるでもなく、まるで算数の問題を友達に教えてあげるような雰囲気で、ただ淡々と言ってのけた。それでも俺が納得できないでたじろいでいると、彼が再び口を開いた。
「坂本君は、この雛鳥がどう思っているかって考えたの?」
今度は俺がキョトンとする番だった。
「雛鳥はもう長くは生きられない。この場で放っておいても、巣に戻せても、その運命はきっと変わらない。どう頑張ったって、苦しい思いをしながら死んでいく。だったら、ここでサクッと死なせてあげた方が、雛鳥にとっても幸せだと思うんだ。」
彼はいたって堂々と言う。まるで自分が人としてあるべき姿の体現者であるかのような、自分の考えや行動に間違いがあるだなんて微塵も思っていない話しぶりに、俺はますますよく分からなくなっていった。
「坂本君の正義感は本当に立派だと思う。一つの命のために、すぐに行動に移せたのは本当にすごいよ。でもその行動は、多分正解ではないんだと思う。自分の中の正義は、本当に正しいとは限らないんだよ。」
そして彼は俺の肩にポンッと手を置き、俺の目をしっかりと見つめた。
「でも、坂本君が木に登り始めた時、僕すごい嬉しかったんだ。僕も考えるよりも先に体が動いちゃうタイプだからさ。『雛鳥を助けなきゃ』っていう思いは坂本君と一緒なんだって分かって、すっごい嬉しかった。」
彼は手を離すと、そのまま屈んで穴を掘り始めた。その場で動けずにいる俺に向かって、彼はグイッと顔を上げると、端麗な顔でニッカリと笑った。
「ありがとう。これからもよろしくね、徹君!」
雨が上がった。太陽が曇天の隙間から顔を覗かせ、二人の少年と一つの死体を照らす。少年たちが土を掘り返す音だけがザクザクと空気を漂う。閑静な田舎の道の外れ。辺りを包む雨上がりのひんやりとした空気は、気色が悪いほどに爽やかだった。



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